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<title>シャバの空気は冷やっこいですばい。</title>
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<description>実況動画とサッカーと部屋とワイシャツと私とあなたと歌うように輝くように包み込むように…。</description>
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<title>　―社会人になった時のために、最悪な一日を妄想しよう―</title>
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<![CDATA[ 　朝、起きる。ヤァヤァ快眠だ。<br>そんなわけはなく、夢の世界から、まるで猫をつまんで外に放り出すみたいに叩き起こされた格好だ。<br>瞼は呪縛的に閉じたまま、スムーズに開こうとはしない。<br>頭は重く、頭蓋骨と脳みそはどうしようもない愚図のパティシエが拵えたスポンジのようにスカスカとした感じで、どうにも状況がよく把握できない。<br>耳の近くで、ちっとも良心的ではない電子音が鳴り響いている。<br>べるるるるるる、べるるるるるる。<br>けたたましや。いと、けたたましい。携帯電話の呼び出し音だ。<br>ガチャリ、はいもしもし。あぁ、クライアントさんですか。なんですって、今スグ来いと。<br>はぁ、承りましたぁ。ガチャリ。無音。<br>こんな朝っぱらになんだよ。朝？外、暗えじゃねえか。<br>何時だよ、おい。まだ電車動いてねえじゃねえか。じいさんばあさんでもまだ寝てるって。<br>ナポレオンは寝ないことで有名だが、実は移動中の馬車の中でよく昼寝していた、などと頭の中で情報が散乱、もそもそと布団から出る。<br>うーんと、伸び。<br>寝た気がしない、3時間。ろくでもねえ。<br>とるものもとりあえず、着るものは着て、寝ぐせを直し、しょうがないけど家を出る。<br>あ、歯ぁ磨いてくるの忘れてた。息、くっせえだろうな。昨日餃子の王将だったし。<br>まあいいや、ミンティア買っとこう。タクシー！どこどこまでお願いします、なんていって、降りるときにはしっかり領収書貰っとかなきゃ。<br>お客さん、夜遅くまでご苦労さん、と運転手が話しかけてくるもんだから、そうですね、大変ですよ、運転手さんもご苦労さんです、と一応返答。<br>今から仕事なんだけどね、実は。しかも、多分怒られに行くんだよ、僕は。<br>クライアントのもとに着く。でっぷりとした腹、脂の浮いた額、薄い毛髪、賤しいうすら笑いがこびり付いた口角、目尻、さながら猪八戒。<br>どうしてこうまで類型的な、嫌悪感を誘発する外見。ああ嫌だ。<br>遅いと罵られ、僕の仕事っぷりについて罵られ、結局要領を得ないまま、罵り罵り2時間。<br>クライアント、ひとしきり罵倒した後コーヒーを入れて一息ついてるもんだから、あの、僕はどうしたらいいんでしょうか、と聞くと、ああ、帰ってよろしいと。<br>なんだ、ただのストレス発散か。<br>よかった、弊社のミスは無かったんですね、とポジティブに。<br>帰る。馬鹿らしい。<br>家に帰ろうと思うが、左手に着けている成人祝いのうすら禿げた電子時計は、きっかり出社時間。<br>外は陽光、清々しい朝の光。馬鹿の朝。<br>走って急いで会社。自分のデスクに座ると、身体が垂直に落ちていくような感覚がして一瞬にして虚無。<br>魚のような顔をした課長に叩き起こされる。そうですよね、スイマセン。<br>一日、雑務。でるわでるわ、トラブルの山。<br>昨日寝るときは、一つ火急の仕事を片付けて、あとはのんびりタバコを吸いながら暇つぶしてりゃ終わると思ってたのになぁ。<br>朝から得意先でトラブルでやんの。しかもそのトラブルってのが厄介で。<br>あーあ。眠いって。得意先に出向く。ああ、この機械が壊れてしまったんですね。<br>これはこうこうこうして。え、直らないですね。おかしいな。うーんと。<br>ということを5度ほど繰り返す。限られた時間が、無能で無為で無生産な屑に換わっていく。<br>こうして、僕は労働力を資本家に貸し与えることで、その対価として賃金を得ているのだ。<br>資本主義の豚だ、牙を折られた蛇だ、去勢された犬だ。結局対応に追われて、夜。<br>得意先から会社に帰って、始末書書いて。明後日の会議は僕の持ち回りだ。準備。<br>同僚は我先にと、急いで帰る。今日に限って残業していかねえんだな、クソ。眠いって。腹減ったって。<br>そうこうしているうち、あらこんな時間。終電ぎりぎりの時間に出て、ダッシュで駅へ。<br>なんとか電車には乗れたけど、息は絶え絶え、足は鎹のように手ごたえがない。<br>心臓バックバク。高校時代、サッカーをやっていたあの頃の体力はどこに行っちゃったの。<br>僕の吐く息で窓が白く曇る。それはため息。嘆息。<br>車窓から見る景色は、単なる抽象的な電球の明滅にしか見えない。<br>ぶっ飛んでいく明りの数々が、モネのようなマネのようななんだかよくわからない模様に見えたり見えなかったり。<br>電車の中では、一様に能面のような顔をしたスーツ姿の人間達が肩を寄せ合って窮屈な座席に座っている。<br>まるでアウシュビッツに囚人を運ぶ列車の様だな。それか、奴隷船。<br>僕もその一員なんだけどね。蛍光灯が厭に明るいのがまた乙なものだね。電車が僕の目的地に滑り込む。<br>よろよろと電車を降り、よたよたと家路を歩く。<br>街灯は心なしか元気がないなぁ、そういえば、世間は自分の心を映す鏡だと聞いたことがある。<br>つまりは自分の気分が落ちこんでれば、街灯も元気なくして見えるってことだ。<br>進行方向右手にあるコンビニはいつも明るく、中にいるガキの髪の毛もいつも明るい。<br>それとは対照的に、店員の顔は暗い。ドライ。世知辛い。コンビニ以外は、辺りは暗い。<br>僕の家まで、ほとんど何もないのだ。人通りも、無い。<br>はぁ、やだやだ、明日も仕事だしなぁ、早く寝なきゃなぁ。そう思いながら、自宅のカギを探す。<br>あった。ガチャリ。開ける。ただいまー。だれもいないけど。<br>靴を脱ぎながら、手探りでスイッチを探す。部屋は真っ暗なはずなのに、こういうときだけ壁の染みがよく目に付く。<br>普段は見向きもしないのに、暗闇の中でしか見ないものもある。<br>パチっとした手ごたえ、ややあって部屋に白々しい温もりが灯る。<br>腹が減った。昨日買ってあったできあいの弁当を食す。<br>398円という値札を剥がしながら、なかなかにうまい。<br>着色料、保存料、あり。<br>缶ビールを飲む。ぶしゅう。プルタブがはじける音。安っぽい琥珀色に輝く液体、かすかに香る金属。<br>これはこれで良い。ぐびぐび。うまい。<br>風呂に入ろう。うん。安心する。寝よう。<br>ベッドにもぐる。電源が切れたように、奈落へ。そして朝。また、日々。<br>あれ、最悪ってのは、多分こんなもんじゃないかもしれない。<br>
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<pubDate>Sun, 08 May 2011 02:00:41 +0900</pubDate>
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<title>読書。</title>
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<![CDATA[ 　初物語―『パーフェクト･ブルー』に始まる、読書する人生と成長―<br><br>　「初めて」という体験は、誰にとっても貴重なものである。<br>あなたにとって、心に残る大切な「初めて」はなんだろうか。<br>バイト先に来る小学生にそう聞いてみたところ、元気よく「足し算！」と答えてくれた。<br>いやはや、可愛いものである。<br>中学生男子に聞くと、「そんなこと聞くのは野暮ってもんだぜ」だそうだ。<br>一方、今年21歳を迎えた友人に同じ質問をしてみると、「グループディスカッションかな…」と言ったきり、何か嫌なことでも思い出したのか、むっつりとした顔で黙り込んでしまった。<br>「初めて」が良い思い出ばかりとは限らないところが、人生のほろ苦さだ。<br>　正直に言って、私は読書というものを中学生までほとんどしてこなかった。いや、「ほとんどしてこなかった」という程度表現は語弊であろう。「活字には拒絶反応を示していた」、と表現した方がいい。<br>一般的な文学少年が必ずは通る作品には見向きもしなかった。<br>『オズの魔法使い』、『ズッコケ三人組』などですら、私は読んだことが無い。<br>実をいうと、国語の教科書ですら、結構つらかった。そのくらい、「読書」という行為自体に、マイナスの反応を示していた。<br>実際には「食わず嫌い」ならぬ「読まず嫌い」であったのだと、いまにして思う。<br>幼稚園児が野菜を嫌うのと同様に、おそらく「初めて」読んだ小説が漢字だらけの印刷物であって、それを目にした時、読めない漢字だらけで辟易してしまったのだろう。<br>そして、その記憶から、どのような出版物でも、活字かつ漢字だらけのものは、無意識的に拒絶していたのかもしれない。<br>その証拠に、中学生に至るまで、私の文化資本の中枢を担う文化は「漫画」であった。<br>あれは漢字に振り仮名がふってあるからだ。イラスト中心なので、視覚的にもイメージがしやすい。<br>読書を挫折した少年にとって、格好の獲物であっただろう。『SLUM DANK』、『爆走兄弟レッツ＆ゴー』、『ブラックジャック』、『ホイッスル』、『ジョジョの奇妙な冒険』、『名探偵コナン』、『浦安鉄筋家族』、『ロトの紋章』などなど、<br>掲載雑誌や作者、ジャンルに拘らず、ここには列挙しきれないほど結構な量を消化していたと思う。<br>おかげで歴代の担任から感受性も豊かだと評価されたし、漢字テストでは、勉強しないでもかなり良い点数をとれていた。漫画様様。<br>両親には「本読め、本」と言われ続けたが、小説や新書など、所謂「活字媒体」は、視界の隅っこにすらも入らない。そのような小学生時代を、私は過ごしてきた。<br>　しかし、人生と言うには少々短すぎるが、振り返ることも多くなった今日この頃、私は年間50冊近くの小説を読むまでになった。<br>読書家の皆さまには鼻で笑われる冊数、かつ急に前述の話をぶった切るようなことを言ってしまって申し訳ないが、とにかく、人並みかそれよりやや多く読書するまでになったのだ。<br>なぜそうなったのか。<br>今に至るまでの事の経緯、つまり私の「読書人生」を語るには忍びないので、ここでは事の発端を語ろうと思う。<br>今から8年前のことだ。ちょうど、日本と韓国で行われていた、サッカーワールドカップの、祭りの後の静けさが漂う夏の頃。中学生活初の夏休みは、すぐそこだった。<br>　夏休みの国語の課題に、読書感想文が出された。<br>何でも良いから、小説や論説を読んで感想を書いて来い、との事だった。渡されたのは、原稿用紙2枚。<br>一か月の猶予期間があるとはいえ、中学生の言語資本を鑑みれば、絶望と言うほかない枚数だ。<br>私は、それまで「正統な感想文」を書いたことが無かった。<br>小学生の間にも読書感想文の課題が出たことがあったが、そのほぼ全てに、「あらすじ」と「あとがき」から物語を類推して、適当なことを書きなぐるというコスい手法を使っていたからだ。<br>時には、母親や兄弟が「こうして書くんだぞぅ」と言って例に書いた感想文を丸っとパクることさえあった。<br>したがって、今回（ここでは中学の課題を指す）も、同様の手法をとらせていただく予定だった。<br>ただ、小学生のころと異なることは、感想文をチェックする国語の教師が部活の鬼顧問であることと、不正が発覚した場合には相応の罰があること、私が所属していた部活は、連帯責任という原理を、タリバーンのごとく遵守する部活であることだった。<br>恐怖でしかなかった。地獄でしかなかった。<br>　私は、仕方なく拒絶していた活字媒体に挑戦することにした。<br>最初に手に取ったのが、家の本棚で目に付いた『蒼穹の昴』だった。<br>登山初心者がウインドブレーカー一枚で富士山にアタックするようなものだ。<br>主人公の名前（春雲と書いてチュンルと読む）が読めず、2秒で表紙を閉じ、本棚に返送することとなった。