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<title>『うつ』　…私の中の小さな神様…</title>
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<description>私が『うつ』を通して知ることのできた、ある、とても“かけがえのないこと”。まだまだうまく言えないけれど、少しずつ、少しずつ、誰かに伝えていけたらいいな…。『うつ』に悩むすべての人への、私からのメッセージ。</description>
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<title>●絶望は、希望の始まり</title>
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<![CDATA[ <p>寂聴さんが、本気で死を考えた時、「死ぬ気なら何だって出来る」という心の声を聞きました。</p><br><p>そして、出家という道があるということを、ご自分の中に見出されました。</p><br><p>御著書の中で寂聴さん自身は、その時自分がなぜ出家という道を思い立ったのか、実はよく分からないとおっしゃっています。</p><br><p>しかも、他に出家をされた方々も皆、話を聞くと、実は自分でも理由がよく分かっていないというのです。</p><br><br><br><p>しかし、寂聴さんがそんな絶望感の中で、心の中の救いの声を聞いたこと。</p><br><p>それに私自身、このままどうにかなってしまいそうなくらいに辛い思いをしたけれど、なんとか立ち上がることができた時のこと…。</p><br><p>それもすべて、寂聴さんが書かれたこの言葉によって、私ははっと気付かされ、納得することができました。</p><br><br><br><p><font color="#00ffff">『医者に見放された患者が、信心して健康になったという例もあります。</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"> しかしそれは、信心したから霊験で救われたと短絡的に考えるのはどうでしょうか。</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"> 医者に見放された患者は絶望的です。</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"> 絶望の中で人間のはからいの外のものにすがる素直で純な心が生まれ、念が通じれば心の絶望に光がさし、生きようとする活力が生まれて、人間の中に眠っていた自然治癒力が活発になってくるのではないでしょうか。</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"> もともと人間は、命と共に自然治癒力を与えられているのに、文明が進むにつれ、その力を見失ってきているのです。』</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff" size="1">（ 講談社　瀬戸内寂聴　『寂庵説法』より ）</font></p><p><font color="#000000" size="2"><br></font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font color="#ffffff" size="2"><br></font></p><p><font size="2">そう、『自然治癒力』という素晴らしい力を、私達は本来持っているのです。</font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2">今ほどお薬などが豊富でなかった昔の時代の人々は、自分自身の力で病気を治せていたといいます。</font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2">どんどん便利なものが増え、形あるものしか信じなくなってしまった現代の私達は、そういった目には見えないものの存在に気付きにくくなっているのではないでしょうか。</font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2">絶望のどん底に堕ちて、初めてピュアな心が生まれる。</font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2">人間の手によるものではない、何か形のない、やさしい大きな力に包み込まれたいという、純な思いが生まれる。</font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2">そんな素直な気持ちこそが、何よりも自分自身を救ってくれる、ずっと探し続けていた守り神なのではないでしょうか。</font></p>
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<link>https://ameblo.jp/utsu-kami/entry-10021264081.html</link>
<pubDate>Fri, 08 Dec 2006 22:17:48 +0900</pubDate>
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<title>●『死ぬ気なら何だって出来る』</title>
