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<title>教員という名の役を演じて</title>
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<description>教育全般について、感じたこと、考えたことを綴っていく。</description>
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<title>映画「くちづけ」</title>
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<![CDATA[ <p><a href="http://www.kuchizuke-movie.com/">http://www.kuchizuke-movie.com/</a></p><br><p>　偶然だが、公開日に観た。</p><p>　そして、非常に複雑な気持ちになった。</p><p>　いろいろな人のレヴューを読んで、さらにさらに複雑な気持ちにさせられた。</p><br><p>　感動？</p><p>　涙活？？</p><p>　「彼らが安心して暮らせる社会になりますように」？？？</p><p>　……なりますように、って…………　言葉が出ません。</p><br><p>　もっとも不満なのは、この映画の謳い文句だ。</p><p>　親の愛？？？違います。単なるエゴです。勝手に子どもの人生を決めないでください。</p><p>　もちろん、その結論に至った経緯は、私も当事者だからよくわかる。でも、それでも、やっぱりエゴでしかない。</p><p>　随所に出てくる「心が７歳のまま」というのも間違い。そんなはずはない。心はきちんと成長しています。バカなことを言わないでください。ただ年齢相応の表現方法とか行動をとりにくいだけです。何を言ってくれちゃってるんだか。失礼きわまりない。</p><br><p>　そして、表現手法は演劇チックに超現実的なのに、素材が現実的すぎること。</p><p>　しかもその結末が後ろ向きであること。</p><p>　なにもいまさら、わざわざ映画であの結末を見せつけなくたって、毎日毎日、それをしようかと悩んでいる人は多いのだし、実際にたっくさん起きているではないか！？</p><p>　うんざりした。</p><br><p>　うーやんの妹の決断も意味がわからない。</p><p>　「グループホームって自立のための施設ですよね？だから兄は卒業させます。自分たちで生きていきます」</p><p>　？？？</p><p>　グループホームで血縁者から離れて、他者ととも生きていくことを「自立」というのでは？</p><p>　あえて引き取る、ひきこもる、生きる世界を縮める？</p><p>　あの妹は、障害者の兄に依存しているだけだ。とても危険な依存。それなのに、誰も止めない。まったく理解できない。</p><br><p>　親がホームに入れるための障害者年金を使い込むから、当該者を卒業させる、というのもおかしいと思う。そんなときのために行政がいるんじゃないのか？賃金不払いとかなんとか、差し押さえなどできないのか？</p><br><p>　障害者同士の結婚、そんなに簡単に認められるのか？</p><p>　私は非常に悩ましい。</p><br><p>　そういう、謎に満ちた、後味の悪ぅぅぅい作品でした。</p><br><p>　しかたがないので、よい点も一応。</p><p>　うーやん役は上手だった。ああいう、ユーモアを、彼らはよく言う。もちろん、本人たちが意識して他者を笑わせようとばかりしているわけではないかもしれない。でも、つい笑わされてしまうようなことは、よく言ったりしたりする。</p><p>　私たちが笑ってしまうのは、馬鹿にしているのではない。つい温かい気持ちにさせられるからだ。</p><p>　そんなユーモアが上手にちりばめてあって、素直に笑っていたのに、最後にあんな裏切りを描くなんて。</p><p>　その落差に怒りをおぼえている。</p><br><p>　そして自分にできることは何か、すべきことは何か、改めて考えさせられた。</p>
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<pubDate>Sun, 26 May 2013 21:52:05 +0900</pubDate>
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<title>四年目の初夏</title>
