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<title>RZ250の走り</title>
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<description>あの伝説のRZ250三段シートを付けて　いかつくポーズRZ買取はバイク買取タコーズで決まりだ</description>
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<title>中沢</title>
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<![CDATA[ ばんばー中沢ですね エー蜂ネットは今後もつかえるかな？
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<pubDate>Sun, 05 Apr 2009 00:20:56 +0900</pubDate>
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<title>あめばの日</title>
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<![CDATA[ 隼買い取りバイク買い取りタコーズで
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<pubDate>Tue, 10 Feb 2009 22:59:48 +0900</pubDate>
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<title>ライブドア:バイク</title>
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<![CDATA[ ライブドアは関係ありません<br>--------------〓<br>機関等の初期の熱機関が発明され、それを当時の自転車を<br>ベースとする2輪車の形式に取り入れて、新しい移動手段を開<br>発しようとする試みがなされる様になった。 オートバイの原<br>型とされるものは、フランスのエンジニア・発明家のルイ-ギ<br>ヨーム・ペローが考案し、1868年に特許となった（当時の特許<br>期間は15年）。これは、蒸気機関エンジン搭載のオートバイで<br>あり、1873年のウィーン万博に出品された。内燃機関エンジン<br>搭載のオートバイの原型はダイムラー・モトーレン・ゲゼルシ<br>ャフト（現ダイムラー）社により、1885年に作られた。1903年<br>、現代のモペッドの原型となるオートバイをウイリアム・ハー<br>レーとアーサー・ダビッドソンが製造した（後にハーレーダビ<br>ッドソン社を創業）。第一次世界大戦中の進展を経て、1920年<br>代になると、現在のオートバイに似た一般的な構造が確立する<br>様になった。馬車よりも高機動・高性能であったオートバイは<br>社会に浸透し、その後第二次世界大戦において、側車を付けて<br>指揮官の移動手段としてや、偵察部隊などの機動部隊の装備と<br>して採用される事になる。<br><br>日本でははじめ、オートバイの利用は少なく、1910年頃に輸入<br>車が見られるようになった程度であった。従って国産化も遅れ<br>、1906年の島津楢蔵によるNS号が初の国産車であった。その後<br>、スミス・モーター、インデアン、ハーレーダビッドソン (ハ<br>ーレー)等の輸入が増え、1930年代には宮田製作所(現・宮田工<br>業)が「アサヒ号」を発売するなど、国産化も進んだ。輸入車<br>の中でも、ハーレーは三共によって陸王として国産化された。<br><br>第二次世界大戦終戦後工業に著しい打撃を受け、軍事産業が壊<br>滅した日本に於いては、それまで軍用機や軍用車を製造してい<br>た会社がこぞってオートバイを製造販売する様になった。特に<br>有名なのは、陸軍機で知られる中島飛行機を源流に持つ富士産<br>業(後の富士重工)のラビット、海軍機で知られる三菱を源流に<br>持つ中日本重工(財閥解体に伴う三菱重工の分社)のシルバーピ<br>ジョンというスクーターの両雄である。終戦直前には、陸王一<br>社のみがオートバイ製造を続けていた状態から、雨後の筍の様<br>にメーカが乱立したが、殆どのメーカが技術開発と市場競争で<br>遅れをとり次々脱落していった。中でも目黒製作所のメグロ、<br>東京発動機のトーハツは人気があり、メグロはメーカが倒れた<br>後もカワサキに技術が移転した。<br><br>現在でも続くメーカとしては、本田技研工業(ホンダ)が戦時中<br>汎用エンジンとして製造していたエンジンを自転車に取り付け<br>たのが同社に於ける最初のオートバイ事業であった事は有名な<br>話である（モペッド#日本における歴史参照）。このオートバ<br>イの系譜は長く、現在はカブの愛称で親しまれる。<br><br>日常の足として利用されてきたオートバイはやがて舞台をサー<br>キットに移し、レースに世界各国のオートバイメーカーが参加<br>した。精密加工を得意とする日本の企業は高回転高出力エンジ<br>ンである並列多気筒エンジンを搭載したオートバイで参戦した<br>。ホンダに続いて、ヤマハ、スズキ、カワサキもオートバイ製<br>造に参加し、各社切磋琢磨して年々高性能化、タイトルを日本<br>勢で塗りつぶし、市場における優位性を確保した。こうして日<br>本はオートバイ大国となる。<br><br>しかし、道路が舗装整備され、オート三輪を経て四輪自動車が<br>一般的な乗り物として普及すると、日本におけるオートバイ市<br>場は頭打ちとなり、カブのようなビジネスバイクを除いて趣味<br>の乗り物となり、オートバイの販売数は頭打ちになった。<br><br>1980年代前半になると、ヤマハが業界1位の座をホンダから奪<br>おうとして日本のみならずアメリカをも舞台にしてHY戦争（詳<br>細は項目参照）が起きた関係でラインナップが増えた裏でオー<br>トバイの価格が下落し、さらに1980年代後半からは好景気（バ<br>ブル景気）も重なり、90年代前半にかけて日本にバイクブーム<br>が訪れた。<br><br>しかしこの80年代バイクブームにより、暴走族（共同危険型、<br>違法競走型の別を問わず）が全国各地で増え、危険走行や爆音<br>、交通事故が社会問題となった。それによって三ない運動に代<br>表されるような「バイク＝危険な乗り物・暴走族」という反バ<br>イク感情が高まり、バブル景気が過ぎた後はより実用性を求め<br>る社会に移ったこともあって急速にバイクブームも終息に向か<br>っていく。<br><br>その後、90年代になると東南アジアを中心とする発展途上国の<br>市場が拡大し、オートバイメーカーの活路は日本よりも世界を<br>対象としたマーケットにシフトしていく。<br><br>しかし、高い機動性はビジネスバイクや郵便、飲食店の宅配バ<br>イクという形で戦後間もない頃から社会に親しまれ、現在はバ<br>イク便など高速輸送にも使われる。救急車よりもより早く緊急<br>現場に駆けつけることが出来ることから救急バイクなども存在<br>する。警察の交通機動隊が使用する白バイも、オートバイの高<br>い機動性を利用するものである。自衛隊では斥候や連絡のため<br>に250ccのオフロードバイクを運用している。<br><br><br>[編集] 呼称<br>オートバイは、日本では他にバイクや単車等とも呼ばれる。「<br>単車」は、側車とも呼ばれるサイドカーと区別するために用い<br>られた言葉だったが、サイドカーが希少なものとなった後も単<br>車という言葉は生き残っており、オートバイ全体を指す言葉と<br>なっている。<br><br>オートバイという呼称は1920年代には既に用いられていた（2008<br>年現在も出版されている月刊誌「オートバイ」は1923年創刊で<br>ある）。この言葉は米語 autobike から作られた和製英語であ<br>り、英語圏では通用しない。英語圏では、motorcycle,<br>motorbike, autobicycle <br>と呼ばれるほか、moto や cycle という略称も使われる。英語<br>では、一般に「バイク(bike)」というと自転車(bicycle)を意<br>味する(ただしmotorbikeの短縮としてbikeを自動二輪車という<br>意味で使用することもある)。<br><br>排気量が小さい(主に49ccから124cc程度まで)オートバイのこ<br>とを、警察関係や報道関係では「ミニバイク」と呼ぶことがあ<br>る。<br><br><br>[編集] 構造<br>駆動輪は、自動車では前輪駆動・後輪駆動・四輪駆動と分かれ<br>るが、オートバイにおける実用車のほとんどすべては、後輪駆<br>動である。歴史的事例では、キャブレターで有名なフランスの<br>ソレックス社のベロ・ソレックス（日本でもダイハツがライセ<br>ンス生産していた）が前輪駆動だった（後述のモペット同様の<br>自転車にエンジンを取り付けた構造で、前輪フォーク上部に50cc<br>エンジンを搭載していた）。また、星型5気筒エンジンを前輪<br>に搭載したメゴラというオートバイも存在した。実験的には、<br>前後二輪駆動の競技用オートバイが製造されたことがあるが、<br>極めて特異であった上に競技の公平性を失する可能性を秘めて<br>いたために、その後のレギュレーション改定で禁止されている<br>。また、通常のオートバイとは異なるが、自然公園のレンジャ<br>ーなどが足として使う特殊車両として、二輪駆動のオートバイ<br>が存在する[1]。<br><br> <br>オートバイのサスペンション（ドゥカティ・ムルティストラー<br>ダの後輪側サスペンションユニット）自転車はサスペンション<br>が無いものが多いが、オートバイは車両重量が重く、高速で走<br>るために、操縦安定性を確保する目的もあってサスペンション<br>機構が有るのが一般的である（低速でしか走らない車種では受<br>ける衝撃が少ないために無い場合もある）。サスペンションは<br>、前輪がテレスコピック、後輪がスイングアームになっている<br>物が多い。<br><br>また、サスペンションが有ることによって快適なだけではなく<br>、高い速度を維持したままで走ることが出来るようになった。<br>それはサスペンションの無いオートバイで100km/hを出すより<br>も、サスペンションの有るオートバイで180km/hを出すほうが<br>楽な程である。そのため、サスペンション装備以前と以降のオ<br>ートバイは別物といっても過言ではない。