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<title>ulysse-nardinのブログ</title>
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<title>展覧会のご案内</title>
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<![CDATA[ <p class="img"></p><p align="center"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/21/ulysse-nardin/5b/af/j/o0689100014659818232.jpg" alt="イメージ 1" width="560" border="0"></p><p></p><p class="img"></p><p align="center"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/21/ulysse-nardin/56/31/j/o0689100014659818240.jpg" alt="イメージ 2" width="560" border="0"></p><p></p>　今週の日曜から僕と母の展覧会をやりますよ． <br>　よかったら来てくださいね． <br><br>　<a href="http://homepage2.nifty.com/sendagi-garou/" target="_blank">http://homepage2.nifty.com/sendagi-garou/</a> <br><br>　もし来るなら、ついでに森鴎外記念館に寄って、谷中でメンチでも食ってくるといいんじゃないかな． <br>　なにげに観光地なんだぜ！ <br>　マニアックな人には、画廊のすぐそばのお寺にある最上徳内の墓もオススメ．
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<pubDate>Tue, 04 Jun 2013 20:15:48 +0900</pubDate>
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<title>絵画 『神話 － イアソンとメディア』</title>
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<![CDATA[ <p class="img"></p><p align="center"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/21/ulysse-nardin/cf/49/j/o0418100014659818217.jpg" alt="イメージ 1" width="418" border="0"></p><p></p>　テッサリアのイオルコス王ペリアスは、異父兄のアイソンから奪い取った王位に君臨していた．あるとき王権について神託を乞うたところ、「片足のサンダルの男に気をつけろ」との託宣があった．果たして、ペリアスの前に片足だけサンダルを履いた若者が現れる．彼の名はイアソン．ペリアスによって王権を奪われたアイソンの息子であり、イオルコスの正統な王位継承者であった．<br>　ペリアスは問う、「市民の一人の手によって殺されるという託宣があったとしたら、お前はどうするか」と．イアソンは「黒海の果てコルキスにあるという伝説の金羊毛皮を持ち帰るよう命じるでしょう」と答えた．こうして金羊毛皮をめぐるイアソンの冒険が始まる．<br>　船大工アルゴスの建造した巨大な船は「アルゴー船」と名付けられ、イアソンの求めに応じてヘラクレス、双子のカストルとポリュデウケス、リュンケウス、アキレウスの父ペレウス、オルフェウスら五十人の勇士が集う．女神アテナの祝福を受けて出発したアルゴー船一行（アルゴナウタイ）は、レムノス、キオスを経て、トラキアでは怪鳥ハルピュイアと戦い、ボスポラス海峡では絶え間なくぶつかり合う二つの巨岩シュムプレーガデス岩の間をくぐり抜けるなど、様々な冒険の果てに遂にコルキスに到着する．<br>　しかし、コルキス王アイエテスに金羊毛皮を譲る意思はなかった．アイエテスはイアソンを罠にかけるべく、火を吐く牡牛を駆って土地を耕し、そこに竜の歯を蒔くという難題を課す．ところがコルキスの王女メディアがイアソンに一目惚れし、自分との結婚を条件に父王を裏切ってイアソンを助ける約束をしてしまう．女神ヘカテの魔術に長けたメディアは、イアソンの体に炎でも剣でも傷つかない魔法をかけ、イアソンは火を吐く牡牛を従わせることに成功する．耕した土地に竜の歯を蒔くと、そこから次々にスパルトイ（「蒔かれた者」を意味する）が生じてイアソンに襲いかかったが、メディアの助言に従って大石を投げ込むとスパルトイたちは同士討ちを始め、事なきを得る．さらに、メディアはイアソンを金羊毛皮の隠し場所に案内し、見張りの竜を魔法で眠らせる．こうしてイアソンは、遂に金羊毛皮を手に入れるに至ったのである．<br>　メディアを伴ってアルゴー船を出向させたイアソンを、アイエテス王の差し向けた船団が追う．メディアは追跡を逃れるため、一緒に連れてきていた幼い弟アプシュルトスを殺し、その亡骸を切り刻んで海にばら撒いた．追っ手が遺体を拾い集めている間にアルゴー船はコルキスを遠くはなれ、やがてイオルコスに帰還する．ところが、金羊毛皮を持ち帰ったにも関わらず、ペリアスはイアソンに王位を譲ろうとしなかった．そこでメディアは、ペリアスの娘たちの前で老いた雄羊を切り刻み、鍋で煮込んで若返らせるという魔法を見せた．父親思いの娘たちはペリアスを若返らせようと切り刻み、鍋で煮込んだが、ペリアスはそのまま死んでしまった．首尾よくペリアスを排除したメディアだったが、イオルコスの人々はこの残酷な仕打ちに憤り、王位の継承どころかイアソンを国外に追放する．（イオルコスの王位は、父に逆らってアルゴー船に乗り込んだペリアスの息子アカストスに引き継がれた）<br>　イオルコスを追われたイアソンとメディアはコリントスに亡命し、歓待を受ける．コリントス王クレオンはイアソンを気に入って娘のグラウケとの結婚を持ちかけた．メディアの残酷さを忌み嫌うようになっていたイアソンはこの申し出を受け入れる．裏切られたメディアは怒り狂い、恋敵に魔法を施した結婚衣装を贈る．グラウケが衣装を纏うとたちまち全身が燃え上がり、助けようとしたクレオン王もろとも焼け死んでしまった．さらにメディアは、イアソンとのあいだに儲けた幼い二人の子供までも殺し、すべてを失って嘆き悲しむイアソンを後に、竜の牽く戦車に乗って去っていった．<br>　狂人となったイアソンは放浪の後、アルゴー船の残骸の下敷きになって死んだという．<br><br>　――愛は彼らに微笑んだが、死を呼ぶ宿命の妻は、<br>　　　その身のうちに嫉妬の怒りと、<br>　　　アジアの媚薬と、父と神々とを携えていった。<br>　　　　　　　　　　　（ジョゼ＝マリア・ド・エレディア『戦利品』）
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<pubDate>Wed, 20 Feb 2013 01:19:23 +0900</pubDate>
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<title>『二百十日』（PDFファイル）</title>
