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<title>馬クラブのブログ</title>
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<description>競馬愛好会「馬クラブ」のブログです。内容については、①   もともとが馬クラブ内の同人用に書かれたもので②   このため、クラブメンバー以外が読んだ場合には意味がわからないことや、多少不快に感じる記述があるかもしれないこと、をご了解ください。</description>
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<title>勝手にBEST10　 第5章　道悪編</title>
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<![CDATA[ 第5章・道悪編<br>第1位<br>史上最悪馬場に躍動した馬たち<br>1973年函館競馬のレース<br>この項では、1つのレースだけでなく、いくつかのレースをまとめて紹介したい。別編でもちょっと触れたことがあると思うが、歴史上最悪の馬場状態になった1973年の函館競馬がテーマである。まず若いファンの方々のために断っておくが、当時函館には芝コースしかなく、ダートが併設されるのはずっと後年である。このため、どのように劣悪な環境になろうとも、ダートに逃げることができなかった。1973年、この年は昭和でいうなら48年で、ちょうどハイセイコーが中央入りして競馬が大ブームの兆候を見せ始めた時だった。<br>この年の函館は雨が多かった。1週目こそ晴または曇りの良馬場で行われており問題なかったが、問題は2週目からである。3日目の9月1日、朝から雨の中で行われ、スタートの稍重から重、不良と悪化した。翌日の日曜は雨こそ止んだものの夜通し降っていた雨の影響で終日不良。翌週3週目も金曜から雨が続いており、土曜日も降ったり止んだりの繰り返しで終日不良。メインのSTV杯4歳500万級でアイレバースが勝ったのだが、時計は1200で1.18.6。この日から各馬の差が大きくなり、バラバラでゴールするのが目立つようになってきた。とにかく芝しか使わないので走るたびに馬場はこねくり回される。馬場の保守技術や芝の育成技術も今とは違う。もちろんこの時代に洋芝とかオーバーシードなどある訳もない。翌日の6日目も雨は降っていなかったが、3日に渡ってこねくり回された馬場はこの時点でもう最悪。そしてこの日のメイン、函館記念を迎える。レースは先行したエリモカップがハクホオショウの追撃を振り切って勝つのだが、時計は何と2.16.4である。断っておくがこれは2000mの時計である。2200ではない。3歳クラシックの頃は未完成だったハクホオショウはこの頃充実期にあり、61Kを背負いながらよく迫ったのだが、もともと道悪が得意でハンデ55Kと6K差あるエリモカップを捕まえ切れなかった。ハクホオショウの後ろは8馬身開いており、オープン大将のコーヨーが③着だった。この2.16.4という走破時計は函館記念の歴史の中にあっても飛び抜けて遅く、この年だけ2200で行われたのではないかと疑いたくなるようなタイムだ。ちなみに、この前年が2分3秒台で、翌年ツキサムホマレは2.01.7で走っている。<br>翌週になるとまた天候が悪く、土曜日まで雨が残っていた。最終日は晴れたものの、この日のメイン函館3歳Sの頃になると馬場はもうどうにもならないような状態になり、スプリンターとして後に名を売るサクライワイが1.21.7という1400のようなタイムで逃げ切った。1200で1.21.7というのはほとんど考えられないような時計であるが、間違いではない。着差にも注目いただきたい。1200のレースとは思えないほど、まさにバラバラで、このレースの一つ前の8Ｒ「みなみ北海道S」では、これも当時有名な道悪の鬼ヒシダイセンが、②着のヒデツカサに何と3秒4、およそ20馬身差をつける恐ろしい大差勝ちを演じている。マスコミもこの状態に、「史上最悪馬場」の称号をつけて表現した。この頃は札幌が先で函館が後の開催であり、札幌2開催のあと函館は1開催のみの予定だったのでまだよかったが、もう1開催あったらさらにひどいことになっていただろう。<br>（下記2Ｒの着差に注目！ハナ・アタマ・クビという言葉は出てこない）<br>1973.9.9　1回函館6日目　9R　（曇・不良）<br>第9回函館記念　4上　ハンデ　2000　　9頭<br>1　⑥6　エリモカップ　　　　牡6　55　松田　幸春　　④人気　　2.16.4<br>2　③3　ハクホオショウ　　　牡5　61　池上　昌弘　　①         1 1/4<br>3　⑧9　コーヨー　　　　　　牡6　58　郷原　洋行　　③　　　　　8<br>4　⑧8　ブルスイショー　　　牡4　50　横山　富雄　　⑧　　　　 3 1/2<br>5　①1　ソロナオール　　　　牡5　55　加賀　武見　　②　　　　　3/4<br>6　②2　タイラップ　　　　　牝5　51　南井　克巳　　⑦　　　　 1 1/2<br>7　⑦7　キヨノサカエ　　　　牡4　52　福永　洋一　　⑤　　　　　3<br>8　⑤5　サクラトラオー　　　牡5　49　東　信二　　　⑨　　　　 1 3/4<br>9　④4　スイートバンズ　　　牝4　49　今岡　正　　　⑥　　　　 大差<br>単680　複170、120、200　　　連③－⑥990<br><br>1973.9.16　1回函館8日目　9R　（晴・不良）<br>第5回函館3歳S　　3歳　馬齢　　1200　　13頭<br>1　⑥9　サクライワイ　　　　牝3　52　小島　太　　　②人気　　1.21.7<br>2　⑧13 シンコウスター　　　牡3　52　赤羽　英男　　③　　　　　3<br>3　⑦10 グッドキャッツアイ　牡3　52　高橋　隆　　　⑧　　　　 2 1/2<br>4　⑧12 カネアケビ　　　　　牝3　52　加賀　武見　　⑩　　　　　1/2<br>5　⑤6　イチカツラ　　　　　牝3　52　南井　克巳　　⑬　　　　 1 1/2<br>6　⑦11 エリモマーチス　　　牡3　52　松田　幸春　　⑦　　　　 1 3/4<br>7　④5　シーフラッグ　　　　牡3　52　戌亥　信昭　　⑫　　　　 1 3/4<br>8　④4　ゴショノマサオー　　牡3　52　郷原　洋行　　⑤　　　　　1/2<br>9　③3　ヒガシエイト　　　　牝3　52　森安　重勝　　①　　　　　1<br>10 ②2　エゾノメイクン　　　牡3　52　横山　富雄　　⑭　　　　 2 1/2<br>11 ⑥8　ロングラッキー　　　牡3　52　梁田　善則　　⑨　　　　 2 1/2<br>12 ①1　ワイルドマーチス　　牡3　52　福永　洋一　　④　　　　大差<br>13 ⑤7　ミチハル　　　　　　牡3　52　武　永祥　　　⑪　　　　　2<br>単510　複270、300、230　　連⑥－⑧2090<br>第2位<br>雨に祟られたクラシック<br>1980年皐月賞（ハワイアンイメージ）<br>この年、昭和でいうなら55年だが、どうした訳か牡馬クラシックのステップレースとなると雨が降った。まず年頭の京成杯が不良でハーバーシャレード→トウショウゴッド。東京4歳Sは良馬場だったが、弥生賞が重馬場でトウショウゴッド。スプリングSが不良馬場でサーペンプリンス→ハワイアンイメージ。そして本番皐月賞もひどい不良馬場となった。この年のクラシックは当初関東勢が圧倒的に強かったが、前年の朝日杯を勝ち、年が明けて東京4歳S（現：共同通信杯）も勝っていたリンドタイヨーが骨折してしまい、その代理争いを各馬が繰り広げていた。素質や馬体から将来を嘱望されている馬の中にはモンテプリンスがいたが、弥生賞・スプリングSと不得手の道悪に泣かされており、たまたま良馬場だった東京4歳Sでは調子が今一つでリンドタイヨーに完敗するなど、リズムが非常に悪かった。この年、何度もひどい馬場で行われた中山の馬場はかなり傷みが激しく、おまけにとうとう本番皐月賞も大雨となった。クラシックとは言いながら、まるで「道悪王座決定戦である。①人気は重馬場の弥生賞を快勝し、京成杯でもひどい道悪で②着していたトウショウゴッドになった。しかし、何とも間が悪いことにトウショウゴッドは向こう正面で故障してしまい、そのまま再起不能となった。4角を回って直線に入ると、馬群はみな馬場の中央から外にコースを取る。しかし、人気薄のハワイアンジュエル一頭だけは思い切って内に入った。直線中ほどからは内ハワイアンイメージ、外オペックホースの２頭の叩き合いになり、ハワイアンイメージが首を一杯に伸ばして勝った。オペックホースが②着し、内に入るバクチが当たったハワイアンジュエルが③着に入り複勝の穴になった。<br>ハワイアンイメージは不良のスプリングＳでサーペンプリンスと叩き合って②着しているようにこうした馬場がうまく、また560K台と非常に大きい馬で瞬発力勝負には弱点があったので、こうした馬場に救われたのは事実であろう。増沢の乗る大型馬で道悪の皐月賞。7年前のハイセイコーの再現であった。馬主の「大関」の社長は馬クラブにも来ていたようで、横倉氏や福沢氏は一緒に飲んだことがあると聞いているが、私は当時牧場にいたために面識がない。②着のオペックホースは晴雨兼用型で、東上初戦で不良馬場の菜の花賞を10馬身差で勝っており、このあと良馬場のダービーで抜け出した①人気モンテプリンスを徹底マークして測ったように差し切り、ダービージョッキーの称号を初めて名手郷原に与えるのだが、春のクラシックで完全燃焼してしまったのか、ダービー後は1勝もできずに、ダービー馬としての連敗記録を引退まで続けて32連敗することになる。②着は2回あったのだが。最後には障害転向の話まで出て、結局ダービー馬を障害で走らせるのかという批判が大きく馬主側が断念して実現しなかったが、関係者によると飛越にはかなり天才的なものがあったということである。もっとも、こんな話は死んだ子の年を数えるが如きもので、どこまで信用すべきかわからないが、あそこまで負けたのなら障害を飛ばせるのも私は悪いとは思わない。やめるならもっと早くやめればいいだろうに。現代でも史上最弱のダービー馬という表現をされた記事を時折見かけるが、これには私は異論がある。3歳春のオペックは決して弱くなかった。仮に、ダービー直後に骨折でもして引退していたら、この馬の評価は全く違ったものになっていただろう。要するにリマンドの仔にはこうしたタイプも何頭か出ているが、3歳春完成型だったのである。このような馬はダービー馬の中にも何頭もいるのだが、秋以降に成長できず、あまりに数多く負けすぎたのが悲劇を生んだ。<br>オペックホースはホース産業の持ち馬で、早い話が競馬専門紙および週刊「馬」の社長の持ち馬である。ところが、ホースニュース社の角田二郎社長はこの直前に亡くなっていて、ダービーは弔い合戦だったことも当時話題になった。馬クラブとも少なからず因縁があった訳だ。種牡馬試験を不合格になって色々あった揚句、何とか形だけの種牡馬になり、たった1頭の初年度産駒のベストンダンディが道営競馬で重賞を立て続けに勝ち、一時注目されて種付け頭数も増加したものの、長くは続かなかった。しかし28歳まで長生きしており、幸せな馬だったとは言えるだろう。専門紙「馬」も今はない。<br>③着のハワイアンジュエルはこの時の好走が道悪によるフロックだったのは明らかで、その後さっぱり成績を残せなかった。この年のクラシックはとにかく馬場状態に左右されたクラシックの代表格で、度重なる道悪にモンテプリンスらはひどい目に遭い、道悪に強いハワイアンイメージや、苦にしないオペックホース、サーペンプリンスらは実績を残せた。本来実力一番と評価されていたモンテプリンスはその後休養したりして本格化に手間取ったが、4歳秋くらいから本来の素質が開花して5歳春の天皇賞⇒宝塚路線を席巻。同じころに本格化してきた同期のアンバーシャダイと激闘を繰り広げる。非常にレベルの高い世代であった。<br><br>1980.4.13　3回中山8日目　10R　（雨・不良）<br>第40回皐月賞　4歳牡・牝　定　16頭<br>1　⑤10　ハワイアンイメージ　　牡4　57　増沢　末夫　　④人気　2.10.2<br>2　⑥11　オペックホース　　　　牡4　57　郷原　洋行　　③　　　　クビ<br>3　③5　 ハワイアンジュエル　　牡4　57　石神富士雄　　⑬　　　1 1/2<br>4　①1　 モンテプリンス　　　　牡4　57　吉永　正人　　⑤　　　3 1/2<br>5　①2　 サーペンプリンス　　　牡4　57　谷原　義明　　②　　　　ハナ<br>6　②4　 ハーバーシャレード　　牡4　57　嶋田　功　　　⑥　　　　大差<br>7　⑧16　インターギャレット　　牡4　57　東　信二　　　⑮　　　1 1/2<br>8　②3　 ビゼンセイリュウ　　　牡4　57　蛯沢　誠治　　⑧　　　1 1/4<br>9　④7　 タツミプリンス　　　　牡4　57　清水　英次　　⑩　　　　ハナ<br>10 ⑧15　サクラシンゲキ　　　　牡4　57　小島　太　　　⑪　　　3 1/2<br>11 ⑦14　グンター　　　　　　　牡4　57　河内　洋　　　⑦　　　　4<br>12 ⑦13　シンボリフレンド　　　牡4　57　柴田　政人　　⑭　　　1 3/4<br>13 ④8　 マツプレス　　　　　　牡4　57　那須　孝一　　⑫　　　3 1/2<br>14 ⑥12　マルホミンシオ　　　　牡4　57　森安　重勝　　⑯　　　　1/2<br>15 ⑤9   カツルーキーオー　　　牡4　57　的場　均　　　⑨　　　　大差<br>止 ③6　 トウショウゴッド　　　牡4　57　中島　啓之　　①　向正競走中止<br>単570　複160、210、960　　　連⑤－⑥1080<br><br>第3・4位<br>兄弟道悪天皇賞馬<br>1975年・1979年秋天皇賞（フジノパーシア・スリージャイアンツ）<br>現代と違い、雨が降ると割合簡単に馬場が悪化してしまう30～40年前のレースでは、「道悪の鬼」というフレーズは何頭もの馬に使われていたし、もうちょっと道悪巧者ぶりが上がると、ラファールのように「雨に咲く花」などと美しい表現を使われたりする。これは馬自体の持っている運にもよるものと思うが、ラファールなどはちょうど調子が上がって来た時に雨が降るのではないかと思わせたくらいに道悪で登場して、そこで実績を重ねることが多かった。私が忘れられない道悪巧者にホッカイダイヤという馬がいる。馬クラブのオールドファンなら、「あ～ホッカイダイヤ～懐かしいね～」ということになるだろう。<br>この馬、当時としては非常に珍しい血統で、ドイツダービー馬ヴァイトヴェルクの持ち込みであり、実力的には準オープンとオープンの間を行ったり来たりという程度で、重賞には手が届かなかったのだが、希代の道悪巧者であり、古馬になってからはこの馬の道悪巧者振りを知らないファンはいないと言っていいほどだった。ある日、確か中山の土曜日のメインレースだったと思うのだが、そこに出てきて人気がまるでない。それもそのはず、近走では着にも来ていない。ところが、昼ころから雨が降ってきて、やがて本降りになってきた。当時はオッズなど前のレースが終わらないとわからない。パドックに出てきた時には何と①人気である。レースも大外から堂々と抜け出してきた。こうした馬は昔たくさんいたのである。あまり道悪になどなってほしくはないが、こうした個性ある馬がいる競馬は今思うと本当に楽しかった。<br>ここで話をするのはフジノパーシアとスリージャイアンツの兄弟だ。この兄弟、父はフジノパーシアがもちろんパーシア、スリージャイアンツの方がセダンで、父親のタイプにはだいぶ違いはあるものの、兄弟揃っての道悪巧者で、ともに道悪での天皇賞を勝っている。どちらも道悪の中でもかなりひどいドタドタ馬場で、人気の馬がもがき苦しむ中をスイスイと泳ぎ回って天皇賞の栄冠を手にした。<br>兄のフジノパーシアは、馬クラブのオールドファンならみな知っているだろうが、柴田寛厩舎の名物厩務員、石田さんの担当馬であり、石田さんと言えばかつてダイシンボルガードの厩務員時代に、これも道悪のダービーのゴール前、愛馬が先頭に立ったのを見て興奮して、引き手（馬を引く縄のこと）を振り回しながら馬場に飛び出し、一躍名を馳せた熱血厩務員である。フジノパーシアの現役時時代にはすでに馬クラブは立ちあがっており、初期メンバーのうちで後藤氏がフジノパーシアの大ファンだったので、その関係でこの馬の引退式の時には横断幕を出したり、その後厩舎にお邪魔して石田さんと記念撮影をしたりしたものだ。後年、一時期私が美浦にいた時、私のいた伊藤竹厩舎は柴田寛厩舎のとなりだったので、石田さんとはよく挨拶をしたし、石田さんはよく私のところに工具など仕事上の借り物をしに来た。懐かしい思い出である。<br>フジノパーシアは道悪で天皇賞を勝ったが、道悪が得意なばかりではなく、正味の実力でもこの当時のチャンピオン級である。この馬は3歳時には骨折でクラシックを棒に振ったが、3歳秋ころから本格化してきて、東京新聞杯で初重賞制覇。その後も重賞戦線で実にコンスタントに走り、秋の天皇賞を勝った後も、翌年の宝塚記念制覇の後に当時2000ｍだった高松宮杯を60Ｋでヤマブキオー以下に勝つなど、天皇賞馬としての名誉をしっかり守った名馬である。少し後のアンバーシャダイのような堅実なオールラウンドホースだ。種牡馬としては当時のステイヤー型はほとんど全馬が失敗しているようなものなので、結果を期待する方が酷というものだろう。<br>そして、この時の天皇賞は②③着にも名うての道悪巧者が好走した。②着カーネルシンボリは3歳春、弥生賞までクラシックの本命級だったが骨折し、秋に復帰してから4歳春の目黒記念で、名手野平祐二の引退レースを飾る。この目黒記念も馬クラブでは語り草のレースで、外から来たキクノオーの横山富雄（横山典弘のオヤジさんである）がカーネルを交わさないようにうまく②着した。まともに追っていれば差しただろう。いつも言うが、馬クラブはこんなことで曖昧な表現はしない。完全に野平祐二を勝たせるためのレースであり、第一、当時こんなことで文句を言うファンなどいるものか。よき時代であった。<br>また③着には前年のオークスとビクトリアC（何度も書いているが、エリ女王杯の前身）の2冠牝馬で、道悪に非常に強いトウコウエルザが入った。この馬もぐちゃぐちゃのビクトリアCで大外を一気に4馬身突き抜ける凄まじい勝ち方をしたことがあり、当時桜花賞馬やオークス馬は古馬になると終ってしまうことが非常に多い中で、牡馬相手によく頑張っていた馬だった。惜しむらくは1年先輩のオークス馬ナスノチグサのように、牡馬相手に重賞を勝つことはできなかったが。ナスノチグサとトウコウエルザはこの少し前、京王杯オータムハンデで快速ミホノフォードのエスコートによりレコードで①②着し、オークス馬同士での万馬券を実現している。<br>つまりこの天皇賞は道悪の巧拙がはっきりと結果に反映されたレースであって、①人気のキクノオーは、前走目黒記念を59Kで圧勝していて充実最好調時だったが、あまり得意でない道悪に泣かされ、エルザから5馬身も離されていた。<br>1975.11.23　5回東京8日目　9R　（曇・不良）<br>第72回天皇賞　5歳上牡・牝　定　3200　15頭<br>1　④6　フジノパーシア　　　牡5　58　大崎　昭一　　②人気　　3.28.8<br>2　⑤8　カーネルシンボリ　　牡5　58　柴田　政人　　④　　　　 1 3/4<br>3　②2　トウコウエルザ　　　牝5　56　中野　栄治　　⑥　　　　　2<br>4　①1　キクノオー　　　　　牡5　58　横山　富雄　　①　　　　　5<br>5　⑥10 トドロキムサシ　　　牡5　58　中島　啓之　　③　　　　　ハナ<br>6　⑤9　ナスノチグサ　　　　牝6　56　嶋田　功　　　⑪　　　　 2 1/2<br>7　⑦12 ナオキ　　　　　　　牡7　58　佐々木昭次　　⑨　　　　　3/4<br>8　④7　トウショウプリンス　牡6　58　菅原　泰夫　　⑩　　　　　1<br>9　③5　トウショウロック　　牡5　58　加賀　武見　　⑤　　　　　クビ<br>10 ⑧15 イドールターフ　　　牡6　58　油木　宣夫　　⑭　　　　  2<br>11 ③4　マルイチダイオー　　牡5　58　郷原　洋行　　⑧　　　　　1<br>12 ⑦13 イナボレス　　　　　牡7　58　谷原　義明　　⑫　　　　　1/2<br>13 ⑧14 ミリオンパラ　　　　牡8　58　戌亥　信昭　　⑮　　　　　クビ<br>14 ②3　ウエスタンリバー　　牡6　58　吉永　正人　　⑦　　　　　9<br>15 ⑥11 ウエスタンダッシュ　牡5　58　森安　重勝　　⑬　　　　　6<br>単330　複150、260、450　　連④－⑤1170<br><br>一方弟のスリージャイアンツは、父がセダンに変わったが道悪は兄同様得意であった。しかし、得意だと世間に認識されたのは正味この天皇賞を勝ったからであって、それまでに道悪が特に得意という印象は私にはなかった。それもそのはずで、記録を調査してみるとスリージャイアンツは天皇賞前までに芝の重・不良で4回走っているが、一度も勝ってはいない。データとしては兄が上手かったのを誰もが知っているというだけである。兄に比べて強さをあまり感じない馬で、まだ条件馬の身分で出走したダイヤモンドSを51Kの軽ハンデで勝ってオープン入りした。このレースも兄が勝っているレースなのでダブル兄弟制覇だ。その後は強い相手に対し、勝てないまでも善戦して天皇賞を迎えている。<br>恐らくは、これは充実期にあったと考えるよりも、この馬の父セダンの特性ではないかと思う。セダン産駒には以前もこの項で記したことがあるが、非常に堅実で相手なりに走り、勝負根性に優れた面がある。その特性が生かされたものだろう。そこで天皇賞だが、この時にはこのころの騎手会長で大ベテランの加賀武見にして「ここまで悪い馬場は初めて」とのコメントを出すくらいひどいものだったようで、さながら道悪王座決定戦とでも言うべきレースとなった。馬場のせいもあってファンの支持も割れた。これまでの実績では前年のダービー馬で3歳クラシックの王道を歩み、古馬となってもAJC杯・宝塚記念に勝ち春の天皇賞でも②着と、ステイヤーではないにせよ距離不安もそう大きくないサクラショウリがトップであった。しかし、ショウリは良馬場で切れ味を生かすタイプであって、道悪は下手ではないにせよ比較上良くはない。そこでわずかにサクラショウリを押えて①人気になったのは逃げ馬メジロイーグル。おそらくこれは道悪巧拙が加味されたものだろう。メジロイーグルはここまで重・不良で3回走っているが、そのうち2回勝っており、その着差は7馬身差と5馬身差。唯一負けているのはNHK杯でインターグシケンから2馬身差の④着という実績だったので、ここから見える額面上は、どう見てもイーグルは道悪得意に見える。これに多くのファンが騙された。というよりも、この時の馬場がファンの予想以上に悪すぎた。つまり、メジロイーグルは確かに道悪がうまい。普通の道悪ならば逃げ脚を生かして軽く逃げ切るくらいの巧者ではあるのだが、この時の馬場の悪さはそのような程度ではなく、早い話がメジロイーグルの「得意な道悪の程度」を遥かに通り過ぎた悪さだったのである。<br>完全にスタミナを失い直線バッタリと止まったメジロイーグルは、使うレースがなくてローテーションが開きすぎるために、無理に出走してきたこの時代の障害王、バローネターフにも交わされて、前年のダービーをともに争ったバンブトンコートとシンガリ争いをしてしまった。こうした中で直線はスリージャイアンツとメジロファントム2頭が完全に抜け出してマッチレース。差して差し返して、スリージャイアンツはとうとう我慢しきった。そして、この後7馬身離れた③着に来たのが何とアサヒダイオーであった。アサヒダイオーは道悪下手で定評のあるシンザンの仔である。ここに、このレースの特異性がある。アサヒダイオーは、これまで重・不良を何度も経験しているが、もちろん一度も上位になど来ていない。ところが、この馬は530Kを越える巨漢であった。逆に、メジロイーグルはこれまで道悪に実績はあったが体が小さく、400～420Kくらいでレースしていた馬だ。つまり、この日の馬場はあまりに悪すぎたために、道悪のうまい下手の問題ではなく、その日たまたま調子が良く、ある程度馬力のあるタイプが上位に来たのだと考えるのが自然である。ここまで悪くなってしまうと、道悪の得手不得手のデータも参考にならない。そんな歴史的なレースであった。<br><br>1979.11.25　5回東京8日目　9R　　（曇・不良）<br>第80回天皇賞　5歳上牡・牝　定　3200　13頭<br>1　⑥8　スリージャイアンツ　　牡5　58　郷原　洋行　　⑤人気　　3.33.5<br>2　③3　メジロファントム　　　牡5　58　横山　富雄　　⑧　　　　　ハナ<br>3　⑦11 アサヒダイオー　　　　牡5　58　安田　富男　　⑪　　　　　7<br>4　④4　ブルーマックス　　　　牡5　58　東　信二　　　⑥　　　　　1/2<br>5　①1　サクラショウリ　　　　牡5　58　小島　太　　　②　　　　　1<br>6　⑤7　ユキフクオー　　　　　牡5　58　中島　啓之　　⑩　　　　1 1/4<br>7　④5　クラウンピラード　　　牡7　58　佐々木昭次　　④　　　　2 1/2<br>8  ⑦10 チェリーリュウ　　　　牡5　58　市丸　繁　　　⑫　　　　　1/2<br>9　⑥9　リュウキコウ　　　　　牡6　58　久保　敏文　　⑨　　　　　ハナ<br>10 ②2　カネミノブ　　　　　　牡6　58　加賀　武見　　③　　　　2 1/2<br>11 ⑤6　バローネターフ　　　　牡8　58　根本　康弘　　⑬　　　　　3<br>12 ⑧13 メジロイーグル　　　　牡5　58　河内　洋　　　①　　　　　5<br>13 ⑧12 バンブトンコート　　　牡5　58　伊藤　清章　　⑦　　　　　アタマ<br>単1030　複370、510、770　　連③－⑥5070<br><br>第5位<br>スコールの果てに<br>2010年日本ダービー（ロジユニヴァース）<br>かつて、昭和42年のダービーでレース前に雷を伴う集中豪雨があり、雷が鳴ったのでアサデンコウ（電光）が来た!と話題になった。この語り草のレースは、さすがに私はまだ小学生の身分で見ていないのだが、それにも増してものすごいスコールを経験したのがこの年のダービーだった。この日、いつものように馬クラブメンバーで府中のスタンドに陣取り、朝から宴会を繰り広げていたが、午前のレースが終わる頃の話である。<br>府中のスタンドから右手の1コーナー方向、ちょうど2000ｍのスタート地点の方に目をやると、晴れた日には富士山が見える。特に2月の冬開催の時には温度が低くて空気が澄んでいることが多いので、雪化粧の富士が美しい。こんなことはみな知っているだろうが、この時、その方角に真っ黒な雲の塊があった。方角はほぼ真西に当たるので、通常天気はそちらの方から変わってくる。前にいた工藤氏らに、「おい～あの真っ黒い雲、こっちに来るんじゃないのかな」と話していたほんの30分ほど後、急にあたりが暗くなり雨が降り始め、それもすぐに本降りとなった。ダービー観戦に沸いていた内馬場やウィナーズサークル前でシートを広げているファンにとってはまさに悪夢である。一斉に避難を始めたが、雨の勢いは急激に激しくなり、まるで南洋のスコールのように降って来た。<br>私も長い人生、雨の多い日本に住んでいるし台風も当たり前に経験しているが、この時の集中豪雨はあまり記憶にない物凄さで、しかも南洋のスコールなど30分も続かないものだが、この時はそうではない。その状態が1時間以上延々と続いたのだ。馬場は見る見るうちに田んぼを通り越し、プール状態になってしまった。ダービーの前にはどうやら雨は止み、また内馬場にも人が戻って来たが、ダービーデーに開放される障害馬場など、行ってはみなかったが、とてもまともに歩けるような状態ではなかっただろう。この雨はダービーのレースにもとんでもない影響を与えた。前走でNHKマイルに勝っているジョーカプチーノが逃げたが、馬場の悪さに完全にスタミナを失い、大差のシンガリ負け。自身の上がり3F49.0とは本当に歩いていたようだ。レース自体の走破時計2.33.7というのも現代的ではないが、上がり3F39.7というのは現代ではほとんどあり得ない時計である。約40秒だ。出走馬中最速の上がりを記録したのは④着のナカヤマフェスタと⑥着のシェーンヴァルトだが、この2頭とて39.0もかかっている。とても現代ダービーのデータではない。<br>さらに凄まじかったのは、①人気の皐月賞馬アンライバルドが⑫着、皐月②着のトライアンフマーチが⑭着、皐月③着のセイウンワンダーが⑬着という馬鹿げた着順である。さらにさらに輪をかけて、このダービーで勝ったロジユニヴァースの皐月賞での着順が⑭着、②着リーチザクラウンは皐月で⑬着、③着アントニオバローズが皐月で⑨着だったという事実で、皐月①②③着馬がダービーで⑫⑭⑬着、逆にダービー①②③着馬の皐月での着順が⑭⑬⑨着とは、全く開いた口がふさがらない。おそらく、この先競馬が何年続こうが、このような馬鹿馬鹿しい着順逆転現象は二度と起きないだろうし、二度と起きてはもらいたくない。そして、それから3年を経た現在、この事象はたった一言で説明することができる。「世代レベルが低過ぎて全部の馬が弱かった!」<br>ロジユニヴァースは現在も現役登録を抹消せず、ダービー後は恥をさらし続けている。先に書いたオペックホースの方が遥かにましである。リーチザクラウンは先ごろようやく引退した。わずかに今年トライアンフマーチが復活して好調であるが、一番よかったのはさっさと引退したアンライバルドだったのかもしれない。馬の引き際は難しい。特にロジユニヴァースのように、2歳から早々と走ってトライアルまでは順調に来たのに、皐月の大敗ですっかりおかしくなり、ダービーで全部残りの能力を売り尽くしてしまった馬は、全く気の毒なものである。<br><br>2009.5.31　3回東京4日目　10R　（曇・不良）<br>第76回日本ダービー　3歳牡牝　定　2400　18頭<br>1　①1　ロジユニヴァース　　牡3　57　横山　典弘　　②人気　　2.33.7<br>2　⑥12 リーチザクラウン　　牡3　57　武　豊　　　　⑤　　　　　4<br>3　⑤10 アントニオバローズ　牡3　57　角田　晃一　　⑧　　　　　アタマ<br>4　④7　ナカヤマフェスタ　　牡3　57　蛯名　正義　　⑨　　　　　1/2<br>5　①2　アプレザンウェーブ　牡3　57　内田　博幸　　④　　　　　3/4<br>6　⑦13 シェーンヴァルト　　牡3　57　北村　友一　　⑬　　　　　1/2<br>7　⑦14 ゴールデンチケット　牡3　57　川田　将雅　　⑫　　　　 1 1/2<br>8　③5　マッハヴェロシティ　牡3　57　柴田　善臣　　⑯　　　　　クビ<br>9　②4　トップカミング　　　牡3　57　幸　英明　　　⑰　　　　　1/2<br>10 ③6　ケイアイライジン　　牡3　57　松岡　正海　　⑮　　　　　3<br>11 ②3　フィフスペトル　　　牡3　57　安藤　勝己　　⑭　　　　 1 1/2<br>12 ⑧18 アンライバルド　　　牡3　57　岩田　康誠　　①　　　　　3/4<br>13 ⑥11 セイウンワンダー　　牡3　57　福永　祐一　　③　　　　 1 3/4<br>14 ⑧16 トライアンフマーチ　牡3　57　武　幸四郎　　⑥　　　　　7<br>15 ④8　ブレイクランアウト　牡3　57　藤田　伸二　　⑪　　　　 1 3/4<br>16 ⑦15 アーリーロブスト　　牡3　57　三浦　皇成　　⑱　　　　　大差<br>17 ⑧17 アイアンルック　　　牡3　57　小牧　太　　　⑩　　　　　3/4<br>18 ⑤9　ジョーカプチーノ　　牡3　57　藤岡　康太　　⑦　　　　　大差<br>単770　複390、430、620　枠連①－⑥1020　馬連①－⑫3760<br>ワイド①－⑫1650、①－⑩4090、⑩－⑫3350　　3連複①－⑩－⑫40320　<br>3連単①－⑫－⑩201960<br><br>あとがき<br>さて、長々と語ってきた本文もようやく終節となった。競馬への想い出は多く、これでもまだまだ語りきれない。ダートでは先に記したように交流レースを入れていないし、ホクトベガすら入っていない。道悪編でもオオクラの目野が「目野コース」と当時呼ばれたコースから直線大外に出してメジロムサシを苦しめた春の天皇賞や、「雨に咲く花」ラファールも書いてみたかった。また違ったかたちで書くこともあるだろう。<br>長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。<br><br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　校了　2013.3.2<br>
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<link>https://ameblo.jp/umakurabu2012/entry-12065166340.html</link>
<pubDate>Mon, 24 Aug 2015 08:15:41 +0900</pubDate>
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<title>勝手にBEST10　 第4章　中央ダート編</title>
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<![CDATA[ 勝手にBEST10　<br>第4章　中央ダート編<br>第5章　道悪編<br><br>はじめに<br>　このBEST10も第4・第5章となる。今回はダート・道悪編である。問題はダートでの交流競走や公営の馬の扱いだ。これらを入れてしまうと、かつての公営の名馬たちにも話が波及してしまって、例えばヒカルタカイとかハツシバオー、ロジータなどは当然候補に入って来よう。その後近年の交流重賞活躍組のスマートファルコンなども当然候補だ。こうなるとちょっと範囲が広すぎるし、調査も大変で難しいように思うので、今回は中央で行われたダート戦に限る事にした。合わせて道悪も考えてみたいが、道悪の場合は近年のものは候補の中にも少なかった。これは近年馬場の保守技術の向上により、現代では雨が降っても昔のようなひどいドタドタ馬場にはなりにくくなっているのが大きな理由だ。<br>　そうしてどのレースを選択しようか考えていたら、とてもではないが10Ｒなど選択できない状況になった。例えば8位と9位のどちらが適切かと考えると、毎日考えが変わってしまうのである。悩んだ挙句、今回はBEST10という観念は捨てて、どちらもBEST5でダート編と道悪編を一緒に書いてしまおうと考えた。⑤位までならば案外簡単に選択ができたからだ。⑩位まで考えるのは結構難しい。これはみなさん自分で考えてみればわかるだろうと思う。<br>　一応、このダート・道悪編を持って「勝手にBEST10」の最終章とするつもりでいるが、こうして過去の記録・記憶を辿るのは競馬の世界では本当に楽しいものだ。今日、新橋のゲートJに行って成績公報をめくり、古い馬の記録を調べて来たが、30年前に横倉氏や藤根氏と前身の公報コーナーで毎日調査研究していた頃を思い出して本当に懐かしかった。<br>マニアックな話だが、成績公報というのは広辞苑よりも分厚い本なので、めくるのも大変である。個々の馬を調査する場合、巻頭にある索引から馬名を選び、その馬名に記されている競走番号を書き出してページをめくるのだが、熟練してくると目的の番号にかなり近いページを一発でめくれるようになる。この話をすると横倉氏と藤根氏はわかってくれるはずだ。そのように「熟練の技」を使えるようになるまで通い詰めた新橋公報コーナー、あのころ調査後に毎日飲んでいた「養老乃瀧」も今はない。<br>　時代は移り変わり、競馬も大きく様変わりしている。あと何年ダービーを見ることができるかわからないが、オールドファンとなった今、少しでも後世のファンに当時を伝えて行ければと考えている。では始めよう。<br><br>第4章・中央ダート編<br>第1位<br>究極のオールラウンドホース・先代怪物王道を行く<br>1969年2回東京古馬オープン戦（タケシバオー）<br>　かつてハイセイコーは怪物と呼ばれたが、ハイセイコーよりも5年前に怪物と呼ばれた馬がいた。馬クラブのオールドファンには知らぬ者もないタケシバオーである。ハイセイコーと同じチャイナロックを父に持ち、今なお記憶に強く、馬クラブ中にあって最強馬の一頭として評価が落ちることがない。また、藤田（育）氏や持田氏など熱狂的なタケシバファンも多い。<br>　このタケシバオーの凄さとは、ありとあらゆる条件に対応し、そのいかなる条件においても別格といえる程の強さを発揮したことであろう。まず、距離を問わない。天皇賞3200mで当時としては驚異的な上がりタイムでダイイチオーを捕まえると思えば、この年は英国フェア開催記念として行われた1200mのスプリンターズSをレコード勝ちする。3200の天皇賞馬がスプリンターズＳをレコードで勝つというのは現代ではまず常識的にあり得ない。もちろん他にこんな天皇賞馬などいない。第一、3200の天皇賞馬をスプリンターズSになど使う訳がない。後年、天皇賞馬ではないが三冠馬ナリタブライアンが腰を痛めてのち、成績下降でローテーションが迷走した時期に1200の高松宮記念を使ったりして非難されたが、ブライアンは負けたがタケシバのように勝てば文句も言われない。<br>　次に、馬場を問わない。雨が降ろうが風が吹こうが関係ない。もともとタケシバは基本的にはスピード馬だろうが、パワーも有り余るほど持っている上に、非常に器用で滑る馬場もうまく、ぐちゃぐちゃの道悪であろうが何ら苦にするところはない。むしろ他馬が苦にする分、差が開くだけだ。まあ鬼の部類である。パワー型だけに力の必要な「ミナガワ馬場」のような状態も大得意だ。そして、ダートに至っては歴史上最強クラスだろう。もともとタケシバとハイセイコーの父チャイナロックは道悪やダートに強い産駒が多いが、中でもこの2頭はタイプが非常に似ていて、大型馬であるが道悪がうまく、ダートは手がつけられないレベルの強豪だ。<br>　さらに、展開を問わない。この点がハイセイコーとの差と言える。ハイセイコーは、非常な人気馬であっただけにあまり冒険的な乗り方ができなかった。ジョッキーの増沢は、「一度追い込む競馬もさせてみたかった」と述懐しているが、私はハイセイコーが追い込んでもよかったろうというイメージは持っていない。ハイセイコーはダートで逃げるのが一番似合っていると思う。ダートなら当時のハイセイコーは無敵状態なので、変に好位などに付けるより逃げてしまった方が安全で結果もいいだろう。ところがタケシバは差す脚も並以上だった。逃げるスピードも追い込む決め手も同じように持っているのである。<br>　さらに加えて、斤量に強かった。タケシバは現実に65Kまで背負ってこれを勝っているが、適当な相手のオープン戦あたりなら、70Kくらい背負っても勝っただろうし、タケシバに限っては、「無理したために骨折」というようなイメージが全く湧いてこないのだ。<br>　前章まででも話しているテンポイントの日経新春杯66.5Kの酷量も、それが故障した直接の理由かどうかはわからないが、少なくともタケシバは70Kでも故障知らずであっただろう。<br>　長距離・短距離・芝・ダート・道悪・高速馬場・展開・斤量と、あらゆる条件に対応できて体が丈夫。後年やはり怪物級であったマルゼンスキーは、道悪は走ったことがないが、こなせたとしても、少なくとも歓迎ではないだろうし、脚が危なくてどうしようもなく、事実故障で早く引退せざるを得なかった。これがタケシバとマルゼンの差であろう。<br>　今後、競馬にどのような歴史が記されていくかはわからないが、タケシバのような究極のオールラウンドホースはもう絶対に見ることができない。タケシバのような特異な能力を持った馬は今後も稀に出てくるかも知れないが、時代が違うのでタケシバのような使い方をする訳がないからだ。シンボリルドルフやディープインパクトがどんなに能力が高くても、ダートのレースやスプリンターズSを使うことなど有り得ないのである。だからタケシバは永遠の馬なのだ。私が競馬を知るきっかけになったのも実はこのタケシバのおかげで、中学1年の時にTVでダービーを初めて見た。これは偶然見たというのではなく、世間で「タケシバオーという凄く強い馬がいる」というような話をスポーツ紙か何かで見たからだった。<br>　このレースが前章まででもちょっと触れている、タニノハローモアの逃げ切りとなった1968年のダービーで、東京競馬場の改築と馬場改修のために当初から7月7日に予定が組まれていて、「七夕ダービー」と呼ばれていた。このダービーではタケシバと同期のライバルであるアサカオーとマーチスの3頭が牽制しあう間に、単騎の逃げを打ったタニノハローモアがスタコラ逃げ切ってしまったレースで、私は当時まだ競馬などよくわからないものだから、強いと聞いていたタケシバオーを、5馬身も離して勝ったタニノハローモアとは何と強い馬なのだろうなどと思っていた。これが競馬を知ったきっかけである。<br>　タケシバは2歳の夏、新潟でデビューした。タケシバにもし欠点を見つけるとしたら、仕上がりは多少普通の馬より遅かったのかもしれない。これほどの馬でありながら、デビューした新潟の2戦では②②着と勝てておらず、函館に転じて未勝利を脱出後、札幌での3歳特別では生涯ただ1度の③着を経験している。他は国内ではすべて連対である。すなわち、このころのタケシバはまだまだ完成していない。タケシバは基本的にはスピード馬だろうと先に記したが、このスピードとは、いわゆる早熟のスプリンター的なスピードとは異質のスピードである。馬体も約2年の間にかなり大きくなっているし、奥手とまではいかないとしても仕上がりが早くなかったのは事実だろう。<br>　長々とタケシバ論を展開してしまったが、ここで取り上げたレースは重賞でもなんでもないただのオープン戦である。しかし、このオープンで記録された東京のダート1700m<br>1.41.9というレコードタイムは、驚異的などという言葉では到底表せないような猛烈な時計であり、その後2006年に破られるまで37年間も残り「最古のレコード」として記録されていた。タケシバはこの他にも4回レコードを記録している。追い込み編のスガノホマレのところで、レコード5回はスガノホマレと並ぶJRA記録で、国営競馬時代にはもっとすごいレコードオーという馬がいるという話はすでに記した。ちょうど私が競馬にのめりこんでいった頃には、1700ダートのレコードは東京も中山もタケシバが持っていた。中山の方は現在でいう3歳時の共同通信杯に当たる東京4歳Sで記録した1.44.3で、この時もヤシマオーカン以下に8馬身差つける圧勝をしている。