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<![CDATA[ <p>最近、いじめを苦に自らの命を絶つという、青少年の悲しいニュースが続いています。</p><br><p>その苦しみや辛さは、本人にとって計り知れないものだったのだろうと思います。</p><br><p>「いじめ」という、自分一人の力ではどうすることもできない問題の末、そのような結果になってしまうことについて、今、私はここで何と言っていいか分かりません。</p><br><p>「いじめ」の苦しみと、「うつ」の苦しみは当然違います。</p><br><p>しかし、たった一つの尊い命について考える時、その苦しみには共通するものが生まれるのではないでしょうか…。</p><br><br><br><p>うつ病の方の中には、ついには死を考えてしまうほど、追い詰められてしまう人もいます。</p><br><p>私は今まで、もうこれ以上辛くなることはできないというくらい、失望のどん底に落ちて、まるで抜け殻のような状態になってしまったことが何度もありました。</p><br><p>このままどうにかなってしまっても、おかしくないと思うほどでした。</p><br><br><br><p>しかし、私は今まで一度たりとも、「死にたい」と思ったことはないのです。</p><br><p>ほんの一瞬、この世から消えてしまいたい、しばらくの間、人生をお休みしたい、などとは考えたことがありますが、「死にたい」とだけは、決して思ったことはありませんでした。</p><br><p>なぜなら、この世に生きていて何が一番怖いかと言えば、それはやっぱり「死ぬこと」だと、自分で分かっていたからです。</p><br><p>自ら死を選ぶことができるくらいなら、むしろこんなに悩んだり苦しんだりすることはないんじゃないかと思うくらいです。</p><br><br><br><p>瀬戸内寂聴さんは、51歳の時に出家して尼僧になられるまで、小説家として大活躍されていました。</p><br><p>しかしある日、そんな申し分のない生活の中で、突然「虚しさ」に襲われたのだそうです。</p><br><p>お仕事は再来年の分までびっちり予定が入っていたものの、小説家としてのご自身の限界を感じられたのか、自分がこれまでに得てきたものは、こんなものだったのかという、ご本人なりの虚しさを感じて、絶望的になってしまったのだそうです。</p><br><p>寂聴さんはその時、本気で死を考えたといいます。</p><br><p>生きる喜びや、働く喜びを失った人間は、自殺する他に道はないと思われたのだそうです。</p><br><p>しかしその後で、寂聴さんはこのようにおっしゃっています。</p><br><br><br><p><font color="#00ffff">『わたしはひそかに死の支度さえはじめました。</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"> その頃のいつだったか、私はある日突然、死ぬ気なら何だって出来るという心の底の誰かの声を聞きました。</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"> それなら他にどんな生き方が出来るだろう。</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"> 私は何日も考え迷い、また考え、しらけきった自分を虚無の淵からぬけ出そうと考え抜きました。</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"> 幾日すぎたでしょうか、ある日、ふいに天の声のように、私の中で出家という道があると何かが囁きました。』</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff" size="1">（ 講談社　瀬戸内寂聴　『寂庵説法』 より ）</font></p><p><font color="#000000" size="2"><br></font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font color="#ffffff" size="2"><br></font></p><p><font size="2">その、心の声というのが、うつに悩む私達にとって、とても重要なキーワードになってくるのです。</font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2">絶望の淵に陥ったはずの時、なぜ、反対に生きる気力が湧いてきたのでしょうか。</font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2">次は、それについてお話ししていきたいと思います。</font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2">それは私にとっても大好きな、かけがえのない大きな発見でした。</font></p>
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<link>https://ameblo.jp/utsu-kami/entry-10020982210.html</link>
<pubDate>Sun, 03 Dec 2006 21:44:46 +0900</pubDate>