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<![CDATA[ ・『二百十日』（PDFファイル） <br>　<a href="http://blog.livedoor.jp/umschau/%E4%BA%8C%E7%99%BE%E5%8D%81%E6%97%A5.pdf" target="_blank">http://blog.livedoor.jp/umschau/%E4%BA%8C%E7%99%BE%E5%8D%81%E6%97%A5.pdf</a> <br><br>　ここ最近書き続けていた、ポール・ヴァレリーをめぐる芸術論、ないし思想的物語． <br>　あまりにも長いのと、傍点が再現できないことからPDFに変換． <br>　年内に書き終えられてよかった…… <br><br>　引用文献は基本的に筑摩書房のヴァレリー全集． <br>　参考文献はたくさんあってよくわからなくなった．（しかし大して重要ではない） <br><br>　この散文の題を用いて、ライブドアに新しいブログを作ることにしました．<br>　これからはそっちに移行しまーす．<br>　<a href="http://blog.livedoor.jp/umschau/" target="_blank">http://blog.livedoor.jp/umschau/</a>
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<pubDate>Mon, 31 Dec 2012 06:30:55 +0900</pubDate>
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<title>『ホビット　思いがけない冒険』　評価S　③</title>
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<![CDATA[ 　さて、本作の終盤は、ゴブリン町からの大脱走劇を繰り広げるドワーフたちの「動」の場面と、ひとりはぐれてしまったビルボと地の底に潜むゴラムとの対面を描く「静」の場面に二分される．そして――近年の大作映画の例にもれず『ホビット』も3D上映なのだが――3Dであるということの意義が最大限に活かされているのは、臨場感溢れる「動」のアクション・シーンではなく、この「静」の場面においてなのである．<br>原作の読者、あるいは『ロード・オブ・ザ・リング』三部作の鑑賞者ならばご存知の通り、ビルボはゴラムを殺さなかった．このささやかな一事こそガンダルフがフロドに伝えようとしたもっとも重要な観念、すなわち「善性」の発露であり、この一事があったればこそ「一つの指輪」を葬るという使命が達成されたのである．ビルボからフロドに受け継がれた「善性」はやがて高次で結晶し、『指輪物語』の真のクライマックスにおいて、フロドとサルマンの孤独を一瞬、魂のごく深いところで結びつけるに到る．<br><br>――「いけない、サム！」と、フロドはいいました。「それでもかれを殺してはいけない。わたしは傷を負わなかったのだから。それにいずれにしろ、わたしはこのような凶悪な気分のままでいるかれを殺したくはない。かれはかつては偉大だった。おいそれと手が振り上げられない高貴な者だった。かれは堕ちた。そしてその救済はわたしたちの力には及ばぬ。しかしそれでもわたしはかれがそれを見いだすことを望んで、命を助けたいと思う。」<br>　サルマンは起き上がって、まじまじとフロドを見つめました。その目には感嘆と敬意と憎しみのまざりあった奇妙な表情が見られました。「あんたは成長したな、小さい人よ。」と、かれはいいました。「そうとも、あんたはたいそう成長した。あんたは賢明にして残酷だ。あんたはわしの復讐から甘美さを奪った。そしてわしはこれからあんたの慈悲を恩に着て、苦い思いを抱きながら行かねばならん。あんたの慈悲を憎む、あんたを憎む！　では、わしは行く。そしてもうこれ以上あんたを悩ませはせぬ。だがわしがあんたに健康と長寿を祈るとは思い設けるな。あんたにはそのどちらも与えられぬだろう。でもそれはわしのせいではない。わしはただ予言するだけだ。」<br>（J・R・R・トールキン『指輪物語』）<br><br>　これは、『指輪物語』という長大な作品を通じて最も美しく、最も意義深い場面である．ところが映画『ロード・オブ・ザ・リング』は、サウロンが滅んだ後の内容を大幅に省略したために、この重要な一瞬を映像化できなかった．上映時間の問題もあったし、サウロンとの壮大な戦争が終わった後でホビットたちだけの小さな戦いを描くのは映画としてあまりに纏まりを欠くという配慮もあったのだろう．それは仕方がない．だが、このやむを得ぬ改変は原作ファンを失望させ、批評家ロジャー・エバートをして「ピーター・ジャクソンがこの映画で行ったことは恐ろしく困難であり、かれは賞賛に値するが、トールキンに忠実にある方がもっと困難で、勇敢だっただろう」との名言を吐かしめる原因にもなってしまった．細部にいたるまで極めて「誠実」な映画化を試みたピーター・ジャクソンにとって、この一瞬を描けなかったという事実は、映画作家としてのひとつの敗北であったろう．彼にはただ、イライジャ・ウッドという俳優をフロド役に抜擢し、その独特な表情にすべてを託すことでしか、フロドの成長という内的な問題を表現するすべがなかったのだ．しかし、ピーター・ジャクソンは『ホビット』において、この苦い敗北の記憶にみごと雪辱を果たした．それも、ただ原作を忠実に映像化したのではなく、優れて映画的な方法でやってのけたのである．<br>　殺すべきであるはずのゴラムを殺さない――その理由は、原作においてはビルボの心内語として饒舌に語られている．ビルボはゴラムの境遇について思いをめぐらせる．ゴラムは、かつてはホビットのような種族のひとりだったのだろう．なぞなぞ遊びで無邪気に喜ぶような他愛ない生き物だったのだろう．だが今や、霧降り山脈の奥底で孤独に生きながらえるばかりの浅ましい姿と成り果てている．この哀れな生命の震えを無下に断ち切ることが――それがたとえ極めて容易なことであるにせよ――果たして正しい行いと言えるのだろうか、と．この内的葛藤によって、われわれ読者にも「善性」というものの本質が理解される．それは、おのれよりも大きいもの、あるいはおのれよりも小さいもの、いずれにせよおのれと同じではないものに対する想像力から生まれるのである．想像力――この能力は、素朴だが無限の広がりを持っている．決して方法的ではなく、それそのもので充実し、あらゆる個体を全体とむすびつける力である．サルマンはこの力を「賢明で残酷」なものと評した．まさしくビルボは、「賢明で残酷」にもゴラムを殺さなかったのである．しかしながら、原作『ホビットの冒険』が詳らかにしてくれるのはあくまでビルボの想像力であり、ビルボの「善性」でしかない．それは彼の個人的資質より生じるものであって、決してわれわれの「善性」ではない．われわれはビルボを、彼の「善性」を愛することができる――だが、だからといってわれわれ自身の「善性」でゴラムを慈しむことができるわけではないのだ．ところが、映画『ホビット』は、まさにそのわれわれ自身の「善性」を問うてくるのである．<br>　前述の通り、『ホビット』のビルボはおのれの心情をいっさい語らない．観客はビルボの表情から、行動から、あるいは周囲の状況から内心を推察するほかなくなっている．この制約は、ビルボの心情が最も重要であるはずの場面でも厳しく徹底される．ビルボはなぜゴラムを殺さないのか――この理由にあたる原作の心内語までが完全に切り捨てられてしまっているのである．しかも、観客はビルボの表情から彼の葛藤を読み取ることさえできない．スクリーンにはゴラムの顔だけが大きく映し出される．3Dであることが最大限に活かされ、まるでわれわれ自身が眼前の実体をつぶさに眺めているかのように、憤り、当惑し、不安に駆られているゴラムを、観客は見つめ続けねばならなくなる．