当時の状況からは、この1.44.3というレコードが変な言い方だが「普通に優秀なレコード」の時計であって、東京の1.41.9は2秒4も早いのだから、コースが違うとはいうものの、いかにこの東京のタイムが呆れるものであったかが伺える。この1700ダートの東京・中山のレコードに共通することが、ともに降雪によって前日の土曜日が開催中止となって除雪された翌日曜のレースで、いずれも芝からダートに変更されたレースであり、中山が不良、東京が重と、砂が締まって時計の出やすい状況が背景にあったのは事実である。しかしながら、それがこのタケシバの37年も残ったレコードの価値をいささかも引き下げるものではないだろう。<br>　この年、すなわち現在でいう4歳時のタケシバは、前年ローレルのワシントンDCインターナショナルから帰国して正月の七草Sに出走し、シェスキイの1馬身3/4差の②着となる。（懐かしいな、シェスキイ。シェシューンの持ち込みだったな）これが国内でのタケシバ最後の敗戦になるのだが、前年4月に中山のオープンを勝ったあと、国内に限ると7戦連続の②着で、本当に勝ち味に遅い状態が続いていた。この状態を打開するとともに、その後の快進撃のきっかけとなったのが次走の東京新聞杯で、これまた降雪で芝2000から変更になったダート2100を、それまでなかなか勝てなかった鬱憤晴らしの8馬身差レコード圧勝。降雪によりダート変更された時のタケシバはもう話にならない別次元の馬であった。この東京新聞杯の次のレースが今回取り上げた東京のオープンである。<br>　レースはたった6頭立てだが、②着スイートフラッグのほかに前年秋のオープンでタケシバを負かしている快速ヤマトダケなどもいた。しかし60Kを背負っていてもダートでは話にならず、タケシバは54Kのスイートフラッグに2秒8の大差をつける。37年間残る偉大なレコードが記録されていた。<br>　その後のタケシバは神がかり的な強さで英国フェア開催記念として行われたスプリンターズSを勝つまで8連勝を記録するが、この間3200mで上がり34秒台の脚を使ってダイイチオーを余裕で差した天皇賞や、不良の中山で最後方から65Kを背負ってスイートフラッグ以下を捕まえたジュライS、それに日本競馬史上初の1億円収得馬となった毎日王冠など、見ている者に強烈なインパクトを残すレースを続けて競馬史に残る馬となる。<br>　大レースの実績は少ないものの、記録より記憶に残るとはよく言うが、記録にも記憶にも残る馬の典型と言える。2度目の海外遠征の時には「今のタケシバなら何とかなる」と思うファンも多かったのだが、前年の遠征時にはレース中他馬に踏みつけられて蹄鉄が曲がるほどの不利があり、2度目は熱発しているのを強行出走してしまい、2年連続でシンガリ負けして、海外では不運だった。<br>　タケシバは2度目の遠征から帰国後、無理に出走した影響かどうかはともかく、体調を崩したこともあってそのまま引退した。種牡馬となってからのタケシバは、安い種付け料でありながらよく走る産駒を数多く出して立派に成功する。代表産駒はもちろん南関東3冠のハツシバオーだが、中央でも2歳から7歳まで6年連続重賞勝ちに加え、東西の金杯に勝つという珍記録を作ったドウカンヤシマやトウカンタケシバ、イイデセゾンなど活躍馬を多く輩出して28歳で世を去った。シンザンには及ばないが長命である。恐らく、後世の競馬ファンからすると、タケシバという馬は大きいレースは天皇賞しか勝っていないために、そう大きい評価をするのは疑問に感じることだろう。事実、タケシバを知らない人が書いた記事でそうしたものも目にしたことがある。しかし、タケシバの偉さ凄さは、現実に見ていた者であれば誰でも必ず感じるものである。4歳時の8連勝を見たら、同じ4歳時の8連勝でも大レースを全部勝ったテイエムオペラオーと比較しても何ら見劣るところはない。むしろオペラオーより印象度ではタケシバが上だとさえ言えるだろう。<br>　1977年の第1回馬クラブツアーで、我々は競優牧場を訪問した。牧場の事務所に訪いをいれたところ、何とそこのソファに座っていたのが小畑正雄オーナーで、オーナーは榊場長とともに、浴衣姿に杖をついて牧場内を案内してくださり、タケシバにともに角砂糖を（タケシバは角砂糖が大好物だった）食べさせたりして、その後応接間で1時間以上も我々をもてなしてくださった。我々の感激はいかばかりのものであったことか。本当に暖かいお人柄であった。また榊場長のご子息が我々と同じような年代で、たちまち意気投合。このご子息とは後年訪れた時にもお目にかかり、函館競馬場でも会ったりして親しくお付き合いいただいた。そしてもう一匹、榊場長の飼い猫が、体が黒くて四本足の先と鼻が白く、競優牧場のすぐとなりの新冠スタリオンに繋養されている「四白流星」タイテエムのようだったので、「タイテエムのネコ」として笑い話にもしたものだった。馬クラブにあって、歴史上最強馬の一頭として永久に記憶されるタケシバオーとの忘れ得ぬ思い出である。<br><br>1969.3.1　　2回東京1日目（前日の初日が降雪で月曜に延期のため、2日目が初日となる）<br>6R　（晴・重）　5歳以上オープン（除5歳200万下以下）　ダ1700m　6頭<br>1　①1　タケシバオー　　　牡5　60　古山　良司　　①人気　R1.41.9<br>2　②2　スイートフラッグ　牝6　54　野平　祐二　　③　　　　大差<br>3　③3　タケブエ　　　　　牡5　52▲伊藤　正徳　　⑤　　　　クビ<br>4　⑥6　ステートターフ　　牡5　55　藤本　勝彦　　④　　　　　5<br>5　⑤5　ヤマトダケ　　　　牝5　53▲平井　雄二　　②　　　　1 1/2<br>6　④4　オカユキ　　　　　牝5　53　大崎　昭一　　⑥　　　　大差<br>単100　複100、160　　連①－②250<br>第2位<br>スーパーカー、北の砂に躍動!<br>1977年札幌短距離S（マルゼンスキー）<br>凄い馬であったということなら、前出タケシバオーに負けず劣らず凄い馬がマルゼンスキーだろう。8戦8勝、ついに負けることなく現役を去り、種牡馬としてもトウショウボーイとともに内国産種牡馬の巨星として輝いたこの馬にも、数々の思い出が残っている。<br>　マルゼンのデビューする2年くらい前、週刊「馬」誌上に広告が掲載された。持ち込み馬の父ニジンスキー、母シルの当歳馬のシンジケート募集の広告だった。今でも印象に残っているが、当歳でこれだけ見栄えのする馬はそうそういないというような素晴らしい馬であり、これが後のマルゼンスキーだった。当初はシンジケートを組みたいと橋本オーナーは思っていたためだ。説明の要はないと思うが、後に「オリンピックの申し子」と言われ、日本人として初めて夏冬両方のオリンピックに出場、女子選手の五輪7回出場というのは今でも世界記録という、アルベールビル五輪スピードスケート銅メダリストで現参議院議員、橋本聖子さんの父君である。ところが、シンジケートは全く集まらなかった。というのも、この当歳馬、確かに馬は素晴らしいのだが、脚が曲がっている。いわゆる仮性外向である。それも素人が見てもそれとわかるくらいのひどいもので、私自身もパドックでも見たし、引退後は豊郷スタリオンでじっくり脚を見たが、脚を見る限りは「よく8回も走れたな」というようなもので、馬体の凄さは誰しも認めながら、脚を見ると引いてしまうのである。その引いてしまった人の中には社台グループ総帥の吉田善哉氏もいた。<br>　こうしてマルゼンは橋本オーナー個人が走らせることになる。中山でのデビュー戦は大差勝ち。続くいちょう特別9馬身。この時点で「普通とはまるで違う」馬であることは十分伺えるが、その後も半分遊んでしまってヒシスピードにハナまで迫られた府中3歳S、今度は本気で走ってそのヒシスピードを大差にちぎってレコード勝ちした朝日杯3歳Sとセンセーショナルなレースを続ける。さらに中京のオープン戦では相手がみな逃げてしまって不成立になるところを、マルゼン陣営が出走してくれそうな馬の関係者の間を駆け回り、「絶対にタイムオーバーにしないように手加減して走るから」という条件付きで出てもらったというような噂も流れた。これは後にトウショウボーイの高松宮杯を見に中京に行ったとき、食堂で一緒になって話がはずんだ名古屋のファンに聞いた話なのだが、この中京のオープンの時のマルゼンは、「中野渡がずっと後ろを見ながら離さないようにして逃げていて、もちろん引っ張りきり。直線で②着の馬が横に並んでくるまで待っていて、並んだところで中野渡が鞭を入れるでも押すでもなく、手のひらでマルゼンの首のところをポーンと叩いたんだ。そうしたら、スッと2馬身半くらい前に出てゴールだった。ありゃ、桁違いの馬だよ。本気で走ってたら大差勝ちだろう」ということだった。<br>　とにかくこの馬、この手合いの話題には事欠かない。ちょうどこの時代にスーパーカーブームがあり、持ち込みのこの馬はフェラーリやランボルギーニなどのイメージからスーパーカーとも呼ばれた。しかし、言っておくがこの馬は持ち込みであって外国産ではなく、日本で生まれたれっきとした内国産馬である。この当時の大悪法「持ち込み馬はクラシックに出走できない」というインチキルールを我々は何度呪ったことだろうか。<br>この中京のオープンの後でごく軽い骨折をしたが、これはかえってちょうどよい休みになったくらいのもので、5月に復帰してオープンを7馬身差で軽く勝ち、持ち込み馬が出走できる数少ない重賞の日本短波賞では遊び半分でインタースペンサーに一旦交わさせておきながら、ちょっと気合いを入れてまた7馬身。そして本題の札幌短距離Ｓを迎える。<br>　このレースには、1歳年上のトウショウボーイも高松宮杯後に出走する意志を表明していた。前年にはカブラヤオーが勝っている。ダート1200のレースになぜ一流馬が集まるかというと、このレースは当時としては実力馬に斤量が有利なレースだったためである。ボーイVSマルゼンが実現していればとんでもないことだったが、ボーイの回避で実現しなかった。一説にはボーイ陣営が逃げたという報道も一部であったようだが、私はこの時にはもう藤正牧場でいろいろ話を聞いていたので断言できるが、ボーイ陣営は自信満々だったので、少なくともボーイ陣営が逃げたなどということは絶対にない。私個人はマルゼンが勝っただろうと思っているのだが、もしボーイが出ていたら私はこの時も札幌に飛んでいるはずである。ボーイ抜きでも行くべきだったと今では思っているが。<br>それはともかく、やはりマルゼンが出るということで頭数が揃わず5頭立て。しかしメンバーはなかなかたいしたもので、前年同馬場・同距離の北海道3歳S（現・札幌2歳S）を圧勝しているヒシスピードに、1200が向いているとは思えないものの、意外にダートが鬼のヤマブキオー。それに快速ヨシオカザンも出走してきた。ヤマブキオーは芝での実績が目立つが、重賞勝ちの後も当時の賞金・条件体系のために条件級に転落したことがあり、準オープンの時に出走した東京のアメジストSで、第1位に書いたタケシバオーの1700ダート1.41.9の偉大なレコードに近づく1.42.8という好時計でぶっちぎったことがある。ちなみにこの当時タケシバのレコードに対して1秒以内で走ったのはこの時のヤマブキオー1頭のみであり、この後何年も1秒以内で走った馬は出なかったと記憶している。<br>レースは全くワンサイドだった。まさに並んでいたのはゲートの中だけで、走るほどに差が開いていく。10馬身後方で②着を争うヒシスピードとヤマブキオーを置き去りにして悠々とゴールを駆け抜けたマルゼンだが、この時は相手もあまり弱くはないと意識していたのか、けっこう真面目に走ったおかげで時計はレコードになった。<br>　このレース後、有馬記念でトウショウボーイ・テンポイントとの対決が予定されていたが、10月ころになって脚元がモヤモヤし始めて、結局競走生活を断念することになった。前年のカブラヤオーもそうだったが、あの有馬記念の世紀の名勝負でTTGとの闘いが見られていれば凄いことになっただろう。しかし、どちらも完調と言える状態でないのなら、カブラヤのところでも記した通りに夢で終わってよかったのかもしれない。<br>　引退後、種牡馬となってのマルゼンの活躍は説明の要がないだろう。トウショウボーイとともに、後世の内国産種牡馬天国の礎を築いた功績は競走馬としてのパフォーマンス以上に偉大である。また、ブルードメアサイアーとしても極めて優秀だった。<br>　私が千代田牧場にいた時、チヨダユタカという繁殖を引き連れてマルゼンの種付けに豊郷スタリオンに行ったことがある。その時に橋本善吉オーナーが傍で見ており、中学生くらいの女の子が一緒だった。これがおそらく聖子さんだったのではないかと思う。<br>私は今でも見てきた中の最強馬と言われたら、ルドルフ・ディープをさしおいてマルゼンスキーと答える。引退式、我が馬クラブの出した横断幕「さようなら、マルゼン。語り継ごう、おまえの強さを」のコピーはマスコミにも取り上げられ、現在もインターネットのウィキペディアなどにその記述を見ることができる。そしてその約束通り、マルゼンの偉大さと比べてあまりに稚拙な文ではあるが、私はこうして今もマルゼンの強さを語り継ごうとしている。<br><br>1977.7.24　2回札幌4日目　9R　（晴・良）<br>日刊スポーツ杯短距離S　4歳以上オープン　ダ1200ｍ　5頭<br>1　④4　マルゼンスキー　　牡4　54　中野渡　清一　　①人気　　R1.10.1<br>2　⑤5　ヒシスピード　　　牡4　54　小島　太　　　　②　　　　　10<br>3　③3　ヤマブキオー　　　牡8　55　蓑田　早人　　　③　　　　　3/4<br>4　②2　ヨシオカザン　　　牝4　52　領家　政蔵　　　④　　　　　6<br>5　①1　アータルオー　　　牡4　54　簗田　善則　　　⑤　　　　　1 1/4<br>単120　複100、110　　連④－⑤150<br><br>第3位<br>6万人の証言者<br>1976年札幌記念（グレートセイカン）<br>競馬場が混んだ記録のことは、逃げ切り編のアイネスフウジンのところで話したが、そこで記したようにこれまでの入場レコードはアイネスフウジンのダービーである。そのほかにもハイセイコーのNHK杯や弥生賞の凄さは私もよく知っている。私が競馬場によく行くようになった1973年（それまではTVばかり。まあ中学生や高校生の頃なので）頃には特に正月の金杯などは混み方が甚だしく、10万突破は当たり前などという状況だったので、このころは正月の中山開催を入れ物の大きい東京に替えていたほどだ。しかし、こと混み方が凄まじいということなら、誰が何と言おうがここに挙げるグレートセイカンの札幌記念である。札幌競馬場は現在リニューアル工事を行っているので、完成の暁にはもっと居住性のよい競馬場になることと思うが、札幌競馬場をよく知る人ならわかると思うのだが、札幌競馬場のキャパは170万都市札幌の競馬場にしてはコンパクトすぎる。まず、当時はスタンドがえらく狭いのに加えて、もともと札幌競馬場には内馬場というものがなく、スタンド周辺にしかいることができない。さらにスタンド裏のパドック周辺もスペースがなさすぎる。入場してスタンド裏をまっすぐ進むと、すぐに左に狭いパドックがあり、そこを過ぎるとサッポロビールとアサヒビールのビール売り場があって、そこで行き止まり。しかもパドック裏には何もない。要は器が小さすぎるのである。通常2万人くらいが普通に満員状態で、4万人入って物凄かったという話を札幌在住のファンに聞いたことがあったが、今回取り上げるグレートセイカンの札幌記念は数字が違う。何と6万人も入ったのである。アイネスフウジンのダービーが実質21万くらいだが、札幌の6万というのは府中なら30万に近いと断言する。私はハイセイコー以降、上記の混んだレースはみな現場を知っているが、アイネスフウジンのダービーとても、混んでいるとは言っても身動きが取れない程ではない。ところがこの札幌記念ときたら、まるで満員電車状態であり、一度場所を決めて立った状態になってしまうと、もう移動することなどままならない。トイレにすら行けない。レースが終わった後もしばらく移動できないくらい凄かった。<br>さて、このように競馬史上最悪の混み方となった理由は、言うまでもないがこの年の皐月賞馬トウショウボーイとダービー馬クライムカイザーの参戦である。トウショウボーイはすでにスーパースターであったが、それをダービーで負かしたクライムカイザーに対するリベンジマッチの意味もあり、この両者の出走が決まった時点で札幌のファンは一気に盛り上がった。しかし、私はこの時点ですでにボーイの相手をクライムカイザーとは思っていなかった。グレートセイカン。このパーシアの仔はトウショウボーイ・クライムカイザーより1級年上で、3歳正月にデビューしてからずっと逃げて光るところを見せていたが、一旦不安で戦線離脱していて、この年の春にカムバック戦の中山の条件戦を大差勝ち。その後芝で②②着していたが、ダートと芝では逃げっぷりからして違う。私はこの馬のダートでの逃げ脚の凄まじさはこの大差勝ちを見てよく知っていて、世間的にはクライムカイザーに対するボーイのリベンジマッチだったが、私は札幌の小回りダートでクライムカイザーなどはボーイの相手とは全く思っておらず、相手はグレートセイカン1頭だろうと思っていた。そして、早くに札幌入りしていたグレートセイカンは、札幌記念の前哨戦の札幌日経賞をまたも大差で楽勝していた。<br>1976年7月10日の札幌記念前日、私はJALで札幌に飛んだ。この半年前まで大手旅行会社で添乗員をしており、しかも夏場は北海道ツアー担当でひと夏に10回以上渡道していたので、札幌などは庭同然だった。朝早い便で飛んだので、競馬場に着いたのは2Rからだったと思う。私は酒好きだが、当時は若いこともあっていくらでも飲めた。まして食べるものもうまい札幌である。しかも先に記したように、ビールは私の好きなサッポロの工場直営売店がパドックの先にある。本当に1レース終わる度にビール1杯飲んでいた。この日は3歳（現2歳）初めてのオープンレースである「はまなす賞」があり、たった5頭立てだったが、後に皐月賞でハードバージの③着するアローバンガードが勝ったのを見て札幌に宿泊、いつも通りのコースで「すすきの」の夜を堪能した。<br>そして当日、異常な混み方は朝から始まっていた。ビールなど買うにも前日の土曜日とは全く状況が違う。売店にせよトイレにせよ、何をするにも並ばなければならない。「これは凄いことになりそうだ」と感じて、結局昼食も取らないままパドックの一番上の場所に立った。そうしないとスタンドに戻れないと思ったからだ。もちろんビールなど飲んでトイレに行きたくなったら最悪なのでビールもやめて、馬券は午前中に全部前売りで買っていた。とてもではないがパドックを見てから馬券など買えるものではないのである。パドックの最初の1周だけを見てスタンドに戻り、通路の脇に立った。席など取っておいてもどうなっているかわかったものではない。人・人・人で、席に戻ることを考えるより確実にレースの見られる場所を確保するのが先である。スタート時刻が近付くと、どんどん人が増えて、いよいよスタンドはにっちもさっちも行かなくなった。全く身動きが取れない。動かせるのは首から上だけである。通路の脇に場所を取ったのは正解で、スタート地点は完全に見渡せる。ゲートが開くや、悲鳴があがった。ボーイがスタートで前のめりになり、池上が落ちそうになったのである。この後、京都新聞杯時にも同じようなことがあり、福永洋一が「たてがみ掴んどらんかったら、落ちとったわ」と述懐するのだが、ボーイはその類まれな首の低さのために、ときどきこうしたことがある。落馬は免れたものの、位置取りが予想された場所よりもはるかに後ろになってしまった。逃げるのは当然グレートセイカンで、郷原は快調に飛ばして行く。ボーイは向こう正面でようやく2番手に上がったが、後ろのクライムを意識してか、グレートセイカンとは7～8馬身の差がある。これが結局致命傷になった。札幌の小回りダートでクライムの差し脚など気にする必要はない。グレートセイカン1頭を捕まえれば勝てるのである。しかし、前走ダービーで痛恨のレースをしていた池上に、クライムを意識するなと言ってもそれはやはり無理というものだろう。直線、ボーイはただ一頭猛然とグレートセイカンに迫ったが、その差が首まで来たところでゴール板に着いてしまった。他の競馬場なら間に合っていただろう。一方クライムはそれでもきっちり③着に押し上げていたが、ボーイとの着差は8馬身あり、池上はもっと早く前を追っていればと、ダービーに続いて悔やまれるレースをしてしまった。　<br>池上はこのレースを最後にボーイの鞍上から降ろされる。仕方のないことだろう。私としても、ダービーで逃げたのは間違いとは思わない。あれは③着サンダイモンとの着差が5馬身あるのを考慮すれば、ボーイがどうとかいうより、クライムが「ハマリ」のレースをしたということであって、いつも私が書くことだが、このような「ハマリ」状態の馬には、かなり強い馬でもなかなか勝てないものである。昨年春の天皇賞、あの状態になってしまったビートブラックには、オルフェーヴルがどんなレースをしようがとても勝てなかっただろう。トウショウボーイにとっては、6万人の証言者を伴う北国の歴史的狂騒は、ダービーに続きまたも不運なものになってしまった。<br>この後、グレートセイカンは芝・重馬場のオールカマーを大逃げして逃げ切り、翌年正月にはダート1400のオープンを8馬身差でレコード勝ちなどするが、その後は低迷する。理由は簡単だ。いい番組がないのである。当時、ダートの大レースなど中央にはない。むしろ札幌記念がダートのレースとしては一番格が高かったくらいだ。おかげで、グレートセイカンは芝のレースばかりを使わざるを得なくなり、それに伴って成績は下降した。もし、ダート戦線に現代のようなフェブラリーＳやJCダート、さまざまな交流レースなどあったら、恐らくこの馬は当時のトウショウボーイやテンポイントよりも賞金を稼ぐ馬になっていただろう。トウショウボーイやテンポイントが交流レースに出る訳はないからだ。その場合は、スマートファルコン級かそれ以上の絶対王者になったであろうことはほぼ確実である。そんなグレートセイカンは、低迷期の最後にたった1度だけだがそうした境遇に反発する大駆けをやってのける。当時秋に行われていたダービー卿CTでの、ものの見事な後方一気。ダートの逃げ馬グレートセイカンが、芝で追い込むという「時代への反発」を見せたレースであった。<br><br>1976.7.11　1回札幌8日目　9Ｒ　（曇・良）<br>第12回札幌記念　　4上オープン　H　ダ2000　10頭<br>1　⑧10　グレートセイカン　　牡5　57　郷原　洋行　　　②人気　　2.03.4<br>2　④4 　トウショウボーイ　　牡4　58　池上　昌弘　　  ①        クビ<br>3　⑤5　 クライムカイザー　　牡4　58　加賀　武見　　　③　　　 　8<br>4　②2   タマモヒカリ　　　　牡5　53　久保　一秋　　  ⑧　　　　クビ<br>5　⑧9　 ロードカップ　　　　牡5　55　川端　義雄　　　④　　　　 4<br>6　③3　 ハマノクラウド　　　牡4　53　小谷内秀夫　　  ⑩　　　　アタマ<br>7　⑦8　 エースコスモ　　　　牝5　51　福永　洋一　 　 ⑤　　　　1 1/2<br>8　⑧6　 バンブーホマレ　　　牡4　53　佐藤　正雄　　  ⑨　　　　大差<br>9　⑦7　 カバリダナー　　　　牝5　52　武　邦彦　　　　⑥　　　　大差<br>10 ①1　 トクノハルオー（ｱｱ）牡5　50　柴田　利秋　　　⑦　　　　 4<br>単290　複120、100、150　連④－⑧250<br><br>第4位<br>ダート戦線に「黒船」来襲！<br>2001年武蔵野Ｓ（クロフネ）<br>センセーショナルなレースは数多い。しかし、この武蔵野Sと次走のJCダートで見せたクロフネのレースの凄まじさは、他馬とは全く次元の違ったもので、長く競馬史に語られるものだろう。格上のレースであるJCダートを差し置いても、今回はより衝撃的だった初ダート戦の武蔵野Sを選んだ。<br>クロフネは、前年秋にデビューし新馬・特別連勝のエリートコースに乗った。3戦目に選んだのがラジオたんぱ杯3歳Ｓ。現在のラジニケである。連勝の内容が買われて①人気になったが、あいにくここにはこれからの馬生、まさに終生競走馬としても種牡馬としてもライバルであり続ける物凄い2頭の相手がいた。アグネスタキオンとジャングルポケット。クロフネを含めたこの3頭は春のクラシック戦線を闘い、皐月・NHKマイル・ダービーと3頭がそれぞれGⅠを1勝し、種牡馬となっても数多くの活躍馬を出し続ける偉大な3強となった。日本の競馬史において、競走馬時代に3強だった例は多いが、種牡馬としても3頭ともに名種牡馬と呼ばれる実績を残した例など他にはない。さらにこの年には秋に菊花賞馬となったマンハッタンカフェも種牡馬として成功しており、何ともレベルの高い世代である。競走馬の実力としてはタキオンの1強という考えも成り立つだろうが。<br>このラジオたんぱ杯でアグネスタキオン、ジャングルポケットの③着となったクロフネは、春シーズンでNHKマイルには勝ったものの、肝心のクラシックでは皐月でアグネスタキオン、ダービーではジャングルポケットの前に完敗する。それは無理からぬところで、芝でやる限り、およそクロフネは何度やってもタキオンやジャンポケにはなかなか勝てなかっただろう。理由は極めて簡単で、決め手に差がありすぎるからである。この2頭さえいなければ、本来スピード・決め手優先であるはずのNHKマイル勝ちに見る通り、クロフネもそうひどいジリという訳ではないのだが、要するに相手が悪いのである。この世代は先に記したように歴史的に見ても非常にレベルの高い世代で、それは種牡馬成績にも如実に出ているのであるが、恐らくクロフネは他の弱い世代であれば、芝でも皐月賞くらいは十分勝てるレベルの競走馬ではあっただろう。<br>転機となるのは秋の神戸新聞杯。ここには故障してすでに引退したタキオンはもちろん、別路線を選んだジャンポケもおらず、②人気ではあったが夏から秋にかけて絶好調だったエアエミネムの③着に負けたことで、菊路線を断念した陣営はダートに路線変更の大英断を下す。これはまさに大英断で、我々ファンレベルならよく言う話だが、実際の関係者にしてみれば、芝で普通に実績を残している馬をダート路線に行かせることはかなりの勇気が必要なはずである。大体、芝で成績が頭打ちになった馬がダートに行くのであって、ダート血統の馬でも最初1回2回は芝を使ってみる「あわよくばクラシック」との意識が強いはずだ。両親や兄姉にダート実績がある場合、関係者も当然ダート路線のイメージがあるはずだが、それはやはり「芝でだめだった場合」であることが多いだろう。<br>この当日、私は東京のパドックにいた。私はこの馬のダート適性には全く疑いを持っていなかったので、おそらく相当凄い勝ち方をするだろうと考えていたが、となりで話をしていた初老のファンなどは「初ダートだからな、わからないよ」などと話していた。私に言わせると、この馬の父フレンチデピュティを始め、デピュティミニスターの系統にダートの下手な馬など出る訳がない。走らなければ根本的な競走能力がないだけのことで、芝で実績のあるこの系統の馬ならば、普通に考えてダートならさらに高い能力を示すというのが普通の考え方だろう。<br>レースで好位をキープしていたクロフネの武豊が動いたのは3コーナー手前。常識的にはあまりに早すぎる。しかし、ユタカには確固たる自信があったのである。能力では負けっこないから、能力を無理なく出し切るレースをすれば自動的に勝てると踏んだのだろう。<br>かつて、芝の目黒記念でタニノチカラがやってベルワイドに差されたような早仕掛けをしながら、クロフネは馬なりのまま9馬身ぶっちぎった。ただ単に大きな差で勝ったというのではなく、別次元の強さであり、時計は当時では考えられないような1.33.3の驚異的なレコード。これはまるで芝の時計である。後年馬場が改修され、この偉大なレコードが消えてしまったのは惜しまれる。私はいにしえのアメリカの歴史的強豪、セクレタリアトのベルモントSでのレース振りがこんな感じではなかったかと思ったものだが。この時9馬身うしろで②着したイーグルカフェはこの1年後、中山で行われたJCダートを勝つのだから、クロフネの強さがいかほどのものだったかが伺える。<br>このレースの衝撃は相当なものだったようで、本番JCダートの日にはもうほとんどの人がクロフネの勝利を疑っていなかった。それに答える圧勝劇。内容は武蔵野Sのビデオテープのような、いやさらに鮮やかにしたようなものだった。あのような早い仕掛けで、それも仕掛けるというのではなく決して無理はしていない。「ぼちぼち行こうか」という感じでのんびり走り始めて楽々と抜け出し、抜けたらもうセーブしてしまう。表現しにくい強さと絶対感があった。まことに惜しむらくは、このJCダート後にクロフネは屈腱炎を発症してしまい、そのまま引退に追いやられた。国内のダートではまず絶対に負けることはなかっただろうし、それにも増してこの馬が海外で走る姿を見たいものだった。日本馬はヨーロッパではもうかなり実績を残しているが、クロフネはおそらく日本調教馬の実績がほとんどないアメリカでも、十分にやれた可能性を無限に持っている桁外れの強豪だった。　<br>歴史とは真逆に、日本からアメリカに殴り込みをかける「黒船」。何とも痛快であったろうに、悔やんでも余りある。種牡馬となってからのクロフネの活躍は先にも記した。ライバルのうち、アグネスタキオンは一歩先に世を去ってしまったが、ジャングルポケットとの種牡馬ライバルマッチは現在もまだ続いている。<br><br>2001.10.27　　4回東京7日目　11R　（晴・良）<br>第6回東京中日スポーツ賞武蔵野S　GⅢ　3上別　ダ1600　15頭<br>1　⑧15　クロフネ　　　　　　牡3　57　武　豊　　　　①人気　R1.33.3<br>2　⑧16　イーグルカフェ　　　牡4　59　田中　勝春　　⑤　　　　9<br>3　①1　 シンコウスプレンダ　牡7　57　横山　典弘　　⑥　　　1 1/2<br>4　④8　 エンゲルグレーセ　　牡4　57　柴田　善臣　　②　　　クビ<br>5　③5　 リージェントブラフ　牡5　58　吉田　豊　　　⑨　　　1 1/4<br>6　④7　 ワシントンカラー　　牡7　57　岡部　幸雄　　⑧　　　1 3/4 <br>7　②3　 スターリングローズ　牡4　56　福永　祐一　　④　　　　3<br>8　⑦14　マイネルエーレ　　　牡3　54　梶　晃啓　　　⑮　　　1 1/4<br>9　②4　 トーホウダイオー　　牡4　56　郷原　洋司　　③　　　1 1/4<br>10 ①2　 サインオブファイア　牡4　56　ソレンソン　　⑦      アタマ<br>11 ⑤9　 ゲイリーコンドル　　牡6　56　小野　次郎　　⑫　　　1 1/4<br>12 ⑥12　ミカダンディー　　　牡3　54　田面木博公　　⑬　　　3 1/2<br>13 ⑤10　マイネルエアメール　牡7　56　村田　一誠　　⑩　　　　1<br>14 ⑥11　サウスヴィグラス　　牡5　56　菊沢　隆徳　　⑪　　　1 3/4<br>15 ⑦13　マチカネワラウカド　牡7　58　石橋　守　　　⑭　　　大差<br>消 ③6　 プリエミネンス　　　牝4　55　蛯名　正義　　<br>単230　複140、290、430　枠連⑧－⑧1440<br>馬連⑮－⑯1440　ワイド⑮⑯600、①⑮1020、①⑯2540<br><br>第5位<br>中央打倒はただ一頭<br>1999年フェブラリーS（メイセイオペラ）<br>ダート戦の第5位には、歴史上ただ1頭、地方所属で中央のGⅠを制覇したメイセイオペラを選んだ。他にフリオーソやジャパンCのロッキータイガーなど、地方所属馬が中央GⅠでの②着の記録はあるが、地方所属馬で中央の頂点に立ったのは今持ってこのメイセイオペラ1頭しかおらず、またレベルの高い南関東勢ではなく、東北の馬だったことも希少価値がある。<br>　メイセイオペラは2歳夏のデビュー以来、本格化にはやや時間がかかったが、本格化後は岩手ではほぼ敵なしの状態になり、南関東遠征でもアブクマポーロ以外になら十分に実績を残していたので、中央参戦となった5歳時のフェブラリーSでも②人気に支持されていた。もちろんこの時は①人気がワシントンカラー、③人気以下もオースミジェットとかタイキシャーロックだし、②着のエムアイブランなど、いずれもGⅢ級のいささか弱敵相手だったことは確かである。しかし、だからと言って2馬身差の完勝はこの快挙にいささかも水を差すものではないだろう。血統も地味というより完全なアウトサイダーで、弱小牧場に生まれて岩手競馬からの出世となった生い立ちもさることながら、種牡馬入り後も当然のように産駒には恵まれず、普通ならすぐ廃用となるところだが、そこからがこの馬の運の強いところなのか、たまたま韓国に輸出した産駒がみな活躍して、韓国の生産者から熱烈な要望があり、韓国に輸出されるという数奇な運命をたどることになる。<br>　つい先ごろ、JRAのフェブラリーSのCMでこの馬のVTRが流れた。メンコの正面に、<br>「明正」と漢字で書かれていたのを懐かしく思い出したものである。現代では昔のオンスロートやヒカルタカイ、ハイセイコー、オグリキャップらのように中央入りして活躍する馬は激減している。交流が盛んになり、何もわざわざ中央入りしなくても、地方所属のままで中央のレースに使えるシステムの向上によるものであるのは明らかで、いずれ地方所属馬の中からハイセイコー級の馬が出現して中央に殴りこんで来ることもあるだろう。<br><br>1999.1.31　　1回東京2日目　11R　（晴・良）<br>第16回フェブラリーS　GⅠ　4上混定　ダ1600　16頭<br>1　⑤9　メイセイオペラ　　　牡6　57　菅原　勲　　　②人気　1.36.3<br>2　⑥12 エムアイブラン　　　牡8　57　武　豊　　　  ⑦　　　　2<br>3　⑤10 タイキシャーロック　牡8　57　横山　典弘　  ④　　　 クビ<br>4　⑦13 オースミジェット　　牡6　57　四位　洋文　　③　　　　1/2<br>5　④7　キョウエイマーチ　　牝6　55　秋山　真一　　⑤　　　 クビ<br>6　⑥11 ワシントンカラー　　牡6　57  柴田　善臣　　①　　　 クビ<br>7　③6　マチカネワラウカド　牡6　57　高橋　亮　　　⑥　　　　3/4<br>8　②3　バトルライン　　　　牡7　57　藤田　伸二　　⑨　　　 1 1/2<br>9　④8　ビッグサンデー　　　牡6　57　蛯名　正義　　⑩　　　 ハナ<br>10 ⑦14 テセウスフリーゼ　　牡8　57　的場　均　　　⑭　　　 1 1/4<br>11 ②4　メイショウモトナリ　牡6　57　安田　康彦　　⑫　　　 クビ<br>12 ⑧15 シャドウクリーク　　セ7　57　岡部　幸雄　　⑪　　　  3/4<br>13 ①1　マコトライデン　　　牡6　57　福永　祐一　　⑧　　　　4<br>14 ①2　ストーンステッパー　牡7　57　橋本　弘喜　　⑮　　　 1 1/2<br>15 ③5　ミスタートウジン　　牡14 57　中舘　英二　  ⑬　　　   9<br>16 ⑧16 ドージマムテキ　　　牡10 57  サンダース    ⑯ 　　　クビ<br>単470　複220、310、230　　枠連⑤－⑥500　　馬連⑨－⑫3720<br><br>以上でダート編とするが、この他に候補となったのは、前年札幌記念を5馬身差で圧勝したテルノエイトをさらに5馬身ちぎったキタノリキオーの札幌記念、ハンデ戦時代の第1回フェブラリーＨのロバリアアモン、GⅡ時代のホクトベガ、現代の番組に近くなってからの最初の活躍馬ライブリマウントなどである。しかし、現代の交流レースを見ていると、スマートファルコン級の活躍をする馬は、これからもいくらも出てくるだろう。それは番組に大きく恵まれているからであって、タケシバやマルゼンの時代にこんな番組があったら、スマートファルコン級の5馬身以上前を走っている馬などいくらもいるのだという認識は、はっきりと持っておくべきであろう。ダートを走って最強の馬は、普通はダートなど使っていないところにいるものだ。すなわち、芝のＧⅠをバリバリ走っている馬の中で、ダートをこなせる馬が最強であり、ダートで現実にチャンピオンと呼ばれている馬は、それらよりも下の芝落第組であることが多いということだ。<br>
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<link>https://ameblo.jp/umakurabu2012/entry-12065166056.html</link>
<pubDate>Mon, 24 Aug 2015 08:12:35 +0900</pubDate>
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<title>勝手にベストテン（3）逃げ切り編（４）</title>
