<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>touteizuihitsuのブログ</title>
<link>https://ameblo.jp/touteizuihitsu/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/touteizuihitsu/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>ブログの説明を入力します。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>東汀随筆：喜舎場朝賢＝正編＝現代語訳＝第二回の第三</title>
<description>
<![CDATA[ <p>第三　神道記ノ事</p><p>&nbsp;</p><p>古ニ神道記ト曰ク一巻アリ　日本僧袋中ナル者ガ著セル所ナリ　其序文ニ法司馬幸明ノ属スル所ニ因テ録ス、時ニ尚寧王十七年乙巳ナリト言フ　編ク伝記ヲ考フルニ馬幸明ト曰フ法司ナシ　恐クハ是レ法名ナラン　予未タ曾テ其全文ヲ見スト雖モ　其略抄シタルモノヲ見タリ　事故荒唐シ言詞腐爛シ大卒巫覡ノ妄誕閭閻ノ俚語ヲ採集シ　接スルニ己レカ憶度ヲ以テス　其国土開闢ノ由来ヲ記シテ言フ　当国ノ未タ人ヲ生セサルニ　男女二人天ヨリ降リ　男名ハシ子リキユト言ヒ　女名ハアヤミキユト言フ　島国尚ホ至少ニシテ海ニ浮ヒ波ニ漂フ　タシカ（木名）ヲ植ヘテ山ヲ作リ、シキユ（草名）アタン（木名）ヲ植ヘテ国ヲ作ル　二人屋ヲ並ヘテ楼居ス　未タ陰陽和合ナシト雖　往来ノ風ヲ縁トシテ遂ニ三男二女ヲ産ス、長男ハ国王ト為ル天孫氏ノ始メナリ　次男ハ按司ト為ル、各那按司ノ始メナリ　三男ハ百姓ト為ル都郡邑百姓ノ始メナリ　長女ハ主部ノ始メナリ　次女ハ巫祝ノ始メナリト　向象賢カ著セル中山世鑑ニ記セラル、二大同小異セリ</p><p>&nbsp;</p><p>第三　琉球神道記（りゅうきゅうしんとうき）のこと</p><p>&nbsp;</p><p>古い書物に「琉球神道記」という本があります。日本本土の僧侶・袋中（たいちゅう）という人が著しました。その序文で、三司官・馬幸明のもとで書いたとあります。時代は、尚寧（しょうねい）王十七年、乙巳（きのとみ）だそうです。いろいろ調べましたが、馬幸明という三司官はいません。たぶん、法名のようです。私はいままで、この本の全文を読んだことはありませんが、省略したものは読みました。まことに荒唐無稽で、文章も腐敗しています。言語道断というべきで、巫女（みこ）の妄想・妄言のような言い伝えを集めています。自分の憶測でもって、あれこれとつじつまを合わせています。その天地開闢（てんちかいびゃく）の由来は以下の通りです。まだ人類が生まれない前に、男女二人が天から下りて来ました。男の名は「シネリキユ」、女の名は「アマミキユ」と言います。琉球は小さな島国で、海に浮かび波に漂っています。タシカ（木の名前）を植えて山を作り、シキユ（草の名前）・阿旦（あだん）を植えて国を作りました。二人は屋根を並べて住んでいました。まだ男女の性的な交わりというものがなかったので、表を吹く風を縁として、ついに三男・二女を産みました。長男は国王となりました。天孫氏の始まりです。次男は按司（あんじ）となりました。各地の按司の始まりです。三男は百姓になりました。都（みやこ）・間切（まぎり）・村（むら）の百姓の始まりです。長女は台所をあずかることになりました。次女は巫女（みこ）の初めです。向象賢（しょうしょうけん）が著した「中山世鑑（ちゅうざんせいかん）」にも同じようなことが書いてあり、二つの本は大同小異です。</p><p>&nbsp;</p><p>＠琉球王国の正史である「中山世鑑（ちゅうざんせいかん）」の冒頭の琉球開闢の神話は「琉球国神道記」の第五巻の「キンマモン事」の記述をもとに構築されたことが東恩納寛淳などの研究によって判明しています。日本の僧侶が書いた本なので、向象賢はそれなりに信用していたのでしょう。というよりもこのような荒唐無稽の本は琉球人にはとても書けないと思います。「中山世鑑」の編集目的が、琉球王家の正当性と、日本本土と琉球国の同一性にあったのですから、「琉球国神道記」は渡りに船だったのでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>＠日本の僧侶・袋中（たいちゅう）（１５５２年～１６３９年）は明へ渡航しようとして失敗し、琉球にたどり着きました。およそ三年間琉球に滞在して、「琉球国神道記」を著しました。琉球の天地開闢は「古事記」の日本神話とよく似ています。袋中は日本の神話や琉球の神話・説話などをもとに琉球開闢神話を創作したものと思われます。</p><p>&nbsp;</p><p>＠この章は、琉球の開闢神話を扱っています。現代のわれわれにはまことに荒唐無稽です。喜舎場朝賢もまったく同じ気持ちだったのではないでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>※尚寧王１７年は、１６０５年です。尚寧（しょうねい）王は、第７代の琉球国王で、この王の時に薩摩藩の侵攻がありました。「タシカ」は、和名を「シマミサオノキ」といいます。「ダシチャ」・「ダシキヤ」とも言います。「ダシキヤ」は「おもろさうし」にも登場する神聖な植物です。「シキユ」はどのような植物か特定されていません。「天孫氏」は２５代、約１万７８０２年続いたとされています。次の王統が「舜天王（しゅんてんおう）」です。「舜天王」は「源為朝」の子供であると、琉球王国の正史「中山世鑑」に記されています。この「中山世鑑」の記述をもとにして、曲亭馬琴（きょくていばきん）は「椿説弓張月（ちんせつゆみはりづき）」を書きました。沖縄県国頭郡今帰仁村上運天にある「源為朝公上陸之趾」は東郷平八郎の直筆です。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/touteizuihitsu/entry-12972270825.html</link>
