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<title>chante de tertium non datur</title>
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<description>Lecteur, c'est peut-être la haine que tu veux que j'invoque dans le commencement de cet ouvrage ?</description>
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<title>sodass du denkst</title>
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<![CDATA[ そんなわけで、新しいこと、驚いたことに肯定的なことを言っておればよいのだ。それで革新的に、先進的に、国民に近くなれる。<br>そこにぴりっと香辛料を入れておけば、知性の光も加わって完璧だ。<br>こんなものは決死の跳躍ができないものの慰みものだ。そうきっと君のくだらない日々の感想、意見は誰かが読んでいる。<br>だってたまに誰かがレスを付けてくれるし、僕も付けるのだから、他の人もきっとそうだろ？<br>公共性が用意される場？グローバル・コミュニケーションだって？<br>何かの本の剽窃か、人の意見の好き嫌い、誰も否定できない当たり前すぎる問題を、ほんのり自己反省を入れておけば、安心だ<br>そうすれば、きっとみんな君が考えているということを知ってくれるだろう<br>そう考えているってことを
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<pubDate>Fri, 04 May 2012 19:47:06 +0900</pubDate>
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<title>time doesn't proceed</title>
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<![CDATA[ 戦後の55年体制を終わらした細川政権（1993～1994）以来、それ以前には実現しなかった与党野党の交代が何度か行われた。そして2009年（もう三年前になるのだな）にニュースによれば16年ぶりに政権交代が実質的な意味で（それは日本において非自民政権の誕生を指す）生じた。僕は特別興奮も期待もしなかったが、ニュースのコメンテーターや政治学者という芸能人はずいぶんとはしゃいでいたのはよく憶えている。では今人々が民主党政権とそこに関係して感じていることは何だろうか。意外に長く政権が続いているなとか、迷走しているなとかであろうか。そうした感想もあるだろう。しかし最も一般的で深刻な感想は与党野党が変わっても（日本の）政治は何も変わらないという類のものではなかろうか。現代政治はイデオロギーの違いに基づくというよりも、与党野党という政治権力上の位置関係によって政策の違いを生み出している。それまで野党の地位にいた政党が与党、政権をとることは自動的に政策の変更をそれがどういうものであれ、生み出すとされ、多くの場合その変更はそうした地位変動を生じさせた（とされる）有権者の意志を反映しているのであるから、肯定的な価値を持つ。僕は現在の民主党政権には辟易しているが、では自民党やそのフランチャイズからなる野党が政権を取って政治的な改善を期待できるかと言えば、それはできないし、多くの人もそう思っているだろう。それが橋下などというミニ小泉への期待に繋がっているのだ。ここで注意して欲しいのは橋下は野党ではないということだ。連中は選挙を通じて国政上の権力配置に場を与えられたわけではない。つまり与党野党の区別の外、極端に言えば公的な政治システムの外にいる非正統な勢力なのである（何と言っても橋下自身が大阪市長であって国政に関与する権限を持っていない）。これは既存の政治を構造付けていた野党／与党コードの有効性の喪失と言えるだろう。同様の傾向は例えばギリシアやアイルランドに見ることができよう。与党／野党コードは本質的には時間に基づく区別である。政治が時間の推移（制度的には定期的な選挙によって）とともに変化することをそれは予期している。しかし日本の政治はもはや時間と共に劣化することは予期できても、政治的決定によって変化する、それも社会的に肯定的な方向へと進むことは予期できない。少なくとも政治システムの枠内では。そこで登場するのが、時間に対置されるところの空間コード、橋下のそれで言えば中央／地方の区別であり、クライアントポリティックスの文脈で言えば国民／非国民もしくは国内／国外という区別であろう。その社会において彼が何者であるかが重要であり、彼が何をするかは大して重要ではない。何をしようとそれは彼の属性において解釈されるからである。よいユダヤ人は死んだユダヤ人のみだというわけだ。いやな傾向だと僕は思う。
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<link>https://ameblo.jp/ts19681968/entry-11229816797.html</link>
<pubDate>Sun, 22 Apr 2012 10:17:05 +0900</pubDate>
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<title>colere</title>
