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<title>ちょうさんかたる</title>
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<description>「国家のため」という圧力に押しつぶされて、国家の悪を見逃してはいけない。いやしくも、正義人道に反する方向に行きそうな場合は、国家にだろうが、親にだろうが、夫にだろうが、敢然反対して、これらを正道に戻すような人間をつくらねばならぬ。　尾崎顎堂</description>
<language>ja</language>
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<title>中江兆民『三酔人経綸問答』</title>
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<![CDATA[ <div><dt><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=18380406" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">三酔人経綸問答 (岩波文庫)/中江 兆民<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F51K39VTYYRL._SL160_.jpg" border="0"></a></dt><dd style="margin-top: 0pt; margin-right: 0pt; margin-bottom: 0pt; margin-left: 0pt; ">￥756</dd><dd style="margin-top: 0pt; margin-right: 0pt; margin-bottom: 0pt; margin-left: 0pt; ">Amazon.co.jp</dd><br>＜紹介＞</div><div>　本書は自由主義的進歩思想、絶対平和観を有した洋学紳士君、帝国主義的国権論者の豪傑君、現実主義の南海先生、三人が対話によって世界の潮流、日本の政治を語るものである。洋学紳士君、豪傑君はどちらもラディカリストであり、それを南海先生がたしなめる形になっている。南海先生は決して自らの主張を述べるでもなく、喋る機会自体が少ないが、先生の言葉一つ一つは比喩を用いながら、思想や政治の本質について核心的な事を述べており興味深い。</div><div><br></div><div>＜感想＞　</div><div>　解説にあるように、三者のうちどれが中江兆民の思想に一番近いのかははっきりしないが、私は洋学紳士君に対する思い入れが大きいように思える。洋学紳士君は西欧の歴史の理から自由民主制こそが最上の制度であり「進化の理法」だという。そして富国強兵など弱小国は望めないから、学術的に秀でることで「無形の道義」を体現すべきだという。この洋学紳士君の「進化の理法」に対する批判に本書でもっとも力が入れられているように感じた(p94~)。</div><div>　先生曰く、人間が先導することが出来ない「進化の神」は、畢竟跡づけに過ぎない。その「神」の進む道は曲がりくねり、前後し決して直線コースを採らなず、人間が予見出来るものではない。さらに、世界中には至る所に多様多愛な「進化の神」がおり、西欧型が唯一ではない。だから直ちに何を採用すべきか分からないけれど、一つ確かなことは「進化の神」が共通して憎むものがあるということである。そしてそれは「その時、その場合においてけっして行ない得ないことを行なうとすること」である。</div><div>　続けて言う、政治の本質とは国民の意向に添い、国民の知的水準に合う制度を採用し、福祉の利益を達成することであると。事業、歴史は常に「過去の思想を発現」である。「進化の神」としての歴史は「人々の思想が合体して、一つの円をかたちづくるもの」である。であるからこそ、人々の脳髄に思想を植え、それを一度過去のものにしない限り、良い事業は出来ないのだ。</div><div>　社会契約論を翻訳し、東洋のルソーと呼ばれ藩閥政治には批判的であった中江兆民だが、本書を読んで感じるのは、兆民自身がフランス型の社会契約論に根ざした「民権の回復」(草の根の革命的民主化)を求めているとは到底思えないことだ。それよりも「恩賜の民権」(上からの自由化、民主化)を重視し、君主や宰相が「人民の知的水準」に注意を払いながら、自由の規制を解くことが望ましいと考えている(p98~)。そしてその漸次自由化の間に人民が行なうことは「これ(恩賜の民権)をちゃんと守り、大切にあつかって、道徳という霊気、学問という滋養液で養ってやる」ことである。そうすれば時勢が進み歴史が展開するとき、肥え、背が高くなり「回復の民権」と肩を並べることが出来る、それこそ「進化の理法」であると考えている。<br><br><br><span><dl><dt><br></dt></dl></span></div><br>
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<link>https://ameblo.jp/toratora-hiha/entry-11126196873.html</link>
<pubDate>Wed, 04 Jan 2012 09:58:28 +0900</pubDate>
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<title>小室先生の信長解釈—『信長』を読んだ。</title>
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<![CDATA[ <div></div><span style="font-size: 14px; "><dt><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=18274028" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">信長 ー近代日本の曙と資本主義の精神ー/小室 直樹<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F51XFmKLBr9L._SL160_.jpg" border="0"></a></dt><dd style="margin-top: 0pt; margin-right: 0pt; margin-bottom: 0pt; margin-left: 0pt; ">￥1,680</dd><dd style="margin-top: 0pt; margin-right: 0pt; margin-bottom: 0pt; margin-left: 0pt; ">Amazon.co.jp</dd>【紹介】　<br>　信長なくして近代なし。<font class="Apple-style-span" color="#00beff">「天下布武」を目指す信長の行動様式には伝統主義のしがらみを刷新し、日本近代化のために目的合理の精神を日本に植え付けようとする世界史上の役割、すなわち世界精神がみられた。</font>古今東西の古典を参照し、比叡山焼き討ち、楽市楽座、桶狭間の戦い、兵農分離、本能寺の変を、小室氏独自の社会学的視点から読み直すことで、読者は全く新しい信長解釈に瞠目させられるだろう。　<br><br>【評価】<br>　レビュワーは歴史に詳しくもなく、信長についても恥ずかしながら一般的知識しかなく、いやそもそも歴史学という学問自体に明るくない。本書で参照されている徳富蘇峰の『近世日本国民史』、参謀本部編『大日本戦史』や太田牛一の『信長公記』も読んだ事はない。従って本書をその歴史解釈を軸に評価する事は出来ない。ただ、著者小室先生の主張は然もありなんと、大変面白く読む事が出来た。<br>　本書は歴史上、論争的な問題をも扱っている。例えば、本能寺の変直前の明智光秀が腹心に信長への謀反を打ち明ける会談において。歴史家によって若干の食い違いがある事に触れつつ、歴史的な細目の穿鑿より行動様式の分析こそが大事であるとしているからだ(p82)。従って、本書の視点は歴史を社会学的に再構成されたものとして読まれるべきだろう。他にも、桶狭間の戦いに見る、善照寺から中島砦に向かった信長の常軌を逸した行動が論争的であるという。<br>　小室先生は織田信長を世界史のなかで位置づけ、近代化をなすべく日本に遣わされた存在と主張する。あくまで大事なのは、信長本人ではなく信長のやろうとしたことであるとの立場から、<font class="Apple-style-span" color="#00beff">信長の政策が近代化の端緒を開いた</font>として高く評価する。歴史家であればいずれの政策も不十分であったと解すであろう兵農分離や楽市楽座などをいかに革新的政策で近代化のために不可欠であったかを分かり易く示している。小室先生独自の解釈を交え、学際的に読み解く姿勢は、学者が陥り易い門閥、学閥の壁を突き破ろうとする生き様にいたく感銘を受ける。<br><br>　＜以下ネタばれ＞<br>　例えば、兵農分離は当時完成しつつあった農民兵と大名との「農民共同体」を壊し、大名や武士のの権力基盤を農民から切り離すのに役立った。これは幕藩体制下でにみられた「お国替え」のように諸大名を官僚化することに繋がり、引いては廃藩置県を比較的スムーズに実行し得る為に不可欠であった。また、この兵農分離によって信長は伝統主義(伝統的共同体)から除かれた無頼漢などから人材抜擢、傭兵部隊を作り上げた。彼ら傭兵はある種、英国の囲い込み政策時における労働者のごとく、近代的なエトスを以て、桶狭間の戦いで活躍した。　その桶狭間の戦いは、筆者によると通説の「迂回奇襲説」は間違いで、強襲と解釈するべきだという—歴史家や軍人は『信長公記』の突飛で説明の付かない信長の行動についての記述を意図的に論理的に説明出来るように曲げていると主張する。そして、運命を僕にした奇蹟だという。<br>　桶狭間の戦いは「分捕なすべからず。打捨てになすべし。」(『信長公記』)にみるように、今川義元の頸を取る事だけを目的した戦であり、<font class="Apple-style-span" color="#00beff">前近代的な略奪、強奪という「私闘の積み重ね」としての戦闘からの画期的転換であった。「軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面目、末代の高名たるべし。ただ励むべし」(『信長公記』)を取り上げ、筆者は桶狭間の戦を、戦争における各自の役割を徹頭徹尾重視した近代戦争の萌芽的戦</font>いと解し、信長をナポレオンやモルトケと並べる。　さらに信長は死の間際まで世界精神としての使命を全うした。本能寺の変は、戦国「武士道」を抽象化、絶対化した。「旧主人に仕えた如き忠義を以て新主人に仕える」を恥としない浮気な行動様式であった戦国「武士道」が絶対的忠誠にまで高められた。社会的階級の違いから来る差別規範を越え—すなわち腹心から馬夫まで—主君のために玉砕する勤王の精神にまで高めた出来事であった。また信長の死に様は信長のカリスマ性をもっとも保存する形の死であり、秀吉に意志を継ぐ世界史上の重要な事件であったとする。<span><dl><dt><br></dt></dl></span></span><div></div><br>
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<link>https://ameblo.jp/toratora-hiha/entry-11117085702.html</link>
<pubDate>Sun, 25 Dec 2011 20:08:59 +0900</pubDate>
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<title>村上正邦、佐藤優『大和ごころ入門』—書評</title>
