我が学習の変遷の記録(旧・宇宙わくわく共創局) https://ameblo.jp/uchuuwakuwaku/ オーストラリアに移住してから、様々な学びを経験してきました。心理学、自己啓発、スピリチュアル、歴史、教育、哲学、などなど。長年にわたる、私の学習経験をシェアするブログです。 ja-jp 〈叱る依存〉を抜け出すために https://ameblo.jp/uchuuwakuwaku/entry-12844562990.html 脱「叱る依存」の一つの視点として、極力叱るような状況にならないような事前の取り組み(前さばき)が重要なようだ。その際、相手に一般論を当てはめず、ニューロダイバーシティの観点から、一人ひとりが全く異なる見方や方法で学習する存在だと認識することが大切。「叱る依存がとまらない」からの学び野中恒宏 2024-03-28T06:45:27+09:00 生徒たちとコラボした作品 https://ameblo.jp/uchuuwakuwaku/entry-12844562861.html 日本語の授業で、生徒からの質問で、「刑務所」や「牢屋」という言葉が出てきた時、生徒たちは「牢屋」と英語のLawyer を瞬時に結びつけた。そこからインスパイアされてこの五七五の句ができた。言ってみれば生徒とのコラボだ。野中恒宏 2024-03-27T06:43:01+09:00 ぐっすりはgood sleepか?! https://ameblo.jp/uchuuwakuwaku/entry-12844562709.html 「ぐっすり」の語源や由来を調べたら、「Good sleep」ではないらしい。しかし、両者は非常にしっくりと繋がる感じがすることは私は個人的に否定できない。また「ぐっすり」の訳のSoundlyには「音」と「健全な」という由来があるようだ。イビキは健全ではないのに(笑)。野中恒宏 2024-03-27T06:40:41+09:00 叱っても効果がないわけ https://ameblo.jp/uchuuwakuwaku/entry-12844562569.html 「〈叱る依存〉がとまらない」を読んでいるが、「叱り」をしつけの万能薬のように依存してはまずいようだ。叱った側は報酬回路が働いて快楽になるかもしれないが、叱られた側は防御回路が働いて苦痛に感じ、受け入れず闘争か逃走か硬直してしまう可能性が高まる。叱っても効果がないと考えた方が良い。野中恒宏 2024-03-26T06:38:22+09:00 そもそも観光とは何か? https://ameblo.jp/uchuuwakuwaku/entry-12844562425.html 「観光」という言葉は中国の「易経」の中の「国の光を観る」が由来のようだ。つまり、その国の威光や良さが国の隅々まで行き渡っているか視察するような意味合いらしい。そう知ると、旅行する時、その国の光(美)がどのような形で人々の生活の中に現れているか知りたくなる。そしてその光の裏にある闇も。野中恒宏 2024-03-25T06:35:36+09:00 叱る時何が起きているのか? https://ameblo.jp/uchuuwakuwaku/entry-12844562356.html 「叱る」という言葉の一つの由来に「敷く」がある。そこから導き出されるイメージは、畳に広げられた風呂敷。誰からも全体像が見えるように、準備段階から問題を広げて、改善するように指示する様子が見える。そこには指示する人間の心も指示される人間の心も開かれている必要があるだろう。野中恒宏 2024-03-24T06:33:55+09:00 なぜ人間は傷つくようになっているのか? https://ameblo.jp/uchuuwakuwaku/entry-12844562223.html 「大切」の「大」は体を開き、「切」は刀を突きつけて縦横に切る原義があったようだ。大切なものを蔑ろにされると傷つくが、大切なものが傷つくのは必然なのかも。大切なものは自らオープンにして切られることで、大切でないものとの区別が明確にできるのかもしれないと思った。野中恒宏 2024-03-23T06:31:31+09:00 怒りはなぜ存在してきたのか https://ameblo.jp/uchuuwakuwaku/entry-12844562096.html 「怒りの人類史」の中で、「怒りは種の起源と進化にある役割を果たしている」というダーウィンの見解が紹介されている。「怒り🟰ネガティブ」と決めつけていると、怒りの多様性や怒りと相乗効果で進化に貢献した無数の諸要素を見落とすことになるのだ。怒りは、必要性があるから人間に備わっている。野中恒宏 2024-03-22T06:29:08+09:00 怒りは単純化しちゃダメ https://ameblo.jp/uchuuwakuwaku/entry-12844562021.html 怒っているようでもその人自身の「怒り」という言葉だけで片づけようとするのは、情動の多様性を無視。それは、不当なことに対する正当な抗議、悲しみや共感の表現、癒しを求める想いなのかもしれない。歴史や社会の諸要因の中で形成されてきたものかもしれない。個人のみの問題にするのはやめにしたい。野中恒宏 2024-03-21T06:27:40+09:00 「ウザい」本質 https://ameblo.jp/uchuuwakuwaku/entry-12844561937.html 日本で多用される「ウザい」だが、語源は多くの虫や魚が動いている様子にゾッとする「うざうざ」という江戸時代の表現。そこから鬱陶しいという意味に派生した模様。対象が人間の場合、たった1人であっても繰り返し不快なことをされると、一杯一杯になりウザい気持ちになります。そっとしておいてね。野中恒宏 2024-03-20T07:26:14+09:00