<pubDate>Fri, 10 Jul 2026 09:09:12 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>東汀随筆：喜舎場朝賢＝正編＝現代語訳＝第二回の第二</title>
<description>
<![CDATA[ <p>第二　子ノ誕生ヲ川卸ト称スル事</p><p>&nbsp;</p><p>国人子供誕生ノ祝儀ヲ川卸リ祝儀ト言フ　昔ハ我国時ナク、神アリテ出現シ、諾遊セラル　其諾遊ハ必ス婦女ニ付着セラルヲ例ト為ス　是ヲ以テ婦女貴トナク賤トナク生産スレバ　則チ川ニ卸リテ汚穢ヲ濯ヒ去ラス　上王妃ヨリ下辺士百姓ノ婦女ニ至ル迠皆然ラサルハナシ　否ラサルトキハ必ス神罰ヲ受クト言フ　其遺風今尚久高島ニ残テ居ル　島民ノ婦女生産スレハ則チ海ニ卸リテ沐浴ス　今迠猶然リ　中古以来川ニ卸リテ沐スルヲ廃止シタリト雖　今猶川卸リト称スルハ右ノ称呼ニ因ルモノナリ、且亦本国ノ婦女生産スル毎ニ必ス座中ニ地炉ヲ設ケテ　木炭或ハ薪木ヲ燃シテ身ヲ温ムルコト昼夜九日ナリ　是レハ他国其風習ナシ独リ当国ノミノ特有風ナレハ　川ニ浴シテ寒気ニ感スルヲ防クヲ以テ習慣トナルモノナラン　後世川ニ浴スルヲ廃止スト雖モ　地炉ニ身ヲ温ムルヲ改メサルハ往古ノ習慣ニ因ルモノナラン、廃藩以降地炉ニ温ムルヲ廃シ之レニ替ルニ医師ノ煎薬ヲ以テスルモノ多シ</p><p>&nbsp;</p><p>第二　子供の誕生を「川下（かあう）りい」と言うこと</p><p>&nbsp;</p><p>琉球国の人たちは、子供の誕生祝いを、「川下（かあう）りい」と言います。はるか昔、琉球国には、時間がなく、神が出現しました。この世を良しとされました。この良きことは必ず女の人に付着するのが例でした。それで、女の人は貴賤にかかわらず、出産すれば、川に下りて、けがれを洗い流しました。上は王妃から下は下級武士・百姓の妻にいたるまで、みんなそうでした。そうしなければ、神の罰を受けると言われていました。その風習はいまでも久高島に残っています。島の女の人たちは、出産すれば海に下りて沐浴します。いままでずっとそうでした。中古の時に、川に下りて沐浴するのを廃止しました。それでも今なお、「川下（かあう）りい」というのはそのような理由からです。そしてまた、琉球国の女の人たちは、出産するたびにかならず、部屋に地炉をもうけました。木炭あるいはたきぎを燃やして体を温めることが昼夜９日間続きます。このような風習は他国にはなく琉球国特有のものです。川で沐浴してさむけを感じたときの予防であった習慣が残ったものなのでしょう。後世、川で沐浴することが廃止になってあとも、地炉で体を温める風習が残っているのは昔の習慣によるものだと思います。琉球国の廃藩置県のあとは、地炉に温まる習慣も廃止になりました。これにかわって、医者がせんじ薬を処方することが多くなりました。</p><p>&nbsp;</p><p>＠この章はわかりにくいことが多いです。「川下（かあう）りい」というものを神話的に説明しようとしたものなのでしょうが、現代人には理解不能です。「諾遊セラル」は、たぶん「うべないあそばせらる」と読むのでしょう。聖書の創世記第一章四節の「神は良しとされました」を思い出させます。そもそも、現代においては出産は神聖で美しいもののようです。ところが昔はどうも反対のものだったようです。つまりけがれたものと見なされていたのでしょう。だから川に下りて体を清めたのでしょう。たまたま琉球国ではその風習が長く継続したのでしょう。時代が下るごとにその意味がわからなくなり、説明できる人がいなくなったのでしょう。したがってこれを合理的に説明することは不可能なのです。</p><p>&nbsp;</p><p>※「川下（かあう）りい」の「川（かあ）」は、もともと「川」のことではなく「井戸」あるいは「共同の水浴場」のことです。近くにそれがなければもちろん「川」でも大丈夫です。要するに琉球語の「かあ」は「水がある場所」のことです。沖縄には似たようなもので、「浜下（はまう）い」・「浜下（はまう）り」というものがあります。旧暦の３月３日に行われる春の年中行事です。本土の「ひな祭り」に相当するもので、女の子のすこやかな成長と健康を祈る節句です。女性たちが砂浜を踏み、手足を海水に浸すことで体にたまった災いやけがれをはらい清めます。「久高島（くだかじま）」は、沖縄本島南部、知念半島のおよそ５．５キロ沖にある島で、周囲約８キロの細長い島です。現在でも島全体が神聖な土地とされており、独自の文化やタブーが残り、「神の島」と呼ばれています。島にあるものはたとえどんなに小さなものでも島外への持ち出しは禁止されています。島での遊泳は禁止されています。禁止されている場所は神聖ですので絶対に入ってはいけません。「地炉（じいる）」はいわゆる「囲炉裏」のことです。</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/touteizuihitsu/entry-12972165190.html</link>
<pubDate>Thu, 09 Jul 2026 07:01:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>東汀随筆：喜舎場朝賢＝正編＝現代語訳＝第二回の第一</title>
<description>