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<![CDATA[ 第9位<br>20万人のナカノコール<br>1990年日本ダービー（アイネスフウジン）<br>正確には有料入場者数19万6517人というが、今も破られていない入場者レコード。ちなみにこれは有料入場者の世界レコードなのだそうだが、バブル崩壊前後、オグリキャップらによって作られた競馬バブルの頂点にあったのがこのアイネスフウジンのダービーだったろう。当時入場した経験を持つファンは、ネットのサイトで盛んに「地獄」と表現する。確かにあの日は凄かったが、この前後はどこの競馬場でもそうだったし、大昔のハイセイコー時代や、何と言ってもあの狭い札幌に6万も入ったグレートセイカンの札幌記念の物凄さを知っているので、私にとっては何と言うこともない。この年には、バブルの名残が残っていて経済がまだ低迷期に入っておらず、世代レベルが比較的高くて個性ある馬が揃い、なお抜けた馬がおらず実力伯仲という、馬券が売れる要素が揃っていたことも狂乱に拍車をかけることになったのだろう。アイネスフウジンの話をするには、まず近代型ステイヤーの話から始めたい。<br>　もともとステイヤーと言われる種類の競走馬は、古来先行脚質のものは少なく、中位くらいから差し込んで来る馬が多かった。その完成形と言えるのがタケホープで、昭和40年代くらいまでの前時代型ステイヤーの見本と言えるだろう。こうしたタイプから近代型ステイヤーの走りとなったのがタニノチカラである。ただし、タニノチカラはマイルでもキタノカチドキとやれるほどのスピードがあったので、純粋にステイヤーとは呼べないかもしれない。この近代型ステイヤーの理想形がグリーングラスで、タニノチカラが完成途中の目黒記念で3角まくりをやって失敗したが、グリーングラスはＡＪＣ杯でそれを完璧にこなして見せた。チカラの方は充実後に逃げることによりその完成形になったが、やはりこうした近代型ステイヤーとして最初から完成した状態だったと言えるのはグリーングラスで、この近代型先行タイプのステイヤーとしては後のモンテプリンスやメジロティターンがこれに当り、ティターンは自身をさらにパワーアップさせたこのタイプの究極型である息子マックイーンにその血を伝えた。<br>　こうした近代型ステイヤーのレースは、前時代型ステイヤーのように前をマークして差すというものではなく、自分で展開を切り開いてかなり早めに先頭に立ち、直線入り口で一旦大きく引き離す。そして最後に一杯加減にはなるものの、セフティーリードを有効に使って余裕を持って追撃を残すというもので、このパターンはまさにグリーングラスの得意技であり、モンテの春天皇賞、ティターンの秋天皇賞（3200ｍ時代）、またミナガワマンナやホリスキーの菊花賞で菅原が見せたレース振りなどは、みな近代型ステイヤーらしいレース振りで、それを何度も実践したのがマックイーンである。<br>　一方、血統に目を移すと、前時代型のステイヤーはインディアナやワラビー、ヴィミー、ザラズーストラにテッソなどさまざまな種牡馬がいたが、近代型ステイヤーとして成功した種牡馬はそう多くはない。インターメゾはグリーングラス以外だとちょっと情けない馬が多く、むしろスーパークリークのブルードメアとしてその血の威力を発揮したくらいで、またティターンもマックイーンという超大物を出したがやはりワンホースである。つまり、近代型ステイヤーとして複数の大物を出したのはシーホーク一頭しかいないのではないかと思う。リアルシャダイは結果としてステイヤーに近い成績を残したが、ライスシャワーに代表される前時代型が不思議に多かった。シーホークの代表格はやはりモンテプリンスだろうが、他に弟モンテファストが天皇賞兄弟制覇、それにウィナーズサークルも弱い世代だがダービー馬となっており、ここで取り上げたアイネスフウジンと3頭でダービー②①①着というのはなかなか素晴らしい。近代型ステイヤーがシーホークくらいしかコンスタントな成績を残せず、多くがワンホースに終わってしまったのは理由があるだろう。ノーザンダンサー系の台頭である。ノーザンテーストを核として昭和50年代後半から始まったノーザンダンサー系の時代は10年余に渡って続いたが、ノーザンダンサー系の特徴として距離にかなりの融通性があったことが挙げられる。ノーザンダンサー系は最も得意とする距離がクラシックディスタンスであることから、軽いスピード馬場の日本では3000の菊花賞や3200の天皇賞が守備範囲に入ってしまう。また母系次第ではスプリンターに近いような馬も出せたので、日本ではノーザンダンサー系にこなせない距離がなかった。このため近代型ステイヤー血統が淘汰とまではいかなくとも、かなりの部分でノーザンダンサー系に邪魔されてしまったのだろう。そうしたことがなければ、シーホーク以外にもミルジョージなどはもっと近代型ステイヤーとして活躍できていたのかもしれない。<br>　そこでアイネスフウジンだが、この馬はシーホークの仔ではあるのだが、どこをどう見てもシーホークという感じではなく、ブルードメアのテスコボーイそのものなのである。しかもこの馬の母テスコパールはブルードメアがモンタヴァルで、これはテスコガビーと同じ構成である。アイネスフウジンは、走り方もレース振りも非常にガビーに似ていたのだ。したがって、このアイネスフウジンをステイヤーとはどうにも呼ぶことができない。朝日杯時の圧勝がマルゼンのレコードと同タイムということを考えても、この馬は本質的にスピード馬であろう。しかし、完全なテスコボーイかというとそうでもなく、本当にテスコが強く出ているのならデビュー戦圧勝くらいはするはずで、相手が強い訳でもないのに新馬を②②着と勝ち切れず、3戦目の未勝利でやっと勝ったのを見てもシーホークとテスコボーイの変な融合を感じてしまう。<br>　未勝利勝ちの次のレースが朝日杯だった。人気は⑤人気だったが、マルゼンスキーのレコードにタイの好時計で朝日杯を圧勝、最優秀3歳牡馬となる。年が明けて共同通信杯も勝って弥生賞に出走したが、この時は道悪で④着と敗れた。一般にシーホーク産駒は道悪が良くない馬が多い。ブルードメアのテスコボーイもどちらかと言えば重下手が多いだろうから、このあたりは血統に正直な結果なのだろう。皐月賞でも非常にいいレースをしてよく走っているのだが、この時の中山の馬場はコース変更の関係で内から3頭分が良くなっていて、勝ったハクタイセイの南井克巳は、レース当日の朝コースを歩いて1周し、そのことを確認したうえで非常にうまいコース取りをしてアイネスフウジンを差し切った。当時、関西の田中氏の同人誌「エクリプス」誌上で私がこの南井の乗り方を絶賛したことがあったが、いわゆる「プロの仕事」だった。そんな訳で差されはしたが、アイネスフウジンも勝ちに等しいくらいよく走っている。<br>　そして狂乱のダービーを迎える。きれいに晴れ渡った天候で、古馬にはオグリキャップのようなスターホースもいる競馬ブームの最中にあり、朝から異常な熱気が府中のスタンドを包んでいたが、さすがにファンの出足も早く、8時ころにはもうスタンドの通路にも人が座り始めていて、午後になると自分の席に戻るのもかなり苦しくなっていた。<br>　ダービーのフルゲートは何度も変更されているが、バリヤーからゲートに替わった初期が32頭で、それから28頭となってこの時代が長かったが、1986年から24頭に、このアイネスフウジンの1990年は22頭、翌1991年には20頭と徐々に削減され、1992年からはマークシートの導入などもあり18頭となった。この時から日本国内で19頭以上の頭数のレースは見られなくなって現在に至っている。もちろん安全面やら公正面やらマークシートやら理由はさまざまあるだろうが、我々オールドファンにとっては、やはり28頭フルゲートの時代、現代のように最外枠の係員が横にどいて終わりというようなものではなく、大勢の係員が左右に一気に散って一瞬流れる静寂のときの、得も言われぬ緊張感が何とも懐かしい。今の若いファンにあれは体験させてやりたいものだと思う。<br>　その22頭のフルゲート、ちょうど中央の⑫番枠を出たアイネスフウジンは快調に逃げる。大逃げというのではないが、最も離れたところでは5馬身以上は優にあったろう。ハクタイセイは2～3番手、①人気のメジロライアンは中団に待機していた。ラップは平均に早く、1200から1400までの1Ｆで12.6があるくらいで息が抜けない展開である。こうなると逃げ馬は苦しいものなのだが、この時のアイネスフウジンは上がり3Ｆ36.6、ラスト1Ｆも12.7と止まらなかった。これでは後続は追いつけない。現代のように上がり勝負のみで33秒台という時代ではないのだ。そして、レースを見ていても現代の上がり競馬より、よほどこの時代のレースの方が面白い。力任せに逃げたアイネスフウジンは、最後まで一杯の力を出し切ってとうとうゴールまで頑張った。2.25.3はダービーレコードで、馬場が改修された2004年にキングカメハメハが一気に2秒も更新するまで13年間保持していた。②着メジロライアン、③着ホワイトストーン。この②③着2頭はこれから古馬となってもライバルとして多くのレースを戦うことになるが、アイネスフウジンとはこの日が最後となる。<br>ゴールを過ぎて向こう正面まで流したあと、他馬はダートコースを通って帰るが、勝った馬は芝コースを戻る「ウイニングラン」をしてスタンド前の馬道から地下に入るのが通例だが、アイネスフウジンはなかなか戻ってこない。全身全霊使い果たしてかなりヘロヘロ状態だったそうで、実はこの時すでに故障していた。何とか戻ってきたアイネスフウジンと中野に対し、自然発生的に「ナカノ」コールが沸き起こる。この日以降、2～3年の間ＧⅠレースではよくこうしたコールが聞かれるようになったが、さすがに何年も続かなかった。しかし。この時の「ナカノ」コールの何とも異様な雰囲気は、19万6517人の有料入場者数とともに永久に語り継がれていくことだろう。もちろん、有料入場者の中には馬券を買ってすぐ帰る人や、この日のように半端でない混み方をしていたらレースを見るのを諦めて、帰ってＴＶで見ようと思う人も少なくないだろうし、我々も酒が足りなくなって外に買いに行くように、一度退場して再入場という人もいるだろうから、実質20万人が「ナカノ」コールを体験したという訳ではないだろうが、そんな細かいことはどうでもいいだろう。とにかく狂乱の一日であった。<br>　アイネスフウジンは、結局この時の怪我から立ち直るのが難しいと判断され、この夏にあっさり引退してしまう。私はこの馬は種牡馬としてもっとやれるのではないかと思っていたのだが、案に反して産駒は不調だった。そんな中で一頭だけ、まさにワンホースだがファストフレンドという交流競走の女王を出したのは光っている。惜しいことに、このファストフレンドは交流競走で大活躍した時に、ＪＲＡ賞の最優秀4歳以上牝馬となるべき成績を残していたのだが、そのタイトルに選出されたのはエリザベス女王杯1勝しかしていないファレノプシスだった。この年ファストフレンドはＧⅠ2勝（帝王賞・東京大賞典）に加えＧⅡも3つ勝っている。比較にならないはずだが、この理由は簡単なことで、選考委員の多くがファストフレンドの交流戦での活躍を知らず、またおそらくファストフレンドが牝馬であることすら知らない、競馬に対する知識の薄い人間だったというだけのことである。そうした人間を選考委員にしている方もしている方で、無知な選考委員と同罪であろう。このファストフレンドが走ったことで、一時種牡馬廃用の話が出ていたアイネスフウジンは種牡馬を続行することになったが、その後も思わしい産駒は出なかった。<br><br>1990.5.27　2回東京3日目　9Ｒ　（晴・良）<br>第57回日本ダービー　4歳牡牝定　2400ｍ　22頭　（全馬牡4）<br>1　⑤12　アイネスフウジン　　　57　中野　栄治　　ＤＲ2.25.3　　③人気<br>2　③6　 メジロライアン　　　　57  横山　典弘　　　　1 1/4 　　①<br>3　②4　 ホワイトストーン　　　57　田面木博公　　　　1 1/2     ⑫<br>4　⑥16　ツルマルミマタオー　　57　田島　信行　　　　クビ　　　⑩<br>5　⑦19　ハクタイセイ　　　　　57　武　豊　　　　　　1 1/2　　 ②<br>6　①1　 ロングアーチ　　　　　57　南井　克巳　　　　アタマ　　⑥<br>7　⑧20　カムイフジ　　　　　　57　郷原　洋行　　　　アタマ　　⑮<br>8　⑦18　キーミノブ　　　　　　57　村本　善之　　　　1 1/2     ⑪<br>9　④8　 ユートジョージ　　　　57　岡　潤一郎　　　　ハナ　　　④<br>10 ⑥15　コガネタイフウ　　　　57　柴田　善臣　　　　1 3/4     ⑧<br>11 ⑥14　メルシーアトラ　　　　57　河内　洋　　　　　5　　　　 ⑤<br>12 ②3　 ビッグマウス　　　　　57　柴田　政人　　　　アタマ　　⑨<br>13 ⑧21　ノーモアスピーディ　　57　安田　富男　　　　クビ　　　⑯<br>14 ⑤13　ニホンピロエイブル　　57　丸山　勝秀　　　　1/2　　　 ⑭<br>15 ①2　 シンボリデーバ　　　　57　田原　成貴　　　　1/2　　　 ⑦<br>16 ⑦17　インターボイジャー　　57　松永　幹夫　　　　3/4　　　 22<br>17 ④9　 ロンサムボーイ　　　　57　的場　均　　　　　1 1/2     ⑲<br>18 ⑧22　ハシノケンシロウ　　　57　大塚栄三郎　　　　1 3/4     ⑳<br>19 ④10　ワイルドファイアー　　57　中舘　英二　　　　1/2　　　 21<br>20 ③7　 ストロングクラウン　　57　増沢　末夫　　　　7　　　　 ⑬<br>21 ③5　 サハリンベレー　　　　57　菅原　泰夫　　　　大差　　　⑰<br>止 ⑤11　ダイイチオイシ　　　　57　猿橋　重利　　　　骨折中止　⑱<br>　単530　複200、150、730　　連③－⑤770<br><br>第10位<br>天へと逃げた馬<br>1998年毎日王冠（サイレンススズカ）<br>　比較的近い時代なので、悲劇の逃げ馬として現代でも語られることが多いサイレンススズカは、数奇なエピソードの多い馬である。母には種付け時から他の馬を付けて受胎せず、トニービンを希望していたが、発情が来たときにトニービンに余裕がなく、当時まだ産駒がデビュー前だったサンデーサイレンスを社台関係者に薦められて付けたとかいう話もあって、まあこうしたことは馬の世界に限らず、人間の世界でもよくある話なのだが、何が幸運かわからない。<br>　この馬に関してはまだ時代が新しく、悲劇のヒーローになったために多くの書籍も出版されているので、あまり詳しく書く必要もないだろう。私がこの馬を一番記憶しているのは弥生賞でアホをやった時だ。だいたい新馬をぶっちぎっただけで即重賞というのは私の嫌いなパターンの代表なのだが、この馬に関してはとにかく陣営が強気一辺倒で、それもそのはずケイコの動きが半端なものではなく、坂路で信じられないような時計を連発していた。従って、陣営は「絶対勝てる」と思っていたのだろう。ところが、ゲートをくぐって出てしまいその時に大暴れ。外枠発走になったと思ったら信じられないような大出遅れ。と思えば大差のシンガリから向こう正面一気のまくりで一旦好位にまで上がった。さすがにしまいは一杯になって⑧着と大敗したが、先に阪神大賞典でオルフェーヴルがやったのと似たようなものである。能力をアピールするには十分だった。<br>　古馬になって折り合い面で進境をみせたサイレンススズカは、鞍上に当時絶頂の武豊を迎えて快進撃。金鯱賞では大差勝ちなどという凄いパフォーマンスを見せて南井克巳で宝塚記念も見事に逃げ切る。これは武豊が年内エアグルーヴの優先騎乗が決まっていたためだ。そして迎えたのが今回取り上げた毎日王冠である。<br>　もちろん、格上レースの宝塚や大差勝ちの金鯱賞をベストパフォーマンスと見ることもできようが、この毎日王冠では相手が強い。エルコンドルパサーにグラスワンダー。特に完調に近い状態のエルコンドルを、自分が人気で目標となり、力で負かしたというのは最高に評価すべき内容だ。エルコンドルはうしろから来た馬にはまず負けないレベルの馬なので、先に行っていないと負かせない。エルコンドルの後ろ、③着までが5馬身あることも、エルコンドルがそれなりに走っている上をサイレンススズカが行ったと考えることができる。<br>　サイレンススズカという馬は、マイルを優れたスピードで走るマイラーがいるとして、それと全く同じスピードで2000ｍ以上（恐らく2400までは）走ることができたという稀有な存在であった。3歳時にはまだキャリアがなく、その素質が空回りしている感じだったが、古馬となってある程度息を入れることを覚えてからは全く無敵に近い状態になっており、おそらく、歴史上最高の競走馬と言えるシンボリルドルフやディープインパクトを相手にしても、何度か戦っていくうちには力勝負で勝つことができた馬だろう。<br>　しかし、何事にも限界はある。特にこのような馬は自己の競走能力が並み外れているので、根本的に馬という動物が発揮できる能力の限界値に近いところで走っている。骨格やら筋力やら、肉体的なそれらすべてが限界ギリギリの状態で走り続ければ、天皇賞の悲劇は、いつかは起こることだったのだろう。サイレンススズカとは、自己の限界に近いところまで走ってしまう馬だったとしか言いようがない。人間でもオリンピックを争うようなアスリートたちはそうした故障と隣り合わせである。しかし、人間は自分で自分をコントロールできるし、オリンピック選手ともなれば取り巻きに優秀な専門スタッフがいくらも付いている。自覚症状があればすぐに訴えて参加を取りやめるとか、悪くなりそうな兆候があれば自分で止まる選択もできる。昔、第1回世界陸上ヘルシンキ大会で、当時の女子最高のスプリンターであったエベリン・アシュフォードが100ｍに出走し、完全に抜け出して圧勝の雰囲気だったのに、G前30ｍほどで故障したことがある。その時の彼女のコメントが、「ちょっとあぶないところがあるような気がしていたが、初めての世界選手権なので無理をしてしまった」というようなもので、人間も無理をしてはダメなのである。アシュフォードはその後回復し、ロサンゼルス・ソウルとオリンピックを連覇、リレーを合わせオリンピックで4個の金メダルホルダーとなるのだが、サイレンススズカは物言わぬ馬のこと、痛いとか走りたくないと言う言葉は彼等にはない。<br>　サイレンススズカは逃げていた。どこまでも、空の上までも。<br><br>1998.10.11　　４回東京2日目　11Ｒ　（晴・良）<br>第49回毎日王冠　4上別　　1800ｍ　　9頭<br>1　②2　サイレンススズカ　　牡5　　59　武　豊　　　　1.44.9　　　①人気<br>2　④4　エルコンドルパサー　牡4　　57　蛯名　正義　　2 1/2　　　 ③<br>3　⑦7　サンライズフラッグ　牡5　　58　安田　康彦　　5　　　　　 ④<br>4　①1　プレストシンボリ　　騸7　　57　岡部　幸雄　　3/4　　　　 ⑧<br>5　⑥6　グラスワンダー　　　牡4　　55　的場　均　　　クビ　　　　②<br>6　⑧9　ビッグサンデー　　　牡5　　58　宝来城多郎　　クビ　　　　⑥<br>7　⑤5　ランニングゲイル　　牡5　　58　柴田　善臣　　クビ　　　　④<br>8　③3　テイエムオオアラシ　牡6　　57　福永　祐一　　2           ⑦<br>9　⑧8　ワイルドバッハ　　　牡6　　57　M・ロバーツ　 10          ⑨<br>　単140　複100、130、280　枠連②－④320　　馬連②④330<br><br>第11・12位<br>個性派ペース型逃げ馬2頭<br>トーヨーアサヒとホワイトフォンテン<br>時を刻んだ精密機械<br>1973年ダイヤモンドS（トーヨーアサヒ）<br>　ミホノブルボンのところで記したが、軽快な逃げ、重厚な逃げと来て、もう一つの逃げ馬パターンがペース型である。このタイプはGⅠを勝ち切るような力強い馬ではなく、先に登場している重厚型とぶつかると、あっさり馬群に沈むか、どうかするとハナも切ることができずに見せ場も作れない。馬個体の能力ということならそれらに比較して大きく劣る。もっと簡単に書いてしまえば、GⅠ級のレースは勝てないか、勝ってもその後GⅠ馬として他馬にマークされるとかなりだらしないレースになってしまうような実力が下の馬で、このタイプをもっと力強くすればメジロパーマーということになるだろうか。また、JCを逃げ切っている馬はけっこういるが、カツラギエースやレガシーワールド、タップダンスシチーらはこうしたペース型とも重厚型とも違い、この両方の中間に位置する馬たちであろうと思う。<br>　従って、本編に登場してきた馬たちと比較すると、ここに挙げる2頭は格的には大いに劣る。これまで挙げた馬の中でGⅠを勝っていないのはロングホークだけだが、ロングホークよりもさらに力は下だろう。現実にホワイトフォンテンはアイフルの天皇賞でロングホークにハナを叩かれて大差のシンガリ負けしている。しかしながらこの2頭、今でも語られることが多いように、何ともユニークで楽しいキャラクターである。こうした脇役陣が充実している時代の競馬は面白いのだ。特にこの2頭のように、GⅠ級の馬から見た場合、攻撃をさっさと仕掛けてしまえばたやすく負かせるが、その分自分が目標になってしまうので他のGⅠ級の馬に喰われてしまう。かといって放っておいてマイペースで行かせると馬鹿にできないところもあるので、人気の馬は常に難しい選択を強いられることになる。<br>　逃げの精密機械と呼ばれたトーヨーアサヒは、樋口や増沢で重賞勝ちしたこともあるが、やはり小島太との組み合わせが最も似合う。中でもここに取り上げたダイヤモンドSでは、全16ハロンのハロンラップのうち、スタート直後の13.0を除きすべて12秒台という完璧なペース配分で乗り切り、世に「逃げの精密機械」というニックネームを定着させたレースである。先にグリーングラスの菊花賞の話をした時、ペースに中だるみが大きいほど距離をこなせると書いた。これは競馬が常に相手関係を持っていることと、不向きな長い距離を中距離型の馬が走ろうとする時はそうでないと持たないということで、単騎で走る場合、単純に最もスタミナをロスしないのは最初から最後まで平均的なペースで走ることだろう。私は市民マラソンランナーでフルマラソンを何度も走っているが、理想は42.195ｋｍを全く同じペースで走ることで、人間であろうが馬であろうが、同じ動物が運動行為をするのであるからこれは変わらないだろう。人間ばかりが走るマラソンならば可能でも、競馬のレースの中で完全な平均ペースを作るのは、各馬がそのレースの中で有利な位置を取ろうとするために現実論としてできないのだ。それを現実化したのがこの時のトーヨーアサヒで、そのラップは13.0－12.6－12.2－12.5－12.9－12.8－12.9－12.8－12.6－12.5－12.9－12.5－12.4－12.3－12.4－12.4－12.1－12.9で3.21.0のレコードという何とも見事なもので、13秒台がスタート直後の13.0だけというのは3000ｍ以上のレースとしては極めて珍しい。このラップによってつけられたあだ名が「逃げの精密機械」だった。ところでみなさん、上記のレースラップにはおかしなところがある。だれか気付けば素晴らしいが、さすがにそれは無理だろうか。<br>　ラップタイムが18個あるのである。おかしいであろう。ダイヤモンドＳは3200ｍだ。つまりレースラップは3200÷200＝16しかないはずなのである。私はこのラップを調査するのにかなり苦労した。スタート直後以外全部12秒台だったというのは記憶していて間違いない。ところが、この当時はまだ四季報も買っていないし、成績広報にもこのころはレースラップなど載せていないのだ。仕方がないので新橋ゲートＪに行っていろいろ調べたところ、その年の古い四季報があった。これの成績欄をコピーしたものが手元にあるが、まちがいなくラップは18個記載されている。詳しく分析してどうやら結論が出た。ラップは2つ多い。上記のラップの中に、同じラップが2ハロン続いているところが１か所だけある。5ハロン目から8ハロン目までが12.9－12.8－12.9－12.8。2ハロン続けて同じラップが繰り返されているところは他にない。つまり、このうち一つが余計なのではないか？この仮説をもとに、上記のラップを正直に18個合計すると、この時のレコードタイム3.21.0に対して、18個のラップの合計タイムは226.7秒、3.21.0は201秒なので、その差は25.7となり、12.9－12.8の合計25秒7とピタリ一致する。どうやらこれが正解だろう。過去の競馬関係の書物には間違いが多い。私が横倉氏・藤根氏とともに新橋の広報コーナー（現在のゲートＪ）に通って研究していた時にも、山野浩一氏はじめ、偉そうな方々の著書から間違いをゾロゾロ見つけた。これを書いている今日も、名馬の死にざまとかいう名馬の死んだときのエピソードを集めた本を読んでいたら、横田さんとかいう女性の人がトウショウボーイのことを書いていた。ところが読んでいたら早速間違いを見つけた。その記述「皐月賞が3戦目だった」おいおい、ボーイは新馬勝ちのあと、つくし賞東京ダート1400、れんげ賞中山1800のあとに皐月賞だぞ。3戦目って、れんげ賞はどこに行ったんだ？さらに「小倉3歳Ｓのダイゼンキングを出した」こら！ダイゼンキングは阪神3歳Ｓも勝っているのだぞ。小倉3歳Ｓは阪神3歳Ｓより格が上なのか？こうした記述は当然、「阪神3歳Ｓのダイゼンキングを出した」または「小倉・阪神両3歳Ｓの～」と書くべきだろうが。まあいい。本題と違うのでもうよそう。もうちょっとちゃんと調べてね。<br>　トーヨーアサヒは何度も登場してきた昭和47年クラシック世代、すなわち史上最強との誉も高い世代の一員である。ただ強い馬が多いとか、トップのレベルが高いということの他に、メンバーの中にこのトーヨーアサヒや快速スガノホマレ、「旅芸人」ノボルトウコウ、抽イナボレスのような個性派がたくさんいることも強い世代の特徴であろう。<br>トーヨーアサヒの父はセダン。この時代一大勢力だったシカンブルの父プリンスビオの直仔で、フランス産だがイタリアで走り、イタリアダービー、イタリア大賞、ミラノ大賞、ジョッキークラブ大賞、共和国大統領賞と、イタリアの主要レースのことごとくに勝った。　<br>　セダンの日本での産駒には大きな特長があった。まず堅実な馬が多い。大負けをあまりしない馬が多いのである。反面、勝負根性には定評があるのだが、勝ち味に遅いところがあって②～⑤着が多い。代表産駒のアイフルやコーネルランサー、ハーバーヤングなどみな着を外さない堅実型である。オープンだけでなく、セダン産駒は条件級の馬にもこうした堅実型が実に多かった。また、スピードが豊かでレコード決着のようなレースでもこなし、距離はほとんどオールラウンドで、しかも仕上がりも早くて2歳戦からよく走り、さらに成長性もあって古馬になってからGⅠ級に出世した馬もいる。先のアイフルなどその例だ。こう書くとまるで欠点がない種牡馬のように思えるが、道悪とダートはあまり得意とは言えないくらいが欠点というほどでもない欠点だろうか。要するに、みな平均以上ではあるのだが、ものすごくアピールする点というのもないのである。あえて言うなら、強烈にアピールできる点は先に言った「堅実性」だろう。<br>　そんなセダン産駒にあって、このトーヨーアサヒは逃げ馬という脚質の特性からなのだろう、成績はとてもセダンらしいコンスタントなものではなかった。逃げ馬と言ってもペース型の典型であり、サクライワイのようなハナッ早いスピードではないので、競りかけられたらもうそれで終わり。特に格上の馬、早い話が第3位に登場したタニノチカラの有馬記念にも出走しているが、チカラの逃げの前には成す術がない。本来の逃げ馬が、本来は逃げ馬でない格上の馬に逃げられた時ほどみじめなものはない。つまり、完全にGⅠでは役不足なのである。それでも、こうした馬には固定ファンがつく。よく私は、このような逃げに徹底している馬は、逃げ続けていれば1年に1回か2回は展開がハマることがあると書いているが、現代で言えばシルポートのような馬がこれに近いだろう。そして、こうして逃げ馬がハマってしまったときには、後続の馬がかなり強くても簡単には捕まえ切れない。先の天皇賞でも、最初から逃げた訳ではないが、あのビートブラックを負かすのはルドルフやディープでさえ難しいだろう。またこのトーヨーアサヒは、首が高い独特なフォームで逃げていた。この同時期にオプティーという馬がいた。名馬スピードシンボリの弟だったが、恐ろしく首が高く、まるでキリンが走っているようなので「キリンのオプティー」と呼ばれて親しまれたが、そのオプティーほどではないものの、このトーヨーアサヒもかなり首が高かった。チカラの有馬記念では、首の低いチカラが逃げて、首の高いトーヨーアサヒが懸命に追っていくという何とも面白いシーンもあった。<br>　確かにGⅠ級では役不足だったが、逃げて逃げて5つもの重賞を勝ったトーヨーアサヒは、引退後一応種牡馬となったが、実質「アテ馬」に近く、ほとんど産駒はいなかった。　<br>　このころに面白いエピソードがある。私が千代田牧場にいた時だが、新冠の育成公社で8月に「新冠駒まつり」という祭りがあった。屋台が出たりして、何千という人が集まるのだが、祭りの中のイベントで、この育成公社の調教馬場を使ってポニーやサラの草競馬が行われる。これが実に楽しいものだ。私が行った時には速歩競走に無敵の草競馬荒らしのタメゴローという馬が出てきた。速歩なので人間で言う競歩のようなもので、飛んで走ってはいけない。いわゆる「ダク」である。若い人は全く知るまいが、中央競馬でも昭和40年代中ごろまで繋駕速歩（けいがそくほ）競走というのが行われていた。最後は中京であったと記憶しているが、繋駕速歩の場合は馬車を引いた競走だが、駒まつりの草競馬では馬車は使わない。また、繋駕速歩競走の馬はトロッターが多いが、タメゴローらの馬の種類は北海道土着の原種「ドサンコ」なのでサラブレッドのように厳重な血統管理をしている馬ではない。他の馬はスタンド前からスタートするのに、タメゴローだけはわざわざ向こう正面までトコトコと向かって行き、左回りなので府中でいうなら3200のスタート地点のあたりからスタートする。他馬は府中でいう2400のあたりからのスタートで、もちろん府中よりは遙かに小回りだが、それでもすさまじい距離ハンデである。当然ゲートなどない。適当に立ち止まった状態からのヨーイドンである。すると、タメゴローは何を思ったかクルクルと2回転回って、それからダクを踏み出した。これも凄いロスである。ところが、走り出したらまるでスピードが違う。ダクなのでキャンターのようなスピード感はないが、他馬とは目に見えて早さが違うのである。タメゴローがちょうど1周した時、つまりスタートした府中の3200のスタート地点に戻ったあたりで、タメゴローは半周前からスタートしていた先行各馬に追いついた。あとはもうぶっちぎりなどというものではない。まるまる直線一本、タメゴローは他馬をぶっちぎった。腹をかかえて笑うしかなかった。<br>　さて、この話がなぜトーヨーアサヒと関係あるのかといわれそうだが、実はこの時、前年の駒まつりの時の話を聞いたのである。千代田牧場の先輩に高橋さんという人がいたのだが、この人が騎手の樋口弘の友人であった。樋口弘はよく乗れたジョッキーだったのだが、交通事故を起こして一旦競馬界を引退する。のちに復帰してカツアールで宝塚に勝ったり、インターグロリアに乗って有馬で穴を開けたりするのだが、この空白時期に北海道の牧場にいたのである。このころ高橋さんとよく飲み歩いていたそうで、前年の駒まつりにも一緒に遊びに行ったらしい。すると、サラの草競馬に出てきた一頭の馬を見て、樋口弘が「おい高橋、あの馬が勝つぞ」と言ったのだそうだ。もちろん名前は変えているが、それがトーヨーアサヒだったのである。樋口は事故を起こすまでトーヨーアサヒの主戦ジョッキーであり、重賞初勝利の京王杯AHも樋口で勝っている。樋口にはその馬がトーヨーアサヒだとわかったのだ。祭りのイベントの草競馬である。多少の賞品くらいは出るかもしれないが、馬券を売っている訳でもなし、アテ馬同然の種牡馬が名前を変えて出てこようが、そこは大らかなものだろう。現役時代同様、逃げの手に出たトーヨーアサヒは、他馬には影も踏ませないような大差勝ちを演じたのだそうだ。タメゴローも面白かったが、トーヨーアサヒの大差勝ちも見てみたかった。<br><br>1973.4.1　　2回中山4日目　10Ｒ　（晴・良）<br>第23回ダイヤモンドＳ　4上Ｈ　3200ｍ　12頭<br>1　⑧12　トーヨーアサヒ　　　牡5　50.5　小島　太　　Ｒ3.21.0　　③人気<br>2　⑦10　インターブレイン　　牡5　54　　野平　祐二　　3 1/2     ②<br>3　⑧11　クリイワイ　　　　　牡5　56　　郷原　洋行　　アタマ　　①<br>4　⑥7　 ツキサムホマレ　　　牡5　50　　前田　禎　　　クビ　　　⑩<br>5　⑤5　 ハーバーマモル　　　牡5　52　　加賀　武見　　1 1/2     ⑤<br>6　⑥8　 アカツキテル　　　　牡8　54　　増沢　末夫　　ハナ　　　⑧<br>7　①1　 グレートリッチ　　　牡5　49　　岡部　幸雄　　1 1/2     ⑥<br>8　③3　 イナボレス　　　　　牡5　50　　谷原　義明　　2 1/2     ⑨<br>9　⑦9　 ヒロキャプテン　　　牡5　52　　大崎　昭一　　クビ　　　⑦<br>10 ④4   シルクロード　　　　牡5　48　　坂本　恒三　　5　　　　 ⑪<br>11 ②2　 サノヒカリ　　　　　牡7　52　　中野渡清一　　2 1/2     ⑫<br>12 ⑤6　 ヤシマライデン　　　牡6　52　　伊藤　正徳　　大差　　　④<br>　単800　複250、170、130　　連⑦－⑧340<br><br>波乱を呼ぶ白い逃亡者<br>1975年日本経済賞（ホワイトフォンテン）<br>　本稿の掉尾を飾るのは「白い逃亡者」ホワイトフォンテンだ。ハイセイコー、タケホープらと同期のホワイトフォンテンは、2歳9月のデビューから、脚質が定まらない時は差したりもしていたが、やがて逃げることを覚えて3歳春に3勝目を挙げる。しかし、この当時はクラス分けが現在とは違うので、3勝ではクラシック出走が確定する訳ではない。結局皐月賞は断念して皐月賞の前日の4歳Ｓに出走しこれを逃げ切る。この4歳Ｓというのは、いわゆる「断念皐月賞」と呼ばれていて、皐月賞に出られなかった馬とか、権利を持っていても名より実を取る選択をした馬が出走してくるレースで、当時は春のクラシックには必ずこうしたレースがだいたい本番前日の土曜日に組まれていた。現代で言うと、桜花賞の前後にある「忘れな草賞」はこの「断念桜花賞」の名残である。<br>　この勝利により完全に権利を得たホワイトフォンテンはダービーに出走する。世はハイセイコー一色である。マタドアの仔チェッカーフラッグや良血の逃げ馬ボージェストらのハナを叩いてホワイトフォンテンは逃げた。この当時大きなレースに必ず登場した「テレビ馬」である。当然のようにしまいはバッタリ止まって、タケホープから実に6秒差の24着。シンガリにはならなかった。<br>　ここから1年半に渡り、ホワイトフォンテンは低迷する。オープンで当時のオープン大将のコーヨー相手に②着2回などはあるが、逃げては負けを繰り返す。1年半後にようやく勝ったのが、前章で話をしたオクトーバーＨでの奇跡の追い込みだ。実は、この後しばらく陣営も悩んだようだ。オクトーバーＨでなまじ見事な追い込みを決めてしまったので、追い込みの方がいいのではと考えたのだろう。何度か後方から追い込むレースをさせるのである。しかし、やはり「付け焼刃」なのか、まるで駄目というほどでもないのだが後方から行ってもあまりいい結果は出ず、次に中山の仲冬Ｓを勝った時は逃げ切りだった。脚質に悩みを抱えて5歳を迎えたホワイトフォンテンは、中山に当時あった名物レース、「日本最長距離Ｓ」4000ｍに出走し、一人旅でこれを逃げ切る。このレースはカブラヤオーの弥生賞の次のレースで（注：当時メインレースは最終Ｒから3つ目で、メインの後に1つ特別があり、その後が最終だった。今年のダービー当日がこれに当たる）平地で最も距離の長いレースだったが、この翌年から廃止された。というのも、このホワイトフォンテンの時にたった5頭しか出走馬がおらず、前年にキクオーカンがレコード勝ちした時も5頭だか6頭しか出走馬がいなかった。加えて、ホワイトフォンテンの時には途中に17.0などという馬鹿げたラップタイムが記録されていて、こんな状態ならもうやめてしまえとなったものだろう。私はこのレースを生で見ていたが、スタンド前を行くホワイトフォンテンはまるで軽いキャンターのようだった。<br>　それはともかく、この前後もまだ脚質は定まらず、逃げたり追い込んだりしていたホワイトフォンテンだが、この当時は現代とクラスの分け方が全く違っていて、この時点でもホワイトフォンテンはまだ準オープンの1200万下である。当時のクラスは、200万下・500万下・700万下・1000万下とあって、1200万下が準オープンだが、1200万級は開催に1レースしかない。1200万下は現代で考えると3000～4000万下くらいの超高額条件である。このため、条件馬といっても多くの馬がオープン級のレースを使うことになり、ホワイトフォンテンも日本経済賞に出走してきた。日本経済賞はもちろん現代の日経賞の前身だが、当時から現代同様ＧⅡ級と言ってよい位置づけのレースで、斤量が当時としては楽な方の別定なので、すでにＧⅠ級を勝っている馬も出て来る格の高いレースである。この時も非常にいいメンバーが揃った。キタノカチドキと同期の1974年クラシック組で、この時点ですでに重賞を勝っている馬がフジノパーシア、スルガスンプジョウ、キクノオー、ヒカルジンデン、トウコウエルザ、ナスノカゲと6頭もおり、これにこの春の天皇賞でキタノカチドキを差し切っていたイチフジイサミとおなじみのイナボレス。フジノパーシアはこの後秋の天皇賞馬となり、キクノオーはその天皇賞の①人気だ。このメンバーではホワイトフォンテンが人気になる訳はなく、11頭立て⑩番人気も無理はない。①人気になったスルガスンプジョウなどは異常なほど人気のあった馬で、前年のダービー卿ＣＴでは被った①人気で③着に負けてしまったために、ザオーリュウジンとニシキエースの⑧－⑧で3万余円の歴史的大穴の原因を作ってしまった馬だ。（馬単3連単の現代では3万円の馬券などマヒしてしまっているが）このメンバーでは色気などない。ホワイトフォンテンは無欲の逃げに出た。ところが、この時のホワイトフォンテンは、えらく調子がいい。というより、ちょうど充実期に当っていたのであろう、それまでよりも余裕綽綽で逃げるのである。この日私は中山の指定席にいたので、このレースは昨日のことのように記憶しているが、3コーナーから4コーナー、ホワイトフォンテンの逃げは絶好調で、全く逃げ脚が衰える気配がない。後続の人気馬は互いに出方を伺っていて、好位のスルガスンプジョウとフジノパーシアは特に牽制しあっている。全く快調なホワイトフォンテンは4角でも手ごたえ十分、ラスト1Ｆを11.8と逆に差を開き、2馬身半差で鮮やかに逃げ切った。単勝も連勝も万馬券である。スタンドに漂った何とも言えない白け切ったムードは忘れられない。<br>　この日以来、ホワイトフォンテンは完全に脚質を逃げに固定し、以後引退まで逃げまくる。秋の毎日王冠は蛯名信廣で逃げ切り重賞2つ目。次から再び高橋司が戻って目黒記念・有馬記念・金杯と大敗を続ける。そして次がＡＪＣ杯。府中であるだけに、逃げ切りは難しいと見られ、9頭立て⑧人気だったが、前年の菊花賞馬コクサイプリンス、有馬記念馬イシノアラシ、秋の天皇賞を勝っていたフジノパーシア、さらにトウコウエルザ、ハーバーヤング、ヤマブキオーといった錚々たる相手に3馬身差で完勝する。フジＴＶでこの日実況をしていた盛山アナは「あっ、逃げ切った、逃げ切っちゃいました！」またラジオでは「やったやったまたやった、ホワイトフォンテンまたやった！」などという実況もあった。府中での3馬身差だけに、このＡＪＣ杯がホワイトフォンテンのベストパフォーマンスと言えるだろう。この日以来「白い逃亡者」というニックネームは完全に定着する。と言ってもホワイトフォンテンはシービークロスなどと違って、芦毛の中では白くなるのがかなり遅い方で、引退までそう白くはならず、言葉は悪いがちょっと汚い「ブチ毛」であったが。この年さらに日本経済賞で逃げ切りこのレースを連覇するのだが、秋以降は大敗続き。全くいいところがなく、粘りもない状態で、この秋はおそらく完全にピークを過ぎて下降期に入っていたものと思われる。翌年ＡＪＣ杯に出走したが、馬場入り後返し馬の時に骨折してしまい発走除外。新冠の隆栄牧場で種牡馬となった。<br>　ホワイトフォンテンの父は奇しくもノーアリバイ。「アリバイがない」ことも「逃亡者」には当然で、何ともうまくできているものだ。ノーアリバイは他に活躍馬を全く出しておらず、ホワイトフォンテンは完全なワンホース。種牡馬としては種付け頭数も少なく、条件馬を何頭か出した程度で終わったのは当然の成り行きだろう。しかし、牧場では可愛がられていたようで、27歳で老衰死するまでここで過ごした。競走馬としては幸せな余生であったと言えるだろう。「白い逃亡者」のニックネームは個性派の代表格の一頭として現代でも語られている。<br><br>1975.6.29　3回中山6日目　8Ｒ（晴・稍）<br>第23回日本経済賞　5上別定　2500ｍ　　11頭<br>1　④4　ホワイトフォンテン　　牡6　55　高橋　司　　　2.35.8　　　⑩人気<br>2　⑧11 フジノパーシア　　　　牡5　56　大崎　昭一　　2 1/2       ②<br>3　①1　スルガスンプジョウ　　牡5　56　岡部　幸雄　　1/2　　　　 ①<br>4　⑥6　イチフジイサミ　　　　牡6　60　郷原　洋行　　アタマ　　　④<br>5　②2　キクノオー　　　　　　牡5　58　増沢　末夫　　3　　　　　 ③<br>6　⑦8　エイオサン　　　　　　牡5　54　安田　富男　　クビ　　　　⑧<br>7　③3　ヒカルジンデン　　　　牡5　58　柴田　政人　　1 1/2       ⑤<br>8　⑥7　イナボレス　　　　　　牡7　56　谷原　義明　　3 1/2       ⑥<br>9　⑦9　トウコウエルザ　　　　牝5　56　小島　太　　　3　　　　　 ⑦<br>10 ⑤5　ナスノカゲ　　　　　　牡5　53　柴田　弘之　　3/4　　　　 ⑨<br>11 ⑧10 ホリマロニエ　　　　　牡5　54　中野渡清一　　中止　　　　⑪<br>　単10800　　複1020、140、140　　連④－⑧12900<br>あとがき<br>これが47ページ目。まあよく書いたものだが、こうした昔の話を書いていると、私は指が止まることがほとんどない。次から次へと文章が出てきてしまって、むしろ短く抑えることの方がよほど難しい。大半が記憶で書けるというのは便利なもので、今回も本文は曖昧だなと思うところだけを確認した程度である。しかし、12頭に何とか無理やり抑えたが、それでもまだまだ書きたい馬はたくさんいた。第一、マルゼンスキーなどは登場していない。候補に挙がって入れられなかったのは以下のようなレースである。<br>マルゼンスキーの朝日杯3歳Ｓ<br>マルゼンスキーの札幌短距離Ｓ（次章のダート編で登場予定）<br>グレートセイカンの札幌記念（これも次章のダート編で登場予定）<br>シンボリルドルフの有馬記念2回目<br>ホウヨウボーイのＡＪＣ杯<br>ツインターボの七夕賞かオールカマー<br>ジャパンカップのどれか（カツラギエースかタップダンスシチー？）<br>メジロイーグルの京都新聞杯<br>テンポイントの京都大賞典<br>タニノハローモアのダービー<br>サクラシンゲキのどれか<br>セイウンスカイの菊花賞<br>ｅｔｃ<br>逃げるということは他馬より先にいるということなので、何かと有利なことも多い。少なくとも、最後方一気の追い込み馬よりはかなりハマることが多いとは言えるだろう。時代が1970年代に集中したのは、本文中にもあるように血統が一極化される前のバラエティ時代であったことと、現代より出走可能頭数が多かったためにテレビ馬などが登場しやすい時代であったこと、そして何より自分の記憶が一番信用できる時代であることが挙げられる。現代の上がり一辺倒の競馬では、逃げ切りがあってもドラマ性が希薄なのである。強力な逃げ馬がいる競馬は面白い。いつの時代にもこうした馬はいてもらいたいものだ。<br><br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　再校了　2012.6.9<br>
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<link>https://ameblo.jp/umakurabu2012/entry-11331346144.html</link>
<pubDate>Sat, 18 Aug 2012 05:57:47 +0900</pubDate>
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<title>勝手にベストテン（3）逃げ切り編（３）</title>
