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<title>ユウジン’ｓ NOTE</title>
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<title>消費と浪費</title>
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<![CDATA[ <span style="font-size: 14px;">ＮＨＫの「哲子の部屋」という番組を観た。<br><br>人類はこれまで浪費をしてきた。<br>しかし最近になって人類はまったく新しいゲームを始めた。<br>それが消費。<br><br>結論としては、浪費を今よりもするべき。<br><br><br>浪費には満足がある。好きなケーキといっても、無限に食べれるわけじゃない。<br>いつか満足がくる。このように浪費には上限がある。<br>それに対して、消費には満足がない。<br>なぜならそれは情報を消費するから。<br>モノ自体ではなく、それに付随する価値やイメージを消費する。<br><br>情報であるためいくらそれを得たところで満足する実感がない。<br>一時は満足してもすぐに新たな欲望にかきたてられる。<br><br>たとえば、グルメブーム。<br>あれは料理を味わうというより、<br>雑誌で紹介された店にいくことで得られるイメージや<br>優越感のようなものを得ているのである。<br><br>ブランドに対するあこがれも消費といえるだろう。<br><br>とはいうものの、人間の脳にはブランドといった付加価値を好む<br>性癖が脳に組み込まれていると、最近の脳科学では言われている。<br><br>そのため、この消費にあらがうのは難しいのかもしれない。<br><br>浪費はモノ自体を味わう。<br>身体性を取り戻すということなのだろう。<br><br>言葉では分かっていても訓練が必要だ。<br></span><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ujindays/entry-11343217493.html</link>
<pubDate>Sat, 01 Sep 2012 10:57:05 +0900</pubDate>
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<title>願望実現思考</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size: 14px;">願望実現のためには、～したい、～が欲しい、～になりたい<br>と強く願うのではなく、<br>出来て当たり前、手に入れて当たり前、なって当たり前<br>と、実現することを当然のように考える必要がある。<br><br>手に入れている人に共通している特徴は、<br>手に入れて当然という感覚、<br>あるいはすべて手に入れている感覚を持っていることである。<br><br>無意識は、今、ここしか認識できないためである。<br><br>～になりたいと強く願うことは、<br>「今」手に入れていないというメッセージを無意識に届けることになる。<br><br>アズイフフレームは願望を実現する上で有効。<br><br>願望を実現した後に、何をしたいのかをイメージすることが大切。<br><br>希望の会社に入社できる人は、その会社に入りたいという思いの強い人ではない。<br>入社してからやりたいことを持っている人がその会社にパスするのである。<br><br>脳は快につながるような行動をとるときに<br>最大限に働いてくれる。<br><br>脳は様々な事柄を一般化する。<br>もちろん自分に対しても一般化している。<br><br>スポンサーとはありのまますべてを受け入れる人。<br><br>結局、自分はある意味で他人であり、自分のことは分からない。<br>本来、物事の価値は無色透明である。<br><br><br>目先の目標にとらわれすぎていた。<br>アズイフフレームで考えることは重要である。<br>また目的本位で生きていこう。<br></span></p>
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<link>https://ameblo.jp/ujindays/entry-11340268983.html</link>
<pubDate>Tue, 28 Aug 2012 21:10:28 +0900</pubDate>
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<title>世界を拡げる</title>
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<![CDATA[ 効果的に筋トレを行うには、<br>出来なくなるまでやらなければならない。<br>一度筋肉を壊す必要がある。<br><br>限界をこえなければならない。<br><br>セーフティゾーンやコンフォートゾーンの中にいてはある種の成功が出来ないということ。<br><br>安全圏にいては世界は狭くなるばかり。<br><br>最近の活動を振り返った時、<br>出発の時点では、世界を拡げるための<br>行動であったにも関わらず、<br>いつしか狭める行動になってしまっていた。<br>手段の目的化ってことかもしれない。<br><br>なんのためにやるのか？<br><br>目的を見失わないようにしよう。<br><br><br><br><br>iPhoneからの投稿