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<![CDATA[ <div></div><span style="font-size: 14px; "><dt><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=18194444" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">大和ごころ入門/村上 正邦<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F41blwWMH64L._SL160_.jpg" border="0"></a></dt><dd style="margin-top: 0pt; margin-right: 0pt; margin-bottom: 0pt; margin-left: 0pt; ">￥1,680</dd><dd style="margin-top: 0pt; margin-right: 0pt; margin-bottom: 0pt; margin-left: 0pt; ">Amazon.co.jp</dd><br>【推薦】<br>　現代日本では南北朝の歴史が繰り返されている。国家権力中枢で日本の生の姿に触れ、国家に裏切られた二人が語るこの国の形とは。北畠親房の『神皇正統記』を通して、正統な日本国、正統な保守をいかに中興するのか、いかに強い日本へ維新できるのか。南朝の歴史を追体験しつつ、日本を日本たらしめる見えないものへの畏敬を通して、吉野の地において自らの再起を賭ける。国士二人の決意表明の書。<br><br>【解説】　<br>　本書で両者が共有するのは今の保守の安っぽさ、この国の政治の言葉遊びや乱れ、さらに国体の瓦解に対する危機意識である。それは「保守」の側から近代主義への賞賛が生まれ(新自由主義が生じ)、小泉政権が誕生したことに端を発する。靖国参拝でシンボル操作を行ないながら、経済合理性で測れないものを「無駄」と切って捨て、結果的に強い者をより強くし、日本社会の貧困化を許したこと。また保守待望の安倍政権が短期間のうち自己の弱さから崩壊したこと。これら6年間の日本政治の動きを日本の神話や南北朝の歴史から解釈する。<br>　<font class="Apple-style-span" color="#00beff">国体の瓦解、国家の弱体化、権力と金の密接な結びつきと交換可能性への危機意識を共有し、日本の神話、文化、伝統など経済合理や時空を超えた、見えないものへの畏敬の念など日本の大和ごころを再確認しようという本である</font>。<br><br>気に入った文<br><span class="Apple-style-span" style="font-family: Garamond, 'ヒラギノ明朝 Pro W3', 'Hiragino Mincho Pro', serif; line-height: 25px; "><span style="font-size: 14px; "><font class="Apple-style-span" color="#00beff">自分の持ち場ってのいうものを人は選べないんです、ほんとはね。自分の持ち場っていうのはたぶん一か所しかないんですね、最終的に。その場所で一所懸命、ひとつのところで懸命にやると愛情が生まれる。だから一所懸命なんですよね。これが愛国心の原点だと思うんです。</font></span></span><br><br>【評価とコメント】★３<br>　佐藤優氏の思想に村上正邦氏の生き様、政治観を通して、思想と哲学の違いや、国体と憲法、愛国心と自然観などについてなど、個人的には考えるきっかけになる主張が多々あり、考えの起点として大変参考になった個所が多かった。また両者の考えに多く同意出来る個所があった。<br>　ただ、対話、対談ものにはつきものだが、カバーする範囲が広過ぎる点が問題で—南北朝、皇室(典範)、憲法、愛国心、政治、新自由主義、神話、思想…—もう少し絞った方が読み易い。また、入門をどう解するかによるが、万人に勧めることが果たして出来るのか否か…もちろん天皇あっての日本国であり、それが国体を貫く＝国家の中心であり中道思想と解すべきだと思うが、やはり一般的には本書は保守思想本だと解されてしまうきらいがある。（補足</span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px; ">—例えば日本の国号と天皇の称は持統朝のころほぼ同時期に制度化されたと考えられている。以後少なくとも建前上、天皇の権威を背後とした世俗的権力による統治が江戸時代まで一貫して続く。…が、その歴史的流れが断絶した時期こそ南北朝時代であり、それをどう解釈するかについては確か学会でも議論が分かれている…南朝を正統とみなすのか異形とみなすのか、後醍醐天皇をいかに位置づけるか…本書は前者の立場と言える。</span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px; ">）<br></span><span style="font-size: 14px; ">　尤も本書を読めば、先祖を敬うことや文化伝統への畏敬など当たり前のことが、右翼の専売特許のようになっている<font class="Apple-style-span" color="#00beff">今の日本の座標軸が異常な位置にあり、現代が日本の歴史の中で異様であることを再確認</font>出来るという意味はあるかもしれない。筆者らは日本の思想が世界に認められるためには「通じる言葉」にしなくてはならないと言うけれど、本書の内容は日本で「通じる言葉」をもつのか否か、現時点では疑わしい。では保守の側はいかにその「通じる言葉」を創れるのか、中興、維新できるのかとなると直接的には述べられず、話が自分たちの裁判に流れてしまっている点が残念である。(本書の文脈からすると、人の創った制度や法律には自ずと限界が生じることから、自然のままに流れ着いた自分の持ち場を一所懸命に保ち、自分の職分を全うすることが突破口となると解せられる…佐藤さんは言論で村上さんは政治家として)<br>　そうした点で、国策捜査で権力を負われた二人という特殊な存在が生んだ企画ものとして本書は読まれるべきだろう。本書で何かが生まれる、昇華した結果、全く新しい見方が見えるというものではなく、一部の解釈を除き、大筋で一致するそれぞれの保守思想を、「そうだね、うんうん」と確認し合いながら話が進む点が特徴—対話より談話に近い。<span><dl><dt><br></dt></dl></span></span><div></div><br>
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<link>https://ameblo.jp/toratora-hiha/entry-11111076896.html</link>
<pubDate>Mon, 19 Dec 2011 10:07:44 +0900</pubDate>
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<title>『「経済人」の終わり』—【書評】</title>
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<![CDATA[ <div>【書評】<span><dl><dt><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=18124672" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">ドラッカー名著集9 「経済人」の終わり/P・F・ドラッカー<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F41C0Kr5WTzL._SL160_.jpg" border="0"></a></dt><dd style="margin: 0pt;">￥2,100</dd><dd style="margin: 0pt;">Amazon.co.jp</dd></dl></span></div><div>　自由と平等を達成し、大衆の福祉を向上するために経済的満足を最優先に希求するという社会的教義—経済至上主義たる「経済人」の秩序。それは「魔物」を退治出来なかったがゆえに大衆の支持を失った。ファシズムはそのような「経済人」秩序に引導を渡すことに成功した。脱経済至上主義を目指し、新しい人間観として組織に至高の価値置く「英雄人」を打ち出した。大衆は絶望から理性を放棄し、「不可能を可能にする奇跡」をファシズムに期待した。ファシズム全体主義に不満であるがゆえにそれを支持する宗教的信仰をみせた。しかし、ファシズム全体主義の提示した、人間の犠牲を正当化する概念は社会と相容れず、自己矛盾を抱えた観念であった。</div><div>　この矛盾、旧秩序への否定がファシズム全体主義の本質であった。ファシズムは矛盾を隠し自らを合理化するべく、「目に見える魔物」をつくり出した。ファシズムにとってのこの魔物は「和解不能の敵」である。そしてこの「敵」こそが西欧のブルジョア資本主義である。</div><div>　ドラッカーは、「なぜ民主主義勢力は自らの信条全てを脅かす脅威を抑制出来ないのか？」と問い、肯定的信条に基づく新しい秩序を作るため、ファシズム全体主義を正しく認識することが不可欠であるという。ファシズム全体主義への見立てを通じ、ドラッカーが本書で提示するものは、西欧の歴史が、いかに自由と平等を叶える秩序への動的な願望によって動かされ、いかに人間が社会における自らの役割を求めるかである。</div><div>　ドラッガーがじかに見聞きしたファシズム全体主義を理解することは、彼の思想の原点を理解する王道である。ドラッカー29歳のときの衝撃のデビュー作。</div><div><br></div><div>【コメント】</div><div>　ドラッカーはブルジョア資本主義とマルクス社会主義が信奉した「経済人」秩序—個人の経済的自由を自由と平等を達成するために最優先する経済至上主義—の崩壊とそれに変わる秩序の不在と虚を衝いて、ファシズム全体主義が断ち現れたと喝破する。そしてファシズムは、矛盾や否定に立脚するため、大衆には夢を見させる程度のことしか提供出来ず、本質的には脆弱性を有していると考えている。むしろ、ファシズムがヨーロッパの信条を脅かすにも関わらず、正しくそれを認識出来ていないことがヨーロッパの民主主義を弱め、ファシズムの提供する虚構を真実だとみなす風潮をつくり出すという認識を軸に本書は書かれている。</div><div>　なぜファシズム全体主義が生まれたのかいついて理解することがドラッカーの世界観をみるのに一番都合がいいのではないか。<span style="font-size: 14px; "><font class="Apple-style-span" color="#00beff">ドラッカーはファシズム全体主義の登場を西洋文明の文脈で捉え、「西洋の歴史に特有の動的な性格」(p223)が生んだものと考える。つまりヨーロッパには、人間本性における、ある領域—精神、知識、政治、経済など—を社会の中心として位置づける秩序が常に存在し、その領域を通して自由と平等を追及して来たという歴史的プロセスがある。このダイナミックなプロセスは「動的な性格」を有し、大衆は新しい秩序が不在の静的な現状に耐えられなかったがためにファシズムに向かった</font></span>と捉える点は、筆者特有の理解である非常に面白い。</div><div>　本書では、１９９５年版のまえがきで述べられているように、社会を分析するために、政治や経済でない第三の方法を採用している。すなわち「社会における緊張、圧力、潮流、転換、変動の分析」をとおして「特異な動物たる人間の環境として社会」を分析するアプローチである。筆者自身がマックスウェーバーに準えているように、読者には非常に説得力のある見方であった。<br><br>　読みにくくはなかった。毎日少しずつまとめたことで、ドラッカーが何者であるかが少し分かった。。。。</div><br>
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<link>https://ameblo.jp/toratora-hiha/entry-11106554041.html</link>
<pubDate>Wed, 14 Dec 2011 11:01:12 +0900</pubDate>
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<title>『下流志向』—推薦</title>
