<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>投げやりな午後の隙間風のブログ</title>
<link>https://ameblo.jp/twinbrook/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/twinbrook/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>ブログの説明を入力します。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>「成功者」の体験談</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　先日、講演会でいわゆる「成功者」の体験談を聞いた。</p><p>　「成功者」の体験談はあやしいことが多い。もともと、世の中で成功する人間は自分を語りたがる人種が多く、それに長けているものだ。体験談の中身自体よりも、それを語って他人に聞かせられる時点ですでに「成功者」としての資質を物語っている。聞く側は、うさんくさいよな、と思っていても、語り口によっては自分の身に投影して一時の夢を見ることができる、生のファンタジーであるから、やはり、それはそれで面白い。へたなフィクションより聞く価値はあるにはある。</p><p>　「成功者」の話に不可欠な要素は、「失敗」あるいは「困難」をいかに語るか、ということである。最初から最後まで、うまく行き続けた成功談は普通、成り立たない（時にそれに近いものがあって個人的には大好きなのだが）。そしてその負の体験のなかに自分がやってきた「努力」の要素をいやみでない程度にちりばめる。他人がやらなかった「工夫」という形で自分のオリジナリティーを強調しても良い。要するに、「だから自分は負の要素を正に転換できたのだ。」ということを聞き手に納得させることが必要だからだ。「たまたま運も良かった」などどちょっと謙遜してみせるのも、逆の意味で同じことをやっても「たまたま運が悪ければあなたは成功しないかもよ。」というエクスキューズにはなる。このようなある意味、古典的な成功談は構造は同じでも、中身のバリエーションで、たまに聞くには良いリフレッシュになるものだ。</p><p>　しかしながら最近のポジティブ思考礼賛の世の中で、あふれる「成功談」にさらされるとさすがに疲れてくる。わが身を振り返って、比べるべくもないことをしみじみと思い知らされると、少しずつ、他人の成功がボディーブローもように自分の身をむしばんで、若いころには栄養となったような話もむしろ精神の毒となりかねなくなってくる。自分の先が見える年齢になったからではあるが、昨今の社会状況では、もっと若いうちから自分と同じように感じるひとも多いのかもしれない。自分を信じて、努力を続ければ、いつかは夢はかなう、というキャッチフレーズは使い古されて、もう、彼らの心を動かす力はない。</p><p>　そのなかで大ヒットしているのがホンダのコマーシャルである。</p><p>頑張っていれば、いつか報われる。<br>持ち続ければ、夢は叶う。<br>そんなのは幻想だ。</p><p>たいてい、努力は報われない。<br>たいてい、正義は勝てやしない。<br>たいてい、夢は叶わない。</p><p>そんなこと、現実の世の中ではよくあることだ。</p><p>で始まるCMが日本中で感動を呼んだらしい。人間の小さな努力の成果や幸福を一瞬で押し流した津波によるアドレナリンの上昇後枯渇状態、という今の日本のスイートスポットにいちばんきれいにヒットしたという面も大きいだろうが、それよりも世の中に蔓延する「公式見解」のうさんくささに疲れていた一般人の気持ちに素直に受け入れられた、ということだろう。私たちの成功談、という形を借りて繰り返される教条的な物語の押しつけではなく、まず聴き手側に立って、わかってますよ、と言ってみせることから始める部分が一般人の拒絶感を薄めて、とりあえず聞いてみようか、という気持ちにさせるのだろう。最終的に言っている中身は大きく変わらないのだが・・・。その小さなオリジナリティーに拍手を送りたい気持ちと、こんなことで「感動」させられる自分を含めた世間の薄っぺらさに対するちょっとした寒気を味わいながら。まあ、いいコマーシャルではある。</p><p>　</p><p>　</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/twinbrook/entry-11305505907.html</link>