観客の目線は、しばらくのあいだビルボと完全に一致する．われわれは観客としてではなく、ビルボとしてゴラムを見ている．カメラが捉えているのではなく、ビルボの目が、すなわち我々の目が、ゴラムの無防備な表情を捉えているのである．「一つの指輪」で姿を消すことによって、ビルボは観客と同じ一方的な観察者になった．ビルボが観察者になることで、われわれ観客もビルボと一体化した．ビルボが見ているものは、われわれが見ているものとまったく同じである．では、同じものを見ているわれわれは、同じことを感じ得るだろうか？<br>　われわれが目の当たりにするゴラムの姿は、惨めで、滑稽で、絶えず神経質に動き回っていて、ほとんど不快と嫌悪しか感じられないようなものである．『ロード・オブ・ザ・リング』の重要な場面で時折見せたような、物悲しく悲劇的な様子はどこにもない．『指輪物語』のなかでフロドは、スメアゴルがゴラムと化すに到った経緯を聞いてもなお、「わたしはゴクリ（ゴラム）には少しも憐れみを感じないんです」と言い切っている．後にフロドがゴラムに慈悲を与えたのも、決して「善性」からではなかった．彼自身指輪に支配されつつあったが故に、指輪のせいで破滅したゴラムを、同じ指輪所持者として慮ってやっただけである．フロドがゴラムに示したのは、同じものに対する共感に過ぎない．共感のなかに想像力はない．「善性」もない．しかるにビルボは――何も知らず、何もわからず、この忌まわしい生き物をまじまじと眺めるというただそれだけのことで――ゴラムを殺さないという決断を下したのである．<br>　われわれが心中でゴラムの首を掻き切ったにせよ、ビルボと同じ決断を下したにせよ、このひとときの体験が自らの「善性」を深く問う一瞬として大変な重みを持っていたことに変わりはない．そしてこの一瞬は、トールキンが『ホビットの冒険』から『指輪物語』へと敷衍していったところのものを、逆に『ロード・オブ・ザ・リング』から『ホビット』へと凝縮し、結晶化させようというピーター・ジャクソンの大胆な試みでもあった．「一つの指輪」を葬るという使命は、指輪所持者たるフロドの資質よりもむしろ運命的な作用によって達成される．だが、運命によって全てが定められる物語などたかが知れている．運命というものは、逃れられぬ筋書きのように見えて、実はひとつの意志に大きく左右されるものなのだ．トールキンの物語世界において中つ国の運命を決定付けたひとつの意志は、他ならぬビルボの「善性」である．その「善性」が生じる一瞬を、われわれは、ビルボと分かち合ったのである．『ホビット』という映画は、ひとつの世界の運命が揺れ動く瞬間を――原作で重要な意味を持っていた言葉をすべて排除し、ただ映像だけでもって――観客に体感させてくれた．これは、トールキンに忠実にあるよりももっと困難で、勇敢な試みであったと言えるだろう．<br>　かつてジェームズ・キャメロンは、「映画の世界に入っていくための『窓』」としての３D映像を提示して映画史に一線を画した．彼の『アバター』に比べると、『ホビット』の3D映画としての完成度は低い．むしろ精細なコマ割りのせいで質感が安っぽさを感じさせる場面が散見されるなど、マイナス面のほうが大きかったとさえ言えるかもしれない．だが、ピーター・ジャクソンが『ホビット』において一瞬だけでも実現した物語との一体化という表現は、あるいは3D映画の可能性を大きく切り拓くものであるかもしれない．それは、「物が飛んで来る」のでもなければ「映画の世界に入っていく」のでもない．「映画の世界が観客の視点と一致する位置まで飛び出してくる」のである．この表現では、物語の最も奥深い部分の価値が問われることになる．『ホビットの冒険』や『指輪物語』のごとき価値ある作品を映像化するのでない限り、何の意味もない．ピーター・ジャクソンには、『キング・コング』のような面白味に欠けるリメイクや、空前の大駄作『ラブリーボーン』などに才能を浪費してしまった過去がある．せっかく物事の本質を見抜き、それを正しく映像化できるというたぐいまれな能力を持っているのだから、これからは価値ある作品だけに挑戦してもらいたいものである．<br>　もっとも、しばらくのあいだはピーター・ジャクソンが失態を犯す心配などしなくても良い．ビルボは遂に指輪を手にした．『指輪物語』の設定からは考えられないことだが、指輪の力はビルボの眠れる英雄的資質を引き出し、やがて彼をトーリン一行の旅路に欠くべからざる存在へと高めていく．そして、ビルボが指輪さえも必要としないほどの精神的成長を遂げた時、『ホビット』の物語は終わりを告げるのだが――この第一部ではまだ、遠くはなれ山を望み得る位置に漸く辿り着いたところである．行く手には闇の森が広がり、その先には邪竜スマウグの居座るトーリンたちの故郷が待っている．冒険の旅はまだ続く――つまり、残りの二部を観るまでは、映画というものに期待し続けることが出来るというわけである．
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<pubDate>Tue, 25 Dec 2012 06:11:19 +0900</pubDate>
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<title>『ホビット　思いがけない冒険』　評価S　②</title>
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<![CDATA[ 　閑話休題．ドワーフたちのパーティーが終わったところで満を持してトーリン・オーケンシールドが登場し、物語は緊張を見せはじめる．シェイクスピア俳優として研鑽を積んだという英国人俳優リチャード・アーミティッジは、傲慢ではあるが犯しがたい威厳を持つトーリン二世を素晴らしい風格で演じている．『指輪物語』で「金はすべて光るとは限らぬ」とビルボに謳われたアラゴルンが、その流浪の生活で親しみやすさを身につけた「馳夫さん」（これは実に名訳である）であるとするなら、トーリンは流浪しようとも光り続ける王者の中の王者である．それ故に、彼はアラゴルンにはなかった欠点をも持ち合わせてしまっているのだが、原作では終盤になってやっと理解されるトーリンのそうした特徴を、映画ははじめから提示してくれる．一方、興味深いのはビルボの描写である．原作『ホビットの冒険』は、『指輪物語』がフロドを俯瞰して描いていたのとは異なり、ビルボの内面的葛藤をこと細かに描出している．この平凡であったはずのホビットが、いかに英雄的性格――それはトーリンのような特別な生まれの者にのみ具わっている貴重な資質ではなく、誰もが隠し持っている普遍的な可能性としてのヒロイズムなのだが――を呼び覚ましていくかというのが原作におけるひとつの主題なのだ．ところが映画版は、原作が心内語やモノローグで丹念に綴っていくビルボの思いを、ほとんどすべて切り捨ててしまっている．パーティーの翌朝、なぜビルボは袋小路屋敷を飛び出したのか．どうして彼は冒険を選んだのか．なぜ愚痴をこぼしながらも艱難辛苦に耐えてゆくのか．こうした疑問が、本作においては観客ひとりひとりの内面的解釈に委ねられるのである．<br>　冒険の旅が始まると、後は息もつかせぬ展開となる．『指輪物語』における旅の障害がどこか抽象的であったのに比べ、『ホビットの冒険』での苦難は直接的で映画らしい魅力に富んでいる．まだ白の魔法使いになっていないガンダルフには愛嬌があるし、サウロンの支配力が及んでいない状態のトロルやオークもなかなか個性的だから、アクション・シーンも『ロード・オブ・ザ・リング』のような殺伐とした殺し合いにはならず、程よいユーモアを感じさせる．