<![CDATA[ <p>第一　尚貞王御学問濫觴ノ事</p><p>&nbsp;</p><p>我カ国王昔ヨリ未タ曾テ書ヲ読ミ玉ハズ其義二アリ　其一ハ王ハ人民ノ頭上ニ居テ至尊至大神様同様崇拝スベキモノニシテ　肯テ教ヘ上ルハ御無礼至極ナリト言フニアリ　其ニハ国王ハ睿明ノ御性質教ヘスシテ自ラ万事知リ玉フヘシ　此ノ上ニ学問ヲ加ヘラルトキハ　人民其下ニ立ツコト能ハズ言フニアリ　尚貞王始メテ僧侶頼慶ナル者ヲ徴シテ小学四書ヲ読ミ玉フ　是国王書ヲ読ムノ濫觴ナリトス　王世子尚純公久米村ノ鄭功良ヲ東宮ニ聘シテ学問セラレ　亦程順則名護親方ヲ師トシ玉フ　詩書ヲ善クシ玉フ　其書跡端正荘厳真ニ実愛スヘシ　御別号黙笑ト称ス、安国寺（紋門路傍ニアリ）ニ不動殿ト言フ扁額ヲ掛ケテアルヲ見テ知ルヘシ　尚益王モ亦程順則ヲ師トシ　尚敬王蔡温ヲ師トシ玉フコトハ世人ノ能ク知ル所ナリ、且亦尚真王時代迨ハ王妃ハ御　位国王御姉妹ノ下ニアリトシテ　御列座セラルトキ御姉妹ハ上席ナサレタリ　何トナレハ御姉妹ハ国王ノ御子ニテ当然ノ貴種　王妃ハ人臣ノ女ヨリ命セラレタルモノナレバナリトソ　之ヲ改メラレタルハ蓋具志川王子羽地王子具志頭親方等カ政体変革セラル時ニアルヘシ</p><p>&nbsp;</p><p>第一　尚貞（しょうていおう）の学問の始まり</p><p>&nbsp;</p><p>琉球国王は昔から、いまだかつてずっと本を読みませんでした。その理由は二つあります。一つは、国王は、人民の頂上にいて最も尊く、最も偉大であり、神様のように崇拝されるべき存在だからです。下の者が教えることは、きわめて無礼だからです。二つ目は、国王はもともと頭が賢いものであり、その性質上、教えなくても自分ですべてを知っているからです。その上に学問を加えようとするのは、人民そのものが下に立つことが出来ないからです。尚貞王が初めて頼慶（らいけい）という僧侶を招いて小学・四書を読みました。これが国王が本を読むことの始まりでした。次の国王となる尚純（しょうじゅん）王子は、久米村の鄭功良（ていこうりょう）を中城御殿（なかぐすくうどぅん）に招いて学問をしました。また、程順則（ていじゅんそく）名護親方（なごうぇえかた）を師としました。多くの書を読みました。その書跡は端正にして荘厳、まことに愛すべきものでした。別号を黙笑（もくしょう）と言いました。安国寺（守礼門のそば）の不動殿という所に掛けてある扁額を見ればそれがよくわかります。尚益（しょうえき）王もまた、程順則を師としました。尚敬（しょうけい）王が、蔡温（さいおん）を師としたことは、世間の人々がよく知るところです。そしてまた、尚真（しょうしん）王の時代にさかのぼると、王妃は国王の姉妹の下にありました。列座するときには、姉妹は王妃の上席にありました。なぜならば、姉妹は国王の子供であり、当然の事として王妃より貴いと考えられたからです。王妃は臣下の娘から選ばれたものだからです。これを改めたのは、具志川王子・羽地王子・具志頭親方などが政体を変革した時からです。</p><p>&nbsp;</p><p>※尚貞王は、第１１代の琉球国王、（在位１６６９年～１７０９年）。「小学」とは、儒教における子供向けの道徳教科書。「四書」とは、「論語」・「孟子」・「大学」・「中庸」のこと。尚純は尚貞王の長男（１６６０年～１７０７年）、王位を継承する前に４７歳で亡くなりました。「久米村」は渡来系中国人の居住地域。「鄭巧良」については不明。琉球王国の国王の跡継ぎを「中城王子（なかぐすくおうじ）」と言い、その邸宅を「中城御殿（なかぐすくうどぅん）」と言います。廃藩置県後は尚家の本邸として使用されました。戦災で焼失、戦後バスターミナルをへて１９６６年～２００６年までは「沖縄県立博物館」がありました。現在は、再建・復興作業が進められているそうです。「程順則（ていじゅんそく）」名護親方（うぇえかた）は、沖縄では高名な政治家であり、学者です。彼が中国から持ち帰った「六諭衍義（りくゆえんぎ）」は薩摩藩を経由して江戸幕府の八代将軍・徳川吉宗に献上され、その後和訳されて全国の寺小屋の教科書となりました。なお、新井白石は程順則と会見したことがあり、その時の話をもとに白石は「南島志」を著しました。尚益王は、第１２代の琉球国王、（在位１７１０年～１７１２年）。尚敬王は、第１３代の琉球国王、（在位１７１３年～１７５１年）。蔡温は、琉球王国最高の政治家と言われています。日本名は具志頭親方（ぐしちゃんうぇえかた）文若（ぶんじゃく）です。尚真王は、第３代の琉球国王、（在位１４７７年～１５２７年）。具志川王子（ぐしかわおうじ）・羽地王子（はねじおうじ）・具志頭親方については、第一回の第七に見えます。</p><p>&nbsp;</p><p>※原文下から三行目の、「御」と「位」の間が空白になっています。これは敬意を表わすためのもので、「闕字（けつじ）」と呼ばれます。古文書や歴史的な漢文・公文書などに見られます。王妃はいまではこれほど敬われているのだと言いたいのでしょう。</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/touteizuihitsu/entry-12971976639.html</link>
<pubDate>Tue, 07 Jul 2026 08:38:55 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>東汀随筆：喜舎場朝賢＝正編＝現代語訳＝第一回の第二十二</title>
<description>