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<![CDATA[ 第7位<br>凶器の逃げで相手を粉砕<br>1975年皐月賞（カブラヤオー）<br>前に登場したサクライワイがスプリンターらしい軽快な逃げなら、一方クラシックを逃げ切るような重厚な逃げもある。ここから3頭はそうした馬たちで、この重厚な逃げというのは十分な底力に裏打ちされたもので、いわゆる一介の逃げ馬にはできない逃げ切りを言う。1975年、前出テスコガビーとともに菅原泰夫に4冠をもたらしたカブラヤオーもまた、並みではない重厚な逃げを武器とした。<br>　カブラヤオーはデビュー戦でスタートに失敗してダイヤモンドアイを捉えられずに1敗地にまみれてしまうが、ＮＨＫ杯では好位抜け出しで圧勝もしたし、札幌の短距離Ｓでも好位からのレースをしており、絶対に逃げないといけないという馬でもないのだろう。特に語られることの多いダービーで、超ハイラップを踏みながら逃げ切ったのにも実はラップの中にそれなりのヒントが隠されている。それは後で語るとして、今回取り上げたのはダービーではなく皐月賞の方で、私にはこの皐月賞のほうがよりインパクトが強いのだ。　<br>　非常に強い逃げ切りで、１週前にガビーが大差で桜花賞を制していたため、「さすがにガビーに勝った馬だ」ということになったせいもある。カブラヤは血統も見た目も大衆受けする方ではなく、オーナーの会社が不振だったので手放そうとしたが、たった300万でも売れなかったという話があるくらいで、もちろん評判という訳ではなかった。デビュー戦でも⑦人気と人気薄。これで②着して折り返しの新馬を勝つが、一躍注目を集めるようになったのが当時出世レースの最高峰であった中山のひいらぎ賞である。このレースは当時2勝級の特別で、前年は後のダービー馬コーネルランサーとこれも強豪のスルガスンプジョウが歴史的な叩き合いを演じて2歳の日本レコードを記録していて、翌年カブラヤオーがこれを勝って2冠馬となったことで以後大注目されるレースとなった。1勝馬の身分で強気に2勝級の特別に挑んだカブラヤは、まったく楽な手ごたえで6馬身差の圧勝をする。正月には京成杯という重賞もあったが、朝日杯を回避したガビーがここに出るので、ここから菅原への乗り替わりを予定していたカブラヤはダートのジュニアＣを選択し、これも10馬身差で圧勝。父はこのころすでに南関東で実績を上げていたファラモンドなので、ダートは大得意である。これで3連勝としたカブラヤは、いよいよ東京4歳Ｓ（現：共同通信杯）でガビーと生涯1度だけの対決をする。ジュニアＣで一旦菅原に替わったカブラヤだが、菅原がガビーに乗るため再度菅野澄夫に鞍上が戻ることになる。自分の厩舎の馬よりも他の厩舎の馬を優先させるあたりが当時の厩舎関係の「しがらみ」を伺わせる。<br>　ガビーのところで述べたが、この両者、乗りやすいのはガビーの方だと菅原が言っているとおり、カブラヤを行かせてガビーは控えた。ガビーは折り合いに問題はない馬なのである。直線一本、この2頭は馬体を接して叩き合いになった。どちらも引かないが、結局先に行っていた分だけカブラヤが残し、ガビーはクビ差で②着となる。問題はハナ差③着のテキサスシチーだ。まあ、見ていてハナ差というほど危なくは感じなかったが、カブラヤ・ガビーの叩き合いにハナまで食いついて行ったというのはたいしたものである。そして、この「カブラヤ・ガビーとクビ・ハナの勝負をした馬」という十字架が、このあと最後までテキサスシチーを苦しめることになる。一体全体どうしたことなのか、この後のテキサスシチーは「燃え尽きた白い灰」状態になって出ると負けを繰り返すのだ。出走する度に、「あのカブラヤ・ガビーとクビ・ハナの勝負をした馬」と言われ続けて約2年余。テキサスシチーは延々と負け続け、この馬に付いていた固定ファンに損をさせ続ける。フジＴＶの盛山アナにも「あ～伸びない伸びない、テキサスシチーはやっぱり伸びない」などとひどい実況をされる始末であった。ともあれ、たった一度の闘いではあったが、このレースは後世に語られるレースとなる。<br>　ガビーのその後は先に記した通り。一方カブラヤは弥生賞で東上してきたロングホークを抑えて弥生賞も逃げ切る。しかし、このレースなどはロングホークのところで記したように、「脚を測った」と言えなくもないもので、事実この弥生賞でのレース振りを見た関西のジョッキーは、「あの程度なら次は何とかなる」くらいに思っていただろう。また、カブラヤは折り合いにはそう問題ない馬だが、気の悪いところはあって、まっすぐ走らせるのが難しい。競走生活全13戦のうち、斜行で過怠金の対象に6回もなっているのがその証拠で、皐月賞でもフラフラしたが、ダービーのゴール前などは一旦外に大きくヨレてハクチカツにぶつかり、Ｇ前では再び内にささって右に左にと好き勝手に走っている。また、スタート・ダッシュは逃げ馬にしては鋭さがなかった。加速してからは非凡なのだが、スピードに乗るまでは普通の馬なのである。デビュー戦でダイヤモンドアイに負けたのもこれが理由で、先のテキサスシチー同様、このダイヤモンドアイという馬も、生涯「カブラヤを負かした馬」という十字架から逃れることができず、出れば人気で出ると負けを繰り返すことになる。<br>こうしてカブラヤは一抹の不安を残したままで皐月賞に出走する。しかし、後から考えると、皐月賞にしてもダービーにしても、その1週前に菅原はガビーに乗って桜花賞・オークスを勝っており、どちらかと言うと乗りやすく、他馬と力も違っていたガビーが先にいたことで、菅原自身ずいぶん楽になったのではなかろうか。<br>このレースでは、関西から来たレイクスプリンターがカブラヤに敢然と競りかけた。向こう正面までは2頭で10馬身くらい離して競り合っている。大本命馬のこのレース振りに場内からは悲鳴が上がった。菅原泰夫という騎手は非常に度胸が据わった騎乗をするジョッキーで、本人はカブラヤオーのおかげで心臓に毛が二三本生えたとのちに述懐しているが、私はもともとかなり思い切りはいい方だという印象を持っている。それがカブラヤとガビーのような超人気馬でクラシックを4回走って全部勝ったことでさらに磨きがかかって、やがて菊花賞連覇などに繋がっていったとも言えるだろう。<br>　3角、ついにカブラヤはレイクスプリンターを競り潰した。レイクスプリンターは急激に後退して行き、この後退していく途中でよろめき、大差でゴールはしたものの故障しており予後不良となってしまった。カブラヤに殺されたようなものだと当時は言われたもので、カブラヤの逃げは凶器であった。　<br>　さて、レイクスプリンターを振り切ったカブラヤは3～4角でハロン13.2と僅かに息を整える。実はこれこそがカブラヤが他の馬と違うところで、この自在に息が入れられる適性はダービーでさらに生きることになる。ラップが遅くなったことで、ロングホークらが差を詰めてきて、ほとんど並ばれる。ここは見ていて非常に危なかったが、直線でカブラヤは再加速。左右にヨレながら堂々とゴールまで押し切った。当時としては時計も早く、実に強い逃げ切りだった。ロングホークが②着を確保し、③着には中団から大外を一気に追い込んだエリモジョージが入った。先に書いたが、この2頭はやがて逃げ馬として大成する。しかし、その逃げ脚はカブラヤのものとは明白に異質のものである。このレースはこれまでのカブラヤの評価を変えるに十分な内容だった。<br>　次のＮＨＫ杯でカブラヤは好位から抜け出す味なレースをする。まさにこのレースのカブラヤは優等生的で、かなりの雨でひどい馬場だったが、道悪は苦にしないどころか鬼の部類である。ロングファストに6馬身差は圧倒的だ。これでダービーでも一本被りは決定したが、ＮＨＫでのレース振りから、私はこのように好位でのレースをするものと考えていた。それはそうで、大レースで人気の馬である以上、好位追走からの抜け出しは、言わば理想の脚質であるはずだ。前哨戦のＮＨＫ杯で好位に控えるレースをさせたのは、当然ダービーに向けての予行演習だと誰でも思う。しかし、菅原はダービーのパドックを出る時に「やっぱり、行くよ」とつぶやいている。<br>　そして、ダービーでもカブラヤは逃げた。レイクスプリンターの代わりに競りかけて来たトップジローを抑えて1000ｍ通過58.6の自殺的ペース。ハナを主張した2ハロン目には何と10.4を記録している。前出サクライワイのスプリンターズＳに出てきたハロンの日本レコードに0.1しか違わない。後世に語り継がれる力任せの逃げだが、ここでラップに注目してもらいたい。テンの1000ｍは確かに狂乱のペースなのだが、ここでカブラヤは一気にスローダウンする。6Ｆ目からが13.2－13.0これがテンに吹っ飛ばして行きながら、ゴールまでキッチリ持たせた秘密である。つまり、カブラヤという馬はうるさそうに見えて、案外折り合いには苦労しない馬なのである。テスコガビーの方が乗りやすかったと菅原は述懐しているが、それはガビーとの比較論であって、そういえばカブラヤが引っ掛かったようなシーンは記憶にない。ただし、まっすぐ走らせるのが難しいのだ。後年、胆振種馬場でカブラヤ自身を見ているが、イメージとは違って非常に大人しい馬だった。気が悪いのではなく、「気難しい」というのが正しいのかもしれない。通常の逃げ馬であれば、テンの1000ｍをあれだけ飛ばして行ったら、途中で急激に13秒台にスローダウンしてラストで再加速などなかなかできるものではない。ところがカブラヤはそれができる馬だったのだ。それが証拠に、1000ｍまでのペースなら当然4年連続のダービーレコードになりそうなものだが、最終的な走破時計は2.28.0とレコードにはならなかった。途中ペースダウンしたからで、もしあそこで他の馬に来られて息を入れられなかったら、さすがにカブラヤでも苦しかったろう。事実ラスト1Ｆは13.3もかかって、右に左にヨレて一杯一杯だった。同世代にもっと強力な追い込み馬がいたら危なかったかもしれない。逃げ争ったトップジローは当然のように26着に大負け。レイクスプリンターと同じようにカブラヤの逃げ脚という凶器攻撃を受けて爆沈した。レイクスプリンターと違って命まで失わなかったのが幸いと言えば言い過ぎだろうか。<br>　このカブラヤオーという馬には、自身が悪い訳ではないが、自分に立ち向かって来た馬を不幸に陥れるようなところがあって、レイクスプリンターやトップジローの他にも、先にカブラヤと好勝負したり現実に先着したりしたテキサスシチーやダイヤモンドアイが、その後カブラヤの幻影に怯えるようなレースを繰り返したのは、偶然というには何とも奇妙だろう。<br>　こうしてレースを重ねる度に強さを加え、ライバルたちとの差を開いて抜群の強さで2冠を制したカブラヤだが、夏の間に屈腱炎を発症してしまう。現代の獣医学なら何とかなったかもしれないが、37年も前の話である。当時私は、ダービー直後にはカブラヤの三冠は苦しいだろうと予想していた。それはＮＨＫ杯のようなレースをすればともかく、ダービーのように無鉄砲すぎるレースをしていては菊花賞の3000ｍは無理ではないかと思っていたからで、後で登場するミホノブルボンが負けた菊花賞のようなイメージだ。しかし、現実にこの秋にコクサイプリンスの菊花賞を見た後では、「うーん、これならカブラヤが勝ったかも知れないなあ」と感じたものだ。まあ、こうした馬は実はけっこう多くいる。体調が整った状態で出ていれば、タニノムーティエもヒカルイマイも三冠馬となっていただろう。ムーティエの時のダテテンリュウも弱くはないが、完調ならばまだムーティエの方が断然上だろうし、ヒカルイマイはニホンピロムーテーには負けないだろう。<br>それでも、1年を経てカブラヤはカムバックを果たし、オープンとオープン特別ではあったが4戦し3勝を加えた。一度シンガリに惨敗をしているが、これはスタートでゲートに鼻をぶつけ、大きく出遅れてリズムを完全に崩したもので評価の対象とするべきではない。　<br>小さいレースではあるが、故障するとだいたいそのままか、ガビーのように1度使って惨敗することもある馬が多い中で、この3勝は関係者を称賛してよいと思う。この4戦のうち、先の3戦は菅野澄夫と赤羽が騎乗しているが、関係者によると、ケイコにはいつも菅原が乗っていたが、いくらかでも脚に負担をかけたくない。1Kでも軽い方がいいとの配慮で減量になる若手を乗せていたということだったが、3戦して状態が良くなってきたところで菅原が乗って最後となったオープンを勝ち、これならどうにか天皇賞と有馬を使えるのではという希望が見えてきたところで再発してしまった。最後のオープンでは62Kを背負って54Kのフェアスポートやトリデジョウなど、1年後輩の割合強いメンバーを一蹴しており、この世代最強のトウショウボーイ・テンポイントとやらせてみたかったが、完全な状態が無理なら夢に終わった方が良かったのかもしれない。<br>種牡馬となったカブラヤオーは、血統や生い立ちからは到底高い評価を得られるような状況ではなかったが、妹ミスカブラヤもエリザベス女王杯を勝って血統の優秀性を証明したこともあってか、自身も種牡馬としてエリザベス女王杯のミヤマポピーやダービー②着のグランパズドリーム、マイネルキャッスル、他にさすがにダートに強いからだろう。地方競馬にも活躍馬を多数輩出して、大成功とまでは言えないだろうが決して悪くない成績を残した。血統からは十分以上に健闘したと言えるだろう。グランパズドリームのダービー②着（勝ち馬はダイナガリバー）などは本当に惜しかった。<br>このレースは私の隣でカブラヤを神と崇める大日本鏑矢党の大山大五郎党首が一緒に見ており、「悔しいけど、田原の腕かなあ」（馬の実力というより当時天才ともてはやされていた田原が引きずって来たという意味）と言っていたのを思い出す。余談だが、私は今会社が東上線の常盤台なので、大山は通り道であり、よく飲んだり帰りに食事したりする。氏の「大山」は当時住んでいた大山から取ったものだ。おじいちゃんの夢はあと一歩。本当にもう一歩だけ届かなかった。<br><br>1975.4.13　2回中山8日目　8Ｒ　（曇・良）<br>第35回皐月賞　4歳牡牝定　2000ｍ　22頭（全馬牡4）<br>1　④10　カブラヤオー　　　　57　菅原　泰夫　　2.02.5　　①人気<br>2　①1   ロングホーク　　　　57　武　邦彦　　　2 1/2     ②<br>3　⑥14　エリモジョージ　　　57　福永　洋一　　1 1/2     ⑨<br>4　⑦19　ロングファスト　　　57　松田　幸春　　1/2       ⑤<br>5　③6　 ハクチカツ　　　　　57　小島　太　　　クビ　　　⑬<br>6　⑦18　ハーバーヤング　　　57　岡部　幸雄　　1/2　　　 ⑮<br>7　⑤12　イシノマサル　　　　57　増沢　末夫　　3/4　　　 ④<br>8　①2　 フサトロキノー　　　57　目野　哲也　　ハナ　　　⑪<br>9　⑥15　ダイフクミツ　　　　57　久保　敏文　　3 1/2     ⑦<br>10 ⑤13　ダイニセンザンオー  57  宮田　仁　　　2　　　　 ⑲<br>11 ②4　 ノワキタカ　　　　　57　坂本　恒三　　1 1/4　　 ⑩<br>12 ⑥16　タイフウオー　　　　57　大崎　昭一　　1 3/4     ③<br>13 ⑤11　オリオンタイガー　　57　古賀　正俊　　アタマ　　⑳<br>14 ⑦17　テキサスシチー　　　57　加賀　武見　　アタマ　　⑭<br>15 ③5　 スリーフラム　　　　57　郷原　洋行　　ハナ　　　⑥<br>16 ⑧20　ホシバージ　　　　　57　中島　啓之　　1 3/4     ⑧<br>17 ④8　 ハクサンチトセ　　　57　飯田　明弘　　アタマ　　⑯<br>18 ④9　 ハーバーシンセイ　　57　柴田　政人　　2 1/2     ⑰<br>19 ⑧22　オウプレス　　　　　57　赤羽　秀男　　1 1/4     ⑱<br>20 ②3　 ファイブワン　　　　57　津田　昭　　　1/2　　　 ⑫<br>21 ⑧21　ハードラーク　　　　57　菅野　昭夫　　1 1/4     22<br>22 ③7　 レイクスプリンター　57　押田　年郎　　大差　　　21<br>　単230　複130、130、580　　連①－④360<br><br>第8位<br>病床の父とミホノブルボン<br>1992年日本ダービー（ミホノブルボン）<br>　カブラヤのところで「重厚な逃げ」という表現をした。前章の追い込み編でも、「切れと斬れ」の話をしたが、逃げ脚にも「軽快な逃げ」と「重厚な逃げ」がある。前者は先に登場したサクライワイのようなスプリンター型に多い。後者はカブラヤとかここに登場のミホノブルボン、この後出てくるアイネスフウジンがそうだが、実は逃げ馬にはもう1種類あって、長距離を一定のペースで逃げる「ペース型」というのがあるのではないかと思う。この「ペース型」については後でこれ以上ないという見本のような馬が控えているのでそちらに譲るとして、ミホノブルボンを思うとき、私の脳裏には常に父が浮かぶ。<br>　私事だが、私の父は横倉氏や福沢氏も私の家に何度か泊っているので面識があるだろうが、特に幼馴染の平野氏などは親類同然で、平野氏は私がいない時に家に来て父と飲んでいたことがあったくらいだ。（私が徹夜仕事になってしまって帰れなくなったからだが）自分の父親をあまり持ち上げるのも何だが、人間的に尊敬できる人柄で、悪く言われることは全くなく、正義感と意思が強く、温厚であり非常な知識人だった。その父が体調不良を訴えたころ、ミホノブルボンが2歳チャンピオンになった。朝日杯までで3連勝。朝日杯ではヤマニンミラクルとハナ差の接戦になり、サンシャインの正月のセリでは、この2頭が偶然にも4億2500万という同額の当時SC最高額でセリ落とされた。しかし、同じ額ではあってもヤマニンミラクルの方は後にひどいことになるが。<br>　2歳終了時のミホノブルボンは評価が難しい馬だった。マグニテュードという種牡馬は非常な個性派であって、コンスタントではないが桜花賞馬エルプスのように、時折凄い能力を見せる産駒を出すことがある。ちょっと前ならテュデナムのような感じで、いわゆるワンホースサイアーではない。この時代はノーザンダンサー系が全盛のころで、朝日杯がハナ差ということもあって、満場一致で強いと思われる馬ではなかった。評価が固まったのは休み明けとなったスプリングSを、初めて逃げの手に出て7馬身差で圧勝した時で、この時は道悪だったが、有無を言わせぬ圧倒的な逃げ切りで、皐月賞の①人気を確定させる。このレースはブルボンがただ一度①人気にならなかった時で、①人気となったのはノーザンテースト全盛の時代だけに、血統と素質を買われていたノーザンコンダクトだった。<br>　2歳時のブルボンは、スプリングS以降のブルボンとは違っていて、逃げていた訳ではない。血統が極めて地味で値段も安く、調教では抜群の動きをするので評判にはなっていたのだが、朝日杯のハナ差から早熟のスプリンターという見方もあり、事実戸山調教師も、もしスプリングで惨敗でもするようなら皐月賞をやめて短距離路線に進むという発言をしていた。関係者も半信半疑だったのだろう。<br>　このころ、父の症状が悪化した。極端な病院嫌いだったのでかなり我慢していたのだが、どうしようもなくなって大きい病院で検査を受けたところ、本人にも、またショックが大きいので母にも知らせなかったのだが、どうも癌の可能性が高まってきて、入院後さらに詳しい検査をした結果が知らされたのが皐月賞のころだった。小細胞性の肺癌。肺癌には大別すると4種ある。扁平上皮癌・腺癌・小細胞癌・大細胞癌がその4種類だが、このうち最も悪性なのが小細胞癌で、当時読んだ専門書には、「日本国内では現在までに小細胞癌で1年以上生存した記録がない」と絶望的なことが書かれており、しかも骨髄に転移していて手術も不能。余命は半年程度と宣告された。<br>　競馬どころではなくなった。馬クラブ内の旅行関係は元プロなのでいつも私が全て段取りする。夏のセリは伊豆堂ヶ島温泉に決まっていたが、それに行くことも断念した。<br>　ダービーの日にも私は父の病室にいた。このころの父はまだあまり苦しむことはなく、私が持って行った歴史の本（社会系に強く、歴史や地理が好きな人だった）を一日中読んでいるような状態で、私に「こんなにゆっくりと時間をかけて自分の人生を考えてみる機会はなかったよ」と言っていたのを思い出す。私は父のベッドの横に置いてある14インチのテレビを点けた。ダービーのゲートインの時間である。「今日はダービーか」父は若いころには競馬も多少はやったらしいが、私が知る限りでは時々パチンコに行くくらいで、堅物ではないもののほとんどギャンブルはやらない。しかしダービーくらいはもちろん知っている。父と一緒に見ている画面の中を、ミホノブルボンが逃げて行く。ケレン味のない逃げである。ブルボンにしてもカブラヤにしても、こうした力任せの逃げを打つ馬は、並みの逃げ馬のように変にスローに落そうなどとはしない方がいい。ある程度のペースで行くことにより、後続が脚をなし崩しに使ってしまうからだ。鞍上の小島貞博は、ブルボンに出会うまでは目立たない中堅ジョッキーだったが、これが転機となりダービーを2勝する。そうした意味でもカブラヤオーの菅原のようなもので、カブラヤとブルボンには共通点が多い。一定の差を付けて快調に逃げるブルボンは、並ばれることなく直線に向き、そして難なく突き放した。圧倒的な4馬身差。②着には先行していた大伏兵ライスシャワーが粘り込み、前年からテスト販売されてダービーはこの時が最初となった馬連は3万近い万馬券となる。枠連では⑦-⑦のゾロ目だが、⑦枠のもう一頭が④人気のゴールデンゼウスだったため、枠では1370円しかつかない。導入直後から馬連の威力爆発となった。ハナ差の③着がマヤノペトリュースだった。父が「当たったのか？」と聞くので、私は「いや、今日は買っていないよ。買ってもこれじゃ当たらない」と答えた。父には癌を告知していない。病状を考えると馬券どころではないのだ。考える気にもならない状態だった。だが、そんなことは言えないので、たまたま買わなかったことにしておくしかなかった。<br>　夏の間、ブルボンが休んでいるとき、父は一度家に戻ってきた。末期癌の患者に対して、病院が必ずやることで、最後に少しだけでも家で過ごさせてやろうという配慮からだった。父は運動をしなければと言って、機械がなくなってがらんとした我が家の工場の中をぐるぐると運動のために歩いていた。我が家はシャーリングやプレスという金属板の加工をする町工場である。長男の私が放蕩無頼な人間だったので、弟が父と一緒に工場をやっていたが、この春、父の入院とともにその工場は閉業した。閉業時に得意先に告知する挨拶文は、私がワープロで打った。その文章を校正する父の胸に去来したものは何だったのだろう。本当は私が後を継いでいれば喜んだのだろうが、後を継げというようなことは一言も言われたことがない。これは弟に対しても同様で、子供には好きなようにさせてやろうという父親だった。<br>　秋となり、ブルボンは京都新聞杯に出走しこれを勝つ。その時父は病院に戻っていた。<br>三冠を目指しての菊花賞、この時はさすがに距離が苦しいだろうとの見方もあって、①人気ではあったがブルボン絶対の感覚はなかった。そして、夏の間に刺客も育っていた。ダービーで大穴を開けたライスシャワー。このころにはもう本当に珍しくなっていた前時代型ステイヤー。ダービーでは先行して粘り込んだが、本質は一時代前のタケホープとかメジロムサシに通じる古風な差し型ステイヤーのため、スピード上位の時代には成績がコンスタントにはならないものの大一番には極めて強く、また大物食いのマーク屋でもあった。ライスシャワーは直線入り口ではブルボンの直後に進出し、狙い澄まして差し切った。<br>　このライスシャワーも数奇な運命を持った馬で、このあともう一回、史上最強級ステイヤーのメジロマックイーンの春天皇賞3連覇を阻止する大仕事をやってのけ、さらに春天皇賞のタイトルをもう1回加えたのちに宝塚記念で倒れ、記憶に残る馬となる。<br>　いくら戸山流で鍛えられてはいても、ブルボンに3000はさすがに長すぎた。よく②着に我慢したものである。これがブルボンにとって最後のレースとなった。菊花賞後ＪＣを目指していたが、直前に不安が発生する。有馬も断念して回復を目指したが、骨膜炎に続いて骨折と、次々に故障してしまう。いわゆる戸山流の坂路を中心とした猛烈なスパルタ調教は、ブルボンを強くした反面で消耗もさせていたのだろう。1日坂路4本というのはいくら何でも、という気がする。<br>　私は戸山調教師と奥様には面識がある。1977年の第1回馬クラブ北海道ツアーの最終日、札幌競馬場で北海道3歳Ｓを観戦したが、その時勝ったのがラブリトウショウで、レース後藤正牧場の沼田場長に厩舎に連れて行ってもらい、ラブリトウショウを見たのだが、このラブリトウショウが戸山厩舎の馬で、馬房で戸山師と奥様にお目にかかりお話を伺った。ちょうど前を通りかかった武邦彦騎手が奥様に「おめでとう！」と大きな声をかけて、奥様が満面の笑みで「ありがとう！」と答えたシーンも懐かしい思い出だ。この時には馬クラブメンバーでは所氏や持田氏が一緒に戸山師と会っている。<br>　その戸山師は、ブルボンの菊花賞時すでに食道癌に冒されており、翌年ブルボンが休養中に亡くなった。ブルボンは鶴留厩舎に転厩したが、さらに松元茂樹厩舎に再転厩。しかしとうとう復帰はかなわず、さらに年が明けた1月に引退した。<br>　一方、私の父は菊花賞のころにはかなり悪くなり、苦しむことも多くなっていた。骨髄転移はかなり痛いらしい。担当医によると、「お父さんは我慢強い方ですね。かなり痛いはずなのですが」とのことだった。そうしたところは私も父に似ているようで、かなり痛みには我慢強い。ぶつけたり怪我したりしても、顔色ひとつ変えずにポーカーフェイスでいられるようなところがある。<br>　12月、私の中に金ではないいろいろな財産を残してくれて、父は逝った。父は煙草を吸っていたが、肺癌とはいうものの、担当医によると、父の場合喫煙と癌との関連はあまりないだろうとのことだった。酒は好きで、周りを楽しくさせるいい酒だった。たまに私が帰って一緒に飲むと、本当に楽しそうに話をする。まるではしゃぐようにして飲んでいた。そんな父と飲むのが、私も大好きだった。もし、どこかの神が一つだけ願いを叶えてやると言ってくれたら、私は「もう一度親父と酒が飲みたい」と要求するだろう。<br>　父も戸山師も逝ってしまったが、先頃また悲しいニュースが入って来た。小島貞博自殺。<br>ブルボンは牧場でこのニュースを聞いたのだろうか。<br><br>1992.5.31　3回東京4日目　9R　（曇・稍）<br>第59回日本ダービー　4歳牡牝定　2400　18頭（全馬牡4）<br>1　⑦15　ミホノブルボン　　　57　小島　貞博　　2.27.8　　　①人気<br>2　⑦13　ライスシャワー　　　57　的場　均　　　4　　　　　 ⑯<br>3　③5　 マヤノペトリュース　57　田原　成貴　　ハナ　　　　⑤<br>4　④7　 マチカネタンホイザ　57　岡部　幸雄　　4　　　　　 ⑧<br>5　⑧18　スタントマン　　　　57　角田　晃一　　3　　　　　 ⑥<br>6　①1　 カミノエルフ　　　　57　柴田　政人　　1 3/4       ⑭<br>7　④8　 ナリタタイセイ　　　57　南井　克巳　　1/2　　　　 ②<br>8　②4　 マーメイドタバン　　57　大塚　栄三郎　クビ　　　　⑮<br>9　⑥12　セキテイリュウオー　57　田中　勝春　　1/2　　　　 ⑦<br>10 ⑧16　ヤマニンミラクル　　57　河内　洋　　　ハナ　　　　⑨<br>11 ⑦14　ゴールデンゼウス　　57　岡　潤一郎　　1 1/4       ④<br>12 ②3　 サクラセカイオー　　57　小島　太　　　1/2　　　　 ③<br>13 ⑤10　アストロゲート　　　57　横山　典弘　　アタマ　　　⑪<br>14 ⑤9　 ホクセツギンガ　　　57　藤田　伸二　　2 1/2       ⑫<br>15 ③6　 ウィッシュドリーム　57　松永　昌博　　3/4　　　　 ⑰<br>16 ⑥11  ゴッドマウンテン　　57　安田　富男　　1/2　　　　 ⑩<br>17 ⑧17　ブレイジングレッド　57　村本　善之　　2　　　　　 ⑬<br>18 ①2　 オースミコマンド　  57  増井　裕　　　大差　　　　⑱<br>　単230　複150、1990、380　　枠連⑦－⑦1370　馬連⑬－⑮29580<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/umakurabu2012/entry-11331345999.html</link>
<pubDate>Sat, 18 Aug 2012 05:56:26 +0900</pubDate>
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<title>勝手にベストテン（3）逃げ切り編（２）</title>
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<![CDATA[ 第4・5位<br>1972年生まれは逃げ馬世代？<br>古馬で逃げに開眼したライバル2頭<br>ロングホークとエリモジョージ<br><br>80メートルの笑劇<br>1975年阪神大賞典（ロングホーク）<br>第4位というには馬の格から言うといささか格下だが、このレースを見せられた時の衝撃と笑劇は今も記憶に新しい。何しろものすごい逃げだった。3000ｍのレースでペースがひどく落ちるのは当然で、そこで力のある馬が思い切った逃げに出るとこうなってしまうのかというような恐ろしいレースだった。<br>　この1975年クラシック世代は、この後登場するカブラヤオーを大将に、このロングホークとエリモジョージ、牝馬ではテスコガビーと、後世で語られるような逃げ馬が多く出ている。しかし、最初から逃げていたのはカブラヤとガビーくらいのもので、ロングホークは今回取り上げた阪神大賞典までは普通に中団くらいから差して来る馬で、エリモジョージに至っては逃げるかと思えば、後で登場するカブラヤの皐月賞では中団から一気の脚で追い込んで③着となっているように、まだ逃げ馬としての素質を見せていなかった。<br>　ガビーのところでちょっと触れたが、この1975年クラシック世代は、牡牝それぞれカブラヤとガビーという強靭な柱があったが、全体の世代レベルはそう高くはなく、翌年のＴＴＧ世代が最強レベルの世代だったためにかなり邪魔されたこともあって、菅原泰夫の4冠以外の印象は薄い。朝日杯を勝ったマツフジエースが最低級の馬で、しかも持ち込みのためにクラシックにも出られないとあって、最優秀3歳馬は阪神3歳Ｓを勝ったライジンというテスコボーイの仔になった。しかしこの馬はすぐ故障してしまい（無事でもテスコの仔にしてはまるで大物感がなかった）中京3歳Ｓを勝ったロングファストとこのロングホーク、シンザン記念を勝ったエリモジョージなどが主力級だったが、実績と雰囲気で一番可能性がありそうなのはロングホークだった。ロングホークは弥生賞でカブラヤオーと初対戦するが逃げ切られる。しかし、この時にはまだ全然勝負にならないという雰囲気ではなく、「脚を測った」とさえ言えなくもない内容であった。ところが、デビューが遅かったカブラヤオーは１戦毎に違った強さを見せて行き、結局ロングホークは春シーズンにはカブラヤの相手にはなりえない。秋シーズンはカブラヤ不在の菊花賞だったが、⑤着と今ひとつのレース。ここ一番の勝負強さではダービー、菊花賞ともに②着のロングファストの方がむしろ上だったようだ。<br>　結局のところ、Ｇ1級ではあってもなかなかＧ1を勝ち切れない馬は世に多くいる。ロングホークもそうした馬の一頭には違いないのだが、この後ロングホークは生涯のピークを迎えて快進撃を開始する。中京でのレースとなった地方競馬招待レース（賞金は重賞級）で楽に抜け出し、次のレースとなったのが本題の阪神大賞典である。このレース、ロングホークは久保敏文に乗り替わる。久保は関西ではまずまず一線級と言っていいジョッキーで、思い切りの良さには定評があった。そして、この久保の思い切りの良さがロングホークに新境地をもたらす。<br>　メンバーに強力な先行脚質の馬もいなかったためか、最初から決めていたようにロングホークは逃げた。ラップタイムを見ても、当時の3000ｍのレースとしては最初の4Ｆくらいがいかにも早い。３コーナー、4コーナーを過ぎてスタンド前と、どんどん差が広がっていく。2周目1コーナーに入った時には、すでに何馬身などという表現では到底収まらなくなるような大逃げとなった。私も長い間競馬を見ているが、大逃げということなら間違いなくこのレースが一番凄かった。<br>スタンドからは驚きとも呆れともつかないような大歓声と笑い声が上がる。杉本アナも「どんどんどんどん差が開きました、差が開きました」と実況していたが、最も差が大きく開いたのは向う正面の中間あたりで、後日のマスコミには「100ｍあった」と表現しているものもあったが、あながちひどい誇張とも言えず、私がVTRの画面で測ったところ、最大差のあたりと思われるところで約5秒ちょっと。つまり大体80ｍくらいではないかと思われる。80ｍと一口に言うが、当時のダービーのような多頭数でTV馬が出てきて縦に長い展開になって、先頭からシンガリまでがだいたい5秒程度だろう。その差が先頭と2番手というのだから、これは確かに凄いものだった。向こう正面では15.0－14.2などというラップがあって驚くが、これはロングホークが息を抜いたところで、ここで一気に差が詰まっている。それはそうだろう。長距離のレースでスローとはいえ、普通のラップはまあ13秒台だろう。仮に2番手以下が13秒で走っていたとしても、ロングホークが15.0で走ったら1Fで2秒も詰まることになる。3コーナーで差は10馬身ほどに縮まったが、途中で十分息を入れて4コーナーを回るロングホークは余裕綽々。最後は流すようにしながら、なお7馬身差残して悠々と逃げ切った。杉本アナはこのとき「あまりにも楽に行かせすぎました。あまりにも楽に行かせすぎました。ただ一頭、悠々とゴールに向かうロングホーク」と実況している。②着にはサンチャイナが入り、ビクトリアCを勝っていた①人気のヒダロマンが③着だった。<br>　このレースで、ロングホークは逃げを覚える。日経新春杯を松田幸春で逃げ切り。オープンをはさみ大阪杯ではエリモジョージを先に行かせて2番手から早めに抜け出す。天皇賞前のオープンから鞍上に武邦彦が戻り、ここまでで6連勝を記録。普通この状態なら天皇賞の①人気は決まりなのだが、不思議なことに天皇賞での①人気は前年の菊花賞馬コクサイプリンス、②人気は前年の有馬記念馬イシノアラシだった。この2頭とも、この年になってから②着はあるが勝っていないのだ。関東のファンにロングホークの6連勝のインパクトが薄かったためだろう。これもまた現代ではあり得ない。<br>この天皇賞では、ロングホークは逃げない。というよりも武邦スタイルというべきか。武邦には一流ジョッキーとしてのこだわりとか、プライドとか道悪とかいろいろあったのだろうが、ロングホークは好位に控えるレースをする。そして結果としてだが、福永洋一のエリモジョージに逃げ切られ、エリモジョージがこのレース後に逃げ馬として大成するきっかけを与えてしまう。もしこのとき、何が何でも逃げに行ったらどうだっただろう。相手が洋一だけに、まさか洋一と武邦で逃げ争いして共倒れなどということはあるまいが。<br>　ロングホークはこの後逃げ馬として善戦を続けるが、阪神大賞典のような凄まじい大逃げを打つことはなく、この後勝ったのはオープンレース1勝のみ。着順掲示板には必ず残るのだが、いわゆる「善戦マン」になってしまって逃げ馬の割に勝ち味に遅く、秋の天皇賞でも逃げてG前まで粘っていたが勝ち切れなかった。この点では後記するが「気まぐれジョージ」と呼ばれたエリモジョージとは正反対である。<br><br>1975.12.21　5回阪神8日目　9R　（曇・良）<br>第23回阪神大賞典　4上別　3000ｍ　12頭<br>1　⑧12　ロングホーク　　　　牡4　56　久保　敏文　　3.08.3　　②人気<br>2　⑥8　 サンチャイナ　　　　牡5　55　松田　博資　　7　　　　 ⑤<br>3　①1　 ヒダロマン　　　　　牝4　51　武田　悟　　　2 1/2　　 ①<br>4　⑦9　 クラウンパレード　　牡5　54　飯田　明弘　　クビ　　　③<br>5　④4　 タイヨウウエスタン　牡4　52　南井　克巳　　ハナ　　　⑧<br>6　⑤6　 モアーキャッスル　　牡4　54　鹿戸　明　　　3/4　　　 ④<br>7　⑤5　 エースコスモ　　　　牝4　51　松田　幸春　　1 1/2     ⑨<br>8　③3　 ミリオンパラ　　　　牡8　54　戌亥　　　　　5　　　　 ⑫<br>9　⑦10　ユーモンド　　　　　牡6　54　福永　洋一　　2 1/2　　 ⑪<br>10 ②2　 タイホウシロー　　　牡7　54　井高　淳一　　1/2　　　 ⑩<br>11 ⑥7　 サチモシロー　　　　牡6  54  西浦　勝一　　ハナ　　　⑥<br>12 ⑧11　タニノムテキ　　　　牡5　54　小島　貞博　　ハナ　　　⑦<br>　単410　複180、370、180　連⑥－⑧900<br><br>気まぐれジョージ・一人旅へのプロローグ<br>1975年春天皇賞（エリモジョージ）<br>　ロングホークから同期のエリモジョージに話を移そう。エリモジョージも先に記したように最初から完全な逃げ脚質という訳ではなかった。要するに脚質がまだ試行錯誤の状態だったので、ロングホークの勝ったスプリングSでは大逃げを打ったかと思えば、カブラヤの皐月賞では馬群の中団から大外を一気に伸びて③着に善戦している。このとき複勝を取った記憶があるが、まるで追い込み馬のような脚だった。ある意味、この皐月の脚を見てしまったから、陣営も脚質を逃げに固定できなくなったこともあるだろう。また本格化していなかったことももちろんあるに違いない。4歳春、天皇賞に向かうジョージは池添兼雄の騎乗で大阪杯・鳴尾記念をともに逃げ粘って③③着で天皇賞に出走する。<br>　これまでの日本競馬史上、最も馬券を買うのが困難だった時代で、現代の馬券のスタイルの元になったいわゆる「ユニット券」が府中の指定席に限ってようやくテスト販売され始めたのがこのころだったが、馬場でも場外でもほとんどの窓口はバラ馬券。手売りでこそなくなっていたが、タイプライターのようなボタンスイッチを押して、「ガッチャンガッチャン」と出て来るあの馬券であった。私はこの天皇賞当日、後楽園場外に行って驚いた。当時も今の建物ではあったが、エスカレーターがすべて止まっている。そして、エスカレーターにまで人が並んで場外の外まで溢れているのである。これには全くまいった。私は2Rのころに着いたのだが、列はジリジリとしか進まない。3Rが終わり4Rも終わり、時間はどんどん過ぎていく。とうとう昼休みタイムまで突入して、馬券がようやく買えたのは2時間半後の午後1時。しかも、当時は単・複・連は全部窓口が別である。私はセントクレスピンのステイヤー血統ということもあってジョージを狙っており、単勝を買いたかったのだが、連を買うのに2時間半もかかっているのに、単勝の列はこれまた長蛇の列になっている。一旦並んだものの、見ていた専門紙でつまらないものを見てしまった。過去10年の天皇賞の記録。過去10年、勝った馬は全部①人気か②人気。人気薄の馬は②着はあるが勝ってはいない。「そうだよな、天皇賞だからな、格下じゃ勝つまでは無理か」と考えた。すると、となりの複勝の列は単勝よりもかなり空いている。単の列から複の列に並び替えてしまった。<br>　馬券人生に残る痛恨の並び替えである。ゴール前でテレビ画面のジョージを手で押さえて、「ロングホーク、差せえええ!」と叫んでもだめである。8190円の単勝は1000円ちょうどの複勝に姿を変えていた。もちろんジョージを狙っていたので連勝は取った。しかし、枠連の時代であり、ジョージのとなりにはあろうことかイシノアラシが同居していたのである。連の①－⑥はたった690円。複勝のおかげで取りガミこそ免れたが、トホホであった。杉本アナもこのレースはG前で声が出なくなってしまった。自分でやってみるとわかるが、競馬実況にもペース配分がある。最初でテンションを上げすぎるとゴールまで持たないのだ。<br>　閑話休題本題に戻る。ジョージはこのレースのあと宝塚記念に出走するが、鞍上が池添ということもあり、また天皇賞自体がフロック視されていて人気もなく、⑦着と逃げ潰れる。次にはなんと札幌の短距離Sに出走。これまた何度も書いているが、現代ではあり得ないローテーションである。3200の天皇賞を勝った馬を1200のダートになど使おうものなら、当節ネットでどれだけ叩かれるかわかったものではない。もちろんジョージは7頭立てのブービーに惨敗する。さらに函館に転戦しOP特別の巴賞で④着。なるほどここまでは天皇賞勝ちは完全にフロック。後のプリティキャストやイングランディーレと大差ない。しかし、ジョージの本領は次の函館記念からだった。60Kを背負っていることもあり、天皇賞馬が9頭立ての⑧人気。まあ当然の人気であろう。しかし、7馬身差のレコード勝ち。世に言われる「気まぐれジョージ」の誕生である。中央に戻って京都大賞典では別定56Kと斤量が軽くなり、前走で見直されて②人気となったが⑨着に惨敗。「なんだ、やっぱりだめか」と思わせておいて、次の京都記念はハンデ戦なので61Kを背負わされて⑤人気に落ちるが、またまたレコードで8馬身もぶっちぎる。「一体この馬何なんじゃ？!」と言いたくもなるだろう。勝つ時のパフォーマンスも物凄いが、負ける時には「そこらに来ない」。ついたあだ名が「気まぐれジョージ」。　<br>　最も輝いたのが6歳時で、京都記念を60Kで4馬身差、鳴尾記念を62Kで何と大差勝ち。さらに宝塚記念は5歳で春の天皇賞を制したグリーングラスに4馬身差もつけるなど、記念レースを3連勝。特に1歳年下でＴＴＧ３強の一角であるグリーングラスをやっつけた宝塚がベストパフォーマンスと言えるかもしれない。しかしそれ以外は④着というのがたまにあるが、多くは掲示板にも載らない。物凄いパフォーマンスも見せるが、負ける時はあっさりしたもので馬群に沈んでいく。一方ロングホークの方は勝ち切れないが掲示板には必ず載る堅実性があり、惨敗は最後のレースとなったホクトボーイの天皇賞だけだった。同期生で同じ長距離の逃げ馬でも、これだけ個性が違うのは面白い。一度この2頭の逃げ争いを見てみたかったと思うが、先に記したようにジョッキーが当時の関西を代表する二人ではそうしたことにはならなかっただろう。個性のある馬がいる時代は楽しい。これは競走馬に限らず、スポーツの世界もそうだし他の分野でも、こうした個性の強い曲者には固定ファンがつくものだ。ノーザンからサンデー時代を過ぎてあらゆる面で平均化されてしまった近代競馬だが、オルフェーヴルのように時々バカなことをやる強豪がいたっていいではないか。カブトシローやエリモジョージのような馬はいつの時代にも一頭や二頭はいてもらいたいものだ。<br><br>1975.4.29　3回京都3日目　9R　　（曇・不良）<br>第73回天皇賞　5上牡牝定　3200ｍ　17頭<br>1　⑥11　エリモジョージ　　　牡5　58　福永　洋一　　3.27.4　　⑫人気<br>2　①2　 ロングホーク　　　　牡5　58　武　　邦彦　　クビ　　　③<br>3　⑥12　イシノアラシ　　　　牡5　58　加賀　武見　　2 1/2 　　②<br>4　③6　 タイホウヒーロー　　牡5　58　田島　良保　　2 1/2　　 ⑧<br>5　②4　 ウエスタンリバー　　牡7　58　大崎　昭一　　1/2　　　 ⑦<br>6　⑦14　ヒダロマン　　　　　牝5　56　武田　悟　　　2　　　　 ⑥<br>7　①1　 イナボレス　　　　　牡8　58　宮田　仁　　　1 3/4     ⑨<br>8　⑧16　エースコスモ　　　　牝5　56　池添　兼雄　　2 1/2     ⑮<br>9　④8　 トウコウエルザ　　　牝6　56　嶋田　功　　　3　　　　 ⑤<br>10 ⑤9　 コクサイプリンス　　牡5　58　中島　啓之　　2 1/2     ①<br>11 ③5　 ロードカップ　　　　牡5　58　川端　義雄　　1/2　　　 ⑪<br>12 ⑤10　メジロジゾウ　　　　牝7　56　池江　泰郎　　1 1/2     ⑬<br>13 ⑦15　ロングファスト　　　牡5　58　松田　幸春　　1/2　　　 ④<br>14 ⑧17　グレイトファイター　牡5　58　久保　一秋　　2 1/2     ⑯<br>15 ②3　 スイートダルゴ　　　牡5　58　南井　克巳　　2　　　　 ⑭<br>16 ④7  シルバーランド　　　 牡6　58　高橋　成忠　　8　　　　 ⑩<br>17 ⑦13 ポットハヤテ　　　　 牡5　58　佐々木昭次　　1 1/2　 　⑰<br>消 ⑧18 スリーヨーク　　　　 牡6　58　出口　隆義　　（感冒）<br>　単8190　複1000、220、170　　連①－⑥690<br><br><br>第6位<br>究極のスピード女王<br>1974年スプリンターズS（サクライワイ）<br>単純な速さを論じるなら、なにより最初に名を出したい馬がこのサクライワイだ。サクライワイは生涯4重賞を勝っているが、中でもベストパフォーマンスなのは2連覇しているスプリンターズSの1年目である。この時記録した1.08.4という1200の日本レコードは、当時としては驚異的な時計であり、またこのレースのスタート後2ハロン目に記録された10.3というラップタイムは、この後実に20年余に渡ってハロンタイムの日本レコードであり続けた。このころから鞍上小島太とサクラの勝負服は切っても切れない関係となる。<br>　この時代は、日本競馬史上最も種牡馬がバラエティに富んでいた時代で、現代のようなノーザンテーストからサンデーサイレンスと、極端な血統集中による単一系統時代から考えると実に面白い時代であった。中でもスプリント系で幅を利かせていたのがザボス系であり、その中の代表格がサクライワイの父マタドアとサウンドトラックだったろう。サクライワイは2歳夏に札幌でデビューした。ザボスのような極端な早熟スプリント血統は、言わずもがな早くデビューさせなければ価値が半減する。年が明けて3歳になってからのデビューでは、「稼ぎ時」を大幅に失ってしまうのだ。良績も2歳時に集中するのは当たり前だが、サクライワイも当然のごとくデビュー戦を大差勝ちする。続けて北海道3歳Sに出走するが、この時にはスタートがうまく行かず中団からのレースとなって持ち味が生きず、カーネルシンボリの⑫着と大敗する。しかし、次に転戦した函館3歳Sでは道悪の中スイスイと泳ぎ回り、3馬身差であっさり初重賞をものにする。