また、トーリンのオーケンシールドという異名の由来となるナンドゥヒリオンの戦いが回想で描かれるのは原作ファンには嬉しくてたまらないところであろうし、対なる名剣オルクリストとグラムドリング、そして後に「つらぬき丸」と銘づけられるビルボ愛用の短剣が発見される場面などもサービス精神旺盛である．原作を読んでいなくとも十二分に楽しめる映画ではあるが、せめて『ロード・オブ・ザ・リング』三部作は事前に鑑賞しておくべきかもしれない．<br>　原作との相違としては、『ロード・オブ・ザ・リング』で省略されてしまった茶の魔法使いラダガストが、本来登場しないはずの本作に重要な地位を占めているという点が挙げられる．それと共に、死人占い師のエピソードが劇中で大いに語られるであろうことが示唆されるのである．死人占い師については、『ホビットの冒険』では名前が出てくるだけで、詳細はまったく明かされないままであった．『指輪物語』の追補編でも、実はこういう事情だったという簡潔な解説がなされるだけである．先に『指輪物語』が映画化されていたからこそ、原作で明らかに不備であったこの死人占い師にまつわる挿話がもう一つの物語を形成し得るようになったわけで、これからどう映像化されていくのか楽しみな部分である．また、これに伴って「白の会議」の様子も描かれている．エルロンドは原作にも出てくるが、本来登場しないはずのサルマンやガラドリエルが『ロード・オブ・ザ・リング』でのイメージを最大限に活かす形で物語に参加するのは、原作ないし旧作ファン泣かせの演出だ．のみならず、ガラドリエルとの会話のなかでガンダルフがビルボを旅の仲間に加えた理由を明かすくだりは、作中屈指の名場面でもある．まことに「贅沢」な作りになっていると言えよう．<br>　他にも、トーリンの祖父スロール王を惨殺したオークの首領アゾグが、三部作を通じてトーリン一行を付け狙いつづける因縁の悪役として登場する．原作のアゾグはナンドゥヒリオンの戦いで死んでおり、本編に登場するのはその息子ボルグなのだが、むろん物語を盛り上げる要素としては映画版のように改変した方が納得できる．アゾグとの確執を通じてトーリンというキャラクターを描き込めるという意味でも、この設定の変更は正しかった．なんでも原作通りにやればいいというものではない．もっとも、このアゾグや大ゴブリンの造形にはピーター・ジャクソンのクリーチャー趣味が発揮され過ぎていて、トールキンの原作が持つ上品さを損っている面もある．好みの分かれるところであろう．（続く）
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<pubDate>Tue, 25 Dec 2012 06:10:24 +0900</pubDate>
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<title>『ホビット　思いがけない冒険』　評価S　①</title>
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<![CDATA[ ・『ホビット　思いがけない冒険』　評価S<br><br>（あらすじ）ビルボ・バギンズは、袋小路屋敷で平穏な生活を営む分別ある平凡なホビットのひとりだった．ところが、突然訪ねてきた魔法使いガンダルフに「忍びの者」として推挙され、トーリン・オーケンシールド率いる十三人のドワーフと共に、はなれ山をめざす冒険の旅に出ることになる．彼らの目的は、かつてはなれ山に輝きを放っていたドワーフの祖国と財宝を、これを滅ぼし且つ奪った邪竜スマウグから取り戻すこと．しかし中つ国に潜んでいた闇の勢力は日に日にその力を増してきており、トーリン一行はトロルやオークの襲撃に苦しめられる．そしてこの旅の途上、ビルボは数奇な運命に導かれ、後に中つ国全土を巻き込む大戦争の引き金となる「一つの指輪」を見出すことになる……<br><br>　いつからか、僕は『ロード・オブ・ザ・リング』という映画を深く愛するようになった．同時に原作『指輪物語』に対する愛着も強くなり、近頃は年に一度はこのファンタジー小説を読み返している．トールキンの『指輪物語』はamazon.comで行われた「過去千年で最高の本」アンケートのトップに選ばれたという．千年というのはあまりにも大袈裟だが、しかしそれほど厭な気はしない．なんとなれば、『指輪物語』には何か極めて意義深い、人間精神にとって欠くべからざる一要素――ここでは仮に「善性」と呼ぶとしよう――が含まれているからである．「善性」というものは、現代社会からほとんど失われてしまっている．ところが、それでも現代人は、失われた「善性」を確かに伝えている『指輪物語』を愛してやまないのである．『指輪物語』より素晴らしい作品はむろんいくらでもあるけれども、現代人が踏み止まろうとしている最後の一線が『指輪物語』であり、そこに見出される「善性」であるとするなら、それは決して悪いことではない……<br>　『指輪物語』の前日譚にあたる『ホビットの冒険』にも、この「善性」というものの輝きがはっきりと見られる．トールキンは『ホビットの冒険』を子供のための物語として書いたし、岩波書店から出版されている瀬田貞二の名訳も児童文学であることを強く意識したものであるから、この作品の優れて神話的な部分や、物語としての確かな深みは、成年読者には受容しづらい面もあるかもしれない．だが、『ホビットの冒険』は決して『指輪物語』に劣るものではない．むしろ心情描写の細やかさやストーリーの純粋な面白さにおいては、壮大になり過ぎた『指輪物語』に優るところさえある．それを、映像化は困難と思われた『指輪物語』を「誠実」極まる姿勢でもって『ロード・オブ・ザ・リング』三部作に仕立て上げたピーター・ジャクソンが自ら手がけようというのだから、弥が上にも期待は高まる．『ホビット　思いがけない冒険』（以下『ホビット』）は、現代人が率直に愛し得る最も偉大な作品の一つが、最も現代的な形でふたたび世に問われるという意味において、非常に重要な映画なのである．<br>　本作は、『ロード・オブ・ザ・リング』のファンを心地よく物語に引き込むべく、ビルボの百十一歳の誕生日――まさしくこの日を区切りとして指輪戦争が幕を開けるのである――の前日からビルボ自身によって語り始められる．まずはビルボのモノローグと共に、はなれ山エレボールの栄華、山の精髄アーケン石の発見、財宝に耽溺するドワーフ王スロールの姿が描かれ、邪竜スマウグの襲来、スロールの孫トーリンの英雄的奮闘、闇の森のエルフ王スランドゥイルの裏切りなど、物語の理解に不可欠な予備知識がふんだんに与えられる．『ロード・オブ・ザ・リング』においては、語るべき要素があまりにも多かったがために、これほど贅沢な前置きは許されなかった．たとえば、モリアにおける「ドゥリンの禍」に端を発するドワーフとエルフの確執は、原作ではギムリやレゴラスの歌を中心に説かれていたところを、映画では大幅に省略せざるを得なかった．逆に映画的な事情から増補した部分もあって、アラゴルンとアルウェンの恋物語などは、原作でも本編では語られず追補編に収録されていたものを、映画化にあたってかなり強引に脚本に組み込んだのである．トールキンほどの優れた書き手の取捨選択を脚本の段階で再構成するのは至難の業であり、こうした改変は原作の愛読者ばかりでなく、はじめてこの物語に触れる観客にもどこか違和感を覚えさせる要因になっていた．しかし『ホビット』は原作そのものの物語の規模が小さいので、元々あったものを捨てる必要性はないし、『指輪物語』で後付けされた魅力的な設定や逸話をいくら取り込んでも物語の流れは阻害されない．本作は企画段階で構想が二転三転し、はじめは二部構成と伝えられていたものが最終的にピーター・ジャクソン監督による三部作という形に決まったわけだが、原作の分量において『指輪物語』の十分の一にも満たない『ホビットの冒険』を同じ規模で描く以上、監督はかつて諦めねばならなかったことを存分に成し遂げることができる．