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<title>繰り返される諸行無常、蘇る変な衝動</title>
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<description>日常生活で思ったこと、夢の分析をするブログです</description>
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<title>人生の目的について</title>
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<![CDATA[ ぼくの人生の目的は、僕自身が世界に向かって投げかけた問いを解決することにある。<div><br></div><div>もし僕が生きている間にその問いを解決できなかったとしても、先人達がそのヒントを残してくれたように、僕もヒントを残すことにしている。</div><div><br></div><div>ぼくが世界に向かって投げかけた問いは、ぼくの祖先たちが専念し、そして答えることのできなかった問いである。</div><div><br></div><div>ぼくはその問いの答えが形として残せないものだということは承知している。しかしぼくがそれを知れたのも、先人が形を残してくれたおかげである。だからぼくも先人のやり方に従って未来に答えを残していこうと決心したのだ。</div><div><br></div><div>ところで何故ぼくが世界に向かって問いを投げかけるのかというと、それは世界がその問いを必要としているからである。この世は諸法実相である。</div><div><br></div><div>ぼくがその問いをするのは自然なことである。しかし、ぼくがその答えを知ってしまうのは人間として不自然なことなのかもしれない。</div><div><br></div><div>たしかに、答えがない問いに答えるのは不自然である。つまり、ぼくはその問いには答えがないということを多くの人が納得できるように伝えていくこと、それがぼくの人生の目的なのだ。</div>
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<pubDate>Sun, 21 Oct 2018 15:31:08 +0900</pubDate>
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<title>新たな無の領域についての考察</title>
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<![CDATA[ ビッグバンの始まる前は、無であったが、その無は完璧な無ではなかった。その無は完璧ではなかったので、対称性を保てなくなり、歪み、ビッグバンのエネルギーが生まれることになった。そしてこの宇宙ができた、とわたしは考える。<div><br></div><div>なので、この世（全宇宙上）には、完璧な無など存在しない、というのがいままでの考えであった。しかし、最近になってその考え方が変わってきた。</div><div><br></div><div>というのは、この宇宙は完璧な無ではなかったが、それ以外の宇宙は完璧な無を未だに保っている、というように考えるようになってきた。</div><div><br></div><div>わたしたちが認識できない宇宙の外には、完璧な対称性を未だ保ち続けている無が存在する、ということである。</div><div><br></div><div>そうすると、いまわたしたちがいる宇宙と別の宇宙があるということになる。しかし本当にそのように考えてもいいのだろうか？無には拡がりがあるのだろうか？</div>
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<pubDate>Thu, 18 Oct 2018 16:55:33 +0900</pubDate>
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<title>過去の記憶と情動の変化（回想）</title>
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<![CDATA[ ユングはある困難的状況に陥った時、幼少期の記憶を遡り、そこから何故いまの自分は困難を感じているのか？ということを読み解こうとした。<div><br></div><div>ユングは幼少期の記憶を思い出す方法として、当時していた遊びを再現した。そして彼は幼少期の情動の変化を捉えることができ、いま抱えている困難を解決するに至ったという。</div><div><br></div><div>ぼくは今困難的状況にいるわけではないが、ぼくも同じように幼少期の記憶を思い出してみることにした。</div><div><br></div><div><br></div><div>ぼくが思い出す記憶は小学４年生。（幼少期ではないが）</div><div><br></div><div>図工の時間で皆んなが好きな動物の彫刻を彫ることになっていた。そこでぼくは「皆んなと違う物が作りたい」と強く感じた。そしてトビウオの彫刻を彫った。当時のぼくはトビウオが好きだったわけではないが「トビウオは魚なのに空を飛ぶ」という点で他とは違うと感じていたので、ぼくはトビウオの彫刻を彫ったのだ。それをキッカケに、ぼくは個性を出すために、不気味な絵を描くようになったのである。