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<title>●『うつ』は友達 ～自分自身と語り合う日々～</title>
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<![CDATA[ <p>私の言いたいことは、このブログの今の時点では、まだまだ追いつきません。</p><br><p>気持ちばかりが先走ってしまいます（笑）。</p><br><p>でも、少しずつ、少しずつ、何の抵抗もなく人の心に馴染んでいけるように、これからも慎重にゆっくりと、私なりの発見を綴っていきたいと思います。</p><br><br><br><p>最近、私の心が安定しているのは、まずは第一にお薬の働きがあるからだと思います。</p><br><p>そして次のステップとしてやっと、日常生活を楽しむ心のゆとりが生まれています。</p><br><br><br><p>先日の記事で、「人は毎日生まれ変わる」と書きました。</p><br><p>それは、その日一日の自分に限り、思う存分いたわってあげようという、私なりの発想です。</p><br><p>それを、毎日生まれ変わる自分が、毎日自分に対してしてあげるのです。</p><br><p>いわばそれは、自分自身と真剣に向き合い、語り合う日々のことなのです。</p><p><br><br><br>以前、私にとって「うつ」とは、一生付き合っていくものだということを書きました。</p><br><p>治る、治らないの問題ではなく、今でも私は毎日、心の中に「うつの種」の存在を感じています。</p><br><p>ちょっとでも、うつっぽい症状が目を覚ますと、私はそのサインを寛大に受け止め（笑）、認めるようにしています。</p><br><p>今はきっと休みたいのだ、あまり頑張るべきではないのだ、という心の声を、素直に聞き入れるようになりました。</p><br><br><br><p>…それを私は、「私の中の神様」の指示だと考えるようになったのです。</p><br><p>つまり、「うつ」の正体は、本当は神様なんじゃないか、って。</p><br><p>「うつ」は悪い奴なんかじゃない。</p><br><p>「うつ」は友達。</p><br><p>もしかすると、『鬱ノ神』なんて名前があるのかもしれない（笑）。</p><br><p>なんだか貧乏神の仲間みたいでイヤだけど（笑）、そうじゃない。</p><br><p>やっぱり、「うつ」は神様からの贈り物なんじゃないかって、私は考えるようになりました。</p><br><p>そして、そう思えるようになったきっかけも、私にはやはり、仏教との出会いが大きかったのだと思います。</p><br><br><br><p>…ここから少しずつ、やはり瀬戸内寂聴さんのご著書を参考にしつつ（笑）、神様や仏様に関するお話もしていきたいと思います。</p><br><p>寂聴さんのご本をちょこっと読んだだけの、仏教の基本の「き」すらも分かっていない私ですが（笑）、あまり『仏教』とかしこまって考える必要はないように思います。</p><br><p>私達日本人にはきっと一番馴染みやすい、決して間違ってはいない当然の教えしか、仏教では説いていないのです。</p><br><p>私達は知らず知らずのうちに、毎日の中で、何らかの形で、仏教と触れ合いながら生きているはずです。</p><br><p>信じる、信じないは人それぞれの自由ですので、あくまでも情報の一つとして、役に立つと思えることだけを心にしまって頂ければと思います。</p>
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<link>https://ameblo.jp/utsu-kami/entry-10020976046.html</link>
<pubDate>Sun, 03 Dec 2006 20:14:43 +0900</pubDate>
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<title>●心の日なたぼっこ</title>
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<![CDATA[ <p>うつ神ブログ、ちょっと休憩して、トラックバックキャンペーンに参加しちゃいます（笑）。</p><br><br><br><p>テーマは、『日なたぼっこ』。</p><br><p>その言葉を聞くだけで、なんだかほんわかした気持ちになりますね(#^.^#)</p><br><br><br><p>でも実は、こんな日なたぼっこでさえも、心から安らぎを得られない人達がいっぱいいます。</p><br><p>日なたぼっこしている時、爽やかな風が吹いた時、緑の中を散歩している時、青い空を見上げた時…。</p><br><p>そんな、「幸せって、きっとこんな気持ちのことだろうな」って思える、本来の純な心を取り戻してほしい。</p><br><p>今現在、うつの症状で悩んでいる方が、一人でも多く、自分なりの突破口を見出してくれればいいなと願っています。</p><br><p>そのためにも、この『うつ神ブログ』が誰かのお役に立てることを祈って、これからも積極的に思いを綴っていきたいと思います。</p><br><br><br><p>そして、心からの日なたぼっこを、みんなで一緒に味わえますように…☆</p><br><br><br><p style="PADDING-RIGHT: 5px; PADDING-LEFT: 5px; PADDING-BOTTOM: 5px; PADDING-TOP: 5px"><a href="http://vcount.ameba.jp/click/click.cgi?id=6013" target="_blank"><img height="61" alt="あきらめないBLOG～へーベルハウスの日照・通風の家ブログ～ 詳しくはこちら" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fp_skin%2Fhebel%2Fimg%2Fbanner.jpg" width="231" border="0"></a> </p>