老ビルボによって語られる滅びゆくエレボールの姿は、この映画がおそろしく「贅沢」なものであることを我々に約束してくれる．<br>　フロド・バギンズの大役を見事に果たして以来すっかり見かけなくなったイライジャ・ウッドが懐かしい顔を見せ、中つ国の物語がビルボとフロド、そしてサムワイズの物した「赤表紙本」の翻訳であるという原作の設定を改めて提示したところで、パイプ草の煙と共に、ビルボの姿がイアン・ホルムからマーティン・フリーマンに入れ替わる．本作の主人公を演じるこの見慣れぬイギリス人俳優は、イアン・ホルムによく似ているし、若きビルボのイメージになかなか合っている．その点は心配ないのだが、続いて登場するガンダルフについては、名優イアン・マッケランが十年の間にことのほか老い込んでしまったように見えて一抹の不安を禁じ得なかった．ところが、袋小路屋敷に次々と乗り込んでくるドワーフたちと一緒に再び現れたガンダルフは、なぜかかつての生気を取り戻している．これは演出の一環なのか、それとも撮影の都合上オープニングを最後に収録したからなのか、やや腑に落ちないところではある．<br>　ピーター・ジャクソンの「誠実」に映画としての「贅沢」が加わった本作では、原作で延々と繰り広げられた袋小路屋敷でのドワーフたちの乱痴気騒ぎもしっかりと映像化されている．このあたり、原作にさしたる興味もなくシリーズに大きな期待も抱いていない観客にとってはあまり面白いとも思えないかもしれない．しかし、『ロード・オブ・ザ・リング』を何度も観直すうちに平和なホビット庄の世界がもっとも愛おしく感じられるようになった人も少なくなかったように、トールキンにおいてはこうした日常――ビルボにはひどい非日常だが――の朗らかさこそが大切なのであって、それを誰よりも強く意識しているピーター・ジャクソンは、映画を陳腐なファンタジー大作に堕さしめないためにも、食事や宴会の場面を綿密に――ほとんど執拗に描きこんでくる．これをどうしても許容できないという性急で神経質な現代的性格の持ち主は、もとより『ホビット』のごとき作品に感動を求めるべきではない．現代的性格は、たとえば映画を観ることそのものよりも観た後に感想をすぐTwitterで呟くというような「方法的受容」によって快楽を感じるものである．だが、トールキンの原作にも映画『ホビット』にも「方法」の入り込む余地はない．僕自身、いま長々と作品の感想ないしは批評を繰り広げているわけだが、こうした行為には何の意味もない．批評などというものは本来、くだらない作品だけが必要とするものだ．受け手が欠点を論ったり、僅かな長所を大袈裟に言い立てたりすることによって漸く完成するのが現代的な娯楽作品であるとするなら、『ホビット』のようにそれそのもので充実しており、ただ味わうだけで事足りる作品には、言うべきことなど何もないのである．この感覚を持ち合わせていない立派な現代人は、たとえ『ホビット』が今後展開していく映画的スペクタクルにいくらかの面白味を覚えたとしても、二部三部と観続けていくのはやめたほうがいい．そういう人には、他に楽しめる作品が山ほどあるはずだ．（続く）
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<link>https://ameblo.jp/ulysse-nardin/entry-12552397591.html</link>
<pubDate>Tue, 25 Dec 2012 06:08:55 +0900</pubDate>
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<title>海外ドラマ 『名探偵モンク』 評価A+</title>
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<![CDATA[ ・『名探偵モンク』<br><br>（あらすじ）サンフランシスコ市警の伝説的刑事エイドリアン・モンクは、妻のトゥルーディーを自動車爆弾によって何者かに殺される．その犯人を検挙することができなかったモンクは、強迫性障害がひどくなり、刑事を休職し、自宅に三年間閉じこもる．その後、看護師であるシャローナ・フレミングをアシスタントとして採用し、警察の犯罪コンサルタントとして犯罪、そして様々な恐怖症と戦いながら、復職とトゥルーディー事件の解決を目指す．<br><br>　我々は、我々の時代が失ってしまったものの美しさ、尊さを深く哀惜しないではいられない．<br>　しかし、失われたものを哀惜しながらも、それが失われてしまったことに胸をなでおろしているのもまた事実である．この呪わしい現代社会は、実のところ我々にとってまったく住み心地がよい．おそらく、失われた美や尊さに我々はもう馴染めないであろう．美や尊さは、失われてしまってよかったのだ．それでも我々は、失われたものを哀惜する．<br>　『孔子家語』に「水至清即無魚」ということばがあるが、魚が人間のようであったなら、濁った水に不平を述べるに違いない．水を濁らせたのは魚ではない――たとえ濁った水の中にしか棲めないとしても、である．我々もまた、美や尊さを進んで捨て去ったわけではない．やはりそれは失われたのであって、失われたものであるからには、それが取り戻されることなど望んでいなくとも、我々にはそれを哀惜する権利がある．清水への哀惜は、濁水にしか棲めない魚の、あるいは最後の矜持であるかもしれない．<br>　『孔子家語』では「人至察則無徒」と続く．水が清ければ魚が棲まないように、人間が潔白すぎると仲間が出来ないというのである．我々は清水を哀惜するが、それが濁水にしか棲めない我々の、捨て切れぬ誇りの切れ端に過ぎないとするなら、ほんとうに清水でしか生きられない人間は、我々の眼にどのように映るだろう．彼は濁った水のなかで苦しく喘ぎ、のたうちまわり、ほとんど死に絶えんとしているはずだ．そして我々にこう言うのである――「君たちは異常だ、こんな汚い水の中で生きられるなんて！」<br>　そういう人間を目の当たりにしたとき、我々は、失われたものの価値よりもむしろ、我々自身の真価を問われることになる．彼を愛し得るだろうか？ 彼を尊び得るだろうか？ それとも、軽蔑と嘲笑をもって報いるのだろうか？<br>　実のところ、『名探偵モンク』とは、そういう作品なのである．主人公エイドリアン・モンクを演じるトニー・シャルーブの名演、トラディショナルな推理物としての完成度、コメディとしての圧倒的な面白さなど、『名探偵モンク』の魅力は多岐にわたる．しかし、作品の本質は次の一点に純化されている．「モンクが正しいのか、それともモンク以外の全ての人々が正しいのか」<br>　このドラマが、他の作品に比べればずいぶん低予算で地味な内容であるにも関わらずアメリカで大変な人気を博してきたというのは、なんとも好ましいことだ．たとえば、あの離婚大国において、亡き妻を永遠に愛し続けるモンクの姿はどのように映ったのだろう．なんでもかんでも病気にしてしまうアメリカのような国で、明らかな精神病質をある種の個性と受け止め、敬意を払うというのはいかなる社会的素地があってのことなのだろう．詳しい事情はわからない．しかしひとつ言えるのは、娯楽作品の最大の価値は、その作品を愛することによって大衆が自らの尊厳を取り戻すという点にあるということだ．<br>　全8シーズンで123話を数えるエピソードを追う時間は、我々が「世界の誰よりも、モンクさんが正しかった」と確信するに到るまでの長い長い道程に他ならない．最終話を観終えたとき、我々は「モンクさんが正しかった」と断言することができる．そしてその瞬間、「人至察則無徒」という箴言が否定される．我々は濁った水にしか棲めない魚かもしれない．だが、清い水にしか棲めない魚を愛し、尊敬し得るものでもある．