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<title>しづのをだまき</title>
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<description>映画の感想など・・・基本的にネタばれです。</description>
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<title>”ブログを引越しました”</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p><iframe class="reblogCard" data-ameba-id="utukusiiaki" data-entry-id="12951611269" frameborder="0" height="234px" sandbox="allow-same-origin allow-scripts allow-top-navigation" scrolling="no" src="https://ameblo.jp/s/embed/reblog-card/utukusiiaki/entry-12951611269.html?reblogAmebaId=utukusiiaki" width="100%"></iframe></p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Wed, 31 Dec 2025 04:25:21 +0900</pubDate>
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<title>2025年を振り返る</title>
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<![CDATA[ <p>ご無沙汰しています。</p><p>今年の大事件はブログの引越し。5月ごろ、gooログから「10月いっぱいでサービス停止」と言われて、不安な心細い気分のまま、記事も書かず、何もせず、放置していました。同居人の手を借りてようやくAmebaへ越したのが、10月なかば。よく人が言う、夏休みの宿題を、最後の数日で片付けるなんてこととは無縁だった私なのに、この体たらくです。</p><p>引越しにあたり過去のコメントが消えたので、懐かしい声は私の記憶の中にとどまるのみということになりました。僅かながら生じたコメント上でのトラブルが消えたのは思わぬ儲けものでした。ともあれ、2006年10月から約19年の、1500余の投稿が、自分の無為無策によって永遠に消えてしまわなかったことはホッとすることです。</p><p>律儀な同居人からは、引越しのあいさつもgooとAmebaの両方にしなさいと言われていましたが、これまた略していました。</p><p>第一、ログインしようにも失敗するのですからね。ゆうべはだめで、今朝はたまたまうまくいきましたが、ひょっとしたらこの先死ぬまで「読むだけ」の存在になるかもなあと覚悟するところでした。</p><p>数年前から年賀状を廃止したので、何かずるけているような気分の歳末、空の青が異様に澄んで見えたのは、世の中が正月休みになっているからでしょうか？</p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Mon, 29 Dec 2025 09:55:32 +0900</pubDate>
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<title>母の日に思う</title>
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<![CDATA[ <p>72年前の昭和28(1953)年に壷井栄がこう書いている。</p><p>～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～</p><p>母の日の行事の一つとしてある製菓会社が毎年募集している綴り方「私のおかあさん」を今年もまた読む機会にめぐりあった。全国の児童が応募しているので、幼稚園から小学六年生までのたくさんの子供たちが、めいめい母の姿を、それぞれの思いをこめて綴っているのだが、そこに語られている日本の母たちのけなげさとでもいうべきあわれな姿に、私は今年もまた、去年と同じ思いをさせられている。