<br>2番目に手に取ったのが、背表紙が薄かった『羅生門』だった。結果は言うまでもない。<br>　課題の材料にどうしたものかと悩んでいたら、父親が「お前と同年代の少年が出てくるから」と、一艘の助け船、いや、一冊の小説を差し出してきた。<br>宮部みゆき著『パーフェクト･ブルー』だった。この作品が、私の「初めての読書」である。<br>　私は、今までの読書嫌いが嘘のように、活字の海、漢字の荒波を、苦も無く颯爽と泳ぎ切ったのだ。<br>と、表現したいのはやまやまだが、現実はほろ苦かった。<br>実際には、最初の10ページをうんうん唸りながら読むのがやっとだった。全く読めない。<br>物語に自己像を投げいれていくことが全く出来なかったのだ。<br>つまらん、これがあと400ページも続くなら、いっそ殺してほしいとすら思った。<br>ゆえに、「初めての読書」と位置づけられる経験は、あっけなく終了した。<br>私は本を閉じ、「課題」という課題を当面忘れることにした。<br>しかし、時間は流転するし、不可逆である。着実に、課題提出の日が迫っていた。<br>まるで死神が不吉なダンスを踊りながらこちらへ迎え出るように、<br>タイムリミットは刻一刻とその歩みを進める。尻に火がつき始めていた。<br>流石にそうなると、いくらなんでも課題に手をつけずにいられない。嫌でも読まなければと思い、<br>挫折した書籍の中から、読んでみた感触が最もマシだった『パーフェクト･ブルー』を進めることにした。<br>私の「初めての読書」は、周囲の圧力によって再開されたのだ。<br>『パーフェクト･ブルー』の読了は、一両日の間に達成された。<br>ベストセラー小説の帯によくみられる、「スリリングな展開に、思わず徹夜で読破してしまいました」という謳い文句を、まさに体現してしまったのだ。<br>自分が信じられなかった。何故こうも、忌み嫌っていた活字が、自分の中にするすると入ってくるのだろうと思った。<br>当初苦労していた、ミステリ小説特有のスロースターターな展開を、自分はどうやって突破したのか、実はよく覚えていない。<br>だが、『パーフェクト･ブルー』を読了した後、どう事件が展開され、どう解決に向かったのか、きっちりと説明できるくらい、物語の流れをつかんでいた。<br>活字を、読めていた。<br>言葉という言葉が大気中に浮遊し、呼吸をするたびに一文字一文字が肺に、脳にエネルギーを与えるような感覚を味わったことは、今でも覚えている。<br>この作品を読んでから、私の娯楽の選択肢に、新たに「小説」が加わった。<br>自分の中にどんな変化が起こったのかは、今となってはわからない。<br>成長期の中学生には、身体的成長とともに、精神的成長も同時に促されることもある。<br>一つの体験が、人格にまで及ぶ深い爪痕を残すことは、そうそう珍しい話ではない。<br>まるで早送りで東京タワーが建設される様子を観るような変化が、心の中で起こるのだ。<br>私にとっては、「初めての読書」が、後の数年に及ぶ社会生活における、自己実現の助力になり得るような貴重な体験となったのだ。<br>事実、もしこの作品に出会っていなければ、私は活字を嫌い続け、漫画にばかり傾倒し、サブカルチャーのみを身にまとう人間になっていたかもしれない。<br>補足するならば、今、こうしてこの大学に入学し、書評のためにキーボードをカタカタと叩いている主体はいなかったかもしれない。<br>現在も漫画は好きだし、私はずいぶんたくさんのエンターテイメントを消費してきた。<br>しかし、小説を読まなかったとしたら、人生における職業選択の道筋は、もっとせまくなっていただろうと思う。<br>現在の私のアイデンティティを支える重要な要素は、「精神的成長」だからだ。<br>小説に限らず、映画や漫画など、物語だと思えるものには少なからず「分析」する姿勢を以て接してきた。<br>そして、そうした物語に対する主体的な態度が、アイデンティティ形成の根幹を担っている。物語が、成長を促している。<br>「読書する」ということは「成長」である。<br>言い換えれば、「小説は人生であり、蓋し成長である」。<br>小説には、著者の人生や価値観が、文字となってそこに刻み込まれているからだ。<br>私たちは、小説を読むことによって、様々な「人生」を物語という形態で、象徴的に享受することになる。<br>つまり、他人の人生を疑似的に体験することになるのだ。<br>人は、その中でいろいろな価値観に触れ、自己像と照らし合わせ、融合させることで、新たな人生を歩んでいく。<br>それこそが次のステップへの「脱皮」であり、「成長」であり、同時に「超越」である。<br>小説を読む前の個人と、読んだあとの個人は、同一のものとは言えない。<br>新たな価値観を纏った、新たな個人なのだ。<br>そうして得られた新鮮な変化は、何物にも代えがたい貴重なものなのではないだろうか。<br>漫画にも同様のことが言えるが、小説はこうした要素がより強いように思える。<br>小説が漫画よりも具体的な主体性を求めるからなのか、それとも小説が、抽象的な思考を研磨し、具体的な言葉へと昇華させたある種の歴史的遺産だからなのか。<br>正確なところは定かではないが、そう思った「私」が存在するということは確かである。<br>『パーフェクト･ブルー』に出会えたから、主体的な読書をするようになり、現在の私にまで成長できたと思う。<br>「初めての読書」はほろ苦いものだったが、後の人生の中核となるほどの影響を及ぼした。<br>「良薬口に苦し」とは、よく言ったものである。<br>私にとって、良薬とは単なるきっかけにすぎなかったが、それがなかったとしたら、私の人生はもっと薄っぺらいものになっていたと思う。<br>さて、読書感想文に追われていた少年はというと、夏休み最終日に、「初めての読書」の衝撃と感動の勢いにまかせて、迸る熱きパトスのごとき文章を原稿用紙に打ち付けた。<br>そして、満面の達成感を湛えて課題を提出した。<br>感想文を提出するは、活字を忌み嫌っていた少年ではなく、「一つの人生」を体験した「少年」になっていた。<br>後日、その文章は、どういうわけか「もうすこしがんばりましょう」との評価が下されたのだが、私の中には、確かな成長の証が、きら星のごとく輝いていた。<br>中学生の私と、今の私は異なっている。<br>一貫した生命体ではあるが、ほとんどの面で、異なった個人である。<br>当然だ。当然、人間は成長していく。8年の歳月の中、たくさんの事を経験し、たくさんの事を学んできた。悲しみがあった。別離があった。憎悪があった。羨望があった。後悔があった。挑戦があった。努力があった。喜びがあった。<br>13歳の眼に映る物語と、21歳のそれは、異なるのだ。それが成長のあかしだ。<br><br>村上春樹が、『海辺のカフカ』の中で、成長についてこう述べている。<br><br>「何かを経験し、それによって僕らの中に何かが起こります。化学作用のようなものですね。そしてそのあと僕らは自分自身を点検し、そこにある全ての目盛りが一段階上にあがっていることを知ります。自分の世界が広がっていることに。そういうことがまったくないとしたら、僕らの人生はおそらく無味乾燥なものです。」<br><br>中学生のあのころ、感想文を書く片手には、コーラとポテトチップスが置かれていた。<br>しかし、こうして過去を振り返る今の私のお供は、インスタント･コーヒーとラッキーストライク、そして森博嗣著『詩的私的ジャック』。これもまた、ひとつの「成長」である。<br><br>
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<pubDate>Mon, 04 Apr 2011 01:03:14 +0900</pubDate>
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<title>一足も二足も遅いアヴァターレヴュー。</title>
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<![CDATA[ 　去年の2月に、『アヴァター』を観てきた。3D映像がすごい、すごいと言われていたので、流行りに乗っかった形で、行ってきました。一人で。レイトショーで。ほっとけ。<br>もう一年前になるのだけれど、このクラスの大作にしては、ノートにささっとメモをしただけでレヴューを書いていなかったので、この機会に、ということでここに書かせていただく。鑑賞してから時間がたっているので、新鮮な気持ちでレヴューできていないが、その分冷静な視点を保っていけると思う。<br><br>　世界興行成績第1位の座を10年以上固持してきた『タイタニック』のジェームズ・キャメロン監督作品。作品の目玉は何と言っても3D。もはや多くの人にとっては体験したことのあるものだろう。『アヴァター』は観なかったけど、『トイ・ストーリー3』で3Dを初めて体験しました、という人も多いんじゃないだろうか。<br>特殊な眼鏡をかけ、画面を見ることにで映像が飛び出して見える技術を映画に応用した注目の技術により、『アヴァター』を観る人々は、新しい時代の幕開けを予感したことだろう。壮大な物語をCGで作り上げ、3Dという革新的な手法を以て味付けした『アヴァター』は、衝撃以外の何物でもなかったと言える。当然、驚きが驚きを呼び、瞬く間にキャメロン監督は自身の持つ記録を『アヴァター』によって塗り替えた。トレーラーやCMなどで観る限り、ありきたりな手垢でまみれた「自然を大切にしましょうムービー」かと思っていたが、口コミや情報番組で絶賛されるところをみると、流石にこれは観に行かなければ、という気持ちになった。<br><br>この『アヴァター』で、一昔前のテーマパークで散見されたが、眼鏡をかけなければいけない手間と、技術的なコストに見合わないクォリティのためもあって、特殊な環境下での使用のみにとどまっていたこの3D技術が、ついに日の目を見た格好となったのだ。キャメロン監督はこの作品に構想14年、制作に 4年を費やし、独自の撮影技術を開発したり、作品世界の文化を一から作ったりしたという。並々ならぬ情熱である。<br>　公開当初よりその評判はうなぎのように上がっていったのだが、私がこの作品を実際に鑑賞したのは公開から2カ月ほどたった時期だった。<br>なぜかと言うと、レオマワールドという香川県のテーマパークでそのチープさ加減に辟易とした経験があったからだ。母方の実家がそのテーマパークの近くにあり、小学生のころ、毎年夏はそこに親戚一同で遊びに行っていた。ある年の夏、レオマワールド内に、3D技術を使ったアトラクションができた。それは単なる3Dのショートムービーで、確か宇宙恐竜を捕獲するスペースレンジャーがどうのこうの、という、今にして思えばちゃっちい物だったのだけれど、子供たちはみな興奮。3Dだぜ！3D！映像が目の前に飛び出てくるんだって！うげぇ！当時はやっぱり物珍しいもので、10分間の3D映像を観るためだけに2 時間並んだ。田舎の山奥にある、アスファルトだらけの遊園地内は馬鹿みたいに暑い。しかしながら子供たち、「うおー、恐竜が飛び出してくるんだぜ！」「ビームがブシャーってなるのか！」などとわけのわからないことを叫び合いながら、鼻血を吹きださんばかりの勢いで額を突き合わせてはしゃぐ。さあ我々の番がきた。いざメガネを装着。来るぞ来るぞ、と胸を高鳴らせて観た映像は、ちょっとチラつくノイズが入ったような2Dの映像だった。超平面。なにをどうしたらこれが3Dなのだ。時間泥棒。さっきまであれだけはしゃいでた子供たち、みな一様に能面のような表情でスクリーンを見つめる。そして、申し訳程度に映像に合わせてぷしゅうぷしゅうとむなしい音を立てて風が吹く。あの時のガッカリ感は、トラウマ物だった。そうした経験があったから、3Dはいやだったのだ。正直に言って、もう傷つきたくない！という、恋に敗れた乙女の心情。<br>加えて、一足先に『アヴァター』を鑑賞した友人から、「あれは流行らない」という呪いのような一言を聞かされていた。<br>しかし、高まる世間の圧倒的好評価。もう、自称映画好きとしては、観ないわけにはいかなかった。そういうことで、よくわからない緊張感を以て、遅まきながら入場券を購入し、鑑賞することとなった。<br><br>3D眼鏡を渡された瞬間、緊張と不安はピークに達し、いよいよもって眉間のしわが深く刻まれるとともに、私の鑑賞態度は硬化していった。映画を観るときはなるべく先入観や前評価を排除するのだが、今回はそれが難しかった。