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<![CDATA[ <br><br><br><br><br><br><p align="LEFT" style="margin-bottom: 0cm"><font size="2" style="font-size: 10pt"></font></p><span style="font-size: 12px; "><p align="LEFT" style="margin-bottom: 0cm"><font size="2"><br><span></span></font></p><dl><dt><font size="2"><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=18042738" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)/内田 樹<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F41WZevKthgL._SL160_.jpg" border="0"></a></font></dt><dd style="margin: 0pt;"><font size="2">￥550</font></dd><dd style="margin: 0pt;"><font size="2">Amazon.co.jp</font></dd></dl></span><p></p><br><p align="LEFT" style="margin-bottom: 0cm"><font size="2"><br>【推薦】<br>　「何のために学ぶのか？」「安い給料でこき使われている」昨今、このような文句が生徒や若者から聞こえるのはなぜか？本書が主張するのは、近年の「実学志向」のように、学びを換金率のいい投資と考えることは教育は教育を崩壊させるということだ。なぜなら<font class="Apple-style-span" color="#00beff">「学び」や「労働」は時間軸に自らを組み込み、自分の成長に伴って得られる「知」に対する期待が存在するからこそ成り立ち、不合理なものが混じるからだ。市場原理はその不合理を廃し、人の成長を「勘定」に入れない無時間制に立脚する。時間を廃した教育は、子どものながらの幼児性に固執したままの人間を生み出すことになる。</font></font></p><br><p align="LEFT" style="margin-bottom: 0cm"><font size="2">　日本には自己決定出来る「強者」など存在しない。「強者」は自己決定ではなく相互扶助の中で「強者」になり、「弱者」は自己決定から得られる高揚感によって自らの脆弱性を高めていく。これによってリスクは不平等に分配され、弱者は進んで弱者になることを強いられる。ではどうすれば良いのか？本書に答えはのっていない。しかし、その解き方は知ることが出来るかもしれない。問題の答えは、私たちが自らの「知」に期待して解決していくものであり、それこそ本書が主張するところだ。</font></p><br><p align="LEFT" style="margin-bottom: 0cm"><br><br></p><br><p align="LEFT" style="margin-bottom: 0cm"><br><br></p><br><p align="LEFT" style="margin-bottom: 0cm"><font size="2">【書評】</font></p><br><p align="LEFT" style="margin-bottom: 0cm"><font size="2">　読み易さや筆者独自の視点が面白い。ただ、ニートなどに関しその見方に画一性があるように感じる。しかし既存の教育論とは一線を画した新規性があり、教育や労働について基本に戻って考えるには良い。☆</font><font face="Times New Roman, serif"><font size="3">4</font></font></p><br><p align="LEFT" style="margin-bottom: 0cm"><br><br></p><br><p align="LEFT" style="margin-bottom: 0cm"><font size="2">【コメント】</font></p><br><p align="LEFT" style="margin-bottom: 0cm"><font size="2">　知への愛がある書。常識を疑い、社会に流布する主張の逆説を指摘する点が興味深い。学びや労働が自らの変化を時間軸に組み込み、成長することで得られる「知」に期待することだということに啓発された。一方で、市場原理の等価交換が社会の隅々まで広がり、結果として今あるような学級崩壊や学びからの逃走があるのか、それは市場原理だけの責任なのかと疑問にも思う。筆者が言う市場原理とは、新自由主義型の資本主義を指すことは間違いないが、新自由主義と教育の他にもネット、</font><font face="Times New Roman, serif"><font size="3">IT</font></font><font size="2">や予備校</font><font face="Times New Roman, serif"><font size="3">(</font></font><font size="2">の競争</font><font face="Times New Roman, serif"><font size="3">)</font></font><font size="2">などの無時間モデルを教育との関係で検討しても面白いと思う。</font></p><br><p align="LEFT" style="margin-bottom: 0cm"><font size="2">　各章ごとノートをとりながら読んだ。しばらくしてからまた読もう。</font></p><p align="LEFT" style="margin-bottom: 0cm"><font size="2" style="font-size: 10pt"></font></p><br>
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<link>https://ameblo.jp/toratora-hiha/entry-11100909037.html</link>
<pubDate>Thu, 08 Dec 2011 08:56:29 +0900</pubDate>
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<title>『日本は悪くない』—推薦、TPP</title>
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<![CDATA[ <div></div><span style="font-size: 12px; "><br><br>【推薦】<br>　本書ではナショナリストが国際経済を論じている。1980年代の貿易摩擦において、一貫してアメリカに問題の根本があることを主張した反骨的官僚が存在した。そして筆者の主張がいかにスジの通った妥当なものであったかはアメリカの金融危機を見ると明らかである。歴史が下村博士に追いついた。そしてアメリカはとうとう自壊した。　筆者は問題の本質を抑えることの重要性を指摘する。<font class="Apple-style-span" color="#00beff">経済の本質とは何か？それは「国民をどう生きさせるかだ。」国内経済あっての国際経済であり、自由貿易は国民経済を支えるための一手段でしかない。</font>この点から筆者は、必要次第でアメリカの保護主義政策も正当化する。なぜなら、歴史的文脈を有する国民経済こそが経済の軸であり、「世界経済の本質は国民経済の棲み分け」であるからだ。<br>　国民を守らずして何が経国済民か。選択と集中から「国際競争力」を叫び、国民経済という視点を忘れたエコノミストへ捧ぐ、国士下村博士の警鐘の書。<br><br>【書評】☆5　本書を手に取ったのは、TPPについて国家や国力という側面から論じたものが少なく、経済学者とやらがこぞって賛成している事態を前に危惧を感じたからだ。彼らの視点の偏り、あたかも市場が国家政策によって形成されるという事実さえ見ようとしないように感じた。(ちょうどその際、内田樹氏のブログで取り上げられており興味を持った。)　筆者の指摘の通り、今の「エコノミスト」は、曰く自由貿易、曰く市場競争と効率性、生産性だけを論じ、国民経済という視点を全く欠き、内実を欠いており、非常に空想的だと感じざるを得ない。正直彼らのいくらかは自らの地位のために弁を曲げる、曲学阿世の徒に見える時がある。本来、価値ある経済学者とは、その国の経済の歴史的文化的特徴を抑えた上で経済情勢を解釈し、いかに国力という全体をあげる政策を提言出来るかで評価されるべきだ。その点、筆者のいう「世界経済の本質は国民経済の棲み分け」という主張は非常に腑に落ちた。本書を読めば、経済学者を評価する際に、一定の軸を設けることがきるのではないか。<br>　経済関連の本は消費期限が短いと感じていた。しかし本書のように1987年に出版された本で、現在まで耐久性を有する経済の本は珍しいのではないか—ガルブレイスの『大暴落1929』に似ているかも。本書の警告に反して、それだけの間一貫してアメリカが経済の膨張を止めず、間違いを押し通して来たことはリーマンショックで証明された。　読んでいて古さは全く感じない。内容については、いんちきエコノミストが指摘してこなかった分、新しい。経済用語も難しくはなく、米国が批判する日本の「貯蓄過剰　」や「輸出超過」の論点のウソを論理明快に暴いてくれる痛快な書である。本来の官僚は反骨心を有したものであって欲しい。<span><dl><dt><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=17961892" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">日本は悪くない―悪いのはアメリカだ (文春文庫)/下村 治<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F51yzO7%252BZCsL._SL160_.jpg" border="0"></a></dt><dd style="margin: 0pt;">￥580</dd><dd style="margin: 0pt;">Amazon.co.jp</dd></dl></span></span><div></div><br>
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<link>https://ameblo.jp/toratora-hiha/entry-11095324051.html</link>
<pubDate>Fri, 02 Dec 2011 10:03:43 +0900</pubDate>
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<title>最近読んだ本—『新しい中世』『新「帝国」アメリカを解剖する』</title>
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<![CDATA[ <div><br><dl><dt><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=17917175" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">新しい中世―相互依存深まる世界システム (日経ビジネス人文庫)/田中 明彦<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F51X94279ZKL._SL160_.jpg" border="0"></a></dt><dd style="margin: 0pt;">￥840</dd><dd style="margin: 0pt;">Amazon.co.jp</dd></dl>【書評】—『新しい中世』</div><div>　現在の世界システムは「新しい中世」に近づいているのか？筆者は国際関係に有意味な影響を与えうる主体の多様性、自由民主主義／市場経済という挑戦しがたい正統なイデオロギーとなっていること、相互依存の深まりなどから、米国や日本、欧州などの関係を中世との近似点から「新しい中世」と呼ぶ。その上で、自由民主制•市場経済を軸に世界システムを「新中世圏」「近代圏」「混沌圏」に区分し、その相互作用を通して世界システムを概観する。</div><div>　</div><div>　アジア•太平洋における関係は複雑さを増している。中国の国力増強、領土問題や核開発、経済的相互依存などを前に、米国、日本、豪州のような「新中世圏」は、その他の「近代圏」とどのような関係を結べば良いのだろうか。また、911が示したように、「混沌圏」と「新中世圏」間の不可分性をまえに日本のとるべき政策とは。自由民主制•市場経済という「新しい文明」の論理を軸に相互依存を深める世界システムを分析する。