家のため、子のためになりふりかまわず働いている日本の母たちの姿は、女でありながらほとんどが雄々しいとでもいいたい姿で子供たちに気の毒がられ、それゆえに感謝され、ほめたたえられているようにさえ思える。（中略）日本の母の姿の哀れさの背後には、常に戦争があったといえる。（中略）赤い花束ぐらいではどうにもならぬ日本の母の苦労のもとを十分知った上でこそ、母の日の母への思いをこめた一輪の花も胸にかがやくというものではあるまいか。</p><p>　文泉堂出版(1998)「壷井栄全集」第11巻「母の日に思う」</p><p>～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～</p><p>壷井栄は「けなげさとでもいうべきあわれな姿」とか「ほとんど雄々しいとでもいいたい」と表現し、「その背後には常に戦争があった」という。日本の母の苦労のもとは、戦争だけではなく、ほかの要素があることを今ではみなが知っている。この年小学3年生だった私も作文を書いて、コンクールに応募して佳作を取った。私も「父が新聞を読んでいるとき、母は台所で食事の支度をしている」という筆致で描いたのを覚えている。しかしそれは本当にそう感じたからというより、みんながそんな感じで書いているからそう書かねばと思ったのである。私は常に読んだものをもとにして書く習慣だった。選者の中に壷井栄がいたらしいが、私の手元にある「わたしのおかあさん」は、表紙がちぎれており、選者評の部分がない。この度、検索し全集にあることを知って、図書館から借りて読んでみた。彼女の、福々しいいかにも母性的な体形や顔つきから予想するような穏やかなものでない、この辛口のコメントには不意を突かれ、うれしかった。</p>
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<link>https://ameblo.jp/utukusiiaki/entry-12931330990.html</link>
<pubDate>Sun, 11 May 2025 00:02:10 +0900</pubDate>
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<title>映画「ゼロ地帯」　そのタイトルについて</title>
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<![CDATA[ <p>1960&nbsp; 伊仏　原題　Kapo　監督　ジロ・ポンテコルヴォ　出演　スーザン・ストラスバーグ　エマニュエル・リヴァ</p><p>この映画の名を初めて知ったのは、私が15～16歳のころ、ふと目にした雑誌の記事でだが、その時の強烈な印象、底しれぬ闇に引き込まれそうな恐さは今も思い出せる。60年以上たって先年ようやく見ることが出来た。まだ記事はアップできない。ネット上で、タイトルについて言及している人が目に止まった。</p><p>こんにちのように比較的簡単に古今東西の映画を見られると、人はどんな作品だろうと平静にクールに批評し、例えば「このタイトルは良くない、『カポ』の方がよい」とか言う。原題を翻訳せずそのままカタカナで表記する今の時代とちがい、頭をひねって邦題をつけていた当時だ。松本清張の「ゼロの焦点」が出版されたのは1959年。「ゼロ」はまだ新鮮だった。「ゼロ地帯」以外のタイトルがあるとは思わないで来た。が、今なら、もしこの時代に生きて来たとしたら「カポ」もありだと思える。当時より強制収容所に関する知識が広まってきているからだ。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Tue, 04 Mar 2025 16:18:59 +0900</pubDate>
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<title>あるスウェーデン人夫妻の休暇</title>