フラッシュバックするは、レオマワールドの想い出。ああ、俺はまた、3Dの幻想に純真な心を引き裂かれるのだろうか。ああ、俺は、次にこの心が失われてしまったら、もう立ち直れないかもしれない。ああ、俺はこの映画を観た後、シネマエクスプレス（新作映画予告）が一番おもしろかったなって言うんだ。そう思いながら、スクリーンに映し出されるキャメロンの名を見た。<br>　結果から言ってしまうと、その不安の半分は当たっていて、半分は外れていた。<br>期待の3D技術は、確かに驚くようなものであった。画面が前に飛び出すのではなく、奥にバァーッと広がっていくがゆえに、作品世界に今までにないくらい没入する感覚を味わえた。感性が、映画の世界に投入されていくのだ。そこに展開される雄大なパンドラの自然は圧倒されるものだった。宇宙船の細部は目の前にあるかのように明確で、樹々は、手をのばせば千切れそうなほど近い。酸素濃度を検知する身体機関は、錯覚を起こすほど。火薬の爆発は息をのむほどリアルで、本当にのどが焼けるような興奮を覚えた。銃撃の衝撃に飛び散る火花、振り下ろされるハンマー。映像にびっくりして、何度も手で目の前を覆って防御しようとしてしまったのが恥ずかしかった。ホントにこれ、スゴイもんですぜ。レオマワールドの亡霊は、跡形もなく雲散霧消。ほな、ばいなら、という風情で消えていった。やったね、3D万歳と、手のひらを返して喜んだものだった。<br><br>が、しかし、未来を予感させるかと言われれば、個人的にはそのような気はあまりしなかった。確かにいいものだし、これから先、もっと凄い作品が現れてくるかと思うと、結構わくわくする。だが、ですね、それにしても、3D作品は、作品というフレームとは別の次元で、作品に集中できない要素が多すぎると思う。というのは、技術的な問題だ。どうしても、眼鏡をかける、というのが抵抗があるのだ。<br>眼鏡を通すことで画面が暗くみえてしまって、なんとなく居心地の悪さを感じる。普通の眼鏡とは違い若干重い（劇場によって種類は異なるが）ので、どうしても装着感と違和感がぬぐえず、せっかく3Dで作品世界に没入しているのに、ふとした瞬間に装着している眼鏡が意識され、「あ、おれ、映画を観てるんだ」という現実に引き戻されてしまう。つまりは、3D技術は、観客を作品世界に没入させる導入の技術でありながら、同時に技術的限界ゆえに、観客に作品のフィクション的性格を自覚させてしまうメタフィクション装置であるということなのだ。加えて、映像が素早い動きになると、画面がちらつき、非常に観にくくなるし、視野が狭くなる。画面左半分を観ていると、右半分がちらついてよく観えない、ということが結構あった。こちらも現実に引き戻されてしまう要素だし、長時間3Dを観ていると気分が悪くなる、という感想も、大いに説得力がある。3Dを最大限活かせるのはアクションのような迫力のある画であろうから、これは構造的な欠点ではないだろうか。友人の行っていた通り、観る者全てがその技術に感動し、未来を予感するものではなかったと思う。<br>　また、これからの映画産業を考えると、この技術が首を絞めることになりはしないか、とも思う。<br>3D作品は現段階では映画館でしか観れないがゆえに、映画産業にとっては収益増のまたとないチャンスであろう。広告収入の面から考えても、話題性を付与できる3D作品を各制作会社こぞって制作するであろうし、3Dが3Dを呼び、やがて3Dが世界で支配的となることも予想できる。その世界では3Dこそが正義であり、それに適応できないものは、制作者、消費者かかわらず淘汰されていくであろう。<br>大人のラブ・ロマンスを作りたいが、3Dにする必要がないので収益は見込めず、制作は断念せざるを得ない。また、とある3D作品のストーリーには期待しているが、3Dを観ると強烈な吐き気と死にたくなるような絶望感を味わうので、観に行くことはできない。そのような事態が起こってしまうのではないか。そうなると、求める者には等しく開かれる娯楽産業としての映画は窒息しかねない。<br>実際にはそこまでトントンと3Dが支配的になるほど世界は単純ではないだろうが、この技術によって映画産業自体が揺り動かされたことは事実であろう。確かに3Dは革新的で、『アヴァター』はそれを抜きにしても、非常にシンプルかつ示唆に富んだ、よくできた普遍的な作品であった。しかしながら、この作品のヒットで3Dが支配的となり、それによってこの先の多様性が排除されることになれば、それは悲惨な事態というほかないだろう。
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<link>https://ameblo.jp/uonomeobi/entry-10844507854.html</link>
<pubDate>Tue, 29 Mar 2011 03:36:16 +0900</pubDate>
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<title>地震エッセイPart1</title>
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<![CDATA[ <font size="2"><br><br>就活生からみる東北関東大震災<br><br>　「･･･という理由で、御社を志望します。」<br>2011年3月11日午後2時50分、僕は東京のあるオフィスの一角にいた。僕はスチール製のデスクに座っていた。僕の向かいには、机に負けずとも劣らない無機質で無感情な無表情をかます30代の女性が座っていた。彼女は僕に次々と質問を投げかける。<br>　「あなたはどういう人なんですか？」「志望動機は？」「学生時代頑張ったことは？」<br><br>2011年3月11日午後2時50分、僕は就職活動における第一次面接の最中だった。質問に対し、僕が答えている時、強い衝撃がオフィスを揺るがした。<br>「あ、あれ、揺れてる？」<br>面接官はそう言った。僕は揺れに気付かない。夢中で話していたからだ。<br>僕は自分の発言に不備があったのかと思い、「揺れてる」という言葉に焦りを感じた。<br>「な、何がですかっ、僕の声が揺れてるってことですか」僕は言う。<br>「いや、そうじゃなくて･･･きゃっ」面接官は、赤い眼鏡を神経質に触りながら、外の様子をうかがい、椅子から立ち上がろうともがいていた。しかし、身体が横揺れに対応できていないようだった。<br>流石にそれを見て、かつ自分自身の重心がぐらぐらと揺らされる感覚を味わい、地震であることに気がついた。暢気なものである。<br><br>本当に長い揺れだった。自分の意志ではなく、ここまで身体が揺れる体験は、絶叫マシン以外には経験がない。左に。右に。重心が平行に揺れる、揺れる、揺れる。<br>オフィスの家具や立てかけられたレリーフ、額縁に入れられた企業理念、机におかれた時計、会議に使うであろうモニタ、全てのものを等しく揺らす大いなる力。ガタガタと音を立てて、全て揺れる。それは物理的な物質だけでなく、僕たちの存在自身も揺らす。動揺というのは、まさにこのことだな。<br>翌日も面接がある故、スーツのしわに気をつけながら、机の下に隠れる。外の様子をちらりと確認したり、どこで地震が起こっているのか予想したり、帰宅がかなり困難になるなと考えたり、暢気に頭を働かせる自分を少し意外に感じた。<br>いざ非常事態となっても、状況を正確に把握できないと即妙な対応はとれないのだ。よく、「地震が起こったら窓を開け、ドアを開け、ガスを閉め、風呂に水をため･･･云々」という災害対策の心得を聞くが、僕はそうできなかった。<br>恐怖の量に比例して、身構える態度は強固になっていくものだ。僕は地震発生当初、怖いなんてこれっぽっちも思わなかったから、ほとんど身構えることは無かった。サバイブしようという主体的な行動ではなく、言われるがままに「まあ大丈夫だろう」なんて思いながら、とりあえず行動した結果、僕は机の下に屈んだわけだ。<br>「3月20日に地球滅亡するらしいですよ」、一緒にもぐっている面接官に向かって冗談を飛ばす。快調だった。余裕だった。<br><br>揺れがおさまると、机から這い出し、面接官は他のオフィスの様子を確認しに行った。<br>「学生さんの命が最優先ですので、ちょ、ちょっとお待ちください」<br>こういうタイプは真っ先に自分の命を確保しに行くから、信用できない。仕事に身を捧げている女性は職務を一分の隙もなく遂行するが、仕事に身を捧げている「と思っている」タイプの女性は始末が悪い。中途半端に仕事をするから、ハプニングが降りかかると思考停止に陥ってしまう。おそらく、この面接官は後者のタイプだろう。自分の身は自分で守る決意を固めた。<br>しかし、すごい揺れだった。<br>採用面接が中断され、壁を隔てた隣のオフィスでは、女性の金切り声が聞こえたほどだ。外では、交通量が多いはずの東京の道路からは信じられない、全ての車が一様にストップ。タクシー運転手は車外に飛び出し、同じく車外に飛び出した他のドライバーと状況を確認し合っていた。作業していた職人風のおっさんと、ヘルメットをかぶった若者が深刻な顔をして上方を指差していた。喫煙所ではサラリーマンが、文字通り喫緊の事態にどうしていいかわからず、指先近くまでタバコを短くしていた。<br>ここまで揺れた、となると、遠方でかなり大きな地震があったのか、もしくは関東圏でやや大きめの地震か。どちらにせよ、この時点で地下鉄がストップしてしまうことは確定だった。電車一本で自宅に帰れる可能性は消滅、あ～あ、めんどくさいことになったな。その規模だと、おそらくテレビ番組は緊急特番に模様替えしているだろう。テレビ東京が番組内容を変更しているのならば、国家的な非常事態である。状況を確認し、ひとつひとつ点検していくうち、冗談を飛ばしていたころの心の余裕は、不安によって黒く塗りつぶされ始めていた。<br>このまま面接は続くのだろうか。非常事態ならば、そんなことしている場合ではないだろう。しかし、どのくらいの被害がこの地震によってもたらされたのか定かではない現状では、面接を続ける方が合理的というか妥当というか、まあそういうことになる。<br><br>面接官が戻ってきた。<br>「いや～、揺れましたね、あっち（隣のオフィス）からやいのやいの聞こえましたが、賑やかな職場で申し訳ないです」<br>よくわからない弁解だが。面接官は続ける。<br>「じゃあ、揺れもおさまったことだし、面接を再開します。お話しの続きを･･･」<br>この状況でも面接を続ける採用活動と、それでも対応して喋りはじめる僕の就職活動。これは異常か、正常か。そんなことを考えることもなく、自然に面接は続く。ここにおいては、異常、正常の判断はどうでもいいことだった。不安は大きくなっていたが、「重度の非常事態」という認識は、「宮城で強い地震だって！やばいねえこれ」という年配の声によって、ろうそくに火が灯るように、僕の心にほんのりと意識されるにとどまった。<br>面接は、僕としては面接官が「やる」と言えば断る理由はない。面接官も至極当然のように、面接を続ける。今にして考えてみると、結構異常なことだったのかもしれない。<br><br>その後も余震があれば面接中断。隣からは金切り声。ガタガタと音を立て揺れる企業理念のはいった額縁に、さすがにちょっとやばいんじゃあないのと思った。<br>当初30分の予定だった面接は、2時間をかけてようやく終了した。最後の方は僕も実家や震源地近くの様子が気になり、何を言っているのか何を言おうとしているのか何を伝えたいのかが釈然とせず、嘘が嘘を呼び嘘を見抜かれて終わった。ぼろぼろ。ぽろぽろ。<br><br>面接官に見送られ、僕はオフィスを後にした。<br><br>就職活動生から語れる僕の地震体験は、とりあえずこれで終わりだ。つまるところ、面接の最中に、僕は今回の大地震を経験した。<br>そして、こう思った。<br>「あ、これは就活をやめろという神からのお告げかな」<br>実際に、僕はこの体験から、フリーライターとして生きていく道を本気で模索し始めた。<br>とりあえずは就職活動を最後まで続けようと思うが、別ルートもある、ということを意識し始めた。今までは新卒一括採用という正規ルートで就職する道しか見えていなかった。視野が広がったとでも言おうか。不謹慎な物言いではあるが、僕は地震によって、自分の視界が開けたような気がした。出版社とかでアルバイトし、箔をつけてからライターに。それもいいな。そう考えるようになった。<br><br>地震はいろんな人を不幸にさせるが、人生をがらりと変える一つの転機でもある。