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<title>WE CAN FLY !!</title>
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<description>23歳の大学院です。エンカウンターグループや簡単なボディワーク、瞑想などをしながら自分の見逃していた部分を見出すことに日々取り組んでいます。大学院のいちおうの専門はコミュニティによる問題解決です。</description>
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<title>強く思い浮かんでくること</title>
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<![CDATA[ <span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">新居で一人暮らしをはじめ、家の本棚に本をいっぱいに並べて、大学学部時代のゼミの同期に見せつけニヤついている場面が思い浮かんでくる。こういう願望を持っている自分がいる。そしてこの願望を叶えるために積読本を読もうという動機が働いている。そういう動機だと本は読み進められず、鬱屈としてしまう。<br><br>と自覚したら、またわりかし本を読み進められるようになった気がする。<br><br>そんな感じで強い情動をともなって思い浮かんでくることを自覚できると、日常の些細な滞りを突破できるなあと改めて思った。<br><br>そういうわけで、いくつかのことについてどう踏み出せばいいかヒントを掴んだかもしれない。強い情動をともなって思い浮かんでたことが思い出されてきた。<br><br>「関係性において必要な次の一歩は、その瞬間の状況の中に見いだされる。」<br>「「気づき」は、手に負えない葛藤さえも変容させることができる新しい一歩を必ず明らかにする」<br><br>というアーノルド・ミンデルの言葉が突き刺さった。</span>
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<pubDate>Tue, 10 Feb 2015 11:05:51 +0900</pubDate>
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<title>区切り</title>
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<![CDATA[ <div>高校を卒業してからの約6年くらい、人や社会について、大げさな言い方かもしれないが、探求してきた。大学院に入学した動機も探求のためだった。最近、探求に一区切りついた気がするので、思いつくままに結論を書いてみる。(長くなった...)</div><div><br></div>出発点は、偶然の不幸に左右されない自己肯定、だった。世の中には想像を絶する不幸が存在する。自分が普通にしていられるのは偶然にすぎない。もし、例えばアウシュビッツの強制収容所に入れられたらどうしよう。偶然にのさばって生きるのは不誠実ではないか。そんなことを思い、偶然の不幸に左右されない自己肯定、というのを求めていた。<div><br></div><div>それ近い境地を垣間見たことがある。共働学舎という社会で生きづらさを抱えた人が酪農やチーズ作りを営みながら共同生活を送っている牧場があり、10日間滞在した。そこには、体が不自由になって自分らしくなった、両腕がない方が人生楽しい、という人がいた。社会的な価値観から自分を解き放ち、生きている。そういう人の存在によって周りの人も変わっていく。<br><div><div><br></div><div>自分の求めているのはこういうことなんだと思った。合理主義的・功利主義的な世間の基準から自由になり、主体的に生きること。常識から解き放たれること。ベイトソンの学習3のような。</div><div>でもまだ足りないと思った。例えば拷問や強制労働、虐殺には耐えられない。</div><div><br></div><div>この問題に答えるべく、さらに突き詰めて、社会問題、非暴力運動、そしてある種の霊性から着想を得た。社会問題から言及し、最終的にはじめに戻ってくる。</div><div><br></div><div>世の中に存在する多様な社会問題は、根っこにある構造を、社会的ジレンマ状態・囚人のジレンマ状態からだいたい説明できると思う。要するに、個人の合理的な行動の論理的な帰結として全体の利益が損なわれるというもので、例えば、核開発競争、二酸化炭素排出、ゴミのぽい捨て、違法駐輪なんかが典型例としていえる。簡単に言えば、一人一人の視点だと違法駐輪は便利だが、多くの人がやればみんな困ってしまう。かといって自分一人だけルールを守っても損だから違法駐輪するが、みんな同じようなこと考えてみんな損する悪循環、みたいな話になる。</div><div>貧困、格差、紛争、環境問題など、だいたい似た論理で説明できる。</div><div><br></div><div>日本もこれから高齢化社会になって圧倒的に介護事業者が不足する分、隣近所のつながりで助け合うことが必須だが、そのためには社会的ジレンマ状態を克服して共助の体制づくりをすることが必要になる。