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<title>薔薇雲の図書室</title>
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<description>読書感想文を中心に載せています</description>
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<title>『歴史は実験できるのか』J・ダイヤモンド+J・A・ロビンソン　小坂恵理訳（2018）</title>
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<![CDATA[ 本書は数名の学者の寄稿をまとめたものであるが、音頭を取っているジャレド・ダイヤモンドは私が尊敬する人類学者の1人である。本書は、実験が難しい歴史学をいかに実証実験に近い形で検証できるかを考えるものである。<div><br></div><div>例えば隣の地区同士であるA小学校とB小学校で、長年大きな成績の差が続いている場合、何か要因があるのではと考えるのが普通である。隣り合う地区であるが世帯収入に大きな差がある、各小学校の教育理念の違いが生徒の成績に反映される、教室の広さが勉強する時の精神に影響してる可能性、などなど検証できる側面は色々ある。歴史学における実験の際には、これを隣同士の国、あるいは同じ民族の国同士、あるいは同じ地域の別の時代での比較などで考える。</div><div><br></div><div>難しいのは、比較するコミュニティが大きいほど、違いに影響すると考えられる要因が増えることだ。加えて、残存するデータや資料が正しいことが前提となるため、不正確性のリスクは常につきまとう。</div><div><br></div><div>本書の序盤でもある通り、現在では生物学などでも倫理的な理由で実証実験が難しい分野はある。そういった実験の難しい学問で如何に科学に近づくことができるか考えることが、今後の学問全体の発展に寄与していくことになるのかもしれない。</div>
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<link>https://ameblo.jp/warrenmuffet/entry-12721651599.html</link>
<pubDate>Sun, 16 Jan 2022 19:23:21 +0900</pubDate>
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<title>『50のドラマで知るヨーロッパの歴史』　マンフレッド・マイ　小杉尅次訳（2010）</title>
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<![CDATA[ ヨーロッパは勉強するのが、世界で1番難しい地域である。歴史が長く、国境も時代ごとにコロコロ変わるため、一気通貫で社会構造の特徴やエスニシティーを把握することが困難であるからだ。本書のようにタームポイントごとに歴史を縦横に切ってアプローチすることでヨーロッパの全容を理解しようとする試みは、挑戦的であるがかなり有効であると考える。<div><br></div><div>ヨーロッパの歴史は、覇権主義的なコミュニティによる侵略の連続である。ローマ帝国は今では信じられない国土を有した。十字軍進行の際にはキリスト教が侵略の大義を果たした。この流れはフランス革命で途切れるかと思ったが、その後ナポレオンが拡大主義を全面に押し出した。また、産業革命後の英国ではアングロサクソンの爪痕を世界各地に残した。他ヨーロッパ諸国も、中世以降世界各地を植民地とし経済的利益、物質的豊かさを享受した。</div><div><br></div><div>そのような歴史を考えると、現在EUという経済共同体の下で欧州からSDGsなどの啓蒙活動の発信源、先駆的地域となっていることはかなりの大転換であるように見える。200年前は人権意識など皆無の政策を行なっていた欧州各国であるが、現在は人権意識の低い他国を激しく非難する。このことが、人類の発展に寄与していくのか、また200年後には今のことなど忘れ新たな国土争いが始まっているのかはまだわからない。</div>
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<link>https://ameblo.jp/warrenmuffet/entry-12719493770.html</link>
<pubDate>Tue, 04 Jan 2022 23:53:21 +0900</pubDate>
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<title>『たまたま-日常に潜む「偶然」を科学する』レナード・ムロディナウ　田中三彦訳（2009）</title>
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<![CDATA[ 　頭が良く洞察力の高い人ほど、複数の事象を繋ぎ合わせて論理的で蓋然性の高そうな説明を行うことができるし、本人も自分の説の正しさを信じてしまうものだろう。そんな人ほど本書で解説される、ランダムネスの概念を念頭に置いておくべきである。本書は確率・統計学の歴史を紹介しながら、ランダムネスの重要性を強く主張している。<div><br></div><div>　「日常」の何が1番難しいかというと、全てを正確に数値化することは不可能であることだ。今月、渋谷のスクランブル交差点を何人が横断したか。カウントすれば数値は出せる。ただ、恐らくその数値は実際の数値とは若干の誤差がある。あるいは、バルセロナの選手のサッカー力と浦和レッズの選手のサッカー力、どっちが高いかなど、到底数値化して比べられるものではない。