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<title>如是我聞</title>
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<description>法華経という佛のもの語りを、自身のもの語りとして語り継ぐ</description>
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<title>日寛上人が説いていないこと;折伏の行軌</title>
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<![CDATA[ <p>昔、カルト・顕正会では「日寛上人の前に日寛上人なく、日寛上人の後に日寛上人なし」と息巻いて会長・浅井昭衛の『六巻抄』解釈を絶対視していたが、今、日蓮正宗の一信徒となって冷静に考えると、日寛上人が説いていない教義が一つあるじゃないか、と私は気づいた。</p><p>&nbsp;</p><p>それは<span style="font-weight:bold;">「折伏・布教の行軌」</span>だ。開目抄文段などに「末法は折伏を正規とする」ということは説かれているが、「どのように折伏を実践するか」つまり、心がまえや規範ということまでは説いておられない。</p><p>&nbsp;</p><p>ご住職に確認した際、言われていたが、江戸時代は折伏自体がご法度であったので、積極的に「折伏の行軌」を説くことはできなかった、と。</p><p>&nbsp;</p><p>思うのは、顕正会員に限らず、一部の創価学会員、一部の法華講員がインターネット上で相手をボロクソに貶めているのは、慈悲ゆえの行為ではなく、「理性の暴走」のゆえということだ。Twitterの言論空間でなすべきことではない。日寛上人をはじめとする先師方が何も説いていないのをいいことに、やりたい放題。</p><p>&nbsp;</p><p>相手をボロクソに貶める行為は慈悲から起きる「而強毒之」では無く、単なる「悪口中傷」に過ぎない。付言していうならば、それは「理性の暴走」から起きている。息の長い信心をまっとうするには「理性の限界」を知らなければならない。</p>
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<link>https://ameblo.jp/wokashic/entry-12712739077.html</link>
<pubDate>Sun, 28 Nov 2021 14:41:50 +0900</pubDate>
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<title>信徒の個人的な「神話」を否定して、洗脳を解くことができるのか？</title>
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<![CDATA[ <p>私はカルトに所属していた頃、十界曼荼羅本尊の絶対性を直観的に理解した「感見」の体験がある。</p><p>&nbsp;</p><p>私は高校を卒業後、顕正会という教団との関係で、10年間ほど東京に一人暮らししていたことがある。ある朝、いつものように東京の会館の礼拝室で「観心本尊抄の極理を会得・証得なさしめたまえ」と唱題祈念していると、仏壇の中の御本尊が、まるで異世界に存在しているような不思議な感覚が「始まった」のである。</p><p>&nbsp;</p><p>私自身も、意識はハッキリしているのだが、そういえば周囲の人間の記憶がまったくない。なんだか異世界に取り残されているかのような感覚が記憶の彼方に残っている。</p><p>&nbsp;</p><p>しばらくして、仏壇の中の御本尊が片開きのドアのように開いて、中からビジュアルの太陽が現れた。私自身は、この驚くべき神秘体験に、なんら身じろぐこともなくお題目を唱え続けていた。私がその場を去るまでビジュアルの太陽は、仏壇の中にとどまっていた。</p><p>&nbsp;</p><p>今、日蓮正宗の信徒として一つの寺院に所属している身ではあるが、この「感見」の経験による神秘的な信条、つまり御本尊が宗祖大聖人のご当体であるという感覚、そして宗祖大聖人が久遠の往古から本仏であったという感覚は、破れることなく私の胸に息づいている。</p><p>&nbsp;</p><p>菩提寺のご住職にこの体験を話したところ、一定の許容・理解を示された。一般的には<strong>日蓮正宗では、宗外での宗教的な体験を一切許容せず、当人にとってどんな有意義な体験であっても、「魔がなさしめたこと、魔の力によるものである」として否定してしまう。しかし、ご住職は一定度の理解を示してくださったのである。</strong></p><p>&nbsp;</p><p>もし、<strong>個人の人生において重要な「神話」を一切許容せず、代わりに教団の「フィクション」によって信徒を拘束するのであれば、カルトによってぜい弱になった自我を回復し、洗脳を解くことなどできないのではないだろうか。</strong>個人的にはご住職の姿勢に、安堵せざるを得なかった。</p>