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<link>https://ameblo.jp/utsu-kami/entry-10020817404.html</link>
<pubDate>Thu, 30 Nov 2006 22:31:05 +0900</pubDate>
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<title>●『今日一日』という、短い人生を</title>
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<![CDATA[ <p>「心を清らかにする」ということは、「心にわだかまりを持たない」ことであるとお話ししました。</p><br><br><br><p>『明日のことは思い煩うな』とは、かの有名な聖書にも書かれている言葉です。</p><br><p>お釈迦様も、同じことを言われていますが、同時に『過去のことをくよくよするな』ともおっしゃっています。</p><br><p>過ぎたことをくよくよせず、先のことを思い煩わず、今、この瞬間だけを切に生きること。</p><br><p>これは仏教の極意でもありますが、それ以前に、私達にとってとても大切なことではないかと思います。</p><br><br><br><p>…とは言いましても、私達はどうしてもそう簡単には割り切れない、複雑な日々の中を生きています。</p><br><p>過ぎた過去などもうどこにも存在しないのに、心の中ではいつまでも引きずってしまう自分がいます。</p><br><p>今日やり残した仕事が、明日待ち受けているという事実への心配もせずにはいられません。</p><br><br><br><p>けれども、今日という一日を、自分の短い「一生」だと考えてみたらどうでしょうか？</p><br><p>もちろん、そう簡単に考えられるはずがありません（笑）。</p><br><p>ご飯を食べて、テレビを見て、一日中ゴロゴロして、お風呂に入って寝る…。</p><br><p>そんな一日はあっても、そんな一生は、絶対にあるはずありませんからね（笑）。</p><br><br><br><p>私が言いたいのは、「人は毎日生まれ変わる」ということです。</p><br><p>これは私が勝手に思い始めたことなのですが、人生とは、当然ながらそんな一日一日の繰り返しだと思うのです。</p><br><p>心の中には、消せない傷があったり、未来への不安もあります。</p><br><p>しかし、心の傷は、時間が癒してくれるものです。</p><br><p>未来のことも、その時になってみないと分からないし、今はどうすることもできません。</p><br><p>だから、せめて今日一日は、今日一日分の思いだけをめぐらして、今日一日分の心と身体だけをいたわってあげるべきではないでしょうか。</p><br><br><br><p>どんなにいやなことがあったとしても、それは今日限りの煩い事です。</p><br><p>明日に影響を及ぼすことが分かっていても、それは明日の自分が頑張ることです。</p><br><p>そして、明日は明日という一日を精一杯に生きて、明日の自分がそれを癒してあげましょう。</p><br><br><br><p>私にも、そんなことはしょっちゅうです（笑）。</p><br><p>けれども最近は、家に帰ると、自然と心が落ち着いている自分がいることに気付き始めました。</p><br><p>決して常に片付いている、きれいなお部屋というわけではありませんが（笑）、ここへ帰って来さえすれば、私は今日一日を終えることができる、と思えるのです。</p><br><p>一人暮らしですが、お料理は苦手なのでいつもレンジで２分のパックご飯とインスタント味噌汁です（笑）。</p><br><p>そんな質素な食卓でも、温かいご飯とお味噌汁を頂いて、好きな音楽を聴きながら、本や雑誌をパラパラめくり、シャワーを浴びて眠りに就く。</p><br><p>もちろんこれは、毎日のお薬のおかげで、今のうつ状態が安定しているからこそできることではあると思います。</p><br><br><br><p>…でもそうやって、その日の自分をリセットしてあげること、心のわだかまりを常にほぐしてあげることが、毎日を切に生きるための秘訣とも言えるのではないでしょうか。</p><br><p>人は、毎日生まれ変わる。</p><br><p>だから、『今日一日』という短い人生を頑張ろう。</p>
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<link>https://ameblo.jp/utsu-kami/entry-10020590152.html</link>
<pubDate>Sun, 26 Nov 2006 21:08:51 +0900</pubDate>
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<title>●「清らかな心」への道</title>