だから、失われてしまった美や尊さに対する哀惜も真心からのものであり――要するに、我々人間もそう捨てたものではないと思えるのだ．<br>　思い出は数多い．シーズン2の第15話「夫婦ごっこ」でモンクがトゥルーディーの指輪をシャローナに預ける場面．シーズン3第16話「パパになりたい」での謎解きのシーンの物悲しさ．シーズン4第14話「宇宙トリック」でアメリカニズムに真っ向から立ちむかうのもカッコ良かった．シーズン5第12話「ただいま本番中」におけるモンクさんの怒りも忘れられない．シーズン6最終話「その取り壊し待った！」などは、話としてはどうということもないが、ラストシーンの感動は殆ど反則ものだった．<br>　しかし、やはり最も素晴らしいのは、作品のテーマが浮き彫りにされる最終話「トゥルーディーの真実」であろう．全ての謎が明かされる、という意味では拍子抜けの部分もある．シリーズを通じてさも巨大な陰謀があるかのように盛り上げてきた割に、トゥルーディー殺害事件の内容そのものは矮小なものであるから．だが、重要なのは「事件の真実」ではない．「トゥルーディーの真実」なのである．<br>　トゥルーディーは、あの厄介なモンクさんを愛し、癒し、救い得た世界で唯一の聖女などではなかった．むしろ、彼女こそがモンクさんに救われていたのだ．なにしろ彼女は、濁水に棲む魚の一匹に過ぎなかったのだから．トゥルーディーが「こちら側」の人間であることが明らかになった時、遂に「世界の誰よりも、モンクさんが正しかった」というテーマが完成される．一話だけ戻って来てくれたシャローナも、いつの間にかすっかり馴染んでしまったナタリーも、『羊たちの沈黙』の犯人と同じ役者とはとても思えないストットルマイヤー警部も、刑事ドラマ史上最大のバカと称されるディッシャー警部補も、みなモンクさんを愛することで、現代が失ってしまったものへの本当の愛情を取り戻した．そしてそれは、トゥルーディーでさえも例外ではなかったのだ．<br>　「トゥルーディーの真実」は、我々の真実である．我々に我々自身の今の姿を、その現代的な本性を突きつけてくる．我々はなんと醜く、なんと卑しいのだろう．我々の世界はなんと濁りきっているのだろう．モンクさんだけが、この水の汚さに喘いでいる．彼だけが正しい．彼だけが美しく、尊い．<br>　それに気づいたとき、『名探偵モンク』はこの上もなく感動的なひとつの人間ドラマになる．エイドリアン・モンクという架空の人物のドラマではない．モンクという架空の人物を通じて、我々現代人が自らのささやかな尊厳を取り戻す現実のドラマである．我々は彼を愛した．彼を尊敬した．そのことが、何よりも重要だったのだ．<br>　我々は、我々の時代が失ってしまったものの美しさ、尊さを深く哀惜しないではいられない．それでいて、それらに戻って来て欲しいとは思わない――だが、誰かに持っていて欲しいとは感じている．我々は、失われた美しさや尊さをいまだ持ち続けているその人を愛することで、やっと、美や尊さをほんとうに愛することができるのである．<br><br>　――バラの季節過ぎたる今にして、<br>　　　初めて知る、バラのつぼみの何たるかを。<br>　　　遅れ咲きの茎に輝けるただ一輪、<br>　　　千紫万紅をつぐないて余れり。<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ゲーテ
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<link>https://ameblo.jp/ulysse-nardin/entry-12552397588.html</link>
<pubDate>Wed, 12 Dec 2012 17:57:39 +0900</pubDate>
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<title>書評 「王の手箱 ――第十一冊 カミュ『シーシュポスの神話』」</title>
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<![CDATA[ ・カミュ『シーシュポスの神話』 <br><br>　我々が折に触れ回帰する必要があるかもしれない「芸術哲学」の金字塔である． <br>　カミュは人生について「不毛」「不条理」ということを考える．そして人生を、とりわけ近代人の生活を「不毛」と感じ、そうした生を強いる世界を「不条理」と捉えなければならない、あるいは、捉えられなければ認識的であるとは言えない、と厳しく規定する． <br>　彼はシェストフやキルケゴールの「哲学上の自殺」を論じる．ヤスパースの叫びを「かれもまた、多くの人びとのあとをうけて、思考がその果てに到達した地点、あの荒涼たる乾ききった場所を呼び起している」と解釈するカミュは、彼ら思索的な人間――代表として哲学者たち――がそこから逃れ出ようとするさま（多くは「信仰」へと至るのだ）を、「思考の自殺を実行した」と断ずる． <br>　また、「不条理な人間」としてドン・ファンやハムレットを取り上げ、彼らが「永遠の普遍理性と秩序と普遍的道徳とのいっさいの力」を否定し続けたことを詳らかにする．カミュはドン・ファンの「じっと待ちうけてはいたが、けっして願っていたわけではない最後の結末」について、「そんなものは軽蔑しておけばいい」と切って捨てる．不条理な世界において、「思考の自殺」を行わなかったドン・ファンは英雄なのである． <br>　「不条理な創造」についても語られる．「偉大な小説家とは哲学的小説家である」とカミュは言う．「名前をいくつかあげれば、バルザック、サド、メルヴィル、スタンダール、ドストエフスキー、プルースト、マルロー、カフカがそうだ」……むろん彼はドストエフスキーの『悪霊』を真っ先に持ってくる．とりわけ、キリーロフという人物の生き様を． <br>　こうして練り上げられた絶望的論考に、カミュは芸術的な結論を用意する．すなわち、それこそが「シーシュポスの神話」なのである． <br><br>　――神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど怖ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった。（カミュ『シーシュポスの神話』） <br><br>　――この神話が悲劇的であるのは、主人公が意識に目覚めているからだ。きっとやりとげられるという希望が岩を押し上げるその一歩ごとにかれをささえているとすれば、かれの苦痛などどこにもないということになるだろう。こんにちの労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。その運命はシーシュポスに劣らず無意味だ。しかし、かれが悲劇的であるのは、かれが意識的になる稀な瞬間だけだ。ところが、神々のプロレタリアートであるシーシュポスは、無力でしかも反抗するシーシュポスは、自分の悲惨な在り方をすみずみまで知っている。まさにこの悲惨な在り方を、かれは下山のあいだ中考えているのだ。かれを苦しめたにちがいない明徹な視力が、同時に、彼の勝利を完璧なものたらしめる。侮蔑によって乗り越えられぬ運命はないのである。（同） <br><br>　――シーシュポスの沈黙の悦びのいっさいがここにある。かれの運命はかれの手に属しているのだ。かれの岩はかれの持ち物なのだ。（同） <br><br>　――ぼくはシーシュポスを山の麓にのこそう！ ひとはいつも、繰返し繰返し、自分の重荷を見いだす。しかしシーシュポスは、神々を否定し、岩を持ち上げるより高次の忠実さをひとに教える。かれもまた、すべてよし、と判断しているのだ。このとき以後もはや支配者をもたぬこの宇宙は、かれには不毛ともくだらぬとも思えない。