<br><br>現在の一般的なオートバイの操作系は、ブレーキやスロットル<br>の加減速系統は右側に、クラッチレバーやシフトペダルの変速<br>系統は左側に付いている。かつての英国車や、英国車を真似た<br>ものなどにブレーキペダルが左側、シフトペダルが右側の車種<br>があった。<br><br>パワートレインは多種多様であり、一概にこれがオートバイの<br>パワートレインであると言える物はないが、代表するものとし<br>て、一つは無段変速機構そのもののVベルトによって最終段減<br>速と駆動輪への動力伝達を行うもので、簡易CVTともいえるも<br>の（一般にオートマチックトランスミッション（オートマチッ<br>ク、オートマ）・ATと称する）、もう一つは常時噛合シーケン<br>シャルトランスミッションからチェーンやプロペラシャフトま<br>たはベルトによる最終段減速と駆動輪への動力伝達を行うもの<br>（一般にマニュアル・MTと称する）の二つがあげられる。スク<br>ーターの多くは前者である。<br><br>フレーム形状はダイアモンド、（シングル）クレードル、ダブ<br>ルクレードル、モノコック、モノバックボーン、ツインスパー<br>など多彩であり、その車体の性格付けをするものであるが、多<br>くの場合において基本的な構造は、前輪を支えるフロントフォ<br>ークを高い位置から結び、車体中央下の低い位置で後輪を接続<br>しているスイングアームへと結ばれている。例外としてリアサ<br>スペンションを持たない（ホイールをリジッドマウントしてい<br>る）車種ではフレームと後輪が直結している（モペッドや、ス<br>ズキ・チョイノリ等、高速走行を狙わない車種やクラシックバ<br>イク等）。
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<link>https://ameblo.jp/yamaharz/entry-10190441725.html</link>
<pubDate>Sat, 10 Jan 2009 14:19:31 +0900</pubDate>
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<title>買い取りいきますか？</title>
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<![CDATA[ 尾張旭市なんですかこれは？<br>--------------<br>小牧・長久手の戦いで10万の羽柴秀吉軍相手に互角以上の戦いをしたことから、戦国屈指の軍略家であり、関ヶ原の戦いでの相手への裏工作からして、謀略にも長けているといえる。江戸幕府・開府に始まる江戸時代は264年にわたって続き、日本に長い太平の世をもたらした。家康は「江戸幕府の始祖」として称えられ、今も日光東照宮をはじめ全国に東照大権現（とうしょうだいごんげん）として祀られている。<br><br><br>[編集] 略歴<br> <br>徳川家の家紋戦国時代に三河国岡崎に岡崎城主松平広忠の子、幼名竹千代として生まれる。当時の松平氏は弱小であり、広忠は仕えていた今川義元に息子を人質として差し出す事となった。一時、家臣の裏切りにより織田氏の人質となるが、最終的には当初の予定通り竹千代は今川氏に送られた。<br><br>竹千代は今川の元で人質として忍従の日々を過ごすが、桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られた後、松平は今川より離れて織田信長の盟友（事実上は臣下）として版図を広げていく事となる。やがて、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、その混乱に乗じさらに勢力を広げた。<br><br>豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いを経て秀吉に従った。秀吉の元で、家康は最大の領地を得る事となり、豊臣政権の五大老筆頭に列せられる。秀吉の死後は関ヶ原の戦いで勝利し、朝廷から征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府（江戸幕府・徳川幕府と呼ぶ）を開く。<br><br>家康の生誕地は、三河岡崎だが、生涯を通じて、静岡県（駿府、浜松）を本城あるいは生活の拠点としている期間が長く、尾張の織田信長のもとで人質として過ごすなど、三河岡崎にいたのは、幼少期及び桶狭間後10年と、意外にも短い。そのため、三河土着の松平（徳川）家歴代当主や三河譜代の家臣とは違う、広い見識を持っていた。そのこともあり、晩年の家臣団には、本多正信、天海、大久保長安、茶屋四郎次郎など、外交・内政・謀略に長けた異能の人物が集まり、三河以来の武功派は活躍の場を失い徐々に遠ざけられた。<br><br><br>[編集] 生涯<br><br>[編集] 忍従の日々<br>三河国の土豪である松平氏第8代当主・松平広忠の長男（嫡男）として、天文11年（1542年）12月26日の寅の刻（午前四時ごろ）、岡崎城で生まれる。母は水野忠政の娘・於大（伝通院）で、幼名は竹千代（たけちよ）と称した。<br><br>2歳の時、水野忠政の没後水野家当主となった水野信元（於大の兄）が織田信秀についたため、今川方の庇護を受けていた父は泣く於大を離縁した。そのため家康は幼くして母と生き別れになった。<br><br>6歳の時、父・広忠は尾張国の織田信秀に対抗するため駿河の今川義元に帰属し、竹千代は今川義元のもとへ人質として駿河国府中へ送られるところであったが、途中立ち寄った田原城城主で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張・織田信秀の元へ送られた。尾張では2年を過ごし、信長とはここで知り合った。その間に父・広忠は死去し（岩松八弥に殺された、病死など、種々の説がある）、岡崎は義元の派遣した城代により支配された。<br><br>竹千代は今川方に捕えられた信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって駿府へ移された。『東照宮御実紀』には、少将宮町という所に家康を置いたと記載されている。同書には駿府在住時の詳細の記述はなく、元服・結婚・祖先の墓参りのため三河国帰参、初陣と続く。<br><br>一方、元文時代に成立し、徳川吉宗に提出された家康の伝記である『武徳編年集成』では、竹千代が住んでいたのは「宮カ崎」とされている。<br><br>三河岡崎城の墓参りのための帰参のエピソードで、岡崎城の本丸は今川の城代が置かれていたため、二の丸に入った。そこで、鳥居忠吉が、倉庫に兵糧米・金銭を備蓄し、義元が三河を横領し、松平勢が、今川の先鋒として多数討死、捨て石になっている事情を説明、家康は感涙したという。古老の御家人は、祖父清康君によく似ていると感嘆したという。<br><br>駿府の義元の下で元服し、義元から偏諱を賜り次郎三郎元信と名乗り、義元の姪・関口親永の娘・（通称築山殿）を娶った。名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらって蔵人佐元康と改めている。永禄元年（1558年）には織田方に寝返った寺部城主鈴木日向守を松平重吉らとともに攻め、これが初陣となった。<br><br><br>[編集] 清洲同盟から三河国平定へ<br>永禄3年（1560年）5月、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた際、今川本隊とは別働で、前線の大高城（尾張国）にあった元康は、大高城から撤退。今川軍が放棄した三河の岡崎城に入ると、祖父・清康の代で確立した三河支配権の回復を志し、今川家から自立する。藤波畷の戦いなどに勝利して、西三河の諸城を攻略した。永禄5年（1562年）には、義元の後を継いだ今川氏真と断交して信長と同盟を結び（清洲同盟）、翌年には義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。<br><br>西三河を平定したかに見えた頃、三河一向一揆が勃発するも、家康は苦心の末に鎮圧に成功した。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。東三河の戸田氏や西郷氏といった諸豪を抱き込みながらも、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除していった。三河への対応に遅れる今川氏との間で、宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年（1566年）までには東三河・奥三河（三河北部）を平定し、三河国を統一した。この年、朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け、徳川に改姓した。この改姓に伴い、新田氏系統の源氏であることも公認させた。<br><br>永禄11年（1568年）には今川氏真を駿府から追放した武田信玄と手を結んだ。同年末からは、今川領であった遠江国に侵攻し、曳馬城を攻め落とした。遠江で越年したまま軍を退かずに、駿府から逃れてきた氏真を匿う掛川城を攻囲。籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江の大半を攻略した。元亀元年（1570年）、本城を岡崎から遠江国の曳馬に移し、浜松城を築いた。<br><br>永禄11年（1568年）、信長が、松永久秀らによって暗殺された室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長へ援軍を派遣した。後年、足利義昭は、天下の実権をめぐり信長との間に対立を深め、反信長包囲網を形成したとき、家康にも副将軍への就任を要請し、協力を求めた。しかし家康はこれを黙殺し、朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦し、信長を助けた。<br><br><br>[編集] 武田家との戦い<br>家康は今川領分割に際して、武田信玄と大井川を境に東の駿河を武田領、西の遠江を徳川領とする協定を結んで友好関係を結んでいた。しかし領土拡大の野望に燃える信玄は一方的に協定を破棄し永禄11年（1569年）、重臣の秋山信友に一軍を預けて信濃から遠江に侵攻させた。これは徳川勢の抵抗、並びに北条氏康から牽制を受け失敗したが、これを契機に武田信玄と徳川家康は敵対関係となった。<br><br>元亀3年（1572年）10月3日、武田信玄はついに上洛を開始し、まずは徳川領である遠江、三河に向けて侵攻を開始した。これに対して家康は盟友・織田信長に援軍を要請するが、織田軍も当時は浅井長政、朝倉義景、石山本願寺と抗争状態にあり、さらには美濃岩村城までを武田軍に攻撃され援軍を送ることができず、徳川勢は単独で武田勢と戦うこととなる。