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<title>波乱万丈人生、行き当たりばったり</title>
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<description>人生を振り返って・・・そして今を綴った日記</description>
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<title>点滴による医療ミス？</title>
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<![CDATA[ <p>診断書を持ち帰った私は、家から近い診療所で点滴治療を受けることになった。</p><p>通院生活そのものは何も変わらず、学校が終わった後週に３回は通院生活だった。</p><br><p>今でも鮮明に覚えているピンク色の点滴。</p><p>名古屋の病院とはちょっと違ってとても鮮やかだった。</p><br><p>３ヵ月後、名古屋の病院でこの点滴が偽装のものだと判る。</p><p>聴力の低下が進行していたのである。。。</p><br><p>このときに、初めて補聴器を勧められるが、私は補聴器がかっこわるいと見た目を気にしていたので頑固拒否＞＜</p>
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<pubDate>Sat, 31 Mar 2007 09:06:30 +0900</pubDate>
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<title>ママのおばさまの死</title>
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<![CDATA[ <p>私が名古屋の小学校に通っていた夏、入院してるおばさまの病院へお見舞いに自転車で叔母と従妹と一緒に行くことが何度もあった。</p><p>おばさまの死は突然で、ちょうど、私が小学校の泊まり課外学習から帰って来た時に知らされた。</p><p>老衰だったけれど、病院の入院生活も長かった・・・と思う。</p><br><p>葬儀で名古屋に来ていたママは、学校まで迎えに来ていた。</p><p>ママの姿を見つけた私は、この日をきっかけに母親の恋しさに毎晩枕を涙で濡らす。</p><br><p>叔母やいとことの生活が決して辛いものであったわけじゃない。</p><p>子供心っていうのでしょうか・・・？</p><p>どんなに虐待を受けていてもやっぱり母親というのは一人なのでしょうか？</p><br><p>私は、もちろんドクターの許可があってのことではあったが、点滴による治療は継続しなければならなく診断書を持って、1年の名古屋での通院生活に幕を閉じた。</p><p>おばさまの葬儀から数ヵ月後、転校して１年後のことである。</p><br><p>当時の担任の先生は、叔母に名古屋に残るように一生懸命言ってくれていたそうだ。</p><p>今にして思えば、このとき名古屋でずっと育っていればまた違った道を歩いていたのだろう。。と思う。</p>
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<pubDate>Fri, 30 Mar 2007 08:32:06 +0900</pubDate>
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<title>転校した小学校での出会い</title>
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<![CDATA[ <p>病名が判明した後、手遅れ状態が判りこのまま放置すれば全く聞こえなくなるのも時間の問題。。。</p><br><p>進行を止めるべくドクターの進めで名古屋の小学校へ転校し治療通院に週３回行く事になる。</p><br><br><p>当時の私にとっては、ママからの暴力から開放されるという環境が一番嬉しかった。</p><p>この暴力から逃げられる。。。それだけしか頭になかった私。</p><br><p>転校した学校では友だちや先生に恵まれ、聞こえないという事を伝えてもありのままに接してもらっていた。</p><p>これが当たり前のコトなのかもしれないが・・・。</p><br><p>一番嫌いだったのはやはり音楽の時間。</p><p>当時の担任は音楽バカで朝から帰りまでギターを鳴らし音楽に熱をあげていた。</p><p>聞こえない＝音楽が聴けない楽しめないという固定観念が外れたのはこの頃。</p><br><p>肌で音楽を楽しむということを覚えた。</p><p>私に音楽の素晴らしさ・楽しさを教えてくれた恩師である。</p><br><p>学校が終わった後は、週３回は病院へ自転車で10分かけて通院。</p><p>それ以外は、友だちと同じようにそろばんへ通ったり遊んだり普通に暮らしていた。</p>
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<pubDate>Thu, 29 Mar 2007 09:45:12 +0900</pubDate>
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<title>突発性難聴という病名がついた</title>