</div><div><br></div><div>　加えて、全てのことを正確に数値化として把握できないことから、我々から見た事象にはランダム性がある。コイントス、ギャンブル、スポーツ…ランダムな事象を目にする機会には事欠かない。あらゆる事象にはランダム性が含まれている。</div><div><br></div><div>　さてしかし、この森羅万象のランダム性に共通している部分があるとしたら、それを発見することはとんでもないことではないか。そしてそれは、統計の歴史の中で明らかになっている。つまり、正規分布というのはこの世のあらゆるランダムネスの共通パーツであると考えることができるのである。</div><div><br></div><div>　数値化できないことが多い、ランダムと正規分布は親友、というだけでこの世界を知った気になるのは恐ろしいことだ。なぜなら、ほぼ正確に数値化できることですら、人間は認識を誤るのである。</div><div><br></div><div>　いつも通りの朝、あなたのクラスメイトの財前くんが登校してきた。財前君はいつもピカピカの靴にお洒落なスーツを着ている。校門をくぐった財前くんの後方には、高級感満載のリムジンが止まっている。さて以下のうち蓋然性が高いのはどちらだろうか。</div><div><br></div><div>1.財前くんは金持ちだ</div><div>2.財前くんは金持ちで今朝リムジンに乗って登校してきた</div><div><br></div><div>より直感的に選ぶほど、人は認識を誤る。上の問題は、少し考えれば財前くんが金持ちでリムジンに乗ってきた確率よりも、財前くんが金持ちである確率の方が高いと気づけるはずだ。</div><div><br></div><div>　つまり、確率論や統計学は単なる数字オタク達の遊びではない。直感的に捉えがち(人間の本能として、事象を直感的に認識しがちなのだ)なこの世のあらゆる出来事・情報を、いかに論理的に受け止めるか、それによって世界の真の姿にいかに近づくかという、知的生物的使命感を帯びた真の学問の１つなのである。</div>
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<link>https://ameblo.jp/warrenmuffet/entry-12698196462.html</link>
<pubDate>Thu, 16 Sep 2021 00:08:35 +0900</pubDate>
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<title>『統計でウソをつく法-数式を使わない統計学入門-』ダレル・ハフ　高木秀玄訳(1968)</title>
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<![CDATA[ 　ある雑誌に「東京大学出身者の平均年収は800万円である」という情報が掲載されていたとしよう。それを見た年収500万円の会社員がこう考えたとしよう。「俺も東大に行ってたら今頃年収800万円貰えてたのか…」さて、この会社員の考えてることは正しいのだろうか。<div><br></div><div>　少し考えたら、東大に行けば必ず年収が800万円が貰えるわけがない。そもそもその平均年収はどのように算出されたのか。卒業生へのアンケートなどだとしたら、アンケートに回答してる時点である程度人間ができており、優秀寄りな東大生なのではないか。あるいは、年次の高い卒業生ばかりが回答していたら、自然と平均年収はたかくなるだろう。</div><div><br></div><div>　あらゆる情報がテレビとスマートフォンから脳に流れ込んでくる現代社会では、集計されたデータなど四六時中見るものだろう。その数字一つ一つについて、上記のように懐疑の思考を巡らすことのできる人がどのくらいいるだろうか。</div><div><br></div><div>　本書は約50年前に出版されたものであるが、現代人こそ1度は目を通しておくべき内容である。少し考えたら怪しげなデータやグラフでも、直感的に捉えてしまうと鵜呑みにして、鵜呑みにしたことを忘れて知識として自分に定着してしまうものだ。そして、様々な怪しい数字に自分の思考が振り回されることになる。そうなる前に、統計データ自体に懐疑的になることを覚えようということだ。そして、データをどう怪しむか、あるいは自分でデータを意図して誤魔化して表すにはどうするかを本書で学ぶことができる。</div><div><br></div><div>　とはいえ、50年前の人間に指摘されるほど情報リテラシーがなっていないなんてことはないと思われるかもしれない。当時の何百倍のデータに触れてきたのかと思われるかもしれない。ところが、筆者が最近ツイッターで見かけたとある話題について、少なくとも日本の一部の人々の情報リテラシーや統計的基礎がとても不安になることがあった。その件について書いて終わりにしようと思う。</div><div><br></div><div>　その件というのは、東京のPCR検査の陽性率についてのことだった。9月6日月曜、東京の新規感染者が968人と久しぶりに1000人を下回っていた。そこで、とある伸びているツイートが目についた。そのツイートとは、9月6日の検査数は2000件程度しかなく、陽性率は50%であり、安心はできないというものであった。ただ、これが間違っているという認識はかなりの人にあった。問題は、このツイートに対する反応として、もう一つ伸びているツイートがあった。それは、検査から陽性が判明するまで1-3日かかるので、9月6日の感染者数を9月4-6日の検査数の平均で割ることで「正確な」陽性率がわかる、というものであり、こちらのツイートはかなり支持する人が多かったように見えた。</div><div><br></div><div>　このように、少し考えると成り立たない計算でも、それっぽく語られたものを直感的に受け止め</div><div>ることで思わず呑み込んでしまうことがあるものだ。いつでも色々な情報にアクセスできる現代こそ、統計的思考の基礎固めが必須なのだと思う。</div>