</div><div><br></div><div>社会的ジレンマ状態を克服するには、自分が損するのを覚悟で他者や社会、公共のために尽くす人が出てくる必要がある。本当に社会問題を何とかしようと思えば、そういう人が爆発的に増える必要がある。不可能にも思えるが、日本の高齢化なんかはそうでもしないとどうにもならない。紛争や貧困もそうだと思う。</div><div><br></div><div>じゃあどうやって利他的行動を爆発的に増やせばいいか。爆発的に利他的行動が増えた事例として、非暴力運動がある。紛争は究極の社会的ジレンマ状態といえて、憎しみや復讐を求めていると、延々と憎しみの連鎖の悪循環にはまってしまう。非暴力運動は、暴力をふるわれ、時には殺されようと憎しみを返さない。しかも国民レベルの運動まで発展する。奇跡としか言いようがないようなジレンマ克服が起きた。こういう力が同時多発的に働けば、社会問題を解決できる可能性が高い。</div><div><br></div><div>どうしてこのような奇跡が可能となったか。ガンジーやキング牧師のような究極のリーダーシップはどのようにして生まれるのか。キング牧師は自伝に次のように書いている。</div><div><br></div><div>「(略)非暴力を信ずるものは、未来をふかく信じている。(略)正義のための闘いのなかで、彼が宇宙を味方にしているということを知っているからだ。(略)この宇宙のなかには、現実のばらばらな側面をひとつの調和ある全体に統一するために働く創造的な力はたしかに存在するのだ。」（『自由への大いなる歩み』）<br></div><div><br></div><div>何か深い確信の境地がある。ガンジーもキング牧師も殺されているが、それさえもおそらく受け入れていたであろう境地。またキング牧師の引用になるが、キング牧師は運動の中どうしようない恐怖に陥り、極限状態で祈りを捧げた。</div><div><br></div><div>「勇気がすっかりくじけ去り疲労困憊したこうした状態のなかで、ぼくは、この問題の解決を神様におまかせしようと決心した。（略）</div><div><br></div><div>〝わたしは、ここで、わたしが正しいと信ずることのために闘っています。だが、いまわたしは恐れているのです。人々はわたしの指導を求めています。そしてもし、わたしが力も勇気もなく彼らの前に立つならば、彼らも勇気を失うでしょう。わたしの力はいままさに尽きようとしています。いまわたしのなかには何ものこっていません。わたしは、ひとりでは到底たちむかうことのできぬところにきてしまいました。〟</div><div><br></div><div>この瞬間、ぼくは神の御前にあることを感じた。こうした経験はいまだかつて決してなかったことだ。あたかも、〝正義のために立て。真理のために立て。しからば神は永遠に汝の傍にいますであろう〟という内なる声のしずかな約束をきくことができたように思われた。と同時に、ぼくの恐怖は消えはじめた。ぼくの不安は消え、ぼくは何ものであろうとこれに立ちむかう覚悟をきめた。」<span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">（『自由への大いなる歩み』）</span></div><div><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><br></span></div><div><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">こういうことなんじゃないかと思った。根源的な肯定の境地。人生における自分の実存的な問いの答えであり、社会を変える答えでもある。ニューサイエンス系のリーダーシップ論、東洋思想など、似たようなこといってる気がする。Uプロセス、シンクロニシティなのか。意識の奥の無意識よりさらに奥の霊性なのか。阿頼耶識、阿摩羅識、乾栗陀耶識なのか。ドリーミングボディなのか。ベイトソンの学習4なのか。</span></div><div><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><br></span></div><div><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">とんでもない理想主義だけど、これでしか納得がいかない。少しでも理想に近づくために、毎日少しずつでも自分の見逃していた自分を見出し、手放して生きたいと思う。</span></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br><div><br></div><div><br></div></div></div></div>
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<link>https://ameblo.jp/wcf19910326/entry-11982408316.html</link>
<pubDate>Tue, 27 Jan 2015 22:41:27 +0900</pubDate>
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<title>環境を変えるということ</title>