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<![CDATA[ <p>　奇跡的に四年目を迎えた。奇跡だ、と毎年、毎日思うのです。</p><p>　三月には、はじめて、三年間をともにした生徒を送り出した。</p><p>　四月には新一年生をむかえ、おおわらわ。</p><p>　五月には高校へいって、彼らの新しい担任へ引き継ぎ。</p><br><p>　思ったよりも、卒業式当日は冷静だった。</p><p>　涙は出なかった。そのための涙は一年前に使い切っていた。</p><p>　そんなことより、彼らの成長ぶりがうれしかった。もしかしたら親御さん以上に、晴れがましい気持ちだった。</p><p>　なーーーんてね。</p><br><p>　ともあれ、なんとかやりおおせています。</p><p>　ますます同僚や上司をキライになり、嫌われ、それでも。なんとか。</p><p>　大人は苦手でも、子どもは大切。こんなに鬼のように厳しい（笑。自覚はあります。はい。）私に懐いてくれる子どもたちを見ていると、毎日、二日酔いをしてでもなんとか勤めなくてはと思うのです。</p><br><p>　昨年は「拓」きましたので、今年は「耕」す年にいたします。</p><br><p>　で、何が言いたいかというと。</p><p>　想像はしていましたが、あんまり想像どおりで哀しかったので一言。</p><p>　……やっぱり手塩にかけた生徒たちを、進路先の担当の方は、私ほどはかわいがってくれていない……</p><p>　なんか、感動が少ないんだよね……</p><p>　しかたがないんですけどね。成長度合いを見たわけではないから……</p><p>　ああ、とにかく、大事にしてくださいね！！！それだけです。</p>
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<pubDate>Sun, 26 May 2013 21:45:15 +0900</pubDate>
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<title>自閉症</title>
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<![CDATA[ <p>　先日、とあるＴＶ番組で自閉症について誤解を招く表現があったとしてニュースになった。</p><br><p><a href="http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120516-00000114-spnannex-ent">http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120516-00000114-spnannex-ent</a></p><br><p>　まあ、よくあることだな、と思った。</p><p>　自閉症は、さまざまな障害の中でも、症状の幅が非常に広く、理解が難しい。</p><p>　広汎性なんとか、高機能なんとか、アスペルガー、そういうのをひっくるめて自閉的傾向、とかたづけるのが、今のやりかた。</p><p>　それでよいと思う。「軽い」イメージを好む保護者のためには。保護者の精神衛生が少しでもよくなるなら。呼び方なんて本当は便宜的なものでしかない。</p><br><p>　問題は、このニュースへのコメントのひどさ。</p><p>　曰く、「病気よりも障害の方が、言われてイヤだろう」とか、「より中傷的だ」。</p><p>　ああなんてことだ、と頭をかかえた。</p><p>　理解がない、なんてレベルではない。</p><p>　こういう社会で私は生きている、というよりも、こんな社会に我が愛しき教え子を送り出さねばならない。</p><p>　特攻に送り出す親の気持ちだ。</p><p>　赤紙はもうとっくにきている。</p><p>　自分が特攻するのは構わない。自分で選んだ道だから。</p><p>　しかし、それを望まないのに特攻させねばならない私は、なんて罪深いのだろう。</p><p>　そして、私ひとりでは、どうあがいてもこの社会全体を、彼らの生きやすいように変えてあげることはできない。少しでも、この荒波を上手にかいくぐれる術を身につけさせてあげるしかない。</p><p>　そんなこと、できるのか！？</p><p>　絶望にうちひしがれた、夕暮れ。</p>
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<link>https://ameblo.jp/tsugumu/entry-11252331740.html</link>
<pubDate>Wed, 16 May 2012 19:33:08 +0900</pubDate>
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<title>三年目の春</title>
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<![CDATA[ <p>　本採用されて、三年目の春を迎えることができた。</p><p>　生きているのが不思議だ。</p><br><p>　子どもたちとのやりとりは毎日が新鮮で、毎日が喜びにあふれている。</p><p>　信じられないほど、幸福な日々だ。</p><br><p>　が。</p><br><p>　周囲の大人は相変わらず。</p><p>　大人と子どもの間でバランスをとるのに必死。</p><p>　死なないように生きよう。</p><br><p>　来年の三月には、三年間、いっしょに勉強した子どもが卒業してゆく。</p><p>　昨年秋に、そのことを思って、ふいに涙が出た。</p><p>　お別れするなんて、さびしすぎる。