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<link>https://ameblo.jp/warrenmuffet/entry-12697246197.html</link>
<pubDate>Sat, 11 Sep 2021 00:12:33 +0900</pubDate>
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<title>『隷属への道＜新版ハイエク全集第Ⅰ期別巻＞』ハイエク　西山千明訳(1992)</title>
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<![CDATA[ 　ハイエクである。今なお続く新自由主義の波、その大元の大元と言える。<div><br></div><div>　本書は集産主義とハイエクが呼ぶもの、有り体に言えば「共産主義、社会主義、全体主義、計画経済、ファシズム」といった系統の思想を、これでもかと批判したものである。第二次世界大戦当時に書かれているので、当時ファシズムをどのように受け止めていたかなどリアルな空気を感じる。</div><div><br></div><div>　集産主義は効率的でない。集産主義は独裁化する。集産主義は思想を支配する。集産主義は悪が権力を持つ。集産主義は頭の悪い人間が多い程成立しやすい。</div><div><br></div><div>　と現代ではコテコテあるいは偏見と言えるイメージを論理立てて説明している。批判書であるので、かなり主観の効いた解釈なども含まれる(例えば「思想統治されて経済的に平凡な生活を送れる世界」と「自由だが資産格差がある世界」では、後者の方が良いと断定している)が、当時が第二次対戦真っ只中であったことを考えると強引にでもファシズムなどに対立しようという気持ちが生まれることもあろう。</div><div><br></div><div>　思想面として気になることは、新自由主義に続く思想のベースとなる自由主義の世界は、一方から見れば完全平等の競争社会の理想郷であるが、一方から見れば能力者、資産家(またはその相続者)のみが謳歌する完全な格差社会となる。その意味では、階級がより重層的であるだけで、システムとしては全体主義とそう違わない。それは経済に限った話だと思われるかもしれないが、経済的自由と人間活動の自由が直結することはハイエクも認めてあるところである。</div><div><br></div><div>　現実面として気になることは、制度として個人の思想がある程度尊重され、SNSにおける匿名性という盾の下で市民が自由に発信する現代で目立つのは、自分達の常識や倫理と違う思想を持つような人間への集団口撃である。それはまさに、自分を含む多数派の思想があたかも権威であるかのように、ズレた人間に対してある種の矯正を押しつけるような構図にも見える。</div><div><br></div><div>　つまり、構造として多少の違いはあれど、自由主義も全体主義も行きつく先としては似たような社会現象を発現しうるということだ。その地点まで、国家の強制によって辿り着くか、市民が自らの足で辿り着くかしか違わない。国家に思想を強制されることに慣れていない日本人が習近平率いる中国の政策に違和感を覚えるように、到達地点までに経由する国家統治のあり方が市民の基礎的価値観を醸成することもまた確かではある。しかしそれは向こうの乗ってる船の性能に疑問を感じているだけで、潮目としては同じゴールに向かっている可能性が高い。</div><div><br></div><div>　ハイエクの書き振りとしては、こういった人間の根底のあり方、思想発展のレールの面についても理解しているように感じた。そもそもハイエクは本書のスタンスとして、当時の自由主義国家は集産主義国家への道のりを辿っているという危機感を持っているからだ。そして、情報が極限の速度で伝達する現代で、市民レベルでハイエクの恐れていたことの芽が出始めているような気がするのである。</div>
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<link>https://ameblo.jp/warrenmuffet/entry-12696482768.html</link>
<pubDate>Mon, 06 Sep 2021 22:43:26 +0900</pubDate>
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<title>『経済幻想』　エマニュエル・トッド　平野泰朗訳(1999)</title>
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<![CDATA[ 国家とは何か。経済とは何か。人類の最大幸福に必要なのは、安定した国家運営なのか、安定した経済成長なのか。<div><br></div><div>共同体形成における地域ごとの特性として、核家族型(アングロサクソン世界)と直系家族型という分類が知られる。アングロサクソンが個人主義+平等主義、直系家族型が集団主義+不平等主義というイメージが近い。</div><div><br></div><div>階級を超えた縦の繋がりとしては、歴史上キーとなっていたのは宗教などの思想だ。人々は自分の仕事の他に何らかの思想を持ち、それが個人の属性を特徴付けていて、また共同体における繋がりの重要なファクターとなっていた。</div><div><br></div><div>上記のような共同体形成の特徴がある中で国家というシステムが成り立っている。