究極のスピード馬だが、サクライワイは道悪も非常にうまかった。この1973年の函館は雨が多く、しかも当時函館にはダートがなく芝だけなので酷使され、「史上最悪馬場」と酷評されるありさまで、この時のイワイの勝ちタイムは1.21.7。当時としてもほとんど1400に近い時計である。この次にオープンも勝ち3勝目。クラシックの出走権は完全確定する。しかし、朝日杯ではメンバーもかなり強く、⑧着と大敗した。笹針を打って休養したイワイは西下して桜花賞トライアルの阪神4歳牝馬特別（現フィリーズレビュー）でエビスオールの②着して本番を迎える。本番桜花賞では、休み明けながら誤差②着だった前走の内容が買われて①人気となるが、名手武邦彦に非常にうまく乗られたタカエノカオリにやられてしまった。内容的には決して負けてはおらず、何とも惜しいレースだった。ちなみにこのタカエノカオリは、ヴェンチアの仔で佐々木猛厩舎の馬だったが、これまで中央4場では走ったことがなく、福島や中京などローカルを転々としていた馬だった。中京の条件戦を勝った時に、たまたま中京にいた武邦彦がこの馬のレースを見て気に入り、厩舎関係者に「なかなかいい馬だが、桜花賞では誰が乗るのか？」と聞いたところ、「まだ決まっていない。良ければ乗ってくれないか」と言われて桜花賞の騎乗が決まったというエピソードがある。武邦彦は2年前アチーブスターで桜花賞を勝っていたが、アチーブスターもタカエノカオリも武邦彦だから勝てたというレース振りで、さすがに名手である。しかし、タカエノカオリは桜花賞後故障してしまい、関係者の判断で早々と繁殖入りしてしまった。それはともかく、この年の牝馬クラシックは桜花賞・オークスともとんでもない混戦だった。というのも、本来だったら桜花賞の鉄板本命だったイットーが故障して休養してしまい、フラワーCを勝ちオークスなら相当有力と思われたタマキジョーも骨折するなど、故障馬が非常に多かったからで、桜花賞などはイットーが出ていれば翌年のテスコガビーはともかく、それに近いくらいの圧勝をしたであろうことは確実だ。そうしたことからファンもオークス前に馬の選択に困ったのか、前日売りで①人気となったのは当時1勝級の200万下平場を勝ったばかりのトウコウエルザで、この馬が前日①人気と知るやファンは急激にこの馬を嫌い、当日は一気に⑨人気まで暴落し、代わりに①人気になったのが何とサクライワイ。前日売り①人気が⑨人気にまで落ちて、確かに出走馬中桜花賞最先着ではあるが、マタドアの仔が2400で①人気とは人気も迷走したものだ。もちろんサクライワイは直線まで先頭にいたもののズルズル下がって⑯着と大敗する。当たり前である。マタドアが2400など来る訳がない。<br>　結果トウコウエルザが勝ったのだが、前日①人気だったのに単勝は1440円もついた。トウコウエルザは条件上がりの大金星だったが、前日でも①人気にしたファンの見解は正しかった。フロックどころか実は意外な強豪で、この後クイーンSに続いてビクトリアCも勝ち、古馬になっても勝ち星こそ挙げられなかったが、天皇賞、宝塚ともに③着など、当時のクラシック牝馬としては珍しく、古馬となっても牡馬相手に互角に闘えた馬だった。特にビクトリアCでは、得意の道悪ではあったが豪快な大外ブン回し。ミトモオー以下を4馬身も置き去りにする凄いパフォーマンスを見せている。父パーソロンはカネヒムロ、タケフブキ、ナスノチグサに続きオークス4連覇。鞍上嶋田功はタケフブキから3連覇と、凄い記録のオークスになった。サクライワイは、この後3歳の身分で安田記念にも出走するが、直線まで先頭をキープしたものの一杯になり⑬着。前年のスプリンターズSを勝っていた快速の逃げ馬キョウエイグリーンが、出遅れから一気の追い込みを見せてファンを驚かせた。このレースもなかなか素晴らしい名勝負だった。<br>　サクライワイはこのあと新潟の1200のオープンに出て、当時の一級スプリンターであるシカゴを振り切りレコード勝ち。クイーンSに出走したが、やはり2000は長すぎて前出トウコウエルザにまた負ける。こうして書いていると、当時の事情を知らない若いファンなどは、「昔の調教師は距離適性が全くわかっていなかったのか」と考えるだろうが、全然わかっていなかった訳ではなく、当時は番組が現代のようにできていなかったことも大きい。距離適性や馬場適性が合っていなくても、それなりに使ってしまった時代なのである。<br>　そしてスプリンターズSを迎える。スプリンターズSはG1になってから年末に行われた時代もあったが、やはり早い時計の出る時期の方が望ましいだろう。スピード王決定戦なのである。この年のスプリンターズSにはいいメンバーが揃った。サクライワイの他にシカゴ、ブルームーン、ニシキエース、キャッシュボア、レスターホースなど快速揃いで、その血統もマタドア、ミンシオ、サウンドトラック、サミーデイヴィスと当時の快速系が勢揃いしており、スプリンターではないが前年の桜花賞馬ニットウチドリの名もあった。惜しかったのは前年の覇者キョウエイグリーンが当日取り消したことだろう。<br>　①人気はニシキエース。この年の3歳で、春はオープンの裏街道を歩んでいたが、そのオープンレースでは大差をつけて勝つことが多く、スピード自慢のメンバー中にあっても上位であろうと見られていた。しかし、後で考えるとニシキエースはスピード馬ではあるが、スピードの質がマイラーのものでスプリンターではなかったのだが。<br>　スタートではニシキエースがやや出負けする。やはりスプリンターとしての資質のうち、どうしてもスタートは大きい要素で、この時代に多くいたスピード馬でも、このニシキエースやミホノフォードは快速馬ではあるがスタートに少々難があった。そこへ行くとサクライワイは天性のスプリンターである。目の覚めるようなロケットスタートで大外から飛び出した。中山の1200というコースは、内外の有利不利がほとんどなく、どうかすると外枠のほうが良く来るくらいで、これもイワイにとってはラッキーな面ではあったのだろう。2ハロン目に当時のハロン日本レコード10.3を記録して、イワイは快調に逃げ脚を伸ばす。直線では内からキャッシュボア、外からブルームーンが追いすがって来たが、イワイは全く次元の違う逃げで一目散にゴールを駆け抜けた。1.08.4は当時有数の快速馬であるキシュウローレルが持っていた日本レコードを一気に1秒縮める驚異的なものだった。キャッシュボアが内をうまく立ち回って②着。鞍上は内を立ち回るうまさなら当代無類の名人であった中島啓之である。シカゴが間を割って③着、④着はブルームーンで、ニシキエースは大外を追い込んだが、前が止まらず⑤着までだった。<br>　場内はサクライワイのスピードに驚嘆していた。この時計は非常に速い。1974年前後が日本の競馬史上スプリンター系種牡馬が全盛だったころで、仮に距離が持たなくとも、これらの快速馬たちがレースを引っ張るために、中距離のレースでも総体的にレースの流れは早くなる。これがレースのレベルを引き上げることになって、この時代にはレコードが次々に書き替えられた。反面、スピード優先の厳しい流れが多く、レコード近い時計でいつでも走らなければならないので馬への負担は大きく、このため故障が非常に多い時代でもあった。サクライワイはこの後も一流スプリンターとして大活躍をする。成績はどうしてもムラになりがちだったが、4歳時の安田記念はアイアンロング以下に4馬身差の逃げ切り。さらにダートだが札幌のオープンレースで自身3度目のレコードを記録してスプリンターズSに出走。今度は昨年②着のキャッシュボアを先に行かせてG前で差し切り連覇を達成する。先に行っても勝てなかったキャッシュボアの中島啓之は「どうしてもサクライワイには勝てない。あの馬がいなかったら一体いくつ勝てるんだろう」とレース後に嘆いている。引退後、当然繁殖入りしたサクライワイだが、やはり母となるとブルードメアがスプリンターというのは思わしくない。サクライワイに限らず、同じマタドアの傑作キョウエイグリーンや、この時代にともに走ったライバルたちも、ザボス系スプリンターを父に持つ繁殖牝馬はみな成績が悪かった。中でもマタドア牝馬の仔は全くと言ってよいほど走らない。サクライワイやキョウエイグリーンの仔が走らないのだから他は推して知るべしだろう。詳しく調べてはいないが、私の記憶ではマタドア牝馬の仔で重賞を勝ったのはマイラーズCを勝ったコンサートマスター一頭だけではないかと思う。<br>　現代では、こうしたスプリンター系種牡馬はほとんどいない。土着のサクラバクシンオーはスプリンターと呼べるが、テスコボーイ系であり、それももう消えかかっている。<br>もうあのようなスピード時代は来ないのだろうか。<br>1974.10.6　4回中山8日目　9R　（晴・良）<br>第8回読売杯スプリンターズS　4上混別　10頭　　　　　　　　　　　　　父<br>1　⑧10　サクライワイ　　　牝4　52　小島　太　　Ｒ1.08.4　③人気  　マタドア<br>2　①1　 キャッシュボア　　牝4　51　中島　啓之　　2　　　 ⑥　　　  レベルコ<br>3　③3　 シカゴ　　　　　　牡5　55　柴田　弘之　　アタマ　②　　　　ミンシオ<br>4　⑥7　 ブルームーン　　　牡4　53　清水　利章　　クビ　  ⑨　　　チャイナロック<br>5　⑧10　ニシキエース　　　牡4　53　小林　常泰　　クビ　　①　　サミーデイヴィス<br>6　⑤5　 サンポウ　　　　　牡5　55　安田　富男　　クビ　　⑤        ナディア<br>7　⑥6　 ニットウチドリ　　牝5　55　横山　富雄　　1/2　　 ⑦　　　　ダラノーア<br>8　⑦9　 エビスオール　　　牝4　51　坂井　千明　　3/4　　 ⑧　　サウンドトラック<br>9　⑦8　 メグロガッサン　　牝4　51　柴田　政人　　3 1/2　 ⑩　　　ソヴリンロード<br>10 ②2　 レスターホース　　牝4　51　郷原　洋行　　4　　　 ④　　サウンドトラック<br>消 ④4　 キョウエイグリーン牝6　54　東　信二　　　　　　　　　　　　マタドア<br>　単530　複190、200、170　連①－⑧1280（このレースは文中の意図から父馬を表記する）<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/umakurabu2012/entry-11331345815.html</link>
<pubDate>Sat, 18 Aug 2012 05:53:26 +0900</pubDate>
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<title>勝手にベストテン（3）逃げ切り編（１）</title>
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<![CDATA[ 勝手にBEST10　第3章　逃げ切りレース編<br><br>まえがき<br>　前章の追い込みレース編は29ページにもなってしまい、読むみなさんも大変だったろうと思うのだが、反響がけっこう大きく、次回は逃げ切りと書いたら、多くのメンバーから逃げに関してのご意見をいただいた。読んでもらえたものだなと感心？している。やはりオールドファンですな。まあ、読みたくない人もいると思うが。今回たぶんもっと長いし。<br>そこで今回の逃げ切り編だが、まず今回のタイトルはBEST10のままにしてあるが、10ではなく12である。レース選択の段階でどうにも絞り切れず、あまり悩むことなく早々と10に絞るのは無理と覚悟を決めて12にしてしまった。それでもまだ入れたいレースはたくさんある。みなさんに寄せられた意見の中にも、「逃げ切りはインチキがあるから」というような話がいくつかあった。<br>私自身がプリティキャストやイングランディーレはインチキ天皇賞馬と日頃から公言してはばからないので、もちろんそんなインチキレースは入れる訳もない。競馬史に残るレースや語り草になるレースばかりを集めたつもりでいるのだが、見解の相違はご容赦願いたい。第1章にした名勝負編は記述がうんと短かったが、第2章では長くなるのを構わずに、対象となった馬の名馬物語的要素も加えており、これがオールドファン諸兄に好評だったようなので、このスタイルは踏襲して、長くなるのは気にせずにレースだけにとどまらず、対象となる馬自身のことも書いて行こうと思っている。おそらく40ページくらいにはなるだろう。これまで同様、馬年齢は本文中が新表記だが、レースの記録やレース名等は当時のものをそのまま記述するのでご理解いただきたい。<br><br>第1位<br>近代競馬の象徴・世紀の6頭立て<br>1977年宝塚記念（トウショウボーイ）<br>私がトウショウボーイを選ぶと、「やっぱりなー」とか言われそうだが、このレースは正真正銘、近代競馬というよりも、当時においての次世代型競馬の象徴である。その理由はこれから述べるが、後にも先にも、たった6頭でこれだけ充実したメンバーが揃った例など歴史にない。前年の三冠レース勝ち馬が揃い、このうちトウショウボーイは前年の有馬記念馬でもあり、さらに直近の天皇賞馬2頭と、この後秋の天皇賞馬となるホクトボーイ。究極のメンバー構成で争われるレースはもう見ることができないだろう。このような場合、「普みの馬」が出ていない小頭数であることがむしろこのレースの価値を引き上げている。<br><br>　前年暮れ、有馬記念を制して年度代表馬となったトウショウボーイは（以下は私流にボーイと記す。私がただボーイと言ったらトウショウボーイに決まっているので）当時としては当たり前のことながら、距離適性を考えずに天皇賞を目指していた。ところがここで一頓挫および二頓挫。前年有馬のレコード激走の疲労に加えて深管に骨瑠が出たり、少し良くなって西下しようとしたら今度は肩に不安が出たりして、結局天皇賞は回避を発表した。この天皇賞回避のニュースが流れた直後の水曜日の会で、当時のメンバーにずいぶんと慰められた。不向きな距離の天皇賞のことなので、私自身はそんなに落ち込んでいた訳ではない。ダービーや札幌記念で負けた時の方が余程キツイ思いをしていたので。<br>　一方、テンポイントは当時としてはやや間隔を開けて、4歳時は京都記念からスタートした。ここでは前章のハードバージのところでちょっと名前の出たホシバージ相手に完勝したが、着差はクビ差。それは次走の鳴尾記念でも同様で、ケイシュウフォード相手に着差はクビ差。杉本アナの「テンポイント、テンポイント、天皇賞へ、王手!」というあのフレーズである。しかし、鹿戸は一杯に追っているし着差は僅かではあっても、レースを見ていて危ないなと感じるシーンはなく、1年前のスプリングSでメジロサガミを相手に同じクビ差で苦戦した時よりはだいぶ安心して見ていられた。思うに、テンポイントという馬は何度か競走馬としての変身をしている。第1期が2歳時の3戦で、新馬、もみじ賞、阪神3歳Sといずれもぶっちぎり。ここは天才肌だが、そこで一旦成長が止まり、3歳春は苦戦する。このあたりが早熟の天才でこれが第2期。ダービーでの軽い骨折の後、秋の京都大賞典③着の「これで十分だ、テンポイントはこれで十分だ!」から宝塚までが第3期、この時点で普通の名馬級。そして、ここが大事なのだが、多くのメディアの論調や、テンポイントを記述した書籍の大半では、テンポイントは3歳夏を越して成長したとする記述が多いが、実際には3歳夏の成長と4歳夏の成長では比較にならないほど4歳時の方が凄かったと私は思っている。3歳夏の成長が100としたら、4歳の夏は200も300も成長している。夏を越して初めて出てきた京都大賞典では、63Kを背負って逃げの手に出て8馬身差。「これは凄くなってきたな」とはTVで観戦していて感じたが、何と言っても驚いたのは有馬の前に出てきた府中のオープンのパドックを見た時で、この時は後に登場するロングホークを相手に全く遊んだ逃げ切りをやって、このレースも京都大賞典もともに今回の逃げ切りBEST10の候補になっていたのだが、このレースのパドックでテンポイントを見た時には信じられないような気分になった。後記するが、今回主題の宝塚記念は現地でパドックをじっくり見ているので、テンポイントの前走時の馬体はよく知っている。宝塚記念時のテンポイントは、それは3歳春のひ弱なムードがあった頃とは違っていたが、まだ物凄い馬という感じはしなかった。ところが、この秋のオープン時のテンポイントの変身振りといったらそれはもう凄いもので、私はいつもこの件では「テンポイントは栗東でボディビルをやっていた」と表現するが、実際に重量負荷をかけるようなトレーニングをしていた。まさに筋骨隆々とはこのことで、3歳春の東上時とは全く別の馬になっており、この夏以降が第4期となる。テンポイントには4種類の競走馬パターンがあったのだ。しかも、この完成期のテンポイントは、2～3歳の頃より首が低くなり、走行フォームまで変わってきている。首の低さはボーイの専売特許のようなものだが、有馬記念の1～2コーナーで馬体が合ったときなどは、ボーイとそう違わないくらい低くなっている。この首の低さの話になると後で登場するタニノチカラもそうで、この3頭の共通項は、本質的な逃げ馬ではないが、完成期にはスピードの違いと安全策のために逃げて、しかも斤量を背負いながら後続に影も踏ませぬ圧勝ができるという、通常の名馬レベルを超越したメモリアルクラスであるということだ。馬の強さには限りがない。シンボリルドルフの日経賞や二回目の有馬記念を思い出してもらいたい。一流馬でも、あるレベルを超えないとこうなれないのだが、テンポイントは今回の本題である宝塚の時点ではまだそこまでは至っていない。と言うよりも、後に関係者の話を聞くと、この宝塚は今度こそボーイに雪辱できると自信満々だったようなのだが、それでも（しかも不安上がりの）ボーイに逃げ切られてしまった。このため、打倒ボーイに異常なまでの執念を燃やした陣営は、夏の間栗東にテンポイントを置き、通常より5kgの負荷をかけた調教を連日続けていたのだという。また、この後に予想される斤量との闘いを考慮したこともあったろう。こうしたことをすると故障してしまう馬もいるのだが、テンポイントはそれに耐え、「ムキムキの筋肉テンポ」に生まれ変わったのだ。　<br>つまり、あの有馬記念の歴史的名勝負は、この宝塚記念でのテンポイントの敗戦があったればこそ。このトレーニングをしていなければ、有馬でもまた負けていたかもしれない。しかし、この時のトレーニングが関係者に斤量克服に対する過剰な自信を与え、それがあの酷量の日経新春杯66.5Ｋでの出走となったとしたら、これは悲しすぎる話だが。<br>　一方、グリーングラスはというと、菊花賞後、有馬記念は使わず年明けにＡＪＣ杯に出走してきた。この間、巷ではグリーングラスの菊花賞勝ちがフロックではないかと物議を醸していた。実際私も有名なボーイのデビュー戦でボーイと当たっていたのでグリーングラスはデビュー時からよく知っていたが、菊の時点で世間一般的には無名も同然のグリーングラスに勝たれたので心中まったく穏やかではなく、淀から帰って以来2週間、馬クラブの水曜日の会も休んで菊花賞の分析に没頭していた。（当時の週刊「馬」誌の馬クラブのページにも私が山籠りしていることが掲載されている）<br>一体何をしたかと言うと、どうやって分析したかは長くなるので詳しくは語らないが、菊花賞のレースラップをベースにグリーングラス個体のレースラップを推定算出したのだ。その結果、恐ろしいことがわかった。通常、3000ｍの菊花賞や3200ｍの天皇賞では、ペースが当然「中だるみ」になる。言ってみればここで息を入れる訳で、この中だるみが大きいほどスタミナのロスが少なくなり、長距離型の馬でなくても距離をこなせるようになる。典型例がこの2年前のキタノカチドキで、菊花賞は3000ｍのレースなので、ちょうど1000ｍで3分割できる。このカチドキのときの1000ｍラップは62.4－67.6－62.3で走破時計は3.11.9。（良馬場）もちろん逃げたヤマトバーボンのラップだが、カチドキは道中ほとんど位置を変えていないので、カチドキ自身の1000ｍラップにもそう極端な違いはないと推定できる。中の1000ｍが前後より5秒も遅い。これだけ凄い中だるみがあって、カチドキのラスト1Ｆは13.9とバタバタ状態なので、やはりカチドキという馬は長距離を走る馬ではない。相手が弱かっただけである。<br>この反対に中だるみが少ないとスタミナ勝負になり、距離適性不向きの馬は淘汰されてステイヤー系の馬が台頭する。グリーングラスのラップは凄い。レース全体の走破時計3.09.9（重馬場）に対して1000ｍ分割ラップがレース全体では61.3－64.7－63.9。これでもカチドキの時より2秒以上中だるみが少ないのだが、グリーングラスは最初後方にいながら、中間の1000ｍで一気に差を詰めて、2000ｍ通過の地点では好位に上がっている。このため、グリーングラス自身の推定3分割ラップは63.2－63.3－63.4という完璧な平均ペースになる。これは強いステイヤーにしか絶対にできない芸当である。フロックなどであるはずがないのだ。全体の時計でも重馬場のグリーングラスの方が良馬場のカチドキの時計より2秒も早いし、レースのレベルは比較にならないくらいグリーングラスの時の方が上である。この話は当時馬クラブ水曜日の会（当時は火曜日ではなく水曜日だった）で当時の主なメンバーに話したが、ひとり持田氏が「ふ～ん、そりゃ凄いな、完璧だね」などと興味深く聞いていたのを思い出す。<br>　それが証明されたのがこのＡＪＣ杯だ。グリーングラスは最終的に3つのＧⅠと2つのＧⅡを勝っている。（注・グレード制導入前なので、正しくは「ＧⅠ級」と記すべきだろうが、馬クラブはそんなだるいことはしない。昔からＧⅠ級ならＧⅠ表記でよい。要はその当時ＧⅠ級であったかＧⅡ級であったかが肝要である）3勝しているＧⅠのうち、特に3強直接対決を制した菊花賞をベストパフォーマンスに挙げるべきだろうが、実際のレースでグリーングラスが一番凄いパフォーマンスを見せたのはこのＡＪＣ杯だと思う。このレースも第一章の名勝負編の候補レースで、通常絶対にしてはならない府中の3角まくり。それをスローペースならばまだしも、時計の出にくい1月のレースでレコードが出るようなペースなのである。その早い流れに自ら乗り入れ、3角からまくりに出て4角先頭。負けたら安田は降ろされても文句は言えまい。それでいながら、一時は府中の帝王だったヤマブキオーと前年の天皇賞馬アイフルの「おともだちコンビ」に2馬身半という決定的な差をつけて完封したのである。こんなレースは、ＧⅠ級どころか名馬級の馬にしかできないレースだろう。このレースでグリーングラスの実力は完全に証明された。<br>しかし、グリーングラスにもアクシデントが発生する。あまり聞く話ではないが、古馬になってこの時期に「歯替わり」が始まって、（虫歯という説もある）これが原因でカイ喰いが落ち、ハミ受けも悪くなってしまったのだ。馬も人間が乳歯から永久歯に替わるのと同様の歯替わりはあるが、通常は3歳時に終わってしまう馬が多く、古馬になって4歳春というのは珍しい。それが原因かどうかまではともかく、目黒記念ではカシュウチカラに差されて天皇賞でも④着と不完全燃焼。天皇賞では歯の影響でハミ受けが悪いのか珍しく掛かり気味になっていて、ベストの状態だったとは言い難い。もし完調であればこの時のテンポイント相手だったら、②着クラウンピラード以下との着差比較からも、グリーングラスなら十分勝てたシーンもあったはずだ。しかし、このあと1か月ちょっとの間に歯の問題が治まったのか、宝塚記念にはかなりいい感じで出走してきた。<br>　1977年6月5日、私は当時の馬クラブメンバー、高田東士生さんと西下した。この当時まだ宝塚記念は全国発売ではなく、馬券は名古屋から西に行かないと買うことができない。<br>全国全場どころか、携帯電話やネット購入をはじめ、競馬場でもばんえい競馬のレースまで東京で買える現代からすると隔世の感があるが、このころは関西で買いたいレースがあっても買えなかったのである。だから、関東のファンにしてみると、西のレースが関東馬同士で決まって好配当になると、「何でそんなにつくんだよ～」となる。もちろん関西のファンから見て逆の立場に立つこともあるだろう。例を挙げると、この前年の高松宮杯でフジノパーシア→ヤマブキオーと入り枠連910円というのは、関東のファンにしてみると鉄板レースも同然で、詐欺に等しい高配当だ。（ちなみに①人気はロングファスト）<br>　この日のパドック、ボーイは例によってのんびり、トボトボと歩いている。「しめた!」である。ボーイのパドックに関してはいろいろな機会に書いているし、酒飲み話に何度話したことか知れないが、この馬ほどパドックでおとなしいほど結果がいい馬はまず見たことがない。気合無用。いわゆる「牛」の状態が理想なのである。これも何度も書いているが、ボーイは気性の激しい馬が圧倒的に多いテスコボーイ産駒の中にあって、一頭異常なほど「おとなしく手がかからない」馬である。私はボーイのレースは15戦すべて当日現場で見ているが、パフォーマンスの凄かった時ほどパドックでは「牛」だった。逆に今日はいくらかうるさいかな？と感じたダービーや菊花賞では結果が良くない。一番のんびりしていたのが、前日ホクトボーイがムーンライトＨで出したコースレコードを一気に1秒更新して、日本レコードをも1秒更新した神戸新聞杯とこの宝塚記念だったと思う。<br>　また、ボーイは歴史上最高と言っていい「鉄砲」の名手である。とにかく休み明けに強い。これは、調教でべらぼうに動くタイプであることと無関係ではないだろう。ボーイの調教横綱ぶりは半端ではないもので、神戸新聞杯前に栗東入りしたボーイ陣営が併せ馬の相手を探したところ、ジョニーエンジェルという馬が名乗りを上げてきた。この馬は当時栗東の併せ馬で一度も先着を許したことがないという調教大将で、関係者は「トウショウボーイがどのほどのものか知らないが、調教では負けっこない」と豪語していた。ところが、併せたところ全く話にならない。ボーイは馬なりのままジョニーエンジェルを置き去りにした。ジョニーエンジェルの関係者は、「今日に限って何でこんなに動かないんだ？」と思ったそうだが、時計を見せられて口をあんぐり。ジョニーエンジェルはいつも通りのタイムで走っていたが、この時の時計は栗東開場以来の調教レコードで、この2年前の春天皇賞当時、西下したハイセイコーとストロングエイト（ともに当時の調教横綱）が併せた時のタイムを凌ぐ物凄いものだった。ボーイのテッポー駆けは、新馬初戦を含めて神戸新聞杯・宝塚記念・日本レコードの中山のオープンと、4戦4勝すべてが物凄いパフォーマンスであることからも伺える。私はパドックを見てもう勝った気になっていた。<br>　レースは全く淡々としたもので、他に逃げ馬もいないことから、ハナを切ったボーイはゆっくりと逃げた。実は、当時としてはそんなに凄いスローではなく、平均ペースくらいの流れなのだが、そこはこれだけのメンバーが揃っているので、普通の馬なら平均でも凄いメンバーならスローの感覚になる。ボーイやテンポイントにとっては何でもないようなスローペースということだったのだろう。馬順もほとんど変わることなく、4コーナーから直線へ。テンポイントは一旦並ぼうとしたが、例え不安上がりではあっても休み明けの方がいいくらいのボーイは余裕綽綽で突き放す。テンポイントはもう一度差を詰めて、あと100ｍくらいでまた並びかけたが、ボーイは再度突き放して3/4差でゴールとなった。奇しくも、半年後の有馬記念で順が逆転しての着差と同じである。上がりは34.5。現代では33秒台さえ普通に出るが、この当時2200ｍのレースで上がり34.5というのはまず考えられない数字である。このため、スローな流れにも関わらず、全体の走破時計は2.13.0で、当時のレコードと0.7秒しか違わない。やはり2200ではボーイやテンポに対しては分が悪いが、復調グリーングラスが4馬身差ながら③着に頑張り、④着アイフル以下はさらに6馬身離された。アイフルも決して弱い天皇賞馬ではなく、むしろ天皇賞制覇後に何もしない馬が多い当時の天皇賞馬としては、天皇賞後の実績も上級レベルであるが、ＴＴＧ３強の強さは全く別格のものだった。<br>　一見、実につまらないレースである。ところが、翌日発売された週刊「馬」には、淡々としすぎていて上がり34.5。しかしこれが近代競馬なのだろうと論評されていた。この記事はだれが書いたのだろう。猿田さんではなさそうで、たぶん沖田さんか、関西の人なのか、この論評をした人は良くわかっていたんだなと思う。その通りである。これが後の時代のレーススタイルになった。それだけボーイやテンポは時代の先を行っている存在だったのだろう。<br>　このメンバー中、この時点で唯一頭だけビッグタイトルを持っていなかったホクトボーイは、この秋にボーイ、グリーングラスを破って天皇賞馬となり、結果この宝塚記念は世紀の6頭立てとして競馬史に名を残すことになる。翌年淀で倒れるテンポイント以外の5頭はみな種牡馬となったが、ボーイとグリーングラスはすでに名勝負編で記した通り。アイフル、ホクトボーイ、クライムカイザーの3頭は、当時の内国産種牡馬としては当然のようにほとんど実績らしいものを残していない。<br>余談だが、馬券は大勝だった。私に言わせればむしろ買わなければいけない休み明けのボーイが、それをよくわかっていない関西のファンに嫌われて関西馬のテンポイントにかぶったため、たった6頭立てなのにボーイの単は420円もついた。これは関西でしか馬券を売っていないからで、現代ならばこんなオッズには絶対にならない。関東のファンはボーイが休み明けに強いのを十分知っていたし、現代ならば情報量が違うので関西のファンも当然それを知っているだろう。連の440円もたまらんくらいおいしい馬券である。（連はテンポとグリーングラスの③－⑥が①人気）私がボーイの単3万、連3万、高田さんも単5万、連2万くらい取って、（二人ともえらく馬券は多額に買う）二人とも20万くらい儲かった。週刊「馬」での呼びかけに来場してくれた関西在住の野田さん、坂口さん（坂口さんは田渕さんの知人）を無理やり梅田まで付き合わせて、梅田でパーティー（もちろん私と高田さんで奢り）のあと、帰る新幹線はグリーン車。至福の時を過ごした。<br><br>1977.6.5　3回阪神6日目　9Ｒ　（晴・良）<br>第18回宝塚記念　5上　混　別　2200ｍ　6頭<br>1　2②トウショウボーイ　　牡5　55　武　邦彦　　2.13.0　　 ②人気<br>2　3③テンポイント　　　　牡5　55　鹿戸　明　　　3/4　　　①<br>3  6⑥グリーングラス　　　牡5　55　安田　富男　　4　　　　③<br>4　4④アイフル　　　　　　牡7　55　嶋田　功　　　6　　　　④<br>5　1①ホクトボーイ　　　　牡5　55　久保　敏文　　2　　　　⑥<br>6　5⑤クライムカイザー　　牡5　55　橋口　満朗　　クビ　　 ⑤<br>単420　複230、110　連②－③440<br><br>第2位<br>華麗に、やんちゃに、美しく<br>キャンギャル・ガビー天空を舞う<br>1975年桜花賞（テスコガビー）<br>前章の追い込みレース編で、タカイホーマのことを書いた。ホーマが生きていたら、たぶん繁殖牝馬として後世に名を残していただろうが、そのホーマよりももっと惜しかった馬がいる。テスコガビー。雪の青森で調教中に倒れたこの稀代の天才ギャルは、あらゆる面から繁殖としての素質も並でないものがあったと思う。前章トウメイの項でも記したが、ウオッカやダイワスカーレットやブエナビスタがいくら強くても、馬クラブにおいて「スピードのガビーと力のトウメイ」が永遠の二大名牝であることに変わりはない。私はこのレースの馬券は外れたのだが、馬券を外したレースであるのにもかかわらず、このレースは何度ＶＴＲを見ても爽快感しか残らない。美しく、速く、強くそしてカッコいい。ガビーは未来永劫私のアイドルだ。<br>ガビーの年は、種牡馬ファバージが日本で初産駒をデビューさせた年で、夏のローカルの新馬戦でファバージ旋風を巻き起こしたことは、前章でホシバージなどの名を出して書いている。一方テスコボーイは前年のカチドキに続いてこのガビー。翌年はトウショウボーイと3年続けてスーパースターを輩出し、トップ種牡馬の地位を固めつつあった。つまり、プリンスリーギフトの時代が急加速してきたのがこの頃である。ガビーは、こんな事は説明の要もあるまいが、カブラヤオーらと同じ1975年クラシック世代である。この世代の馬で最初に名を売ったのが、北海道3歳S（現：札幌2歳S）を勝ったプロスパラスで、この馬が勝った北海道3歳Sを最後に札幌競馬場は改修に入り、それまでの左回りが右回りに変更される。当時札幌にはダートしかなく、芝が設置されるのは遙かに後の1989年になってからだ。プロスパラスはプリメラの仔で、中央場所に戻ってから中山のオープンをちぎって楽勝し、京成杯3歳Sに向かう。<br>一方ガビーは9月の府中でデビューし、新馬を7馬身差で圧勝。続くオープン特別の3歳S（ただの3歳Sでネーミングはない。味気ないが当時は「障害特別」とか「短距離特別」「中距離特別」など、こうしたネーミングのない特別はけっこうあった）も軽く勝って京成杯で北海道女王のプロスパラスと激突した。人気はプロスパラスが重賞勝ちの実績に加え、前走オープン楽勝のため①人気。しかし、結果はあっさりしたもので、ガビーはレコードで軽く6馬身差勝ち。プロスパラスは結局ガビーの影も踏むことができず③着まで。②着にはイーデンアローがもぐり込んだ。（懐かしいね～イーデンアロー。マッチウォンの仔だったなたしか。古馬になって津曲幸のデビュー戦勝ちをアシストした馬だ）当たり前だが、当時ジュベナイルフィリーズなどは影も形もない。東西に朝日杯・阪神の両3歳Sがあり、このレース2つが東西それぞれのチャンピオン決定戦で、3歳代表馬はこの勝ち馬のどちらかで内容上位の馬がなることが多かった。この時点ではガビーの他には牡馬にもそう大した馬はおらず、朝日杯3歳Sはガビーにとっては「ただもらい」も同然の状況であり、間違いなく勝てるはずであった。<br>ところが、競走馬の常でなかなかうまくは行かない。朝日杯の直前、ガビーは石を踏んでしまい出走を断念せざるを得なくなる。これは本当にもったいなかった。朝日杯を勝ったのは同じ牝馬のマツフジエース。頭数が少なく、後に名前を残した馬はイシノマサル程度という極端な弱敵相手で、さらに逃げ馬も他にいない状況での単騎逃げ切りで、おそらくこのマツフジエースという馬は歴代朝日杯勝ち馬の中にあって最も弱い馬である。最近の馬でもゴスホークケンという、その後の成績が凄まじい馬が朝日杯を勝っているが、弱いということならマツフジエースの方が断然弱い。もちろんこの馬はこの後掲示板にも載らなかった。でも、この③－⑤5460円って、私は当たったのだが。<br>ちなみに②着はイシノマサルである。ガビーが出ていれば大差で勝ってもおかしくなかった。もちろんガビーがいたら同じ逃げ馬のマツフジエースはビリ負け確実だっただろう。<br>不安と言ってもザ石なので、ガビーはすぐに回復し年明けの京成杯に出走。調教が十分でなかったか、先のイシノマサルにアタマ差ときわどい勝ちであったが重賞2勝目を挙げる。ところで、インターネットのウィキペディアに間違いをひとつ見つけた。テスコガビーの戦績表の中で、京成杯の②着馬がイシノアラシになっている。大ばかやろう。イシノアラシは確かに同期だが、春の福島で連勝してようやっとダービーに間に合うのだ。正月はまだ未勝利でこんなところにおらんわい!　ウィキペディアは間違いが多いと聞くがなるほどな。しかし、本文の中には朝日杯②着馬イシノマサルとちゃんと書いてあるので、成績表の方だけ違うやつが書いたのだろうか。まあそれはいいとして、次がいよいよ歴史的なカブラヤオーとの一戦である。このレースはカブラヤオーも今回の逃げ馬編で登場するので、そちらに譲ろう。一息入れたガビーは桜花賞目指して勇躍西下する。<br>トライアルではまさに一本かぶり。単勝・複勝とも100円返しの、いわゆる「持ち出し」で競馬会に大損をさせてレコード勝ち、本番に向かう。この時に着けていた真赤なメンコはガビーに非常に似合っており、メンコ嫌いの私でも、このガビーの真っ赤なメンコとグリーングラスの緑のメンコは好きである。（グリーングラスの緑のメンコには2種類あり、耳の白いやつがよい。耳まで緑のものではグリーングラスは全敗しているので）<br>桜花賞でも当然のように断然人気。本番で頭数も多いので100円返しにはならなかったものの1.1倍で、他の馬はレース前から白旗状態に近かったが、レース後にはさらに厳しい実力差を思い知らされることになる。杉本アナはこのくらいの年代がアナウンサーとして最も脂の乗り切った状態と言うのだろうか。このころの桜花賞では、レース実況もさることながら、サラブレッドマーチに乗せての本場馬入場のコメントには何とも泣かせるものが多かった。杉本アナはガビーの本場馬入場時、「22頭と揃っても、赤い帽子はただひとつ。テンよし中よししまいよし、付けて加えて超グラマー、本番の桜花賞でもワンマンショーを演じるか、テスコガビーです」と伝えた。<br>本場馬入場時まではトライアルと同じ真っ赤なメンコをしていたガビーだが、スタート地点でこの真っ赤なメンコを取ると、下からもう一枚ピンクというより桜色のメンコが現れた。関係者の演出であろう。こののち、オークスでのメンコはオーク＝樫の木の緑に合わせたものか緑系だったが、ケイコなどではもっと薄いピンク系もつけていた。これは良く見ると全面ピンクではなく、ピンクの花柄であった。当時、「テスコガビーの花柄パンツ？」と笑い話にもなった。<br>ガビーは抜群のスピードを持っていたが、スタートは特別上手ではなく、この点は主戦の菅原泰夫もかなり気にしていたようである。それは、レース後の「スタートだけでした」というコメントにも表れている。全くその通りで、このレースではガビーがまずまず悪くないスタートを切って、菅原が猛烈に押しまくってハナを取り切った段階ですでに終わりだった。800ｍまで並みの逃げ馬ならば必ずつぶれる通常の桜花賞ペースで逃げたガビーは、3角から直線入り口までを12.2－12.3－12.8とペースコントロールする。杉本アナの「十分貯金を貯め込んで、十分貯金を貯め込んで、テスコガビー第4コーナーをカーブする」という実況は、全くその表現の通りだったのである。そして、これこそが究極だが、ラスト1ハロン11.4という強烈な2段ロケット点火。「テスコガビー独走か、テスコガビー独走か、ぐんぐんぐんぐん差は開く、差は開く。後ろからは何にも来ない、後ろからは何にも来ない、後ろからは何にも来ない。ジョーケンプトンがようやく2番手に上がって来たか。先頭はテスコガビー。これは強い、強い、強い！これは強いこれは強い。赤の帽子ただひとつ、ぐんぐんぐんぐんゴールに向かう、ゴールに向かう、テスコガビー大楽勝。そして②着にはジョー・ケンプ・トン!。②着にはジョーケンプトン、いやあっ、恐れ入った。恐れ入りましたっ。勝ち時計は1分34秒9、勝ち時計は1分34秒9…　これは恐ろしい馬です！…　後ろを振り向けど、何にも来ませんでした」名調杉本節のフレーズは、ガビーの圧勝を最もわかりやすく伝えている。この時の走破時計1.34.9というのは、サウンドトラックの傑作ナオキが古馬になってから作った1.34.8のコースレコードに0秒1しか違わないもので、4コーナーまでのペースコントロール次第ではレコードも軽く出せただろう。第一、桜花賞の時期の馬場は通常レコードが出るような馬場ではない。この時期の3歳牝馬としてはまさに破格の時計である。<br>ちなみに、大差にちぎられた②着ジョーケンプトンの走破時計は1.36.6で、この翌年同じ良馬場で勝った2冠馬テイタニヤのタイムが1.36.7なので、ジョーケンプトンが概ねこの時代の桜花賞の水準時計である。ガビーがいかに常識を超越した馬であったかが伺える。<br>この後、オークストライアルに出走したガビーは、全く意外な敗戦をする。オークス前で完全な造りではなかったにせよ、トウホーパールとカバリダナーに4馬身も置かれたというのは何とも理解できないレース振りで、当時はフケだとか何とか言われたが、関係者のコメントはフケに対しては否定的だった。そして、オークスということになると距離の問題もある。ずば抜けた能力は誰しも認めるにせよ、2400の距離がガビーの距離である訳はないので、この敗戦によりオークスでは①人気とは言うものの、桜花賞のような絶対感はない状態で迎えることとなった。<br>しかし、ガビーはやはりガビーだった。8馬身差のぶっちぎり。晴れ渡った空の下、緑一色の府中の坂。そのコースの真ん中を、たった一頭で駆け上がってくるガビーは、桜花賞でも見せた天空を舞うスーパーギャルそのものだったのである。表彰式後の記念撮影では、ガビーの名の由来となった長島オーナーの隣に住んでいるスイス人一家の娘さん、ガブリエルちゃんも姿を見せた。ガブリエルなので、縮めた愛称が「ガビー」である。菅原は、ガビーの鞍上にガブリエルちゃんを抱き上げて跨がせ、一緒に記念写真を撮った。ところで、所氏や小沢氏はご存じだろうが、馬クラブに以前良く顔を見せていた小川恵子さんという人が長島オーナーの知人で、その関係からガブリエルちゃんとも親交があり、一家がスイスに帰ったあとにガビーが死んだのだが、後日小川さんがガブリエルちゃんから受け取った手紙に「テスコガビーなぜ死んだの？」と書いてあったそうである。ガビーの死から数日後、長島オーナーの会社が倒産、オーナーもやがて悲しい最後を遂げる。<br>オークス後、当然のごとく秋のビクトリアカップ（エリザベス女王杯の前身で、この翌年から名前が変わる）も制するのは確実と思われたが、トモに不安が出て秋は出走できず、1年休んで出てきたオープンでは、明らかに完調を欠いていて惨敗。また不安が再発して、復帰を目指していた明神牧場で調教中、ダクからキャンターにおろした瞬間、前肢を折るように倒れた。スタッフは故障かと思ったそうだが心臓麻痺で、すでに手遅れであった。<br>ガビーは多くの優駿を出したテスコボーイ産駒の中にあって、最もテスコボーイ自身に近い馬であったと多くの関係者が証言している。私も静内種馬所でテスコボーイは何度も見ているが、いわゆる丸く見える馬の典型で、ガビーのコロッとした体型は、トウショウボーイやキタノカチドキら多くのテスコ産駒の中では抜けて父に似ている。また、ガビーは非常にやんちゃなイメージがあるが、馬房では非常に従順で扱いやすい馬で、菅原によると、「折り合いに苦労したことは全くなく、どんなレースでもできた。スピードの違いで逃げていたが、追い込めと言われればそれもできた」とコメントしている。この点ではうるさいことで有名な父には似ていなかった。したがって、当時よく「おんなカチドキ」と1年先輩のキタノカチドキと比較して言われたが、気性はトウショウボーイに近かったのかも知れない。パドックで「牛」ではなかったが。しかし、桜花賞やオークスでのレース振りを見ていると、何ともやんちゃなイメージはぬぐい難い。華麗でありやんちゃであり、そして美しい。もう二度と見ることはできないであろう、永遠のアイドルギャルだった。