</div><div><br></div><div>なぜぼくは不気味な絵にこだわったのか？</div><div><br></div><div>ぼくは昔から綺麗な絵を描くことに抵抗を感じていた。人間の心はトラウマやコンプレックス、性欲などが抑圧されたネガティブな感情と、それに対抗するポジティブな感情があり、その両方を併せ持ったものが心だということを理解していた。</div><div><br></div><div>なので当時のぼくは、綺麗な絵を見ても「なんだか嘘くさい」と感じていたのだ。</div><div><br></div><div>同級生は綺麗な絵を描き、先生は綺麗な絵を評価する。ぼくは「うそくささ」に押しつぶされようとしていた。それに、ぼくの心は抵抗した。</div><div><br></div><div>結果、ぼくは人間のネガティブな感情をあらわにする不気味な絵を描くようになったのだ。ぼくが不気味な絵を描くのは、上部だけを綺麗で塗り固めたような絵の評価に対する反発だったのだ。</div><div><br></div><div><br></div><div>これが分かったからといって何かがあるわけではないが。なんだかスッキリした。</div>
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<pubDate>Tue, 16 Oct 2018 13:16:54 +0900</pubDate>
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<title>象徴と作品について</title>
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<![CDATA[ 神話、文化、樹木など、さまざまな物事は全て何かしらの象徴的意味を持ち合わせている。<div><br></div><div>そこで、その象徴的意味と自分が伝えたいこととを繋ぎ合わせて作品を作っていけばよいのではないかと思った。</div><div><br></div><div>しかしそうやって作品を作るようにすると、自分は象徴と象徴を組み合わせるだけで、自分の創作的な想像は蚊帳の外に追いやられているような気もする。</div><div><br></div><div>だがぼくは「それでよい」と考える。</div><div><br></div><div>なぜなら、ぼくが生まれ育ったこの土地、この環境、そしてぼくの想像もすべて象徴の組み合わせだからだ。ぼくたちは象徴の中で生き、そして象徴を生み出し続ける存在である。</div><div><br></div><div>だから、作品は象徴的でなければならない。</div>
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<link>https://ameblo.jp/undersunhide/entry-12411814813.html</link>
<pubDate>Mon, 15 Oct 2018 14:00:22 +0900</pubDate>
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<title>霊の存在について</title>
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<![CDATA[ 霊はわれわれの無意識に存在しており、彼らが姿をあらわすには、人間の心の中に入り込む必要がある。<div><br></div><div>霊とは、多くの側面を持った原始心像として、ひとつの元型を囲む、漠然とした認知の雲のようなあつまりである。</div><div><br></div><div>認知は対立を前提としている。すなわち、「この世とあの世」「前と後」「上と下」「喜びと悲しみ」などの対立がなければ、区別ができす認知ができないということだ。</div><div><br></div><div>霊はわたしたちの認知できない世界（無意識）に存在するものである。わたしたちがそれを認知するためには必ず人間の感覚に依存しなくてはならない。</div><div><br></div><div>つまり霊とは、わたしたちの認知神経を刺激する何かしらの元型であり、わたしたちはその元型の一部の側面をみて例の存在を認知するのである。</div>
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<link>https://ameblo.jp/undersunhide/entry-12411839901.html</link>
<pubDate>Sun, 14 Oct 2018 15:16:52 +0900</pubDate>
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<title>結婚について</title>