そしてここに、自由貿易に伴う資本家階級の特権的資産拡大、貨幣の一神化と教育水準格差の拡大に起因する思想の共同体形成能力の低下、などの(経済発展に伴う)スパイスが加わることで、国家の共同体的システムが機能しなくなっていく。</div><div><br></div><div>トッドとしては、日独などの直系家族型の国家は保護貿易に伴うセイの法則による国内需給拡大が経済成長を牽引していたのであり、自由貿易から保護貿易へのシフトが国家システムの健全性を守る上で重要であることを説いている。</div><div><br></div><div>本書出版から20年経った現在、そのシフトが起こりそうな雰囲気は些かも感じない。逆にトランプ政権時代にアメリカが保護主義的政策に走った際のバッシングの多さは、グローバリズム資本主義の信奉者が依然として圧倒的多数であることの表れであると言える(もっとも、バッシングの対象は移民関連の過激な発言や政策に対するものが多かったが)。</div><div><br></div><div>また、貨幣一神教に加え、地球保全至上主義のようなものが台頭してきている。後者についても、自分達が地球市民であるという思想をベースとしているという意味では国家共同体思想にやや霧をかけている。</div><div><br></div><div>思想の反転により、再び「国家」の枠組みが常に意識され、社会共同体の健全な再構築が発生するとしたら、それはいつになることだろう。将来、貨幣的幸福と共同体構造的幸福のどちらがより求められてくるのか、そこで答えがわかるだろうか。<br></div>
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<link>https://ameblo.jp/warrenmuffet/entry-12693632445.html</link>
<pubDate>Sun, 22 Aug 2021 16:19:41 +0900</pubDate>
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<title>『経済数学の直観的方法  確率・統計編』　長沼伸一郎(2016)</title>
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<![CDATA[ マクロ経済学編も読んでいるが、確率・統計編の方が心を揺さぶられたのでこちらについて書きたい。著者の長沼氏は物理の本書と似たような書籍で有名になったらしいが、一応経済学の徒として経済数学の方に手を出してみた。<div><br></div><div>長沼氏は、難しいことを伝わりやすいように砕き、かつ骨子は決して欠かさないという文章を書く天才だと感じる。</div><div><br></div><div>周知の事実だが、学問において、「理論が知っていること」と「理論を理解していること」は全く違う。遊び呆けている大学生などは、理論の知識のみを大量に収集し、理論を理解のフィルターに決して通さない典型的な生き物だろう。理解のフィルターを通さないことに長けていることが大学受験などでは必要である気もする。</div><div><br></div><div>長沼氏の書籍は、読者の理解のフィルターをブチ破り、知識の理論をスムーズに理解まで運ばせるようなイメージだ。この体験は読者にとってとんでもない快感となる。そして、今まで理解という行為を知った気になっていた人は、「学問とはこうやって消化していくのか」と初めて気づくだろう。無論私もその1人だ。</div><div><br></div><div>「トレンド」「ボラティリティー」「正規分布」</div><div>これらのうち1つでも、自分が本当に理解しているのかわからなかったら、ぜひ本書を読んでほしい。わかった気になっている人にも読んでほしい。</div>
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<link>https://ameblo.jp/warrenmuffet/entry-12691823082.html</link>
<pubDate>Thu, 12 Aug 2021 18:31:32 +0900</pubDate>
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<title>『利己的な遺伝子』リチャード・ドーキンス　日高敏隆他訳（2018）</title>
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<![CDATA[ 生物がどのように進化してきたのかなどという話はあまりに専門外だし話がデカすぎる。が、本書に書かれていることの極めて重大なポイントは、おそらく生物学や進化論を飛び越して広く汎用性の高い概念であると感じる。<div><br></div><div>本書は著名な生物学者のリチャード・ドーキンスが著して、とんでもなくバズった(らしい)書籍(の40周年記念版)である。ダーウィンの進化論に関して広く勘違いされている議論を、遺伝子淘汰の観点から説明していくというような内容となっている。</div><div><br></div><div>が、そこの本筋の裏に見えるコアのイデオロギーにかなり痺れた。つまり、現状を「過去における意思決定や論理構築の帰結」とするのでなく、「過去を現象として捉え、その結果として偶然存在する空間」としていることだ。</div><div><br></div><div>ヒストリカルな出来事というのは得てしてビッグナラティブな背景を想像されがちだが、本書ではなんの必然性もない事象の果てに現在の環境があるというようなニュアンスが一貫されていたと感じる。突き詰めると、家族の愛情というのも遺伝子の変異における偶然の産物であるとも思える。</div><div><br></div><div>この「事象の積み重ねとしての現在」という考え方はどんな分野でも重要である。経済でも、背景にストーリーを構築してしまうことで見えなくなることが山ほどある。遺伝子変異の果てにある今の地球と、人間の気まぐれの果てにある経済社会は、非なるものであるが本質的な事象としての差はとても小さい。</div>
