<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>古書コレクターうたびとの短冊資料館</title>
<link>https://ameblo.jp/utabito2/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/utabito2/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>自称・古書コレクターの「うたびと」が綴る趣味のブログ。歴史上の歌人情報を収集してます。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>萩原井泉水（おぎわら せいせんすい）</title>
<description>
<![CDATA[ 1884 - 1976<br>俳人。東京生。名は藤吉、別号に愛桜・随翁。<br>河東碧梧桐の新傾向俳句運動に参加し、「層雲」を創刊する。<br>作風は、季題を廃止した印象的な自由律で、門人に種田山頭火・尾崎放哉らがいる。<br>句集に『原泉』『長流』等がある。昭和51年(1976)歿、91才。 <br>&lt; 情報元：http://kotobank.jp/word/萩原井泉水 &gt;<br><br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/utabito2/entry-11532271076.html</link>
<pubDate>Sun, 19 May 2013 16:11:12 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>橋本直香（はしもと なおか）</title>
<description>
<![CDATA[ 1807－1889　幕末-明治時代の国学者,歌人。<br>文化4年9月2日生まれ。生家は代々飛脚問屋。<br>織物業をはじめるが家業不振で江戸にでる。<br>橘守部(たちばな-もりべ)に入門、のち一派をつくる。<br>「万葉集」研究につとめた。明治22年7月27日死去。83歳。<br>上野(こうずけ)(群馬県)出身。別名に靱雄。号は薫園。名は「ただか」ともよむ。<br>著作に「万葉集私抄」「上野歌解」。<br>&lt; 情報元：http://kotobank.jp/word/橋本直香 &gt;<br><br><br>　橋本直香は幕末から明治にかけて万葉集を研究した国学者で、<br>「上野歌稿」「万葉私抄」などをあらわした。 <br>境野小学校裏の境野幼稚園の門の北５０ｍ余り先に、<br>墓地の脇に「薫園橋本直香記念碑」建つ一角がある。<br> その中の木の脇に静かに置かれた歌碑。 <br>&lt; 情報元：http://www.sunfield.ne.jp/~s-hirata/bungakuhi/kiryu.html &gt;
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/utabito2/entry-11532268877.html</link>
<pubDate>Sat, 18 May 2013 16:06:45 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>俳句と川柳の違い</title>
<description>
<![CDATA[ 俳句も川柳も「五・七・五」の１７音定型で、<br>どう違うのかわからなかったので調べてみました。<br><br>・俳句には「季語」が必要だが、川柳ではとくにこだわらない。<br>・俳句には「切れ字」が必要だが、川柳ではとくにこだわらない。<br>　「...けり」が切れ字。<br>・俳句はおもに「文語」表現だが、川柳は「口語」が普通である。<br><br>私自身、「俳句」よりも「川柳」のほうが、なじみやすいですね。<br>サラリーマン川柳とか好きで、よく見ているんで。<br><br>「コトバンク」によると、<br>俳句は、江戸時代には一般化せず、「五・七・五」の組み合わせを基本にした<br>定型詩をさすようになったのは明治時代。正岡子規による俳句革新が行われた過程において。<br>それまでは発句（ほっく）という言い方が普通であったそうです。<br><br>ちなみに、第２５回サラリーマン川柳ベスト１０の第１位は、<br><br>「宝くじ　当たれば辞める」が　合言葉<br><br>です。みなさん、うまいなあ！
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/utabito2/entry-11530940696.html</link>
<pubDate>Fri, 17 May 2013 09:08:52 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>神山魚貫（かみやま なつら）</title>
<description>
<![CDATA[ 神山魚貫（かみやま なつら）は、江戸時代後期の歌人。（1788-1882）<br>埴生郡飯岡村（現在の成田市飯岡）に、農家神山三郎左衛門の長男として生まれました。<br>幼名を周助といい、魚貫・松廼舎を号としました。<br>号を魚貫としたのは、佐原の歌人、伊能魚彦を慕いその上に貫き出ようと望んで名付けたといわれています。<br><br>魚貫は14、15歳のころから生地の下総(しもうさ)埴生郡(千葉県)で農業にはげむかたわら、独学で和歌など古典を学びました。<br>百人一首が教科書で、唯一師と呼ぶ和算家、飯島武雄に文法や言葉の活用を学び、<br>その後20余年間は一人で古書を読み続け、独自の作風を築き上げていきました。<br>処女歌集『苔清水』の序に「百人一首の言葉穏やかで、<br>やわらかい調子が耳について忘れられず、和歌を詠もうと決心した」と書いています。<br><br>こうして努力を重ねた魚貫は、百人一首はもとより<br>八代集（古今和歌集など平安前期～鎌倉初期までの8つの勅撰和歌集）をすべて暗唱できるほどまでになり、<br>また歌人として名を知られるようになりました。<br><br>天保年間になると門人として入門する者が増え、「門生名簿写」によれば、<br>国学者の椿仲輔、伊能頴則（いのう ひでのり）、木村正辞(まさこと)、鈴木雅之らをはじめ、170余名にも及んでいます。<br><br>魚貫が詠んだ和歌は２万首ともいわれ、<br>主な著作には<br>『苔清水』<br>『詞の道芝』<br>『松廼舎文集』などがあります。<br>80歳を過ぎても矍鑠とし、詠歌に親しんでいました。<br>書道にも熱心でした。<br>生涯、自分の心を自然の中に映して久住に生き続けた魚貫も、<br>明治15年（1882）2月3日、95歳の長寿を全うし、生涯を閉じました。<br><br>＜情報元：<a href="http://www.city.narita.chiba.jp">成田市のホームページ</a>より＞
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/utabito2/entry-11530922736.html</link>
<pubDate>Thu, 16 May 2013 13:43:23 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>巌谷小波（いわや さざなみ）</title>
<description>
<![CDATA[ 巌谷小波（いわや さざなみ）は、明治から大正にかけての児童文学作家。<br>1870年7月4日（明治3年6月6日） - 1933年（昭和8年）9月5日<br><br>東京の出身で、父の巌谷一六は明治政府の高級官僚、のちに貴族院議員となり、書家としても有名だったという。<br>小波は、幼少時代より文学に興味を持ち、裕福な家庭に育ったようだ。<br><br>1891年（明治24年）巌谷小波は、<br>博文館の「少年文学叢書」第1編として出版した、<br>児童文学の処女作『こがね丸』が、近代日本児童文学史を開く作品となった。<br><br>彼の作品の多くは、博文館発行の雑誌「少年世界」に掲載され、<br>「日本昔噺」（1894～96年）<br>「日本お伽噺」（1896～98年）<br>「世界お伽噺」（1899～1908年）など、<br>大部のシリーズを刊行した。<br><br>また、内外の昔話や名作をお伽噺として平易に書き改める仕事のほか、<br>童話の口演や戯曲化も試み、全国を行脚してその普及に努めたそうだ。<br><br>（情報元：<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%8C%E8%B0%B7%E5%B0%8F%E6%B3%A2">ウィキペディア</a>）
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/utabito2/entry-11530916409.html</link>
<pubDate>Wed, 15 May 2013 12:58:48 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