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<![CDATA[ 今、大学院を辞めようか真剣に考えている。前から考えてるけど、真剣さが増している。<div><br></div><div>もともと大学院に進学したのは、ものごとの探求のためだった。でもその探求がある程度終着してきた。さらに発展させるにしろ、今の大学院という場から得られそうなことは少ない気がする。</div><div><br></div><div>自分に備わっているものを発揮したり、人に考えていることを共有したりすることも、今の環境ではしにくい。自分を抑えて鬱屈とする。その度合いが増してきた。</div><div><br></div><div>ちょっと前まではそれでもいいと、仕方ないと考えていた。環境変えたいと思いつつも、結局は行動を起こしていないので、そこまでの気持ちが自分にはないのだろうと考えていた。現実逃避しているに過ぎない。</div><div><br></div><div>しかし環境を変えたい要因が日増しに大きくなっていく。これを抱えたまま修士論文を書き上げるのは厳しい。得ることもあるだろうけど、自分を停滞させる気がする。と思うのは現実逃避なのか...?</div><div><br></div><div>環境を変えたいと思いつつも、行動を起こさない自分を感じてみた。自分が追求したい、思入れのあることであるほど、自分で自分を塞き止めようとする感覚がある。大切にしてきたことだからこそ、そのことで人に低く評価されたくないのかもしれない。</div><div><br></div><div>大学院生という身分への執着もあるかもしれない。周囲に自分の選択を認めてもらうのがおっくうというのもあるかもしれない。現状に甘んじるのが楽だからなあ。</div><div><br></div><div>もちろん一番はどんな環境を選択するか。あてがない。生き抜くことへの不安がある。でも覚悟があれば、きっと何とかなるんだとも思う。覚悟は大きくなってきているがまだ弱い。</div><div><br></div><div>どうすればいいのだろう...。</div>
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<link>https://ameblo.jp/wcf19910326/entry-11981677722.html</link>
<pubDate>Mon, 26 Jan 2015 02:07:18 +0900</pubDate>
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<title>味わう感覚を広げていく</title>
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<![CDATA[ 舌に意識を集中させて味わうと、食事が全然違ったものになってくる。そういう食べ方だと、まずいものを食べると気分が悪くなってくる。おいしいものは、そういう食べ方をしないで食べることをもったいなく感じる。<br><br>あんまり良いものを食べず、それゆえに舌の感覚を麻痺させるあるいは意識を向けないでいる、というのは何だか危険なことだなあと思った。最近たまに「味わう」ということを考えるけど、今日は特によく考えた。<br><br>歩いたり、直立したりしてみた。自分の体の重みを、味わう、のと同じように感じ取ってみる。ボディワークの基本中の基本なのだろうけど、改めてやってみると今までちゃんとできていなかったなあと思う。日々の所作を丁寧にやることが感覚を研ぎ澄ます修行になるなあと改めて感じた。<br><br>そのままスワイショウをした。最近、下半身の力を抜いてスワイショウをすることを意識していた。立つことで自分の足の裏にかかっている重力を感じて、その力を体に流すようなイメージで、その力を使って腕を振るイメージでスワイショウをやってみた。<br>バランスを取るのに神経を使ったけど、下半身の力を前よりうまく抜けた気がする。20分くらいやって良い感じにリラックスできたので横になった。<br><br>何だかみぞおちが気になってきたので触ってみた。みぞおちのマッサージで緊張取る、ということを以前教えてもらったことが思い出された。マッサージしていると、対人関係で凍りつくように緊張してしまった感覚が蘇ってきた。胸を手で押さえた。これ続けたら何か変わるかもと思ったので、これから思いだした時みぞおちのマッサージをしてみようかな。<br><br>マッサージしながらぼーっとしていると、急に自分が高い学習能力を発揮していることを想起した。そういう時に共通して使っている意識というか感覚というか、そういうのがあるなあと思った。その何かに意識を集中したら、自分のエゴ、批判や自慢などしたくなった時に湧いてくるカーッと熱い情動に繋がっていると感じた。<br><br>朝食で舌に意識を集中させる、というところから始まって色々な気付きがあった。これがセンサリーアウェアネスってやつかな。<br><br>それにしても平日にこんなことしてられるの、今だけだなあ。<br><br><br><br><br><br>
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<pubDate>Tue, 20 Jan 2015 13:18:17 +0900</pubDate>
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<title>純粋な興味</title>