10月13日、2万2,000人の大軍を率いて伊那谷から遠江に侵攻してきた信玄本隊と戦うために、家康は天竜川を渡って見附にまで進出した。しかし信玄の巧妙な用兵、並びに兵力の差により大敗し、本多忠勝の奮戦により何とか浜松まで帰還した（一言坂の戦い）。<br><br> <br>「三方原戦役像」三方原で武田軍に敗れた後に描かせた肖像画家康は、信玄本隊と同時に侵攻する武田軍別働隊が踏み荒らす三河方面への防備を固められないばかりか、この戦いを契機として武田・徳川の優劣は確定してしまう。そして12月19日には、浜松の北方を固める遠江の要衝であった二俣城が陥落した（二俣城の戦い）。そのような中で、ようやく織田方から援軍として佐久間信盛、平手汎秀率いる3,000人が送られてきた。12月20日、三河方面からの別働隊が合流した信玄の本隊は、天竜川の西岸を南下して浜松城下に近づいた。しかし長期戦を嫌う信玄は、浜松城を悠然と無視して、三河に侵攻するかのように武田軍を転進させた。これに対して家康は信長の援将・佐久間信盛らが籠城戦を唱えるのに対して、<br>断固として反対して武田軍を追撃。12月22日、徳川軍8,000人、織田軍3,000人で武田軍3万人に挑んだ（三方ヶ原の戦い、三方ヶ原は現在の静岡県浜松市内）。だが、その結果、徳川方は鳥居忠広、成瀬正義や、二俣城の戦いで開城の恥辱をすすごうとした中根正照、青木貞治といった家臣をはじめ1,000人以上の死傷者を出し、織田方でも平手汎秀といった援軍の将が討ち獲られるなど徳川・織田連合軍は大惨敗を喫した。夏目吉信に代表される身代わりに助けられて、命からがら浜松城に逃げ帰った家康自身も馬上で脱糞した、とさえ言われている。このとき、浜松城まで追撃された家康は「空城計」を用いた。この計によって城の様子を怪しんだ武田信玄は城内侵攻をためらい、撤収を決断したとされている。なお、こ<br>の時の家康の苦渋に満ちた表情を写した肖像画（しかみ像）が残っており、これは自身の戒めのために描かせたものと伝えられる。<br><br>武田信玄は、浜名湖北岸で越年して三河へ進軍した。元亀4年（1573年）2月16日には三河東部の野田城を開城降伏させ、城主菅沼定盈の身柄を拘束した。ところがその後、信玄は発病。徳川軍を相手に勝ち続けていた武田軍は突如として西進を止めたばかりか、野田城から長篠城まで退き、1か月ほど沈黙する。そこで信玄の回復を待っていたが、容態は快方に進まないために西進作戦を断念、武田軍は甲斐へ帰還した。そして4月12日、武田信玄は帰還途中の信濃駒場で死去した。4か月間、徳川領で戦勝を続けていた武田軍の突然の撤退は、家康に信玄死去の疑念を抱かせた。5月6日、その生死を確認するため家康は武田領である駿河の岡部に放火し、5月13日には長篠城を攻めるなどしている。そしてこれら一連の行動で<br>武田軍の抵抗がほとんどなかったことから信玄の死去を確信した家康は、武田方に与していた奥三河の豪族で山家三方衆の一角である奥平貞能・貞昌親子らを調略し、徳川へ再属させた。奪回した長篠城には奥平勢を配し、武田軍の再侵攻に備えさせている。<br><br>天正2年（1574年）5月、武田信玄の後を継いだ武田勝頼が率いる2万5,000人の大軍が、遠江高天神城を侵攻した。これに対して家康は単独で迎撃することができず、信長に援軍を要請したが、信長の援軍が到着する前に高天神城を奪われた。<br><br>天正3年（1575年）5月には、1万5,000人の大軍を率いる武田勝頼に三河長篠城を攻められた。これに対して長篠城主・奥平貞昌が率いる500の将兵は善戦し、援軍の到来まで耐え抜いた。そして、5月21日に行われた後詰決戦では、織田・徳川連合軍は武田軍に大勝した（長篠の戦い）。戦功に対する褒美として、奥平貞昌は（信長の偏諱を賜り）信昌と改名した。家康も名刀大般若長光を授けて賞した。（その上、翌年には長女・亀姫を遣わし、正室とさせている。）<br><br>この戦いで武田軍は山県昌景、馬場信春を初め、多くの有力武将を失って壊滅し、武田と徳川の優劣は逆転した。同年、家康は信玄に奪われていた二俣城を奪還した。<br><br>天正7年（1579年）、信長から、正室・築山殿と長男・松平信康に対し、武田勝頼への内通疑惑がかけられた。家康は信長に対し抗弁の使者を立てたが、信長からの要求は、信康の切腹であった。家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、正室を殺害し、嫡男に切腹させた。この事件は信長が嫡男・織田信忠より優れた資質を持つ信康に危機感を覚えたためという説もあるが、近年では家康と信康が対立したためで、信長には了承を求めただけ（信康の正室が信長の娘であるため）、という説も強くなってきている。<br><br>天正9年（1581年）3月23日、家康は武田勝頼によって奪われていた高天神城を奪回した。<br><br>天正10年（1582年）2月1日、武田信玄の娘婿である木曽義昌が織田信長に寝返ってきたことにより、武田征伐が開始された。信長は嫡男・織田信忠を総大将にして木曽口から、金森長近を飛騨口から、北条氏直を関東口から、そして家康には駿河口からそれぞれ武田領に向かって侵攻させた。これに対して、すでに連年の戦争による財政難などで民心が離反していた武田軍には組織的な抵抗力がなく、木曽から攻め込んだ織田軍はあっという間に伊那城、松尾城を落とした。徳川軍も駿河に侵攻して蘆田信蕃（依田信蕃）の田中城を成瀬正一らの説得により大久保忠世が引き取り、さらには勝頼の姉婿である穴山信君を調略によって寝返らせるなどして駿河を占領した。これに対して勝頼にはもはや対抗する力はなく、<br>最後は味方だったはずの小山田信茂にまで裏切られて、3月11日に勝頼は甲斐東部の天目山・田野において自害し、武田家は滅亡した。<br><br>家康はこの戦功により、信長から駿河一国を与えられた。<br><br><br>[編集] 本能寺の変<br>天正10年（1582年）5月、駿河拝領の礼のため、降伏した穴山信君とともに信長の居城・安土城を訪れた。<br><br>6月2日、堺で遊覧中に京都で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数だったので、極めて危険な状態となり狼狽し信長の後を追おうとするほどであった。このとき、本多忠勝に説得され、家康は服部半蔵の進言を受け伊賀越えを決行し、加太越を経て伊勢国から海路三河にかろうじて戻った（神君伊賀越え）。<br><br>その後、家康は明智光秀を討つために軍勢を集めて尾張にまで進軍したが、このとき中国から大返しした羽柴秀吉（豊臣秀吉）によって光秀が討たれたことを知った。<br><br>一方、信長の領土となっていた武田遺領の甲斐と信濃で一揆が起こった。さらに越後の上杉景勝、相模の北条氏直も侵攻の気配を見せたため、信濃の森長可と毛利秀頼は領地を捨てて逃亡し、上野の滝川一益は北条氏直と戦って惨敗し、尾張に撤退した。甲斐の領主・河尻秀隆に至っては、武田家の税法や慣習を認めず、一方で大規模な武田の残党狩りを行い、領民や旧武田浪人から恨みを買っていたため、信長の死を契機として一揆が発生し、攻め殺されてしまった（ただし家康が影で煽動したという説もある）。このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田遺臣の岡部正綱や依田信蕃、甲斐の辺境武士団である武川衆らを先鋒として甲斐に派遣し、自らも8,000の軍勢を率いて、甲斐に<br>攻め入った（天正壬午の乱）。<br><br>一方、甲斐と信濃が空白地帯となったのを見た相模の北条氏直も、叔父・北条氏規や北条氏照ら5万5,000人の軍勢を率いて碓氷峠を越えて信濃に侵攻した。北条軍は、越後から北信濃に侵攻していた上杉景勝軍と川中島で対峙した後に、北信4郡を上杉に割譲することで和睦し、南下した。次いで甲斐へ侵攻中だった徳川軍と甲斐新府城、若神子で対陣。ここに徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈したが、徳川方の依田信蕃の調略を受けて徳川方に寝返った真田昌幸らの執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条方は、板部岡江雪斎を使者として家康に和睦を求めた。和睦の条件は、上野を北条が、甲斐・信濃を徳川がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫が北条氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康は北条<br>氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5か国を領有する大大名へとのし上がったのである。<br><br><br>[編集] 秀吉との戦い<br>信長死後の天正11年（1583年）、織田家筆頭家老であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破った羽柴秀吉が台頭する。これに不満を覚えた信長の次男・織田信雄は、家康と手を結んだ。そして徳川・織田連合軍は天正12年（1584年）3月、尾張小牧において羽柴軍と対峙した。このとき、羽柴軍の兵力は10万、徳川・織田連合軍は5万であった。家康は兵力的に不利であったが、秀吉が小牧に到着する前の3月17日、秀吉軍の武将・森長可率いる軍勢を酒井忠次に命じて撃破させた（羽黒の戦い）。<br><br>4月5日に秀吉率いる羽柴軍主力は犬山城に入り徳川軍と対峙したが、秀吉は家康の武略を恐れて動かず戦線は膠着状態に陥った。4月7日、秀吉方の武将・森長可とその岳父である池田恒興が「中入り」によって三河岡崎城を奇襲すべく、別動隊を率いて出陣した。しかし家康は別働隊の動きを捕捉し、逆に自ら羽柴別働隊に奇襲をかけて殲滅し、敵の総大将・羽柴秀次を敗走させ、恒興と長可、池田元助（恒興の嫡男）らを討ち取った（小牧・長久手の戦い）。<br><br>これを機に、秀吉は家康を正攻法で打ち破ることは困難と判断し、家康の味方である伊勢の織田信雄を攻めた。信雄軍には単独で羽柴軍と対抗できる力はなく、11月11日、秀吉と単独講和してしまった。家康は小牧・長久手の戦いの大義名分を「信長の遺児である信雄を助けて、秀吉を討つ」としていたため、信雄が秀吉と講和したことで名分を失った家康は撤退を余儀なくされた。そして12月12日、秀吉との講和として、次男の於義丸（後の結城秀康）を秀吉の養子（人質）とすることで大坂に送った。<br><br>天正13年（1585年）に入ると、紀伊雑賀党や土佐の長宗我部元親、越中の佐々成政など、前年の小牧・長久手の戦いで家康に味方した勢力は、秀吉によってことごとく討伐された。このため秀吉との対立で不利になった家康は、相模の北条氏直との同盟関係を強化するため、上野の沼田領を割譲する約束を出した。