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<link>https://ameblo.jp/ujindays/entry-11338132901.html</link>
<pubDate>Sat, 25 Aug 2012 07:11:20 +0900</pubDate>
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<title>生き延びる技術</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size: 14px;">生き延びる技術とは、必要とされることである。<br><br>必要とされるためには、何か専門的な技術を持っている必要はない。<br>必要とされる人は、一緒にいたいと思う人のことである。<br>そして、その人がいるだけで、そのコミュニティが活気づくような、<br>そんな人である。<br><br>必要とされる人の一つの具体的な例としては、<br>相手を理解することができる人物だろう。<br><br>相手を理解することは本当に難しいように思う。<br><br>ついつい脳はラべリングしてしまい、<br>既知の情報と結びつけてしまう。<br><br>相手を理解する。<br>たとえば、相手が言葉に表さなかったり、<br>はっきりと態度に表さなかったりしても、<br>相手の本当の気持ちを汲み取ること。<br><br>これが理解することの一つだろう。<br><br>今日話した女子は、<br>彼氏や友達に本当に思っていることを直接伝えないという。<br>その替わり、プロフやＳＮＳに本当の気持ちを綴っているという。<br><br>また、相手に自分の要求を伝えることもないそうだ。<br>相手のニーズを常に受け入れるという。<br><br><br>…さて、自分ははたしてどの程度これまで<br>相手の気持ちを理解できていたのだろうか？<br>もしかしたらほんの数％だったかもしれない。<br><br>修行が必要ですなｗ<br><br></span><br><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/ujindays/entry-11336987122.html</link>
<pubDate>Fri, 24 Aug 2012 23:16:28 +0900</pubDate>
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<title>恋愛についてのメモ</title>
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<![CDATA[ <span style="font-size: 14px;">思いやり程度では本当の恋愛には至らない。<br><br>ここでは言う、思いやりは、相手が弱ったそぶりや、傷ついているそぶりを<br>見せているときに、手を差し伸べる行為。<br><br>これでは本当の恋愛には至らないそうだ。<br><br>相手が弱っているそぶりをみせなくても、<br>涼しい顔をしていたとしても、<br>苦しみに気付いてあげることが必要。<br><br>恋愛や性愛で目指すべきある種のゴールは、<br>出会ったことでこれまでの生き方や価値観が変わったり、<br>相手に成長をもたらせることができること。<br><br>また、相手にニーズを質問することが多い。<br>相手に合わせようとすることが多い。<br>そうではなくて、新たなニーズをつくるような<br>関係性を目指すべき。<br><br>もちろんそのためには、自分のことにとらわれているような<br>ナルシシズムのようなものにとらわれていては不可能。<br><br>すべてはさりげない自然の延長線上で振舞うことが大事。<br><br><br>うーん、尋問のように聴いてしまうことが多い。<br>そしてそれに合わせようとしてしまう。<br>最近を振り返ってみると。<br><br>その前に余裕とかそういうものが足りないのかもしれない。<br>その前のステージということかもしれない。<br><br>次のステージを目指しつつ、<br>それにとらわれすぎないで<br>今をしっかりと生きよう。<br><br><br><br><br></span>
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<pubDate>Wed, 22 Aug 2012 21:45:40 +0900</pubDate>
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<title>分かっていることと出来ること</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size: 14px;">感情が先なのではない。<br>行動が先。<br><br>行動することによって、感情が生まれる。<br>笑顔になるから楽しいのではない。<br>楽しいから笑顔になる。<br><br>笑顔に似た表情を作るだけで、<br>ドーパミン系の神経活動が変化する。<br><br>ドーパミンは快楽に関係する物質である。<br><br>恐怖についても同じだろう。<br><br>怖いから踏み出せないのではない。<br>踏み出せないから怖いのだ。<br><br>踏み出さないままだから恐怖に支配されるのである。<br><br>そうならないための一つの方法として、<br>最初が肝心である。<br><br>終わりよければ全てよし<br>これは正しいが、<br><br>はじめよければ全てよし<br>これも正しいだろう。<br><br>頭では分かっていた。<br><br>これを完璧に行動にするための<br>方法の一つが毎日の習慣だろう。<br><br>自律した生活である。<br><br>いいとこどりは何事に対しても出来ないのだろう。<br></span></p>