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<![CDATA[ <p>両親が離婚した直後から耳が聞こえてないんじゃないか・・・</p><p>そういわれ始めると同時に変わっている子の代名詞がついた私。</p><br><br><p>子供っていうのは純粋な素直さがあり、呼べば返事をするのに私は聞こえないからその行動がない。</p><p>それを人は、変わっている子としか言わない(｡-∀-) </p><br><br><p>日本の世の中は、五体満足でないと変わっているという言葉が出る。</p><p>人と外れたことを繰り返すと変わっていると言われる。</p><p> </p><p>当時の私はその枠に当てはまる『変わっている子供』であったのだろう。</p><br><br><p>市民病院、日赤病院、大学病院・・・いやというほど病院を連れまわされ部屋に閉じ込められ検査を幾度となく受けてきた。</p><p>それでも、病名が付くことはなかなかなかった。</p><p>判っていたのは、普通より聞こえていないという事だけである。</p><br><p>そんな折、名古屋の病院に有名なドクターがおられそのドクターにかかることにした。</p><p>そして、ついた病名が突発性難聴。それも進行性。</p><p>治療法はなく、進行を止めるだけしかならないといわれ手遅れの状態で受診をしていた私。</p><br><p>当時、ママとその病院に連れて行ってくれた叔母は散々ドクターに怒られたという事を後に聞かされた。</p><br><p>またこのとき、私の人生が変わったのは後に知る。</p><br><br>
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<pubDate>Wed, 28 Mar 2007 09:28:41 +0900</pubDate>
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<title>ママの行動</title>
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<![CDATA[ <p>パパと離婚してから、ママは働きに出始めた。</p><br><p>が・・・・、毎夜毎夜パパの住居を捜し求め私と弟をほったらかし状態。</p><p>夜中に帰ってくることもしばしば、むしろそれが当たり前だった気がする。</p><br><p>１年近く続いたパパ捜し。。。</p><p>私と弟は、ママの姉である叔母のところに預けられたり、時には２人でコタツで寝てママを待つという日々。</p><p>その中でも、家の事（洗濯の取り込みや食事の片付けｅｔｃ）が出来ていないと帰って来たママに殴られる私。</p><br><p>そして、落ち着いたかと思えば今度は仕事をサボってまでパチンコに入り浸る生活が始まった。</p><p>子供の頃の記憶といえば・・・ママはパチンコに行っているかパパを探しに行っている記憶しかない。</p>
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<pubDate>Tue, 27 Mar 2007 16:43:28 +0900</pubDate>
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<title>口答えという自己防衛</title>
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<![CDATA[ <p>小学校４年生といえばクラブとは別の放課後に行われるスポーツ少年団があった。</p><p>バレーに興味を持っていた私はそのスポーツが凄くやりたくておねだりしてみたけれど、即却下。</p><br><p>欲しいというものややりたいという事はこのときからママの顔色を窺うしかなかった。</p><br><p>というのは、下手すると殴られたり蹴られたりの繰り返しだからだ。</p><p>この時期の子供っていうのは世間一般に反抗期でもあるのだろうか？</p><br><p>私は女の子であっただけに口答えが半端なかった。</p><p>押さないながらも自分を守る手段だったけれど、周囲の大人からは可愛くない憎たらしい子の定着。</p><br><p>それでも、私は口答えを止めなかった。</p><p>今思えばホントにかわいくない子供だったんだろうな（笑）</p>
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<pubDate>Mon, 26 Mar 2007 16:31:13 +0900</pubDate>
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<title>今でいう虐待･･･</title>
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<![CDATA[ <p>私は、、弟と２人きょうだい。</p><p>離婚する前まで、パパが私をママが弟を・・・といった可愛がり方をしていた。</p><p>世間一般にありがちな可愛がり方でもあるんだろうが、私の両親は特別だったと今になって思う。</p><br><br><p>両親が離婚して間もなくママが働き始めた。</p><p>結婚してから専業主婦としていたママ。。。。。</p><br><p>それまで働いていたとはいえ、急に変わる生活についていけなかったのもあったんだろう。</p><p>パパの浮気が原因で離婚したことで、その憎しみや苛立ちを娘である私にぶつけるようになった。</p><br><p>ママが働いているので・・・・じゃなく、家族は差さえあって生活をするんだよと叔母に教えられてきた。