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<link>https://ameblo.jp/wokashic/entry-12712738561.html</link>
<pubDate>Sun, 28 Nov 2021 14:37:58 +0900</pubDate>
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<title>「フィクション」であればこそ、語り得る宗教的権威が発生する。</title>
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<![CDATA[ <p>このブログは、もともとTwitterの議論を論理学的に検証・採点して、水掛け論を抑制することがひとつの目的だったが、検証・採点しようにも「議論観察」のステップで、すでにウンザリ…。 言葉がかみ合ってすらいない。&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>一例を挙げると、創価学会員が「フィクション」だと思っている、日蓮正宗信徒の教義・信条を、創価学会員が「それはフィクションである！」と言って攻撃するのだが、すでに議論が成立していない。単なる感情的な言葉のやり取りに堕している。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>「フィクション」であればこそ、語り得る宗教的権威が発生する。「フィクション」でないものを語っても、宗教的権威は発生しない。</strong>実証史学、つまりリアルな歴史上の「ノンフィクション」を語ったとしても、それは実証史学の問題であって、宗教の問題ではない。</p><p>&nbsp;</p><p>相手の「フィクションの真偽」について論じるのであれば、<strong>双方が納得できる、教義・信条の共通の大前提からたどっていって、論理が途中で成り立たなくなっていること</strong>を示さなければ、「フィクションについての宗教的議論」は成り立たない。</p><p>&nbsp;</p><p>たとえば「血脈相承」について議論するのであれば、「人間から人間に仏教的な悟覚を授受する儀式など経験科学的にみて根拠がない。したがって血脈相承などは存在しない」という「経験科学を前提にした」議論は成り立たない。&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>宗教的な議論で「血脈相承」をテーマにしたいのであれば、「宗教上の相伝の儀式」を、三証(理証・文証・現証)をもとにディスカッションしなければならないのである。</p>
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<link>https://ameblo.jp/wokashic/entry-12712738114.html</link>
<pubDate>Sun, 28 Nov 2021 14:34:59 +0900</pubDate>
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<title>末代の凡夫出生して法華経を信ずるは...</title>
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<![CDATA[ <p>宗祖日蓮大聖人の「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具するがゆへなり」(『観心本尊抄』)というご指南を考えたとき、「法華経は、せいぎ！」とか「御本尊様は絶対！」とかいうような、<span style="font-weight:bold;">自己暗示を心の中で反復しながら唱えるお題目</span>というものは、「法華経を信ずる、仏界の心」に当たるのだろうか？ありていに言ってしまえば<span style="font-weight:bold;">「崩れない信仰心がほしい！」という祈り</span>の前に、<a data-id="http://www.dainichiren.com/index.php?id=25" data-type="URL" href="http://www.dainichiren.com/index.php?id=25">法華経の譬喩についての絵本</a>でも読むべきなのではないか。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-weight:bold;">崩れない正しさを持つのはあくまでも法華経の側であって、法華経と同一化した自分自身ではない。