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<![CDATA[ <p>瀬戸内寂聴さんのご本によりますと、お釈迦様は、このように悟られたのではないかということです。</p><br><p>心を清らかにすることによって、煩悩がなくなる。</p><br><p>人を憎まなくなり、人を愛することしかできなくなる。</p><br><p>人に施し（ほどこし）を与えたくなる。</p><br><p>その気持ちだけを育てていけば、人は苦しまない…と。</p><br><br><br><p>そして、中でも人を憎むことは、一番苦しいことだと言います。</p><br><p>単純な考え方ではありますが、人を憎まないためには、やはりその人の良いところだけを見るより他ないのだと思います。</p><br><p>しかし、そんなに単純に割り切ることができないのが、私達人間です。</p><br><p>そんな憎い相手のために、どうして私が辛抱して仏様のような心で受け入れてやらなきゃいけないの！？って思ってしまいます（笑）。</p><p><br></p><p>しかし、寂聴さんのご本に、こんな言葉があります。</p><br><br><br><font color="#00ffff"><p>『人に対して怒りがわきおこるのは、自分なら決してそうはしないという気持ちがあるのです。</p><p> <br> そのためその瞬間、相手を見下す気があるし、その無知や破廉恥（はれんち）に対してがまんがならないという気があるのです。</p><p> <br> この気持ちの中には思い上がりがあると思います。</p><p> <br> 自分の中にだって、汚い心や、悪い料見は全くないかといえばじくじたるものがあるわけです。』</p></font><br><br><p><br>…そして、同じ「怒り」や「憎しみ」の中には、恋愛にまつわるものも多くあります。</p><br><p>恋愛のことを、仏教では『渇愛』（かつあい）と呼ぶそうです。</p><br><p>喉が渇いた人が水を欲しがるように、限りなく相手に愛を求めるからです。</p><br><p>愛にはいろいろな形があり、神様の愛や家族の愛などは、『慈悲』の心と言えるでしょう。</p><br><br><br><p>恋愛も、形の上では「愛」です。</p><p><br>しかし、この恋愛…イコール渇愛とは、愛した瞬間から苦しくなります。</p><br><p>それは結局、他の人を愛しているのではなくて、自己愛だからなのだそうです。</p><br><p>自己愛とは、相手に報酬を期待し、見返りを求めます。</p><br><p>渇愛とは、相手を自分のものにしようとする独占欲であり、嫉妬が伴います。</p><br><br><br><p>寂聴さんは、愛とは相手の欲することを与え、相手の欲しないことを与えないことだとおっしゃっています。</p><br><p>そして、自分が好きだから、そうすることが嬉しいから、ただその人を愛し、その人のために尽くす。</p><br><p>でも、その心の底に報われたいという気持ちがある以上、それは純粋とは言えないのです。</p><p><br></p><br><br><p>けれども私達人間には、そのような“無償の愛”など、とうてい持つことはできません。</p><br><p>しかし寂聴さんは、このようにも言われています。</p><br><br><br><font color="#00ffff"><p>『とても、生きているうちに悟りなど得られないと思っても、あきらめず、自分の苦しさの根は渇愛より生じているのだという反省が出来るなら、もうすでに私たちは目に見えないみ仏の掌（うてな）の上にすくいあげられているのではないでしょうか。』</p><p> </p><p> </p><p> <br><font size="1">( 講談社　瀬戸内寂聴　『寂庵説法』より ）</font></p></font><br><br><br><p>…最後の「み仏」の部分に関しては、信じる・信じないがあるにしても、この言葉の意味は、きっと皆さん分かって頂けると思います。</p><p><br>人を愛することは、苦しい。</p><p><br>でも、そのどうしようもない苦しさをくぐり抜いて、渇愛を脱することができた時、人は初めて本当の愛を授かることができるのではないでしょうか。</p><p><br>なぜなら、その人にはその愛を受け入れるだけの大きな器が備わったのだと思うからです。</p>
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<link>https://ameblo.jp/utsu-kami/entry-10020536367.html</link>
<pubDate>Sat, 25 Nov 2006 22:55:52 +0900</pubDate>
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<title>●清らかな心</title>