</div><div><br></div><div>—コメント—</div><div>　世界を国家体制として自由民主制•市場経済を軸に三つの文明圏に分ける点は興味深い。しかし、その点を除けば日本を取り巻く地域における政治分析と政策提言は、特に新しい観点はなく退屈さを感じた。</div><div>　この手の分析の弱点としては、同一圏内における説明が弱くなる傾向を挙げられる。例えば、筆者が今日的な「文明圏」とする「新しい中世」内部においての同質性を過剰評価している。米国が圧倒的な経済力を有さない現在において、同一圏域においても政治経済の対立が露骨になる可能性がある。その点、時代制約性のある本だと思う。</div><div>　また、iTや技術革新をあたかも、「新しい中世」圏の自由民主制•市場経済に資するかのように解釈し、近代圏から「新中世圏」への移行を助ける道具になるというが、果たしてそうか？形式、表面上は自由と結びつけられ肯定的に解釈されがちだが、近代圏において国家権力を強化する手段として監視、管理の力を強める可能性があるし、それは「新中世圏」の米国愛国法にも見られ必ずしも実質を伴わない。</div><div>　ナショナリズムに関しても「新中世圏」では不必要だと主張するが、疑問だ。むしろ形式的自由化への流れが、個人主義や新自由主義的な経済政策を促すのであれば、格差の誕生を前に、国家が社会分裂を止めるため、安易にナショナリズムに訴える可能性がある。さらには、国家を枠組みにした適度なナショナリズムなしには、狭窄的で独善的な民族、血縁的な排外主義の芽生えの可能性がある。ようは、いかにナショナリズムをコントロールするかであり、健全なナショナリズムは決して自由や平等と矛盾しない。<br><div><br><br><br><dl><dt><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=17917174" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">新「帝国」アメリカを解剖する (ちくま新書)/佐伯 啓思<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F41274DHJEZL._SL160_.jpg" border="0"></a></dt><dd style="margin: 0pt;">￥777</dd><dd style="margin: 0pt;">Amazon.co.jp</dd></dl>【書評】—『新「帝国」アメリカを解剖する』</div><div>　なぜ普遍的であるはずの「自由」「民主主義」「消費文化」「市場競争」といったアメリカ的価値が反アメリカニズムを生むのか？それは、抽象的で合理的だからこそ普遍的に適用できるとする思考方法そのものがアメリカ的であるからだ。なぜそのような思考法が可能なのか？それは「例外国家」として誕生したアメリカは同時に、例外さゆえに「普遍的価値」を有す国家だからだ。</div><div>　脱文脈化された形式的価値が、文脈依存の文化と交わるとき、衝突が生じる。ハンチントン『文明の衝突』の西欧文明における認識から、アメリカは外だけでなく「内なる衝突」として「文明と文化の衝突」に晒されている。911が明らかにしたのは、「普遍的価値」を謳う近代的「アメリカニズム」も死をも厭わぬ反近代的「テロリズム」も、現代文明のニヒリズムから生じた対応として、文明と文化への独善的な原理主義に立脚するいう点では同じものなのだ。</div></div>
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<link>https://ameblo.jp/toratora-hiha/entry-11092496044.html</link>
<pubDate>Tue, 29 Nov 2011 10:08:34 +0900</pubDate>
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<title>難民　第三国定住ー政府関係者になりきって</title>
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<![CDATA[ <p style="margin-bottom: 0cm"></p><p style="margin-bottom: 0cm"></p><span style="font-size: 14px; "><p style="margin-bottom: 0cm">　TPP、今日はお休みで、後輩のゼミ論のテーマ難民問題—第三国定住について少し考えた…<font class="Apple-style-span" color="#00beff">第三国定住とは、紛争や迫害が続く祖国に戻ることも、避難先に定住することもできない難民を別の国が受け入れること</font>です。日本はアジアで初の試験導入として2010年から2012年の間、毎年30人のミャンマー難民を受け入れることが決まりました。</p></span><span style="font-size: 14px; "><p style="margin-bottom: 0cm">http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/450/96612.html<br></p></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px; ">http://www.unhcr.or.jp/html/2010/07/ws100705.html<br></span><span style="font-size: 14px; "><p style="margin-bottom: 0cm"><br>＜国益私論＞<br>　まず、国家政策を考える際の軸となる国益について一応の定義を考えてみた。</p></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px; "><br><font class="Apple-style-span" color="#00beff">①、</font></span><font class="Apple-style-span" color="#00beff"><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px; "><font face="Times New Roman, serif">Security&amp;Order<br>—(</font></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px; ">国家権力を用い</span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px; "><font face="Times New Roman, serif">)</font></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px; ">秩序を保つことで</span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px; "><font face="Times New Roman, serif">(</font></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px; ">手段</span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px; "><font face="Times New Roman, serif">)</font></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px;">、国民の生命財産を保護する</span><br><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px;"><br></span></font><span style="font-size: 14px; "><p style="margin-bottom: 0cm"><font class="Apple-style-span" color="#00beff">②、<font face="Times New Roman, serif">Political&nbsp;Economy<br>— </font>国民経済を支え<font face="Times New Roman, serif">(</font>国民への雇用確保＋経済発展促進<font face="Times New Roman, serif">)</font>ることで<font face="Times New Roman, serif">(</font>手段<font face="Times New Roman, serif">)</font>、自由、民主主義、福祉を達成する。<br><br></font></p></span><span class="Apple-style-span" style="color: rgb(0, 190, 255); font-size: 14px; line-height: 21px; ">③、<font face="Times New Roman, serif">Honor</font>＆<font face="Times New Roman, serif">Prestige</font></span><span style="font-size: 14px; "><p style="margin-bottom: 0cm"><font class="Apple-style-span" color="#00beff">—主に国家としての存在を認めさす、認められることを通して<font face="Times New Roman, serif">(</font>手段<font face="Times New Roman, serif">)</font>、国際秩序のあり方に関与し、自らに有利なように影響を与える。</font></p><br><p style="margin-bottom: 0cm"><br><br></p><br><p style="margin-bottom: 0cm">　①～③は垂直的相互作用を有すが、基本的に①を土台にしたピラミッドのような階層性を帯びると考える。即ち…</p><br><p style="margin-bottom: 0cm">　①により支配の及ぶ領域を定め、その秩序を保つことは②、③のために絶対に必要な要素あり、端的には近代主権国家のための要素である<font face="Times New Roman, serif">(</font>実行支配領域の明確化、暴力装置の一元化、官僚制の整備、法治国家など<font face="Times New Roman, serif">)</font>。それを達成することで②を目指すことができる。</p><br><p style="margin-bottom: 0cm">　②では安定的な国民経済を支えるという手段を通して、国民の政治社会的利益を叶える。</p><br><p style="margin-bottom: 0cm">　①②は③のための基盤となる<font face="Times New Roman, serif">(①②</font>は国力、③は外交力と考えると①②≠③で、①②は③のための十分条件<font face="Times New Roman, serif">)</font>。日本のような国力<font face="Times New Roman, serif">(</font>主に経済力<font face="Times New Roman, serif">)</font>が存在し一応の民主制を有していても、国際的ルールメイキングの当事者にはなれない<font face="Times New Roman, serif">(</font>なる意志のない<font face="Times New Roman, serif">)</font>国もあれば、カナダやスウェーデンのような<font face="Times New Roman, serif">GDP</font>しか有していなくても国際的名声、威信の強い国もある。北朝鮮のように、①の秩序維持の後、③を目指して核保有という決断も一つの国のあり方ではあるが、それによって②を縮小喪失し、引いては①を弱めることになるかもしれない—経済的貧窮からの暴動による秩序喪失。