<![CDATA[ <p>第二十二　西洋軍艦国ニ来ル嚆矢ノ事</p><p>&nbsp;</p><p>今ヲ距ル七十九年前　尚灝王時代文化十三年西洋帆船二艘　突然覇港ニ来リテ停泊ス　之ヲ西洋人我国ニ来ルノ嚆矢ナリト言フニ　舶倶ニ多ク兵仗武器ヲ載セテ居ル蓋軍艦ナラン　言語文字倶ニ通セズ問答スルコト手様ヲ以テスルノミ　一日二舶交々大砲ヲ発スルコト霹靂ノ山ヲ裂クルカ如ク　朝ヨリ晩ニ至ル間断ナシ　那覇人等大ニ驚キ意外ノ戦争忽チ起リタリト為シ　老者ヲ扶持シ幼児ヲ提携シ東西近村ニ追レ匿ル　朝廷令ヲ下シテ不意ノ事変起ルトキハ円覚寺ノ巨鐘ヲ撃ツヘシ　一タビ巨鐘ノ声ヲ聞カハ　首里那覇ノ士族十五歳以上唐竹槍鎗ヲ持シ　護寺門前ノ平蕪二馳セ聚リ扞禦ヲ為スノ準備イタスヘシト言フ　既ニシテ何ニモ事ナシ　蓋祝砲ヲ発シタルナラン　西洋人等颶風大ニ起ルノ状ヲ手様シテ其日帆ヲ揚ケテ去ル　後四五日果シテ颶風大ニ起テ樹木ヲ倒シ稼穡ヲ傷フ　其損害枚挙スルニ遑アラス　国人皆其予メ知ルヲ奇異セサルハナシ</p><p>&nbsp;</p><p>第ニ十二　西洋の軍艦が琉球国に初めて来る事</p><p>&nbsp;</p><p>今から七十九年前、尚灝（しょうこう）王の時代、文化十三年に、西洋の帆船二隻が突然那覇港に来て停泊しました。これが西洋人が琉球国に来た初めてのことです。船は武具・武器を載せているので軍艦なのでしょう。言語・文字ともに通ぜず、会話はジェスチャーだけで行なわれました。一日中、二隻の船が交代で大砲を撃つので、雷鳴が山を裂くようでした。朝から晩までやすむことがありませんでした。那覇の人々は驚いて、予期しない戦争がすぐに起こるのではないかと思いました。老人と幼児をつれて、東西の近い村々に避難しました。王国は命令をだして、不意の事変が起こるときには、円覚寺の大きな鐘を打つことにしました。大きな鐘の音を聞いたときには、首里・那覇の士族１５歳以上は竹やりを持って、護国寺前の野原に馳せ集まって、防禦の準備をすることにしました。しかし何も起こりませんでした。祝砲を撃っただけのことです。西洋人は、大きな台風が起こるというジェスチャーをして、その日、帆を挙げて去りました。そのあと、四五日して大きな台風が来て、樹木を倒し収穫の時期に被害を与えました。その損害は数えることが出来ませんでした。琉球の人々は台風が予測できることをとても不思議がりました。</p><p>&nbsp;</p><p>※文化十三年（１８１６年）、那覇港にイギリス海軍の軍艦、「アルセスト号」と「ライラ号」の二隻が現われました。約４０日間那覇に滞在し、沖縄本島周辺の水路測量や海岸調査を行ないました。ライラ号の艦長は「バジル・ホール」でした。彼の母方の孫は、東京大学英文科の教師で、古事記の英語への完訳や、琉球・アイヌの研究家として有名な言語学者「バジルホール・チェンバレン」です。「バジルホール・チェンバレン」の教え子は、上田萬年（うえだかずとし）、芳賀矢一（はがやいち）、岡倉由三郎（おかくらよさぶろう）などです。「バジルホール・チェンバレン」の後任の東京大学英文科の教師は「ラフカディオ・ハーン」であり、その次の教師が「夏目漱石」です。なお「バジルホール」の有名なエピソードがあります。彼がライラ号の艦長として琉球王国から英国へ帰国する途中、セントヘレナ島に流されている「ナポレオン・ボナパルト」に謁見したときの話です。「琉球には武器がまったくなく、平和に暮らしている」と言ったところ、ナポレオンは「武器を持たずにどうして国を維持できるのか」とたいへん驚いたそうです。ペリーが浦賀に来る３７年前には、すでに琉球王国には黒船が来航していたのです。これ以後琉球王国での英語教育の歴史が始まります。</p><p>&nbsp;</p><p>＠ここまでで、正編のおよそ八分の一を終了しました。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/touteizuihitsu/entry-12971569036.html</link>
<pubDate>Fri, 03 Jul 2026 13:09:18 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>東汀随筆：喜舎場朝賢＝正編＝現代語訳＝第一回の第ニ十一</title>
<description>
<![CDATA[ <p>第二十一　同人（比屋根）カ嫌疑ニ因リ入獄セラレタル事</p><p>&nbsp;</p><p>時ニ波ノ上寺ニ寓居シ居ル英人伯徳令カ　屡々比屋根小カ茅屋ニ来リ話シタル事アリテ　国家ノ事情ヲ漏スノ嫌疑ヲ受ケ　亦国家ノ事情ヲ書タルノヲ伯徳令ニ渡シテアルハ比屋根小カ所為ナリトノ嫌疑ヲ以テ　平等所ニ拘留サレテ居ル　比屋根小単身獄内ノ寂寞ナル事情ヲ述テ囚徒一人ヲ入レテ　己ト同居セシメンコトヲ願ヒ出テタルニヨリ　願ノ通リ許可セラレタレハ　此ノ囚徒ニ書ヲ読ムコトヲ教ヘテ　朝ヨリ晩ニ至リ怠ルコトナシトゾ　亦牢中ノ四壁ニ爪ヲ以テ削リ付ケ　満壁書句詩句ナドヲ書テアリタリトゾ</p><p>&nbsp;</p><p>第二十一　比屋根が嫌疑によって入獄させられた事</p><p>&nbsp;</p><p>当時、波上宮（なみのうえぐう）に滞在していた英国人ベッテルハイムは、しばしば比屋根小の茅ぶき屋に来て話をしました。比屋根小は、国家の機密を漏洩したのではないかと嫌疑を受けました。また国家の機密を書いたものをベッテルハイムに渡したのは、比屋根小がやったことであるという嫌疑を受けました。比屋根小は刑務所に拘留されました。彼は独りでの刑務所暮らしは寂しいからという事情を述べました。囚人一人を入れて、自分と同獄させるように願い出ました。願いは許可されました。この囚人に本を読むことを教えました。朝から晩まで怠ることがなかったそうです。また、獄内の四方の壁に爪で削りつけて、壁いっぱいに名言名句、漢詩などを書いていたとのことです。</p><p>&nbsp;</p><p>※ベッテルハイムが住んでいたのは、波上宮ではなく、すぐとなりにある護国寺でした。