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<![CDATA[ ぼくは結婚に対して偏見をもっている。<div>ぼくが思う結婚とは、精神の自由を拘束するものである。</div><div><br></div><div>仏教には「人生とは苦である」（苦諦）、「人生が苦なのは愛が原因である」（集諦）という教えがある。</div><div><br></div><div>つまり、結婚とは愛の形であり、それは執着の具現化であり、苦の原因なのではないかと思ってしまうのだ。</div><div><br></div><div>しかし、これを書きながら思ったのだが、仏教では「人生を苦にしている愛をなくすには中道を歩むことである」（滅諦）とも教えている。</div><div><br></div><div>それを踏まえて結婚について考えてみると、結婚とはたしかに愛（執着）の形かもしれないが、必ずしも愛の形を維持しなくてもいいのではないかと思った。</div><div><br></div><div>なぜなら結婚とは、法的な関係性を結ぶ契約をすることであり、そこに愛があるか否かということは絶対的な必要条件ではないからである。</div><div><br></div><div>しかし、愛がないのだったら結婚する必要もないように思える。（結婚詐欺は例外として）</div><div><br></div><div>そう考えると、結婚というものは結局、法的な関係性を結び、相手を自分だけのものにしようという執着心があることによって成り立つものだということが分かる。</div><div><br></div><div><br></div><div>ぼくがいま感じている不安は、老後ひとりで孤独になってしまうのではないかというものだ。</div><div><br></div><div>結婚はその不安を解消することができる。それは老後まで自分と一緒にいるということを法的に約束し合うことによって解消することができるものだ。</div><div><br></div><div>このような、ただ孤独の不安を解消するための結婚には「愛」がない。自分の不安を解消するためのツールとして結婚を望んでいるということになる。</div><div><br></div><div>もしぼくが自分勝手な人間なら、そのような理由から結婚を望むだろうが、今のぼくはそのようなことを望まない。今のぼくは孤独を受け入れる気でいる。</div><div><br></div><div><br></div><div>ぼくはここで、自分の子孫を残したいという本能的な衝動を抑える必要がある。なぜなら、子孫を残すためには結婚を前提としていなくてはならないからだ。</div><div><br></div><div>そこでぼくは、この本能的衝動をおさえるアイデアを思いついた。</div><div><br></div><div>それは「自分の子孫はDNAという形ではなく、文書として残す」というものだ。ぼくは今後、我が子を愛するように文書を愛するだろう。ただし、この愛も執着ということには変わりない。ぼくは文書を残せなくなったら悲しむことになるだろう。それは文書に執着しているからである。</div><div><br></div><div>何にも執着せずに生きれるようになんてなるのだろうか…？</div>
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<pubDate>Sun, 14 Oct 2018 11:00:19 +0900</pubDate>
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<title>宗教的真理の檻（Mさんとの会話）</title>
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<![CDATA[ 昨日の夜、中野でMさんと夜ご飯を食べた。そこで真理についての話をしたのだが、僕はその話をしながら孤独を感じた。<div><br></div><div>Mさんは創価学会員であり日蓮を「日蓮大聖人」と呼び崇拝している。Mさんは「日蓮大聖人の説いた哲学こそが全てを説明するものであり、南妙法蓮華経こそが真理そのものなのだ。だから実践して唱えないと真理は分からない。だから君には真理は分からないよ」ということを語った。</div><div><br></div><div>たしかに僕も、真理とは目に見えず、話して伝えることもできず、体感することでしか分からないということは分かっている。</div><div><br></div><div>しかしその方法が南妙法蓮華経しかないというのは僕は違うと思う。真理に辿り着く最高の方法が南妙法蓮華経であるというのも違うと思う。</div><div><br></div><div>なぜなら真理は無知にこそ宿り、無欲にこそ宿るものであるから、何が最高の方法だとか、そういうことは問題ではないのだ。</div><div><br></div><div>僕にはMさんが妄信しているように思えた。そしてそれが宗教組織に属することだということを理解した。</div><div><br></div><div>Mさんと議論しても、行き着くところは結局、南妙法蓮華経なのです。南妙法蓮華経はたしかに、真理に到達する方法であり、真理そのものかもしれないが、それは数ある方法の中の一つでしかない。</div><div><br></div><div>Mさんとは、真理に到達する別の方法について議論をすることができず、僕は真理を探究しているのが自分だけな気がして孤独を感じてしまったのだ。</div>
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<link>https://ameblo.jp/undersunhide/entry-12411860060.html</link>
<pubDate>Sun, 30 Sep 2018 15:41:13 +0900</pubDate>
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