</p><br><p style="margin-bottom: 0cm">　<font class="Apple-style-span" color="#00beff">①②③全体のパイ拡大が国益である。国益を検討する場合は、国家体形<font face="Times New Roman, serif">(</font>ビジョン<font face="Times New Roman, serif">)が絶対不可欠で、そのビジョンに基づき</font>、得られるハズの資源を各分野にバランス良く配分する必要がある。</font>①を基盤にする三角形であろうが、台形だろうが、①②③の大きさとバランスが国家の多様性だといえる。<font face="Times New Roman, serif">(</font>人間から類推すると①は健康を維持することで、②雇用を確保、安定的生活をおくり「幸せ」になること、③社会的ステータス及び他人への影響力を通した「承認」の獲得…リッチになることがある人にとっては幸せであれば、貧しくても他者から認められる生き方もある(脱物質的精神)。「幸せ」の内実は人それぞれ。でも、健康なくして「幸せ」は得られない。<font face="Times New Roman, serif">)</font></p><br><p style="margin-bottom: 0cm">　</p><br><p style="margin-bottom: 0cm">＜難民受け入れについて＞</p><br></span><br><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px; ">　まず難民とは人種、宗教、国籍、特定社会集団、政治的意見などを理由に迫害されるおそれがあるという十分な理由のある恐怖を有し、国籍外におり、自国の保護を受けられないか、受けたくないものを指す<font face="Times New Roman, serif">(</font>難民条約—１条<font face="Times New Roman, serif">)</font>。日本は難民の受け入れに消極的であるとされ、事実として先進国では著しくその承認数が低い。（条約難民60人弱、人道的配慮による在留許可400人弱）↓</span><br><span style="font-size: 14px; "><p style="margin-bottom: 0cm">http://www.unhcr.or.jp/ref_unhcr/higo/index.html<br><br>　難民を受け入れることの議論として、大まかに国際的連帯など道義性を軸にするものと、政治的な国益を軸にした議論が挙げられるだろう。前者に関しては困っている人間を助けるグローバルな連帯、責任分担の趣旨の発言がある。しかし、あえてここでは後者を軸に難民の受け入れについて考えたい。(国家体形は述べず、全体の拡大が望ましいという観点から検討する)</p><br><p style="margin-bottom: 0cm">　難民を受け入れが要請されるのは一般的には先進国であり、それは途上国の治安がままならない場合が多いのに対し、先進国は受け入れの制度、資金的な余力があると考えられるからだ。一方先進国は難民が入らないように、難民キャンプを支援したりしつつ、対テロ対策と称し国境管理を強めている(「欧州の壁」)。<br>　かつて、難民存在の政治的意味について、当該国家の「負の側面」を現し、それを受け入れる国は「正の意味」を付与された。冷戦初期のソ連からの難民は米国にとっては自由民主主義といった自国の価値を高めるという政治性を有していた。しかし、そのようなプラスの側面は現在はあまりなく、負担になりつつある…</p><br><p style="margin-bottom: 0cm"><br><br></p><br><p style="margin-bottom: 0cm">＜自分が政府内部の人間であったらどう説明するか…＞</p><br><p style="margin-bottom: 0cm">—日本は難民の受け入れが少ないといわれますが…（オンレコで）</p><br><p style="margin-bottom: 0cm">　確かに、日本は難民の受け入れが少ないといわれて来ましたが、ベトナム戦争以後、日本を取り巻く環境は小競り合い程度の紛争は生じても、直ちに難民拡大の必要がある内戦はあまりありませんでした。ヨーロッパなどの他国との比較はあまり意味はなく日本が何をして来たのか、何をするのかその主体性に注目していただきたい。日本はアジアにおいて<font face="Times New Roman, serif">ODA</font>を活用し、事実、当該国家の経済成長を促進し、<font face="Times New Roman, serif">80</font>年代から<font face="Times New Roman, serif">90</font>年代のアジアにおける民主主義拡大の基盤を作りました—国境を越える②の議論。これらの事実によって直接的な難民受け入れの数以上の貢献を国際社会に果たして来たといえます。アジアにおいて経済発展を促進し、自由を求める中間層の拡大を通して、難民流出の機会を減じたことは目に見えない実績としてもっと評価されるべきです。また第三国定住はアジアではじめての導入国で、他国のモデルとなるでしょう。</p><br><p style="margin-bottom: 0cm"><br><br></p><br><p style="margin-bottom: 0cm">—なぜ第三国定住を始めるのか？（オフレコで）</p><br></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px; ">　実際問題</span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px; "><font face="Times New Roman, serif">ODA</font></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px; ">であれ、難民政策であれ、公的資金＝税金を用いる以上、そこで得られる利益は何らかの形で国民のものとなることが期待されます。しかし<font class="Apple-style-span" color="#00beff">国益を軸に考えると、国益①②から、国民の生命財産を保護し国民経済の発展を支えることが国家の一義的価値であり、</font></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px; "><font class="Apple-style-span" color="#00beff">難民の受け入れは二義的要請程度で民意が存在しない限り本質的に正当化しにくいのが現実です</font>。</span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px; ">それゆえ道義的側面が強くなりがちで、敢えて国益とからめていうならば難民を受け入れることで得られる国際社会でのイメージ向上という漠然としたものでしょう。しかし、逆説ながら国際社会で、受け入れに積極的な国であるというイメージは、難民申請数を増やしうるので国家の負担になってしまいます—豪州や北欧の例。それゆえ、日本政府としては敢えては目指しません。しかしできないやらないでは、国際社会から国家的なエゴとみなされるうるので、承認数の少なさをカバーする政策が必要になります。<font class="Apple-style-span" color="#00beff">そこで難民受け入れを量よりも、受け入れた後の生活の質の面をアピールすべきだと政府は考えた</font>のです。<br></span><span style="font-size: 14px; "></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px; "><br></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px; ">　日本の<font face="Times New Roman, serif">ODA</font>については他国のそれより質が高く、きめ細やかさの点及び数値に表れない実績があり、過小評価されています。原則をいうと、難民の問題は当該国家及び地域一帯の問題で、そこにおける秩序の回復、自由主義<font face="Times New Roman, serif">(</font>権力分立<font face="Times New Roman, serif">)</font>の制度化に資する貢献が最も望ましいのです。<font class="Apple-style-span" color="#00beff">究極の目的は難民を流出させる国家における、国益①②の増進によって難民流出構造を根本から断つことにあります。受け入れはいわばそれまでの時間稼ぎで、根本的解決にはならないのです。<br></font>　<br>　ですから今まで通りの日本のきめ細い<font face="Times New Roman, serif">ODA</font>政策などの有効性は基本的に変わりません。</span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px; ">日本は<font face="Times New Roman, serif">UNHCRへ</font>の拠出金及び、<font face="Times New Roman, serif">ODA</font>にも多くの予算を割いています—国連の欲する<font face="Times New Roman, serif">GDP</font>費<font face="Times New Roman, serif">0.7%</font>には達しない。しかし日本の長期的経済の停滞という現状、<font face="Times New Roman, serif">ODA</font>削減の国民の支持などに明らかなように資金面で国際的関与の低下は不可避です。そのため我が国の現状及び民意を考えると、予算や難民受け入れの拡大は難しいでしょう。そこで現実的かつ分かり易い政策として、</span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px; ">第三国定住をやってみようと決まりました</span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px; ">。以下のメリットによって、第三国定住は効果的だと考えました。</span><span style="font-size: 14px; "><p style="margin-bottom: 0cm">　</p><br><p style="margin-bottom: 0cm"><font face="Times New Roman, serif">a)</font>、アジアで始めてであるという役割、主体性。国際的なやってますよアピール<br>—国益の③。</p><br><p style="margin-bottom: 0cm"><font face="Times New Roman, serif">b)</font>、定数<font face="Times New Roman, serif">30</font>人／年と、治安に与える影響はなく、予算に与える影響は微小<br>—国益の①②に与える負担と<font face="Times New Roman, serif">a)</font>とのコストベネフィットの点で割に合う。</p><br></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px;"><br></span><span style="font-size: 14px; "><p style="margin-bottom: 0cm"><font face="Times New Roman, serif">c)</font>、日本はその後の対応を前もって判断出来るメリット。人数を決め取り組むことは、就業確保など難民承認後の生活の保障を確かにできるメリットがあり、日本での生活の質の向上も期待される。<br><br>→まあ、俺が政府ならこういう風に現実的に考えるかな。いいか悪いかはおいとくと、これからも条約難民数を増やす意図はほぼ無いと思う…<font class="Apple-style-span" color="#00beff">上記の政府関係者の言説に突っ込んだり、批判したりすることで違った角度から考えることができるかも。