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<![CDATA[ ヘーゲルは幼なじみ同士の結婚を忌むべきものとして、他方で全く知らない者同士の結婚を理想的なものとしている。というのは良く知り合っている者同士では互いについて、そしてひいては自分自身についての反省（客観化）が出来ないからである。何が特殊な性格で普遍的な性格なのか、何が特殊な地域的価値とされ普遍的価値とされるかを知る契機を生み出さないために幼なじみ同士の婚姻は人格の発展、完成へと向かわず、逆に彼らから社会性（ヘーゲルの場合には人倫）を失わせることになる。つまり内輪でのみ通用する意識が再生産されるわけだ。その内輪が社会的価値ヒエラルキーの上位に位置するものであれば良いが、例えば家族や友人同士で演劇やクラシックのコンサートに行くなど（こうした趣味は所得の高さと有意に相関している）、そうではなくカラオケ、麻雀や高校生くらいの年齢で就業するのが当然と言ったものである場合は経済的なそれだけでなく、文化的貧困が再生産されることになる。ましてやその内輪がある種の共同体的性格を持っていれば尚更だ。貧しくとも笑顔があればよいという価値転換を装う自己欺瞞（これは貧困と社会的不平等を受容させるための論理に過ぎない）と生活を支えるだけの力をやっかいなことにそれは持っているからだ。これでは社会を変化させるだけの力は生じようがない。こうして考えれば、貧困層において恋愛というコミュニケーションがなぜこれほどまでに見いだされるか、そしてその低年齢化が生じるのかがよく分かる。彼らにおける恋愛はいってしまえば動物的なもの、快不快によって、感情の揺れ動きによって規定されている。そこにはそうした関係を通じて自己を客体化し、自己を再認識する過程はない。別にこれは彼らに通俗的な意味で自分がないということではない。彼らも相手に合わせて趣味や服装の系統くらいは変える（そしてこれらの変化は彼らにとって自分の気持ちを自らと相手に伝えるために重要なサインなのだ）。しかし、価値や文化の境界は越えない。つまり自己を根本から変えるという苦行はしない。それは面倒なのだ。そしてそうした層の男は同じ階層の女と、女はごくまれに上層の（年齢や社会的地位の）マージナルな男と、しかし多くの場合同じ階層の男と結ばれることになる。女性は若いことが一つの社会的価値であるので元々それ自身において社会的価値を持たない男よりは上昇の機会はあることはあるが、文化資本や社会資本を多く持つ男性（要は社会的上層）は物事を時間軸において考えるので、年月と共に減価償却される若さの価値ははっきり言って高くない。つまり若い、見た目がよいだけの相手には本気にならないということだ。そして結局貧困は再生産されるのである。そして貧しさの中の感情は時に美しいとされるから救いがない。
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<link>https://ameblo.jp/ts19681968/entry-11229787244.html</link>
<pubDate>Sun, 22 Apr 2012 09:25:17 +0900</pubDate>
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<title>SNS上の友人って何だろう</title>
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<![CDATA[ 主観的には親しいと思っていない人からの友達申請は、僕のような面倒くさい性格の人にとっては非常に面倒くさい。社会生活上の付き合いはあるから、むげにするわけにはいかないし、それ以前に別に僕は彼のことを嫌っているわけでは決してないのだ。むしろ好きな人間と言っても良いくらいだ。<br>でも、彼が友人かと言われると何とも言えない。取り立てて親しくしたいわけでもないし、親密な感情を持っているわけでもない。言ってみれば年賀状をやりとりするくらいの関係で十分なんだ。彼も僕との関係に関しては間違いなくそう思っているだろう。いや変な勘ぐりはやめよう。まあこの勘ぐりは間違っていない気はするのだけれど。話を戻すと、この人は友人だろうか、それとも単なる知人だろうか（だって今更知らない人には戻れないからね）という問いを突き付けられるのが面倒なんだ。大体、何でこのゴミのようなコミュニケーションツールから「この人はあなたの友達ですか、違いますか？」なんて質問を不躾にも突き付けられなければならないのだろう。否応なしに白黒つけさせられるのは気持ちが悪い。なにより嫌なのは友達と疎遠になれないことだ。常にネット上で友人関係が継続してるのであれば、新しい場所での出会いの価値も下がるだろうし、同時に新しい出会いがネット上に反映されるとそれまでの友人関係も当然変化が生じる。だってそれを友人は見ることができるんだからね。今では逆に親しい友人とはSNSでは繋がらないようにしたいくらいだ（実際僕はそうだ）。
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<link>https://ameblo.jp/ts19681968/entry-11175475680.html</link>
<pubDate>Sat, 25 Feb 2012 22:16:14 +0900</pubDate>
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<title>L.A. stinkend</title>