一生一緒にいたい（結婚か！？笑）。</p><p>　そのくらい、手をかけた。</p><p>　このさき誰も、私以上に彼らを大切にしてくれる人はいないと、本当に思っている。</p><p>　そのくらい、私は、彼らとのやりとりを楽しんでいる。</p><p>　と、書きながら号泣しているのだ、私は（笑）。</p><br><p>　でも彼らは巣だってゆく。成長はものすごく喜ばしいのだが。</p><p>　別の場所（段階）に移ったら、もう、この場にとどまる私とは会いたがらないのが彼らなのだ。</p><p>　それがものすごく悲しい。</p><p>　複雑な気持ち。</p><br><p>　とまあ泣いてばかりもいられない。</p><p>　三年目の春。</p><p>　一年目は激動の年だったので「激」</p><p>　二年目はとにかく闘ったので「闘」</p><p>　。。。。。</p><p>　。。。。。。。。。。。。</p><p>　激闘甲子園になってしまった。。。。</p><p>　これではいけない、と思い、今年はすでに一字を決めた。</p><p>　「拓」</p><p>　いろいろ、拓けますように。拓く努力をする一年にすると誓う。</p>
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<link>https://ameblo.jp/tsugumu/entry-11223516623.html</link>
<pubDate>Sun, 15 Apr 2012 08:56:58 +0900</pubDate>
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<title>映画「The rite」</title>
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<![CDATA[ <p>　先日公開された映画を観た。</p><p>　ホプキンス＋エクソシスト＝オカルト、と思っていたら大間違い。</p><p>　大変勉強になった。</p><br><p>　<em>新約聖書　テモテへの第一の手紙　６章１２節</em></p><p><em>信仰の善き闘いを戦い、永遠の生命を勝ち取りなさい</em></p><br><p>　を引用した、最後の科白、</p><p><font color="#006633" size="5">Fight, the good fight</font></p><p><font color="#006633" size="5"> with all thy might.</font></p><br><p>　という言葉が大変印象的だった。</p><p>　無力ではあるが、闘いは続けねばならない。</p><p>　巨きな悪、システムとの闘い。</p><br><p>　我が師は、「最初から負けが決まっているかもしれない」と云う。</p><p>　そうかもしれない。</p><p>　だが、負けるとわかっているから闘わない、というのは間違っている。</p><p>　負けると知りつつも闘う。そこには何等かの意味が生まれるはずだ。</p><p>　という僅かな希望を抱いて、今日も現場へ向かう。</p>
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<link>https://ameblo.jp/tsugumu/entry-10881685763.html</link>
<pubDate>Thu, 05 May 2011 00:41:09 +0900</pubDate>
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<title>人権教育、道徳教育</title>
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<![CDATA[ <p>　丸一年ぶりの記事となる。</p><p>　書きたいことは日々積もれども、なかなか筆を執ることができず。</p><p>　いつのまにか、関東の一都市で、本職に就いてしまった……</p><br><p>　迷いが消えない。罪悪感が常にある。</p><p>　まず自己肯定感は低いまま。</p><p>　ともあれ、偉そうにキョーイクに従事しているのではある。</p><br><p>　さて。</p><p>　道徳やら人権教育やら。言葉は立派で美しいが。</p><p>　現状はどうか？</p><p>　フツー学級で遣えない教員を特別支援に回し、さらに遣えないモノを支援学校に「回す」。</p><p>　このシステム。</p><p>　この現状があるうちは、子どもにいくら立派なキョーイクを施しても、まったく説得力をもたない。</p><p>　なんてむなしい教育であろうか。</p><p>　むしろ、教育というものの空虚さを子どもたちに伝えてしまっているのではないか。</p><p>　私はいつか、堂々と、管理職に伝えたい。この事実を。</p><br><p>　私には守るべき家族がない。</p><p>　だから闘うことができる。</p><p>　一人で。誰もまきぞえにせずに。</p><p>　そのためにこそ、独りでいるのではないかと思う。</p><p>　今このときも。</p>