</font></p></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 14px; line-height: 21px; "><br>＜第三国定住の考えるポイント—俺なら＞　</span><span style="font-size: 14px; "><br><p style="margin-bottom: 0cm"><font face="Times New Roman, serif">1)</font>、<font face="Times New Roman, serif">UNHCR</font>自体の方向性の変化の中で日本の第三国定住をいかに捉えるか？</p><br><p style="margin-bottom: 0cm">　当初<font face="Times New Roman, serif">UNHCR</font>の役割は、第一義的に難民の自発的帰還を目指していた。だから難民キャンプの維持には消極的であった—第一義的役割を拒み、キャンプの存在を固定化することになるから。しかしその後、難民キャンプの維持がメインの活動に変わって来て<font face="Times New Roman, serif">NGO</font>と変わらなくなってきた<font face="Times New Roman, serif">(</font>ように思う<font face="Times New Roman, serif">)</font>。そして、最近は難民キャンプ内で難民の第三国定住のための推薦者になっている…UNHCRはどこへ向かうのか？こうした、<font class="Apple-style-span" color="#ff1493"><font face="Times New Roman, serif">UNHCR</font>自体の変遷の中で日本の第三国定住はどう考えられるか？</font>—理想と現実。</p><br><p style="margin-bottom: 0cm"><br><br></p><br><p style="margin-bottom: 0cm"><font face="Times New Roman, serif">2)</font>、既存の難民制度との折り合いについて</p><br><p style="margin-bottom: 0cm">　試験的導入のようだが、本来の難民承認とどう折り合いを付けているのか？数が<font face="Times New Roman, serif">30</font>人／年と少ないが、こちらを重視することがあるなら既存の難民承認数の少なさのスケープゴートにならないかなど追及可能。この点に関して、欧米の事例が役立つかもね。　<br>　また、<font face="Times New Roman, serif">c)</font>に関して、<font class="Apple-style-span" color="#ff1493">国家の目的に資する難民を優先的に受け入れることにはならないか</font>？農業に就かせるための農業を生業として来た難民の保護を優先するというように。この問いは<font face="Times New Roman, serif">1)</font>にも関わるが、国家の目的に資する難民が承認される場合、本来の難民支援のあり方とかなり異なってくるようにも感じるが…</p><br><p style="margin-bottom: 0cm"><br><br></p><br><p style="margin-bottom: 0cm"><font face="Times New Roman, serif">3)</font>、難民選択の政治性、恣意性？</p><br><p style="margin-bottom: 0cm">　日本はなぜミャンマーを選んだのか？—俺は知らんし興味有り。なぜブータン内のネパール系や中国のウイグル系民族ではないのか？ブータンは見かけ以上にしたたかな国で実際少数民族を弾圧しているようだ。ブータン難民の存在について及び最近のアメリカの第三国定住受け入れなど、。<font face="Times New Roman, serif"><a href="http://www.unhcr.or.jp/html/2011/08/ws110817.html">http://www.unhcr.or.jp/html/2011/08/ws110817.html</a></font></p><br><p style="margin-bottom: 0cm"><font face="Times New Roman, serif">4)</font>、日本の国内避難民との兼ね合い。</p><br><p style="margin-bottom: 0cm">　福島はじめ東日本大震災の国内避難民との兼ね合い。国内で苦労している国民が存在するのに、難民の受け入れはできないという声。難民が国内避難民よりも高い質の生活を享受する恐れがあり国家の正統性に関わるとの主張にどう答えるか？(確か、タイ政府がよく持ち出す論拠)<br>　これは第三国定住だけでなく難民問題全体に関するが、震災ゆえに例えば今後<font face="Times New Roman, serif">5</font>年間は受け入れないと政府が発表した場合、どのように反論出来るか、どのような反応が国際的になされるか？これが仮に「仕方ない」といわれるならば、では長引く経済低迷による受け入れ数の減少停止はどうなのか？自然災害による受け入れ難から経済停滞による受け入れ難のどこで線引きが出来るのかと問うていける。</p><br><p style="margin-bottom: 0cm">（個人的に難民といえば、北朝鮮崩壊もしくは中国の民主化に伴う騒乱で大量の難民が日本に押し寄せる可能性がある点が興味ある。これにいかにどういう基準で対処するのかってのも興味あるけど…本筋とは無関係(笑)）<br></p><br><p style="margin-bottom: 0cm">参考文献</p><br><p style="margin-bottom: 0cm"><font face="Times New Roman, serif"><a href="http://www.japanforunhcr.org/act/a_asia_nepal_01.html">http://www.japanforunhcr.org/act/a_asia_nepal_01.html</a></font></p><br><p style="margin-bottom: 0cm"><font face="Times New Roman, serif"><a href="http://www.ne.jp/asahi/jun/icons/bhutan/">http://www.ne.jp/asahi/jun/icons/bhutan/</a></font></p><br><p style="margin-bottom: 0cm"><br><br></p><br><p style="margin-bottom: 0cm">☆久しぶりに難民考えました…</p></span><p style="margin-bottom: 0cm"><br></p><br><p style="margin-bottom: 0cm"></p><p style="margin-bottom: 0cm"><br><br></p><br>
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<link>https://ameblo.jp/toratora-hiha/entry-11090374186.html</link>
<pubDate>Sun, 27 Nov 2011 01:25:38 +0900</pubDate>
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<title>米韓FTAとTPPの構図—「砲艦外交」の新価は同盟国にこそ有効</title>
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<![CDATA[ <font size="2">＜国益って難しいね…＞<br>　現代ほど国益を定義しにくい時代はないだろう。企業の国境を越えた活動が盛んになり、日本の問題は世界にも多くの影響を与えざるを得ない。国内問題と国際問題の境界が非常に曖昧になった。しかし、そんな時代だからこそ、私は国家の存在価値について原理原則に戻らざるを得ないと思う。それは自国民の生命財産を守るということであり自国で領土を保守保全する気概を有することだ。<br>　<br>　日本を代表する多国籍企業たるTOYOTAも現地生産が6割を超えており、どれだけ日本の雇用に資す存在であるのかは、もはやはっきりしない。逆に外国資本日本法人であっても法人税を納め、日本人の雇用に資する企業や日本の技術革新を助ける企業であれば、国家はその企業を守ることを通して自国民の福祉を向上することが可能であろう。しかし、外資系企業は、あくまで外国国家の管理のもと、もっというなら国家という政治権力に服従する限りで活動を認められるべきだと思う。しかし、ISD条項はこの原則を危機に晒しうる。このISD条項は米韓FTAにおいて(しかも片務的)に書き込まれたしまった。そこで、これから数回は米韓FTAがなぜ重要かと、ISD条項がいかなるものか説明したい。　<br><br>＜米韓FTAの存在意味＞<br>　オバマ政権にとって雇用を回復するのは政権公約でもあり、二期目を目指す上で最重要課題だ(日本政府にもこれくらいの危機意識を有してもらいたい…)。米韓FTAも一般教書演説でみられたように、７万人の雇用を生むと謳われている(その多くは韓国の雇用から穫った分になろう)。http://www.huffingtonpost.com/2011/01/25/obama-state-of-the-union-_1_n_813478.html<br><br>　<font color="#00BFFF">To help businesses sell more products abroad, we set a goal of doubling our exports by 2014 -- because the more we export, the more jobs we create here at home. Already, our exports are up. Recently, we signed agreements with India and China that will support more than 250,000 jobs here in the United States. And last month, we finalized a trade agreement with South Korea that will support at least 70,000 American jobs. This agreement has unprecedented support from business and labor, Democrats and Republicans -- and I ask this Congress to pass it as soon as possible.</font> <br><br>　私自身この協定が結ばれたこと自体が驚きであった。なぜなら、今の米国マインドは非常に歴史的にも保護主義に回帰しており、上院の構成は民-53､共-47であり決してオバマ政権の議会運営も楽ではない。成果を出さねば批准自体も危うかった、逆に言うとそれだけ内容が米国有利で各圧力団体の影響を受けた議員の説得に資するものだったとも言えると勘ぐってしまう(何対何で批准されたかは未確認です)。<br>　ではどのようなことを成果として誇っているのだろうか？以下、USTRのブリーフから重要個所を訳をしてみた。(拙しご免ね)<br>http://www.ustr.gov/trade-agreements/free-trade-agreements/korus-fta<br>　<br>•韓国政府の関税撤廃と韓国製品における関税率割当の廃止だけで、年100億ドルから120億ドルGDPにプラスされ、およそ100億ドル相当、韓国への輸出が増えることが予想される。<br><br>•このFTAが発効すると、95％の産品が5年以内に関税撤廃、残りの5％の産品は10年以内に撤廃される。農産品に関して、購買力ベースでほぼ2/3の米国から韓国への輸出品が発効により即時関税撤廃。サービス分野に関し、FTAは意味ある韓国市場へのアクセス―より広くより確固とした国際配送サービス(？)