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<![CDATA[ Gleichheit ist Ungleichheit. Ungleichheit ist Gleichheit. The same is different, the difference is same. Luhmann sagt so. Mit dem Fortschreiten der Technologie Verbreitungsmedien (Massmedien) inkludieren menschlicher Sinne. Zuerst Gehoersinn, naechst Gesichtssinn, scheint der Erfindung der Tonfilm reale（実存的な）Wirklichkeit zu verwirklichen. Im Abbild scheint Alles der Obejekte in der Tonfilm deutlich wieder ercheinen zu lassen. es ist das Inklusionsprocess sage zu koennen. Aber das exkludiert Geruch. Was exkludiert ist nicht nur Geruch. Alles anders als was ist gefilmt ist sehr natuerlich exkludiet. Es gibt keine Ansatz, Merkwuerdigkeit der Zuschoenabbild zu erfahren. Aussicht ist selektiv inkludiert und exkludiert. Aber wir koennte das bei Ansehen nicht bemerken.<br>見えないもの、存在しないものが感じられる。それはヒステリーへと至るだろう。<br>異なって見えるものは違うものとなる。別のもの（と特に指示されていなくとも）は別のものである。分割不可能な体験はデジタル化され、聴覚、視覚、嗅覚、触覚、その他は分割され、更にはそのそれぞれは時間の空間化によって別々の場所を得る。結果私たちは別の世界に実在（存在ではない）するようになる。
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<link>https://ameblo.jp/ts19681968/entry-11158508981.html</link>
<pubDate>Wed, 08 Feb 2012 00:09:05 +0900</pubDate>
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<title>Notiz</title>
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<![CDATA[ 最近のアニメは本来的には日常に属するような性格の感情、出来事を扱うことが多いと思う（実際のところはこうした特徴は多かれ少なかれ日本の創作物全般に当てはまるわけだが）。<br>誤解、恋愛、人間関係、社会との距離などはもちろん人にそれなりの知性と反省能力があれば、いつでも問題になると思う。それらは悩みの種でもあるともにそれを上手くいくということが適切かはともかく、そうした感想を引きおこす。実際に経験する、そしてそうした経験を創作物が追想起させる。とても気持ち悪い過程だが、何もおかしくはない。その涙を美しく思う人もいるだろう（僕には無理だ）。<br>僕はそこに感情と生活の貧困と平面化を見る。生活の平面化とは上に書いた安っぽいカラオケ的生活ではない。それは創作物の主題と素材（ここでは創作物に話を制限しておこうと思う）がコピーされ続けられ、目立つ構造と主題だけが残ってしまい、そうした入れ物が何か中身のあるもののように感じられてくるということなのだ。例えば恋愛なんてものは恋愛中の当人たちにとっての個別のそれについての認識はともかく、ありふれた、別の言い方をすればわざわざそれ自体を創作の素材にして、人に新しい経験とその切り口を提供するような題材ではありえない。少なくとも恋愛それ自体を描くこと、著しくデフォルメされた形であれ、は日々の生活を描くようなものなのだ。他人の平凡な休日を追体験することに何の楽しみを見いだせるのだろうか。そんなものは恋愛市場から年齢ととも閉め出された中高年の楽しみに過ぎないはずだ。<br>しかし、一次元的な生活ではそうならない。恋愛や人の為に何かをすることといった実に平凡な経験セットがそれ自体、稀少な財として物語において消費されている（お金と時間と交換している以上ね）。オタク層では恋愛というものが非現実なものであるゆえにフィクションの題材という資格を得ているのだろうか。オタク連中の容貌、社会資本を考えれば彼らにとって恋愛が非現実性をもつことも納得できなくはない。ましてやアニメに出てくる可愛い異性が心から彼らに振り向くことなどあり得ない。これもフィクション性を高めもしよう。もう一つの考えは、恋愛とか家族愛のような実に平凡な出来事が、シュミラークルを繰り返される過程で、それ自体がそうした物事の典型的な形式!（ゆえに空虚）として、受容側ではそれがリアル（○実在的×現実的）として消費されているのではないかということだ。これでしたり顔で「恋愛なんて面倒くさい」と言えるわけだ。今や本当の体験はメディアの形式にしかないのだから。<br><br>飽きた
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<link>https://ameblo.jp/ts19681968/entry-11156133512.html</link>
<pubDate>Sun, 05 Feb 2012 16:57:13 +0900</pubDate>
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