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<link>https://ameblo.jp/warrenmuffet/entry-12683173382.html</link>
<pubDate>Sun, 27 Jun 2021 22:28:41 +0900</pubDate>
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<title>『パラドックス大全』　ウィリアム・パウンドストーン　松浦俊輔訳（2004）</title>
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<![CDATA[ 宇宙は有限か、地球は丸いのか。<div>そんなことを調べる術が無かった時代に論理で世界の構造を理解しにいく人々が多用していた手法がパラドックスである。</div><div><br></div><div>論理学、あるいは数学を習った人ならわかる手法であるが、ある仮説を立て、そこにパラドックスが生まれれば、その仮説が成り立たない可能性が高まるということである。つまり、偽であることの証拠が増え続けることで、ある仮説が成り立たない可能性が高まり、仮説の逆のことが真実である可能性が高まるということである。</div><div><br></div><div>重要なのは、論理で証明されていくことが例え直感に反することであっても、曲解せずに受け入れていくということである。九九フィートの男のパラドックスに代表されるように、論証過程で材料を基に真偽をねじ曲げてしまうことは往々にして起こりうる。</div><div><br></div><div>論理で顕になる世界が多くの人に受け入れられないことは昔から当たり前のようにあり、そのことで投獄されてしまうことも多かっただろう。しかし、情報過多で逆に真実はわかりにくい現代こそ、論理の証明力によって世界を捉えることが大事だろう。</div><div><br></div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/warrenmuffet/entry-12674909643.html</link>
<pubDate>Sun, 16 May 2021 21:33:21 +0900</pubDate>
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<title>『資本主義の終焉』　デヴィッド・ハーヴェイ　大屋定晴ほか訳(2017)</title>
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<![CDATA[ 　資本とは、資本主義とは、新自由主義とは、いかにして世界に支配を広げていき、どのような変化を人間社会に与えたのか。本書で描かれているそれを読んでいるうちに、資本と呼ばれる怪物が地球をずるずると動き回り肥大していくようなイメージが脳内で描かれていくと思う。<div><br></div><div>　本書は別に資本主義が終わるぞーという警告本でもなんでもなく、新自由主義的資本主義を批判的に検討した上でポスト資本主義世界への道標を提示している。切り口としてはハーヴェイ色が強く、私的所有権という側面からの批判が印象に残る内容となっている。</div><div><br></div><div>　本書でも度々言及されており、マルクスから言われていることでもあるが、資本主義という重心をずらすためには、所謂労働者が全員で反旗を翻すという革命運動を起こし、人間主義的な社会を築くのだというストーリーが必要だと見られる。</div><div><br></div><div>　では、現状の社会における、人間主義の実現を邪魔するものとは何か。これは、根本的には、貨幣そのものではないかと考えられるのではなかろうか。資本主義、私的所有権の源泉的な新自由主義、これらの萌芽、発展を促進させたのは貨幣である。それと同時に、新自由主義的資本主義が貨幣を発展させていったという側面もあるが。</div><div><br></div><div>　何千年という期間で見た場合、現代貨幣が手にした(人間が手にしたとも言える)圧倒的な能力というのは、あらゆる自然、製造物に対して、交換価値と使用価値が比較的ずれない水準で決定が可能となった、プライシング能力かと思う。そして、人々はプライシングさえできればそれはもう商品だと認識し、市場経済の肥大化が止まらなくなった。</div><div><br></div><div>　ここでの問題は、プライシングが人間の労働自体にも跳ね返ってくるという点と、交換価値と使用価値を意図的にずらすことも可能になったということだ。この2点から、資本主義における労働者の立場は、本来の自然な人間の姿からはかなり遠ざかってしまったように感じる。</div><div><br></div><div>　つまり、人間主義の確立と決済貨幣からの卒業というのはある程度セットで起こりうる事態とも考えられ、少なくとも決済手段の多様化が爆発中の現代に起こりうることではなさそうかと感じるのだ。</div>
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<link>https://ameblo.jp/warrenmuffet/entry-12659522240.html</link>
<pubDate>Sun, 28 Feb 2021 18:22:39 +0900</pubDate>
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