へのアクセスと<font color="#00BFFF">国際法務コンサル業務の韓国市場を開放を含む、実質上全ての主要サービス領域</font>にまたがった―を提供。<br><br>•<font color="#00BFFF">金融分野に関し、FTAは韓国市場へのアクセスを増し米国の金融サービス供給者のより大きな透明性と公平な処遇を確保する。FTAは広範囲にわたる非関税障壁を取り扱い、また競争政策、労働、環境、透明性そして規制政策の適正な法手続きについての協力な条項を含む</font>。<br><br>•北アジアにおける米国のはじめてのFTAであり、<font color="#00BFFF">残りの地域におけるモデルとなるFTAで、アジア太平洋における米国の関与を強化する</font>。<br><br>　はっきりとは分からないし「直ちには韓国社会の健康に影響はない」だろうが、相当市場開放させられた感じは受ける。まず、サービス分野において法務コンサル業への米国法律家のアクセスが考えられそうだ。露骨に訴訟社会を持ち込もうとする点が伺い知れる。脱線するが、この点、小泉改革の司法改革として、毎年３千人の法律家を生むことを目指した法科大学院の無惨な失敗を受け、国会仕分けが進んでいる点は評価出来ると思う。米国のような訴訟社会は日本には根付かない。日本の法律家が少ないことは日本の社会的要請に照らして判断されるべきで(例えば地方には法律家が極端に少ないことは是正されるべき)、グローバルスタンダードに合わせる必要はない。その一方で日本人のリーガルマインドへの無知は問題で、政治的裁判(顕著なのは古くは田中角栄、小泉政権下の鈴木宗男氏、現在の小沢裁判など米国に疎んじられた存在)が有能な政治家を抹殺していることに加担している。誰にメリットがあるのか自覚して欲しい。<br>　金融分野…OMG！！分かる人には分かるだろう。「公平な処遇の原則」は非常に厄介なものである。このことは米NZ自由貿易協定が参考になる。更に、非関税障壁、競争政策、透明性と続く。これは簡単に言うと、米国資本の自由な競争を認めないような国家政策は認めないということだ。この点は次回以降述べたい。<br><br>＜米韓FTAがベースになるのか？＞<br>　最後の個所が一番ひっかかる。即ち、米韓FTAが残りのアジア太平洋におけるモデルになるという。これは日米FTAことTPPに関わることだ。現在TPP交渉として何が話し合われているのか未だに不明だが、一つの焦点としてTPPの土台とすべきはP－4であるのか否かが問題である。P-4自体はさほど先進的なものとはいえなず、USTRはサービス分野や政府調達、非関税障壁を持ち込むべく完全にゼロから全く新しいものを作ることを提案しているようだ。(『異常な契約』)<br>　<br>　仮に、米韓FTAをベースとするならば日本人は韓国社会が終わったなどと喜ばずに、米韓FTAがどういう類いのも条項か、何をきっかけに進んだのか見極める必要がある。私の認識では米韓FTAは現代的な砲艦外交による不平等条約である。おおまかな内容に関しては、三橋貴明氏のブログや、中野剛志氏の記事を参照あれ。それが、今日的な不平等条約であることはどうやら確かなようだ。<br>http://diamond.jp/articles/-/14540<br><br>＜どうして不利な米韓FTAを締結したのか？＞<br>　以前も述べたが、貿易協定は経済学者が考えるような純粋無垢な経済問題ではなく軍事政治的なものだ(そもそも経済学が前提とする比較優位は完全雇用時を前提とするのでかなり制約が多い)。この点の認識を、斎藤隆夫氏の第77回帝国議会、反軍演説をもとに確認しよう(中野剛志氏の演説の際に用いられた個所の少し前です)<br>　<br>　「…<font color="#00BFFF">即ち人間の慾望には限りがない、民族の慾望にも限りがない。国家の慾望にも限りがない。屈したるものは伸びんとする。伸びたるものはさらに伸びんとする</font>。ここに国家競争が激化するのであります。なおこれを疑う者があるならば、さらに遡って過去数千年の歴史を見ましょう。世界の歴史は全く戦争の歴史である。現在世界の歴史から、戦争を取り除いたならば、残る何物があるか。そうしてーたび戦争が起こりましたならば、もはや問題は正邪曲直の争いではない。是非善悪の争いではない。徹頭徹尾力の争いであります。強弱の争いである。強者が弱者を征服する、これが戦争である。正義が不正義を贋懲する、これが戦争という意味でない…<font color="#00BFFF">国家競争は道理の競争ではない。正邪曲直の競争でもない。徹頭徹尾力の競争である。世にそうでないと言う者があるならばそれは偽りであります、偽善であります。我々は偽善を排斥する。あくまで偽善を排斥してもって国家競争の真髄を掴まねばならぬ。国家競争の真髄は何であるか。日く生存競争である。優勝劣敗である。適者生存である。適者即ち強者の生存であります。</font>強者が興って弱者が亡びる。過去数千年の歴史はそれである。未来永遠の歴史もまたそれでなくてはならないのであります。<br><br>　時代的にもやや社会ダーウィニズムがかかっている点は致し方ないが、<font color="#00BFFF">私が言いたいのは、自民族優位の軍事力行使の是認ということではなく、経済競争は国家競争、すなわち国家の自己保存をかけた軍事政治的な問題の延長線にあるということである。</font>国家というのは自らの自己保存のためには手段として戦争をも惜しまない。しかし、現代は戦争の「違法化」の流れがあり、軍事力行使は国際的マンデートなしには、反発を食らい行使するのあまりにもコストがかかる。だから、斎藤氏の演説には補足が必要で、正義を語る言葉は有効である。それは現代ならば、(形式的)自由であり、経済政策に関する限り実質的には新自由主義だ。今日、強者は「自由貿易／市場競争」を語り、軍事力をちらつかせつつ、相手国の市場をこじ開け経済的利益を収奪する方法に変わって来た。だからこそ、軍事政治力は経済問題に宿ると考える。<br>　<br>　<font color="#EE82EE"><font size="3">そして冷戦が終わり、経済的に(米中)相互依存した現在、砲艦外交の新価は敵について有効なのではなく、味方や同盟国にこそ有効であることがはっきりした。それゆえ潜在敵、同盟国関係なく、バランスのよい対中国、米国観が必要だ。目を覚まそう。米国は経済的に中国を封じ込めえない。いたずらな中国脅威論がだれに都合が良いか考えよう。日本を間に挟み、米中が後ろで握手する姿が見え隠れしないだろうか</font></font><br>　<br>　では私が米国のアジアにおける本質的戦略だと思うものを、簡単な言葉で内田樹氏に語ってもらろう。非アメリカ専門家だからこそいえることがある。<br>　<br><font color="#00BFFF">　「アメリカが日本に期待しているのは他の東アジアの国々と信頼関係が築けず、外交的軍事的につにね不安を抱えているせいで、アメリカにしがみつくしかない国であり続けることである。アメリカに依存することでしか生きられない程度に弱く、アメリカの世界戦略の支持者として有効である程度に強い国という徹底的に中途半端な立ち位置をアメリカは日本に望んでいる。日本は強くなってもならないし、弱くなってもならない。アメリカにしてみれば「すっきり」したこの外交的要求は、しかし日本人からは意味不明の呪いのように思えるのである。」</font>(『街場のアメリカ論』p25)<br><br><br>　標準的(つまり米国で学んだか、米国の解釈を説明するしか能のない)国際政治学者の解釈を説明しよう。そこでは現在の日本は米国に従うしかないという構造がある。流れで確認しよう。<br><br><font color="#00BFFF">前提条件；中国の国力増加＋米国、日本の国力が相対的に低下している<br>→日本だけでは中国には太刀打ち出来ないので、米国に軍事的に依存せざるえない<br>→でも米国は経済的に困窮しているため、自国優先になり有事を負担に思い日米同盟が機能しない場合、「捨てられる恐れ」がある<br>→捨てられないように米国の意向に従うことで米国にとっての利用価値を高めよう<br>→だからTPPに加わり経済的に結びつけ、米国の投資がたくさん入れよう。そうすることで日本への侵略＝米国資本への侵略と言う構造ができる。(そのためには「多少」の犠牲は仕方ない)<br>→これによって有事の際、米国資本を守るため日本を助けざるを得ない＝「捨てられる恐れ」は減る。<br>(だからTPPに日本が参加すれば、対中包囲網として間違いない)</font><br><br><br>　この「捨てられる恐れ」の図式が、米韓FTAで韓国にも当てはまることがはっきりした。上記の流れの中で中国を北朝鮮に、日本を韓国に置き換えれば分かりやすい。米韓FTAが2007年6月に仮締約されたが両国で批准されることなく放置された3年半後の2010年12月、なぜ動き出し締結されたのか？その間に対北朝鮮問題で何があったのか？<br>　<br>　そう、2010年3月には哨戒艦チョナン沈没事件発生した。2010年11月には北朝鮮はロスアラモス核研究所元所長のヘッカー博士、プリチャード元北朝鮮特使らを平壌へ招待。平安北道寧辺のウラン濃縮施設を見せ2000基の遠心分離機が稼働していると主張している。さらに同年11月、延坪島砲撃事件発生、民間人に犠牲者が出ている。これらの事件が韓国における米国の存在価値を高めた。米国の「抑止」がより必要と考えられ、その後米韓合同軍事演習を米国の負った。その後FTA交渉は猛スピードで再開、新たな協定が仮締結された。つまり、米国に軍事的に依存する弱みが経済交渉での譲歩を引き出させたのだ。<br><br><font color="#00BFFF">前提条件；北朝鮮の暴走、崩壊真近か!?米国の経済衰退<br>→韓国だけでは北朝鮮崩壊過程で生じる問題(ミサイルやらの暴発)に対処出来ない。ゆえ米国に軍事的に依存せざるえない<br>→でも米国は経済的に困窮しているため、自国優先になり有事を負担に思い米韓同盟が機能しない場合、「捨てられる恐れ」がある<br>→捨てられないように米国の意向に従うことで米国にとっての利用価値を高めよう<br>→だから米韓FTAに加わり経済的に結びつけば、米国の投資がたくさん入り韓国への侵略＝米国資本への危機と言う構造ができる。(そのためには「多少」の犠牲は仕方ない)<br>→これによって韓国が襲われても米国が助けてくれる＝「捨てられる恐れ」は減る。</font><br><br>　この図式はそのまま、TPPに当てはまる。2010年10月菅首相が交渉参加を表明したが、日本がなぜこの時期に参加表明をしたかについては、中国との2010年９月7日尖閣事案が民主党政権の対中国への選好を180°変えた。事案は、最終的に前原国交相(当時)が米国に赴き「尖閣は日米同盟の適用内」とのことばを引き出す事で一応の決着がついた。しかし、これは明らかに米国に対する「借し」を作っており、その後、TPP参加は自己目的化している。<br>　<br>　<font color="#00BFFF">ようするに軍事的に日本も韓国も軍事的に潜在敵を抱え、それへの対処に自国だけでは不可能なのだ。その点、「有事」に際し米国が合同軍事演習など軍事的関与をすることで巧く立ち回り、両国から最大限の経済的利益を引き出そうとしているといえる。日本や韓国が近隣周辺国と問題を抱えていることは米国に大変都合が良いことは記憶にとどめられるべき。</font>(もっともだからわざと関係がこじれるように策略しているかまでは正直不明…日本の外交が拙く、外務省が米国の意向を勝手に忖度していることが多い。)<br>　<br>　<font color="#EE82EE"><font size="3">そもそもだ。自国の領土は自国で守ることが前提である。これはTPP参加以前の問題である。日本は国境管理すらろくにできないのが現状で、そこを米国につけ込まれているのだ。そんな国が、最強の国で安全保障を依存する国に対して、外交交渉において自国に有利な経済的ルールを作るというのだから主客倒置だ。そんなことは出来るはずがない。そんな交渉は守備機会しかない野球で、勝とうというようなものだ。<br>　国家の自己保存としての国境管理、領土保全のための最低限度の予算を海上保安庁に付けるなり、出来ることをしてから交渉に参加するのが国家生存のための前提だ。TPP云々はそれからでも十分間に合う。</font></font><br>　<br>　TPPについて参加国全体GDPうちの20%のGDPを占める日本は、米国を除いてどの国よりも貿易依存度が低く、その分市場が大きい。輸出する程度に大きい市場は日本以外になく、TPPを用いて輸出を伸ばすには日本を参加させて市場を開放させるより他ない。よってかなり注意が必要で、米国は日本の市場—特に米国が強みを有する、保険、金融、サービス業務—をこじ開けにかかっていると見て間違いない。<br><br><br>はあっ…疲れた…次こそはISD条項がどういう影響を与えるか分かりやすく説明したい。</font><br><br>参考文献<br>日本が「捨てられる恐れ」というマインドを有していることに関して<br>川上高司「中国の台頭と日米同盟」…先生の授業とってました。<br>http://www.takashi-kawakami.com/paper-up/Paper0128.pdf