喜舎場朝賢は「寺」と「神社」の区別をあまり意識しなかったようです。「伯徳令」は「ベッテルハイム」の漢字表記です。「ベッテル」を音訳したのが「伯徳令」だと思われます。「ベッテルハイム」は、ハンガリー生まれの英国人宣教師でした。「ベッテルハイム」の生地は、ハンガリーでしたが、現在はスロヴァキアの首都ブラチスラヴァとなっています。１８４６年４月３０日琉球王国に到着し、護国寺に８年間滞在しました。彼は沖縄で初めてのプロテスタントの宣教師でした。彼は、当時の薩摩藩と江戸幕府の外交方針により、琉球の人々から排斥されました。彼はユダヤ系の子として生まれ、語学の天才でした。９歳の時には、ドイツ語、フランス語、ヘブライ語で詩を書いたそうです。新約聖書の何篇かを琉球語に訳しました。</p><p>&nbsp;</p><p>＠参考のために、ベッテルハイムが琉球語に訳した新約聖書の「主の祈り」を漢字仮名交じり音声表記に直して掲載します。</p><p>&nbsp;</p><p>御天（うてぃん）に居参候（いめんせえ）る御万人（うまんちゅ）ぬ親愛（うやがな）しい</p><p>御名（うんな）拝（うぅが）み有侍（やび）ら</p><p>此（く）ぬ世（ゆう）ん天国（てぃんぐく）ぬ如（ぐとぅ）成（な）ち御給侍（うたび）み為侍（せえび）り</p><p>御心（うくくる）ぬ天国（てぃんぐく）居（うぅ）てぃ行（うくね）らりいぬ如（ぐとぅ）</p><p>此（く）ぬ世（ゆう）居（うぅ）てぃん行（うくねえ）らち御給侍（うたび）み為侍（せえび）り</p><p>生（い）ち身（み）ぬ為（たみ）に必要（ひちゆう）な物（むん）巣出（しでぃ）らち御給侍（うたび）み為侍（せえび）り</p><p>私達（わったあ）ん今日（ちゅう）ぬ罪（ちみ）許（ゆる）さ侍（び）い如（ぐとぅ）</p><p>私達（わったあ）罪（ちみ）ん許（ゆる）ち御給侍（うたび）み為侍（せえび）り</p><p>私達（わったあ）嫌（や）な迷（まゆ）い事（ぐとぅ）んかい守（まむ）てぃ御給侍（うたび）み為侍（せえび）り</p><p>此（く）ぬ世（ゆ）ぬ悪（あく）ぬ道（みち）からん守（まむ）てぃ御給侍（うたび）み為侍（せえび）り</p><p>&nbsp;</p><p>※下から二行目「事（ぐとぅ）んかい」は「事（ぐとぅ）から」の誤訳と思われます。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/touteizuihitsu/entry-12971543791.html</link>
<pubDate>Fri, 03 Jul 2026 08:03:40 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>東汀随筆：喜舎場朝賢＝正編＝現代語訳＝第一回の第二十</title>
<description>
<![CDATA[ <p>第二十　同人（比屋根）カ国祚ノ長短ヲ占ヒタル事</p><p>&nbsp;</p><p>比屋根小ト筮ノ芸モ亦精巧ナリ　曾テ琉球国祚ノ長短ヲ占テ尚育王孫ニ至テ国亡ト書テ自家ノ壁間ニ張付ケテアリ　書ヲ読ミニ来テ居ル生徒等之ヲ見テ尤驚シテ甚タシキ奇異ノ所為カナトテ至ニ　相做メテ他所ニ於テ之ヲ言フコトヲ禁シテ居リ　一切世人ノ之ヲ知ラザリシガ後廃藩トナルニ迨ンテ　此話世ニ出テタリ</p><p>&nbsp;</p><p>第二十　比屋根が国の行く末を占った事</p><p>&nbsp;</p><p>比屋根小（ぐぁあ）は占いにも優れていました。かつて琉球国の将来を占いました。尚育王の孫の代で国は亡びるでしょう、と自分の家の壁に張り付けてありました。本を読みにきた生徒たちはこれを見て驚愕し、非常に変わった行為であると思いました。生徒たちをなだめて、よそのところでこれを話すことを禁じていました。これについては世間の人々は誰も知りませんでした。のちに廃藩置県となって、この話が世間に広まりました。</p><p>&nbsp;</p><p>※「尚育（しょういく）王」は、琉球王国第１８代の国王。その次男が第１９代国王の尚泰（しょうたい）です。琉球最後の国王は尚泰です。沖縄の廃藩置県は、１８７９年（明治１２年）です。実際は尚育王の孫ではなく、子供の世代で琉球王国は亡びたことになります。しかし長男の中城王子が早世したために次男の尚泰王が即位しました。長男を第十八代と考えると、あながち占いは間違ってはいません。むしろ長男の早世まで予言していたことになります。占いとは解釈によって当たり外れが決まります。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/touteizuihitsu/entry-12971470325.html</link>
<pubDate>Thu, 02 Jul 2026 13:26:57 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>東汀随筆：喜舎場朝賢＝正編＝現代語訳＝第一回の第十九</title>
<description>