ところが、沼田を支配していた信濃上田城主・真田昌幸はこれに応じず、家康から離反して越後の上杉景勝に寝返った。これに対して家康は、大久保忠世や鳥居元忠を大将とした1万の軍勢を真田攻めに派遣したが、昌幸の巧妙な戦術の前に大敗を喫し、さらに上杉の援軍が来たこともあって、撤兵を余儀なくされた。<br><br>また、この頃になると徳川家中は、酒井忠次・本多忠勝ら反秀吉の強硬派と、石川数正ら秀吉支持派の穏健派が対立し、分裂の危機にあった。そして11月13日、数正が徳川家から出奔して秀吉に寝返り、家康は窮地に陥っていった。この事件で徳川家の軍事機密が筒抜けになったことから、軍制を武田信玄を見習ったものに改革していった。<br><br>天正14年（1586年）4月23日、秀吉からの臣従要求を拒み続ける家康に対して、秀吉は妹の朝日姫を正室として差し出した。当時、家康には正室がいなかったためである。5月14日、家康と朝日姫は結婚するが、家康はなおも臣従しようとしなかった。しかし10月18日、秀吉が生母・大政所までも人質として岡崎城に送ってきたため、遂に家康は秀吉に臣従することを決意する。10月20日に岡崎を出立し、10月26日に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いに来て、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城にて秀吉に謁見し（諸大名の前で）秀吉に臣従することを表明した。<br><br><br>[編集] 豊臣家臣時代<br>天正14年（1586年）11月1日、家康は京都に赴き、11月5日に正三位に叙任される。11月11日には三河に帰還し、11月12日には大政所を秀吉のもとへ送り返している。12月4日、家康は居城を浜松城から駿府城へ移した。<br><br>天正15年（1587年）8月、家康は再び上洛し、8月8日に従二位、権大納言に叙任される。秀吉から羽柴姓も与えられた。その後、家康は後北条氏と縁戚関係にあった経緯から、氏政の弟で旧友の氏規を上京させるなど秀吉と氏直の仲介役も務めたが、氏直は秀吉に臣従することに応じず、天正18年（1590年）、秀吉による小田原征伐が始まる。家康も豊臣軍の一員として出陣し、ここに秀吉による天下統一が成った。なお、これに先立って天正17年（1589年）7月から翌年にかけて「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な検地を断行する。これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に軍事的に勝利を収めながらも最終的に屈服に追い込まれた対秀吉戦の教訓から領内の徹底した実情把握を目指したものである。この<br>検地は直後の移封によってその成果を生かすことはなかったが、新領地の関東統治に生かされることになった。<br><br>その後、家康は秀吉の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国から、北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・下野・上総・下総の7か国に移封された。これは150万石から250万石への加増であるが、徳川氏にとっては縁の深い三河の土地を失い、さらに当時の関東が北条氏の残党など、なおも不穏な動きがあったことを考えると、家康にとっては苦難であったと思われる。だが、家康はこの命令に従って関東に移り、江戸城を居城とした。<br><br>関東の統治に際して家康は有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安や伊奈忠次、長谷川長綱、彦坂元正・向井正綱、成瀬正一・日下部定好ら、有能な家臣を代官などに抜擢することによって難なく統治され、関東は大きく発展を遂げることとなる。<br><br>【家康によって配された有力家臣たち】<br><br>上野国 <br>箕輪（後に高崎）　12万石　井伊直政 <br>館林　10万石　榊原康政 <br>厩橋　3.3万石　平岩親吉 <br>白井　3.3万石　本多康重（ただし、1.3万石は父広孝分とされる） <br>宮崎（小幡）　3万石　　奥平信昌 <br>藤岡　3万石　　松平康貞 <br>大胡　2万石　　牧野康成 <br>吉井　2万石　　菅沼定利 <br>総社　1.2万石　諏訪頼水（頼忠説もある） <br>那波　1万石　　松平家乗 <br>沼田　2.7万石　真田信幸 <br>下野国 <br>皆川　1万石　　皆川広照 <br>下総国 <br>矢作　4万石　　鳥居元忠 <br>臼井　3万石　　酒井家次 <br>関宿　2万石　　松平康元 <br>古河　3.3万石　本多康重 <br>山崎　1.2万石　岡部長盛（康綱説もある） <br>蘆戸（阿知戸）　1万石　　木曾義昌 <br>守谷　1万石　　菅沼定政 <br>多古　1万石　　保科正光 <br>佐倉　1万石　　三浦義次（久能宗能説もある） <br>岩富　1万石　　北条氏勝 <br>武蔵国 <br>岩付（岩槻）　2万石　　高力清長 <br>騎西（寄西）　2万石　　松平康重 <br>河越　1万石　　酒井重忠 <br>小室　1万石　　伊奈忠次 <br>松山　1万石　　松平家広 <br>忍　　1万石　　松平家忠 <br>羽生　1万石　　大久保忠隣（2万石とも） <br>深谷　1万石　　松平康忠 <br>東方　1万石　　戸田康長 <br>本庄　1万石　　小笠原信嶺 <br>阿保　1万石　　菅沼定盈 <br>八幡山　1万石　　松平清宗 <br>上総国 <br>大多喜　10万石　本多忠勝 <br>久留里　3万石　　大須賀忠政 <br>佐貫　2万石　　内藤家長 <br>鳴戸（成東）　2万石　　石川康通 <br>相模国 <br>小田原　4.5万石　　大久保忠世 <br>甘縄　1万石　　本多正信 <br>伊豆国 <br>韮山　1万石　　内藤信成 <br><br>文禄元年（1592年）より、秀吉の命により朝鮮出兵が開始されるが、家康は渡海することなく名護屋城に在陣することだけで許された。『常山紀談』には、本多正信の「殿は渡海なされますか」との問いに家康が「箱根を誰に守らせるのか」と答えたエピソードを残している。しかし実際に渡海せずに済んだのは、小田原攻めと奥州攻めでの先鋒を務めたための優遇措置との見方もある。が、「際限りなき軍役」といって苦しんだ朝鮮出兵で徳川軍が渡海を免れたために、家康は兵力と財力の消耗を免れ、自国を固めることができた[1]。しかし、渡海しなかったのは家康だけが特別なのではなく、一部の例外を除くと東国大名は名護屋残留であった。<br><br>文禄4年（1595年）7月に「秀次事件」が発生した。豊臣政権を揺るがす大事件を受けて、秀吉は諸大名に上洛を命じ、事態の沈静化を図った。家康も秀吉の命で上洛したが、これ以降家康は、開発途上の居城・江戸城よりも、伏見城に滞在する期間が長くなった。豊臣政権内に占める家康の比重が高まっていったのは明らかだが、家康自身も政権の中枢に身を置くことにより、中央政権の政治システムを直接学ぶことになった[2]。<br><br>慶長3年（1598年）より秀吉が病に倒れると、秀吉は後継者である豊臣秀頼の体制を磐石にするため、7月に五大老・五奉行の制度を定め、五大老のひとりに家康を任命した。そして8月、秀吉は死去した。<br><br><br>[編集] 覇権奪取にむけて<br> <br>関ヶ原古戦場秀吉の死後、家康は「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という秀吉の遺言により専横の兆しを見せ始める。さらに秀吉の生前である文禄4年（1595年）8月に禁止されていた大名同士の婚儀なども行って、巧みに味方を増やし始めた。その婚儀の内容は次の通りである（ちなみに婚姻した娘は、全て家康の養女とした）。<br><br>伊達政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝。 <br>松平康元（家康の甥）の娘と福島正之（福島正則の養子）。 <br>蜂須賀至鎮（蜂須賀家政の世子）と小笠原秀政の娘。 <br>水野忠重（家康の従兄弟）の娘と加藤清正。 <br>保科正直の娘と黒田長政（黒田如水の嫡男）。 <br>さらに家康は、細川忠興や島津義弘、増田長盛らの屋敷にも頻繁に訪問して、多数派工作を行った。こうした政権運営をめぐって、大老・前田利家や五奉行の石田三成らは憤激し、慶長4年（1599年）1月19日、家康に対して三中老の堀尾吉晴らを問罪使として派遣した。ところが家康は、吉晴らを恫喝して追い返したと言われている。もっとも、2月2日、家康は前田利家らと対立する不利を悟って、誓書を交わして和解した。しかし、閏3月3日に利家が病死すると、豊臣政権下で家康と互角に渡り合えるだけの勢力を持った人物はいなくなった。<br><br>利家が死去すると、福島正則や加藤清正らが石田三成を襲撃する事件が発生した。これは豊臣政権下における福島ら武断派と、石田ら文治派による対立が表面化したものである。家康は武断派諸将を慰撫してその支持を集めるとともに、三成を奉行職から解任して、佐和山城で蟄居させた。<br><br>9月7日、家康は大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、重陽の節句における祝意を述べた。そしてそのまま大坂に居座って、政務を執り続けた。9月12日には三成の兄・石田正澄の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城西の丸に居座って、大坂で政務を執り続けた。<br><br>さらに家康はこの頃、豊臣政権下における諸大名の切り崩し工作も行なった。9月9日に登城した際、前田利長（前田利家の嫡男）・浅野長政・大野治長・土方雄久の4名が家康の暗殺計画を企んだとして、10月2日に長政を甲斐府中で隠居の上、蟄居させ、治長は下総結城の結城秀康に、雄久は常陸水戸の佐竹義宣のもとへ追放とした。さらに利長に対しては加賀征伐を強行しようとしたが、利長が生母の芳春院（まつ）を江戸に人質として差し出したことで、征伐を取りやめた。しかし、これを機に前田氏は完全に家康の支配下に組み込まれた。家康の暗殺計画は、家康を大坂から追い出し兵を挙げようとする三成らの事実無根の謀略であったとも言われている。<br><br>さらに家康は多数派工作も行なった。<br><br>対馬の宗義智に1万石を加増。 <br>遠江浜松12万石の堀尾吉晴に、越前府中5万石を加増。 <br>美濃金山7万石の森忠政を、信濃川中島13万7,000石に加増移封。 <br>丹後宮津の細川忠興に、豊後杵築6万石を加増。 <br>薩摩・大隅の島津氏に、5万石を加増。 <br><br>[編集] 関ヶ原の戦い<br>詳細は関ヶ原の戦いを参照<br><br>慶長5年（1600年）3月、家康は越後の堀秀治、出羽の最上義光らから、会津の上杉景勝に軍備を増強するという不穏な動きがあるという知らせを受けた。