良きにつけ悪きにつけ、これまでの生活を一変させる大きな異変だ。<br>元住んでいた人々は、家や土地、金、果ては肉親や友人までを失うこともある。どんな形にせよ、被災してしまった方々にはお見舞い申し上げる。身体がひょろい僕としては、ボランティアとして現地に赴くことはむしろ邪魔になるだけなので、せめて何か貢献したいと思い、募金させていただいた。恩を着せるわけではなく、とにかく自分の気持ちが届けたい、という一心だった。<br>被災地から遠く離れた僕だって、この先また語ることになるが、多くの皆さんと同じように大なり小なり被害をこうむった。ほとんどの企業の採用活動は4月末まで延期されてしまったし、計画停電が続き、消費が冷え込むと予定通りの募集人数は満たされないと思った方がいい。となると、僕たちは割を食ったわけだ。もしかしたら、12卒の就職活動は「詰んだ」のかもしれない。就活生からみた地震は、採用活動を著しく停滞させた一つの「事件」として認知される。僕たちのこの先のキャリアプランを阻害する大きな障害だ。人生が一変してしまうかもしれない。<br>地震は大地を揺らすだけではない。人生をも揺るがす。<br><br>一人の就活生、いや、人間として、僕には何が出来るだろうと考えた。先にも述べたが、ボランティアは現実的ではない。わざわざ書くことでもないが、阪神淡路大震災では、ガキでかボランティア（子供のまま大きくなったボランティアという揶揄）と呼ばれる学生ボランティアが観光気分で押し寄せ、大層邪魔だったという教訓が残っている。現地に行って、被災者の直接的な力になれないのなら、間接的でもいいから僕にできることで、被災者だけではなく、それ以外の人にも大なり小なり影響を及ぼすことがしたいと思った。<br>そこで、こうしてキーボードを叩いている。一人の人間が、東北関東大震災を経験して、何を感じたのか。それを、デジタルの記憶に焼きつけておきたいと思う。大袈裟に言うと、歴史の証人になろうということだ。<br>特に何か物語を紡ぎたい、というわけではない。僕が感じたことを、できるだけありのままにここに書きだしていこうと思う。そこにはもしかしたら不謹慎な言葉が含まれるかもしれないし、現実的ではない妄想的な方針のようなものも垣間見えるかもしれない。それを感じ取った時には、どうぞご意見ください。僕の文章を読んで、何かあなたの中に意見が芽生えたり、道が出来たりすることが、この試みの狙いだからだ。<br>「それ、ちがうんじゃない」「ぼくはこうした方がいいと思う」。意見を持つだけでも大いに結構だ。僕が大切だと思うことは、今回の地震に対して「一人一人が考える」ということだ。<br><br>僕は今まで、いろんなものをバカにして生きてきた。他のものを見下したりすることで、僕のアイデンティティーを保護していたのだと思う。いわば、バカにすることで僕が僕らしくあれた。そんな僕が、こうして社会のために自分の力で貢献したい、と思っている。自分としても、心にともる静かな蒼い炎に、だいぶ驚いている。そういう側面では、地震というのは僕の存在を揺るがし、まったく別の主体に組み替えてしまった、人生のターニングポイントである。<br>地震は人生を揺るがす。みなさんも、揺るがされたはずだ。さあ、何が変わったか、考えてみよう。どうしていけばいいのか、考えてみよう。自分に何が出来るのか、考えてみよう。<br>ちょっとでも考えることができたなら、それが復興への第一歩になると信じている。<br></font>
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<link>https://ameblo.jp/uonomeobi/entry-10836622133.html</link>
<pubDate>Mon, 21 Mar 2011 02:37:19 +0900</pubDate>
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<title>映画レビュー　『YES MAN』</title>
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<![CDATA[ 『イエスマン “YES”は人生のパスワード』レヴュー<br><br>　想像してみて欲しい。<br>夏の楽しかった思い出に後ろ髪を引かれ、目前には厳しさとロマンを湛えた冬が近づく、気持ちのいいある秋の日のことだ。時刻は16時30分。太陽が傾ぎ、あたりはやや暗くなり始めている。最近はめっきり日が短くなった。そろそろ、呼気が薄化粧を纏うころだろう。<br>あなたは、並木道を歩いている。今日は最高気温に対して少々薄着で外出してしまったので、風邪をひくといけないからと家路を急いで歩いている。夕食は何にしよう。栄養がつくものがいい。そう考えていると、あなたの目の前に一人の男が立ちふさがる。よれよれのジャンパーを着て、同じくよれよれのスラックスをはいている。手の指先はあかぎれ、爪はひどく汚れている。靴は全ての苦労を物語るようにくたびれている。そしてかすかに漂う特有の香り。判断するに、いわゆる路上生活者というやつだ。男はあなたの進行方向をふさぎ、訴えかけるようなまなざしをこちらによこす。あなたは、一歩後ずさる。<br>「何か御用ですか。」<br>そう問うと、男はこう返事する。<br>　「助けてください。」<br>あなたは、なんと答えるだろう。<br><br>　もしも全てに「イエス」と答えたら。私たちは、リスクの社会に生きている。そのリスクとは、交通事故のリスクといった物理的なものや、人格、ひいては存在を規定する深層にまで影響を及ぼす抽象的なものでもある。一瞬で事が終るものから、その先数十年にわたって生活を脅かされるものまである。リスクは、実に様々な形態をとるものだ。常に危険をはらんだ社会では、何をするにもリスクが付きまとうし、人間関係のリスクや予測できない未来に対するリスクに怯え、日々は、そこに哲学もなくただ空費されている。つながりのない社会。希望の無い社会。そう形容され、リスクだけが増大する社会で、私たちは何に依拠し、何から生きる意味を教えられるだろうか。<br>　この作品には、そうした社会一般に対して、「救済と共感を以て笑い飛ばしちゃおうぜ」という、ある種の哲学にも似た決意が見えるように思えてならない。<br>リスクなんて考えないで、目の前の頼みごとに「イエス」と答えよう。そうすれば、日々は、社会は、人々は、もっともっと幸福になれるのではないだろうか。そういったメッセージが、この作品には込められていた。<br>私は、この『イエスマン “YES”は人生のパスワード（以下イエスマン）』を、「雑な傑作」という言葉で誉めたたえたい。コメディに盛り上がって、笑って、そして最後にしんみり心を揺さぶられたいのなら、この作品を観るべし。<br><br>さて、読者の皆さま。ここまで読んで、『イエスマン』とは、どのような作品なのだろう、と感じてくれたのなら、レヴューする筆者としては非常にうれしい。もしそう感じなくても、最後までこの文章を読み、ちょっとでもこの映画を観ようと思ってくれさえすれば、それだけで冥利に尽きると言うものだ。ここで、簡単に『イエスマン』のあらすじをみていこう。以下に、書きならべる。<br>･･･と、言いたいところだが、作品のあらすじを紹介することは無粋であると考えている。例えるなら、アイスクリームの最初の一口を食べた後に投げてよこすようなものだ。相手によっては、殴り合いのケンカに発展しかねない。無粋というよりはむしろ明確な憎悪に似ている行為だ。したがって、ここでは物語のネタバレを避け、『イエスマン』の魅力を紹介していきたいと思う。私のレヴューが、これから観ようとする読者にとって、『イエスマン』のメッセージをいくらか詳しく読み解くための助力になれば幸いだ。<br>ただ、ここから先を読み進めていくにあたって、読者の皆様には一つだけ押さえておいてほしいことがある。それは、「イエスという救済が、全てを変える」というメッセージが作品全体にわたって込められているということである。<br><br>前述の通り、この作品に対する私の評価は「雑な傑作」というものだ。「雑」という言葉と「傑作」という言葉が矛盾し、齟齬を起こしているように見えるが、決して筆者の頭がおかしいというわけではない。これは、重厚なテーマという土台に、「雑」なコメディを被せることで、コメディ映画としての明るさを保ちつつも、非常に効率よく観客の感情を揺さぶることが出来る秀逸な映画、という評価の表れである。くわえて言うと、『イエスマン』には、作品のタイトル、あらすじ、主演俳優からは想像できない巧妙な仕掛けが施されている。それらを加味した上での評価である。<br>では、そう思った根拠と、巧妙な仕掛けの詳細を、もう少し具体的に、順を追って述べていこう。先に言っておくと、根拠は2点ある。一つは「救済」というテーマであり、もう一つは「コメディ映画であること」である。<br>まず前者の「救済」から語っていこう。<br>ある助けを必要としている個人をAとし、それを手助けしようとする個人をBとした場合、この際の「イエス」は、すなわちBがAの要求を受容して応答するというものである。この場合、AとB双方に相互利益が生じる。Aは何かしらの困窮から抜け出すことが出来るし、Bは他者に必要とされたという実感が得られる。Bのそれは、少なくとも生きる意味に直結し得る。この相互行為を、「救済」と呼ぶことにする。簡単に言うと、「困っている人を助ける」という、キリスト教の「救済論」における、その中心行為にあたるものである。<br>『イエスマン』は、「救済」を通じて「生きる意味」を得ることの重要さを人々に説いているといえる。この作品における「救済」とは、何にでも「イエス」と答えること、つまり「相手の頼みを全て聞き入れることにより、相手の存在を承認し、救済する」というものだった。主人公はどんな頼みも拒否せず、相手の何かしらの困難を解決する。具体的にどのようなことかは『イエスマン』を観てもらうとして、重要なポイントは、「見ず知らずの他人に対し、無償の救済を施すことで世界が変わり、広がる」という構造的な主題が込められていることにある。無償の「救済」は、巡り巡って自らの利益となる。「情けは人のためならず」という説明が最もわかりやすいだろう。このことわざは日本人ならばほとんどが知っているが、いざ行動に移すとなるとかなり困難だ、ということも同様に知っている。無償というのは、現代社会においては特に貴重であり、困難なものでもある。<br>文章冒頭を思い出してほしい。あなたは、このような場面で、路上生活者を無償で救済するだろうか。9割以上の人が、一瞬で煙のように消えるだろうと思う。しかもさらに困ったことに、その男を助けようものなら周囲から変人のレッテルをはられ、コミュニティから鼻つまみ者にされかねない。知り合いが路上生活者を突然、無償で手助けし始めたら、どこかに頭をしたたか打ちつけたのか、神と遭遇し地獄に落ちると脅されたのだろうかと思う方が自然だ。本来「救済」とは賞賛されるべき行為なのに、有名性をもたないごく普通の人々にとって、現代ではむしろ望ましくない行動のように思われている。これが一般的な見解だろう。他者を「救済」すれば、自己も「救済」されるかもしれないのに、人は可能な限りリスクを避け、見ず知らずの他人を「救済」しようとはしない。そのような行動は、個人の問題ではなく、むしろ社会の問題であると思う。全ての事象が加速し、社会全体が能力を超えた生活を強いられるようになった現代において、人々は互いに無関心にいられざるを得なくなった。そのような社会には、「無償の愛」も鳴りをひそめれば、「救済」はサブカルチャーの形をとらざるを得なくなり、様々な社会問題が発生した。全共闘、オウム真理教、孤独死…。その問題は40年ないし50年前から加速度的に進行しているとされる「ポストモダン化」の影響の一つであるが、ここで社会の変容を語っても仕方がないので割愛する。一つ確かなことは、『イエスマン』は、そうした冷たくよそよそしい社会一般に対し、「もっとこうすればみんな幸せになれるよ」というような、ある種の問題提起と戒めを込めている。『イエスマン』は、「救済」による「自己の救済」を叫んでいるのだ。重厚かつ前向きなメッセージだ。<br>こうしたテーマが根底に流れていることが、私が『イエスマン』を「傑作」と称してやまない根拠の一つだ。しかし、ここには、ある問題が潜在する。「救済」を真面目に物語化しようとすると非常に説教臭くなる、という問題だ。