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<![CDATA[ <p>もうすぐ2025年大阪万博が始まるいま、ふとこの作文を思い出した。</p><p>　　文章教室　課題「休暇」「あるスウェーデン人夫妻の休暇」　　　　　　　</p><p>1970年、大阪万博の年の５月、伯父の紹介で鹿児島にやって来た新婚旅行中のスウェーデン人夫妻を、当時暇で、英語も少し話せるということで私が世話することになった。</p><p>西駅に降りたったのは金髪で背が高くあごひげのある夫と、対照的に小柄でふっくらした妻、二人は、日本を皮切りに南回りで地球を半周するのだという。まだ外国に行ったことのない私には彼らの存在、することなすことが珍しく、新鮮に思えた。</p><p>二人は教師だといっていた。半年もの休みに感心すると、外国を旅して回り見聞を広めることは、教師として役に立つ経験なのだからとのことだ。</p><p>彼らは質素な旅人で、ある日、レストランで昼食を私がおごったら、「ご馳走を食べたから、今夜は抜きにしよう。」とニコニコしながら、言うこともあった。また桜島へのフェリーの切符をまとめて買ったら「僕たちの分までなぜあなたが払うのか」と不思議そうに聞かれたこともある。季節はずれの磯の海水浴場で妻の方が泳ぎたいと言い出し、人が来ないように脱衣場の入口で見張っている私に「見ても構わないわよ」と言って、さっさと水着に着替えていたのも忘れられない。</p><p>この時から35年、日本もずいぶん変わったけれど休暇という点については、先進国なみになる日ははたしていつかくるのか、疑わしく思う。</p><p>2005年5月17日作成</p><p>【八木先生評】こういう国の人と比べると、日本人はどうも遊び下手ですね。でもしだいに変わってきてはいるようです。</p><p>考えてみると、この万博の真最中に来日したかれらは万博を見ていないし、見る気もないのだった。あの時日本人が万博に熱狂したのは、まだ自由に海外旅行が出来なかったから、というのがあるのかも。実際に半年もの休暇をとれて、それを世界旅行に使える、かれらスウェーデン人から見ると、わざわざ旅先の日本で博覧会を見る必然性がないということかもと、今になって思う。</p><p>少しお酒が入った若い夫が遥か彼方を見るような目をして、「想像してごらんなさい。僕らは明日からタイ・ビルマ・インドと旅していくのですよ」と語ったのを思い出す。しかし当時のわたしは外語大を出たものの、九州の田舎の親の家に逼塞していたので、彼のそのことばはあまりにも縁遠いものだった。また、7年後にシリアに行くとは思わなかった。</p>
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<link>https://ameblo.jp/utukusiiaki/entry-12931330978.html</link>
<pubDate>Sun, 02 Mar 2025 10:16:45 +0900</pubDate>
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<title>鹿児島駅と西駅</title>
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<![CDATA[ <p>YouTubeでは「鹿児島駅」の駅舎が小さくてびっくりしたとか、鹿児島中央駅と似た名前で紛らわしいとか言われる。この際、2004年の九州新幹線開通時に書いた文章を披露しよう。が、その前に1950年代の駅界隈の思い出を語らせてほしい。</p><p>小学校時代、東京や大阪から親戚・知人がくると、弟や姉、母とともに鹿児島駅に迎えに行った。近くなので散歩気分で、待ってる間に改札の手すりを鉄棒に見立てて遊んだ記憶がある（はた迷惑な話だ）が、のんびりした時代だったのだろう。そして、来客の荷物を代わりばんこに持ち、談笑しながら家への坂道を上った。</p><p>駅前の空地に小さい売店があり、雑誌などが市内で一番早く届く(はずだ)と、愛読する「幼年ブック」等の発売日が近づくと「もう来たか、まだか」とせっせと日参した。駅近くに肉店があったが、竹皮の包みと買物かごの時代「ハム何枚・ソーセージ何枚」とか「肉50匁」などというメモを手にお使いに行った。やがて我家に電話がついてからは配達してもらったりもした。その店がいまだに健在で店構えも立派になっているのに感動した。電話番号は4ケタで2088番。≪OOOの肉はニレパッパ≫と言っていた。下４桁は当然ながらいまも同じ2088番だ。</p><p>ところでYouTube「もー観光交通」によるとによると、2022年の鹿児島中央駅は、1日の乗客数が博多、小倉につぎ九州で3番目なのに、鹿児島駅は113番目とか。あまりにも発展したかつての「西鹿児島駅」にくらべ時代の波に取り残された感の鹿児島駅だが、江戸から戦前にかけての中心地だった「上町(かんまち)」にふさわしい、古風かつ清楚なファサードに改装されている。ここをターミナルとする市電のラッシュ時の賑わいを見る限り、まだまだ鹿児島駅は廃れないし存在感は消えないだろう。