3月11日には、上杉氏の家臣で津川城城代を務め、さらに家康とも懇意にあった藤田信吉が会津から出奔し、江戸の徳川秀忠のもとへ、「上杉氏に叛意あり」と訴えるという事件も起きた。<br><br>これに対して家康は4月1日、伊奈昭綱を正使として景勝のもとへ問罪使として派遣した。ところが景勝の重臣・直江兼続は「直江状」という有名な挑戦状を返書として送ったことから、家康は激怒し、景勝に叛意があることは明確であるとして、5月3日、上杉討伐を宣言した。このとき、前田玄以や長束正家、増田長盛ら三奉行と堀尾吉晴・中村一氏・生駒親正らが征伐の中止を訴えたが、家康は無視して征伐を強行した。6月2日には、家康直属の関東の諸大名に陣触れを出し、6月6日には諸大名を大坂西の丸に集めて軍議を開いた。6月8日には後陽成天皇から出馬慰労として晒布が下賜された。6月15日には秀頼から黄金2万両、兵糧米2万石を下賜され、ここに朝廷・豊臣氏から、家康の上杉征伐は、「豊臣氏の忠臣であ<br>る家康が、謀反人の景勝を討つ」という義戦となったのである。<br><br>6月16日、家康は大坂城京橋口より、軍勢を率いて上杉征伐に出征した。同日の夕刻には伏見城に入った。ところが6月23日には浜松、6月24日には島田、6月25日には駿府、6月26日には三島、6月27日には小田原、6月28日には藤沢、6月29日には鎌倉、7月1日には金沢、7月2日には江戸という、遅々たる進軍を行っている。<br><br>この出兵には、家康に反感を持つ石田三成らの挙兵を待っていたとの見方もある。実際に、7月、石田三成は大谷吉継とともに挙兵。7月17日には家康によって占領されていた西の丸を奪い返し、増田長盛、長束正家ら奉行衆を説得するとともに毛利輝元を総大将として擁立した。さらに家康の弾劾状を諸大名に対して公布した。7月18日には家康の命令で伏見城を守っていた鳥居元忠を攻め、8月1日に元忠は討ち取られ、伏見城は落城した。さらに三成ら西軍は伊勢、美濃方面に進出した。<br><br>これに対して家康は7月24日の下野小山の陣において、伏見城の鳥居元忠が発した使者の報告により、三成の挙兵を知った。<br><br>家康は、上杉征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、上方に反転すると告げた。これに対し、福島正則ら三成に反感を持つ武断派の大名らは家康に味方すると告げ、ここに家康の東軍が結成されたのである（小山評定） 。<br><br>東軍は、家康の徳川直属軍と福島らの軍勢、合わせて10万ほどで編成されていた。そのうち、一隊は徳川秀忠を総大将として宇都宮から中山道を、家康は残りの軍勢を率いて東海道から上方に向かうこととなる。一方で家康は江戸城に1か月ほど留まり、160通近い書状を諸大名に回送している。これは、三成が大坂城と秀頼を事実上擁立していることが伝わったため（小山評定の段階では三成の単独挙兵として伝わっていた）、彼らが三成のもとへ駆けつけることを恐れたためである。<br><br>8月10日、福島正則ら東軍は尾張清洲城に入る。8月21日には西軍の勢力下にあった美濃に侵攻し、8月23日、西軍の織田秀信が守る岐阜城を落とした。このとき、家康は信長の嫡孫であるとして、秀信の命を助けている。<br><br>9月1日、家康は江戸城から出陣し、9月14日に美濃に着陣した。同日、前哨戦として三成の家臣・島左近と宇喜多秀家の家臣・明石全登が奇襲をかけてきた。それに対して東軍の中村一栄、有馬豊氏らが迎撃するが敗れ、中村一栄の家臣・野一色頼母が戦死してしまった（杭瀬川の戦い）。<br><br>9月15日午前8時、美濃関ヶ原において遂に東西両軍による決戦が繰り広げられた（関ヶ原の戦い）。当初は三成ら西軍が圧倒的に有利であった。これに対して午後0時、家康は不利な戦況を打開すべく、鉄砲隊長の布施孫兵衛に命じて、松尾山の小早川秀秋に対して鉄砲を撃ちかけさせた。これを機に秀秋は西軍を裏切って東軍に味方することを決意し、小早川軍は西軍の大谷吉継隊に襲いかかった。これに対して大谷隊も奮戦したが、さらに脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らの寝返りもあって西軍は総崩れとなり、東軍が形勢逆転した。戦いの最終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだ島津義弘軍が本陣目前にまで猛攻して来るという非常に恐ろしい経験もしたが、関ヶ原の戦いは家康率いる東軍の勝利に終<br>わった。<br><br>家康は9月18日、三成の居城・佐和山城を落として近江に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛し、10月1日には六条河原で処刑した。そして大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、それらから奪った所領のうち、自分の領地を250万石から400万石に増やした。秀頼、淀殿に対しては「女、子供の預かり知らぬところ」とお咎めなしで領地もそのままだったが、家康の論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地（豊臣家の直轄地）は西軍の大名領もろとも失われた。その結果として豊臣氏を摂津・河内・和泉65万石の一大名の身分に落とし、家康が実質上の天下人として君臨したのである。<br><br><br>[編集] 征夷大将軍<br>関ヶ原の戦後処理を終わらせた慶長6年（1601年）3月23日、家康は大坂城西の丸を豊臣氏に明け渡して、伏見城に入ってなおも政務を執った。そしていよいよ、征夷大将軍として幕府を開くために、徳川氏の系図の改姓も行なった。「将軍になれるのは清和源氏」という慣例があったため、家康は、神龍院梵舜に命じて徳川家の系図を源氏の源義家に通じるように整備させた。<br><br>なお、近年の研究（笠谷和比古、煎本増夫ら）によると、家康が本姓が源氏だと公称したのはこれよりはるか前の天正16年（1588年）であるという。後陽成天皇の聚楽第行幸に際して提出した誓紙に家康が「大納言源家康」と署名しているためである。他に天正19年（1591年）、家康が相模国の寺社に出した朱印状にも「大納言源朝臣家康」と記された書判もあり、これらのことから笠谷らは「豊臣政権下で家康は既に源氏の公称を許されていた」と述べている。なお、家康は松平姓から（勅許を得て）徳川姓に改姓した際には本姓は藤原氏と公称していた。また実際には清和源氏の出自でなくとも将軍職への就任には問題がないので将軍になれるのは清和源氏でなければならないというのは江戸期に作られた俗説とする<br>説がある。<br>慶長8年（1603年）2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城に派遣した。そしてここで六種八通の宣旨が下し、家康を征夷大将軍、淳和・奨学両院別当、右大臣に任命した。征夷大将軍への任官に伴い、源氏長者ほかの官職を与えられる栄誉は、足利義満から始まった慣例である。<br><br>3月21日、家康は二条城で正式な将軍宣下を受け、3月25日には参内して将軍拝賀の礼を述べた。ただし、朝廷から正式な将軍宣下が行われたのは3月27日であり、この日をもって正式に江戸幕府が開かれたと見てよい。<br><br>家康は秀吉の死から4年半で、豊臣氏の五大老から武家の棟梁としての地位を手に入れ、名実ともに豊臣家を上回る地位を確立した。幕府開府に当たって武家諸法度や禁中並公家諸法度の制定、各制度の整備を行い、武家の統制及び朝廷の掌握に向けた法度を定めた。朝廷を掌握すれば豊臣家が大義名分の上で形勢挽回する道はなく、天下統一の後においても、朝廷を支配下に入れることは、その後の謀叛の予防やあらゆる政治的な優位を確立する上で重要であった。<br><br><br>[編集] 大御所政治<br>慶長10年（1605年）4月16日、家康は将軍職を辞するとともに朝廷に三男・徳川秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川家が世襲していくこと」を天下に示した。同時に家康は、秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、淀殿が激怒して拒絶する。結局、家康が六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで、事は収まった。このことで、豊臣家の権威は大きく傷ついた。<br><br>慶長12年（1607年）に駿府城に移って、江戸の将軍・秀忠に対して大御所として実権を掌握し続けて二元政治をとりつつ、幕府の制度作りに勤めた（大御所政治と呼ばれる）。ただし、二元政治といっても、実際は家康・秀忠の対立も多く、また徳川家臣による権力闘争も少なくなかった。慶長17年（1612年）の岡本大八事件、慶長18年（1613年）の大久保長安事件などが、それを如実に示している。<br><br>慶長16年（1611年）、二条城にて豊臣秀頼と会見したいと要望した。主筋を自任する豊臣家はこれを拒絶する方向でいたが、将軍秀忠は秀頼の岳父である関係で、あくまで「岳父への挨拶」という名目で上洛を要請し、ついには秀頼を上洛させることに成功した。この会見により、天下の衆目に「家康が日本の主君である事」を示したとするのが一般的な見解であるが、秀頼の権威や脅威が無視できないものであることを改めて家康が実感させられたとする見解もある。
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<pubDate>Mon, 05 Jan 2009 23:51:19 +0900</pubDate>
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<title>新年会1月１日</title>
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<![CDATA[ 今年もどうぞ <br><br>よろしくお願いいたします<br><br>太らないようにがんばりましょう <br><br>元気にもりもりの一年にしてくださいませ <br><br>よろしくお願いいいたします
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<link>https://ameblo.jp/yamaharz/entry-10186451122.html</link>
<pubDate>Thu, 01 Jan 2009 23:43:51 +0900</pubDate>
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<title>1月１日</title>