<br><br>1975.4.6　2回阪神4日目　9R　（曇・良）<br>第35回桜花賞　4歳牝定　1600ｍ　22頭<br>1　③7　　 テスコガビー　　　　55　菅原　泰夫　　1.34.9　　　①人気<br>2　②5　　 ジョーケンプトン　　55　簗田　善則　　 大差　　　 ⑧<br>3　⑤12　  トウフクサカエ      55　福永　洋一　　 1 1/2　　　②<br>4　⑧22    タニノサイアス　　　55　久保　敏文　　 クビ　　　 ③<br>5　⑧20　  サウンドカグラ　　　55　内田　国夫　　 3/4　　　  ⑯<br>6　⑧21　  エナージスター　　　55　武　　邦彦　　 ハナ　　　 ⑤<br>7　⑤13　  グリーンファイト　　55　吉岡　八郎　　 1 1/4　　  ⑥<br>8　⑤11　  キシュウブルーム　　55　川端　義雄　　 1 3/4　　　⑮<br>9　①3　　 ライジングムーテー　55　北橋　修二　　 1　　　　　④<br>10 ④9　　 フィールドフブキ　　55　田島　良保　　 1　　　　　⑬<br>11 ⑥16　　ニッセキファイア　　55　清水　出水　　 ハナ　　　 ⑩<br>12 ④10　　アカネムラサキ　　　55　中野　勝也　　 アタマ　　 ⑭<br>13 ⑦19　　サンショウカオリ　　55　南井　克巳　　 2　　　　　⑪<br>14 ②6　　 ウラカワチェリー　　55　安田伊佐夫　　 1/2　　　　⑨<br>15 ①1　　 シルクバンダ　　　　55　領家　政蔵　　 1/2　　　　⑫<br>16 ⑦17　　ニシノブレーブ　　　55　野村　影彦　　 3　　　　　21<br>17 ②4　　 ダイゴキヨタニ　　　55　丸山　雅夫　　 1　　　　　⑳<br>18 ⑥14　　キシューファイター　55　飯田　明弘　　 1/2　　　　⑦<br>19 ①2　　 カイキョウコマチ　　55　安藤　正敏　　 2　　　　　⑰<br>20 ④8　　 ウガンダシロー　　　55　梅内　忍　　　 2 1/2　　　⑱<br>21 ⑦18　　イブサン　　　　　　55　高橋詠三郎　　 3/4　　　　⑲<br>22 ⑥15　　ハギノクイーン　　　55　上野　清章　　 1 3/4　　  22<br>単110　　複110、310、210　　連②－③810<br>第3位<br>「力」の逃げで天下取り<br>1974年有馬記念（タニノチカラ）<br>　1973年、競馬史を変えるスーパースターの出現により、競馬の世界は様変わりする。ハイセイコーの登場である。地方競馬大井で6戦6勝、圧勝楽勝ぶっちぎりの連続で、鳴物入りで中央入りし、そのままスーパースターの座についた世紀のスーパーアイドルホースは、それまでギャンブル色一色だった競馬のイメージを大きく変えた。<br>タニノチカラをテーマにするはずがハイセイコーからの書き出しとなったが、本題の有馬記念はハイセイコーとの関係を抜きにしては語れない。と言うのも、タニノチカラ（以下例により馬クラブ流でチカラだけで記す）が逃げ馬として完成するための伏線が前年の1973年有馬記念にあり、ハイセイコーとの関係がチカラを逃げ戦法に向かわせたと言えるからである。チカラの主戦田島日出雄は、こう言っては何だがとても一流と言えるようなジョッキーではない。当時の常として、関東・関西の交流が現代とはまるで違うので、東から西へ、また西から東へ遠征するジョッキーは、ローカルは別にして基本的に一流ジョッキーのみであり、二流以下のジョッキーはほとんど遠征の機会がなかった。前章のタニノムーティエのところで出た安田伊佐夫のゴール板間違いなどもこのためで、田島日出雄も中山で乗るのは1973年の有馬記念当日が初めてだった。<br>その1973年有馬記念も語り草になっているレースで、この年の二冠馬タケホープは当初から回避を表明していて、大勢はハイセイコーと秋の天皇賞馬であるチカラの争いというのが下馬評であった。レースは当時の牝馬三冠レースと言える桜花賞・オークス・ビクトリアＣを①②①着したニットウチドリのスローな逃げに幻惑されて有力二頭が動くに動けず、完全な行ったきりの競馬になって、二番手を進んでいたストロングエイトがニットウチドリをクビだけ交わすという単調なレースに終始して連は万馬券。ハイセイコーとタニノチカラはそれぞれ③④着に負ける。この時、主にマスコミに叩かれたのが田島であった。<br>つまり、ハイセイコーは人気であり、後ろにチカラがいるのでどうしても待つ形になってしまう。だから、チカラの方が先に仕掛けるべきだという論理で、まあわからなくもないが、私流の考えでは要するに自信があるかないかの問題で、勝てる自信があるなら、どちらももっと積極的に行けばいいだけの事だと思う。増沢も田島も慎重すぎたのは間違いない。<br>チカラはタニノムーティエの下なので、デビュー当時は安田伊佐夫が乗っていたこともあり、兄の残像が残っていたためか、陣営は中位くらいから追い込むレースをさせていた。まあこれほどの馬なので、追い込ませてもそれなりにはできてしまうから、チカラ本来の個性がまだ引き出せていなかったとは言えるのだろう。ところが4戦目の野菊賞②着時に骨折しており、この休養から復帰しようとした調教中にまた骨折。この方が重症で結局1年半も休んでしまい、クラシックを棒に振ったチカラがカムバックするのは古馬となっての4歳夏で、ちょうど3歳クラシックで光輝いていたロングエース・ランドプリンス・タイテエムの3強が光を失うのと入れ替わりにチカラは復帰し、鞍上は田島日出雄に替わる。　<br>やはり安田が鞍上だとどうしても兄ムーティエのイメージが残ってしまうのだろう。田島に替わってから、チカラは休養前よりも先行するようになる。もともと先行力は十分に持っていたチカラは全く問題なく先行馬へと変身を果たすが、初重賞制覇となった朝日CCでこそ逃げ切ったものの、まだ完成時のチカラのような他を圧倒できる逃げではなかった。この朝日CCは兄ムーティエが喘鳴症に侵されて初の惨敗を喫したレースで、この時点で兄の仇をひとつ討つことになる。その後、京都大賞典の前身であるハリウッドターフクラブ賞を勝ち、天皇賞目指して東上する。<br>ところが、前哨戦となった目黒記念で、田島は府中での禁じ手である「三角まくり」をしでかして、前年春の天皇賞馬ベルワイドのレコード勝ちをお膳立てしてしまう。それどころか、この時点では完全格下のストロングエイトにも負けて③着となり、田島の乗り方がひどく批判されることとなった。現代では東西交流が盛んだし、情報の提供も当時とは比較にならないので、今関西から来たジョッキーが府中や中山の仕掛けどころがわからないなどと言っても誰も耳を貸さないだろうが、当時はこうしたことが本当に珍しくなく、いい例が先にも記したムーティエのNHK杯で安田伊佐夫がやらかしたゴール間違え事件である。実際、有馬記念の時も田島は有馬の前に一鞍乗せてもらっただけで、有馬は中山での2レース目だった。<br>そうした訳で天皇賞本番では、ヒンドスタン最後の傑作と呼ばれてこの秋に本格化し、オールカマーで61Kを背負い切って勝ったハクホオショウが①人気となり、チカラは②人気だったが、①人気ハクホオショウはスタート直後に骨折し競走中止。最強の相手がいなくなったチカラはスローを見越し、向う正面から積極的に行って弱敵相手に完勝する。<br>そして前出の1回目の有馬記念となる。この敗戦はチカラが一皮剥けるための貴重な経験だった。しかし、年が明けてもチカラはあまり順調ではない。格下相手に惜敗を繰り返す。オープンではマチカネハチローに、京都記念ではスカイリーダに差され、大阪杯では無名と言ってもいいようなキヨノサカエに負けてしまう。このあたりは脚質がまだはっきりしておらず、何となく先行しているレースだったから勝ち切れなかったのだろう。兄ムーティエより先行力はあったが、さすがに兄のような強烈な決め手はチカラにはなかった。一流馬にしてはジリっぽいので、完全に逃げに開眼する前の状態だったのだろう。<br>このあとまた軽い骨折をして休養し、サファイヤS③着で復帰する。次のレースが前年も勝っているハリウッドターフクラブ賞だが、この年から京都大賞典に名称が変わった。ここにはハイセイコーも出走してきた。チカラはハイセイコーより前に出た。先に行けばハイセイコーには差されないという自信が出てきていたのだろう。結果は4馬身差の圧勝。ある意味で、このレースはチカラが逃げに開眼したレースとも言える。そしておそらくこの京都大賞典のレース後、有馬記念の戦法が決したと言えるのだろう。次走のオープンも軽く勝ち、いよいよ有馬記念。この間ハイセイコーは出走した府中のオープン（ヤマブキオーがハイセイコー・タケホープを負かして語り草となったレースだ）で鼻出血してしまい天皇賞に使うことができず、有馬記念に直行する。ハイセイコーもタケホープもこのレースでの引退をすでに表明していた。<br>このあたりが時代なのだなと思う。もし当時「天皇賞優勝馬は天皇賞には出走できない」という日本競馬史上最低最悪のインチキルールがなければ、タケホープは何回も天皇賞に出ているだろうし、現代のG1、G2別定のような楽な斤量で出られるステップレースがあればさらに楽になる。そうするとタケホープとチカラのステイヤー決戦が何度も見られている。もったいないことだ。まあ、その分消耗も凄いのでどこかで故障もするのだろうが、現代のルールならこの時点でのハイセイコー・タケホープの引退はなかっただろう。<br>それはともかくこの有馬記念では、実力は認められながらチカラはどこまでも第3の馬に過ぎず、世間はハイセイコーとタケホープの引退決戦に沸いていた。今にして思えば、中山のタケホープなどはどこにでもいる普通のオープン馬で、気の抜けたビールのようなものだと思うのだが、世間はタケホープを①人気にした。こうしたところを見ると、チカラはいつも実力より人気はない方のような気がする。しかし、京都大賞典時の①人気ホウシュウエイトは関西では異常に人気のあった馬だし、ハイセイコーは天下のアイドルホースだ。相手に人気がありすぎたということなのだろうか。ハイセイコーは鼻出血明けが人気を落とす原因となったのは明らかで、生涯ただ一度の③人気を経験している。（②人気は2回・他はすべて①人気）でありながら一方でストロングエイトとホウシュウエイトの「エイト」2頭がエイト枠に同居した⑧－⑧がけっこう売れたりするのだからさすがは有馬記念だ。<br>そしてレースになった。きれいに晴れ渡った冬枯れのターフを蹴ってチカラは逃げた。ハイセイコーは2番手、タケホープもいつもよりずっと前の3～4番手でハイセイコーをマーク。チカラにとっては楽な展開である。何より、この日はとにかく田島のレース振りに積極性と自信が窺えた。おそらく京都大賞典でハイセイコーに完勝して得た手ごたえだったのだろう。5馬身うしろでのＨＴ2頭の壮絶な②着争いを尻目に、チカラは悠々とゴールを駆け抜けた。それでも世間の注目は②着争いの方にあったようだったが。<br>このレースで実力日本一を示したチカラは、一息入れた次走の京都記念で自身の完成形を見せる。63Kを背負っての大差勝ち。有馬記念の5馬身差に勝るとも劣らないパフォーマンスである。さらに次のオープンでも61Kを背負って快速イットーを先に行かせ、G前で差し切った。次がチカラの最後のレースとなるマイラーズCだが、このレースは第1章の名勝負編で取り上げているのでここでは触れない。<br>3度の骨折を乗り越えて、結果として最強世代と呼ばれる1972年クラシック組の頂点に立ったチカラは、純粋な逃げ馬と呼ぶには異論もあるはずだ。私も逃げ馬のジャンルにチカラを入れるのには抵抗がある。前に登場したトウショウボーイ・テンポイント同様に、より確実に勝つための一手段として逃げたのだろうが、有馬記念はもちろんのこと、京都記念や京都大賞典などを見ても歴史的な力を持った馬だったと言えるだろう。<br><br>1974.12.15　5回中山6日目　9R　（晴・稍）<br>第19回有馬記念　4歳上混別　2500　　9頭<br>1　③3　タニノチカラ　　　牡6　55　　田島日出雄　　2.35.9　　②人気<br>2　①1　ハイセイコー　　　牡5　56　　増沢　末夫　　5　　　　 ③<br>3　⑤5　タケホープ　　　　牡5　56　　嶋田　功　　　クビ　　　①<br>4　⑧9　ホウシュウエイト　牡5　56　　福永　洋一　　7　　　　 ⑤<br>5　⑧8　ストロングエイト　牡6　55　　中島　啓之　　アタマ　　⑧<br>6　④4　カーネルシンボリ　牡4　54　　野平　祐二　　1/2　　　 ⑦<br>7　②2　ベルワイド　　　　牡7　55　　加賀　武見　　3/4　　　 ⑨<br>8　⑥6　イチフジイサミ　　牡5　56　　郷原　洋行　　3/4　　　 ④<br>9　⑦7　トーヨーアサヒ　　牡6　55　　小島　太　　　1 3/4　　 ⑥<br>単340　複120、140、130　　連①－③730<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/umakurabu2012/entry-11331345393.html</link>
<pubDate>Sat, 18 Aug 2012 05:47:14 +0900</pubDate>
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<title>勝手にベストテン（２）追い込み編（２）</title>
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<![CDATA[ 第6位<br>瞬発力の権化、パーソロンの面目躍如!<br>1981年京都新聞杯（サンエイソロン）<br>　かつて、1970年代から80年ころにかけて、日本のスタリオンは非常に華やかだった。高度成長期のまっただ中にあるこの時代は、ヒンドスタンやライジングフレームらの少数精鋭時代から、距離適性がまったくバラバラのバラエティ時代へと突入していく。短距離ではマタドア、サウンドトラックらザボス系を中心とした超スピード系、マイルから中距離ではテスコボーイらプリンスリーギフト系やグレイソヴリン系が幅を利かせ、チャンピオンディスタンスはネヴァーセイダイ系やシカンブル系、そして長距離ではワラビーやヴィミーら少しクラシカルなステイヤーから、様変わりしたインターメゾ、シーホークら近代型ステイヤーへと移り変わる時代だった。<br>　その後に生起するノーザンテーストを核とするノーザンダンサー時代や、究極とも言える現代のサンデー天国のような一系統集中型の時代に生きて、今にして思うとバラエティ豊かなあの頃は何とも面白味のある時代だったではないか。これは決して「年寄り」に一歩足を踏み込んだオールドファンのノスタルジイとして単純に片付けることはできないだろう。現代のように何でもかんでもサンデーでは、血統というものの面白味が半減（もっとか）してしまう。<br>　愚痴はともかく、この時代に「瞬発力3強」と私が勝手に選んだ3頭の種牡馬がいた。<br>パーソロン・ファバージ・ダイハード。後にパーソロンが出したルドルフのようにその産駒はさまざまあるが、この3頭はいずれも本来の個性と言えば瞬発力であった。とにかく「切れた」。微妙なニュアンスの相違ではあるが、「切れた」と「斬れた」はイメージに違いがある。かつて名伯楽武田文吾は、「シンザンはナタ、コダマはカミソリ」の名言を残し、のち「シンザンのナタはヒゲも剃れる名刀だ」と付け加えた。まさにこの通りであろう。<br>　言葉で表現するのはなかなか難しいが、私も馬の瞬発力にはこの二通りがあると思っている。トウメイやハクセツのところでも述べたが、敢えて稚拙な文筆で表現するなら、「切れる」は軽快な瞬発力であり、道具で表現するならカミソリかなと思うし、「斬れる」はもっと重厚な瞬発力で、私のイメージでは日本刀である。短距離やマイルで決め手を発揮するような場合は「切れる」で、天皇賞やJCのような本当の底力を要求されるレースで発揮された場合は「斬れる」というふうに使い分けたらどうかと考える。<br>　それはともかく、ここで登場するサンエイソロンはそんなパーソロンの中でも、特別「切れる」ところを見せた馬だった。馬クラブメンバーに言うまでもなかろうが、この馬はいわゆるトライアル3冠馬である。サンケイ大阪杯を春天皇賞のトライアルと考えるなら4冠だ。つまり本番は勝っていない。こうしたトライアルホースは多くいる。しかし、あえて弁護するなら、トライアルで勝ってしまうと本番では当然人気にもなり、陣営にも余計な力が入ってしまうので辛いところはあるだろう。このサンエイソロンはそのトライアル4冠レース全部①人気で勝っているのだから、実力的に疑う余地はなく、取り消した皐月賞、回避した春天皇賞は別にして、出走した本番2回、ダービーも菊花賞も①人気で②着し、しかもダービーではハナ差だし、菊花賞も4馬身離されはしたが、ミナガワ馬場でのミナガワマンナのドハマリであるから、決して本番に弱い馬だった訳ではない。皐月賞も取り消さなければ①人気だっただろうし、春の天皇賞もモンテプリンス、アンバーシャダイら巨頭はいるが、出走すれば③人気にはなっていただろう。<br>　しかし、この馬は菊花賞でも②着に頑張ったものの、本来菊花賞や天皇賞向きの馬である訳はなく、基本的には中距離までで瞬発力を生かすタイプであるのに間違いはあるまい。　<br>同じパーソロン産駒としては、サクラショウリがダービーを勝てなかった場合のようなものだ。だからトライアルのようなレースが向いており、本番で勝負する底力のあるタイプはトライアルでは一歩手前の仕上げになるので、仕上りの早いタイプのこの馬にはそれも有利に働くということになるのだろう。4つのレースすべてがこのケースには当てはまる訳ではないが、その特性が最も生かされたのがここで取り上げる京都新聞杯だ。<br>　レースは何と20頭立て。現在では見ることができない頭数である。京都コースの外回り2000ｍは、スタートから1コーナーまでが近いためだろうか、最近あまり使われなくなったが、私は好きなコースだ。この時のように、20頭も頭数がいれば、当時のレース状態でスローになどなる訳がない。現代のように、何頭頭数が揃おうがスローになってヨーイドンの時代ではないのである。猛烈な高速レースとなり、それがこの歴史的な追い込みレースを演出することになる。　<br>　直線、後方に控えていたサンエイソロンだが、頭数が多くてなかなか馬群を捌けず、外に出すことができない。サンエイソロンはもともと「大外ブン回し」が自分のパターンだ。主戦の小島太は府中の2400で乗せたら嶋田功と並ぶ名手だが、ダービーでは思うようなレースができずに4角での位置取りが悪く、このためカツトップエースを捕まえ切れなかったが、もしサクラショウリやサクラチヨノオーの時のように、必殺のダービー攻略法騎乗（向こう正面までは内ピッタリを回って中団に控え、3角から徐々に外に出して行って4角では好位に上がり、外から抜け出してジリジリ内に寄っていくという乗り方）が使えていれば、おそらくサンエイソロンはダービーを勝てただろう。そんなサンエイソロンだが、この時はどうにもこうにも外に出すことができず、内に潜り込んだ。ところが、全くラッキーなことに、内にコースを取ったのが案外悪くないコースだったのだ。ハイペースであったために、先行勢にはもう脚が残っておらず、大外を飛んでくるような訳には行かないにしても、サンエイソロンは内ラチ沿いを一頭猛烈な勢いで駆け抜けた。内側は普通、馬が多くいるので、当然スイスイとはなかなか走れるものではない。ましてこの時は20頭だ。　<br>　この後登場するが、1977年の皐月賞で、福永洋一のハードバージが見せた右に左に交わして交わしてという、マラドーナのゴールのような追い込みとはちょっと違い、ほとんど一直線に走るようなスピードで一気に2馬身半も突き抜けたのだ。鮮やか過ぎる勝利であった。この追い込みBEST10では、当然ながら外からカッコよく追い込んだレースが大半であるし、事実大外一気は競馬の華である。私も常日頃から内から来た馬はあまり信用しないことにしているのだが、この時のサンエイソロンの脚は、2.00.8のレコードとともに強く印象に残っている。<br><br>1981.10.4　4回京都6日目　11Ｒ　（曇・良）<br>第29回京都新聞杯　4歳定　外2000ｍ　20頭<br>1　　2③サンエイソロン　　　57　小島　太　　Ｒ2.00.8　　①人気<br>2　　7⑮ロングイーグル　　　57　小野　幸治　　2 1/2　　 ⑰<br>3　　5⑪ダイマンテン　　　　57　村本　善之　　ハナ　　　⑮<br>4　　3⑤ダイタクプロスパア　57　西橋　昇　　　ハナ　　　⑩<br>5　　7⑯チェリーオー　　　　57　田原　成貴　　1/2     　⑪<br>6　　4⑧アジシバオー　　　　57　岩本　市三　　1　　　　 ⑧<br>7　　8⑳ホーワセキト　　　　57　東　信二　　　1 1/4     ②<br>8　　7⑰キタノコマヨシ　　　57　武　邦彦　　　1　　　　 ③<br>9　　5⑩ミナガワマンナ　　　57　菅原　泰夫　　1 3/4     ⑬<br>10　 6⑬トドロキヒホウ　　　57　郷原　洋行　　3/4　　　 ⑦<br>11　 4⑦マルブツラフィアン　57　松田　幸春　　1/2       ⑱<br>12　 1①ホクトオウショウ　　57　栗田　伸一　　ハナ　　　⑨<br>13 　3④サニーシプレー　　　57　内田　国夫　　1 1/2     ⑥<br>14　 1②ハギノグリンランド　57　安田　隆行　　3/4　　　 ⑫<br>15　 5⑨ヤクモペガサス　　　57　田所　秀孝　　クビ　　　⑭<br>16　 6⑭ハッピープログレス　57　飯田　明弘　　1 3/4     ⑯<br>17　 8⑲トラックセイハ　　　57　昆　貢　　　　アタマ　　⑳<br>18　 6⑫ビンゴハイデン　　　57　中野　栄治　　1/2       ④<br>19　 8⑱オートミコーター　　57　河内　洋　　　1 1/4     ⑲<br>20　 4⑥カツマサタイコウ　　57　的場　均　　　7　　　　 ⑤<br>　単210　　複110.1230.970　　連②－⑦1000<br><br><br><br><br><br><br>第7位<br>剛刀一閃!<br>1971年日本ダービー（ヒカルイマイ）<br>　昭和46年のダービー馬ヒカルイマイは、先ほどのカミソリとナタの話で言えば、明らかに剛刀の雰囲気を漂わせる馬で、皐月賞・ダービーにNHK杯も制して、ほぼ3冠は確実と言われながら、夏以降はよくある話で脚部不安から立ち直れず、結局トライアル惨敗ののち菊花賞は断念し3冠はならなかった。この年のダービーはテレビ観戦であり、後年宮崎にいる時に丹下氏が見てきているはずだが、（この時偶然田島良保に会ったとか言っていたな）私はヒカルイマイの実馬は見たことがない。<br>　一般に言われるのは、あまりルックスの良い方ではなく、血統もサラ系。まあ先祖が豪サラで輸入時の血統不詳によるもので、アラブが入っているとかいう訳ではなかった。弱小生産者の牧場で幼駒の時に大怪我をして、肋骨が一本なかったなど、よく言われる雑草の強さを持ったような馬で、それなりに芯の強さのようなものは十分感じさせた。<br>　先にトウメイのところで述べたが、この年は父シプリアニの当たり年で、リーディングサイアー争いではパーソロンに負けてしまったが、皐月・ダービーの2冠馬に天皇賞・有馬記念連覇だから、リーディング級の活躍と言って過言ではないだろう。面白いのは、このヒカルイマイは人気がないタイプの馬ではなく、皐月に加えトライアルのNHK杯を制しているのに、ダービーではNHK②着のダコタに①人気の座を譲っている。現代ではあまり考えられないケースなのだが、当時を思い起こすと、ダコタという馬が割合底知れない雰囲気があった馬だったので、まあ未知の魅力と言うのだろうか。ダコタは結局惨敗して翌日のスポーツ紙で「ダコタはドコダ」と揶揄されることになる。この馬は優駿ホースクラブの馬で、このころは他にシカゴなどもおり、アメリカの都市名を馬名に使っていたが、このすぐ後からオレゴンシチーやテキサスシチーなど、「○○シチー」の名になっていく「シチー」はなまりすぎでせめて「シティ」にしてもらいたかったが。それはともかく、ヒカルイマイの脚質やらこれまでの実績、血統など考えると、ダービーでこそより真価が発揮されそうな馬だと思うので、現代ならば当然①人気だったろう。<br>　ところで、このヒカルイマイは、ダービーの直線一本で最も多くの馬を抜いたと思われる記録保持馬だ。単純にレース中最も多く他馬を抜いたと言われているのはタケホープで、向こう正面に入ったあたりで25番手。つまりその時前にいた24頭は全部抜いた計算になる。しかし、タケホープは先にサンエイソロンのところで書いた、嶋田功や小島太が得意としたダービーの騎乗法で勝っていて、小島太のサクラショウリや、加賀武見がトウショウボーイ相手にクライムカイザーで演じた出し抜けもこれに近い乗り方だ。<br>　このため、タケホープはたしかに24頭抜いてはいるのだが、4角ではかなりいいところにまで上がっていて早めに抜け出したために、直線一気の豪快な追い込みというイメージはまったく残らなかった。この乗り方は、馬が脚をかなり長く使えるタイプでなければ成立しない乗り方でもある。いい脚を長く使うということなら、タケホープは歴代トップクラスだろう。話を戻すと、直線一本で純粋に抜いた数では、タケホープは正味10頭くらいしか抜いていない。あるいはもっと少ないかもしれない。しかし、ヒカルイマイは直線入り口でもまだ後方におり、推定だが（もちろん正確にはジャッジできないので）20頭か21頭は直線一本で抜いている。だから、見た目の派手さではタケホープよりもヒカルイマイの方がはるかに凄いのだ。<br>　私事になるが、私はこのレースで③－⑤、⑤－⑥の2点買いだった。⑤枠はもちろんヒカルイマイで、③枠にはハスラー、ベルワイド、スインホウシュウとおり、⑥枠には皐月賞前に一時クラシック候補の筆頭と思われた時期もあったヤシマライデンとフイドールというなかなか臭い馬がいた。しかし、直線、ヒカルイマイの位置は絶望的な最後方。これは非常にまずい。ところが、2番手追走から早めに抜け出した同じ黄色い帽子のハーバーローヤルが非常にしぶとく、先頭をキープしたまま坂を登り切った。2番手以降に目をやると、私が買っている③⑥枠のベルワイド、スインホウシュウ、フイドールがずらっと並んでいるではないか。これはもう馬券はいただきだ。と思ったその刹那、大外から一頭、違う勢いで黄色い帽子、赤と黄の勝負服が飛んできた。「やめんか～！」と言ったってだめである。<br>　ダービー史上に残る後方直一気が決まった瞬間であった。②着にはとうとうハーバーローヤルが粘り通して、枠連は⑤－⑤のゾロ目となった。つまり、ヒカルイマイが来なければ馬券は当たりだった訳なのだが、私はこの時まったく悔しさを感じなかった。あまりに鮮やかなヒカルイマイの追い込みに魅了されてしまったのである。<br>　このレースも例のＶＴＲに入っているのだが、何度見てもこのダービー当日ＴＶ観戦したイメージと違う。「もっと凄かったはずだ」という気がしていたのだが、いろいろ考えると理由がわかった。ＶＴＲはもちろんフジＴＶの協力によるものなのでフジの映像だが、私が生で見たのは多分ＮＨＫの映像だったのだ。カメラワークの差で迫力が違ってしまったのである。直線入り口で横から追っている映像があったのだが、この時大外からヒカルイマイが追い込みを開始するシーンがはっきり私の記憶に残っており、このイメージが強烈なのだが、フジのカメラワークにはそれがないのである。あのＮＨＫの映像でもう一度このレースを見たいものだが、恐らくもうその機会はないだろう。<br>　ヒカルイマイのその後は冒頭に記した通りで、サラ系の血統でもあり、この時代にこのような追い込み型の馬が種牡馬として成功する道理はなく、実質種牡馬としての活動はほとんどないまま鹿児島の服部牧場で余生を過ごし、同場で生涯を終えた。<br><br><br><br><br>1971.6.13　3回東京4日目　10R　（晴・稍重）<br>第38回東京優駿（日本ダービー）　4歳牡牝定　2400ｍ　28頭<br>1　　⑤14　ヒカルイマイ　　　　牡4　57　田島　良保 　2.31.6　  ②人気<br>2　　⑤16　ハーバーローヤル　　牡4　57　藤本　勝彦　  1 1/4    ⑳<br>3　　⑥20　フイドール　　　　　牡4　57　松本　善登　  1 1/2　  ⑥<br>4 　 ③7　 スインホウシュウ　　牡4　57　安藤　正敏　  1 1/4    ⑫<br>5    ⑧25　ゼンマツ　　　　　　牡4　57　吉永　正人　　1 2/1　　21<br>6　  ③9　 ベルワイド　　　　　牡4　57　加賀　武見　　1/2　　　⑩<br>7　  ④10　ムツミバロン　　　　牡4　57　大和田　稔　 2 1/2     ⑯<br>8　  ①2　 ニホンピロムーテー　牡4　57　梁田　善則　 　クビ　　⑭<br>9　  ⑦23　ヒデチカラ　　　　　牡4　57　徳吉　一己     クビ　　⑧<br>10　 ⑧27　バンライ　　　　　　牡4　57　伊藤　栄　　　アタマ　 22<br>11   ②5　 ウエスタンヒル　　　牡4　57　増沢　末夫　　アタマ　 ⑤<br>12　 ②4　 リュウゴナル　　　　牡4　57　久保　敏文　　 クビ　　⑨<br>13　 ⑥19　ヤシマライデン　　　牡4　57　野平　祐二　　3/4　　　③<br>14　 ⑦21　エリモガルフ　　　　牡4　57　福永　洋一　 1 3/4     ⑰<br>15　 ⑧26　ハツイチオー　　　　牡4　57　横山　富雄　 1 1/2     ⑱<br>16　 ⑧28　タサブローオー　　　牡4　57　樋口　弘　　　アタマ　 26<br>17   ⑦22　ダコタ　　　　　　　牡4　57　嶋田　功　　　 クビ　　①<br>18　 ⑥18　タニノマーシャル　　牡4　57　安田　伊佐夫　　2　　　24<br>19　 ③9　 ハスラー　　　　　　牡4　57　森安　重勝　　　1　　　⑦<br>20　 ④11　オンワードガイ　　　牡4　57　蓑田　早人　　 1/2     ④<br>21　 ⑤13　タイマスオー　　　　牡4　57　中野渡　清一　 ハナ　　⑬<br>22　 ①1　 ニホンピロオーカン　牡4　57　鹿戸　明　　　　7　　　23<br>23　 ①3　 シバクサ　　　　　　牡4　57　高崎　詠三郎　 クビ　　⑪<br>24　 ②6　 ダーリングダン　　　牡4  57  法理　弘　　　1 1/4    25<br>25   ④12　アサエイコウ　　　　牡4  57　佐藤　政　　　 クビ　　27<br>26　 ⑦24  バルビフォンテン　　牡4  57  内田　守　　　2 1/2    ⑲<br>27　 ⑤15　ミホペガサス　　　　牡4  57  柴田　政人　　 ハナ　　28<br>28 　⑥17　シンテツオー　　　　牡4  57　高橋　成忠　　1 3/4    ⑮<br>　　単590　　複280、1490、490　　連⑤－⑤5740<br><br><br><br><br>第8位<br>芝並みの切れ味<br>2000年根岸S（ブロードアピール）<br>　このレースが今回のBEST10にランキング入りした最も新しいレースということになるが、それでも12年以上も前になる。本当に当節のスロー競馬は、競馬の面白味の大半を奪ってしまっており、世界的傾向であろうがなかろうが、何か方策を講じるべきだろう。マラソンや競輪のようにペースメーカーやトップ引きでも入れるか。いやいや、決して冗談で済まされることではない。現実に近未来に起こりうることではないかと思う。テレビ馬が懐かしいな。トルーエクスプレスやチェッカーフラッグ、トップジローにレイクスプリンターか。ああした馬がいた時代はいい時代だったのだと最近になってよく思う。<br>　さて、ブロードアピールもグレートタイタンと似たようなもので、芝とダートの違いはあるが、後方一気もいいところ。ダートだけによけいに信じられないような追い込みを何度もやっている。その中でも特別凄かったのがここに取り上げた2000年の根岸Ｓだ。<br>　ブロードアピールはアメリカ産馬だが、下級条件から4連勝するなど、3歳秋から上昇してオープンまで上がったが、オープンではやや頭打ちとなり、5歳のシルクロードＳで初重賞勝ち。しかし、その後の高松宮記念、マイラーズＣでは全く通用しなかった。<br>　このあたり、完全に芝では限界が見えていたと言っていい。しかし、ダート1200のオープン特別である栗東Ｓを最後方から追い込んで勝ち、これが運命を変えるきっかけとなる。<br>　3歳時にダートで勝ってはいるが、この時まで陣営はこの馬のダート適性がわかっていなかったのだろう。芝で成績がいいうちは、ダートに使わないのは当然とも言えるし、頭打ちとは言っても、この馬の場合は惨敗続きというわけではなく、芝であっても短距離のＧⅡ、ＧⅢなら常にソコソコには走っていたので、ダートに転じる理由がなかったのだろう。<br>スプリンターズＳ、スワンＳで④④着と善戦したあと、陣営はダート路線に切り替える決断をする。そこで選んだのが今回の根岸Ｓだ。<br>　およそ歴史にダート馬は数多い。しかし、間違ってはいけないのは、どんなにダートの得意な馬であっても、芝より早くダートを走る馬はいないのである。要するに、芝からダートとなってどんな馬でも走破時計は落ちるが、その落ち込み方が激しい馬と、そうでもない馬がいるのだということだ。これは芝の道悪でも同じことで、いくらラファールが道悪の鬼でも良馬場よりも早く走る訳ではない。<br>　しかし、このブロードアピールは、少なくともダートの短距離で最後に使う脚は、それこそ芝と大して変わらないのではないかと思わせるに十分なものだった。この時代になると残存している映像もたくさんあって、ユーチューブなどで大概のレースは見ることができるので、見たい方は見てみるといいだろう。インターネットで「ブロードアピール」と打って検索するだけでゾロゾロ出てくる。その中でも、やはりこの根岸Ｓの映像がずば抜けて多く、どこのサイトのコメントにも、「凄い追い込み」というような表現がなされている。<br><br>2000.11.12　6回東京4日目　10R　（曇・良）<br>第14回東京中日スポーツ杯根岸S　GⅢ　4歳上別定　ダート1200ｍ　15頭<br>1　　7⑬　ブロードアピール　　牝7　55　武　幸四郎　1.10.1　　①人気<br>2　　3⑤　エイシンサンルイス　牡5　56　太宰　啓介　1 1/4 　　③<br>3　　2③　ノボジャック　　　　牡4　54　勝浦　正樹　　1/2     ⑦<br>4　　8⑯地ベラミロード　　　　牝5　56　内田　利雄　　3　　　 ②<br>5　　5⑨　トーヨーデヘア　　　牡4　54　的場　均　　2 1/2     ⑤<br>6　　6⑪　ツルミカイウン　　　牡4　54　岡部　幸雄　　3　　　 ⑥<br>7　　3⑥地ゴールデンチェリー　牝7　55　吉田　稔　　 ハナ　　 ⑪<br>8　　7⑭　ワシントンカラー　　牡7　57　柴田　善臣　　3/4     ④<br>9　　5⑩　ビコーミニスター　　牡7　56　北村　宏司　1 3/4     ⑬<br>10　 4⑦　ジェットアラウンド　牡7　56　江田　照男　　1/2　　 ⑫<br>11　 8⑮　ミヨノショウリ　　　牡6　56　郷原　洋司　 ハナ　　 ⑧<br>12　 1①地クリールスペシアル　牡8　56  児島　真二　1 1/2     ⑭<br>13　 6⑬　ダイワカーソン　　　牡4　54　田面木博公　　2　　　 ⑩<br>14　 1②　スーパーナカヤマ　　牡7　57　ロバーツ　　 クビ　　 ⑨<br>15　 2④　セントパーク　　　　牡8　56　梶　晃啓　　　8　　　 ⑮<br>消　 4⑧　ケイワンバイキング　騸8　57　横山　賀一<br>　単280　複130、170、390　枠連③－⑦540　馬連　⑤－⑬750　ワイド320、800、1010<br><br>第9位<br>「白い稲妻」後方一気の美学<br>1979年目黒記念（シービークロス）<br>　追い込み特集と言えばどうしても登場してもらわないといけない騎手がいる。言うまでもあるまい。吉永正人。すでに故人となってしまったが、このシービークロスの他、コウジョウなどで見せた「追い込みの吉永」としての強烈な個性は忘れられない。<br>　吉永が手掛けた追い込み馬は数多い。この中には3冠馬ミスターシービーも含まれるが、<br>シービーとの相性が果たしてよかったのかどうかは、私から見てもよくわからない。吉永は通常「インターフェアをして勝つくらいなら負けた方がいい」と公言しており、毎年フェアプレー賞候補に挙がるようなフェアなジョッキーだったが、ミスターシービーでの3冠は3レースとも制裁の対象になっており、特にダービーの4角でキクノフラッシュを大外に吹っ飛ばした一件などは、現代ならば降着は確実だ。伊崎センセは「あのフェアな吉永を狂気に駆り立てる馬」とミスターシービーを指して言っていたが、ミスターシービーの場合は後方一気ではなく完全な「マクリ」なので、今回の企画とはちょっと違和感がある。やはりここは後方一気にこだわってシービークロスに登場を願おう。<br>　シービークロスは、フォルティノの芦毛馬だが、グレイソヴリン系の中でもフォルティノはカロなど長距離系の馬も出しており、同時代を競り合ったプリンスリーギフト系がほぼ徹底したマイラー血統であったのに対し、グレイソヴリンは基本的にはマイラーであっても距離に対してかなり融通性があり、時折ステイヤーに近い馬も出すのが特徴だった。<br>　シービークロスも、結果から見るとステイヤーと言うにはキレがありすぎて、先に出た話で言うなら、ステイヤーとしては「斬れ」でなく「切れ」に近すぎたために、3000を超えるような距離はいささか長すぎる。ベストは府中の2400か2500だろう。これはブルードメアがパーソロンだったことが大きいと思われる。面白いことに、同期のダービー馬サクラショウリは父パーソロン、BMフォルティノでシービークロスとはまるで逆である。そのベストの馬場・距離条件に一致し、しかもシービークロスの最も好調であったシーズンにぶつかったこの目黒記念こそが、この馬のベストパフォーマンスであろう。<br>この前走の毎日王冠もレコード勝ちで、2走連続レコードというのは後年サクラユタカオーなどもやっているが、ただでさえレコードのレースは消耗が激しく、2回続くとさすがにその後がきつくなるのだろう。ユタカオーの場合は2走目が本番天皇賞だったからよかったが、シービークロスは繋靱帯炎を発症してしまい、この後天皇賞を回避した。もっとも、この時の天皇賞は史上に残る極悪馬場になり、スリージャイアンツとメジロファントムの争いになったあのレースだ。シービークロスが完調で出ていてもおそらくどうにもならなかっただろう。<br>　この目黒記念には、その2頭も出走している。発表は稍重だが、レコードになるような馬場である。スリージャイアンツにしてもメジロファントムにしても、一流ではあるがややジリっぽいので、このくらいの距離での瞬発力はやはりシービークロスが一枚上だ。離れた最後方から①人気で59Kを背負って、ものの見事な直線一気を決めた。<br>　シービークロスは、2つ年下で同じ松山厩舎の大豪モンテプリンスとともに引退式を行ってスタリオン入りしたが、タマモクロスという大物を輩出したほかホワイトストーンやシノクロスを出して、種牡馬としてはモンテプリンスを凌いだ。タマモクロスも種牡馬としてまずまず成功といえる実績を残したのだが、残念ながらメールラインの継承は難しそうだ。白い馬というのは、先に登場しているハクセツもそうだが、人気が出るものである。このシービークロスも金杯で重賞初制覇したあたりから毛替わりの度にどんどん白くなって、ポツンと離れた後方から大外を追い込んでくる強烈な個性から、「白い稲妻」と呼ばれて多くのファンに愛された。<br>1979.11.4　5回東京2日目　11R　（曇・稍重）<br>第89回　目黒記念　4歳上　ハンデ　2500ｍ　10頭<br>1　　5⑤　シービークロス　　　牡5　59　吉永　正人　　R2.32.3　　　①人気<br>2　　7⑦　ブルーマックス　　　牡5　52　東　信二　　　　1 1/2      ④<br>3　　1①　スリージャイアンツ　牡5　55　小島　太　　　　アタマ　　 ②<br>4　　8⑩　メジロファントム　　牡5　57　横山　富雄　　　　3　　　　③<br>5　　3③　ヒロノスキー　　　　牝5　52　郷原　洋行　　　　3/4      ⑥<br>6　　4④　アサヒダイオー　　　牡5　57　安田　富男　　　ハナ　　　 ⑦<br>7　　2②　バンブトンコート　　牡5　62　伊藤　清章　　　　1/2      ⑤<br>8　　8⑨　ダンケンジ　　　　　牡6　56　中島　啓之　　　　9　　　　⑧<br>9　　6⑥　マイホース　　　　　牡5　54　星野　信幸　　　　1/2　　　⑩<br>10　 7⑧　ヒダカホーリュウ　　牡5　53　岡部　幸雄　　　　9　　　　⑨<br>　単280　複120、220、130　連⑤－⑦1120<br><br>第10位<br>右に1頭、左に2頭、マラドーナのドリブル突破<br>1977年皐月賞（ハードバージ）<br>　先にサンエイソロンのところでちょっと書いたが、勝手にBEST10・追い込みレース編の掉尾を飾るのは競馬界のマラドーナ、ハードバージだ。前出の「瞬発力3強」パーソロン・ファバージ・ダイハードの3頭のうち、ファバージの仔であり、ブルードメアがダイハードという「究極の切れ味血統」であるハードバージの皐月賞は、かの天才ジョッキー福永洋一が関東圏で唯一勝ったクラシックである。<br>まだ生きているのにすでに伝説化されたこの孤高の天才ジョッキーは、瞬間的な判断力の速さ正確さ、騎乗技術の確かさに加え、「栗東にいる全部の馬の脚質を暗記してやる」と豪語して競馬四季報に囲まれた日常を送るなど、努力家でもあった。（以下、馬クラブ流に洋一という）<br>　洋一は、その後のどんなジョッキーとも比較することができない。後年すべての記録を塗り替えている武豊にしても、我々の知る洋一を超えたかというと難しい。私が見てきた洋一のレースの中で、ニホンピロムーテーの菊花賞で見せた向こう正面先頭の大バクチもそうだが、特にインターグロリアのエリザベス女王杯と、今回ここで取り上げたハードバージの皐月賞は、洋一以外のジョッキーが乗っていたら、ペリエやデットーリやデムーロでも勝てなかったのではないかと思っている。あの忌まわしい毎日杯のマリージョーイでの事故がなければ、一体後年の日本の競馬がどれほど変わっていただろう。本当に愚痴になってしまうが、これだけは本当に悔やまざるを得ない。あの時、TV観戦していた毎日杯で、いつまでも起き上がらない洋一を捕えた映像が、今でも記憶に残っているが、もうこの話はよそう。<br>　この年のクラシックは、正直語ると悲しくなる。マルゼンスキーがいたからだ。