この主題は、多くの人に伝われば、それだけで世界は変わるかもしれない。できるだけ多くの人に伝えたいのだが、シリアスな「救済」を描いて、現代の大衆はついていけるのだろうか。主題が映画を通じて伝える以前に、映画自体を観てもらえないかもしれない。そうしたジレンマを解決する手法が、ジャンルの選択である。『イエスマン』を傑作だというもう一つの根拠を論じていこう。<br>「コメディ映画であること」だ。<br>正直に言って、『イエスマン』は、「コメディ映画単体」としての出来はあまり良くない。個人的にいえば、笑った回数は『メリーに首ったけ』には到底及ばず、『ノッティングヒルの恋人』と同じくらいだった。「純粋な」コメディとしての完成度は決して高くは無かったと言うほかない。主人公がドゥカティでウイリーしながら尻丸出しになる、というのが本作のハイライトだということが、せいぜいその程度のものだということを如実に示している。ギャグのしょうもなさで言ったら『おぼっちゃまくん』といい勝負だ。やや雑なコメディ映画と言える。<br>しかしながら、注意していただきたいのが、『イエスマン』は純粋なコメディとしてはクォリティこそ低いものの、実は作中のしょうもないギャグが、作品全体の重さを抑え、主題を伝える導入になっているということだ。落語で言うところの「前座」や、バラエティ番組における「前説」と説明すればわかりやすい。そして、それを紐解いていけば、商業的な成功と、メッセージを効果的に伝える両方の意味で、『イエスマン』の構造に、巧妙な仕掛けが施されていることが分かるだろう。どういうことだろうか。この映画を支えている背骨は「傑作」の部分だと思う。前述したが、背骨は「救済」というテーマであり、それは現代社会ではかなり希少なものだ。ここに一つの問題が浮上する。そのようなテーマを自然主義的リアリズムに基づいて描こうとすると、どうしても作品全体の雰囲気が重くなってしまうということだ。「困難」→「救済」→「変化」という、「救済で変化する」転向の物語を際立たせるために、作品冒頭で困難をリアルに描かなくてはならなくなるからだ。「救済」を伝えたい一番のターゲットは「その他大勢の人々（潜在的な観客）」とする方が妥当であり、彼らは、現代ではほとんど快楽のみを求めていると考えられている。現代社会に対する疑問を投げかけるようなテーマをもつシリアスな映画を、そうした人々は、はたして観ようと思うだろうか。多分、観たいと思わないのだろう。一番伝えたい肝心な「その他大勢の人々」に、映画自体を観てもらえないと表現する意義は薄い。ではどうするかというと、大衆に迎合することが合理的だ。観客には「快楽を提供してくれる作品」であると思わせ、観客が物語に引き込まれたところで主題を明示する、という構造を設計することが有効である。したがって、前半は「コメディ」、後半は「救済という主題」を描けばよい、ということになる。『イエスマン』は、そうした現代の消費傾向と主題の有効性を計算しつくした結果「コメディ」ジャンルを選択した、秀逸な構造をもつ「傑作」であると思う。<br>残念ながらスタッフ全員に取材をしたわけではないので私自身の印象論になってしまうが、少なくとも私はそう読み解いた。現実にはそう思わない人もいるだろうし、逆に同意してくれる人もいるだろう。そういう方は、どんどん議論してほしい。観客が、この映画について、ひいては映画の主題について思い思いに議論するということはとても重要だ。そうすれば、「救済」について理解が深まるだろうし、行動に移す一つのステップになるかもしれない。『イエスマン』が描いたとおり、「イエス」で世界は変わるのだ。そこまでメッセージが伝われば、映画として大成功だ。<br><br>少々長らく語ってきたので、そろそろまとめといこう。『イエスマン』は、「救済」を得難い社会で、それをテーマとして描ききり、効果的に伝えるために「コメディ映画」形態をとったという構造を有している傑作である。<br>くわえて、この映画には、その暗い社会を笑い飛ばしてしまおうという明るさに満ち溢れている。2時間とおして、スクリーンでは明るい話題と成功が際立っていた。主人公の滑稽さだとか、恋仲だとか、人間関係だとか、それらマイナスなこと、プラスなことひっくるめて一切を笑ってしまおうというような明るさに彩られていた。<br>今作中で、不幸になった人間は一人もいないことは、映画のポジティブを際立たせる事象の一つだ。「イエス」が「救済」に代わった瞬間、世界は変わったのだ。少なくとも、彼の周りでは。<br>ネガティブなことはなく、全人類がポジティブな非合理性を以て行動することを期待しているかのような、ユートピア的な映画だった。観終わった後の胸の気持ちを確かめてみれば、単純に面白かったと言えるはずだ。<br>「救済」という土台の上に、コメディが乗っかることで、この作品は化学反応を起こしているのかもしれない。現代社会の様相を鋭くえぐりだす重いテーマの上に、「そんなものも笑っていればいいじゃん」と言うような軽い回答を乗せ、重厚かつ軽妙な、そんな矛盾したハーモニーを奏でているのだと私は強く思う。<br>泣いて、笑って、考えさせられるコメディは、作品全体の「軽さ」から考えたら想像もつかなかったが、土台の重厚さは相当のものだった。<br>こんな暗い世の中だから、全てを肯定しようという試みは、人々に勇気を与える輝きである。明日から、心からの「イエス」が言えればいいなぁ。手始めに、カールがやっていたように、とりあえず「イエス」と答えてみよう。全てを「イエス」と言わないまでも、多少のことなら要求にこたえてあげよう。そうすれば、世界は変わるかもしれない。<br>この映画が、私の生きる意味につながることを願って、答えよう。<br><br>　「イエス」<br><br>＜了＞<br><br>　補足：『イエスマン“YES”は人生のパスワード』<br>2009年に公開されたコメディ映画。<br>監督ペイトン・リード。主演ジム・キャリー、ゾーイ･デシャネル。<br>題名の「イエスマン」と「キリスト」が引っかかっている壮大なギャグには筆者も唸った。<br>
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<link>https://ameblo.jp/uonomeobi/entry-10827066907.html</link>
<pubDate>Fri, 11 Mar 2011 00:18:11 +0900</pubDate>
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<title>踊る港物語。</title>
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<![CDATA[ <br>　ああ、素晴らしき哉、人生！<br><br>なんて言葉、この先一生口にしないと思う。<br><br>僕はいつだって現実をしっかり見定めていたし、人生は辛いことばっかりで、<br><br>ごく控えめに言って、僕に他人に賞賛されるような出来事なんておこりっこないと思っている。<br><br>僕がすごい人間なんて思わないし、特別だなんてことも思ったことはない。<br><br>いつ、いかような時期も、僕は僕をちっぽけな虫けらのような存在だと思っていた。<br><br>それは卑下ではない。かといって、謙遜でもない。<br><br>あくまでも僕は、自分自身をしっかりと見定めている。<br><br>その結果、自分をちっぽけな存在である、という評価を下しているのだ。<br><br>過去の成し遂げた事をかき集め、床に並べるようにひとつひとつを点検していった。<br><br>長い時間をかけて、リストに書き連ね、同じくらい長い時間を使って、ひとつひとつを否定していった。<br><br>他人に自慢できるようなことは、何一つないのだ。<br><br>勉強は、小さいころからそこそこ出来た。でも、それは平凡にできたというだけで、驚くべき頭脳は持っていない。<br><br>サッカーを続けてきたが、お世辞にもうまいとは言えない。<br><br>映画が好きで、ずいぶん多くの作品を観てきたと思っていたが、上には上がいる。<br><br>漫画や小説も然り。<br><br>そうした作品のレヴューを書くことをやってきたが、人は「書いてきた数」には関心を示すが、<br><br>内容に関しては口を閉ざす。<br><br>何一つ、僕には無い。<br><br>だから僕は、無限に広がる泥の海にその身を浸す。<br><br>体を上向きにし、どんどんどんどん沈んでいく。<br><br>濁った水のなか、かろうじて僕を照らしてくれていた日の光りがその存在の一切を損なった時、<br><br>僕の意識は途切れる。<br><br>そして、問う。<br><br>きみは何者だ？<br><br>－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－<br><br>自己ＰＲ考えてたらこんな文章出てきた。<br><br>きもっちわりいっ。
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<link>https://ameblo.jp/uonomeobi/entry-10714360167.html</link>
<pubDate>Mon, 22 Nov 2010 00:33:27 +0900</pubDate>
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<title>この手のひらの空気を燃やすと。</title>
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<![CDATA[ 大量の叶姉妹が生成される。<br><br>しかも空手の型を破りながら。<br><br>謳うように。<br><br>踊るように。<br><br>幻想の魔の手がその身を焦がし、全ての建築物を根こそぎになぎ倒してしまうように。<br><br>叶姉妹が行く。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>なんだこの記事（←見てる人全員がそれ思っただろうよ）
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<link>https://ameblo.jp/uonomeobi/entry-10688775938.html</link>
<pubDate>Wed, 27 Oct 2010 02:07:09 +0900</pubDate>
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<title>オロロ畑でつかまえて。</title>