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<![CDATA[ 今年もどうぞ <br><br>よろしくお願いいたします<br><br>太らないようにがんばりましょう <br><br>元気にもりもりの一年にしてくださいませ <br><br>よろしくお願いいいたします
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<pubDate>Thu, 01 Jan 2009 23:42:33 +0900</pubDate>
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<title>SS250最高</title>
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<![CDATA[ 1969年に北米で販売を開始した 500 cc (H1) の成功を受け、1972年モデルでは排気量 250 cc (S1)、350 cc（S2、後に 400 cc の S3）、750 cc (H2) の 3 車種を加え、計 4 車種の2ストローク 3 気筒車群を形成し、これをマッハシリーズと呼んだ。さらに、H1 および H2 の大排気量車種を「Big Mach（ビッグマッハ）」と呼び、排気量の小さい（フレームも異なる）S1、S2 および S3 を「Middle Mach（ミドルマッハ）」と呼んで区別されることもあった。 1976年モデルでこれら車種の名称を KH（シリーズ）と変更するまで、この「マッハ」の愛称が用いられた。 日本向けモデルの名称に関しては、公称排気量のあとに "SS" が付加された（例：カワサキ 500 SS マッハ III 等）が、輸出車にはこの "SS" は無く、「Kawasaki 500 MachIII H1」と排気量に型式名が付く。 1975年に Z650 が発表され、これにバトンタッチする形で H2 が消滅。翌年には排ガス / 騒音規制の影響で全 KH シリーズが北米から撤退。運転免許制度の関係等で北米以外でも需要の見込めた 250 / 400 は存続したが、500 はこれをもって型式消滅した。1980年モデルを最後に 250 / 400 の欧州向け輸出も終了となったが、日本向けとして1983年ごろまで生産された。 [編集] 500SS MACH III (H1) カワサキ・500SS北米における1966年の A1（サムライ、250 cc）、翌年の A7（アベンジャー (Avenger) 、350 cc）の成功で ZAPPER（Z1/Z900参照）指向を固めたカワサキは、絶対的な高加速度を持つ高出力車の開発を行い1969年はじめには対米輸出用の生産を開始した。日本では北米よりやや遅れて1969年9月より販売された。 発売当時の米国ではまだ過大な燃料 / オイル消費や猛烈な白煙に寛大であり、低廉な車両価格（1,000 ドル以下）と圧倒的な加速性能（カタログスペックでは 0 → 100 メートルで約 4 秒）で販売成績も好調であった。しかし、操縦性においては少ない前輪荷重等が災いし、万人向けとは決して言えないもので、他社種に比べ高い事故率を示すことがメディアで報道されるなど、「乗り手を選ぶ」バイクというイメージが世界各国で定着した。 ちなみに、当時の常識としては考えられなかった「市販車での時速200km/h」を達成したオートバイでもある。 1972年のZ1発表以降は、最高出力を下げマイルドな方向への性格付けが行われていった。そしてついに、1975年にKH500と名称変更した1976年モデルは排気ガス規制および騒音対策のため最高出力が 52 ps と大幅ダウンされ、さらに、DOHC4気筒の Z650 が同年発表になった段階において "ZAPPER" としての存在意義が希薄化し、カワサキもそれに抗うことなく1977年モデルをもって製造を終えた。 [編集] H1 主要諸元（1969年モデル）製造初年：1968年（1969年モデルから） 全長×全幅×全高：2,095 × 840 × 1,080 mm メインフレーム：鋼管ダブルクレードル サスペンション形式： フロント：テレスコピック リア：スイングアーム ブレーキ 前輪：ドラムブレーキ（ツーリーディング） 後輪：ドラムブレーキ（リーディング・アンド・トレーリング） 乾燥重量：174 kg エンジン形式：KAE 型（空冷2ストロークピストンバルブ並列3気筒） 総排気量：498 cc ボア×ストローク：60 × 58.8 mm 圧縮比：6.8 最高出力：60 hp / 7,500 rpm 最大トルク：5.85 kg-m / 7,000 rpm [編集] モデルチェンジ北米マーケットにおける各イヤーモデルは、前年の9月頃（前後する場合もある）に発売が開始されることに注意。 1971年モデルの H1A まではウィンカーはオプション扱いとなっていた。 欧州向け H1 はノイズ障害を考慮して CDI に替えてポイント式点火機構を採用。 H1（1969年モデル）：初期型 H1A（1971年モデル）：タンク意匠変更 H1B（1972年モデル）：レインボーライン、フロントディスク、CDI 点火廃止 H1D（1973年モデル）：テールカウル装着、フレーム変更、最高出力ダウン（60 ps → 59 ps） H1E（1974年モデル）：エンジンのラバーマウント化、マグネトー式 CDI 採用 H1F（1975年モデル）： KH500 (A8) （1976 / 1977年モデル）：最高出力ダウン（59 ps → 52 ps）、シフトパターン変更（ボトムニュートラル → 1 ダウン 4　アップ） [編集] "H1C" について一部のカワサキ　パーツリストには "H1C" が存在する。 カラーリングは "H1B" と同様の 1972年モデル色。 フロントブレーキは 1971年モデル ("H1A") と同じドラム。（Fディスクモデルも極めて少数だが存在する。カタログなどに見受けられる） 点火機構も 1971年モデルの CDI。 つまり "H1A" に "H1B" のタンクとサイドカバーを付けたもので、この仕様でおよそ 1,000 台ほどが生産された。"H1A" の残存部品処分モデル。 [編集] 750SS MACH IV (H2) カワサキ・750SS1969年に発売された 2 ストローク空冷 3 気筒 500 cc のマッハIII (H1) はその強烈な加速性から欧米で好評を博したが、やや遅れてホンダCB750が発売されると、性能的には大差なく､価格はおよそ 1.5 倍であるにもかかわらず次第に人気を奪われるようになった。 これ以前の時点で既にカワサキは 750 cc 4ストローク4気筒車の開発に着手していたが、このホンダ CB750 の出現により、全ての面で CB を上回る車種 (Z1) に変更することとしたため、市販できるのは 1972年以降となることが明らかとなった。 このため、その間の対抗馬として少なくとも加速性と最高速度で CB を圧倒できる（すなわち世界最速）ものとして、H1 エンジンのボアストロークを拡大して 750 cc としたのがマッハ IV (H2) である。 1972年秋に Z1 が販売開始された直後に発生したオイルショックにより、H1 に比べても一層燃費の悪い H2 は、より現実的になってきた排出ガス / 騒音規制に対応する手立ても乏しく、S1 (250 cc) / S3 (400 cc) / H1 (500 cc) がそれぞれKH250 / 400 / 500と名称変更して（敢えてパワーダウンを伴っても）存続したのに対し、H2 のみは 1975年モデルをもって型式消滅となった。 [編集] H2 主要諸元（1972年モデル）製造初年：1971年（1972年モデルから） 全長×全幅×全高：2,095 × 850 × 1,145 mm ホイールベース：1,410 mm メインフレーム：鋼管ダブルクレードル サスペンション形式： フロント：テレスコピック リア：スイングアーム ブレーキ 前輪：ディスクブレーキ（シングル） 後輪：ドラムブレーキ（リーディング・アンド・トレーリング） 乾燥重量：192 kg エンジン形式：H2E 型（空冷2ストロークピストンバルブ並列 3 気筒） 総排気量：748 cc ボア×ストローク：71 × 63 mm 圧縮比：7.0 最高出力：74 hp / 6,800 rpm 最大トルク：7.9 kg-m / 6,500 rpm [編集] モデルチェンジ H2（1972年モデル）：初期型 H2A（1973年モデル）：スイングアーム延長 H2B（1974年モデル）：ホイールベース延長、最高出力ダウン（74 ps → 71 ps）、エンジンのラバーマウント、油圧式ステアリングダンパー、テールカウル / ランプ変更 H2C（1975年モデル）：タンク変更 [編集] 250SS MACH I (S1) 71年に発売された、350SS MACH II (S2) のボアダウン版で、排気量以外はほぼS2と同じ。クランクも350と同一のものを使用するためストロークは共通、そのためロングストロークエンジンである。発売は1972年2月。 スペック（72年の発表時） ボア･ストローク：45×52.3mm　排気量249cc 最大出力：32ps/8000rpm 最大トルク：3.0Kg-m/7000rpm 点火方式：ポイント式バッテリー点火 ホイールベース：1330mm タンク容量：14ℓ 車両重量：148Kg タイヤサイズ：フロント3.00-18　リア3.25-18 ブレーキ：フロントツーリーディングドラム・リアリーディング/トレーリングドラム カラーリング：レインボーライン 74年、マイナーチェンジを受け、ホイールベースが1375mmに、最高出力は28ps/7500rpm、最大トルクは2.7Kg-m/7000rpmへダウン、車両重量が154Kg、カラーリングはブルーラインへ変更された。 75年、カラーリングがレッドラインへ変更されたが、その他スペックに変更は無い。S1としては最終型になる。 76年、フロントブレーキが油圧シングルディスクに変更され、KH250となる。タイヤがフロント・リアとも0.25インチ太くなり、3.25-18/3.50-18へ変更、車両重量が160Kgへ増加、カラーリングは4色ストライプへ変更された。 78年、カラーリングの変更でKH400との差別化が図られた。さらに、フロントブレーキのマスターシリンダーの形状変更、シートはモダンな形状へ変更された。 79年、カラーリングが250/400とも共通になり、ライムグリーンへ変更された。最後のKH（MACH）シリーズとして1980年2月に生産を終了した。 350SS S2 [編集] 350SS MACH II (S2) 1971年に発売された、MACHシリーズの末弟で、350ccはそれまでに発売されていたH1/H2より小型化されていた。