競馬のレギュレーションは都度変更されるが、昭和47年の最強世代の後、確かハイセイコー・タケホープ世代からだったと思うが、持ち込み馬はクラシックに出られなくなる。この訳のわからない大改悪ルールにより、この年のクラシックは何とも味気ないものになってしまった。マルゼンについては今後まだ語る機会がいくらもあろうから一筆置いて、ハードバージの話をする。<br>　とにかくこのハードバージという馬を語るといろいろある。まず、未勝利を勝つのに実に7戦を要している。夏の札幌でデビュー以来、⑧④④消⑦②③と勝ち切れず、未勝利脱出は1月の京都である。この当時サンシャインをやっていてもだれも取っていなかっただろう。そして皐月①ダービー②で夏のセリで3億くらいして、1回も使わず終わりか。サンシャインが当時なくて良かったなというようなもので、今もしこのパターンの馬が出たら、ひどい犠牲者が一人出るな。<br>　また話が飛んだ。まじめな話に戻すと、ファバージは先に「瞬発力3強」とも書いたが、<br>プリンスリーギフト系にあっては一頭異常なほど距離がこなせる馬を出す血統で、すでにヨーロッパで凱旋門賞馬ラインゴールド、伊ダービー馬ゲイルーザックや英チャンピオンSのジャコメッティなどを出して成功しており、この年がまだ3年目の産駒で、ファーストクロップのホシバージらがデビューした夏の北海道シリーズで「ファバージ旋風」を起こしたように2歳から仕上がりも早い血統であった。ところが、ハードバージはこのように未勝利脱出に7戦も要している。実に不思議な現象だが、前出ホシバージも夏の2歳戦で活躍したあと一旦頭打ちになり、5歳で再度本格化して、京都記念で後輩の大豪テンポイント相手に差のない②着するなど再充実しており、ハードバージも仕上がりの早いファバージではなかった分だけ、ダービーの距離も問題なかったということになるのだろうか。<br>クラスが上がって1勝級の条件特別を⑤着したあと、毎日杯に内田国夫で出走し、楽に抜け出して2勝目を重賞で飾る。これでクラシックの権利が取れたので勇躍東上となるのだが、ここで鞍上が洋一に替わるのである。<br>　この年の主力はマルゼン抜きであれば、マルゼンとハナ差勝負をしたこともあり、朝日杯ではマルゼンにぶっちぎられたが一応②着していて、しかも年明けから京成杯、東京4歳S（現：共同通信杯）を連勝しているヒシスピードが断然のはずだった。ところが、スプリングSで不良馬場の中、ヨシノリュウジンの③着に負けており、ヒシスピード自身道悪はうまいはずだったので、東京4歳S後に削蹄のミスからちょっとした不安が出た影響ではないかという説もあって、皐月賞では一応①人気にはなっていたもののオッズは3.9倍だから、そう信用されていた訳ではなかった。また阪神3歳Sを勝った西の王者リュウキコウは年明けにもきさらぎ賞を勝って東上してきたが、スプリングでヒシスピードのうしろの④着と評価が難しいところがあったが、皐月賞では結局②人気になった。<br>　一方弥生賞組であるが、弥生賞はこの年が第14回で、プレストウコウが①人気で③着に負けているのだが、この前年の第13回まで、弥生賞というレースでは①人気が連を外したことがなく、弥生賞の歴史上初めて①人気で連を外したのがプレストウコウであった。この時勝ったのが名牝トーストの産駒で巨漢のラッキールーラ。②着はカネヒムロの仔カネミノブで、プレストウコウもノボルトウコウの下だから良血馬ばかりだ。一方で①人気のヒシスピードと②人気のリュウキコウが、ともに父が内国産の非常にマイナーな種牡馬であるヒシマサヒデとリュウファーロスというのも面白かった。<br>　皐月賞のレースは純然たる逃げ馬はおらず、先行力のあるラッキールーラが逃げて直線に向いたが、有力どころの動きがもどかしい中、ハードバージは洋一の瞬間的な判断で内にもぐりこんだ。もちろん人気も⑧人気とあまりないので楽な立場ではあるのだが、この後のハードバージは考えられないような追い込みを決める。右に一頭、左に二頭と目まぐるしいコースを取りながら、バタバタと前の馬を抜いていく。今にして思えば、1986年のサッカー・メキシコＷ杯の準決勝、ディエゴ・マラドーナが見せた5人抜きのようなもので、洋一とハードバージの「皐月賞ドリブル突破」は競馬界のベストゴールの一つとして、悲運の天才ジョッキー福永洋一の名とともに永遠に語られていくだろう。<br>　ハードバージのその後については、悲しいエピソードが残っている。ダービーで洋一が乗れなかったのが悲運の始まりだったのかもしれない。現代のフリージョッキー制度の中では考えられないようなことだが、ダービーで皐月賞馬ハードバージの背に洋一の姿はなかった。ここまで3連勝のホリタエンジェルに乗っていたのである。洋一がホリタエンジェルを選択した訳ではない。当時ならば当たり前であった厩舎の「しがらみ」である。<br>　それでも、名手武邦彦を背にしたハードバージは、正攻法で外から豪快に追い込んできた。しかし、大尾形最後のダービー馬となるラッキールーラを、必死で追いまくる伊藤正徳の気迫にわずかに押されて、アタマ差だけ届かなかった。<br>　そして、このころの馬には当たり前のような話だが、この後脚部不安に陥ってレースに使うことはなかった。ハードバージも血統はスターロッチの名牝系で、しかも母ロッチの父はダイハードだから、これはもうハードバージが切れるのは当たり前だ。もし2冠馬であったら、いくらか種牡馬としての待遇も変わったのだろうか？いやいや、やはり当時の状況では苦しいことには違いなかったろう。種牡馬としての実績を残せなかったハードバージはのちに去勢され北海道の乗馬クラブに移る。しかし、もともと気性が荒かったハードバージは去勢されても乗馬には向かないと判断され、福井県の観光施設に送られる。何と、観光用の馬車を曳いていたというのである。そして、この施設で真夏も働いているときに熱射病で死んだ。このエピソードはある新聞に取り上げられ、ＧⅠ級馬のようないわゆる「功労馬」の扱いに物議を醸すこととなり、後年こうした馬が余生を送るための施設を充実させるきっかけになった。<br><br>1977.4.17　2回中山8日目　9Ｒ　（晴・稍重）<br>第37回皐月賞　4歳牡牝　定量　2000ｍ　19頭（全馬牡4）<br>1　　2③ハードバージ　　　　57　　福永　洋一　　2.05.1　　⑧人気<br>2　　2④ラッキールーラ　　　57　　伊藤　正徳　　2 1/2     ④<br>3　　7⑯アローバンガード　　57　　柴田　政人　　アタマ　　⑬<br>4　　4⑦パワーシンボリ　　　57　　安田　富男　　2 1/2     ⑥<br>5　　8⑱ロングイチー　　　　57　　松田　幸春　　　ハナ　　⑱<br>6　　7⑮カネミノブ　　　　　57　　加賀　武見　　　クビ　　③<br>7　　6⑭ヒシスピード　　　　57　　小島　太　　　　ハナ　　①<br>8　　3⑥パリアッチ　　　　　57　　吉沢　宗一　　　クビ　　⑩<br>9　　1①ヨシノリュウジン　　57　　中島　啓之　　1 1/4     ⑦<br>10　 5⑩ボルテール　　　　　57　　郷原　洋行　　アタマ　　⑨<br>11　 6⑬スタイリスト　　　　57　　安田　伊佐夫　2 1/2     ⑤<br>12　 7⑰エースドラゴン　　　57　　嶋田　功　　　　クビ　　⑯<br>13　 8⑲プレストウコウ　　　57　　岡部　幸雄　　　ハナ　　⑪<br>14　 8⑳アカネリウオー　　　57　　菅原　泰夫　　　2　　　 ⑰<br>15　 3⑤ニッセキハーミット　57　　清水　出美　　　2　　　 ⑭<br>16　 5⑨リュウキコウ　　　　57　　久保　敏文　　2 1/2     ②<br>17　 5⑪フジノミラージュ　　57　　的場　均　　　2 1/2     ⑮<br>18　 1②テンザンサクラ　　　57　　堀井　雅廣　　　7　　　 ⑫<br>19　 4⑧ソーウンムサシ　　　57　　蛯名　信廣　　　3/4　　 ⑲<br>消　 6⑫タカアキオー　　　　57　　柴崎　勇　　　（骨折）<br>　単1490　複650、350、1940　　連②－②7730<br><br>あとがき<br>　実は、こんなに長くなるとは思わなかった。Wordで29ページでは立派な「読み物」になってしまった。そのため時間もかかり、当初より2週間余計にかかっている。特に困ったのは9位と10位で、このころになると入れたいレースがまだいっぱいあって、どれを選択したものか本当に困った。結局上のようなランキングにしたのだが、最後まで候補に残っていて入れたかったレースを以下に記しておく。<br>一度だけしか見ていないがニットエイトの天皇賞<br>レコードになったジュウジアローの毎日王冠<br>63キロを背負い切った20勝投手、ヤマブキオーの函館記念<br>流感明けで集結したスターをなで切ったトウショウピットの中山記念<br>文中登場した逃げ馬の追い込み、キョウエイグリーンの安田記念<br>条件戦だがホントに凄かったフェアーリュウのディセンバーハンデ<br>もう一頭の瞬発力3強、ダイハードの傑作スカイリーダの京都記念春秋連覇<br>などなどである。<br>　冒頭にも文中にも再三記したが、当節のスロー競馬は「追い込み」とか「後方大外一気」とかいう言葉を風化させてしまいそうだ。スローの競馬は本当につまらないので、何とか昔のようなバラエティに富んだレースにならないものかと願っている。<br>　さて、最後に次回予告だが、追い込みをやったら「逃げ」に決まっている。<br>　もちろん私が勝手に選ぶのだが、自分で忘れている中に聞けば「なるほど!」と思うものもあるかも知れない。意見があればメールで聞かせていただきたい。<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　校了　2012.3.20<br>
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<link>https://ameblo.jp/umakurabu2012/entry-11331344380.html</link>
<pubDate>Sat, 18 Aug 2012 05:44:55 +0900</pubDate>
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<title>勝手にベストテン（２）追い込み編（１）</title>
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<![CDATA[ 勝手にBEST10 第2章 追い込みレース<br><br>第2回の今回は、追い込みレースを特集した。これは、歴史に残る豪快な追い込みの決まったレースを集めたもので、例によって私個人の主観によるものなので、必ずしもメンバーのみなさんと意見が合うかどうかはわからない。今回の基準としては、①派手に見えた追い込みとともに②内容のある追い込みで決まったレースがテーマで、個体の追い込み型の馬を指すのではなく、レースである。あまり派手さはなくても内容の凄いものはより上位になっている。また、圧倒的に古い時代のものが多い。これはある意味当然で、近年のスロー競馬では後方一気の胸のすくような追い込みなどはとてもではないが困難になってきており、昔我々が見てきたようなレースはもうしばらくしてレースの形態が変わってこないと見ることが難しいだろうと考えている。（そこまで生きていないだろう）<br>それに、例を取れば昔のダービーは28頭立てであり、頭数が多い分能力差も上下に大きいので、本当に強い追い込み馬であれば、ばてた馬20頭くらいは交わせるもので、これを実践したのが後で登場するヒカルイマイだ。では始めよう。<br><br>第1位<br>東西対抗時代の白眉<br>1970年スプリングS（タニノムーティエ）<br>このレースは、この後登場するレースほどには「後方一気の猛烈な追い込み」というイメージがない。何しろ、タニノムーティエは歴史に高名な追い込み型の馬ではあるが、コウジョウやシービークロスのような後方一気の追い込み一辺倒でもなく、ダービーで勝った時も10番手以内と言われる、いわゆるダービーポジションもだいたいキープしている。（当時の記録を見ると12～13番手だが、このあたりは並んでいるので、10番手とも似たようなものだ）ではこのレースがなぜ第1位なのか？それをこれから説明しよう。<br>この年のクラシックは2歳時（注：年齢表記は、本文中は新表記。ただし古い記録やレース名等は旧表記とする。昔の3歳Ｓを2歳Ｓとは書けないだろう。わかりにくいが、馬クラブレベルなら前後の文脈などから読み取ってもらいたい）に東西のチャンピオン決定戦である朝日杯3歳Sと阪神3歳Sを勝った東西の両巨頭、アローエクスプレスとタニノムーティエの一騎打ちという評判だった。この2頭名前が長いので、普通に馬クラブ流で、以下アローとムーティエで記す。これで通じないようでは馬クラブではない。馬クラブではアサマと言ったらメジロアサマだし、ムサシと書けば自動的にメジロムサシ、アカネと書いたらアカネテンリュウに決まっている。チカラはもちろんタニノチカラだ。<br>このころは現代とファンの考え方も大いに違っており、関東・関西のいわゆる「縄張り意識」が強く、関東のファンは関東馬を、関西のファンは関東以上の意識で関西馬を応援するという時代で、それが昭和50年代、グレード制導入のあたりから輸送事情の向上などで東西の交流が盛んになって様変わりし、平成になるや東西の対抗意識はどんどん希薄になっていく。現代の競馬ファンは、東西など気にしないどころか、東西対抗意識そのものを理解することすら難しいだろう。「昔は何でそんなこと気にしたんですか？」と逆に聞かれそうだが、アラブに読売カップという東西対抗レースがあったことが懐かしい。<br>そんな東西の対抗意識が最高潮だった時代において、もっともそれらしい東西対決のケースが、このアローVSムーティエだっただろう。<br>アローは2歳時5戦5勝でまだ負けを知らず、名牝ソーダストリームの良血馬として華麗なムードを漂わせる気品ある馬で、一方ムーティエも日高の宝と後年呼ばれる名牝タニノチェリの仔である。ただし、見た目はアローよりもだいぶ落ちる。弟タニノチカラは気品があったが、ムーティエは非常に華奢で頭（顔？）が大きく、いわゆる「いい馬」ではなくて、むしろ歴代名馬の中にあっては貧相な部類に入る馬である。<br>名血とは言っても、このどちらも自分自身が母の名を高める働きをしたのであって、アローは上にファラディバやミオソチスがいて、この姉たちも良く走ったが、競走馬としてそう物凄い活躍をした訳ではなく、母の名を高めたのはアロー自身や姉の子供たちだし、ムーティエも自身が母タニノチェリの初子で、弟チカラと2頭の大活躍によって母の名が上ったものだ。<br>従って、アローはともかく、ムーティエがデビュー当時から名血と考えられていたのとはちょっと違うだろう。名血と呼ばれるのはこのライバル2頭よりも下の弟・妹たちである。ともあれ、この2頭の頃は現代とは先に記したようなファン心理、競走馬に対する考え方、馬の造り方はもちろん、何よりローテーションにはとてつもない差がある。これはプロ野球のピッチャーローテーションに通じるもので、以前も何かで書いたが、金田の400勝や298敗、米田の949登板、そして雨・雨権藤のローテーションなどは今後全く考えられず、これらのプロ野球記録はもう永久に破られることはない。<br>　競馬の世界でも同じように、2歳時のムーティエのローテーションなどは、現代の若い競馬ファンが見たら腰を抜かすようなものであろう。我々の若いころには、2歳のデビューが早かった馬の中には2歳時に10戦くらいする馬はそんなに珍しくなかった。<br>そんな訳で、ムーティエは2歳時に9戦し7勝、デイリー杯3歳Ｓ・阪神3歳Ｓを勝ち、（2歳時と表記しながら3歳Ｓか。本当に書きにくいし、読みにくいだろうな）年を越してからもきさらぎ賞を勝って勇躍東上してきた。その緒戦の弥生賞は東京で、しかも降雪によりダート変更だったが、ムーティエは2歳夏に札幌のはまなす賞（当時の札幌は左回りで芝コースはなく、ダートのみ）で大差勝ちしているくらいでダートは何ら問題なく、ウメノダイヤ以下に順当勝ちした。<br>一方、アローは朝日杯圧勝後、年頭の京成杯を使い、勝ちはしたものの差は僅かで危ない勝ち方であった。この後一息入れて6戦6勝で本題のスプリングＳを目指す。<br>　現代ならば本番まで対決はないのだろうが、このころは弥生賞を使ったからといってスプリングを使わないような軟弱なことはしない。ムーティエも堂々出走してきて、アローと初の対決となった。<br>直線、アローは豪快に抜け出す。普通なら圧勝のところだった。ところが、後方の馬群から唯一頭、ムーティエが抜け出してアローに追いすがってきた。猛烈な脚であった。坂の途中まではアロー圧勝の雰囲気だったのだが、坂上で見事に覆されてしまった。結果は3/4差。決定的な差し切りである。③着までは6馬身。この結果から見えることは…<br>　つまり、アローは普通ならばスプリングＳを6馬身ぶっちぎって勝っているのである。言ってみれば、トウショウボーイが皐月賞で5馬身離したが、あのトウショウボーイを後方からテンポイントが差し切ったような状態と言えるのだ。このレースのラスト1Ｆは11.7だから、アローの上がりは11.8から11.9だろう。現代なら上がり11.0などということもあるが、この当時の上がり11.7は完全に「伸びている」状態である。「伸びている」アローを上回る脚でムーティエは差した。<br>冗談ではない。相手も強いのに、なぜこんなことができるのか？この時のムーティエは本当に神がかりだったと今でも思う。<br>完璧なパフォーマンスでぶっちぎりにかかっている強い馬をさらにうしろから差す馬がいる！今考えても非常に衝撃的である。ナリタブライアンやディープインパクトはダービーで5馬身ぶっちぎっているが、さすがにこの2頭をうしろから差すなどと想像するには話が大きすぎるにしても、同じようにダービーで6馬身ちぎったメリーナイスを後方からなにかが差していたら、これも相当凄いだろう。③着との着差だけから考えれば、昨年のダービーでオルフェーヴルをウインバリアシオンが差していたら、これは近いケースになったかもしれない。強い馬がベストパフォーマンスで5馬身も6馬身も抜ける時は自身もかなり伸びている訳だから、その伸びている馬を後方から差すなど、普通の競馬常識では考えられないことである。だからこのレースは凄いのだ。このレース後、アローの鞍上は柴田政人から加賀武見へと、有名な乗り替わり劇が起きることになる。<br>本番皐月賞でも全く同じような展開となったが、こんどはアローも死に物狂いで踏ん張った。しかし、長い距離馬体を接して競り合ったものの、やはり頭差及ばず、再びムーティエに軍配が揚がる。この皐月賞なども、先の名勝負BEST10の候補レースのひとつだ。<br>ここでは、当時ラジオ関東（現・ラジオニッポン）の窪田康夫アナの実況が非常に印象深い。「アローとムーティエ、再度の一騎打ち! ムーティエ、アロー、ムーティエ、やっぱりムーティエだ～」この実況フレーズは、後にラジオ関東の競馬中継でオープニングにも使われていたので、記憶している方もいるだろう。<br>次のＮＨＫ杯では道悪となった。ムーティエも道悪がだめという馬ではないが、ここでは道悪得意のアローが一気に抜け出した。ムーティエは安田伊佐夫がゴール板を右回りのものと間違えて追うのを止めてしまうハプニングもあったが、この一件はレースの勝敗には全く無関係だった。<br>ところで、我々オールドファンには懐かしい府中の右回りコースだが、当時を知らないメンバーのために書いておくと、距離は1200で、向こう正面からスタートし、2000ｍのスタート地点に向かって外回りコースを走る。そして、通常の左回りのゴールを通過して、あと200のハロン棒のあたりにもう一つのゴール板があったのだ。この右回りの1200は1982年秋、ハーフアイストの勝ったジャパンC当日の午前、3Rに2歳のオープン戦があり、翌年のクラシックで活躍するビンゴカンタ（ミスターシービーのダービー③着、菊花賞②着）が勝ったのだが、このレースを最後に廃止された。ゴール板が2つあって、この時の安田伊佐夫のように慣れない関西のジョッキーが間違うケースが後を絶たなかったことと、ゴール直後に馬を止めるタイミングのところで下り坂にかかるのが危険であるという理由からだった。（私に言わせるとゴール板を間違うというのはプロとして恥ずべきことだが）<br>ともあれ、安田が追い続けていたとしても、この時は間違いなくアローが勝っている。<br>そして雌雄を決するダービーであるが、この時は先に記したようにムーティエがかなり早く行って、1コーナーをちょうど10番手くらい（この年のダービーは当時としては頭数が少なく、22頭）で回った。4コーナーでは先頭にごく近いポジションまで上げており、距離に苦しむアローを振り切って、追いすがってきたダテテンリュウも抑えて2冠を達成する。アローは差のある⑤着がやっとだった。<br>結局、この2頭とも輝いていたのはここまでだった。ムーティエは夏に牧場で石灰を吸い込んだと言われているが重度のノド鳴りになってしまい、秋初戦の朝日CCと京都杯を大敗。3冠のかかった菊花賞では4コーナーで上がって行って大歓声を浴びたものの、そこで終わってしまい、完治が難しいとの判断でこれを最後に引退した。<br>アローは秋以降も無事に走ってはいたものの、もともと脚が外向のうえ530Kもの巨漢であるために、常に完全ではなかったのに加え、おそらくは父スパニッシュイクスプレスの早熟性と距離の限界など複合的な要素によるものなのだろうが、一流相手にいい勝負はしてもなかなか勝ち切れなくなってしまう。当時の番組には、現代のマイルCSなどは影も形もなく、安田記念もハンデ戦。せいぜいアローに向いたレースとしては宝塚記念や高松宮杯ということになろうか。その宝塚も宮杯も不安で使えなかった。<br>アローはスピード馬の中でも基本的にはマイラーであり、マイルはもちろん2000ｍも得意である。距離適性は後年のトウショウボーイと極めて近い。従ってスプリンターではないのだが、このころのメンバーであればスプリンターズSくらいは十分勝てるスピードを持っていた。しかし、最後のレースとなったスプリンターズSは、どこをどう見ても完調には程遠く、④着となって現役を終えたが、まともであればこの時勝ったケンサチオーあたりに負けるような馬ではない。しかし、アローは天皇賞には出ていないが、当時はこうした馬でも平気で3000の菊花賞や3200の天皇賞を使う時代であった。<br>結局アローはムーティエと6回走り3勝3敗だが、ムーティエがノド鳴りになってしまった秋の京都杯や菊花賞での先着に大した意味はあるまい。実質的にはＮＨＫ杯一度しか勝てなかったと言っていいだろう。競走馬としてはムーティエの圧勝だった。<br>しかし、種牡馬となってから態勢は大逆転する。種牡馬として成功する要素である、①血統背景②スピード③馬格をすべて持っていたアローは、内国産種牡馬不遇時代の中で孤塁を守り続けていたシンザンをサポートし、後年トウショウボーイ、マルゼンスキーにバトンを渡す貴重な「中継ぎエース」の役割を果たす大成功を収める。特に牝馬に活躍馬が多く、2冠馬テイタニヤによって「花の便り」を届けられてからは、リーゼングロス、ノアノハコブネ、ジュウジアローらが大活躍をした。当初はマツケン農場に繋養されていたが、マツケン農場というところは静内でも豊畑地区という非常な奥地にあって、交通が不便極まりない。人気種牡馬としては場所が悪かったからか、すぐに田原地区の静内スタリオンに異動になった。私のいた千代田牧場のすぐとなりである。と言っても北海道のことなので2キロくらいはあるが。その一年前、まだ千代田に入る前だが、静内スタリオンで2時間くらいずっとアローだけを見ていたことがある。もうすっかり落ち着いた種牡馬になっていたアローは、ただ黙々と草を食んでいた。よく飽きもせず2時間も見ていたものだが、その静内スタリオンは2005年に閉鎖された。<br>アローに比して、ムーティエの種牡馬成績はおよそアローのライバルなどと呼べるものではない。やはり、馬格のあるスピード型のアローに対し、華奢な追い込み型のムーティエは種牡馬としては分が悪い。初期にタニノサイアスが桜花賞④着、タニノレオがオープン入りしてダービーにも出走し、父が4角で上がって行った時には大歓声の上がった菊花賞では、あのTTG3強の⑤着（ダービー馬クライムカイザーと同着）に頑張ったのが中央での主な実績で、あとは東海公営でハローキングが活躍した程度に終わっている。<br>1978年夏、当時千代田牧場にいた私は、同じ静内にあるカントリー牧場を訪ねた。カントリー牧場の入口には、「当牧場は観光施設ではなく、関係者以外の立入は一切お断り…」というような看板がかかっており、牧場見学に行った熱心なファンもここでみな門前払いになってしまう。しかし、私は静内の夏のセリ会場で親しくなった女の子が（注・別にややこしい関係ではないぞ）カントリーの従業員だった関係で見ることができた。<br>そしてつい先頃、タニノハローモア・ムーティエ・ギムレットにウオッカ。4頭ものダービー馬を輩出したカントリー牧場もその歴史を終えることが発表された。<br>失われゆく記憶とともに、またひとつ、美しい時代が去ってゆく。<br><br>1970.3.22　1回中山2日　11R　（曇・良）<br>第19回フジテレビ賞スプリングＳ　1800ｍ　13頭（全馬牡4）<br>17⑩タニノムーティエ　　55　安田伊佐夫　1.49.9　①人気<br>24⑤アローエクスプレス　55　柴田　政人　　3/4   ②<br>34④メジロムサシ　　　　55　町田　精生　　 6    ⑥<br>45⑦キクノホープ　　　　55　横山　富雄　　1/2　 ⑤<br>53③ヒダプレジデント　　55　池上　昌弘　　1/2　 ⑫<br>67⑪スイノオーザ　　　　55　野平　祐二　　クビ　③<br>76⑧シュツロスツワイテ　55　嶋田　功　　　3/4　 ⑬<br>85⑥トレンタム　　　　　55　大和田　稔　　1/2　 ⑦<br>98⑬ウメノダイヤ　　　　55　久保　敏文　 1 1/4  ⑧<br>102②タニノモスボロー　　55　丸目　敏栄　　1/2　 ④<br>111①マサミンシオ　　　　55　武田　悟　　　 1    ⑩<br>126⑨グランドプロス　　　55　栗田　勝　　　 2    ⑨<br>138⑫クロスニット　　　　55　津田　昭　　　 6    ⑪<br>単230　複120.160.320　連④－⑦260<br><br>第2位<br>「馬なり」追い込みの衝撃<br>1971年牝馬東京タイムズ杯（トウメイ）<br>このレースも先のスプリングS同様に、物凄い後方一気の追い込みというのとはちょっと違った選択理由である。理由はこうだ。「持ったまま逃げ切る馬はいくらもいるが、持ったまま追い込んだのはトウメイしかいない」これである。まあ凄いパフォーマンスだった。　　<br>最近のレーティングなどでも着差が評価の対象になる。それは別に反対ではない。強い馬はぶっちぎるものと言うのは、マルゼンスキーが理想の競走馬だと思っている私としては基本的に賛成である。しかし、反面この時のトウメイのような、着差はあまりなくとも圧倒的実力差を感じさせるレースというのは見ている者をうならせる。「持ったまま」抜け出すというのは実に恰好いいが、力が違っていれば当たり前だし、中には持ったままで勝ったはいいが、次のレースで追い出してみたら案外馬なりと変わらなかったなどというケースはいくらでもある。<br>そうした意味では、この時のトウメイは正真正銘の「ホンモノ」であった。そも、この時のトウメイは59Kを背負っている。セックスアローワンス2Kを考えると61Kレベルだ。（まあ牝馬同士なのでそうした意味では同じだが、馬個体の負担では）<br>トウメイという馬は、3歳春のクラシックからずっと一線級だが、後世に稀代の女傑として語られるようになったのはもちろん古馬となってからの天皇賞、有馬記念連覇である。<br>昭和44年3歳世代であり、桜花賞では若き杉本アナが初めて担当したクラシック実況で、「トウメイかヒデコトブキか、わずかにヒデ!　ヒデコトブキ!」で②着に負けてしまう。<br>本来は、トウメイはオークスこそ勝つべき馬だった。いくら何でも負けないはずの、現代では考えられないような状況のオークス9頭立て。相手と言ったらライトパレーくらいかなーという中で、トウメイはシャダイターキン、ライトパレーの③着に負けてしまう。普通に走れば、未完成時代のトウメイでも軽く勝てたはずであるが…<br>3歳時の話はそこまでとして、トウメイはオークス後、あまり表舞台には出なくなる。<br>当時たくさん組まれていたオープンレースが主体で、重賞と言えば京都牝馬、阪神牝馬、阪急杯、マイラーズCといった、一線級があまり使わない牝馬限定戦や短距離レースしか出てこない。つまり、このころよくいた「オープン大将」状態だったのである。<br>この少し後にコーヨーという名高いオープン大将が出るが、もしトウメイが天皇賞・有馬記念を勝たなかったら、「オープン女王」のままだっただろう。ところが、そのオープン女王状態が、5歳を迎えて変化を見せ始める。トウメイは生涯31戦16勝だが、31戦すべて掲示板を外していない。数字で言うなら16.10.2.1.2.0だが、5歳正月に⑤着して以来、まず連を外さなくなり、続いて連勝が始まった。負けなくなったのである。この中には前年に続き連覇となったマイラーズCが含まれる。それでもまだ天皇賞と有馬記念を連覇するなどとは到底考えられなかったが。<br>トウメイの5歳時、つまり昭和46年はトウメイの父シプリアニの当たり年であって、3歳では後で登場するヒカルイマイが皐月・ダービーの2冠馬となる。このような背景の中、この年一杯で引退を決めていたトウメイはいよいよ天皇賞挑戦に動き出す。その前哨戦として出走してきたのがこの牝馬東京タイムズ杯（現・府中牝馬S）であった。<br>前走のオープンで54Kの軽量でありながら、ウチュウオーの②着に負けていたが、（懐かしい名前だ、ウチュウオーとは。テューダーペリオッドだったな）先に記したようにこのレースでは59K。レースは54Kのパールフォンテンが抜け出すが、大外から後方にいたトウメイが迫ってきた。それはよく牝馬のマイラーが使うようなピュッという早い脚ではなく、じわじわとした重厚な脚で、一歩一歩迫ってくるような感じなのだが、驚くべきことに鞍上の清水英次の手が全く動いていない。見事なまでの「馬なり」なのである。結局、着差は１馬身1/2ながら、最後まで全く持ったままでのゴールとなった。これには驚嘆したものだ。逃げた馬や、好位から抜け出した訳ではない。59Kを背負った牝馬が、最後方から追い込んでのものである。口をあんぐりと開けて呆れてしまうようなレースだった。<br>天皇賞・有馬記念の連覇はあまりここに書く必要もないだろう。有馬記念は例の流感騒ぎの当日で、前章でも書いたがアサマもアカネも取り消してムサシはハナタレなので、まあ勝って当たり前である。しかし、この時はこれらのライバルが順調であったとしても、おそらくトウメイは勝っただろう。<br>トウメイ後、牝馬は天皇賞や有馬記念を勝てなくなる。プリティキャストの問題のある逃げ切りはあったが、牡馬に伍して有力な牝馬が天皇賞または有馬記念を勝つのはエアグルーヴまで待たなければならない。馬クラブでも長いこと、名牝を超えた強豪牝馬として、「スピードのガビーと力のトウメイ」として語られたものだ。<br>トウメイが走っていたころから40年、現代ではダイワスカーレット、ウオッカ、ブエナビスタらによって、牝馬がトップＧⅠを勝つのは全く珍しくなくなった。単純な実績ではこれらはトウメイを超えているとも言えるし、実際いま名馬ランキングをやったらトウメイはこれら最近の名牝よりもかなり下位になるだろう。しかし、時代背景を考えるとき、このトウメイの偉大さは、我々当時を知る人間が後世に語り継がねばならないと強く思う。　<br>トウメイは、後年テンメイを生み、テンメイは母が勝った秋の天皇賞を、同じゼッケンで勝つというドラマチックな活躍をする。こうした話題性もトウメイの「持っている」何かではないだろうか。<br><br>1971.10.31　5回東京6日　8R　（晴・重）<br>第19回牝馬東京タイムズ杯　4歳上牝馬　別定　1600ｍ　13頭<br>1　 8⑬トウメイ　　　　　　牝6　59　清水　英次　1.38.2　①人気<br>2　 7⑪パールフォンテン　　牝6　54　古賀　一隆　1 1/2　 ⑪<br>3　 6⑨クリケント　　　　　牝5　52　飯塚　好次　2 1/2　 ②<br>4　 1①ニットライト　　　　牝5　53　川越　胖　　クビ　　③<br>5　 8⑫ナスノカオリ　　　　牝4　54　嶋田　功　　ハナ　　④<br>6　 6⑧キヨズイセン　　　　牝5　53　森安　重勝　1 1/2　 ⑧<br>7　 4④スズランパス　　　　牝4　52　郷原　洋行　　3　　 ⑨<br>8　 5⑥アモン　　　　　　　牝5　52　池上　昌弘　クビ　　⑫<br>9　 4⑤ハッピーゴールド　　牝4　52　加賀　武見　1 1/2　 ⑤<br>10　2②シャインオーヒ　　　牝4　51　安田　富雄　アタマ　⑬<br>11　3③ラファール　　　　　牝4　51　中島　啓之　クビ　　⑦<br>12　5⑦グレートライナー　　牝4　51　樋口　弘　　1 3/4　 ⑥<br>13　7⑩オノサクラ　　　　　牝5　52　吉永　正人　1 3/4　 ⑩<br>　単250　複150.510.190　　連⑦－⑧1650<br><br>第3位<br>純白の矢、瞬発力の極致<br>1968年牝馬東京タイムズ杯（ハクセツ）<br>奇しくも、第2位のトウメイと同じ牝馬東タイ杯が選ばれたが、トウメイの時に書いたじわじわとした重厚な脚とは全く反対で、このハクセツはいかにも牝馬らしい一瞬の脚という感じなのだが、凄いのはほとんど府中の直線一本に近いくらいの間その脚を使っているであろうことだ。「であろうこと」とは他でもない。私はこのレースは生では見ていない。　<br>何かの本で読んだ物凄い追い込みレースのランキング上位に入っていたので、見たいとは思っていたのだが、先に「勝手にBEST10①」の冒頭で記したVTRの中に、追い込みBEST10としてこのレースが入っていたのである。<br>このVTRを見た時は驚嘆した。なるほどこれはもう凄いなどというものではない。4コーナーを回るとき、ハクセツの白い体はまだ最後方、と言うより一頭ポツンと離れたシンガリで、いくら府中の直線が長いと言っても絶望的な位置である。しかも内ピッタリを回っている。そのハクセツは、その後長く画面から消える。坂を上がる間も、坂を登り切っても全く姿を現さない。実況でもハクセツの名は出てこない。ハクセツの名が実況に登場するのは最後のゴール板が映る画面に切り替わるまさに直前で、「外からハクセツが来た!」と実況があった直後に画面が切り替わると、もうゴール板が映っていて、先頭のニットウヤヨイらが映った直後に、大外をまさに矢のごとく白い馬体が駆け抜ける。他の馬は全く止まっているかのようだ。ハクセツがこの画面を横切るのはせいぜい5秒ほどだろうか。　　<br>直線でハクセツが画面に登場するのはこの約5秒のみなのだが、いくら最軽量49Kとは言っても、まあ本当に呆れるほどの脚である。とにかくこのレースに関しては、このVTRを見れば多くの方が賛同してくれるはずだ。鞍上は若き日の岡部幸雄である。<br>ハクセツは非常に個性的な馬で、当時少ない芦毛でしかも現役時にかなり白かったということ、また妹のジョセツも同じように古馬になってから牡馬相手の重賞を多数勝つ（牡馬相手の重賞はハクセツ2勝、ジョセツに至っては5勝）という、当時珍しい女傑姉妹であった。昔、馬クラブツアーがあり、千葉の扶桑牧場でジョセツとともにいるところを見ているが、おそらく現代だったら今のマシュマロ以上に人気の馬であったろう。<br><br>1968.12.1　5回東京8日　11R　（晴・良）<br>第16回　牝馬東京タイムズ杯　4歳以上牝馬　ハンデ　1600ｍ　16頭<br>1　 1①ハクセツ　　　　　　　牝4　49　岡部　幸雄　1.37.6　 ⑨人気<br>2　 6⑪ニットウヤヨイ　　　　牝4　54　沢　峰次　　 1/2　   ①<br>3   6⑫カネイチョウ　　　　　牝4　50　加賀　武見　　2　　  ⑪<br>4　 1②ルピナス　　　　　　　牝4　56　菅原　泰夫　 1/2     ⑤<br>5　 2④ハードウェイ　　　　　牝4　57　小島　太　　クビ　　 ②<br>6　 8⑮クリアヤメ　　　　　  牝4　56　郷原　洋行　アタマ　 ⑥<br>7　 5⑨キタノセンリョウ　　  牝4　49　増田　久　　ハナ　　 ⑮<br>8　 3⑤スズガーベラ　　　　  牝4　54　徳吉　一己　13/4     ③<br>9　 8⑯ブラックバトー　　　  牝4　54　伊藤　栄　　クビ　　 ⑩<br>10  5⑩コマツシース　　　　  牝5　50　内田　守　　21/2　　 ⑫<br>11  2③ホースジョー　　　　  牝4　48.5増沢　末夫 アタマ　　⑬<br>12  4⑦マルシゲ　　　　　　  牝4　53　古山　良司　　1/2　　⑧<br>13  7⑬サチサカエ　　　　　  牝4　49　大崎　昭一　　1/2　　⑯<br>14　4⑧アン　　　　　　　  　牝4　48　丸目　敏栄　　3/4　　⑭<br>15　 7⑭ヤマトダケ　　　　　牝4　56　島田　功　　　3/4　　 ④<br>16　 3⑥レコードターフ　　　牝4　53　石掛　征雄　　4　　　 ⑦<br>　　単2010　複430.180.880　　連①－⑥1460<br><br>第4・5位<br>2頭のシンザン産駒<br>1972年日本短波賞（スガノホマレ）<br>1980年阪神大賞典（グレートタイタン）<br><br>偉大なる馬、シンザン。もちろん馬クラブと言えども、シンザンの現役時代を知っているのは現在のメンバー中、Ｆ氏だけだろう。私も谷川牧場では何度か見ているが、そこで見るシンザンは荒々しさが全くなく、どこまでも涼やかで理知的だった。よく、ゴールを過ぎると一番早く止まったとか、ゴールを知っている馬とか言われたりしたが、後年のシンボリルドルフがそうであったように、レースをよく知っていたのは間違いないだろう。長寿の記録をつくって大往生したのも、いかにもシンザンらしく、ルドルフやディープインパクトを見た今でも、これら後輩3冠馬がシンザンを完全に凌駕したとは私は思っていないし、他の馬クラブ諸兄も似たような考えだろう。ルドルフもディープも、「シンザン以下」とは言わないが、「シンザン以上」とも言いたくない。<br>　このあたりは私のシンザン論であるが、シンザンは種牡馬としても偉大であった。シンザンが種牡馬入りした昭和40年代は、ちょうど「戦後」といわれた時代が終わり、日本が高度成長期からバブルの頂点へと駆け上がっていく途中であり（バブルの頂点までは暴走だったが）、昭和30年代後半くらいから、それまでなかなか輸入が難しかったレベルの種牡馬が次々に入ってくる時代で、輸入種牡馬のレベル向上に内国産種牡馬がついて行くのが困難な時代であったのだろう。トサミドリ以降トップクラスの種牡馬になりうる内国産種牡馬は出るのが難しい時代であった。そんな中にあって、私はいつも「孤塁を守った」と表現するが、シンザンがいなかったら、この時代の内国産種牡馬は本当にどうしようもなかったのである。一時代を作ったトサミドリはすでに老齢であり、内国産種牡馬といえばヒカルメイジやキタノダイオー、コダマ、メジロサンマンらがいくぶん活躍してはいたが、コンスタントな活躍が望める訳ではなく、たまに下級重賞級が出てくるか、終世で1頭だけＧⅠ級を出すかという程度だった。シンザンは、いろいろなタイプの産駒を残した。また、先にアローのことを書いているが、アローとは逆にシンザンは牡馬に活躍馬が多い。牡馬の活躍馬は3つのタイプに分類できると思う。<br>①快速系＝スガノホマレ・シルバーランド<br>②強烈な追い込み系＝グレートタイタン・ブルスイショー<br>③先行ないしは中位差し、王道のクラシックタイプ＝ミホシンザン・ミナガワマンナ<br>今回のテーマにランクインしたシンザン産駒がたまたま2頭いたので、合わせて書いてしまえとなったのだが、順位はそのまま④⑤位でいいだろう。どちらも凄いレースだった。<br><br>まずスガノホマレだが、この馬はもともとハナッ早い快速馬であり、自身通算5回のレコードを記録している。これはタケシバオーと並ぶJRA記録だ。JRAになる前の国営競馬時代を入れると、その名もズバリ、レコードオーというウソのような名前の馬がいる。この馬は当時としてはケタ外れの快速馬だったようで、自身でレコードを7回記録したほかに、おそらく逃げて負けたが、それにより他馬がレコードを記録するサポートも7回やっていて、合計14回ものレコードにからんでいる。サッカーで言うなら得点7にアシスト7だ。<br>（レコードオーが逃げ馬だったのは確かだが、全レース逃げたかどうかは記録がないので不明であり、想像である）話をスガノホマレに戻すが、そうした快速馬がこのような追い込みレースのランキング入りするのも面白いが、これがまた本当に凄かった。思うに、「ハナッ早いスピード」を「追い込みの瞬発力」に変換できる逃げ馬がごく稀にだがいるのである。ちょうどこのあたりの時代にはそうした馬がけっこう多くいた。その例が1974年安田記念のキョウエイグリーンと、重賞ではないが同年オクトーバーHのホワイトフォンテンだ。キョウエイグリーンの安田記念は覚えている方もいるだろうが、ホワイトフォンテンが追い込んだのって、覚えているかな？これスーパーマニアックだぞ。このレースはサクライワイがスプリンターズS連覇の1回目、1.08.4の世紀のレコードを記録したレースの次のレースで、ホワイトフォンテンには蛯沢誠治が乗っていたが、このレースの出走馬には当時快速馬として名を売っていたミホノフォードやアカネオウジがおり、他にもスピードのあるマークリボーイなどがいた。もちろんホワイトフォンテンも逃げ馬だが、ホワイトフォンテンよりもっと早い逃げ馬先行馬が多いので、ホワイトフォンテンは蹴飛ばした。そうしたら中山の1800の外枠で出遅れたのである。完全な「アオリ」というやつだ。「よしやった!ホワイトフォンテンは消えてくれた」まあ普通にそう思った。他に快速馬ではあるがもともとスタートに難のあるミホノフォードも先に行けず、レースはアカネオウジが快調に飛ばして逃げた。ホワイトフォンテンは最後方。4角回ってアカネオウジが粘りに粘って、好位追走のマークリボーイが食い下がる。私の馬券③－⑤は大当たり。これは15倍以上つく。しかし、その時大外からホワイトフォンテンが吹っ飛んできたのだ。凄い脚だった。<br>ホワイトフォンテンは、5歳時の日本経済賞で万馬券を出して以降の完成時には、中長距離を一定のペースで逃げるトーヨーアサヒのような逃げ馬として大成したが、3歳春までは短距離の快速馬として鳴らしており、この4歳秋くらいはまだその印象が残っていた。