この石の上の結晶のひとつひとつが、夜にみたされたこの山の鉱物質の輝きのひとつひとつが、それだけで、ひとつの世界をかたちづくる。頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに十分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと思わねばならぬ。（同） <br><br>　だがしかし、このあまりにも美しい芸術哲学には、ひとつの欠点がある．つまり、本書が芸術"哲学"であり得るための前提――人間はみな「不毛」な人生と「不条理」の世界を認識しなければならないという大前提である． <br>　この著作の根底には、「不毛」や「不条理」が無窮の「真理」でなければならないという強迫観念が据えられている．哲学は、いかなる形式で表明される場合にも、唯一の「真理」を求めるのだ．そこには、ひとつの「真理」が個人の資質によって生じる人生や世界の一側面に過ぎないという透き通った感覚が欠如している．哲学が芸術に劣るのは、まさにその一点ではなかろうか． <br>　もちろんカミュは、『ペスト』のなかでこの芸術哲学を芸術に昇華させている．『ペスト』においては、「不条理」な状況は世界の一部として隔離される．人生の「不毛」はリウー医師の努力に結実する．そこではじめて、カミュの思想は混じり気のない「真理」に、本当に到達するのである．つまり、『シーシュポスの神話』は『ペスト』に劣る．このことはほとんど疑いようがない． <br>　しかしながら、我々は芸術を前にするとき、どこか遠くで響く鐘の音を聴くような心地でいる．一方哲学は、実際の我々に同化し、実際の我々を切りさいなむ．故に『シーシュポスの神話』は、この上もなく哲学的な作品と言えるわけだ．『ペスト』はカミュのものであるが、『シーシュポスの神話』は我々のものでもあったのである． <br>　我々が芸術を深く理解し、人生のなかで芸術と向き合う自分を俯瞰し得るようにまでなった時、『シーシュポスの神話』は、我々にあらたな活力を与えてくれる．あなたにとってそれは、今日ではないかもしれない．だが、今日『シーシュポスの神話』を紐解いておくことが、いつかあなたの魂をよみがえらせてくれるだろう．
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<link>https://ameblo.jp/ulysse-nardin/entry-12552397585.html</link>
<pubDate>Fri, 19 Oct 2012 02:55:54 +0900</pubDate>
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<title>和の系譜</title>
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<![CDATA[ 　邦楽はどこ行っちゃったのさ、という話を友人としていて考えたこと． <br><br>　僕を含め、日本人は異様なほど西洋音楽（クラシック）を聴く． <br>　もちろんある程度の知的階層に限っての話ではあるが、それはもう「俺らのソウル・ミュージックです」と言わんばかりの勢いでクラシックばかり聴く． <br>　「今の音楽」というと「西洋音楽の発展系としての現代音楽」であって、そこには日本の伝統的な音楽語法というものが少しも顧慮されていないのである． <br><br>　和． <br>　日本的なもの． <br><br>　これが日本では不気味なくらい同時代性を持っていない． <br>　友人の言う通り、「平均律がデフォルトで、邦楽の音色が出た瞬間、みんなが驚くというのはやっぱり少し変」なのである． <br><br>　これを音楽だけで考えるとすぐに行き詰まってしまうように思われる． <br>　日本という国は"すべてにおいてそうだ"という認識が、この状況を理解するためのひとつの窓口になるだろう． <br><br>　日本には芸術がない、とさえ言われることがある． <br>　いや、浮世絵も雅楽もあるじゃないか――というのは「テンプラ、スキヤキ」の感覚であると理解する程度のセンスは、誰でも持っているだろう． <br>　日本には西洋芸術と同じ意味での芸術がない．踏み込んで説明するなら、「創作者の縦の糸」が時代ごとにブッツリ途切れているのだ． <br>　具体的には、ブーレーズは元を辿ればバッハだが、日本の現代音楽家は元を辿っても雅楽にならないということである．北斎の絵を誰が継いでるんだ、と．（浮世絵風の現代アートなんぞは、むしろ継承されていないことをヒシヒシと感じさせるだけのものだ） <br><br>　もちろん平安時代には雅楽があった．江戸時代には北斎がいた．時代時代に日本の優れた芸術が、そして優れた芸術家が存在したことは疑いない．それらは独自性を持ち、あるいは同時代の他国の芸術をも凌駕していた． <br>　問題は、すべてがそれっきりで終わっていて、今は何もかも西洋芸術の系譜に連なっているという点なのだ． <br>　我々が芸術家を志すとき、日本の過去の芸術はむしろ特異な彩りとして用いられる．それはもう、ガレにおける日本性と変わりがない． <br>　だから、日本には芸術がないと言うのだ．日本には今、いや過去においても、日本の芸術から芽生えた生え抜きの芸術家がいないのである． <br><br>　では、和の芸術が完全に消滅しているのかというと、必ずしもそうではない． <br>　僕の親父は千代紙の刷り師だし、奥さんは雅楽を演奏できる．これだけでも、和の芸術はリアルタイムに生きている、と言い得そうなものだろう． <br>　だが、それらはもはや「伝統芸能」になってしまっている．その意味では「和の芸術」ではなくなっている． <br>　奥さんが演奏するのは千年前の曲であって、理想とされるのは千年前と同じ演奏、および演奏状況という次第だ．雅楽の新曲なんてまずない． <br>　したがって我々が和の芸術に触れようとすると、新奇な印象すら受けるわけだ．それは遠い昔のものをそのままに保存した、「芸術」ならぬ「伝統芸能」であるからして． <br><br>　ここで、クセナキスのように「ギリシャは終わったんだ……」と嘆けるならいい．なる程、ギリシャは終わっている．あれは悪いけど残りカスの国だ． <br>　しかし日本には、三岸節子がいたりするわけだ．下手をすると近現代のどんな西洋人の手になる西洋絵画よりもコッテリとした、本質的な西洋美術の絵画技法をきわめた日本の画家が． <br>　音楽でも、文学でも、そういう人達が結構存在してしまっているのである――西洋芸術の系譜で、しかも活き活きとしているひとびとが． <br><br>　僕は考える．和の芸術はどうしちゃったのか、と． <br>　答えは単純明快だ．日本には、ある意味でやはり"芸術がない"のである． <br><br>　どういうことか？ <br>　芸術とは、現象学的には個体のものなのだ．しかるに日本では、それを総体のものとして保存しようとする傾向――"民族的才能"がある． <br>　日本は、ある時代の芸術を、芸術（個体）として継承していかずに、文化（総体）として保存し続ける特性を持っている．文化（総体）として保存されてしまうと、芸術（個体）として後を継げない．そこで完成されてしまう． <br>　日本人はシェーンベルクのような悪あがきを全然しない．十二音技法なんて話を聞くと、「どんだけ平均律に呪縛されてんだ、そんならいっそ仕切り直せよ！」と思うわけだが、日本の文化史に対しては逆に「仕切り直しすぎだ！」とツッコミたくなる． <br>　「はい、ここまでよ」と線を引く日本人．変なやつら！ <br><br>　この傾向は、悪い意味で現代にも影響している．代表はマンガ、アニメ、ゲームだろう． <br>　マンガはまあいい．