<![CDATA[ <p>第十九　同人（比屋根）カ識鑑ノ事</p><p>&nbsp;</p><p>比屋根小人ヲ見ル識鑑人ノ及フヘカラサルモノアリ　曾テ大宜見御殿ニ貴族ノ青年四五名小集シ閑話ヲ為ス　衆比屋根小ヲ呼ヒ来テ話テ如何トテ招キケレハ直ニ来ル　国頭按司ニ向ヒテ　公ハ後必ス王子トナリ玉ハントゾ言ヒケルガ　後果タシテ王子爵ニ叙セラル</p><p>&nbsp;</p><p>参考のためにひらがな書き、現代仮名遣い、送り仮名に直してみます。</p><p>&nbsp;</p><p>比屋根小、人を見る識鑑、人の及ぶべからざるものあり　曾て大宜見御殿に貴族の青年四五名小集し閑話をなす　衆、比屋根小を呼び来たりて話して如何とて招きければ直に来たる　国頭按司に向かいて　公は後に必ず王子となり玉わんとぞ言いけるが、後に果たして王子爵に叙せらる</p><p>&nbsp;</p><p>第十九　比屋根の鑑識眼のこと</p><p>&nbsp;</p><p>比屋根小（ぐぁあ）が人を見る鑑識眼はふつうの人にはとてもかなわないところがありました。かつて、大宜見御殿（うどぅん）に貴族の青年四五人が集まって話をしました。みんなは比屋根小を呼んで来て話をするのはどうだろうかと、彼を招いたらすぐに来ました。国頭按司に向かって、あなたは将来必ず王子になるでしょう、と言いました。果たして彼は後に王子の位につきました。</p><p>&nbsp;</p><p>※「按司（あんじ）」は琉球王国において「王子」の次に偉い位の呼称です。「王子」は実際に国王の子息である必要はなく、国王の次に偉い身分をあらわす呼称でした。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/touteizuihitsu/entry-12971447616.html</link>
<pubDate>Thu, 02 Jul 2026 09:00:18 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>東汀随筆：喜舎場朝賢＝正編＝現代語訳＝第一回の第十八</title>
<description>
<![CDATA[ <p>第十八　同人（※比屋根）カ着物ヲ村叟ニ与ヘ並長浜翁ト議論ノ事</p><p>&nbsp;</p><p>比屋根小ハ宜野湾朝保公青年ノ時交リ親シ　曾テ朝保公ノ邸ニ至ル　公其着物ノ汚穢甚タシキヲ以テ先生ト同行スル　恥シケレハトテ衣帯ヲ出シ来リ　之ヲ与ヘテ着替セシムレハ　之ヲ受取テ自分ノ衣上ニ重ネ着テ少シモ感謝スルノ色ヲ見ヘズ　公四五輩一同相携ヘテ遊行出ツ　米吉寺門ノ前平蕪ニ円座シテ種々ノ閑話ヲ為ス　比屋根小ハ独リ衆ニ離ルルコト　ニ三十間位ニ至リ村叟ラシキモノト情話ヲ為ス　叟平生ノ生活困難ノ情ヲ述ルヲ深ク憫然ニ思ヒ　己レカ着セル上衣ヘ公ノ与フ所ヲ解テ給与シ　本ノ汚穢衣ノ儘ニナリ平気ニシテ一同ト共ニ帰リタルトゾ　亦長浜翁ハ一時ノ学者ト唱ヘラル　一日門弟某ニ命シテ曰　比屋根小ハ学者ナリトノ世評アルカ　ドノ位ノ学力アルカヲ試ント欲ス　汝往テ呼テ来レト　比屋根小ハ池城墓地小林中ノ茅屋ニアリ　汚穢ナル婦衣ヲ着テ座シテ書ヲ看ル　門弟某来リテ謂テ曰ク　長浜翁カ相見ヘタク欲スルカラ我レ一同ニ来リ玉ヘ　比屋根小ハ辞シテ曰我カ着物洗濯ニ付シアリテ拝ムコト能ハズト言ヒケレバ　門弟直チニ帰リテ返詞ヲ報ス、翁カ曰汝今回往テ言テ呉レ　昔子路悪衣ヲ恥セズ君悪衣ヲ恥ルハ何ゾヤト　門弟某再ヒ往テカク言ヒケレバ　比屋根小ハサウーナラ一籍及ヒ道理上ノ話ヲ反覆応答数時間ヲ過シタリトゾ　其苟且卒真礼儀ヲ飾ラサル大略此ノ如シ　故ニ世人唱和シテ狂者ナリトス　其翁ト話ノ事々伝ハルコトナシ　只一事伝ヘテ居ル　翁問フテ曰ク雷落テ人ヲ傷クハ何ノ理ソ　比屋根答ヘテ曰ク是レ怪シムニ足ラス　市中ニ石ヲ投スレハ何ゾ人ニ当タラサルヲ得ン　翁後チ人ニ〇リテ曰ク　比屋根小ハ学者ノ名アレトモ我レ彼ト話テ見ルニ何ノ得ル所ナシト　予ヲ以テ之ヲ見ルニ比屋根小カ言至理存セリト謂フベシ　翁深ク考へザルノミ　（〇は印刷不鮮明）</p><p>&nbsp;</p><p>第十八　比屋根が着物を村の老人にあげること、そして長浜さんと議論すること。</p><p>&nbsp;</p><p>比屋根小（ぐぁあ）は、宜野湾朝保さんと青年の時に交流があり親しい仲でした。むかし、朝保さんの邸宅に行きました。宜野湾さんは着物がとても汚れている比屋根先生と同行しました。恥ずかしいだろうからと着物を出して来ました。それを差し上げて着替えさせました。それを受け取ると自分の着ている着物の上に二重に重ねて着て、少しも感謝の気持ちを見せませんでした。宜野湾さんは四、五人の人といっしょに遊びに出かけました。米吉寺の門の前の雑草に車座になって、いろいろなおしゃべりをしました。比屋根小はみんなとは離れたところに独りでいました。二、三十間くらいのところで、村の老人らしい人と世間話をしていました。老人がふだん生活に困窮している話をするととてもかわいそうに思って、彼が着ている着物の上に宜野湾さんからもらった着物を脱いで差し上げました。比屋根小は、もとの汚れた服のままになり、平気な顔でみんなといっしょに帰ったそうです。また、長浜さんは当時は学者として有名でした。ある日門弟の誰かに命じて言いました。比屋根小は学者であると世間で評判であるが、どのくらいの学者であるのか試してみたいです。みなさんが行って呼んで来てください。比屋根小は池城墓地の小さな林のかやぶき屋にいました。汚れた婦人服を着て、座って本を読んでいました。門弟の誰かが来て言いました。長浜さんがお会いしたいそうですので、私たちといっしょに来てください。比屋根小は断わって言いました。私の着物は洗濯して干してありますので行くことができません。門弟たちはすぐに帰って返事を伝えました。長浜さんは言いました。皆さん、もう一度行って伝えてください。むかし、孔子の弟子子路（しろ）は粗末で汚れた服を恥と思いませんでした。なぜあなたはそれを恥じるのですか。門弟の誰かがそう伝えました。比屋根小はそう言うのであればひとつお話をしましょうと言って、数時間も過ぎてしまいました。その対応のしかた、礼儀を飾らない性格はだいたいそのようなものでした。それなので、世間の人たちは彼のことを狂人と言いました。長浜さんのことやその時のくわしい話は伝わっておりません。ただ一つだけ伝わっていることがあります。長浜さんが聞きました。雷が落ちて人を傷つけるのはどういうことでしょうか。