</p><p>～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～</p><p>文章教室　課題「駅」「鹿児島駅と西駅」2004年11月7日</p><p>私の学生時代には、大阪―鹿児島間を急行で20時間もかけて帰ったものだ。今は、新幹線を使うと、５時間で行ける。それよりも、飛行機を利用することの方が断然多い。<br>　明治41年に書かれた「三四郎」によると、汽車で京都から東京に行くのに名古屋で一泊するといった悠長な旅だったらしい。しかし徒歩で数十日もかかった行程が一泊二日になったのだから、当時の人々から見たら素晴らしい速さだったかも知れない。<br>　祖父が東京での勉学を終えて鹿児島に赴任したのは明治36年だから、さらに以前のことで、果たして鹿児島まで鉄道が来ていたかどうかも定かでない。※が、彼が家を探すとき、第一に、駅に近い所をと言って、今の住所に落着いたという。鹿児島駅から北へ徒歩５,6分の所だ。日豊線と鹿児島本線の始発駅であり、港・史跡城山・役所・百貨店・七高・図書館その他が、１キロ以内に集まっている鹿児島駅は、当時は誰が見ても市の中心の駅だった。<br>　が、戦後、街が西南方向に発展して行き、商店街の運動もあって、首位を西鹿児島駅（通称西駅）に明けわたした。祖父も相前後して引退した。<br>　鹿児島では、高校を出ると、多くの生徒が進学・就職のため県外に出る。私たち五人兄妹も、順々に西駅から旅立ち、休みのたびに、またここへ帰って来た。<br>　指定券を買うのに何時間も行列をした西駅構内は、殺風景だったが、今度”鹿児島中央駅”と名前を変え、すっかり様変わりしたという。次の帰省には、久しぶりに、鉄道を使ってみようと、今から楽しみにしている。</p><p>※「もー観光交通」によれば、鹿児島駅の開業は1901年（明治33年）なので、祖父が来鹿した時は既に開通していたようだ。<br>　　　　　　　　　　　<br>八木先生評<br>「ふるさとも時代とともに姿を変えます。それを見て生きるのも、楽しみの一つになりますね。「今は昔」ということがどんどん多くなります。</p>
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<link>https://ameblo.jp/utukusiiaki/entry-12931330976.html</link>
<pubDate>Thu, 27 Feb 2025 23:18:56 +0900</pubDate>
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<title>平和共存あるのみ</title>
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<![CDATA[ <p>これは20年前、60歳のころ文章教室で書いた文である。</p><p>2012年に地球が壊滅するとの当たらなかった予想や、相変わらずの日本人の未来への不安。八木先生の石坂洋次郎、太宰治への反応も面白い。</p><p>　～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～</p><p>　　　　　　　　　　　　課題「若者」　</p><p>　　　≪平和共存あるのみ≫</p><p>「近ごろの若いものは」とは、古今東西を通じて、人類の口癖であるらしい。</p><p>そのわけは、たぶん、自分の若いころには許されなかった、ゆとりのある暮らしができていることへのやっかみと、過去の苦労を顧みてのくやしさ、それに、自分の前途にはただ灰色の未来しか想像できないのに、彼らには希望に満ちた将来が約束されているかのように思われるからではなかろうか。</p><p><br>しかし、このごろの異常気象や自然災害、先の見えない年金問題その他を考えると、若い世代にはただ、大変だねえ、まあ頑張ってくださいよ、としか言えないのが、私の今の心境である。</p><p><br>一方で、「若い人っていいよねえ、好きだなあ」と言う人もいる。が、そんな人に限って若い人たちからは、敬遠されそうだ。というのも、彼らの頭にある若者は、小説や映画やテレビや新聞で作ったもので、現実とかけはなれていることが多いから。私も昔、その手の大人を相手にして、ひどい目に遭ったことがある。</p><p>彼女に言わせると、「若い人って、石坂洋次郎の小説に出てくるみたいなのばかりと思っていたら、太宰治の小説みたいだわね、あんたは」とのことだった。</p><p><br>一説によると、2012年に地球が壊滅的な打撃を受けるような天文学上の大事件がせまっているそうだ。