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<link>https://ameblo.jp/tsugumu/entry-10746714053.html</link>
<pubDate>Fri, 24 Dec 2010 20:18:53 +0900</pubDate>
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<title>challenged</title>
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<![CDATA[ <p>　今秋、ＮＨＫで放映されたドラマ「チャレンジド」。</p><p><a href="http://www.nhk.or.jp/dodra/challenged/index.html">http://www.nhk.or.jp/dodra/challenged/index.html</a></p><br><p>　題名にひかれて、生真面目に見た。</p><p>　番組ＨＰには今も「感動」「感動」「感動」、の大合唱。</p><p>　そうなるんだろうなぁ。</p><p>　それを期待して作られたドラマなんだろうなぁ。</p><p>　と思って、見ているときにはとても複雑な気持ちになった。</p><br><p>　題材、題名はよいと思う。取り組む姿勢ももちろん。</p><p>　だ、けれども。</p><p>　安易に「感動」を創らないでもらいたい、という気持ちが強い。</p><p>　もちろん、健常者と比べると、ノーマライズされていない現代日本で生きる障害者たちは、常にチャレンジを強いられるので、その一挙手一投足が「感動」するに足るエネルギーをもつ。</p><p>　だが。</p><p>　チャレンジさせているのは何か、ということをこそ考えてもらいたい。</p><p>　チャレンジしている姿に「感動」するのは終わりにしてもらいたい。</p><p>　無為なチャレンジをしなくて済む世の中にしなくては……</p><br><p>　番組ＨＰでの「障がい者」という表記についても、思い出したときに書いておこう。</p><p>　最近はこの表記が定着しつつある。「しょうがい者」や「障碍者」など、「障」と「害」の漢字の持つマイナスイメージを払しょくしたいのだという。</p><p>　これも問題の本質からずれている。</p><p>　安易に変えないでもらいたい。</p><p>　健常者に対して、障害者が少数派であることに間違いはない。大多数の健常者にとって、障害者と呼ばれるゆえんである「障害」は、やはり障壁であって、日常生活に害をなす。</p><p>　いわゆる「障害」が、障壁や害ばかりではないこと、障壁や害がよりよい結果をもたらすこともあること、それはわかる。</p><p>　先天的な障害のある方にとっては、健常者から見る障害が、障壁にならない場合もあろう。</p><p>　だが問題は、「障害者」に対する健常者の無知と、無知からくる差別なのだから、そこだけを集中的に訴えるべきである。</p><p>　その際、もともと悪いイメージの言葉だからやめてほしい、というだけでは、無知な人は無知なままだから、差別はなくならない。</p><p>　いわゆる差別語として消えつつある、ツンボ、メクラ、などの言葉。これらは差別を助長するから、という理由で消されているのではないか？言葉は消えたから差別も消えただろうか？</p><br><p>　なぜ障害者が不利益をこうむるのか。このことをこそ考えるべきである。</p><p>　そして、どうすれば、みんなが楽しく暮らしていけるのかを。</p>
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<link>https://ameblo.jp/tsugumu/entry-10419121300.html</link>
<pubDate>Fri, 25 Dec 2009 13:41:56 +0900</pubDate>
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<title>うじきつよし氏のこと</title>
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<![CDATA[ <p>2009/08/10</p><br><p>　昨日、<a href="http://www.tv-asahi.co.jp/d-sengen/" target="_blank">ドキュメンタリ宣言</a> で、うじきつよし父子について取り上げていた。</p><p>　かなり感銘をうけた。</p><br><p>　職業軍人の父が、戦争当時の記憶、行動を、否定だけではなく肯定もする。あるいは、負の感情（辛さ、空腹など）を明らかにしないことに、うじきは苛立つ。半ば怒鳴るように、問い詰めるように、父に向かっていく。</p><p>　その真摯な姿に、見入った。</p><p>　これは、単に個人的な父子の問題ではない。そう意識されているからこその、うじきの行動、発言なのだと思う。