<pubDate>Wed, 18 Jul 2012 09:08:28 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>死者の贈り物</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　梅雨空のもと、久しぶりに泡盛を取りだす。昨年、沖縄で買い求めたものだ。泡盛を飲むときに使うことに決めているグラスはふたつ。ひとつは沖縄を代表する職人が作った渋い色合いと美しい形の吹きガラス。ひと目見て気に入って買って来たもの。そしてもうひとつはもらいもの、である。</p><p>　沖縄の海を思わせる薄い青色に吹きガラス独特の細かい泡が含まれている。シンプルな形で、おそらく銘のあるものではないのだろうが、よく見ると繊細な細工は間違いなく地元産である。もらったのは10年以上前、すでに亡くなった患者さんからだ。</p><p>　彼女は当時、僕の患者であり、病気は癌、しかも末期の癌であった。彼女自身の目にも、もう、いつまでも続く未来は映っていなかったはずだ。5月、まだ見たことのない沖縄の海が見たいと言った。行って来たら、と僕はものわかりよく言った。どちらにしても大きな違いはない、というのが主治医としての客観的な結論だった。彼女は本当に喜んだ。良かった、ありがとうございます、と。</p><p>　1週間の旅行はもちろん、彼女の最後の旅であり、こちらが予想したよりきつかったようだった。やりたかったことすべてはできなかったけれど、と彼女は言った。でも楽しかった。</p><p>　おみやげをもらった。吹きガラスのグラスと泡盛の古酒と、小さな群青色のガラスの置物。「ありがとう」と刻まれていた。グラスは使わず、引き出しにしまい込んだ。泡盛も飲めなかった。置物は机に飾って眺めた。２ヶ月もたたずに彼女は逝った。</p><p>　</p><p>　何年も経ってふとしたときに彼女のことを思い出した。引き出しにしまっていたグラスを取り出して、古酒の栓を開け注いだ。口に含んで彼女が最後に見た沖縄の海を思った。</p><p>　それ以来、グラスは自分自身が気にいって買ったものと交代で泡盛を飲むときに欠かせないものになった。少し陽気な気分の時は自分で選んだグラスを、沈んだ気分の時は明るい海の色を。優しく、しかし力強く背中を押してくれる気がするからだ。多くのひとを見送っても満足する、という死はない。医学にとって死は敗北そのものだが、そのような高慢な意味合いを除いたとしても、やはり肯定的に受け取れる死など凡人には存在しない。それでも月日を重ねるとそっと寄り添ってくれるような死もある。自分の幻想に過ぎないとはわかっていても。そして少しずつ、しかし確実にその数は増えて行く。待ってるわね、そう言ってくれたひともいた。向こうでは同窓会だろうか、おそらく寂しくはないだろう。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/twinbrook/entry-11281024277.html</link>
<pubDate>Mon, 18 Jun 2012 21:44:24 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>春の庭</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　今年の春は異常である。</p><p>天候の異常を何で判断するかはまちまちだろうが、ある種の定点観測である自分の庭はそのもっとも身近なサンプルだ。</p><p>　こぶしがまったく花をつけなかった。梅が遅かった。八重桜もわずかに花をつけただけで終わってしまった。年年歳歳花相似たりなんてことは全然ない。詩人は一体、何を見ていたのか。</p><p>　庭全体のイメージが暗いのは昨年の秋に忙しさにかまけて手入れをしなかったせいだ。単にチューリップや水仙の球根を100球ばかり、そこここに埋めておくだけでも春の庭はぱっと華やかになる。両方とも昨年、たくさん植えたので、今年も花をつけてくれないかと期待したが、葉ばかり伸びてろくに花が咲かなかった。</p><p>　植物にとって花を咲かせるのは一大事業だ。ときには花を咲かせる前に固いつぼみを摘み取って栄養を貯えさせないと次によい花を咲かせることができない。残酷なようだがそれが現実だ。すべての世代に花を咲かせ、実を結ばせることは、そうしてやりたくても不可能なのである。無理をすれば、土壌自体が衰えてしまう。ひともおそらく同じ。花を咲かせる前に摘まれる順番には当たりたくはないが、それも必要悪か？</p><p>　</p><p>　1年1年でみると、決して庭はバランスが取れてはいない。ある植物が突然、庭中を覆ったかと思うと、数年後には消えてなくなったりする。人間と違って欲望を持たない植物の世界では、ちょうどいいくらいにお互い融通して長く繁栄しそうなものだが、全然、そんなことはない。隙さえあれば最大限に自分の勢力を伸ばそうとするのはむしろ、自然の法則なのだろう。共存はその結果としてのぎりぎりの姿だ。平和ボケの日本ではその事実は受け入れがたいのだろうが・・・。</p><br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/twinbrook/entry-11282766559.html</link>