ともかくそれまでは、お互いに折合いをつけて、若者も老人も、この地上でともに平和にくらして行きたいものである。050104<br><br>　　文章教室　課題「若者」<br>　　提出日2005年１月19日</p><p>八木先生評<br>「老壮青がたがいにいがみ合っても、はじまりません。世代差は埋めようもありませんが、仲よく暮らしたいものですね。」</p><p>～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～</p><p>具体的に言うと、「その手の大人」とは、大学2年生の私を賄いつき4畳半から追い出した主婦であるが、彼女が賛美した石坂洋次郎を八木先生は、「石坂洋次郎などなんだ」と言わんばかりにフン！と一蹴された。国文科卒の先生の卒論テーマが太宰治だとはすでに聞いていたが、彼女の「太宰非難」については、あまりにバカバカしいと思われたのだろう、言及だにされなかった。常にアンテナを張って古典・現代ものを問わず貪欲に読破される先生の若さは驚きだったが、残念ながら八木亜夫文章教室は幕を閉じたようだ。</p>
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<pubDate>Thu, 13 Feb 2025 08:13:16 +0900</pubDate>
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<title>2024年を振り返る</title>
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<![CDATA[ <p>昨年わたしたち5人きょうだいはおとうとが76歳、長兄が86歳、私はきりの良い80歳になった。それぞれ生活習慣病だの、何やかやの不調を抱えつつも、何とか５人とも生きて来られたことはありがたい。</p><p>ひまになってきたＫと、あちこち出歩く年だった。</p><p>11月末に神奈川近代文学館で見た安部公房展では、本人より周辺の女たち妻や母や娘に魅力を感じた。母安部ヨリミが公房の生まれる直前に書いた、生涯唯一の小説「スフィンクスは笑う」を読んだが、驚くほど斬新な作品だった。</p><p>11月半ばには上野公園の都美術館で「田中一村展」を見た。その絵葉書を姉に出して、父の遺品にあった一村画集は誰が買ったか聞くと、父がひとりで見に行って買って来たとのことで、それが父の死の1～2ヵ月前だったことを思って、感慨深いものがあった。自転車事故にさえ遭わなければ、まだまだ元気だったろうに…。</p><p>外苑の銀杏並木も11月下旬に見に行った。12月初めに江ノ島に、1月７日に川崎大師に行ったけれど、どこに行っても、驚くばかりの人だった。すべて行楽はＫの発案で、比較的に人の少なそうな曜日や時間をＫは選んでいたのだが、結局は大多数の人と同じ発想ということが証明されたわけである。</p><p>ちょっと遠出したのは、11月中旬に熱海に一泊、小津の「東京物語」を見て予習した。笠智衆と東山千榮子の老夫婦が旅館の浴衣で腰を下ろした堤がホテルのベランダから見えた。貫一お宮の像も見たが、Ｋは納得がいかぬようだった。♪熱海の海岸散歩する～♪の歌詞どおり仲良く散歩する姿を銅像にすればよかろうに、あれではDVおとこに虐待される女のようだ、と。うちに帰って読んだ岩波文庫の「金色夜又」の表紙絵は、貫一はまるで舞台中央で見得を切っているように描かれている。当時の日本では、すがる女を蹴飛ばして振り切る男が格好いいと見えたのかもしれない。言い換えると女性の力は、蹴飛ばさなきゃ振り切れないほど、強大だったとも受け取れる。</p><p>さてYouTubeでは、6月からKER（Kevins English Room)に熱中した。彼らは大学のアカペラサークル出身の3人組で、育ちの良さをしのばせるおっとりした雰囲気、とくに日英仏3か国語で歌う「水平線」とか、一つ一つの単語を大切に感情をこめて歌うやまちゃん（magora）の「真夏の果実」とかは素晴らしく、数か月間は寝ても覚めてもというくらい熱中した。ついにうちの近くで彼を幻に見るほどに高じたが、こんなことでは困ると自分からはなれていき、大阪大学の学生と卒業生が作る「積分サークル」に興味を移した。彼らが深夜の大阪の街で録画した「微分・積分・いい気分」というラップ？は秀逸で、日ごろからユーモラスな会話がいかにも土地柄を表す。大体に頭が良いはずだが、発達障害を疑われるような生活能力の欠如者もいるのが味わいがある。</p><p>旅行系ユーチューブもよく見る。