傑作が今も少数ながら生まれている．海外のコミックと比べてその芸術性は圧倒的で、日本独自の芸術という観すらある． <br>　しかしアニメはどうか．アニメ大国とか豪語しておきながら、ディズニーやピクサーのアニメに比肩し得るものがどれだけあるか． <br>　ゲームもそうだ．これだけゲーム文化が普及していながら、『オブリビオン』レベルのものが一本でも存在しているのか． <br>　日本は、アニメもゲームも総体として、文化として見事に保存してしまった．そこには、芸術性が微塵もない． <br>　個体のクオリティで言えば今やディズニーアニメや洋ゲーの方が上なのに、総体のパワーは日本が勝っていて、クソみたいな作品ばっかりのアニメ大国、ゲーム大国という奇怪な文化状況になってるわけだ． <br>　これらは文化としてパッケージングされているが、まだ保存まではされていない．だからくだらなさばかりが目に付く．もし保存までされてしまうと、雅楽や浮世絵のようになる．我々はそれを見て「変なの！」と驚いてしまうのである． <br><br>　こういった問題を敷衍すると、「それで何の問題があるんだ？」という疑問に行き着く． <br>　困ったことに、日本人が日本の芸術を文化として保存してしまった背景には、非常に繊細な、本質に対する理解力が潜在している． <br>　すなわち、「継ぎづらいから継がない」という側面が確かにあるのだ． <br>　邦楽と西洋音楽とどちらが上か――保存された文化としては同格であろうし、見方によっては邦楽が勝つかもしれない．ところが、継がれるべき系譜、発展の素地としては、明らかに西洋音楽が上なのである． <br>　そういうことに、日本はやたらと敏感であった．これも僕を唸らせる民族的才能の一つと言える． <br>　なる程、鏡花は天才だ．しかし鏡花の系譜がないことにも納得がいく．漱石から芥川へ、芥川から志賀直哉へと紡がれる糸の方に、僕は惹かれる．誰だってそっちに惹かれるだろう．鏡花を継いだら模倣になるからだ． <br>　日本のアニメ絵が文化になってしまっているのは、それをどう発展させようとしても、結局のところ模倣になるからだ．気付かないバカもいるし、無意識でそう判断している人もいるが、民族的な背景には「どうせ模倣になるなら模倣にしてしまおう、文化として」という見えない意志が働いているようでもある． <br>　つまるところ、それでいい、としか言えない．日本人が和の系譜を切り捨てて仕切り直してきたのは、正しい選択だったのだ． <br><br>　いけないのは、むしろ受け手の側だ． <br>　優れた知性・感性の持ち主にすらいけないんだか何なんだか微妙にわからない問題ではあるけれども、それについて無意識なのはやっぱりいけないんじゃねーのかという気持ちがあるのだ． <br>　邦楽の音楽構造を奇怪に思うほど西洋的になっている耳は変だ．変でもいいけど、変であるコトを意識すべきではないのか． <br>　たとえば、ロマン・ロランは意識していた．<br>　ロマン・ロランは「ゲーテとベートーヴェン」の一点張りだ．フランス人のクセして、ドイツかぶれの非国民丸出しである．まあ、それは僕だってそうだ．なにせ一番素晴らしいんだからしょうがねえや． <br>　そこで彼らは、少し照れ臭そうに「世界文学」と言った．そういうところを左翼の気持ち悪い人に利用されたりしながらも、一番大事なのは芸術の素晴らしさに決まっているので引かなかった．いいことだ． <br>　ここに我々は何を学ぶべきだろう？ もちろん無国籍性などではない． <br>　"我々は一番素晴らしいものを選択している"という意識だ． <br><br>　我々が西洋音楽を聴いているのは何故か． <br>　それは、もっとも素晴らしい音楽だからだ！ <br>　大切なのは、"西洋音楽を当たり前のものとして聴くのではなく、もっとも素晴らしいものを選んでいるという意志をもって聴くこと"なのだ！！ <br>　ここにおいてはじめて、我々が邦楽を、和の系譜を切り捨てたという事実に偉大な意味が生じる．いや、そうしなければ我々は、あわれな漂流民にも等しい． <br>　ベターではだめだ．ベストだ．そこに西洋音楽を聴く意味があり、西洋音楽を継ぐ意味があるのではないか． <br>　 <br>　常に最良の選択肢をえらぶというところに芸術の偉大さがある． <br>　我々が邦楽を捨て、西洋音楽に浸っているという事実は、それが芸術の本質的な偉大さによって支えられているならば、まことに結構な話なのである． <br>　しかしそうではない場合――ただ変なだけだ．格好付けのインテリぶった野郎という謗りを免れ得ない．日本人のクセして、したり顔で西洋音楽を当たり前のように聴いちゃって、バカみたい． <br><br>　ニーチェは教養を憎んでいた．誰よりも教養人でありながら．そこに、おバカの集団であるナチスの付け入るスキがあった． <br>　しかしニーチェの態度は正しい．偉大な芸術家にとって、身近な敵はインテリやディレッタントに他ならない．どうせJ-popを聴くバカにはならないんだから、そういうのは放っといていい．それよりも、ベートーヴェンを聴くバカにならんように気を付けなければ． <br><br>　我々は常に最良のものを選ぶという意志をもって、厳しく我が身を律する心構えを持たねばならない．
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<link>https://ameblo.jp/ulysse-nardin/entry-12552397582.html</link>
<pubDate>Fri, 19 Oct 2012 02:42:41 +0900</pubDate>
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<title>ラディゲについて</title>
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<![CDATA[ 　ラディゲは紛れもない天才なので、おそらく、自分を含めたすべての人間を軽蔑していた．しかし、聡明な彼は軽蔑という感情の醜さと卑しさも厳しく認識しており、人間が美しく見えるようなところまで人間の心理を分析してみようと試みた． <br>　それは、人間が自ら意識できず、また他人によっても分析され得ないような心理の在りかたを描こうという試みだった．その試みのなかでは、なにひとつ美化されていないのに、すべてが美しいのである．「罪」の概念を持たない宗教であったと換言してもよい． <br>　だが、そうやって人間を眺める方法は、画家には許されても、小説家には許されていなかった．理性的に人間を愛するというのは、人間でなくなるということだったのである． <br>　だから、ラディゲは死んだ．『ドルジェル伯の舞踏会』が出版される前に． <br><br>　コクトーはラディゲの死に人間の限界を見て、それから十年も理性を放棄し続けていた．三島由紀夫は若い頃に『ドルジェル伯の舞踏会』にハマった後、少しバカになって寿命を延ばすことにした． <br><br>　結局、人間を理性的に愛せるようになった事実を隠し続けたゲーテが、いちばん賢いのである．自分が神様になったことは、神様には内緒にしておかないといけない．
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<link>https://ameblo.jp/ulysse-nardin/entry-12552397579.html</link>
<pubDate>Fri, 19 Oct 2012 02:15:37 +0900</pubDate>
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