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<![CDATA[ <p>…って、それほど難しいことはない！！って思いますよね（笑）。</p><br><p>それができたら、人間何の苦労もしません。</p><br><p>だから、これから心の中を少しずつお掃除していきましょう。</p><br><p>お掃除すれば、お部屋だってきれいになります。</p><br><p>心だって、きっと清らかになっていけるはずです。<br><br><br><br>しばらくは、瀬戸内寂聴さんのご著書をヒントに書かせて頂きます。</p><br><p>単刀直入に申しますと、お釈迦様は、「心を清らかにすれば煩悩をたち切れる」と悟られたそうです。</p><br><p>そして心を清らかにするというのは、何事にしても、心にわだかまりを持たないということなのだそうです。</p><br><br><br><p>…前回の記事の初めに触れた、「人はなぜ生きているのか」という問題についてですが、まずはそこから考え改める必要があると思います。</p><br><p>寂聴さんのお言葉を引用させて頂きますと…。</p><br><br><br><p><font color="#00ffff">『何のために、この世に生まれたか。</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"> それは、親が産んでくれたということです。</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"> 何か知らない宇宙の大きな生命が、あなたが世の中の役に立つと思って生んでくれているんですよ。</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"> だから、自分はどんなに小さなことでもいい。</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"> 人の役に立つ人間にならなければいけないんですね。』</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff">『あなたがいるために、周りのだれかが幸せになる。</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"> あなたはそのために生きているのよ』</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff">『私たちはみんな何かのおかげでもって、今幸せに生きていることに気付くでしょう。</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"> 感謝すれば、自分も何か人の役に立ちたいと思うでしょう。</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"> そう思ったら、それが生き甲斐なんです。』</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff" size="1">（ 光文社　瀬戸内寂聴　『寂聴　あおぞら説法Ⅰ』 より ）</font></p><p><font color="#00ffff" size="1"><br></font><br></p><br><p>これらのお言葉からもきっと分かって頂けるように、私達は、あまりにも自分自身に対して一途になりすぎているのではないでしょうか？</p><br><p>もちろん、自分を犠牲にしてでも人のために尽くすべきというのではありません。</p><br><p>仏教ではもちろん、寂聴さんも、まずは自分自身が幸せにならなければ、人を幸せにすることはできないとさえおっしゃっています。</p><br><p>そして、その自分自身の幸せとはいったい何であるかを、私達はもう一度考え改める必要があるのではないでしょうか。</p><p><br>誰かを幸せにすることが、自分の心からの幸せだと思えるように…。</p><br><p>次の記事からは、そんな「清らかな心」への階段を、少しずつでも上がっていきたいと思います。</p>
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<link>https://ameblo.jp/utsu-kami/entry-10020526039.html</link>
<pubDate>Sat, 25 Nov 2006 20:20:38 +0900</pubDate>
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<title>●「煩悩をたち切る」ということ</title>
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<![CDATA[ <p>私達を苦しめている「煩悩」を断ち切ることは、私達が人間である以上、無理なことかもしれません。</p><br><p>なぜなら、煩悩があるからこそ、私達は完璧ではない、不出来な生き物だと言えるからです。</p><br><p>煩悩を完全に断ち切ることができるなら、それはもう仏様の領域なのです。</p><br><br><br><p>しかし、そんな私達でも、少しでも仏様のような人に近づこうと努力することはできるのではないでしょうか？</p><p><br>煩悩を無くすということは、「うつ」に直接働きかける効果もきっとあると、私は信じています。</p><br><p>「煩悩」という言葉に触れた以上、今の私にとって、教科書のような存在である瀬戸内寂聴さんの本のお言葉を、またいくつか引用させて頂きたいと思います。</p><br><br><br><p>…まずは、煩悩の原因となる、人間の欲についてです。</p><br><br><br><font color="#00ffff"><p>『みんな、自分の持っていないものに憧れ、それを手に入れられない苦しみで不幸だと思いこんでいるのです。』</p><br><p><br></p><p>『人間の欲望というものは、一つの段階に達すると、次の段階のものを望みます。どこまでいっても、もうこれでいいということはありません。』