</p><p>パパがいなくなってもいてもこれは言えたことなんじゃないか？と思うがそれはもう過ぎ去ったこと。</p><br><p>支えあうという言葉の意味をよくわからなかった小学校三年生の私。</p><p>叔母から色々教えられ自分に出来ることを一生懸命やってきた。</p><p>洗濯の取り入れ、洗濯たたみ、布団敷き、お茶碗洗い、お米研ぎ、お風呂洗い・・・・etc</p><br><p>それでも、ママから言われてきた言葉というのは『やって当たり前』で『ありがとう』という言葉は一度も言われたことがなく、一つでも出来ていないとバッドでスリッパで・・・ありとあらゆるモノで殴られてきた。</p><p>時には痣になることもあった。。真っ赤に腫れ上がることもあった。</p><br><p>ただ・・・このお手伝いをやるのは私だけ。</p><p>弟はやらなくても怒られることは一切なかった。</p><br><p>そして、ママのの感情で吐き出す場所がないと私に全てをぶつけるといった繰り返しだった。</p><br><p><font color="#ff0000"><strong>『オマエはお父さんに似ているから腹が立つ』</strong></font></p><p><font color="#ff0000"><strong>『殴られるのがいやならお父さんのところへいけばいい』</strong></font></p><br><p>この言葉を何度耳にしたか数え切れない。。。（苦笑）</p>
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<pubDate>Sun, 25 Mar 2007 12:48:39 +0900</pubDate>
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<title>両親の離婚　</title>
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<![CDATA[ <p>小学校３年生。当時10歳。</p><p>このときに、両親が離婚する。</p><br><p>原因はパパの浮気だと聞かされている・・・が、真相は不明だと私は思っている。</p><br><p>今、世の中に離婚が当たり前になっている中で当時は離婚が世間に冷たい風あたりがあった。</p><p>それでイジメに遭ったこともある。。。</p><br><p>そして、この頃に耳が聞こえていないということが判明。</p><p>パパが大好きでパパっ子だった私は、この離婚が相当なショックを受けたのじゃないか・・と言われていた。</p><p>何度も病院をハシゴしたあげく付いた病名は、突発性難聴。（当時、小学校５年生だった）</p><br><p>この聞こえない事でも今じゃ禁止になっている『ツンボ』とはやし立てられながらイジメに遭った。</p><br><p>よく、イジメられる方にも原因があるっていうけれど聞こえないのも両親が離婚したのも私のせいじゃない。</p><p>それを原因にしてイジメる人間の性根が腐っているんだ・・・と私は思っている。</p><p>たいていそういう人間は集団攻撃という形でしか攻撃してこれないタイプばかり。</p><br><p>どこまで人間腐ってんだか・・・とよく思ったものである。</p><br><p>離婚という言葉を理解した頃、パパの姿が脳裏に何度か浮かぶのは叔母の家に離婚届を取りに来たパパの姿を見たのが最後。</p><p>それから、何度かは会ったけれど周囲の大人のけん制で１０年近くパパの姿を見ることも会うこともなかった。</p><p>そして、家を出る前夜にパパからママとパパのどちらにくるか聞かれたのが最後のパパとの会話だった気がする。</p><br><p>この前夜にママは呼びに来たときに『パパのところへ行っちゃダメだよ？』と泣きながら言っていたので子ども心に何か悪いことがあるんだとビクビクしながら『ママのところにいる』と答えたのも鮮明に記憶に未だに残っている。。。。</p>
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<pubDate>Sat, 24 Mar 2007 23:39:30 +0900</pubDate>
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<title>生まれてから･･･</title>
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<![CDATA[ <p>愛知県名古屋市のとある病院で誕生。</p><p>小さな頃の記憶は、叔母の旦那様であるおじさんに付いて滋賀よりも名古屋へ一人ででも遊びに行っていた。</p><br><p>微かにだけれどトラックの中で歌を歌いながら、ずーっとおしゃべりをしながら名古屋へ向かっていた記憶が私の中にも残っている。</p><br><p>28歳になった今、実家のある滋賀よりも名古屋に行きたい思いはこの頃からあったのかもしれないと自分で思う。</p><p>住み慣れた滋賀の町が恋しくなることもこの先あるかもしれない。</p><br><p>それは・・・私の故郷になるのであろう。</p>
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<link>https://ameblo.jp/weedsmie1978/entry-10028785221.html</link>
<pubDate>Fri, 23 Mar 2007 23:47:44 +0900</pubDate>
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