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<title>usiroda0のブログ</title>
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<title>間違えた！</title>
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<![CDATA[ <p>歴史ブログ村に登録したつもりだったのに、アメーバだったとは。小和田先生のブログがあったので、すっかり騙されました。</p><p>３５年間ドライバーをやっていて、まだ現役なのでボケてはいないと思ったのに、歳はとりたくないですネー。</p>
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<link>https://ameblo.jp/usiroda0/entry-12160149528.html</link>
<pubDate>Sat, 14 May 2016 08:30:07 +0900</pubDate>
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<title>井伊氏　直平娘の子</title>
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<![CDATA[ <p>浜松市の広報にも井伊直平孫娘が、家康正妻築山御前とする系図が載っています。</p><p>〇事実の確立20％　非常に低いと思います。</p><p>　　煎本増夫氏が『井伊年譜』を引き、小和田先生が賛同したため、一般に信じられるようになっ</p><p>　　たのですが、この書は彦根藩主の命で編纂されたため彦根藩の正式な史書と認められたの</p><p>　　ですが、実はこれ以前に松居・沢村という藩士が書いた『井伊新譜』がベースになっていて、</p><p>　　直平孫娘＝築山御前という説を挙げたのは、この本が最初です。「新譜」というからには「旧</p><p>　　譜」があるわけで、それが岡本喜庵がまとめた『寛永諸家系譜』に載る系図と、喜庵がその</p><p>　　のちにまとめた井伊家の歴史です。これも藩の正式な歴史書だったのです。それは井伊直</p><p>　　興が元禄十年に柳沢吉保に提出した『当家覚書』までは、この系譜が用いられています。、</p><p>　　　この年直興は大老になっています。しかし元禄十二年には、将軍綱吉が諸国大名に直興</p><p>　　　との接触を禁じています。子細は不明ですが、伝統を重んじる直興が、柳沢吉保、すなわ</p><p>　　ち将軍綱吉を批判したことが原因だといいます。この年直興は大老を辞し、家督を病弱な息</p><p>　　子に譲って隠居しています。おそらくこれが直接の原因で、徳川家との深い関係を示すた</p><p>　　め、自分の先祖の娘の子が築山御前だとしたのです。ちょうど正保年間遠江井伊谷龍潭寺</p><p>　　住職祖山和尚が、喜庵系図には直平子は二人であったのを、実は子供がほかにもいること</p><p>　　を教えたので、ほかの系図にはない娘を他の男子とともに加えたのです。直平娘はこのとき</p><p>　　初めて付け加えられたのです。</p><p>　　　ほぼ信頼できる資料にはすべて、築山御前は関口刑部娘で、それ以上のことは書いてあ</p><p>　　りません。</p>
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<link>https://ameblo.jp/usiroda0/entry-12158977455.html</link>
<pubDate>Tue, 10 May 2016 17:51:56 +0900</pubDate>
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<title>浜名氏</title>
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<![CDATA[ <p>①　浜名氏の直接の祖先は、伊勢神宮大宮司の子で、11世紀後半に浜名神戸司としてやってきた「大中臣佐実」。</p><p>　　　　○事実の確立80％……佐実後の系図はあやしいが、神宮側の系図と浜名神戸の系図　</p><p>　　　　　がこの部分では一致。また三河・遠江の往古神領（神戸・御厨・御薗）の給主・神戸司の</p><p>　　　　　ほとんどが大中臣氏二門のある系に辿ることができ、佐実もこの系にある。おそらく遠</p><p>　　　　　江国司の尾奈御厨の停止及びその時の神戸の田の押し刈りを契機に、国司の権力に</p><p>　　　　　対抗し得る人物を神宮が派遣したもので、佐実は一族郎党を引き連れて入部したもの</p><p>　　　　　と思われる。</p><p>　　　　　　　　以下次号</p>
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<link>https://ameblo.jp/usiroda0/entry-12158312695.html</link>
<pubDate>Sun, 08 May 2016 19:31:22 +0900</pubDate>
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