</p><p> </p><br><br><p>『（この世のものに対する）人間の欲望とは何と虚しいものか…どんな権力を以ってしても、どれほど無尽蔵のお金を積んでも、止めておくことの出来ない人の命について考える時、与えられ、今、生きているこの一瞬一瞬が、何と惜しいものかと思われます。』</p></font><br><br><br><p>…そして、そのことについて、このように言われています。</p><br><br><br><p><font color="#00ffff">『こういう状態を仏教では餓鬼（がき）ということばであらわしています。</font></p><p><font color="#00ffff"> </font></p><p><font color="#00ffff"> …どうしたら餓鬼にならないですむでしょうか。</font></p><p><font color="#00ffff"> </font></p><p><font color="#00ffff"> それは自分の心に歯どめをかけることを覚えるべきだと私は思います。』</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff" size="1">（ 講談社　瀬戸内寂聴　『寂庵説法』より )</font></p><br><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p>では、その「心に歯どめをかける」ためには、いったい何から始めればいいのでしょうか。</p><br><p>次はそれについて考えていきたいと思います。</p><br>
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<pubDate>Wed, 22 Nov 2006 21:48:11 +0900</pubDate>
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<title>●『うつ』は人間の証</title>
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<![CDATA[ <p>人はなぜ「うつ」になるのか。</p><br><p>それは、人はなぜ生きているのか、という疑問につながるのではないかと私は思います。</p><br><br><p><br>人間がなぜこの世に生まれてくるのか、それは誰にも分かりません。</p><br><p>どんなに科学が進んでも、それを説明することはできないでしょう。</p><br><p>つまり、私達には想像もつかないような、何か巨大な力によって、人は生かされているのだと思います。</p><br><p>それを、どう受け止めるか。</p><br><p>それは、人それぞれの自由です。</p><br><p>自分が一番納得できる答えを見つけ出せれば、それが一番いいと思います。</p><br><p>この問題については、また追々話していくことにしましょう（笑）。</p><br><br><br><p>…ここに、私が読んだ瀬戸内寂聴さんの本の中の一文を書かせて頂きます。</p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff">『私たちの欲望のすべては、自我から生まれるのです。</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"> 自分が愛されないと人は苦しむ。</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"> 自分が認められないと人は口惜しがる。</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"> 自分が裏切られると人は怨む。</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"> 自分よりすぐれている者を人は妬む。</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"> どれも自分という我に固執することからおこる苦しみです。』</font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff"><br></font></p><p><font color="#00ffff" size="1"> （ 光文社　瀬戸内寂聴　『寂聴　あおぞら説法Ⅰ』より ）</font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2">うつ病の人は誰も、好きでそんな病気にかかったわけではありません。</font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2">しかし、何もかもすべてのことが自分に向いてしまうことから起きる状態であるとは思いませんか？</font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2">もちろん、そんなことは分かっているけど、自分でもどうにもできないから苦しいんですよね。</font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2">仏教では、人の心に起こる様々な欲望のことを『煩悩』（ぼんのう）と呼ぶそうです。</font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2">そしてこの煩悩は、人の心に無限にあると言われています。