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<![CDATA[ <font size="2">『オロロ畑でつかまえて』レヴュー。<br><br>巻末の池上冬樹氏の解説で、「第10回小説すばる新人賞」の、ひょっこりひょうたん島の放送作家で小説家の故･井上ひさし氏の「オロロ畑でつかまえて」に対する選評が引用されていた。孫引きとなるが、ここにも引用させていただく。<br><em>「文章は軽妙にしてユーモアに満ち、話は風刺の力にあふれて爽快であり、近ごろ稀な快作である。こういう作品に余計な選評は不要、とにかくお読みになって、読者それぞれの立場で楽しんでもらえればよい。」</em><br>井上ひさし氏、解説の池上冬樹氏と同様、まさに私も同意見である。手にとって、すぐに読んでほしい作品だ。こういったユーモアあふれる作品にはレヴューなんてものは不要だし、欲望されもしない。<br>しかしながら、そうした本音のスタンスをとってしまうと、私のレヴューの存在理由がなくなってしまう。それでは非常に困る。不要とは言いつつも、どのような作品にもレヴューを必要とする余地があるはずだ。というわけで、上記の選評の「稀な快作」までを掬いあげて、それに続く「楽しんでもらえればよい」までの部分を破り捨ててしまうという形で、私の文章の<strong>延命措置</strong>を働きたい。よしなに。<br><br>まず、この作品を読み進めていくうちに、広告というコンセプトはしっかりしていて、物語に一貫した背骨が通っているものの、文体は毒が効いていて荒削り、150㌔剛速球ストレートと言うよりかは高速スライダーを思わせる「クセ」を感じた。この作品といい三崎亜記著『となりまち戦争』といい、すばる新人賞はこのような小説が好みなのだろうか。<br><br>私が感じたように、おそらくこの作品を支配しているのは、コンセプトの具体性と、毒の効いたユーモラスな文章なのだと思う。<br>コピーライター出身の著者･荻原浩氏の経験に裏打ちされた広告の知識は各章にちりばめられており、広告を志す者にとっては教訓となる一文も多かったのではないだろうか。<br>ふまじめとさえ思える文体から繰り出される、これまたバカなんじゃないかと思わせるくらいふまじめな連中が繰り広げる、<strong>火の無いところに盛大な煙を立たせる作業</strong>は、電車の中でこの作品を読む読者を何度もニヤニヤさせたのではないだろうか。<br>読者が手軽に読めて、素直に笑えて、胸に刻みつける一文に線を引かせ、爽快な気分で読了できるという小説を生みだすことは相当困難な業だ。しかし、この作品は、『オロロ畑でつかまえて』という、<strong>サリンジャーとそのファンに喧嘩を売りつけているとしか思えないタイトル</strong>で、平然と、颯爽とそのアクロバティックな離れ業をやってのけた。そう考えると、故･井上ひさし氏の選評はやたらに説得力を帯びる。私としては困るけど、こればっかりは仕方がない。<br><br>―大都会とド田舎―<br><br>さて、著者の荻原浩氏の名前が出てきたので、ここで簡単に彼のことを紹介しておく。<br>と、思ったのだが、巻末の解説に詳細な情報が記述されているので、私の出る幕ではない。<br>なので、私としては、その解説には書かれていない情報でメスを入れたいと思う。<br>荻原氏は埼玉県出身の成城大学卒で、コピーライターを経て小説家へ、という道を辿っている。<br>ここで私の目を引いたのが、彼が埼玉県出身だということだ。<br>というのも、本書を読んでいて、かすかな違和感と、リアリティの欠如を感じたからだ。<br>その違和感は、ほとんどの場合、東京と牛穴村の風景描写に対するものだった。<br>描写される東京は、ビルが立ち並び、ネオンきらめく不夜城だ。牛穴村は、寒村と言うよりは不毛地帯と言った方がふさわしいほどのさびれた村。2010年という文明社会で、これほどしらじらしいステレオタイプのイメージというものも珍しい。まあ、1998年に刊行された作品だから、今日の価値観からそれを批判することは特に意味は無いのだけれど。<br><br>　この物語の中では、東京は徹底的にクールでトレンディなシティとして描かれ、同様に牛穴村は徹底的に田舎で、ド田舎で、途方もないほどのド田舎として描かれている。<br>この両極端の都市と村は、その「言葉」自体が持つイメージが相対化され、先鋭化された結果として登場したものだ。これはやりすぎだ。むしろリアリティの欠如を招いたのではないだろうか。私の違和感は、ここにあった。<br>つまり、広告のプロセスに対するリアリティと、舞台のリアリティが齟齬をおこしている。少なくとも、私の眼にはそう映った。<br>埼玉県という、田舎でも都会でもない東京の植民地と呼ばれる土地で多くの時間を過ごした著者にとって、「ド田舎」と「大都会」は経験に少なく、その言葉のイメージを鋭くして茶化してしまおうという欲望が働いたと想像するのは、少々行き過ぎだろうか。<br><br>―人物たち―<br><br>本書が毒のあるユーモアに支配されているというのは前述のとおりだ。<br>このユーモアは著者のキャラクターそのものの発露であると思われるが、それがいかんなく発揮されているところをみると、それはそれは愉快に筆が踊ったのだろう。<br>各章の冒頭には業界用語にくわえて著者の主観が述べられている。これがまた面白いのなんの。切れ味がとにかく鋭い。その切れ味たるや、先祖の墓に刃物をお供えすることを連想させられる。（←？）<br>私はこのような、チクリと刺すような皮肉と軽妙なユーモアがちりばめられた小説が大好きだ。<br><br>その皮肉の刃先から繰り出される文体は、登場人物にも特別な命を吹きこんでいる。<br>90年代から現代までの物語を創る際のトレンドとして、キャラクターの優位がよく言われる。シナリオを創る前にまず魅力的なキャラクターを創ることが編集者と作家の打ちあわせの第一歩だという話を聞いたことがあるくらい、キャラクターの個性は重要視されている。本作も例に漏れず、ユニバーサル広告社の愉快な面々（怪しい関西弁を操る石井、長身痩躯の村崎、アルバイトの猪熊）や、牛穴村の外国語をしゃべる連中などなど、様々な個性あふれる人物がユニバーサル広告社のオフィスや牛穴村を「所狭し」と駆け回るのだ。まぁ、実際両方とも「狭し」という点に関しては比喩でも何でもないのだけれども。<br><br>―主人公と白い嘘―<br><br>人物において本作で特に注目すべきは、主人公視点となる人物が二人存在するという点だ。都会の主人公と、田舎の主人公だ。<br>都会の主人公はユニバーサル広告に努めるコピーライターの杉山。田舎の主人公は牛穴村青年会の米田。前者はシニカルな鬼才クリエイターであり、彼の広告に対する姿勢と教訓には、思わず下線を引いてしまうほど感心させられる。「プレゼンテーションの鉄則は、決定権のあるキーマンを攻めろ」が特に私のお気に入り。後者は田舎の不毛地帯に身をやつしながらも、東京の大学を卒業したインテリとして尊敬を集める次期村長候補だ。<br>物語は二人の交互視点によって語られ、都会、田舎双方の視点も同時に楽しめる。<br>　一見すると共通点の無さそうな二人の主人公だが、私はある一つの点で共通すると思っている。それは、「他人の願いをかなえようとする欲望」だ。<br>杉山は石井の頼みで帝国エージェンシーを辞め、現在にいたっているし、米田は青年会の頼みを聞き入れて奮闘する。両者の動機になっているのは、他人を喜ばせたいということなのだと思う。たとえそれが、嘘だとしても。<br>　杉山の行動をみると、私の主張がよくわかると思う。彼は、所々で他者を喜ばせようとして嘘をつき、そしてそれを実現するために努力する。<br>最も象徴的であったのが、牛穴村青年会にプレゼンテーションをした際の「LOVE」の演説だ。<br>彼はそこで、こう言う。<br><em>「どんな男も過去を語らせたら、みんなちょっと不良で、結構スポーツマンだ。未来の話をすれば、大抵こう言う。今の自分は仮の姿で、これからビッグになる自分こそ本当の自分だ、と。嘘だ。でも、真剣だからついてしまう嘘だってある。（中略）誰かを愛したときのように、嘘をつくほど本気で、日本中に我々のメッセージを伝えましょう。」</em><br>杉山にこのときどんな想いがあったかはわかり得ない。しかし、杉山が、自分が誰かのために嘘をついたことを懐かしみ、感傷に浸らせるようなアーキテクチャがそこにあり、もう一度誰かのために嘘をつくことに必要性を感じたことは事実であると私は思う。<br>他者を喜ばせる嘘を「ホワイト・ライ」と言うのだそうだが、杉山の嘘はまさにそれなのだと思う。恋人を喜ばせるためにギターを弾けると嘘をつき、石井を助けるために嘘をつき、牛穴村を盛り上げるために嘘をつく。虚言癖があるという身も蓋もないことではなく、杉山は常に共存在の感情を動かす実存在であり続けるのだ。まさに「ホワイト･ライ」の権化。本作は杉山を中心に牛穴村を興していくというストーリーラインで展開されていくので、「ホワイト･ライ」で支配された物語と言っても過言ではないだろう。<br>毒が効いていながらも、読者を笑わせて、ほっこりさせることが出来るから、この作品はエライ。<br><br>―や・ら・せ―<br><br>「ホワイト･ライ」と言うと聞こえはいいが、ユニバーサル広告社が施した仕掛けには、倫理的な問題が残っている。<br>「やらせ」だ。<br>広辞苑で「やらせ」の定義を調べたところ、「事前に打ち合わせて自然な振る舞いらしく行わせること。また、その行為」とのこと。この定義と照らし合わせれば、なるほど、龍仁湖のウッシーという仕掛けは、「やらせ」に該当する。世間一般で言えば、「やらせ」は相当な悪徳行為とみなされる。テレビやニュースでそれが発覚しようものなら、多方面から毒矢のような批判が飛んでくる。そのような社会で、ユニバーサル広告社がとった戦略はどう映るのだろうか。<br>ほとんどの場合、こうした村興しやイベントでは、ある特定の場所に意味を付与することで消費を活性化させることが念頭に置かれる。つまり、場所の記号化、テーマパーク化である。その際のセオリーとしては、「嘘を嘘として楽しめるイベント」を創っていくことだ。恐竜を登場させたいのであれば、それが偽物であることが周知だという前提で行われるべきであり、スノッブな仕掛けを施すことで意味の付与は完遂される。ディズニーランドや赤坂サカス、個人的に身近なところだと湘南七夕祭りなどがこれに当たる。<br>対して、ユニバーサル広告社が行ったイベントには、そのスノッブな仕掛けが施されていない。彼らは、世間に対して、「本当に、本物の恐竜があらわれた」というアプローチをとったのだ。そこには偽物である前提などは皆無であり、マスコミを大真面目に食いつかせる巨大な釣り針が用意されただけだ。これは非常にまずい。ディズニーランドの例を人は演出と言うが、こちらに対して人は「やらせ」というだろう。演出とやらせの境界線は非常に曖昧で恣意的なものだが、このウッシーに対する認識には大部分が賛同してくれると思う。くわえて言うならば、「やらせ」を悪とみる風潮からすれば、ウッシーも悪ということになる。<br><br>　しかし、本当にウッシーは悪なのだろうか。私はあえて、その認識に反証を試みる。<br>「やらせ」というものは、実を言うと人類有史以来横行している。古代オリンピックですら八百長の対象だったそうだし、そう考えると「やらせ」の歴史は深い。<br>いつの時代にも「やらせ」はあったわけだが、現代の「やらせ」は少々毛色が違う。というのも、現代はメディアが支配的だからだ。<br>日本において「やらせ」が問題視され始めたのは、1985年にテレビ朝日で放送された「アフタヌーン･ショー」という番組が発端だ。番組プロデューサーが、ある女子中学生に同級生をリンチするようそそのかし、実行の様子をセンセーショナルに報じたことが倫理上問題視され、新聞、雑誌などの活字メディアからかなりのバッシングを浴びた。それから少し時間がたった1992年には、NHKが「NHKスペシャル」で過剰な演出を施したことが発覚し、85年同様のバッシングを浴びた。このころに「やらせ＝悪」の図式が強固なものになったのだと思う。<br>当初活字メディアの論点の中心は、「視聴率至上主義がやらせを生む」というものだったが、<br>92年のNHKの例をみればその批判は的外れだとわかる。NHKは視聴率を必要としないからだ。<br>であるならば、「やらせ」は面白い番組を創るために必要とされる手法の一つであると考える方が妥当だろう。<br>手法である「やらせ」を悪と語るということは、「やらせ」は、全てが「禁じ手」ということになる。この考えが通俗的となってきている。<br>しかし、本当にそうだろうか？今一度、「やらせ」について考えてみよう。<br>「やらせ」は、リアリティを生みだすための唯一の手法なのだと思う。<br>というのも、我々の世界で、「ありのままの現実を映し出す」ということが不可能であることは、ちょっと考えればわかるはずだからだ。<br>街を歩いていて、カメラクルーをみかければやや歩調がどぎまぎするだろうし、<br>旅行中にカメラを向けられれば、カメラに撮られていることを意識せざるを得ない。<br>その場合、それははたして「ありのまま」だろうか。答えはノーだ。カメラが入った瞬間、それはありのままではなくなる。<br>しかし、メディアの全面化（カメラの全面化、つまり「ありのまま」の喪失）が進むことと逆コースをたどるように、多様化していくニーズは、次第に我々の「ありのまま」を欲望するようになった。<br>この欲望の根幹は「現実」に対する姿勢の変化でもある。<br>日本において80年代～90年代にかけて、リアリティを基盤とするテレビ番組が増え、社会学や心理学などの直接我々の生活とかかわる包括的かつ実証主義的な学問が流行したことは、この姿勢の変化に対応していると思われる。<br>我々の生活に「ありのまま」が失われ、失われたものを欲望する働きによって、虚構の「ありのまま」は発掘されていった。先ほども述べたように、我々の生活に、メディアは欠かせないものとなっている。