比屋根は答えました。これは不思議なことではありません。町の中に石を投げれば、人に当たることがあります。長浜さんが後に人に語りました。比屋根小は学者というけれども、私が彼と話をしてみると、何も得るところがありません。私がこれを考えてみますと、比屋根小が言うことはもっとも至極なことです。長浜さんが深く考えていないだけのことです。</p><p>&nbsp;</p><p>＠この章は哲学的な雰囲気がします。人の学問がどの程度なのかを評価することが出来るでしょうか。評価する側の学問の程度ははたしてどれほどなのでしょうか。個人的な話ですが、私は自分の英語力を人に評価されたことが何度もありました。私の英語力を評価する人の英語力は私以上でなければなりません。できれば私よりもはるかにすぐれた英語力が必要だと思います。私の英語力に及ばない英語力をもった人が果たして私の英語力を評価することが出来るでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>＠長浜さんの話を聞いていると、ニーチェの「ツァラトゥストラはこう言った」を思い出します。「ツァラトゥストラ」が初めて発行された時に、この本に書いてあることが理解できる人は当時の世界にひとりもいなかったそうです。一般の人は一行も理解できなかったそうです。ニーチェは狂人と呼ばれていたそうです。</p><p>&nbsp;</p><p>＠漢文訓読体はとても簡潔です。言いたいことが省略されています。したがってこれを現代語に訳するとどうしても長くなってしまいます。「巧言令色鮮し仁」という言葉があります。これを現代語に訳するといったいどれくらいの言葉が必要でしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>※見出しの「叟（そう）」は老人のことです。「宜野湾朝保」は沖縄の五偉人のひとりです。「米吉寺」は「末吉宮」のことかもしれません。「一間」はおよそ「1.8メートル」です。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/touteizuihitsu/entry-12971154934.html</link>
<pubDate>Mon, 29 Jun 2026 13:02:25 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>東汀随筆：喜舎場朝賢＝正編＝現代語訳＝第一回の第十七</title>
<description>
<![CDATA[ <p>第十七　比屋根小刃幼年学ヲ耽嗜ノ事</p><p>&nbsp;</p><p>今ヲ距テル七八十年前　首里山川ニ比屋根小ト言フ人ガ居ル　少年ノ時池城御殿内（三司官家）御祝儀アリテ　村中ノ少年数輩ヲ給事ニ雇ヒテ　比屋根小モ雇ノ内ニアリ　日中饗応ノ仕事ニ忙シク片時モ休息スル暇ナカリキ　裏座ニ沢山ノ書籍アルヲ欣ヒ時々之ヲ取テ看ル　同僚怒テ叱リ付ルニヨリ其煩ハシキニ堪ヘズ　竊カニ其書ヲ懐ニシテ屋上ニ登リテ心安ク書ヲ観ル　夜ニ入リ月明カナレバ　月光ニ照ラシテ読ム　同僚皆以為ヘラク　比屋根小ハ難事ヲ厭テ家ニ逃ケ去リタリトゾ　月落ルニ迨テ屋上ヨリ下リ来ルニ夜已ニ深更ニナリ　御客散レ去リテ酔客数名残ルノミ　亦人家ニ往テ書籍アルヲ見レハ取リテ之ヲ看ル　終ラサレハ置カズ　一切主人ト一言モ接ヘズ　同村内ニ真和志ノ平等学校アリ　教師ハ久米村人ヨリ科試ヲ以テ推挙セラル　比屋根小時々来テ学問ノ話ヲ為ス　始メノ程ハ先生モ喜ンテ応答ヲ為スケレトモ　其書疑問難スルニ及ヲ答フルコト能ハサルモノ多シ　故ニ其煩ハシキニ堪ヘズ　其来ルヲ見レハ密カニ逃ケ蔵ルトゾ　郷里幼年ノ子弟小学校ノ生徒等来リテ読書スルモノ多シ　比屋根小ハ村ノ高安ト言フ大家ノ前ノ座ニ紙帳ヲ張テ夜々宿ス　朝起クルコト甚タ遅シ　日出ルコト高クシテ童子等来レトモ猶ホ帳内ニ寝テ居ル　帳前ニ寄リ跪テサレサレト呼ヒマスレバ　誰カト問フ　読書に来レリト答ヘバ　昨日読ンタ所ヲ読ンテ見レト言フ　童子昨日ノ所ヲ読メハ　帳内ニ臥シナカラ其以下ノ章高ラカニ水ノ流ルカ如ク誦シ与ヘテ読マシム　平生片時モ書籍身ヲ放サス急遽苟旦ノ時と雖　心ヲ書籍ノ上アラサルハナシ　曾テ大中村綱挽キニ棧敷ヲ構ヘ父老ニ与ヘテ見物セシム　比屋根小読書ノ先生ダカラ延請セラレテ来ル　棧上書ヲ懐ニシテ只管之ヲ看ルノミ　敢テ綱挽キヲ省ルコトナシ　其学ニ耽ケルコト此ノ如シ</p><p>&nbsp;</p><p>第１７　カミソリ比屋根が幼年に学問にふける事</p><p>&nbsp;</p><p>今から七、八十年前、首里山川に比屋根小（ぐぁあ）と言う人がいました。少年の時、三司官家の池城御殿内（うどぅんち）において、結婚式がありました。村中の少年数名を給士として雇いました。比屋根小もその中にいました。日中は接待の仕事が忙しくて、少しも休息する時間がありませんでした。裏部屋にたくさんの本があるのを喜んで、時々これを読んでいました。同僚が怒ってしかりつけるので、それがわずらわしくなりました。ひそかにその本を懐にいれて、屋上に登りしずかに本を読みました。夜になり月が明るくなると、月光に照らして本を読みました。同僚がみんな言いました。比屋根小は雑事がいやで家に帰ってしまったと。月がおちたので、屋上から下りると深夜になっていました。客は去って、酔っぱらった客数人が残っていただけです。また人の家に本のあるのを見つければ、それを取って読みました。読み終わらなければ本を置きませんでした。主人とは一切言葉を交わしませんでした。首里山川に真和志小学校がありました。先生は久米村から試験でもって選ばれました。比屋根小は時々そこへ行って学問の話をしました。初めのうちは先生も喜んで答えていましたが、質問が難しくて答えることが出来なくなってしまいました。