もちろん、その土台となるのは、あくまでも個人的な父子関係であるが。</p><br><p>　うじきの主張、表現者としてのそれに、強く共感する。</p><p>　一方で、父親の生き方、表現の仕方にも、共感する。</p><br><p><font color="#008000">　戦争はいけない、絶対にしてはいけないと言っているじゃないか。</font></p><p><font color="#008000">　お前は何がいいたいんだ？</font></p><p><font color="#008000">　お前は、反戦だというが、ある状況下におかれたり、世の中の流れにあっては、お前も戦争するかもしれん。</font></p><p><font color="#008000">　そういうものだ、人間は。</font></p><p><font color="#008000">　それをしっかり認識していないと、間違うよ。</font></p><br><p>　この言葉がすべてだと思う。</p><p>　戦争は悪。間違いない。</p><p>　だが、当時、軍部に煽られた民衆を責めても、しかたがない。みんな被害者だ。</p><p>　もちろん、加害者でもある、ということを忘れてはならないが。</p><p>　加害者である面を、面と向かって指摘し、追及しできるのは、やはり親子だからこそ。うじきも、他人には同じことを決してしないだろう。だからこそ、それを自らの使命として課しているのかもしれない。</p><p>　辛いことでもあると思う。それを貫こうとする、強い精神力、意志に、敬意を表する。</p><br><p>　うじきの言うように、すべての戦争は、どんなことが理由であろうとも、行ってはいけない。</p><p>　同行ディレクターが、うじきを責める気持ちも、わかる。戦争を肯定する立場もわかる。実際に世界は戦争を肯定している。</p><p>　だからこそ、表現者は、反戦を唱えなければならない。</p><p>　戦争では何も解決しない。暴力に暴力で向かってはいけない。</p><p>　暴力をふるわれたらどうするか？　ふるわれないようにするしかない。</p><p>　抑止力が必要？　暴力と武器以外の、抑止力を持たなくてはいけない。</p><p>　もっとも有効な抑止力は、あらゆるものを破滅させる核ではなく、絆だ。あらゆるものたちの、つながり。</p><p>　家族が襲われたら、どうするんですか？とディレクターは問う。家族のために戦う、という答えは誤りだ。ついそうしてしまう本能があることを意識しながら、その意識を制御しなくてはならないのだ。</p><p>　戦争行為そのものだけではなく、その背景をしっかり探るべきだ。</p><br><p>　だから、戦争の記憶を過去のものにしてはいけない。</p><p>　いつも、心に留めて、意識しなければならない。過去の経験を活かさなくては。</p><p>　決して流されまい、と。決して戦争に加担するまい、と。</p><p>　オトナは笑うかもしれない。この国で米国の軍事力に守られている時点で、今このときも、戦争と無関係とはいえないのだ、と。</p><p>　それでも、なお。強く、決意する。</p><br><p>　うじきが行おうとしているのは、記録を残すこと、に尽きる。</p><p>　職業軍人として生きた人の、人間としての本音を記録しようとしている。</p><p>　ときに荒々しいのは、本音を隠して、本音から逃げようとする父親への苛立ちだろう。たぶん、逃げることを悪と教える、強い父であられただろうから。単に、戦争を肯定するなと責めているのではない。</p><p>　逃げるな、と教えたあなたが、今まさに僕から逃げる。そういう気持ちだったのだろうと想像する。</p><p>　親子であるという関係に留まるならば、うじきも、よもやこうまでしないだろう。父親を、カッコいい強い軍人のまま死なせただろう。だが彼は表現者としての自分の役割に自覚的なのだ。誰もが逃げる、嫌で辛い役割を引き受けている。</p><p>　「じゃぁ、どうしたらいい？」</p><p>　その問いに答えられるものはいない。うじき本人も、そしてすべての人も、考え続けるしかない。</p><br><p>　ディレクターのスタンスにも敬意を表する。</p><p>　<a href="http://www.tv-asahi.co.jp/d-sengen/contents/diary/cur/index.html" target="_blank">編集後記</a> を読んで、心が痛んだ。</p><p>　同行して、記録を撮る、精神の強さ。それを放送に耐えうるように、たった一時間にまとめる構成力。</p><p>　感情をあらわにした己を晒す覚悟。この部分を切ることもできたはず。</p><p>　私には、とても真似できない。</p><p>　おかげで、さまざまなことを勉強しました。改めて意識しました。</p><p>　番組ＨＰに、たくさんの意見が寄せられていて、興味深く読んだ。</p><p>　そして、やっぱり、まだまだ戦後なんじゃないか！と、思った。戦争を知らないとか、簡単に言ってはいけない。知らないなら勉強すればいいだけだ。勉強だけで理解したと思うなよ！？とか言わないで。何も知らない、と言い放つことの恐ろしさに気づいて。</p><br><p>　大岡信は、「日本人は毎年８月６日から敗戦記念日までの一週間だけは正気に戻らねばならぬ」、と言った。</p><p>　毎年、その言葉を思い出す。</p>