そのため、共通するのは、2ストローク120度クランク3気筒と言うエンジンスペックだけで、500ccや750ccモデルと共通する部品は使われていない。 当時の350ccクラスではトップの45馬力を発生するなど、マッハの名に恥じないモデルであった。 スペック（71年の発表時） ボア･ストローク：53×52.3mm　排気量346.2cc 最大出力：45ps/8000rpm 最大トルク：4.25Kg-m/7000rpm 点火方式：3ポイント式バッテリー点火 エンジン潤滑：スーパールーブ方式 車体寸法：全長2010mm 全幅800mm 全高1095mm ホイールベース：1330mm キャスター角：62度 トレール量：110mm タンク容量：14ℓ 車両重量：148Kg タイヤサイズ：フロント3.00-18　リア3.50-18 ブレーキ：フロントツーリーディングドラム・リアリーディング/トレーリングドラム カラーリング：レインボーライン 73年にマイナーチェンジされ、S2Tとなる。 主な変更点は、フロントブレーキが油圧シングルディスクブレーキに変更、タンクキャップ及びシートにキーロックが装備された。エンジンの最高出力が44馬力に、最大トルクが4.0Kg-mへダウンされた。カラーリングは、同年式のH1Dと同じキャンディゴールドが採用された。車両重量は149.5Kgになった。S2としてはこれが最後のモデルになった。 [編集] 400SS MACH II (S3) 1973年10月の東京モーターショーで発表された、それまでのS2に代わる400ccのMACHである。 エンジンは、350S2のボアを4mm拡大し、400ccへ排気量をアップしたが、最高出力はS2より2馬力ダウンの42馬力になった。最大トルクは4.32Kg-mへと強化された。後輪のスイングアームが延長され、ホイールベースが1365mmへ伸ばされた。車体が大きくなった結果、車両重量は159kgへ増加したが、エンジンがラバーマウントされるなど、振動軽減が図られ、扱いやすさが増した。またそれまで外部に露出していた、オイルタンクの給油口がシート下へ移動され、いたずら等の防止が図られた。 このS3から、H1/H2とデザインの共通化が図られ、タンク・サイドカバー・シートの形状、及びカラーリングが似たデザインへ変更された。 スペック（73年の発表時） ボア･ストローク：57×52.3mm　排気量400cc 最大出力：42ps/8000rpm 最大トルク：4.32Kg-m/6500rpm 点火方式：マグネトーＣＤＩ エンジン潤滑：スーパールーブ方式 車体寸法：全長2025mm 全幅820mm 全高1130mm ホイールベース：1365mm キャスター角：62度 トレール量：112mm タンク容量：14ℓ 車両重量：159Kg タイヤサイズ：フロント3.25-18　リア3.50-18 ブレーキ：フロント油圧シングルディスク・リアリーディング/トレーリングドラム カラーリング：レッドライン 75年には、カラーリングが変更され、250/500ccと同様のストライプが入れられた。 75年12月に、マッハシリーズは名称をKHへ変更され、H1はKH500、S3はKH400、S1はKH250となる。750のH2は市販レーサーの、KR750を残し生産中止となった。 S3からKH400への主な変更点は、点火性能の安定のためマグネトーCDI点火を採用した。最高出力の自主規制による吸排気系のデチューンの結果、最高出力は38馬力/7000rpm、最大トルクは3.9Kg-m/6500rpmへダウンした。カラーリングはレインボーラインへ変更された。 この後、小変更を重ね、80年2月にKH400は製造中止されたが、82年頃まで販売されていた。 [編集] 愛称についてカワサキ　マッハシリーズは 250 / 350 / 500 / 750 の各排気量を持つ車種に対してそれぞれマッハ I / II / III / IV と命名された。H2 は MACH IV に該当し、カワサキのサービスマニュアル等にもこの名称が使われているが、日本向け H2 (750SS) のサイドカバーには "MACH III 750" というエンブレムが装着されている。もともと、H1 (500 cc) 発売時の "MACH III" の "III" は「3 気筒」を意味するものであったので、その意味からは 750 cc 車でも MACH III は誤りではない。しかし、同様に 3 気筒である 250 / 350 (400) cc 車には何故かこの愛称は用いられていない。 [編集] 関連項目フランスにMOTOBECANE350というマッハS2のコピーバイクが存在した <a href="http://www.jet-skiing.biz/" target="_blank">ジェットスキー引取り</a>
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<pubDate>Tue, 30 Dec 2008 23:39:43 +0900</pubDate>
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<title>KH乗りたいね</title>
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<![CDATA[ <p>KH90<br>SS90の後継機種として発売。前後に油圧ディスクブレーキを採用するなど、当時としては高級路線を志向していた。しかしながら中間排気量という位置づけから国内向けの販売台数は少ない。最大出力10.5psの空冷2ストローク単気筒ロータリディスクバルブエンジンを搭載していた。</p><p><br>[編集] KH125<br>1970年代後半から1980年代前半に掛けて生産販売されていた2ストロークの123cc単気筒を搭載したスポーツモデル。後継の水冷エンジンを搭載したAR125の生産開始と共に国内向けの生産終了した。もともと注目が集まらないクラスだけあり、人々から忘れられた存在となっていたが、1990年代後半に一部業者がタイ・カワサキで、ほぼ昔と同等のスペックで製造を行っていたKH125の輸入販売を開始。価格の安さと取り扱いやすさから認知度が高まった。別名、GTO。</p><p><br>[編集] KH250<br>「ジャジャ馬」と言われたマッハIIIと同じ2ストローク3気筒3本マフラーのレイアウトで兄弟車のKH400とともに最後まで存続した、マッハシリーズの末裔。最大出力28ps/7.500rpm 最大トルク2.70kg-m/7.000rpm 。もともとカワサキ・350SS（S2）のストロークをそのままにボアダウンしたエンジンのため、ボア×ストロークが45×52.3mmとロングストロークタイプとなっている。</p><p><br>[編集] 初代 (A5)<br>1976年に発売。前年まで販売されていた250SSの名称変更という意味合いの強いモデルで、ブレーキは前後ドラムのままであるが、燃料タンクはキー付きになり、ヒューズボックスも以降のKHシリーズで標準装備となる3系統タイプに変更された。</p><p><br>[編集] 中期 (B1～B3)<br>1976年下半期から販売されたモデルから、フロント周りにKH400のディスクブレーキが移植され、またそれに伴いフレームのネック部分に補強が入ったため、排気量以外は全くと言っていいほどKH400と同一の車体となった。</p><p><br>[編集] 後期 (B4～B7)<br>フロントブレーキのマスターシリンダーを、それまでの丸型のものから角型のタイプに改良。サイドカバーは車体と同一色からブラックアウトに。80年から製造された最終型は、すでにラインナップは4ストローク高性能車がほとんどの中、ライムグリーンの近代的な塗装で1982年まで販売されていた。</p><p><br>[編集] KH500<br>1975年発売。それまで販売されていた500SS MACH IIIの名称変更モデル。詳しくはカワサキ・マッハ#500SS MACH III (H1)の項目を参照のこと。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/yamaharz/entry-10185401263.html</link>
<pubDate>Tue, 30 Dec 2008 23:38:06 +0900</pubDate>
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<title>RD旧車</title>
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<![CDATA[ <h2><span class="mw-headline">RD250<br>1971年に発売されたDX250の後継機種として、1973年に販売が開始された空冷2ストロークエンジン（最高出力30馬力）を搭載するスポーツバイク。兄弟車としてRD350（後にRD400）も併売しており、フレーム等を共用していたことから、エンジン等を流用して組み上げられている個体も多い。1975年、1978年にマイナーチェンジを受けるが、最終形の丸みを帯びたデザインは特に人気を集め、RZシリーズにバトンタッチされた後も、中古車市場で長らく人気を集めることとなった。</span></h2><span class="mw-headline"><h2><br>[編集] RD350<br> <br>RD3501973年に発売されたRD250の兄弟車。フレーム等は250と共用。このため後年、250のオーナーがエンジン等を流用したことから国内仕様が現存することは希である。1975年、ライバルの高排気量化に伴いRD400へバトンタッチされた。</h2><h2><br>[編集] RD400<br></h2></span>
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<link>https://ameblo.jp/yamaharz/entry-10185400684.html</link>
<pubDate>Tue, 30 Dec 2008 23:35:47 +0900</pubDate>
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<title>RZ250の詳細</title>
