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<title>あんとれ新聞</title>
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<description>世界を引き受け、日本を引き継ぐ</description>
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<title>さいしょの記事は過去日記</title>
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<![CDATA[ <a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=3830945" alt0="BlogAffiliate" target="_blank">ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ/デヴィッド・ボーム<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F41UEX2iIpvL._SL160_.jpg" border="0" width="109"></a><br>￥1,680<br>Amazon.co.jp<br><br><br><br><br>「『愛があればすべてうまくいく』と言う人がいる。だが残念ながら、すべてを救う愛は存在しない。<br>だから、もっと良い方法を考えなければいけないんだ。」 <br><br><br>対話の目的は、物事の分析ではなく、 議論に勝つことでも意見を交換することでもない。 <br><br>そして、対話の何よりの障害となるものは、想定や意見に固執し、それを守ろうとすることだ。 <br><br>われわれは様々な想定（意見）をもっている。想定とは、過去の思考の結果である。 <br><br><br>そして人は、想定（意見）と自分とを同一視し、それを守ろうと反射的な対応するかもしれない。 <br><br><br>ある人は、何かが問題だという。ある人は、その考えが問題で、こちらの視点からみると「これこそが」問題だという。 <br><br>そして二人はひとたび離れて、「何が問題なのか考えてみよう」という。 <br><br><br>しかし、問題だと描写する、思考構造自体が問題を生み出しているのだとしたら。そこで、個人的思考と集団的思考を記述する。 <br><br>ボームは対話における目的を「意味の共有」とする。そして、意味の共有に到ることは、集団的思考を一にすることであり、対話はそこに到るまでのプロセスであるとする。 <br><br>「対話」をおこなうためには「想定（＝個人的思考）を保留状態」にする必要性があるのである。 <br><br>そして、その「必要性」を駆り出すための書籍がこれ。 <br><br>彼は、集団的思考（=暗黙知）の深層構造を解明する必要があると叫ぶ。 <br><br>深層構造は、「いかなる意味を共有してきたか」といことであろう。それが文化である。 <br><br>参考を見て頂きたいが、 <br>この著作は、ボームが全体性の回復を叫ぶあまりに部分（断片的）に回収されている。ボーム自身が部分と全体を語る言葉（記述スタイル）を探索していたのだろう。 <br><br>参考 <br>http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1074.html
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<pubDate>Tue, 09 Sep 2008 21:05:43 +0900</pubDate>
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