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<link>https://ameblo.jp/ujindays/entry-11334464164.html</link>
<pubDate>Tue, 21 Aug 2012 22:28:02 +0900</pubDate>
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<title>肉体もまた理性</title>
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<![CDATA[ <span style="font-size: 14px;">”人は自分自身に無自覚であるという事実に無自覚である”<br><br>抽象的な思考は、身体の運動から派生しているらしい。<br>たとえば、計算は身体感覚に関係しているということ。<br><br>足し算や引き算などの計算は、<br>眼球を左右に動かす時の運動がもとになっている。<br><br>この例で思いだされるのは子供の時。<br>数を数える時は指を折って数えていた。<br><br>大きくなるにつれて、眼球の動き、指の機能をはじめてとして、<br>多くの機能が、省略できるようになり、内面化した。<br><br>また、話すとき、手が動いたりするが、<br>しゃべることとと手の動きはもしかしたら関係しているのかもしれない。<br><br>脳は階層的になっている。<br>脳幹や小脳は身体と深い関係のある部位であり、<br>旧脳と呼ばれている。<br>この旧脳の上に、大脳新皮質が存在する。<br>大脳新皮質は、身体の関わりは、旧脳にくらべて希薄。<br><br>進化の過程で大脳新皮質が「優位」になった。<br>その結果、身体を希薄に考える癖がついた。<br><br><br>分かることや知ることは、=できることとは違う。<br>できそうだと思っても、練習なしにはできない。<br><br>スポーツでも素ぶりは大事。<br>振り返ってみれば、最近「素ぶり」していなかった。<br><br>脳の構造からすれば、<br>身体感覚がベース。<br><br>そういえば、ある人は、<br>「ネットに使った時間と同じだけ、身体を動かすべき」<br>と言っていた。<br><br>また、音読ってその意味でも重要な気がする。<br>何かを学ぶ際には身体感覚が不可欠なのかもしれない。<br><br>まだ知らないことが自分には多すぎる。<br>このことに最近、無自覚すぎたかもしれない。<br><br>やっぱり自分のことは無自覚だなあ。<br>これについてはいつも自覚的でありたい。<br>謙虚さってことかもしれないが。。。<br><br><br><br><strong>人間の肉体は一つの理性である。<br>　　　　　　　　　　　ニーチェ</strong><br><br><br><br><br></span>
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<link>https://ameblo.jp/ujindays/entry-11333638980.html</link>
<pubDate>Mon, 20 Aug 2012 21:19:01 +0900</pubDate>
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<title>自由意思はないのか？</title>
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<![CDATA[ 人の行動は習慣によって決まっている。<br>そのため80%以上の確率である人の行動パターンは分かってしまうらしい。<br><br>最近の研究によれば、自由意思はイリュージョン。<br>自由意思は脳にあるのではなく、<br>環境や身体の状況によって決まる。<br>言い換えれば、自由意思は、環境因子やその人の思考のクセによって決まる。<br><br>僕たちが自由意思だと思っていたものは、実は反射である。<br>ここでいう反射とは古典的な脊髄反応とは別のもので、経験から生み出されるもの。<br>直感やひらめきに似ている。<br><br>反射を鍛えることが、よりよく生きること。<br>そのためには、よい経験をすること。<br><br>よく1万時間をかければ何事も身につくと言われる。<br>これは長い時間をかけることで、<br>反射が洗練されるためともいえる。<br><br>その意味で、人生で何を習得するかを考えることは重要だ。<br><br>機会コストという意味で。<br><br>二兎を追うものは…である。<br><br>またこれを突き詰めれば、ほとんどのものは、パターン認識で上手く行くのかもしれない。<br><br><br><br><br>iPhoneからの投稿
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<link>https://ameblo.jp/ujindays/entry-11330832726.html</link>