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<pubDate>Tue, 11 Aug 2009 16:59:56 +0900</pubDate>
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<title>単位</title>
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<![CDATA[ <p>　年末のお笑い番組でNON STYLEを見ていて思い出した。</p><p>　NON STYLEは、火事を「７２メラメラ」と表現。松岡修三の指導が「１メラメラ」。大火事は１００メラメラで、１００メラメラは１ボウボウだという。</p><br><p>　単位には、本当に面白いものがある、という話。</p><p>　聾学校実習で、理科か何かの研究授業の講評で。</p><p>　痛みを表す単位で、「hanage」というものがある、と……</p><p>　１hanageは、1cmの鼻毛を1Nで引く時の痛みだという……</p><p>　出産時の痛みは2.5～3.2Mhanage（メガハナゲ）……</p><p>　SI組立単位、国際的に認められているものらしい。</p><br><p>　そういうことにも目を向ける。</p><p>　ものごとの根本を知り、そこからさまざまな世界を見せてあげられるように。</p><p>　自分がまず知らなければ、子どもたちに教えることはできない。</p><p>　常にそのような学びを続けること。それが教員である、という教え。</p><p>　……だったような。</p>
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<link>https://ameblo.jp/tsugumu/entry-10184864965.html</link>
<pubDate>Mon, 29 Dec 2008 20:18:55 +0900</pubDate>
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<title>岡山駅突き落とし事件</title>
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<![CDATA[ <p>　少年はアスペルガー症候群（発達障害）との診断を受けたという。<br>　これで、アスペルガー症候群についての正しい認識が一般に広がるとよいのだが。逆に誤解が広まる場合が多いので心配である。</p><br><p>　近年、発達障害について注目されることが多い。過去には障害ではないと思われていたものが、実は障害なのだと認定されるようになってきた。<br>　障害児教育の場でも、従来は重度の障害がある場合の教育について多く研究されてきたが、現在は軽度、それも軽度発達障害についての研究が多いという。<br>　日本では特殊教育諸学校として、盲・聾・養護学校の三種類があった。数的には養護学校が飛びぬけて多く、盲学校がとても少ない。それは障害者（児）数による。<br>　現在は特別支援学校と名称を変え、どの学校でもすべての障害種に対応できるとしているが、いずれにしても数が最も多いのは知的障害と発達障害のある子どもたちである。</p><br><p>　特に多くなってきた（認定される機会が増えたため）軽度発達障害は、細かくいろいろに分類されている。アスペルガー症候群もその一つで、広汎性発達障害、高機能自閉症などとも呼ばれる。私もまだはっきりと理解しているわけではない。<br>　障害名ではなく「自閉的傾向がある」と表現されることも多い。<br>　問題は分類名ではなく、そのような障害があると知ること、知らない人が多いということ。</p><p><br>　聴覚障害もそうだが、軽度発達障害は外見からはわかりにくい場合が多い。だから周囲の人が問題を感じにくい。ゆえになかなか「知ろう」という意識が広がらない。<br>　自分に関係がないと思っているから。<br>　しかし障害は誰にでも関係がある。誰にでも何かしらの障害があるはずだ。それを自覚せず、認定されず、診断されていないというだけのこと。<br>　誰とでもよりよい関係を築くために、どんな人にも考えてもらいたい、できるかぎり正しく認識してもらいたいものである。特に教育関係者は多くの子どもと接するのだから、当然知っておくべきことなのだが。</p>
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<link>https://ameblo.jp/tsugumu/entry-10090864679.html</link>
<pubDate>Thu, 24 Apr 2008 12:29:06 +0900</pubDate>
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