父ノーアリバイは完全なワンホースサイアーで正体の掴めない種牡馬だったが、ホワイトフォンテンのBMはダイハードなので、オクトーバーH時の決め手はダイハードのものと考えると納得がいく。<br>また話が飛んでしまったが、元に戻すとスガノホマレはそうした快速系なので、追い込んで勝ったのはこれ一度きりで、ほとんどが逃げ切りか好位抜け出しである。おそらくこの馬のベストパフォーマンスはこの日本短波賞ではなく、府中で行われた1974年京王杯AHで、当時としては驚異的な1800ｍ1.46.5の日本レコードでタケクマヒカル、カミノテシオ、イチフジイサミらを撃破した時だろう。これもいいレースだった。しかし、ベストパフォーマンスでなくとも、この日本短波賞の印象は負けず劣らず強烈なインパクトがある。<br>この年は、もう何度か書いているが流感明けの年で、クラシックのスケジュールがガタガタになり、短波賞は何と7月30日に行われている。まあダービーが7月9日というくらいなので仕方あるまい。ところが、普通なら夏のローカル真っ盛りのこの時期に、意外にメンバーが揃ったのだ。おそらく、場所が府中だったのと、関東では2か月以上も競馬がなかったので全体に仕上がりが遅れていたこともあったのだろう。ダービーで関西3強に続く関東馬最先着の④着だったハクホオショウ、ダービーは⑥着だったが皐月賞②着のイシノヒカル、他にもオークスで①人気②着だったタカイホーマにタケクマヒカルやらアラカワタンユウやら、何とも面白いメンバーが出走してきた。大体、本来の逃げ馬が追い込んで来るなどという場合は、お決まりのようだが逃げ馬の出遅れで始まるものだ。スガノホマレは絵に描いたように出遅れる。タケクマヒカルとタカイホーマが抜け出しにかかるが、アラカワタンユウがしぶとく食い下がる。そこへ外からイシノヒカルがやってきて、この3頭を捉えた。と見るや否や、大外から一頭スガノホマレごぼう抜き! 呆気に取られるような脚だった。良かったなーこのレース。役者も揃っていた。　<br>タカイホーマは、この時代では飛び抜けたような名牝候補生で、馬格もあって迫力があり、惚れ惚れする牝馬だった。恐らく繁殖牝馬になっていれば大成功したのではないかと思っているが、秋の淀、当時ビクトリアCと呼ばれていた現在のエリザベス女王杯で非常に悲惨な骨折事故を起こして即死に近い状態で世を去った。（両脚を骨折し転倒、折れた骨が心臓に突き刺さって大量出血…もうやめよう）イシノヒカルのその後の活躍は馬クラブなら詳しく説明の要もないだろう。この年の年度代表馬だ。結局この強い昭和47年組の最強評価は、このイシノヒカルかタニノチカラということになる。<br>　スガノホマレはその後CBC賞などに勝ったあと、骨折もあって休養し、5歳の夏からカムバックして前出の京王杯で生涯のベストパフォーマンスを演じる。しかし、その後は数を使っても勝てなかった。実は6歳（念を押すがこのへんの年齢は新表記である）で引退し種牡馬になるという話があったのだが、京王杯の直後くらいなら良かったのだろうが、そのあと負けすぎていてシンジケートが集まらず、断念して7歳で現役復帰したという経緯もある。6歳夏の新潟記念。56Kのハンデで軽量50Kのハセマサルを相手に、短波賞を彷彿とさせる後方一気の脚で追い込んで②着したのが最後の見せ場だっただろうか。そのような理由で7歳時も走ったが、悲しいことに、もうハナを切るスピードも失っており、その後どうやら種牡馬にはなったものの、このころの内国産種牡馬としては当然のように不遇だった。しかし、あの短波賞の脚と京王杯のベストパフォーマンスは、「雨粒が一滴顔に当たると走らなくなる」と言われた稀代の重下手とともに強く記憶に残っている。<br><br>1972.7.30　3回東京8日目　10R　（曇・良）<br>第21回日本短波賞　4歳別定　1800ｍ　13頭<br>1　　4⑤スガノホマレ　　　　牡4　55　野平　祐二　1.48.4　　③人気<br>2　　6⑨イシノヒカル　　　　牡4　56　加賀　武見　　1/2　　 ①<br>3　　8⑫タカイホーマ　　　　牝4　55　樋口　弘　　　1/2　　 ②<br>4　　7⑩タケクマヒカル　　　牡4　55　伊藤　栄　　　クビ　　⑩<br>5　　3③アラカワタンユウ　　牡4　54　田村　正光　1 1/4　　 ⑥<br>6　　5⑥ハクホオショウ　　　牡4　55　矢野　一博　1 3/4　　 ④<br>7　　6⑧クリヒット　　　　　牡4　55　大和田　稔　　クビ　　⑪<br>8　　8⑬タケデンバード　　　牡4　55　嶋田　功　　　クビ　　⑨<br>9　　5⑦ハンサムジャック　　牡4　55　岡部　幸雄　1 3/4　　 ⑫<br>10　 7⑪ヒロキャプテン　　　牡4　55　大崎　昭一　　ハナ　　⑬<br>11　 4④マーブルシャトー　　牡4　54　小島　太　　　1　　　 ⑧<br>12　 2②ヒロクニ　　　　　　牡4　54　郷原　洋行　　ハナ　　⑦<br>13　 1①ミヨシホマレ　　　　牡4　55　吉永　正人　　3　　　 ⑤<br>　単450　複190.120.130　連④－⑥900<br><br>　話をグレートタイタンに移す。<br>グレートタイタンは、生涯5重賞を制しているが、まあこの馬の勝つ時の派手さと言ったら物凄い。本題に選んだ阪神大賞典の追い込みも凄まじいが、このレースの2走前の京都記念も負けずに凄いもので、先に馬クラブニュースを配信した時に、第二部の「追い込みレース」を作成中と書いたら、早速Ａ氏から、「グレートタイタンの京都記念は入るの？」とメールが来た。Ａ氏はこの馬が連覇している京都記念秋のうち2回目の方が印象深いようだ。当時まだ目黒記念と京都記念は春秋2回である。前年の京都記念を勝った時には、この馬にしては珍しく2番手から抜け出しているのだが、鋭い脚で一気に3馬身くらい突き抜けてしまったのを思い出す。<br>　以前、同じシンザン産駒でブルスイショーという馬がいた。これが比較的グレートタイタンに似たタイプのシンザン産駒で、後方一気型。グレートタイタンほど極端ではないが、3歳でカブトヤマ、クモハタ両記念を連勝し、4歳となって金杯（この時は東京）には負けたが、AJC杯で大豪タケホープの②着し、天皇賞候補に浮上したのも束の間、目黒記念の追い切りで骨折して死んでしまった。まともなら、少なくとも秋の天皇賞はかなり有力だっただろう。そして、最後を先に書いてしまえば、このグレートタイタンにも同様の運命が待っている。<br>　グレートタイタンにはいろいろな騎手が乗っているが、やはり田原成貴がよく似合った。後年まるで発狂してしまったような状態になり、競馬界を追われたばかりか犯罪者にまでなってしまった田原だが、デビュー時から「天才」ともてはやされていたように騎乗技術とセンスは確かに非凡なもので、特にマヤノトップガンなどで見せた長距離レースで折り合いをつけるための「長手綱」のうまさは当代随一と言える見事なものだった。<br>　私は牧場時代、それもかなり乗れるようになってからだが、久保田金造厩舎にいて7勝くらいしたカネツポーセレンという、ネルシウスの仔でえらく引っ掛かる乗りにくい馬が休養放牧に来て、メンバー全員乗るのをいやがっていたのだが、この馬を押し付けられて何度か死にそうになった挙句、ある日突然この長手綱が使えるようになって、カネツポーセレンにガッチリ折り合いが付けられるようになった。この時は本当に嬉しかった。自分が急に上達したように感じたものである。これ以来、私は引っ掛かる馬に乗るのが怖くなくなった。こうしたことが、騎手が時々コメントに出す「馬に教えられた」ということなのだろう。私はポーセレンに教えられたのだ。その後、厩舎に戻ったポーセレンは中山で私においしい馬券もプレゼントしてくれた。たかが準オープンの条件馬だが、一生忘れられない馬である。<br>　話がまた長くなったが、こうしたいきさつのおかげで、田原の長手綱を見ていてそれがどれだけうまいものかが良くわかるようになった。グレートタイタン自身はそう引っ掛かるタイプではないのだろうが、長距離を走る時には田原のような長手綱をうまく使えるジョッキーは何よりのエスコート役になる。馬にストレスがかからないのだ。そして秋の京都記念で天野氏推薦の強烈な追い込みを決めて勇躍天皇賞に出走する。<br>しかし、まったくあいにくの雨。シンザン産駒の雨嫌いはこの頃には知らない者はおらず、人気も落ちて⑤人気で⑤着。私がいつも「フロックレースの標本」と言ってはばからないプリティキャストの逃げ切りである。とにかくあの馬場あの展開では、強烈な追い込み型シンザン産駒のグレートタイタンに、一体何をしろと言うのか。むしろよく掲示板に載ったものである。<br>　そして本題の阪神大賞典。このレースは今とは違い、年末の最終週に組まれていた。有馬記念もこの年から最終週に移ったため、完全な有馬の裏番組である。この年は淀のスタンド改築と馬場改修が終了してリニューアルオープンした直後で、開催が代替開催となって阪神大賞典は淀の外回り、すなわち菊花賞と同じ舞台となった。この馬場が淀であったこともグレートタイタンの追い込みをド派手に演出することになる。たった6頭立てだが、全く凄い追い込みだった。まあ、今回取り上げたレースは負けず劣らずみな「凄い」が。<br>①人気タカノカチドキとオーバーレインボーが直線競り合うところへ、4角まで離れたシンガリにいたグレートタイタンが大外から差してきた。よくもまあ間に合ったものだと感心せざるを得ないような鬼脚である。このレースも例のVTRに入っている。ぜひみなさんに見せる機会を作りたいものだ。<br>　グレートタイタンはこうした極端な脚質の馬にありがちなことで、レースに行っての堅実味には欠けた。負ける時にははっきり負けてしまうのである。鮮やかだったこの秋2戦の後、日経新春杯に①人気で出走する。この時も懸命に追い込んではいるのだが、ペースが遅くて追い込み切れず、わずか0.1差ながら⑤着。一息入れてマイラーズCに出走する。<br>この馬をマイラーズＣのようなレースに使うのもどうかと思うが、この時のマイラーズは先に名勝負BEST10の候補レースとなったカツラノハイセイコのレースであり、カツラノハイセイコが勝てるのだからこの馬も何とかなりそうなものなのだが、結局そのあたりがダービーや天皇賞を勝つ馬とこの馬の大きな差でもあったのだろう。あれだけ物凄い追い込みの脚があるのに、マイルの決め手とは異質なのか全くいいところなく大敗。さらにサンケイ大阪杯にも出たが、今度はサンシードールが逃げ切るようなドタドタの不良馬場とツキもない。<br>この後天皇賞を目指していたが、天皇賞の最終追い切りで故障を発生し予後不良となってしまった。先のブルスイショーと同じような状況である。仮に天皇賞に出ていたとしても、力任せになる淀の3200でカツラノハイセイコとカツアールの重厚な決め手に抗しえたかどうか、難しいところだろう。<br>この馬もブルスイショーも非常に魅力ある馬だったが、元をただせばシンザン産駒は非常に故障が多い。先にシンザンの代表産駒として3つのパターンの馬6頭の名前を出したが、ミナガワマンナ以外の5頭はみな骨折経験馬だ。症状が軽くて助かるか、重くて死んでしまったかの差である。シンザンは種牡馬としての晩年に近くなって、最高傑作といえるミホシンザンを出したが、ミホシンザンも種牡馬としては大した産駒を残せず、シンザンのメールラインは途切れることになる。後輩3冠馬のミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアンもメールラインが残るのは現状から絶望的だが、さすがにディープインパクトは残せるだろうか。<br><br>1980.12.21　2回京都8日　　10R　（晴・良）<br>第28回阪神大賞典　4歳上別定　外3000ｍ　6頭<br>1　　6⑥グレートタイタン　　牡6　57　田原　成貴　　3.12.5　　②人気<br>2　　2②タカノカチドキ　　　牡4　55　武　邦彦　　　　3/4　　 ①<br>3　　4④オーバーレインボー　牡4　55　佐々木昌三　　　1/2　　 ③<br>4　　1①サルノヒーロ　　　　牡5　57　田島　良保　　1 1/4     ④<br>5　　3③ケンセイグット　　　牡4　55　西浦　勝一　　1 1/4　　 ⑤<br>6　　5⑤ハンキイナリ　　　　牡5　57　出口　隆義　　　1/2　　 ⑥<br>　単260　複150.110　　連②－⑥240<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/umakurabu2012/entry-11331344278.html</link>
<pubDate>Sat, 18 Aug 2012 05:42:03 +0900</pubDate>
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<title>勝手にベストテン（１）名勝負編（４）</title>
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<![CDATA[ 第7位<br>1983年アルゼンチン共和国杯（ミナガワマンナ）<br>　偉大なる馬シンザン。競走馬としても歴史的に最高ランクの一頭であるこの馬は、種牡馬としても実に偉大な足跡を残した。リーディングになったという訳ではないが、何しろシンザンが種牡馬となった昭和40～50年代は内国産種牡馬氷河期。現代のような内国産種牡馬天国からは到底考えられないような状態であった。というよりも、当時を知る我々にしてみると、あの時代から30年やそこらでよくまあ現代のような内国産種牡馬天国になるまでに日本の馬産界が変身したものだと思う。もちろん、サンデーサイレンスあってのことだとは思うが。<br>　そんな内国産種牡馬不遇の時代にあって、シンザンは一応以上の成功を収めていたが、残念なことに産駒に大物がおらず、クラシックホースがなかなか出なかった。そのシンザンに初のクラシックタイトルをもたらしたのがミナガワマンナである。<br>　一般にシンザン産駒は道悪に弱い。これはもう当時の定説というより「常識」であって、中でもシンザンの代表産駒の一頭である快速馬スガノホマレなどは、「顔に雨粒が一滴当たっただけで走らなくなる」と言われたほどの雨嫌い。シンザン産駒は初期にはむしろスピード馬であり、スガノホマレのほか、日本で初めて2000mで2分を切ったシルバーランドも同様の快速系だった。（スガノホマレよりは道悪や距離をこなしたが）<br>そうしたシンザン産駒の中にあって、このミナガワマンナも道悪は良くなく、現在雨が降っているような状態ではまず来ない。ところが、ミナガワマンナには面白い特性があり、雨が降って一旦悪くなった状態では全く走らないが、そこから天候が回復して表面が乾き、<br>しかし下の方はまだ水分が残っていて、表面上は乾いていて上滑りはしないが、下は重いので力は必要だというような馬場は逆に大得意なのである。シンザン産駒のこの傾向はミナガワマンナ以降顕著となり、その究極が代表馬となって結実したのがミホシンザンである。このミナガワマンナの特徴が初めて発揮されたのがここに記した1983年より1年前の1982年アルゼンチン共和国杯で、菊花賞以降大敗続きのスランプ状態で、しかもこのミナガワマンナ世代はかなり弱い世代だったので、半ば「終わった」ように考えられていたミナガワマンナが復活したレースだった。そしてこの年がミナガワマンナ連覇の2年目になるのだが、前年よりもこの時はメンバーが揃っていて、この時点で最強古馬と言っていいアンバーシャダイと前年の菊花賞馬ホリスキー、秋の天皇賞馬メジロティターンらの参戦で盛り上がった。実はミナガワマンナはアンバーシャダイとはいわゆる「ともだち」関係にあって、条件も同じ中山の2500のレースで何と6回も対戦している。有馬、AJC、アルゼンチンそれぞれ2回ずつだが、AJC2回はともにアンバーが勝ち、うち1回はミナガワ②着でこれはともに良馬場。アルゼンチン2回はともにミナガワが勝ちアンバーが②着でこれは重と稍重だが、2回ともいわゆる「ミナガワマンナ馬場」であった。そして、残る有馬では良馬場でアンバーが勝ちミナガワ④着、ヒカリデュールの勝った極悪馬場でアンバーが②着でミナガワ⑫着大敗と、完全に馬場に正直な結果が残っている。アンバーは馬場に関しては全くのオールラウンドホースであって、良のレコード勝負でも強いし（ジュウジアローのレコードとなった毎日王冠②着から本格化）ドタドタの道悪でも強い。そしてミナガワ馬場でもやっぱり強い。ミナガワの方は、ミナガワ馬場にならないとアンバーには勝てないという関係だった。<br>　そしてこの年のアルゼンチン共和国杯であるが、前日からの雨が上がって晴れ上がり、馬場が前日の不良から稍重に回復したところで、まさにミナガワマンナにとっては絶好の状態で迎えたレースで、ミナガワマンナが一旦抜け出し、ホリスキーが追いすがって叩き合いになったところへ、最後にアンバーシャダイが強襲して、3頭重なったところがゴール。<br>　長い写真の末に、①着ミナガワ、②着アンバー、③着ホリスキーとなった。<br>この3頭のGⅠ級馬（当時はまだG制導入前）の見事なレースは、当時の馬クラブでも「何年か後にも語り草になるだろうな」と話題になったものである。この3頭はやがてみな種牡馬になったが、アンバーは大成功、ホリスキーがまずまずで、ミナガワは苦戦。そしてこのレースで3頭には置かれたが、④着のメジロティターンはメジロマックイーンの父となり、ドリームジャーニー・オルフェーヴル兄弟やゴールドシップにその血を残している。<br><br>1983年4月3日　3回中山4日目　10Ｒ　（晴・稍重）　　　　<br>第21回アルゼンチン共和国杯　5歳上別2500　12頭<br>1　⑦10 ミナガワマンナ　　　牡6　58　郷原　洋行 　2.36.9　 ②人気<br>2　⑥8　アンバーシャダイ　　牡7　60　加藤　和宏　 ハナ　 　①<br>3　⑧12 ホリスキー　　　　　牡5　56　菅原　泰夫　 ハナ　　 ③<br>4　④4  メジロティターン　　牡6　58　大崎　昭一　 2 1/2　  ④<br>5　②2  ウエスタンジェット　牡7　57　柴田　政人 　ハナ　　 ⑥<br>6　①1　アサカシルバー　　　牡5　56　岡部　幸雄 　1 3/4 　 ⑨<br>7　⑤7　ハーバーモナーク　　牡5　56　中島　啓之　 ハナ　   ⑪<br>8　③3　スイートレスター　　牝5　54　増沢　末夫　 1 1/4　  ⑦<br>9　⑤6　ヨロズハピネス　　　牡5　56　伊藤　正徳　 ハナ　   ⑤<br>10 ⑧11 スーパーサバンナ　　牡6　57　小島　太　　 1 1/4    ⑩<br>11 ⑦9　アキビンゴ　　　　　牡5　56　田村　正光　 2 1/2    ⑧<br>12 ④5　アカネジローマル　　牡5　56　根本　康広　 大差　   ⑫<br>単370　複130、120、170　　連⑥－⑦370<br><br><br><br>第8位<br>1996年阪神大賞典（ナリタブライアン）<br>　まだ記憶に新しいと言ってももう16年も前なのか。何とも年を取ったものである。この阪神大賞典は、3歳から4歳の阪神大賞典まで、史上最強級とも言える強さを発揮していたナリタブライアンが、腰を悪くして春の天皇賞を棒に振って以降、それまでの同馬からは考えられないような大スランプに陥り、短距離を使うなどローテーションも迷走して、以前の評価を一気に下げてしまったどん底状態からの復活だったために、ナリタブライアンのファンには非常に印象深いものだろう。その相手も名馬級の実績を残したマヤノトップガンであり、当時全盛ブライアンズタイムの生んだ2頭による叩き合いは、4コーナーを回るあたりから直線一本まるまる続き、その並んだまま競り合った距離の長さは歴史上最高レベル。まさに手に汗握るものだった。この2頭も当然種牡馬入りしたが、ナリタブライアンは早世してしまい、マヤノトップガンは頑張ってはいるもののやはりサンデー系に押され気味である。<br><br>1996年3月9日　1回阪神5日目　11Ｒ　（晴・良）<br>第44回阪神大賞典　4歳上別　10頭<br>1　②2　ナリタブライアン　　牡6　武　豊　　　3.04.9　　②人気<br>2　⑧10 マヤノトップガン　　牡5　田原　成貴　ハナ　　　①<br>3　⑦7　ルイボスゴールド　　牡5　坂口　重政　9　　　　 ⑦<br>4　③3　トウカイパレス　　　牡5　佐藤　哲三　1/2　　　 ④<br>5　⑦8　ハギノリアルキング　牡7　藤田　伸二　ハナ　　　③<br>6　④4　ノーザンポラリス　　牡6　的場　均　　1/2　　　 ⑤<br>7　⑧9　サイレントトーキー　牡6　岸　慈彦　　1 1/4     ⑥<br>8　⑥6　アワパラゴン　　　　牡6　松永　幹夫　1/2　　　 ⑧<br>9　①1　スティールキャスト　牡6　河内　洋　　2 1/2     ⑨<br>10 ⑤5　チアズセンチュリー　牡8　本田　優　　1 3/4　　 ⑩<br>単210　複110、110、550　　枠連②－⑧200　馬連②－⑩210<br><br>第9位<br>1956年第1回中山グランプリ（メイヂヒカリ）<br>　もちろん見たレースではないが、中山のスタンドが改築されたのを機に、当時の競馬会理事長有馬頼寧が、プロ野球のオールスター戦のファン投票をまねて出走馬を選定するという方式でこのレースを企画し第1回を実施したが、翌年有馬理事長が急逝したために理事長の功績を残す意味からレース名を「有馬記念」とした。このくらいは馬クラブメンバーなら知らない人はいないだろう。<br>　この第1回グランプリのレースとしての凄さは、なかなか比較するものがない。何が凄いかと言うと、メンバーである。この年4歳となって充実一途の古馬チャンピオン・メイヂヒカリ、2年前の皐月・菊花賞馬で前年秋の天皇賞も制覇している快速ダイナナホウシュウ、そしてこの年のクラシックホース3頭、ダービー馬ハクチカラ、菊花賞馬キタノオー、皐月賞馬ヘキラクが見事に揃っており、オークス馬フェアマンナ、さらに直前の秋天皇賞①②着のミッドファームにヒデホマレもおり、他にも4歳時京都記念春秋連覇など重賞4勝の実績を持つファイナルスコアなどという強豪もいた。この当時は戦後になって初めての重賞体系整備がようやく始まったころで、重賞の数が現代とはまるで違うし、ハンデが恐ろしくきつくなるので、重賞を3つも4つも勝つのは非常に困難な時代である。<br>　このレースは名馬物語のような本で読んでいる方も多いと思うが、後世に名を残すハクチカラやキタノオーといった歴史的名馬が、メイヂヒカリには全く歯が立たなかった。とにかくこのメイヂヒカリという馬、調べれば調べるほどべらぼうな強豪で、私は4歳時のタケシバオーの強さに非常に似たものがあると思っている。ここに出走した馬たちの数奇な運命までここに詳しくは書き切れないが、この後メイヂヒカリは引退して種牡馬となり、内国産種牡馬冷遇時代でトサミドリのような大成功はしなかったが、目黒記念のハーバーヒカリや東京大賞典のオーシャチを出し、オーシャチは種牡馬になってカブトヤマ記念を勝ったアイアンハートを出した。「忘れな草」ミオソチスもメイヂヒカリの産駒である。<br>ダイナナホウシュウは前年一杯で引退のはずだったが、この第1回中山グランプリが予定されていたために競馬会側がダイナナホウシュウ陣営に引退を1年延長してもらうよう依頼し、陣営もこれを了承して出走となったものだが、この時点でのダイナナホウシュウはかつて「褐色の弾丸列車」と呼ばれていた頃の輝きをすでに失っており、主戦の上田三千夫によると「4本脚のうち3本までがいけなかった。向正面でパンク状態」だったそうで、完走はしたもののいささか気の毒な結果となった。ハクチカラはこの翌年秋の天皇賞と、レース名が「有馬記念」となった第2回グランプリを連勝して翌年アメリカに遠征し、ワシントンバースデイＨに勝つという快挙を成し遂げる。キタノオーは4歳春の天皇賞を圧勝（ハクチカラが回避＝ハクチカラがキタノオーを避けたというのが真相のようだが）したのち、5歳時に貨車での輸送中（当時は馬運車などないので、馬の輸送は鉄道の貨物列車）に疝痛を起こして死亡してしまう。<br>　新宿・歌舞伎町に、「ロンリー」というスナックがある。ここのマスターのＡさんは馬クラブメンバーで、昭和57～59年ころまで、馬クラブ・夜明けのコーヒー6人衆などでよく通っていたものだ。このスナックは、店の中も馬の写真だらけだし、通っている常連客もマニアックな競馬ファンばかり。我々よりももっと古くを知るオールドファンも来ていたので、機会があるたびに私の知らない時代の話を聞かせていただいたが、この第1回中山グランプリを知っている人に話を聞いたことがある。その方の話によると、「ハクチカラとキタノオーの比較では、俺はキタノオーを上に見ていた。どちらともいえないような関係だったが、キタノオーの方に切れ味があった。同じ位置から仕掛けたら、キタノオーが先に来たよ。でもね、メイヂヒカリの方が断然強いよ」ということだった。<br>　こうした声が貴重なのである。もっともっと聞いておけばよかったと、今本当に悔やんでいる。<br><br>1956年12月23日　　3回中山4日目　　10Ｒ　（晴・良）<br>第1回中山グランプリ　4歳上定　2500　　12頭<br>1　②3　メイヂヒカリ　　　　牡5　55　蛯名　武五郎　　Ｒ2.43.1    ①人気<br>2　①1　キタノオー　　　　　牡4　54　勝尾　竹男　　　3 1/2       ③<br>3　④8　ミッドファーム　　　牡6　55　八木澤　勝美　　2　　　　　 ⑦<br>4　⑤9　ヒデホマレ　　　　　牡5　55　岩下　密政　　　ハナ　　　　⑧<br>5　⑥1　ハクチカラ　　　　　牡4　54　保田　隆芳　　　ハナ　　　　⑤<br>6　③6　フェアマンナ　　　　牝4　52　佐藤　嘉秋　　　1 3/4   　　④<br>7　②4　ファイナルスコア　　牡7　55　近藤　武夫　　　3　　　　　 ⑥<br>8　⑥12 ヒガシテラオー　　　牝4　52　高橋　英夫　　　5　　　　　 ⑪<br>9　①2　ミナトリュウ　　　　牡4　54　渡辺　正人　　　3 1/2　　　 ⑨<br>10 ③5　フクリュウ　　　　　牝5　53　野平　祐二　　　1/2　　　　 ⑩<br>11 ④7　ダイナナホウシュウ　牡6　55　上田　三千夫　　1 1/4　　　 ②<br>12 ⑤10 ヘキラク　　　　　　牡4　54　藤本　勝彦　　　2　　　　　 ⑫<br>単130　複100、130、430　　連単390<br><br>第10位<br>2008年秋天皇賞（ウオッカ）<br>　前にも何度か記しているが、私が競馬を始めた昭和40年代から50年代にかけては、古馬牝馬が全く不振の時代で、牝馬は古馬になると何もできなくなるのが普通だった。天皇賞や有馬記念で牝馬が勝つというのは困難を通り越してほとんどあり得ないことに近く、たまに天皇賞を牝馬が勝ったと思うとプリティキャストの逃げ切りだったりしたものだ。　　<br>　このプリティキャスト、天皇賞はドタドタ馬場で大逃げを打ったのがドハマリして逃げ切ったが、前走の目黒記念はシンガリ負けしており、天皇賞の次の有馬記念もシンガリ負けだった。天皇賞勝ちの前後がシンガリのサンドイッチなどは私の競馬志向では断じて許せない。<br>　また、昭和40～50年ころは、牝馬のクラシックホースは古馬になって「燃え尽き症候群」に陥る事がむしろ普通であり、この時代の牝馬クラシックホースではそうなっていない馬を探す方が難しい。その終わり方はすさまじく、勝てないとか馬券の対象にならないというような生易しいものではなくて、掲示板に全く載らない状態が延々と引退するまで続くのである。だからこそ、トウメイは偉大だったのだ。これはこの時代でも日本だけが極端で、欧米でも2年や3年牝馬が不振ということはあるが、日本のように20年も30年もその状態が続くということはあるまい。当時欧米で大活躍していたアレフランスやダーリアのような名牝は日本では一体いつ出るのだろうと話していたものだ。<br>　ところが、エアグルーヴが長い暗黒時代を打破したころから徐々に様相が変わって来て、<br>ダイワスカーレットとウオッカでこの傾向は完全に払拭され、ブエナビスタによって止めを刺された感がある。<br>　ここに第10位として入れた天皇賞の頃は、むしろダイワスカーレットやウオッカの相手ができる牡馬はディープスカイ一頭だけというような状態であった。こうした中、逃げたダイワスカーレットと追うウオッカの争いは凄いもので、一旦ダイワスカーレットが差し返したようにも見えたのだが、とにかくウオッカという馬は神がかり的に運の強さを持った馬で、毎日王冠でやられたことはあるが、大レースの写真判定では負けない馬だった。ディープスカイを加えた3頭の争いも、後世ではもっともっと名を上げる名勝負となって行くのだろう。ダイワスカーレットとウオッカには今後繁殖牝馬としても名勝負を繰り広げてもらいたいものだ。<br><br>2008年11月2日　4回東京8日　11Ｒ　（晴・良）<br>第138回天皇賞（秋）ＧⅠ　3上定　2000<br>1　⑦14 ウオッカ　　　　　　牝4　56　武　豊　　　Ｒ1.57.2　　①人気<br>2　④7　ダイワスカーレット　牝4　56　安藤　勝己　ハナ　　　　②<br>3　①2　ディープスカイ　　　牡3　56　四位　洋文　クビ　　　　③<br>4　⑧16 カンパニー　　　　  牡7　58　横山　典弘　ハナ　　　　⑪<br>5　②3　エアシェイディ　　　牡7　58　後藤　浩輝　クビ　　　　⑧<br>6　③5　サクラメガワンダー　牡5　58　福永　祐一　1　　　　　 ⑦<br>7　⑦13 オースミグラスワン　牡6　58　蛯名　正義　アタマ　　　⑩<br>8　①1　アサクサキングス　　牡4　58　藤岡　祐介　1 1/2       ⑥<br>9　⑤10 キングストレイル　　牡6　58　北村　宏司　ハナ　　　　⑯<br>10 ⑧17 ドリームジャーニー　牡4　58　池添　謙一　1 3/4　　　 ④<br>11 ⑤9　アドマイヤフジ　　　牡6　58　川田　将雅　ハナ　　　　⑫<br>12 ②4　アドマイヤモナーク　牡7　58　岩田　康誠　1 1/2　　　 ⑬<br>13 ③6　エリモハリアー　　　騸8　58　吉田　豊　　クビ　　　　⑰<br>14 ④8　ポップロック　　　　牡7　58　内田　博幸　クビ　　　　⑨<br>15 ⑥11 ハイアーゲーム　　　牡7　58　柴田　善臣　3/4　　　　 ⑮<br>16 ⑧15 トーセンキャプテン　牡4　58　ペリエ　　　1　　　　　 ⑭<br>17 ⑥12 タスカータソルテ　　牡4　58　ルメール　　1　　　　　 ⑤<br>単270　複120、130、150　枠連④－⑦520　ワイド②－⑦360、②－⑭280、⑦－⑭220<br>馬連⑦－⑭550　馬単⑭→⑦1050　3連複②－⑦－⑭710　３連単⑭→⑦→②3250<br><br><br>あとがき<br>　さて、これで10レースとなったが、もちろんまだまだ入れたいレースは山ほどある。先に記したカツラノハイセイコのマイラーズC、展開が衝撃的だったキタノカチドキの皐月賞、逃げ馬が追い込むという訳のわからないことをやったキョウエイグリーンの安田記念、スプリント界のオールスターが揃って衝撃的なレコードとなったサクライワイのスプリンターズS、接戦ではないが語り継ぎたいマルゼンスキーの札幌短距離S、63Kの酷量を背負い切ったヤマブキオーの函館記念やらジュウジアローの毎日王冠、サクラローレルの春天皇賞など、枚挙にいとまがない。ランクとして選んでしまうとどうしても限られてしまうが、みな印象深く、いずれ違ったかたちで書き残してみたいレースである。<br><br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　この項終わり　　　2012.2.19<br>
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<pubDate>Sat, 18 Aug 2012 05:40:18 +0900</pubDate>
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<title>勝手にベストテン（１）名勝負編（３）</title>
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<![CDATA[ 第4位<br>1990年ジャパンC（ベタールースンアップ）<br>　このレースを選んだ理由はたった一つで、外国の一流馬と一流ジョッキーによる壮絶な叩き合い。これである。とにかく坂上からのベタールースンアップのＭ・Ａクラーク、オードのＤ・ブフ、カコイーシーズのＲ・コクレーンの追うアクションは素晴らしく迫力があった。カコイーシーズが坂上で一旦抜け出すが、馬群を抜けたベタールースンアップと大外からオードが迫り、ラスト100mは3頭馬体を接しての壮絶な叩き合いとなった。外国馬ばかりなので馴染みが薄いし、覚えていない人も多いと思うが、自分の中では最高レベルのレースの一つである。3頭以上の横並びの叩き合いは競馬の醍醐味だ。三連単のボックスで持っている馬が3頭横並びで叩き合うシーンをいつか見たいと思っているが、そんな機会なかなかある訳はない。枠連時代にはいくらもあったが。<br><br>1990年11月25日　5回東京8日目　10Ｒ　（晴・良）<br>第10回ジャパンカップ　　4上混定　2400　（15頭）<br>1　⑥10 ベタールースンアップ　騸6　57　クラーク　　2.23.2　　　②人気<br>2　⑧15 オード　　　　　　　　牝5　55　ブフ　　　　アタマ　　　⑨<br>3　③5　カコイーシーズ　　　　牡5　57　コクレーン　アタマ　　　③<br>4　②2　ホワイトストーン　　　牡4　55　柴田　政人　1 1/4    　 ⑤<br>5　⑤8　アルワウーシュ　　　　牡6　57　サントス　　クビ　　　　⑦<br>6　③4　ヤエノムテキ　　　　　牡6　57　岡部　幸雄　1 3/4       ⑧<br>7　⑤9　ベルメッツ　　　　　　牡4　55　コーセン　　1 1/2　　　 ①<br>8　②3　イブンベイ　　　　　　牡7　57　河津　裕昭　アタマ　　　⑪<br>9　⑦12 フレンチグローリー    牡5　57　エデリー　　アタマ　　　⑬<br>10 ①1　ｽﾀｲﾘｯｼｭｾﾝﾁｭﾘｰ         牡5　57　モーゼス　　クビ　　　　⑫<br>11 ④7　オグリキャップ　　　　牡6　57　増沢　末夫　ハナ　　　　④<br>12 ⑧14 プティットイル　　　　牝5　55　ブラック　　2 1/2　　　 ⑥<br>13 ④6　オサイチジョージ　　　牡5　57　丸山　勝秀　1 1/4       ⑩<br>14 ⑥11 ファントムブリーズ　　牡5　57　クローン　　6　　　　　 ⑭<br>15 ⑦13 ジョージモナーク　　　牡6　57　的場　文男　1 1/4       ⑮<br>単620　複260、520、280　　連⑥－⑧1370<br><br>第5位<br>1975年マイラーズカップ（キタノカチドキ）<br>　馬クラブでも語り草のレースの一つであるが、キタノカチドキとタニノチカラの大豪2頭は当然のこと、やはりこのレースに花を添えたのは名牝イットーの存在である。別定52Kとは言え、この2頭の間に挟まったというのはとにかく凄い。まともなオトコ馬にもできないことであろう。キタノカチドキはこれが最後の勝ち星で、タニノチカラもこのマイラーズＣの後不安が発生して引退した。イットーだけはこの後スワンＳで重賞初制覇、その後一族お得意の高松宮杯も勝っている。もっとも、一族が得意になるのはこのイットーからだが。（イットーの娘ハギノトップレディと息子のハギノカムイオーが勝ち、孫のダイイチルビーがハナ差②着。ただし、現行のスプリントＧⅠではなくＧⅡの2000ｍ戦）そういえば、キタノカチドキもタニノチカラもこの年引退して種牡馬になるのだが、ともに早死にしてしまい、有力な産駒はあまり残せていない。ブランブルー産駒で、いわゆるワンホースであるタニノチカラはわかるが、当時全盛のテスコボーイ産駒であるカチドキの方はもっと走っても良かった。この点では2年後輩の同じテスコボーイ産駒であるトウショウボーイの足元にも及んでいない。そこへ行くとイットーは繁殖としても凄かった。クラシックの時期を棒に振っているだけにGⅠ勝ちはなかったが、桜花賞は出ればたぶんテスコガビーに近いくらいの圧勝をしていただろうし、オークスは向かないが、ビクトリアカップも可能性はあった。（エリザベス女王杯の前身。イットー世代の翌年のテスコガビー世代、ヒダロマンが勝ったレースまでがビクトリアカップで、さらに翌年のテイタニヤ世代の時にエリザベス女王が来日したので、それを記念してレース名を変えた）ただし、この年は道悪になって、道悪が大得意のオークス馬トウコウエルザがぶっちぎっているので、イットーが出ていても勝てたかどうかは微妙だが。あの時のエルザは強かったからねー。エルザは牝馬が古馬になると牡馬の相手がまったくできない時代に、道悪の天皇賞でフジノパーシア、カーネルシンボリ（この2頭もうまかったな）相手に③着しているくらいの道悪の鬼だ。そういえば、トウコウエルザの仔は何頭かいたのだが、その成績は振るわず、歴史に名は残っていない。<br>　マイラーズＣでは、もう一つここに入れたい名勝負が歴史に刻まれている。1981年カツラノハイセイコのレースで、このときのシルクスキーやニチドウアラシとのレースも素晴らしいもので、その距離のスペシャリストよりも、格上のレースの一流馬の方が距離をこなせれば上だと主張したレースとして記憶に強く残っている。残念ながら今回はこのベスト10ランクには入れられなかった。<br><br>1975年4月13日　2回阪神6日目　6R<br>第6回読売マイラーズC　5歳上別定1600ｍ　9頭<br>1　1①キタノカチドキ　　　牡5　60　田島信　　1.36.1　　③人気<br>2　8⑨イットー　　　　　　牝5　52　梁田　　　1 1/4　　 ②<br>3　8⑧タニノチカラ　　　　牡7　61　田島日　　ハナ　　　①<br>4　5⑤ケイリュウシンゲキ　牝6　53　上野　　　3 1/2　　 ④<br>5　3③ハシストーム　　　　牡6　55　鶴留　　　4　　　　 ⑥<br>6　7⑦ヤマニモトリュウ　　牡5　54　川端　　　3/4　　　 ⑤<br>7　4④ヒエイライダー　　　牡6　55　田口　　　クビ　　　⑨<br>8　6⑥カレントビクトリー　牡5　54　須貝　　　4　　　 　⑧<br>9　2②ハーバードテンプル　牝5　52　南井　　　1 3/4　　 ⑦<br>単410　複110　110　100　連①－⑧250①人気<br>カチドキの単勝410円はおいしい。枠の①－⑧も鉄板馬券で250円は悪くない。<br><br>第6位<br>1984年オークス（ダイナカール）<br>およそ世にある接戦、混戦。横一線の勝負の中で、究極ともいうべき一戦がこれである。<br>ダイナカール、タイアオバ、メジロハイネ、ジョーキジルクム、レインボーピットの5頭の壮絶な競り合いは昨日のことのように覚えている。着差はハナ・アタマ・ハナ・アタマだが、今にして思うと全部ハナならもっと良かったか。坂上からは本当に何が勝つのかわからなかった。結果、やはりノーザンテーストの勝負強さがものを言ってダイナカールが勝つのだが、このメンバーは当時の競馬世相よろしく、古馬になってからほとんど活躍できていない。しかし、メジロハイネとダイナカールは牡馬相手にセントライト記念で①②着したし、ダイナカールは有馬記念④着など当時の牝馬としては牡馬に伍してよく走っているとも言える。しかし、それより何より繁殖入りしてからのダイナカールは「ダイナカール系」とすら言えるほどの大牝系を築く偉大な母となった。エアグルーヴをはじめとする仔や孫たちの活躍はとてもここで書き切れるものではない。<br><br>1983年5月22日　3回東京2日目　10Ｒ　（晴・良）<br>第44回優駿牝馬　　4歳牝55Ｋ　2400　　28頭　<br>1　②5　ダイナカール　　　　岡部　幸雄　　2.30.9　　　2人気　<br>2　③9　タイアオバ　　　　　村本　善之　　ハナ　　　　20<br>3　⑥15 メジロハイネ　　　　的場　均　　　アタマ　　　10<br>4　③6　ジョーキジルクム　　岡富　俊一　　ハナ　　　　7<br>5　⑦19 レインボーピット　　津曲　幸夫　　アタマ　　　11<br>6　①1　サクラハツユキ　　　小島　太　　　2 1/2　　　 15<br>7　⑦23 フェニックスダイナ　加賀　武見　　6           6<br>8　⑤13 ブルービクトリー　　武田　悟　　　3/4         13<br>9　⑧24 キヨヒホウ　　　　　増沢　末夫　　1 1/2       9<br>10 ①4　テイダイ　　　　　　加藤　和宏　　1 3/4       18<br>11 ⑦22 チズブエ　　　　　　嶋田　潤　　　1/2         8<br>12 ⑤12 ノースハーミット　　宮田　仁　　　1 1/4       24<br>13 ⑦20 リンツ　　　　　　　坂井　千明　　クビ        16<br>14 ⑦21 トーアロワイヤル　　塚越　一弘　　クビ        28<br>15 ⑧27 カタトラシャトー　　田村　正光　　クビ        27<br>16 ⑧26 ミホノヒーロー　　　東　信二　　　ハナ        23<br>17 ①3　トウコウダンサー　　嶋田　功　　　2           3<br>18 ⑤14 ダテリージェンシー　安田　隆行　　クビ        5<br>19 ⑥16 ミホクイーン　　　　久保　敏文　　クビ        4<br>20 ③8　サンエムビクトリー　佐藤　正雄　　クビ        14<br>21 ③7　メイショウコトブキ　柴田　政人　　クビ        22<br>22 ⑥18 ビクトリジョオー　　中島　啓之　　1 1/2       17<br>23 ④10 ダスゲニー　　　　　大崎　昭一　　4           1<br>24 ①2　ラベンダーシロー　　牧之瀬幸夫　　3/4         26<br>25 ⑥17 ダイナキャンディ　　竹原　啓二　　7           21<br>26 ⑧25 ノムラテスコ　　　　郷原　洋行　　アタマ      19<br>27 ⑧28 サンエイホープ　　　斉藤　博美　　8           25<br>28 ⑤11 マチカネオトメ　　　橋口　満朗　　止          12<br>単360　複180、1600、850　　連②－③2400<br>
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<pubDate>Sat, 18 Aug 2012 05:39:15 +0900</pubDate>
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