<pubDate>Fri, 17 Aug 2012 16:58:14 +0900</pubDate>
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<title>比較すること</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size: 14px;">嫉妬や劣等感を感じる時の脳の動きを観察すると、<br>不安を感じた時の脳の動きと同じでであるそうだ。<br><br>具体的には、自分より優れたものと比較したとき、<br>前帯状皮質や扁桃体という不安や苦痛を司る部位が反応するようだ。<br><br>嫉妬や劣等感は、不安とは通常区別される感情である。<br>しかし、嫉妬や劣等感は不安を生みだすということのようである。<br>不安と劣等感は、共通した動物的な情動なのかもしれないのである。<br><br>嫉妬や劣等感は他人と自分を比較してはじめて生じる感情である。<br><br>他人と比較してはいけない<br><br>これは以前から多くの自己啓発本などで書かれている。<br><br>その理由として、通常は比較してもポジティブな意味がないからであるとされるが、もし嫉妬や劣等感が不安を導くとすれば、尚のこと比較は避けていきたい。<br><br>たしかに、嫉妬や劣等感をバネにしてそれをモチベーションに変えて<br>頑張れる場合もあるかもしれない。<br>しかし、嫉妬や劣等感によって不安を生じることが<br>以前のブログの記事で書いたシャーデンフロイデのように<br>根源的に脳に組み込まれた感情であるとすれば、多少の不安は覚悟せねばならないといえる。<br><br>たしかに、他人の成功に嫉妬するとき、そのあと何とも言えないような感情が<br>湧き上がる。<br>今回その感情の正体にようやく気付いた。<br>たしかにあの感情は不安だろう。<br><br>よく言われるように、劣等感や嫉妬を感じるのは、<br>そうした感情を抱いた相手のようになりたいがためである。<br><br>そうであるならば、この場合の不安は、プレッシャーに似ているのかもしれない。<br>自分にははたしてできるのだろうか？<br>というような。<br><br>その意味で多少の不安は必要悪のようなものなかもしれない。<br>それにとらわれず、刹那刹那に集中して行動してきたいと思う。<br><br><br><br></span></p>
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<link>https://ameblo.jp/ujindays/entry-11330210247.html</link>
<pubDate>Thu, 16 Aug 2012 21:06:40 +0900</pubDate>
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<title>他人の不幸は蜜の味</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size: 14px;">シャーデンフロイデという言葉がある。<br>他人の不幸を喜ぶ感情のことである。<br><br>他人の不幸を喜ぶことに対しては、罪悪感を感じると思う。<br><br>しかし、最近の研究によると、<br>他人の不幸に対して喜びを感じる感情は、<br>脳にもともと組み込まれているそうである。<br><br>つまり、他人の不幸をエネルギーに変えて頑張るのは効果があるといえそうです。<br>もちろん、倫理や道徳とのバランスが大事なのはいうまでもないですが。<br><br>というのも、他人の不幸を気持ちよく感じる時、<br>たとえば、羨むべき相手が不慮の事故などで不幸に陥ったような場合。<br>この時の脳の動きを観察すると、脳の側坐核という部位が反応していたそうです。<br>この側坐核は、快楽を生みだす場所で、報酬系ともよばれている部位。<br><br>興味深いと思います。<br>他人の不幸に対して、いくら表面上とりつくろっても、<br>少なからずそこに喜びを感じてしまう。。。<br>もともと脳にその感情が組み込まれているからである。<br><br>報酬系は、脳へのご褒美、やる気、モチベーションと深く関係している。<br><br>他人の不幸を喜ぶことを単に道徳的に間違っていると考えてしまうと、<br>自分にとってもつらいし、少しはそうした感情をバネにすることは生物的に<br>間違っていないのかもしれない。<br><br>しかし、開き直って、他人の不幸をあからさまにモチベーションにするのは<br>間違っているだろう。<br><br>人間は他の動物とは違うわけだから、<br>シャーデンフロイデがいくら脳に組み込まれていても<br>そこから自由になることはできるはずだ。<br><br>劇薬も使いよう<br>このようにも言えそうである。。。</span></p>
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<link>https://ameblo.jp/ujindays/entry-11328993009.html</link>
<pubDate>Wed, 15 Aug 2012 11:55:58 +0900</pubDate>
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