わがふるさと鹿児島の発展には目を見張るが、一方「どこにでも行くドスコイ」に魅かれている。この人は、大勢が行くところや観光には興味がない。それはこの人自身、ADHDでもありジェンダー的にも揺らいでおり、人間界の周縁にいるから、境界とか端っこに惹かれるのだと思う。</p><p>しかし、ついつい麻薬のように引き込まれるのがおそろしい。秋田のTV番組で「ユーチューブばかり見てねぇか？」となまはげに脅されて、3つ4つくらいの子供がなきながら「見てない」と言うシーンがあったが、あんな幼い子供ですら夢中になるのがYouTube、20倍くらい生きている自分はもっとしっかりしなければ。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/utukusiiaki/entry-12931330974.html</link>
<pubDate>Fri, 31 Jan 2025 18:40:48 +0900</pubDate>
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<title>一畑百貨店よ、さようなら</title>
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<![CDATA[ <p>島根で唯一のデパート一畑百貨店がさる1月14日、65年の歴史の幕を下ろしたと全国ニュースで見た。営業を終えた直後の店頭に挨拶の半ばで涙にくれる専務の姿があった。</p><p>65年前と言えばKが10歳の時だ。松江市初の百貨店に、町っ子のKは興味津々だったという。売場面積制限のためか、映画館を併設していた。このデパートはなぜか何度も引越している。最初の立地はお城や県庁が近い、県民会館の前で、2度目は同じ町内の、いま新聞社のある場所だった。そこへ行った記憶がある。義母とＫが各方面への手土産を物色する間、買物や人混みの苦手な私と義父とは入口で休憩していた。そして、3度目が、今の松江駅前。目の前の大橋川は狸が出る、都会か田舎かわからないようなところである。</p><p>2007年から2019年まで義母の介護のために松江に住んだ私とＫだが、介護はもっぱらＫがやり、私はその間、松江を大いに堪能した。「1か月でうんざりしますよ」という地元出身者の発言には惑わされず……。</p><p>介護が十年以上にも長引いて、私は毎日、行くところがなくなった。本来、デパートには用のない私も、たびたび訪ねている。特に6階は、食堂で誕生祝にちらし寿司を食べたこと、そばやで義母と3人でお昼を食べたこと、催事場で毎年同じ時期に産地直送のうまいもの展をやっていたりで、懐かしい階だ。一基だけのエレベーターの、透きとおった壁からは夕映えの空や街並が見えたこと、エレベーターの前、榧(カヤ)の木製のベンチの手触りがよかったこと、一階である日、見るからに素敵な帽子を買ってしまったこと、私はいつもすぐ無くすのでせいぜい2千円前後のしか買わないのに、その10倍も出してしまったが、実はその日は映画「暗夜行路」を見た後で初対面の女性と喫茶店でおしゃべりしたのだった。映画のせいかおしゃべりのせいか、ともかくいつになく気分が昂揚していたためだろう。結局その帽子も、失くしてしまったが…。あとはハンカチ売場で手頃の小さいサイズを探したり、4階の画廊とか5階の展示会場とかもよく行った。ブログの「サービス」で問題にしたのは一階の喫茶店だった。4階の喫茶店は結構高いので、カステラ一切れに飲み物というメニューを専ら頼んでいた。着物リフォームした店の前をよく通った。義母はおしゃれでここの常連で、今私の持っている一番上等のセーターは彼女の形見の品だ。2015年中学の同窓会のために、ここで上衣とパンツとブラウスを買っている。</p><p>山陰特有の雨や風、雪から逃れるため、斜めに通り抜けさせてもらったのも、懐かしい。</p><p>県民人口が70万を切っては、デパートの経営は難しくなったのだろう。横浜市の人口(370余万)を上回る道府県が十指に満たないような首都圏一極集中を見ると、今後も同じ運命をたどる地方デパートは跡を絶たないのではなかろうか？</p><p>→【映画】暗夜行路　07‐11‐25</p>
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<pubDate>Wed, 31 Jan 2024 17:28:40 +0900</pubDate>
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<title>2023年をふり返る</title>