</span>御宝前を離れている自分自身は、崩れない正しさというものを「分に応じて」身に帯びていたとしても、その正しさというものはあくまでも「分に応じて」であって、同一化した法華経と同じレベルではないのである。</p><p>&nbsp;</p><p>つまり、本当に仏界をめざすのなら、単にお題目を唱えるトレーニングだけではなく、法華経についての説法を聴聞し、法華経に始まり・自分自身の命に至るまでの「導線」を引っ張った方がよいということだ。</p><p>&nbsp;</p><p>絶対に揺るがない信仰心を、ダイレクトに「ほけきょうは、せいぎ！」「御本尊様は絶対！」と祈り・願うことが絶対信を築くのではなく、法華経を信ずる心が満ち満ちて自分の人生のおおきな潮目となったとき「ふと気づいたら」、結果として絶対信に立っているのである。</p>
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<link>https://ameblo.jp/wokashic/entry-12712737330.html</link>
<pubDate>Sun, 28 Nov 2021 14:29:28 +0900</pubDate>
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<title>ほけきょうはせいぎ？</title>
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<![CDATA[ <p>この記事で採り上げたい件は「法華経最為第一」とかそういった主張と直接は関係ない。簡単に言ってしまえば、<span style="font-weight:bold;">お題目を唱える修行は精神をぜい弱にする危険性がある</span>という話だ。</p><p>&nbsp;</p><p>お題目、つまり「ナンミョウホウレンゲキョウ」または「ナムミョウホウレンゲキョウ」と唱える修行は、日蓮系・法華系の宗派・教団ではごく当たり前の、日常茶飯の光景である。</p><p>&nbsp;</p><p>これらの宗派・教団では、入信当初こそ<span style="font-weight:bold;">自分の願望を祈ること</span>が推奨されるが、やがて布教活動に従事したり、人生の岐路に立つというような信心が試される場面において、<span style="font-weight:bold;">本尊への絶対信が強調されるシーン</span>になると「御本尊様は大地が反覆したとしても絶対なんだ」というようなフレーズを自己暗示として頭の中・心の中で反復し、<span style="font-weight:bold;">たとえば巨大小天体との衝突によって「地球が壊れる」という、絶望的なその光景を思い浮かべながら、御本尊への自分自身の信仰を強化していくような精神のトレーニング</span>が求められるようになる。</p><p>&nbsp;</p><p>ただ、上記のように、題目を唱えながら、自己暗示としての「御本尊は絶対なんだ」という信仰を反復することは、自我のぜい弱さをもたらす危険性がある。</p><p>&nbsp;</p><p>私は、カルトに所属していた20代後半、昼夜を問わず、自己暗示として「御本尊は絶対なんだ！日蓮大聖人は絶対なんだ！」という言葉を、「絶望的な光景」とともに頭の中で反復し続けたことがある。</p><p>&nbsp;</p><p>その結果、当時の信心の後輩が「ひどいじゃないですか！」と泣き叫ぶ、視覚的・聴覚的なイメージが頭の中で次々と湧いてくるという異常な事態になってしまったことがあった。</p><p>&nbsp;</p><p>最近は、「妙法蓮華経は絶対なんだ」という意味で、「ナンミョウホウレンゲキョウ」、つまり「お題目」を一日あたり、少なくとも３０分は唱えているが、お題目を唱える際、発声障害が生じるので、メトロノームを使わないと苦しくてならない。</p><p>&nbsp;</p><p>SNS上にも、「◯◯◯は絶対なんだ！◯◯◯は絶対なんだ！」と叫びながらくる日もくる日も言論闘争を続ける、日蓮系宗派・教団のメンバーが存在するが、</p><p>脅迫的な「ほけきょうは、せいぎ！」という催眠暗示を、自分自身に反復し、言い聞かせる、そんなお題目は、しょせんは一生成仏すらも確信できない、虚しいものなのではないだろうか。</p>
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<link>https://ameblo.jp/wokashic/entry-12712736760.html</link>
<pubDate>Sun, 28 Nov 2021 14:25:09 +0900</pubDate>