<br>どこに行ってもテレビはあるし、一度カメラが向けられれば、意識的にせよ無意識的にせよ、カメラの向こう側の視聴者を意識した行動に強制されることになる。そうなると、「ありのままの現実」は描けない。<br>しかし、それとは裏腹に、「ありのままの現実」を欲望する積極的な需要も存在する。<br>そのような二律背反を解決するために、「やらせ」は登場したのだと思われる。<br>「ありのままの現実」を撮れない以上、「やらせ」は、「ありのままの現実っぽいものを創りだす手法」として生まれたのだ。<br>したがって「やらせ」は、「時間的制約を乗り越える再演のテクノロジー」である、<br>つまり「過去にあり得た事象を再演する手法」であるということになる。<br>SFやファンタジーは、「過去、現在、未来にあったかもしれない想像力を再演する手法」であるのだから、「やらせ」は、現在「善し」とみなされている一般的な手法と同質のもの、若しくは大差ないものなのではないだろうか。<br>　テレビカメラやメディアが介在することで、それは「ありのまま」ではなく、「ステージ」に変貌する。<br>このことはもはや必然であり、メディアが我々の生活に深く入り込んで内在化された証明であると言えるだろう。<br>そうであるならば、我々の世界から「ありのまま＝リアリティ」は失われてしまったことになる。<br>失われたものを欲望するのは人間の働きであり、その欲望を叶える唯一の手法が「やらせ」であるならば、かならずしも「やらせ」が悪ではないことがわかる。<br><br>　ここまで「やらせ」について弁護してきたが、実を言うとこの論理は新しいものでも何でもなく、1960年代にFCC（米連邦通信委員会）がベトナム戦争報道に対して下した結論に基づいたものだ。<br>どういう論理かざっくり説明すると、思想の自由市場を謳うアメリカのメディア市場において、ベトナム戦争時かなりの「やらせ」が横行した。<br>それに対しFCCは、「やらせ」はメディアが支配的になった社会においては必然であるとし、<br>「やらせ」を「良いやらせ」と「悪いやらせ」という風に、大きく二つに分類した。<br>「良いやらせ」はあり得ること、象徴的なこと、つまりリアリティを感じさせること。「悪いやらせ」は、でっち上げや強制。<br>　この基準に照らし合わせてみると、ウッシーなど現実には存在しないから、ユニバーサル広告のウッシーは、「悪いやらせ」と言うことになる。<br>杉山達が常に懸念していた事項は、まさに正確だったわけだ。<br>というか、よく考えてみたら、いや、よく考えるまでもなく、ウッシーは風説の流布であり、詐欺だ。犯罪だ、これ。アウト。<strong>反証失敗</strong>。<br><br>―オロロ畑でつかまえて―<br><br>ここまでで、そろそろまとめといこう。<br>「オロロ畑でつかまえて」は、全体的にはかなり満足できる作品だった。<br>文章はユーモアにあふれ軽快、物語も細かい合理性を無視すれば一貫して整合しているし、キャラクターも魅力的。<br>すぐ読めて、笑って、あったかくなれて、志あれば糧にできる、非常に優れた小説であると思う。<br>ただ、完全に個人的な意見ではあるが、唯一残念だったのが、14章「プレミアム」のユートピアな幕切れだ。あれだけどたばた繰り返し、法まで犯して、「みんなが特に損することなく幸せになりましたとさ」ではあんまりではないか。<br>おとぎ話やディズニーじゃないのだから、もう少し混沌とした幕切れで歯切れよく終わってくれた方が好みだった。<br><br>　とはいえ、繰り返すがかなり満足できる作品だった。<br>広告業を志望する私としては教訓をたくさん頂けた。<br>特に感じたことは、「何かを創る時にはアイディアを先ず生みだして全体像を形成する方がいいものが創れる」という印象だった。<br>杉山の広告戦略は、市場分析から入るのではなく、一貫して「LOVE」などのインスピレーションから入っていた。<br>分析や論理づけは、その後の帳尻合わせで行われていた。<br>便宜上そういった表現をしているのかもしれないが、P34あたりを読んでもらえば、納得してもらえると思う。<br>先日、とあるプレゼンテーションにて、分析に分析を重ねたうえで的確に伝えるアイディアを模索するというやり方で失敗した私としては、これが身にしみた。<br>もちろん、分析から良いものを創る人もいるだろうが、私にはアイディア先行がうまくいくかもしれないということを強く感じた。<br>アイディアを出してから、そのディティールを詰めていくアプローチが、私には合っているのかもしれない。<br>その印象を得られただけでも、大いに価値のある小説だった。<br><br>　<em>「広告の世界では、無神経なほどわかりやすさに神経を使わなくてはならない。」</em><br>杉山の教訓だ。<br><br>それでは、そろそろこの感想文も締めくくりとしよう。<br>最後に、この言葉を添えて幕引きとさせていただく。<br><br><em><strong>「私は貧弱な真実より、華麗な虚偽を愛する」</strong>―ロジェ・ヴァディム―</em><br></font>
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<link>https://ameblo.jp/uonomeobi/entry-10671381836.html</link>
<pubDate>Sat, 09 Oct 2010 00:53:22 +0900</pubDate>
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<title>CSIレヴュー。</title>
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<![CDATA[ <font size="2"><br>世界は、狭くなった。<br>いまや、誰しもがそう感じ、人々は様々なメディア媒体から垂れ流される世界中の情報をなんの疑いも無く貪っている。<br>インターネットやテレビ、新聞、ラジオなどを通し、日常的に海外のニュース、ドラマを視聴することが当たり前となり、<br>日本にいながらも常に海外を身近なものとして認識できるようになった。<br>世界は、狭くなった。<br>ゆえに、最近では日本製のドラマとは全く異なった価値観、<br>演出を繰り広げる海外ドラマにスポットが当てられるようになり、またそれ自体が新たなジャンルとして確立されつつある。<br>冬のソナタ、24-twenty four-、LOST、HEROSなどなど、<br>海外、特にアメリカで売れたドラマをそのまま輸入するという手法が一般的となり、<br>レンタルDVDショップでは目玉として扱われ、昼間の情報番組などでも果てしなくちやほやされている。<br><br>実にけしからん。<br>というわけではない。<br>そうではないのだ。<br>日本製ドラマのネタ切れのようなありきたりな展開にうんざりしていた私としては、<br>実に嬉しい限りの状況だ。<br><br>海外ドラマは、常に革新で満ち溢れているのだ。<br>だからこそ、良い。<br><br>世界は、とてつもなく狭くなった。<br>日本のドラマの、若手人気俳優を大量に出演させ、<br>深いストーリーもテーマもへったくれも無い陳腐な展開はもう見飽きた。<br>良いものこそ、正義なのだ。<br>この機会。<br>海外ドラマ、特に私が気に入っているドラマについて、一つ語ってみようではないか。<br>そう思い立った。<br><br>そこで、今回はこの場を借りて、「CSI:科学捜査班」の魅力について、極東の島国の、一応はパスポート所持している程度の大学生が、語っていこうと思う。<br>このレポートで、「CSI：科学捜査班」について、一人でも興味を持ってくれたら幸いだ。<br><br><strong>作品概要</strong><br>まず、簡単に、どんなドラマなのかを説明していこう。<br>「CSI：科学捜査班（原題CSI：Crime Scene Investigation）」（以下CSI）は2000年からアメリカ・CBSで放送されているテレビドラマシリーズである。<br>日本ではWOWOW、AXN、テレビ東京などが放送している。<br>製作総指揮はパイレーツ･オブ･カリビアンシリーズなど、<br>数々のヒット作でしられるジェリー･ブラッカイマー。<br>ヒットメーカーの腕はやはり確かなもので、アメリカでは「フレンズ」、「ER救急救命室」、「24-twenty four-」を抜き去り視聴率№1に輝き、<br>様々な社会現象を巻き起こすと供に好調を維持している。<br>2002年からは「CSI：マイアミ」、2004年からは「CSI：NY」といった、<br>舞台や設定を変えたスピンオフ作品が制作され、こちらの方もやはりヒットを続けている。<br>以上の三作品を総称して「CSIシリーズ」と呼び、舞台ごとにそれぞれのテイストがあり、<br>どれをとっても非常に魅力的で刺激的だ。<br><br>このシリーズは、人種の坩堝とさえ言われるアメリカにおける凶悪犯罪に、<br>科学捜査班所属の刑事たちが、最新の科学技術を駆使して解決していく姿を描く。<br>時にスタイリッシュに。時にシステマチックに。そして時にグロテスクに。<br>「とてつもなくクール」。その形容がぴたりと当てはまる作品といっていい。<br>シリーズの一話ごとの話作りは、例外はあるものの、大抵は一貫して一話完結の手法をとっている。<br><br>街のどこかで、犯罪が起こる。<br>通報を受けた科学捜査班（正しくは鑑識）が現場に向かい、証拠を採取し、研究室（ラボ）にて採取した証拠の検査･分析をし、事件の解決を急ぐ。<br>そしてドラマ構成45分中最後の5分あたりには犯人が逮捕され、一件落着。<br><br>一つのエピソードを大まかに説明すれば、このような構成になる。<br>エピソード中に二つないしは三つ程度事件が発生し、CSIメンバーがそれぞれチームを作り、<br>分担しつつ個別に解決していく。<br>解決する事件、解決しない事件、数話にまたがって断片的に発生していく連続殺人、二つの別々の事件が実は関連した連続殺人だった･･･などなど、エピソードのバリエーションには事欠かない。<br><br>　<strong>舞台</strong><br>次にCSIシリーズの具体的な設定の説明に移っていこう。<br>先ほども述べたように、シリーズはスピンオフ二作品を含む前三作品で構成され、<br>それぞれが並行してCBSやWOWOWなど、世界各地で放送されている。<br>三作品各々に舞台設定があり、それぞれが個別のチームを作り事件捜査にあたってゆくわけだ。<br><br>地域ごとに特色があり、当然、事件の種類、性質も変容することになる。<br>舞台設定自体がCSIの肝である「事件」に変化をあたえ、<br>バリエーションに富んだ話作りを円滑に進めている。<br>これ自体がCSIの魅力といっても過言ではないのだ。<br>それでは、ここではその舞台とチームをご紹介するとしよう。<br><br>　CSI：科学捜査班（以下ラスベガス）<br>シリーズの原点であり、総本山ともいうべき作品。<br>10月7日現在ではシーズン8がWOWOWで放送されている。<br>舞台は欲望渦巻くラスベガス。世界最大のギャンブル都市として知られ、毎月300万人以上が出入りしているこの街で科学捜査にあたっているのは、全米で2番目の規模を誇る科学捜査機関という設定であるラスベガス市警･犯罪課･犯罪現場捜査研究所･科学捜査班。<br>ラスベガスのその特性ゆえ、劇中に登場する事件はギャングや娼婦、貧乏人や出稼ぎヒスパニックなど、人の際限なき欲望にまみれている。<br>主任は主人公でもあるギル･グリッソム（ウィリアム･ピーターセン）。<br>昆虫学が専門だが、非常に博識で、シェイクスピアからチャールズ･モンロー･シュルツまであらゆるジャンルから引用することもあり、また、抜群の知識と洞察力でチームを先導することも多い。<br>共同主任は碧眼･ブロンドで元ストリッパーの経歴を持つキャサリン･ウィロウズ（マージ･ヘルゲンバーガー）。<br>以下に、ニック･ストークス、サラ･サイドル、ウォリック･ブラウン、グレッグ･サンダースなど、それぞれの専門知識に長けた面々が部下として続いてゆく。<br><br>　<br>CSI:マイアミ（以下マイアミ）<br>フロリダ州マイアミを舞台に、ラスベガス･シーズン2第22話において登場したCSIマイアミチームが活躍する。