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<![CDATA[ <p>新年のＴＶでウィーン・フィル・ニューイヤー・コンサートを鑑賞するのは、昔からの習慣ではない。中国・重慶の高校生たちのひとりが、松江の大型店でＣＤを探していたのが印象的だったからだ。で、大晦日の紅白よりは元日のこちらが楽しみになっている。それを待っていた1日夕方、突然、ゆさゆさと4階のわが家が揺れ始めた。怖くはないがいつまでも続く。顔を見合わせ「地震だよね」とＴＶをつけた。この近辺だけかと思っていたら、日本の大半を覆う地震。そういえば予感のようなものはあった。天気予報で、前後はよいのに元日だけ悪いのが変だと思ったが、まさかこんな事が待っていようとは。そのうえ翌日、救援に向う海保機がJALと衝突して炎上。幸い、JALには死者は出なかったが、こういっては不謹慎ながらまるで災害映画のような迫力のある映像だった。また清張の作品でおなじみの能登半島の風土が、ドラマではなく現実にそこに生き続けてきた人々のつらく寂しい人生を、この暖かく人口稠密な土地にいて、まことに申し訳なく感じる。さらには日本列島全部が、いつ地震津波に襲われるかわからない、世界でもまれな災害大国であることに思い至る。と、私の連想はつい悲観的になって行って、だから（こんな国で）生まれてもロクなことはないという「反出生主義」に磨きがかかっていくのである。</p><p>それはともかく、2023年には3つの大きな想い出がある。</p><p>１．奄美大島への旅</p><p>6月中旬から下旬にかけて、奄美大島の名瀬に3泊4日の一人旅。田中一村の終焉の家を見て来た。ただし、自分が雨女であることを思い知らされる旅になった。行きは積乱雲が名瀬空港の真上にあって着陸不可能、2度目でようやく着陸できた。3日間一度も太陽が顔を出さず、線状降水帯が2回ほど発生した。けれど、植物のはっとするほど勢いの良い大きい姿は全く予想外であった。</p><p>２．姪のこと</p><p>姪は予定通り定時制高校に入学し、一方では大学時代の先生に誘われて夏休みに欧州旅行に出かけた。１ヶ月の旅程ではフランス各地やベルギーのほか、スペインはバルセロナ、ポーランドのアウシュビッツ収容所見学という予定も立てて、現地から送られる写真とメールを私とＫは毎日たのしみにしていたのだが、一週間目に体がだるい、コロナかもと言い出して、早々と帰国。検査したら、感染していた。結局モンマルトルやエッフェル塔・ベルサイユ・シャンポール城に行ったが、私が羨望していたバルセロナとアウシュビッツは幻に終わった。定期試験では数学の三角関数に苦戦、自分の実力も徐々に理解しはじめ、当初の一流大進学という目標を撤回する模様。体育の授業や遠足等の行事に参加して、ほとんど経験できなかった高校生活を10年後に味わえたのを嘉すべか。</p><p>３．ユーチューブ</p><p>以前から何かと見てはいた。コロナの「さざ波」発言で役職を辞した高橋洋一がKのお気に入りなので。しかしこの頃は、私自身、中毒症状を呈している。その中毒は、一つにつき一週間ほど続き、やがて次に移るのだが、</p><p>はじめのうちは「竹内成彦」「ゆっくり霊夢とゆっくり魔理沙」「岡田斗司夫」「毒親」評論家ー木村裕子、カズ姉さん、モロ、さわ、樺沢しをん、高田悦子、大沢千紘など少なくとも十人。｢日本はすごく日本人はえらい」などという動画もあるがこれは恥ずかしいので見ていることも大声では言えない。</p><p>ここまでが約4か月。その後10月13日に２ちゃんねるに接触してからがなかなか脱皮できない。独特のスラングを知るとき秘密結社に属しているような喜びがある。「イッチ乙」という挨拶など。また、ひとり秀逸な画家がいる。バラ色の頬に、愛らしい単純な顔立ちが日本人特有で、喜怒哀楽の変化が、眉や口元の線でくっきり表現されている。ＴＶのよその番組でこの絵に会えると嬉しい。そして、誤読だらけだが、音声の中には一種セクシーな魅力をもったのもあり、(例えばゆっくり魔理沙のかすれ声）つけっぱなしにしておく「作業用｣｢入眠用」という動画も大いに利用する。私が体調を崩すと「２ちゃんねるばかり見ているからだ」とＫは予断と偏見で主張する。いずれ我家に２ch禁止令が施行されるかもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Sun, 14 Jan 2024 18:17:32 +0900</pubDate>
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