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<![CDATA[ 知らないと恥ずかしい、が動機だと本を読むことが苦しい行為になっていく。あれも知らなきゃ、これも勉強しなきゃ、でも全然読み進められていない、みたいなのに取り憑かれる。<br><br>良い読書、良い勉強ができた時は自分の純粋な興味に従えている時だなあと思う。知らないと恥ずかしい、に取り憑かれると純粋な興味を見失ってしまう。<br><br>今日は、知らないと恥ずかしい、の強迫観念が強かった。だから思い切って逆らい、半日何もしないでいた。そのまま昼寝して目覚めた直後、純粋な興味、が湧いてきた。その、純粋な興味、は実はここ数日想起され続けていたけど見逃していた。<br><br>自覚した純粋な興味に従って本を読んでみたら、発見があった。30分くらいで、知らないと恥ずかしいに従った勉強を何時間もするより良い発見があったかもしれない。<br><br>純 粋な興味もしくは必要性のある勉強をして、知らないと恥ずかしいによる勉強をなくしていければなあと思う。でも、知らないと恥ずかしい、のおかげで蓄積さ れたものもある。どう考えればいいのだろう。知らないと恥ずかしい、に気付けなかったということは、そういう勉強も必要だったということかもしれない。そ して今は自覚が高まったという点で、必要なくなってきているのかもしれない。
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<pubDate>Fri, 16 Jan 2015 23:32:24 +0900</pubDate>
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<title>何もしない</title>
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<![CDATA[ 何もしない、って大切だなと思った。怠けて「何もしない」という意味ではない。過剰なものを削ぎ落とすという意味での「何もしない」。エゴに取り憑かれてする行動をしない、あるいは、自分を誤魔化すための行動をしない。<br><br>例えば、余計なお世話。自分のエゴに気付かずするゆえに、余計なお世話。人に何かしてあげたい、アドバイスしてあげたい、と思ったらグッと堪えて感覚を研ぎ澄ませる。それは必要か。<br><br>あるいは、努力。他人の目を基準とした、自分ではないものになるための、努力。無理をする、ということ。あれをしなきゃ、こうなりたい、と思ったら立ち止まって考える。それは必要か。<br><br>社会を、人を、自分を深く細かく感じ取っていくと、削ぎ落とすべき過剰な自分が見えてくる。<br>いかに自分が余計なことをしているか。<br>無意識のうちに、知らず知らずのうちに、エゴに取り憑かれる。<br><br>一番強く握っているものほど、実は手放した方がいいかもしれない。勇気を出して一番大切な何かを疑ってみること。必要ないならやらない。必要なら過剰にならないようにやる。その繰り返しで先に進めるのかなと思った。<br><br>何もせず、必要なものだけ浮き彫りにする。浮き彫りになったものが必要か確認しながらやってみる。瞬間瞬間にそうありたい。<br>
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<pubDate>Tue, 13 Jan 2015 23:29:24 +0900</pubDate>
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<title>これしかない</title>
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<![CDATA[ 昨日の夜帰り道を歩いていると、しょせん自分は、大きな世界や長い歴史から見ればちっぽけな存在に過ぎないのだから生きてても仕方ないのではないか、という感覚が湧いてきた。<br><br>そう思うのは、ポジティブな時もネガティブな時もあるにしろ、いつものことだった。でも昨日はそこからもう少し展開された。<br><br>生きてても仕方ないという感覚はあれど、死のうとも本当には思わない。生きていることを選択している。これが生かされているということか。どうせちっぽけな存在としてだろうと生かされているのなら、「これしかない」という生き方がしたい。<br><br>じゃあ生きている中で「これしかない」という感覚が果たして存在するのか。そういう生き方をしているように見える人もいるけど、そういう人でさえ突き詰めに突き詰めて考えても「これしかない」と確信できるのか。「これしかない」という生き方は存在しないのではないか。<br><br>いやでも、逆に全ての人が「これしかない」という生き方をしているようにも思える。生きている中では膨大な選択肢が存在する。今の自分だって大学 院を辞めることも、いきなりどこか遠いところで生きていくことも、死ぬことも、できる。無限の選択肢のなかで今の選択をしているということは、「これしか ない」という生き方なのではないか。<br><br>そう仮定すると、全ての人間が「これしかない」を生かされているのだから、あとはそのことを自覚するか否か、なのかもしれない。<br>じゃあ今度は「これしかない」を自覚したとして、どうなるのか。生かされていることへの感謝の気持ちが湧いてくるのか。本当の意味で自覚できたらそうなのかもしれない。それを例えば拷問されている時に可能なのか。<br><br>いずれにせよ、ある日突然運命に導かれた最高の生き方ができる、ということは幻想なのだと思う。というより、常に誰もが「運命に導かれた最高の生き方」、要するに「これしかない」を生かされている。<br><br>だから迷いだらけの今でも「これしかない」と思って迷えればと思う。