比屋根小は高安という大きな家の前の部屋で、紙の蚊帳を張って夜の宿にしました。朝は起きるのがとても遅いでした。日が高くなって子供たちが来ても、まだ蚊帳の中に寝ていました。蚊帳の前にひざまずいて「もしもし」と言うので、「誰か」と聞くと「読書に来ました」と答えました。「昨日読んだところを読みなさい」と言いました。子供が昨日のところを読むと、蚊帳の中で寝ながら、そのあとの章を声たからかに、水が流れるように続けて朗誦しました。いつも片時も本を体から離さずにどんな時でも、本が頭の中でいっぱいでした。かつて、「大中村綱引き」に桟敷をかまえて父親たちを見物させる時に、比屋根小は読書の先生だったからと丁重に招かれて来ました。桟敷用の本を懐から出して、ひたすら本を読んでいました。ついに綱引きを見ることはありませんでした。その学問にふけることはこの通りでした。</p><p>&nbsp;</p><p>※見出しの「小刃」は沖縄語で「しいぐ」と読みます。「小さなナイフ」のことで、よく切れることから、「頭が切れる」という意味になります。同じく見出しの「耽嗜」は「たんし」と読みます。「深く熱中し、心から好きだ」という意味です。今日「御祝儀」とは結婚式に包むお金のことですが、ここでは結婚式そのものをさしているようです。「久米村」はかつて琉球王国において、外交・貿易・学問を担当した渡来系中国人の居住地域のことです。「紙帳（しちょう）」は紙で作った「蚊帳（かや）」のことです。当時の風俗を知ることができます。「急遽苟旦」の「苟旦」は「苟且（こうしょ）」の間違いと思われます。「苟且」は「その場限り」という意味です。</p><p>&nbsp;</p><p>＠昔は人の家の本を勝手に読んでも許されるおおらかな社会であったようです。現在ではちょっと不自然に思われるかもしれませんが、韓国ドラマを観るような感じがします。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/touteizuihitsu/entry-12971057193.html</link>
<pubDate>Sun, 28 Jun 2026 14:10:31 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>東汀随筆：喜舎場朝賢＝正編＝現代語訳＝第一回の第十六</title>
<description>
<![CDATA[ <p>第十六　喜屋武法司カ与力佐久本ト相戯悩スノ事</p><p>&nbsp;</p><p>喜屋武法司ハ独眼者デアリテ世間ニ知リ渡リテ居ルカラ　今迨世上独眼帯ハ喜屋武親方ト綽名ヲ与ヘ居ル　彼ノ与力ニ佐久本目切リトテ多才ノ者アリ　主人親方ト互ニ相弄悩（ワニヤク）シタルコトアリ　一日親方ノ用ヒラル眼鏡一眼ノ玉ヲ抜キ去リテ置ク　親方ハ憤リヲ含ミテ居ルケレトモ何ント言ハズ　庭中一花木鉢四遍ノ縁（フチ）ニ糞ヲ塗リ左アラヌ顔シテ居ル　佐久本御用御案内ニ来タル　親方アノ花木鉢ヲ輪回シテ後ヲ前ニナセト命ス　佐久本即チ立寄テ花木鉢ノ縁ヲ握リテ輪ラセルニ　糞ヲ攫（ツカ）ムレトモアラヌ顔シテ内ニ入リ来リ　親方ノ着シ玉ヘル衣ヲ立派ナ御衣カナトテ　袖ヲ取テ看ルノ真似シテ攫メル　糞ヲ拭ヒタリトソ</p><p>&nbsp;</p><p>喜屋武三司官が秘書の佐久本と悪戯（いたずら）し合うこと</p><p>&nbsp;</p><p>喜屋武三司官は独眼として世間に知れ渡っていました。今までずっと、世間の人たちは独眼の人を喜屋武親方（うぇえかた）と綽名していました。秘書の佐久本は眼光が鋭く多才な人でした。主人の親方（うぇえかた）と互いにふざけ合うことがありました。ある日、親方が使っている眼鏡のレンズの片方を抜き取って置きました。親方は怒ってはいましたが何とも言いませんでした。庭の花木鉢の四方のふちにウンコをぬって知らんぷりをしていました。佐久本が用事をうけたまわりに来ました。親方はあの花木鉢を動かしてうしろを前にしなさいと言いました。佐久本は花木鉢のところへ行ってふちを握ってぐるっと回しました。ウンコをつかみましたが、しらんぷりをして家の中に入って来ました。親方の着ている服が立派であると言いながら、袖を取って見る真似をしながらつかみました。ウンコをふいたとのことです。</p><p>&nbsp;</p><p>※見出しの「戯悩」と本文の「弄悩」は「わにゃく」と読み、現在の沖縄語の「わちゃく」にあたります。「いたずら」のことです。第一回第十二の解説を参考にしてください。「法司」は「三司官」のことです。「与力」はふつう「警官」のことですが、ここでは「秘書」あるいは「執事」のことのようです。「目切（みいち）り」は琉球語で「目のふちが切れている人」あるいは「眼光が鋭い人」という意味です。ここでは「目のふちが切れている人」としたほうが独眼の喜屋武三司官とセットになって話としてはおもしろいかもしれません。眼鏡のレンズを「玉」と呼んでいたようです。このあたりが「東汀随筆」のおもしろいところです。「左アラヌ」とあります。「左」は当て字ですが、漢字の訓読みはつまるところ、すべて「当て字」であることを認識しなければなりません。「東汀随筆」にはこのような当て字がいたるところに見えます。「攫む」という漢字の最後の「又」が原文では抜けています。</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/touteizuihitsu/entry-12971031462.html</link>
<pubDate>Sun, 28 Jun 2026 09:19:10 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