</font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2">そんな欲望が常にあるから、人は自分が幸せになりたいと願い、苦しむのです。</font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2">私達が日々の生活の中でうつ状態に陥ってしまうのも、人間として当然のことかもしれません。</font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2"><br></font></p><p>「うつ」とは結局、私達自身の心が作り出してしまうものなのではないでしょうか。</p><br><p>この世には、『感情』なんて存在しません。</p><br><p>喜びも、悲しみも、すべて私達人間の心が勝手に決めているものです。</p><br><p>良いことがあれば、人は嬉しい。</p><br><p>悪いことがあれば、人は悲しい。</p><br><p>良いことも、悪いことも、すべては人の心次第で、喜びにも悲しみにもなるのだと思います。</p><br><br><br><p>では、どうすればこんな苦しみとさよならすることができるのでしょうか？</p><br><p>それには、「煩悩を断ち切る力」が必要になってくると思うのです。</p><br><p>「うつ」とは、そんな力を養うためにも与えられた、“神様からのプレゼント”とも言えるかもしれません。</p><br><p>そんなふうにでも考えたら、ちょっとラッキーなことだとは思えてきませんか…？</p>
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<link>https://ameblo.jp/utsu-kami/entry-10020195381.html</link>
<pubDate>Sun, 19 Nov 2006 19:57:37 +0900</pubDate>
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<title>●瀬戸内寂聴さん</title>
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<![CDATA[ <p>以前、『青空の会』（仮名）に参加してみて、私は何か「仏教」にカギがあるのではないかと思いました。</p><br><p>そして真っ先に思い浮かんだのが、小説家であり尼僧でいらっしゃる、瀬戸内寂聴さんです。</p><br><br><br><p>私は今まで、寂聴さんの法話でさえも、ほんの気休めにしかならないだろうと思っていました。</p><br><p>良いお話を聴いて、気持ち良く元気になれるというのは、やはり、うつを乗り越えた後でないとできないことだと思うからです。</p><br><p>何かで心が癒されるうちは、きっと健康な証拠ではないかと思います。</p><p><br><br><br>その『青空の会』（仮名）では、顧問を務めるA氏を「教祖」のように捉え、どこか崇拝しているような感じのあるところがとても気になりました。</p><br><p>しかし仏教では、崇拝すべき存在は、あくまでも「仏様」です。</p><br><p>寂聴さんは私にとって、その仏教や仏様についてのお話を分かりやすく教えて下さる、ヒントのような存在です。</p><p><br>でも、私が買った寂聴さんの本には、寂聴さんの個人的な考え方ももちろん含まれています。</p><br><p>しかしそれも含めてとてもためになることが多く、今では私もすっかり寂聴さんのファンの一人です。</p><br><br><br><p>今現在、私のうつ状態は、毎日のお薬のおかげか、ある程度安定しています。</p><br><p>だからこそ、先に書いたような「元気になれる」力も、少しずつ戻ってきているのかもしれません。</p><br><p>しかし、私が寂聴さんを通して垣間見た仏教の世界は、単なる「癒し」や「気休め」などではないんじゃないかと、私は感じました。</p><br><p>それはなぜだと思いますか？</p><br><p>「うつ」とは、この世に存在するもの…薬や、愛や、お金や、あらゆる娯楽などだけでは、完全に治ることはないかもしれないからです。</p><br><br><br><p>「うつ」と、「神様」、「仏様」…。</p><br><p>今までなんの関係性も感じたことのなかった二つのものが、私の中で、一本の糸でつながったような気がしました。</p><br><p>それは、宗教を信じるべきとか、何かを信仰するべきだという意味ではありません。</p><p><br>私はあくまでも、仏教から何か得るものがあるかもしれないと思い、寂聴さんの本を手に取りました。</p><br><p>そして、私なりに解釈した「仏様」の存在が、きっと自分を救ってくれるような気がしているのです。</p><br><p>それがどういうことなのか、これからゆっくり語っていきたいと思います。</p>
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<link>https://ameblo.jp/utsu-kami/entry-10020145102.html</link>
<pubDate>Sat, 18 Nov 2006 20:46:10 +0900</pubDate>
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