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<link>https://ameblo.jp/wcf19910326/entry-11979271775.html</link>
<pubDate>Mon, 29 Dec 2014 23:28:02 +0900</pubDate>
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<title>着実にできること</title>
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<![CDATA[ 大学の後輩が卒論提出間近なのに何もやっていない状態で、それなのに時間的にも能力的にも明らかにできなさそうなことをやろうとしていた。<br><br>想像でしかないがおそらく次のような心理状態なのかなあと予想した、自分がいた。<br><br>その子はやりたいことがわからない状態を恐れている。だから何かしら世間体の良い「やりたいこと」に飛びつく。しかし実際には「やりたいこと」ではなく、「やりたいと思い込んでいること」なのでそれほどやる気が湧いてこない。<br>さらに承認欲求が強く、自分に高いハードルを設定しているためか、レベルが低くとも着実にやれることへ目がいかない。いきなりすごいことをやろうとするが、そんなことはできないので結局何もしないでいる。<br>そして何もしない自分に自己嫌悪がつのり締め切りも近づいていく...。苦しいが、苦しさを脱するには自分の状態を素直に認める必要がある。それができないので、自分を褒めてくれる人のところに行って承認欲求を満たし、現実逃避する。<br><br>後輩はこういう状態にあると思ったが、これは自分のことだと思い直した。他人に対しての想像は結局は自己の投影に過ぎない場合が多いってやつなのかなあと。<br>自分のことだと書いたが、正確にいうと少し前自分のことになる。しかし、今の自分も前ほどひどくはないが似たようなことで苦しんでいた。そのことに気付き、少し肩の力が抜けた。<br><br>後輩もそのような状態にあるかはわからないが、当たらずとも遠からずな気がする。後輩にしてあげられることは何があるか。いちおう後輩が現実的にできるであろうことだけ文章でアドバイスしたがこれでよかったのか。<br><br>とりあえず自分は、欲張るのでもなく、怠けるのでもなく、今着実にできることをやろうと思った。
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<link>https://ameblo.jp/wcf19910326/entry-11979269255.html</link>
<pubDate>Sat, 06 Dec 2014 23:22:45 +0900</pubDate>
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<title>継続的なプロセス</title>
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<![CDATA[ 今読んでいる本に書いてあった「悟りとは継続的なプロセスである」という言葉が印象に残っている。最近、平常心(もしくは安らぎ)を保ち続けることの厳しさを実感していることが関係しているように思う。<br><br>今にはじまったことではないけど、自分は胸のあたりが冷たくなるか、熱くなるかで平常心が乱される。<br>冷たさは、億劫さ・対人恐怖・不安・焦燥感といったものに変化する。<br>熱さは、傲慢さ・批判精神・視野の狭さ・承認欲求といったものに変化する。<br><br>こ の冷たさと熱さが苦しみの感情に変化しないよう折り合いをつけ続けないと平常心を保てない。折り合いをつけるとは、冷たさ・熱さをないことにして無視する のでもなく(解離)、心身を浸し切ってしまうのでもなく(同一化)、ありのままを見つめながらすることをする(脱同一化)という基本を守ることによる。<br><br>そしてそれは「継続的なプロセス」で、瞬間瞬間で脱同一化し続けないといけない。ひとたび脱同一化しても、すぐ次に進まないといけない。<br><br>今日は心配事が4つくらいあり、かなり憂鬱だった。うまくいったこともそうでなかったこともあったけど、1日終えられて一安心できた。ただ、その安心にかまけてないで次に進まないとまた乱れていく。人生って厳しいなあと思う。<br><br>今も冷たさ・熱さが少し残っている。それでも1日無事に終えられて良かったと思える帰り道がありがたい。
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<link>https://ameblo.jp/wcf19910326/entry-11979268227.html</link>
<pubDate>Thu, 27 Nov 2014 23:19:25 +0900</pubDate>
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