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<title>第三 対話を成立させる基盤(『ミリンダ王の問い』(漢名『那先比丘経』)より)</title>
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<![CDATA[ <p>王は問う、</p><p>｢尊者ナーガセーナよ、わたしとともに＜もう少し深く＞対論しましょう｣と。</p><p><br>ナーガセーナは答える。</p><p>「王よ、もしあなたが＜智者の作法＞を以て対論なさるのならば、わたしはあなたと対論させていただきたく存じます。しかし＜国王というものは＞多くの場合、＜王者の作法＞を以て対論するのです。わたしはあなたと対論しないでしょう」と。</p><p>&nbsp;</p><p>(投稿者注記:『那先比丘経』原文<br>「もし王にして＜智者の問い＞をなさば、能く王に相い答えん。されど＜王者の問い＞・＜愚者の問い＞をなさば、能く相い答えず」)</p><p>&nbsp;</p><p>王は問う、</p><p>「尊者ナーガセーナよ、＜智者の作法＞とは何でしょうか」と。<br>&nbsp;</p><p>ナーガセーナは答える。</p><p>「王よ、対論においては、悟りにいたる障碍を除き、つかみどころのない法義についてきちんと説明し、あるいは互いに不明瞭である部分を不明瞭であると認め、互いの法義への理解を深めるために訂正・修正がなされ、法義の大意をつかみ、またときには法義の細部について語られることとなりますが、＜智者の作法＞を以てする対論において智者は決して怒ることがありません。王よ、＜智者の作法＞とは実にこのようなものなのです」と。</p><p>&nbsp;</p><p>(投稿者注記:『那先比丘経』原文<br>「＜智者の語＞とは、対して相い詰し、相い上語し、相い下語し、語に勝負あらば、すなわち自ら(問答・対決の)勝敗を知る。これを＜智者の語＞となす」)</p><p>&nbsp;</p><p>王は問う、</p><p>「尊者よ、それでは＜王者の作法＞とは何でしょうか」と。<br>&nbsp;</p><p>ナーガセーナは答える、</p><p>「実に、多くの国王というものは対論において、一つの結論のみを主張し、もし相手がその結論にしたがわないときは『この者に処分を加えよ』と命じ、対論の相手に対して処罰を命令するのです。王よ、＜王者の作法＞とは実にこのように、対論の基盤そのものをひっくり返してしまうのです」と。</p><p>&nbsp;</p><p>(投稿者注記:『那先比丘経』原文<br>「＜王者の語＞とは、自ら放恣にして、敢えて違い戻ることあり、王の言のごとくならざる者は、王すなわち強いてこれを誅罰す。これを＜王者の語＞となす。＜愚者の語＞とは、語・長くなるとも、自ら(その意を)知ること能わず、語・短くなるとも自ら知ること能わず、龍悷自ら用いて勝を得るのみ。これを＜愚者の語＞となす」)</p><p>&nbsp;</p><p>王は意を決し、</p><p>「尊者ナーガセーナよ、わたしは国王という立場ではなく、智慧の明朗さを希む者として対論しましょう。決して＜王者の作法＞を以てはいたしません。尊者よ、わたしの対論の目的は、一つの結論に拘泥することではなく、あなたを処罰にかけることでもありません。尊者が、比丘や沙弥と、あるいは在家の信徒と、あるいは在家の寺男と対論なさるようにしていただきたい」と。</p><p>&nbsp;</p><p>ナーガセーナはミリンダ王の決意に応じて言われた。「王よ、いいでしょう。これで対論の準備が整いました」と。</p><p>&nbsp;</p><p>王は言った。</p><p>「尊者ナーガセーナよ、わたしから質問しましょう」と。<br>&nbsp;</p><p>ナーガセーナは答えた。</p><p>「王よ、いいでしょう。ぜひ質問していただきたい」と。</p><p>&nbsp;</p><p>王は言った。</p><p>「尊者よ、すでにわたしからあなたに問いを投げたのですよ？」と。<br>&nbsp;</p><p>ナーガセーナも答えた。</p><p>「王よ、あなたはすでにわたしから答えを返されたのですよ？」と。</p><p>&nbsp;</p><p>王は言った。</p><p>「尊者よ、もしそうであるのなら、あなたは何をお答えになったのですか？」と。<br>&nbsp;</p><p>ナーガセーナも答えた。</p><p>「王よ、もし問いが立てられたというのなら、あなたは何を問われたのですか？」と。</p>
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<link>https://ameblo.jp/wokashic/entry-12712735244.html</link>
<pubDate>Sun, 28 Nov 2021 14:14:14 +0900</pubDate>
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