<br>WOWOWではシーズン6の放送が終了している。<br>マイアミが舞台ということもあり、主に水辺での捜査やヒスパニック系住民の人種問題などにスポットが当たることが多い。<br>主任は元爆弾物処理班の刑事ホレイショ･ケイン（デヴィット･カルーソ）。<br>弱者に対する自愛と、自己の正義への自戒、そして犯罪者に対する冷酷さを併せ持つ理想の刑事像として描かれている。<br>主人公が元爆弾物処理班と言うこともあり、他のCSIに比べるとやたらと爆発の描写が多い。<br>それゆえに、マイアミはしばしば大味で迫力があると評価されている。<br>スピンオフ作品ではあるものの、2006年にはロイター通信に「世界で最も視聴された番組」として報じられたこともある。<br><br>　CSI:ニューヨーク（以下NY）<br>世界の中心都市･ニューヨークを舞台に、摩天楼で巻き起こる怪事件や難事件にCSI NYチームが立ち向かう。<br>WOWOWでは現在シーズン4が放送中である。<br>この作品もスピンオフ作品であり、マイアミ･シーズン2第23話で登場したNYのチームが活躍する。<br>ラスベガスやマイアミとはまた違ったテイストを展開したいとジェリー･ブラッカイマーが判断したため、他の作品よりもクールで血なまぐさい印象が特徴的だ。<br>主任は元海兵隊で、9.11で妻を亡くしたマック･テイラー（ゲイリー･シニーズ）。<br>少年期や青年期に過酷な体験をしており、かなりの心の傷を抱えている。そのため、グリッソム、ホレイショに比べ、やや人間味があふれる人物像が描かれている。<br>彼の部下に、『自由の女神』ステラ･ボナセーラ、元ギャング　ダニー･メッサー、元検死官シェルドン･ホークスなど個性的な人物が続く。<br><br>　以上がスピンオフ含めた三作品のチームであり、基本的にはどのチームにも「頼れる主任、ブロンドの美女、ユーモアあふれる男性捜査官、凄腕刑事」がいる。<br>そのあたりで、シリーズの一貫性を強調していることがうかがい知れる。<br><br><strong>演出効果</strong><br>舞台が違えば、やはり演出もまた、変化する。至極当然なことだ。<br>では、どんなものがあるのか。いくつか例を挙げてみよう。<br><br>まずひとつに、場面領域の「色」だ。<br>ラスベガス、マイアミ、NYそれぞれでおこる犯罪の性質は、土地柄からかどうしても異質なものとなってくる。<br>あえて舞台を一箇所に固定しなかったのは、犯罪のバリエーションが欲しかったからだ。<br>その場合、同時に、犯罪のリアリティも必要となってくる。<br>しかし、その土地の性質が視聴者に伝わらなければ、より迫真に迫ったリアリティは生まれない。<br>どうしたものかと製作陣も頭を抱えたことだろう。<br><br>そこで、その問題を解決したのが「色」だ。<br>「色」自体がその土地の存在をありありと示し、同時にそこがどういう街なのか、どんな犯罪が起きるのかなどを直接視覚に訴えてくるのだ。<br>例えばラスベガスなら、エピソードの七割近くが夜の時間帯で展開され、闇の中にネオンが煌煌と輝く、なんとも形容しがたい「色」が映し出される。<br>繁栄と没落、両極端の矛盾が同居するカオスを非常に効果的に表現している。<br>マイアミは南国を思わせる太陽のオレンジと黄色。<br>南国の悠久のときを刻む陽光の暖色は、観る者をほっこりと安心させるが、<br>繰り広げられる事件は悲惨極まりないもので、そのギャップがシュールなハーモニーを奏でている。<br>NYは大都市特有の冷たさと残酷さをあらわした青。<br>ビッグ･アップルでは来る日も来る日も凶悪犯罪が絶えず、目を背けたくなるような光景が日常となってしまっている。<br>しかし、NYは、そんな凄惨な舞台背景にもかかわらず、どこか人間くさいエピソードにあふれている。<br>NYは、冷酷の象徴である青色を基調として使うことで、残酷さと人間味は表裏一体であることを強調しているのだ。<br><br>つまりは、「色」によって作品の差別化が行われており、<br>その姿勢からも、個性的な魅力ある作品を作ろうという意志がまざまざと伝わってくるということだ。<br><br>　また、さきほど犯罪のリアリティと述べたが、そのリアリティを追求するという点において、<br>CSIシリーズの右に出るものはおそらく存在しないだろう。<br>このドラマを観ていると、あたかも自分自身が捜査にあたり、証拠を採取し、分析しているかのような感覚に陥ることがしばしばある。<br>画面を注視し、映像にのめりこんでいくうちに次元の境目が消えうせ、自らがCSIのラボに在るかのように錯覚する。<br>そして、白衣を着て分析装置に手をかけ、分析結果の、見たことも無い記号の羅列を目の当たりにして、ふと、われに返る。<br>次の瞬間には自分はテレビの前に座っていて、ブラウン管を通してCSIのチームを己の水晶体に焼き付けていることに気付くのだ。<br>なんと言うリアリティだ。<br>悪魔的とさえ形容できる。<br>しばし、思考をめぐらす。<br>ここで、ある疑問が頭にうかぶ。<br>このような究極的なリアリティはいったいどこから来るのだろうか？<br>どのような手法で製作すれば、このリアリティは手に入るのだろうか？<br>その答えは、最新の科学技術にあった。<br><br>なんとこのシリーズ、科学捜査の際に使われる機械や器具など、<br>全て実際に全米の科学捜査科で使用されているものをそのまま撮影用に使用しているのだそうだ。<br>全ての犯罪者の指紋、DNAを保管している「コーディス」や、<br>頭蓋骨から元の顔を復元するCG,、遠心分離分析装置などなど、<br>CBSから出資される潤沢な制作費にモノを言わせて、本物のプロ使用を取り寄せているとジェリー･ブラッカイマーは語る。<br>実際の器具を撮影で使用することで、役者もすんなりと科学捜査官の役に入り込める上に、セット特有のある種の安っぽさが全く見受けられない。<br>これは大きな要因だ。<br>加えて、死体が非常にリアルであること。<br>死体は基本的には模型で作られているが、これがまたいやというほどリアルなのだ。<br>人間の魂の抜け殻が放つ独特の負の大気までも忠実に再現しており、グロテスクとしか言いようが無いそれを用いての検死解剖シーンは、目を背けたくなるほどにソリッドだ。<br>また、特殊なカメラワークやCGなどを駆使した犯罪現場の再現シーンも、リアリティの実現に一役買っている。<br>あたかもその現場に居合わせたかのような映像は、迫力が段違いで、いかようにして犯罪は起こるのかを視認化することで、わかりやすくも簡潔に殺人の過程を提示するのだ。<br><br>この三点こそがCSIのリアリティを構成する柱であり、これらは是非とも自分の眼で確認してもらいたい。<br>作り手の、一切妥協を許さないプロ魂を眼にすれば、CSIの人気の秘密がすぐにわかるはずだろうからだ。<br><br>　<strong>社会現象としてのCSI</strong><br>全米で圧倒的な人気を誇っているCSIシリーズだが、あまりに人気ゆえに社会現象にまで発展しているそうだ。<br>CSIで行われたトリックが再現された犯罪が発生したり、<br>CSIを観て、証拠が残らないように訓練をつんだ犯罪者など、その異常なまでのリアリティを参考にして、犯罪が多発しているというのだ。<br>これらを「CSIショック」というらしいのだが、果たして大真面目な現象なのか、CSIの人気ぶりを揶揄するジョークなのかは定かではない。<br><br>　<strong>お気に入りエピソード</strong><br>私個人が一番好きなエピソードは、と聞かれれば、必ずラスベガス･シーズン5最終話「CSI”12時間”の死闘（前･後編）」をあげるだろう。<br>キル･ビルのクエンティン･タランティーノ監督が演出した二時間スペシャル版で、後に「CSI：グレイヴ・デンジャー」としてDVD化もされた。<br>犯罪の猟奇性、展開の疾走感、刻々と迫る死の恐怖と仲間の絆など、どれをとってもドラマとは思えない一級品の仕上がりで、ハリウッド映画としても十分通用する作品だ。<br>CSIをグロテスクでわけの分からないドラマだと敬遠している人に、是非観ていただきたい。きっと、CSIのクールな世界にのめりこむことだろう。<br>ただし、心臓の弱い方や閉所･暗所恐怖症の方にはオススメは出来ないので注意するように。<br><br>　<strong>一貫したテーマ</strong><br>　CSIシリーズの犯罪を見渡してみれば、猟奇的で凶悪なものを除けば、<br>ほとんどの犯罪はささいな動機で引き起こされたものや、もはや事故ではないかというものばかりだと気付く。<br>痴話喧嘩の最中に、勢いあまって殺してしまった事件や、無謀な路上レースの果てに火ダルマになった変死体事件など様々だ。<br>殺人を犯した動機が、そんなちっぽけなもので殺された側は納得するものだろうか。<br>ここまで謎を引っ張っておいてこの事件ははい事故でした、ですまされるものか。<br>おそらく、誰も納得もしないしすまされもしないだろう。<br>しかし、この不条理、どんなに思考を重ねても到底納得し得ない人間の理不尽さ、これこそがCSIの一貫したテーマなのだ。<br><br>「犯罪はいつだって些細なことから起こる。」<br>ラスベガスの主任ギルバート･グリッソムはそう語る。<br>統制が弱まり、公共と個人が切り離された社会において、人間の欲望は際限なく肥大し、<br>個人の根底からは獣が滲み出し、振り上げられたこぶしは常に叩きつける場所を探している。<br>そのような世の中で、不満を開放することの危うさを説くこの一言は、人々の奥底に眠る良心の戸を叩くのだ。<br><br>普遍のテーマだからこそ、普遍の魅力がある。<br>CSIの真の魅力とは、この一言にこそ凝縮されているのかもしれない。<br><br><br>了<br></font>
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<pubDate>Thu, 07 Oct 2010 22:37:33 +0900</pubDate>
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<title>動画紹介</title>
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<![CDATA[ <br>ワタクシうおのめが投稿している動画を紹介したいなと思います。<br><br>実況動画なので、嫌いな方はご注意ください。<br><br><br><br><strong>ドラクエ３<br><br><a href="http://www.nicovideo.jp/watch/sm6293595" target="_blank">http://www.nicovideo.jp/watch/sm6293595</a></strong><br><br>記念すべき初実況。男遊び人３人で旅をするというビジュアル的に地獄な企画。<br><br><br><strong>ドンキーコング<br><br><a href="http://www.nicovideo.jp/watch/sm10014497" target="_blank">http://www.nicovideo.jp/watch/sm10014497</a><br></strong><br>似てないモノマネが見どころ。<br><br><br><strong><br>魂斗羅スピリッツ<br><br><a href="http://www.nicovideo.jp/watch/sm11912601" target="_blank">http://www.nicovideo.jp/watch/sm11912601</a></strong><br><br>楽しそうにゲームするうやまが見どころ。<br><br><br><br><br>気に入ったら「うんこ」とコメントして行って下さい！！！<br><br>気に入らなかったら「死ね！」でもいいんで、よろしくお願いします！！！
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<pubDate>Sat, 28 Aug 2010 23:07:04 +0900</pubDate>
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