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<link>https://ameblo.jp/toratora-hiha/entry-11087843641.html</link>
<pubDate>Thu, 24 Nov 2011 14:02:19 +0900</pubDate>
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<title>荒れる韓国議会-米韓FTAと論争的な毒素条項、TPP</title>
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<![CDATA[ <font size="2">＜荒れる韓国議会＞<br>　韓国議会が荒れてますね。与党ハンナラ党が強行採決をしようとしたところ、野党勢力が催眠性の粉をまいて大混乱したというのがニュースでありました。<br>http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2011112302000026.html<br><br>　なぜ、これほどもめるのか。それは、韓国の李大統領がオバマ政権と結んだ米韓FTAの内容が余りに主権侵害的であるからだろうと思います。日本のメディアはこぞって農業支持者が反対していると主張しますが、市民団体が怒っている理由を説明出来ません。保革共闘で、主権を守るために抗議をしているというのが正確なところです。<br>　<br>　この点は日本のTPP参加交渉問題に関しても同じで、農業は一部の問題です。反TPP勢力として農協を押し出すのがメディア報道の典型ですが、反TPP勢力の戦略としてこれはまずい—既得権益保守のイメージがあるし事実だから。反TPPデモをやる際にも反中、反韓や反原発を結びつけるのはダメです。焦点を絞ってやるべきでしょう。「俺らに参加させろ、主権在民、選挙、国民投票を求む」がいいフレーズでイデオロギー超えないと参加者増えず圧力にはなりません。<br>　<br>　この点、日本のデモは国家管理型の提灯行列です。ですから制度内行動であり、私の定義ではデモではありません。すこし言わせていただくと、デモは本質的に制度外行動であると思います。暴力を是認する分けではないですが、政権に脅威、威嚇を与えねばならない。最悪、逮捕されます。それはオキュパイ•ウォールストリートをご覧の通り。制度外の社会運動をいかに制度内に取り込めるか—つまり政権や政党が意を汲んで選好を変えるか—これこそ民主主義の成熟度が試される問題であると思います。だから米国の民主主義は試されています。是非、日本の反TPP勢力は米国のOccupy Wallstreetと連帯し、日本の政治家、官僚に圧力をかけ、経済界、メディア、広告代理店などを牽制すべきです。<br><br>＜米韓FTAの内容＞<br>　いやそんなことはどうでもよろしおす。米韓FTAの内容です。それが実に膨大であり、私自身これから読むところです。でもはっきり言って専門分野が多岐に渡りすぎていて、自分の狭い知識では賄いきれないでしょう…ポテチン<img src="https://emoji.ameba.jp/img/user/so/softball-0501/3610905.gif" alt="泣" border="0">(以下USTRのHRからリソースを挙げておきます。)<br>http://www.ustr.gov/trade-agreements/free-trade-agreements/korus-fta/final-text<br><br>　ここで、問題に挙げられている論争的な条項について、程よくまとまった記事を転載の転載から引用しちゃいます。(大元のリソースは有料記事日経BPで、お金のない学生の私にはみたくてもみられない「大人の世界」ですので、それを三橋貴明ブログから引っ張ります。こういう行為も米韓FTAでは厳格に著作権違反になるサイト閉鎖かもです…http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/）<br><br>引用開始名なり～<br>「『FTA政策に見る日韓の温度差　「同盟」強化のために毒素条項を飲むのか？ <br>http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20101213/217516/?P=3  （前略）ネットで討論が繰り広げられている「毒素条項」に関してまとめると、以下のようになる。<br><br> <font size="3">1）サービス市場開放のNegative list：サービス市場を全面的に開放する。例外的に禁止する品目だけを明記する。  <br><br>2）Ratchet条項：一度規制を緩和するとどんなことがあっても元に戻せない、狂牛病が発生しても牛肉の輸入を中断できない。  <br><br>3）Future most-favored-nation treatment：未来最恵国待遇：今後、韓国が他の国とFTAを締結した場合、その条件が米国に対する条件よりも有利な場合は、米にも同じ条件を適用する。  <br><br>4）Snap-back：自動車分野で韓国が協定に違反した場合、または米国製自動車の販売・流通に深刻な影響を及ぼすと米企業が判断した場合、米の自動車輸入関税2.5%撤廃を無効にする。<br><br> 5）ISD：Investor-State Dispute Settlement。韓国に投資した企業が、韓国の政策によって損害を被った場合、世界銀行傘下の国際投資紛争仲裁センターに提訴できる。韓国で裁判は行わない。韓国にだけ適用。<br><br>6）Non-Violation Complaint：米国企業が期待した利益を得られなかった場合、韓国がFTAに違反していなくても、米国政府が米国企業の代わりに、国際機関に対して韓国を提訴できる。例えば米の民間医療保険会社が「韓国の公共制度である国民医療保険のせいで営業がうまくいかない」として、米国政府に対し韓国を提訴するよう求める可能性がある。韓米FTAに反対する人たちはこれが乱用されるのではないかと恐れている。  <br><br>7）韓国政府が規制の必要性を立証できない場合は、市場開放のための追加措置を取る必要が生じる。<br><br> 8）米企業・米国人に対しては、韓国の法律より韓米FTAを優先適用 　例えば牛肉の場合、韓国では食用にできない部位を、米国法は加工用食肉として認めている。FTAが優先されると、そういった部位も輸入しなければならなくなる。また韓国法は、公共企業や放送局といった基幹となる企業において、外国人の持分を制限している。FTAが優先されると、韓国の全企業が外国人持分制限を撤廃する必要がある。外国人または外国企業の持分制限率は事業分野ごとに異なる。  <br><br>9）知的財産権を米が直接規制 　例えば米国企業が、韓国のWEBサイトを閉鎖することができるようになる。韓国では現在、非営利目的で映画のレビューを書くためであれば、映画シーンのキャプチャー画像を1～2枚載せても、誰も文句を言わない。しかし、米国から見るとこれは著作権違反。このため、その掲示物い対して訴訟が始まれば、サイト閉鎖に追い込まれることが十分ありえる。非営利目的のBlogやSNSであっても、転載などで訴訟が多発する可能性あり。<br><br>10）公企業の民営化  　ほかにも、いろいろな毒素条項がある。</font> （後略）』<br><br>　趙 章恩氏が昨年１２月に日経BOで披露した上記の「毒素条項」のうち、どこまでが今回の米韓FTAに残っているのかは、今後、調査を進めていきたいと思いますが、恐らくかなり残っているのではないかと。理由は、報道機関が全く上記の「サービス」「投資」関連の条項について報道しないためです。アメリカ側からしてみれば、「いつの間にか入っていた」がベストなわけです」(引用の引用終わり。)<br><br>→まあ、正直逐一—なんでやねんっ！っと—突っ込みたくなるような条項の数々で恐いですね。実際のところこれらがどの程度反映されたのか分かりませんし、どのような影響を与えるのかも分からない…だからこそ韓国社会を様子見するのが正しい判断だと思いますがいかかでしょうか。<br><br>　<font color="#9370DB"><font size="3">そもそも国際法、条約や国際協定が何のために締結するか原理原則を述べますと。その一つは予測可能性です。つまり紛争—今までだったら露骨に力関係を明らかにする戦争—を予見可能に、制度、法律的に秩序だって解決しましょう。それによって相手の出方が分かり、信頼が生まれますね、ってことです。でもここで疑問が。。米韓FTAは全く予見可能ちゃうがなっと…</font></font>一つは専門的過ぎるという理由。これはまあ、時代。避けられないけど、だからこそ、国家の本質や企業、投資について根本にもどって考えざるを得ない。もうひとつは透明性の欠如。これについてはTPPが顕著です。(入ってみないと分からないですし、以前述べましたが交渉参加すれば「心理的に」抜けれないでしょう。それについては記事も見つけました。中野剛志先生のです。http://diamond.jp/articles/-/14341)<br><br>＜主張させて＞<br>　<font size="3"><font color="#00BFFF">不透明で分からない問題はどうすべきでしょうか。バスで例えると、行き先を確認し、どのバスが目的地へ行くのに都合がよいかを見定めなければいけません。時刻表もしっかり確認しないとね。しかし今の推進派の議論は全くおかしい。所持金も確かめずに、まず乗ってみよと。そして行き先を見定めよと。そして違っていたら降りればいいと言うようなものです。お金足りなかったらどうすんの？</font></font>ここで疲れたので、自分の主張をねじ込みます。私の立場は直ちに参加交渉すべきでないというものです。TPPの内容、条項に踏み込まずにいうと、その理由は…<br><br>①、外交交渉も民主的統制を受けるべきであるが、それが迂回されているということ。このままでは禍根を残す。「正当」なプロセスを経て—つまり選挙か、国民投票レベルの国民参加—で「正統」な政権、民の支持や付託を得た政権がやるべきこと。グローバリゼーションの論理、迅速性、効率性の要求は国内政治と調和的であるべき。国内の統一的支持がないと国内の乱れをつかれ、まともな交渉が出来ないこと。交渉を停滞させたといわれなき国際的批判を食らうこと—ドーハラウンドのインドの事例。<br><br>②、現行の豪米FTAや米韓FTAは部分的に明らかになっているとはいえ、明らかに不透明で閉鎖的。生じた問題点を時間をかけて洗い出し、TPP交渉の中身や影響を受けた国や分野—特にサービス分野と社会政策の関係—を研究し、国内で議論を喚起すること。<br><br>③、それまではASEAN+6を推して茶を濁すこと。米国には国内的にまとまらないから交渉を延ばしてしまう。それは米国にも良くないでしょう、と言ってやればいい。もしくは、憲法上問題がある可能性があると…米国の海外派兵要請を9条を盾にごねたように。こっちから彼らの意向を忖度するから話がややこしくする。江戸時代の農民の知恵、強者にはバカなフリをして、その間に戦略を考えよう(笑)。<br>　<br>　仮にデフレ脱却や農業、医療、多岐に渡る対策を経て入るにしても、日本が米中間でキャスチングボードを握れるぐらい最大限日本の価値を引き出すタイミングで行ない、米国やその他アジアに日本を高く売ること。現在の参加交渉は拙速すぎて到底受け入れられない。参加は3～5年ぐらいのスパンで考え、それまでTPP参加のための問題点をたねに国内改革ー特に農業と農協—を行ない日本の基礎体力を回復し一致団結でことにあたるべし。<br><font size="2"></font><br>　次回は米韓FTAの意味とISD条項について。。。</font>
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<link>https://ameblo.jp/toratora-hiha/entry-11086772857.html</link>
<pubDate>Wed, 23 Nov 2011 12:02:31 +0900</pubDate>
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