<pubDate>Mon, 07 May 2012 22:34:54 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>ノルウェイの森</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　20数年ぶりに「ノルウェイの森」を読んだ。最近、何がきっかけか映画化されたらしく、本屋に文庫本が平積みになっていて、ふと、どんな話だったかと気になって買ってしまった。20年前は当時、独特の文体だけに気を取られて、話の筋さえよく覚えていなかったが、こんなに素直なストーリーだったかと思いがけず、好感を持った。文体も昔ほど鼻につくこともなく、むしろ、ストレートな若さが心地よかった。</p><p>　読んでいる途中に、ふと、机の前の小さなCDボックスに内田光子のモーツアルトのソナタ集があるのが目について、取り出してかけて見た。これも、彼女がCDを出した頃によく聞いて以来だから、たぶん20年数年ぶりだ。おそらく、ノルウェイの森を読み返さなければ、改めて取り出して聞いてみようと思うこともなかっただろう。</p><p>　偶然の組み合わせは、その当時の記憶をおぼろげに呼び起こしてくれる。20年前！未来に何を期待していたことか？それはどれほど実現されたのか？</p><p>　村上春樹と内田光子は、たぶんほぼ同年代であり、自分より10歳くらい年上だろう。おおまかには自分は彼らと同じような時代を経て来たわけだ。村上春樹は昨年、1Q84を出版した。いま、改めてノルウェイの森を読んでみると、さすがに比較にならないほど表現力と展開はうまくなっているが、あの頃、未完成な表現力で描こうとした世界は、本質において深まったと言えるのだろうか？『アンダーグラウンド』で彼が得たものの成果が1Q84であれば、ちょっと拍子抜けの感じもする。ジョージ・オーウェルを意識したのだろうが、はたして成功したと言えるかどうか？小説としては圧倒的に面白いのだが・・・。</p><p>　内田は最近、クリーブランドを率いてグラミー賞を受賞した。彼女にとってその表現は、今、聴いている若き頃のCDの生真面目なモーツアルトより満足のいくものだったのだろうか？学生時代に古い京都会館で聴いた彼女の生演奏はいまほどの自信に充ち溢れてはいなかったが、はっとするほどの切迫感があったような気がする。</p><p>　そして自分自身は？おそらく、同じ小説や演奏に対して受け取り方が異なるのは自分が年齢を重ねたことと無関係ではないだろう。20年前に感じたことの一部は今でもそのままに感じられるが、同時に以前は感動したのに2度とあのころと同じ種類の感動は味わえない、という部分と、その頃は気づいてもいなかった表現に感応する部分が混在して、ちょっと混乱したりする。当時はほぼ同年代のものとして味わった作品は、それだけ自分にとっても身近であり、切実感があったはずだが、今は、20歳年上の目から、少し余裕を持って眺めることができる。はたして芸術家本人にとって過去の自分の作品はどのような光を発するものであろうか？とも思う。</p><br><p>　</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/twinbrook/entry-11281173655.html</link>
<pubDate>Mon, 12 Mar 2012 20:12:14 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>かくてありけり、今年もまた。</title>
<description>
<![CDATA[ <p>浮き沈みはいつものこととして、少なくともこの数年、年初に浮いていた記憶がない。今年も水面下からのスタートである。たまたまそうなるのか、この時期特有の現象なのかはわからない。いくら厚着をしても体のどこかに隙間風を感じてしまうようなこの数日は、なすべきことがないわけではないが、どうしても腰を上げるだけの気分的な血糖値に達しない。自分に対しても他人に対しても共感という感情の発露に見放されたような気持ちに襲われ、間欠的な痛みをやり過ごすときと同様、ただ丸まって通り過ぎるのを待つしかできないのだ。このような瞬間がいつかは終わることはまあ、経験的にわかっていることではある。しかし、だからと言って通り過ぎた後の未来に対して何の感情も持てないことが、結局、すべての憂鬱の根源である。</p><p>原因はわかっているはずだ。いや、本当にわかっているのだろうか？</p><p>隙間風を吹かせたままで、そのなかにいくらかでも温かいものが混じるのを期待するような、あるいはむしろ嫌悪するような中途半端な気分のままでまた新しい年を始めることになった。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/twinbrook/entry-11129746365.html</link>
<pubDate>Fri, 06 Jan 2012 00:45:52 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