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<![CDATA[ <p>RDの後継車種で、1980年8月に株式会社ヤマハ発動機から販売された国内向け専用の250ccのオートバイ車名である。</p><p>「RZ」の「R」は元来はヤマハ社内で350ccを意味している記号ではあるが、「Z」は水冷を意味する。他にアルファベット最後の文字から転じて、最後の、究極のといった意味も込めているという。</p><p>スポーツバイク本来の基本走行性能を中心に設計されたエンジンは、当時の同社製市販レーサーであるTZと同じボア・ストローク（54mm×54mm）の水冷2ストローク並列2気筒のレイアウトを採り、同クラスとして当時トップの35psを誇った。軽量化のため樹脂部品も多用された他、リアサスペンションにはロードスポーツモデル初採用のカンチレバータイプのモノショック（モノクロスサスペンション）、新デザインのキャストホイール、大型のハロゲンヘッドライトなど、当時の最先端アイテムを装備していた。オートバイ専門誌のスクープ記事で初めて紹介された1979年から1年近く待たされての発売（1980年8月）だったことも手伝ってか、注文から納車まで3ヶ月待ちなどという状況が暫らく続くほどであった。株式会社GKインダストリアルデザイン研究所（現・株式会社GKダイナミックス）の手によるスタイリング・デザイン面も好評だった。なお、通称日の丸カラーともいわれる初期型のホワイトモデルは美しいパールペイントである。（以降のホワイトはソリッドホワイト）</p><p>そして走行性能の高さも特筆するものであり、上位排気量の4ストローク400ccクラスとも対等以上に渡り合える性能だったことから、「400キラー」とも呼ばれた。車両の走行性能などの目安とされるパワーウェイトレシオも3.97kg/psと、当時の4ストローク400ccクラスと肩を並べられるものだった。チャンバータイプの（膨張室を持った）マフラーの市販車採用も当時では珍しく、ルックスのレースイメージのアップとともに、性能アップにも貢献していた。</p><p>RZ250の商業的成功は、消えかかっていた2ストロークファンを呼び戻し、その後に続くレーサーレプリカブームの布石ともなった。</p><p>2ストローク車でありながら暴走族に人気のある車種でもあり、カワサキKHやスズキGTとともに三段シートに集合チャンバーを装着された暴走族仕様が存在する。</p><p><br>[編集] RZ250R,RZ250RR （29L）<br>1983年に発売された2代目は、車名をRZ250Rと変え、ビキニカウルが標準装備され、タンク容量は20Lへ、そしてエンジンには他社に先駆け、排気タイミングをエンジン回転により最適化させるための先進の排気デバイス（YPVS）を搭載し出力を43psに強化。この時装備されたYPVSは、競技用のマシンでさえ機械式であったのに対し、当時のワークス（ファクトリー）マシンと同じ電気式を採用していた。フロントブレーキはダブルディスク化され、リアブレーキはドラム式からディスクブレーキ（対向ピストンキャリパ）、リアサスペンションもリンクを介したタイプに進化するなど、総合的性能を一段と向上を図った反面、大ヒットした初期型で切り捨ててきた装備の豪華さなどを盛り込んだためなのだろうか、6kgの贅肉がつくことにもつながったが、この型が最終型（3HM）までのベースとなり続ける事になる。またキャスター/トレールが26度50分/101mm ⇒ 26度30分/99mmと若干立ち気味になったものの、30mm伸ばされたホイルベース（軸間距離）と一般的ダブルクレードルフレームから、当時のレーサーTZとのようなワイドタイプ・ダブルクレードルフレームへ大幅な変更を受け、サーキット走行などでのタイム短縮には大きく貢献した反面、安定性の高まった相反する一面として、ストリートなどでの小回りが幾分しにくくなったが、RZ250で比較的高速コーナーなどでよく見られたヨーイングやウォブルといった不安定な動きも、かなり高いレンジまで押し上げられている。</p><p>その後、エンジン出力は当時の業界自主規制の上限一杯の45psまで引き上げられ、更に多岐に渡る改良、追加、変更などを加えながら次のようにマイナーチェンジを重ねた。</p><p><br>[編集] RZ250RR（51L）<br>エンジンサイドまでのハーフカウル仕様 YSP限定車のみフルカウル仕様 、強制開閉式パワージェット付きキャブ、別体サイレンサータイプのマフラー、フロントブレーキキャリパを対向ピストンタイプへ変更、電気式タコメーターの採用、丸型ウィンカーを現在のXJR1300などに採用されている卵型のものへ変更、トップブリッジ上側のマウントでバーハンドルと高さは大差ないが、レーサーをイメージさせるセパレート形状のハンドルが採用されたのもこのモデルからである。...etc</p><p><br>[編集] RZ250R（1AR）<br>RZ250RRのネイキッドバージョン。大型角型ウィンカー、タンクのエンブレムが「RZR」の表記の前期モデルと「YAMAHA」の後期モデルがあるが、その他グラフィック類差異程度ある。</p><p><br>[編集] RZ250R（1XG）<br>TZR250デビュー後発売のモデル。シートレール形状変更、タンク形状・容量変更（20L⇒17L）、ホイールデザイン変更、キャスター/トレール⇒26度/96mmへ変更、テールランプのレンズが従来までの三角おむすび形から一般的な四角形の物へ変更、丸型ウィンカーを現在のXJR1300などに採用されている卵型のものへ変更など。 またタンクやシートレール変更に伴い、サイドカバーもテールカウルまで続く一体形状に変更された。</p><p><br>[編集] RZ250R（3HM1）<br>当時の4ストロークエンジンを積んだレーサーレプリカモデル、 FZR250系の足回りをそのまま移植したような内容だった。代表的なものは17インチになった3本スポークの前後ホイール(通称ヤマビック)である。</p><p>上記の他、YSP仕様などの限定モデルも存在する。</p><p>1985年11月に新型機種TZR250が2ストロークエンジンのスポーツバイク後継機種として発売になり、時はレーサーレプリカブームの真っ只中となったが、RZ250Rは引き続き廉価版モデルとして併売され、1988年7月に最後のモデルチェンジが行なわれた。 それまでのモデルと大きく異なるのは点火系統でデジタル進角CDIが採用されたのはRZ国内モデル唯一である。</p><p><br>[編集] RZ350（4U0）<br> <br>RZ350の輸出仕様・RD350LCRZ350は1981年に発売された。</p><p>250との主な違いは、排気量（ボア・ストローク=54mm×54mm 247cc⇒64x54mm 347cc）とエンジンのフレームマウントが1箇所増えて3箇所になっている他、フロントブレーキのダブルディスク化（マスターシリンダーも変更）、ホーンもシングルからダブル化され、オイルポンプ駆動用ウォームギアの変更による吐出量増加、キャブレタージェット類の変更、トップブリッジのハンドルマウントのラバーマウント化、二次減速比変更に伴ってドライブ・スプロケット、ドリブン・スプロケットの歯数変更、リアホイールに内蔵するハブ・ダンパーの大型化（250の丸形ラバー・ブッシュタイプから、チーズダンパーへ変更）など多岐に渡る。内部構造についての言及は避けるが、マフラーに刻まれている文字列に相違も見られる。発売当時のOEMタイヤにリアだけではあったが、当時人気のダンロップK81・TT100が奢られていた。ちなみに250はヨコハマタイヤである。 その他機能部分以外にも、スピードメーターのスケールが160km/h⇒180km/hへアップ、ホーンが高低音のダブルタイプになり、ステアリング・ステム（アンダー・ブラケット）前方にブレーキ・ホースの分岐部を隠すための樹脂製のカバーも付いていた。カタログ印刷段階のミスだったのかどうかは計り知れないことではあるが、燃料タンク容積の表記に0.5Lの差異があり350の方が少ない表示になっていた。（16L⇔16.5L）</p><p>一般には、概ねエンジンの排気量と、Wディスク化されて制動力を強化した程度の認識ではあるが、100ccの違いから生まれるエンジンの素性は、パワー・バンドを過ぎた後のオーバーラン特性にも優れ、250よりも高速回転域が伸びやかであった。走行性能を大きく左右するパワーウェイトレシオの数値も250の3.97kg/psから3.17kg/psへ引上げられた。これは当時の750ccクラスと肩を並べる数値であったため、ナナハンキラー（北米では「ポケットロケット」）の異名を持つまでの存在となった。</p><p>当初は欧州向けの輸出専用車（欧州ではRD350LC）だったが、81年に国内でも販売が開始された。しかし、車検制度の制約があるため国内販売台数は低迷した。また、250ccの車体で350ccエンジンへの載せ替えが容易であったという面から、エンジンを載せ替えて改造しようとするマニアから重宝されたこともあり、現存する車両は非常に少ない状況である。</p><p> <br>RZ350R(海外モデル)その後は250同様にRZ350R→RZ350RRとモデルチェンジしていくが、スパルタンな趣を与えられた初代と比較して、モデルチェンジ毎に安定志向の強いスポーツモデルへと変貌を遂げていった。ただし、250Rで言う1AR以降のモデルにあたる350Rは国内モデルには存在しない。51Lの350cc版である31Kを最終型としてカタログオフされた。海外モデルでは国内でいう3HMをベースとした350Rが存在し、最終型はデュアルヘッドランプのフルカウル仕様となって、後々まで販売された。排気ガスの基準が各国まちまちである為仕向地にもよる（触媒を採用したモデルでは当然デチューンされている）が、機関、電装系統について総合的にみれば完成度の高いこの国外350Rが最強といえよう。</p><p><br>[編集] RZ125<br>RZ125は1982年に発売され、数度のモデルチェンジを繰り返した後、TZR125に引き継ぐ形で生産終了した。</p><p>前期と後期に大別され、前期型（13W）はYPVS無し、後期型（1GV）にはYPVSが装備されている。排気デバイスの有無により前期型はピーキーな高回転型エンジンとなり、後期型は比較的マイルドなエンジンとして評価される。（なおRZ125S・・・33Xなる中期型も存在し、YPVSは装備されないが1GVと同等の22.0PSに向上されグラフィックの変更と特徴的な角目ミニカウルが装備された）プロダクションレースのベース車両としても重宝された。なお最終型1GVはRZ125からTZR125への過渡期にあたるため共通点も多い。フォークやメーター等は共通部品であるし、ホイールもサイズこそ異なるが類似のデザイン。そしてTZR125も初期型2RMはリアブレーキはドラムを採用している。</p><p><br>[編集] RZ50<br>RZ50は1980年に水冷、7.2psという当時の原付最先端のスペックを持ったスポーツバイクとして発売され人気を博し、数度のモデルチェンジを繰り返した後、一旦はTZR50に引き継ぐ形で生産終了したが、当時主流であったフルカウルのレーサーレプリカタイプの流行に陰りが見えていた中 、いわゆるネイキッドタイプの大人しくトラディショナルなスタイルのバイクとして1998年に復活した。エンジンはアップデートな水冷であるが、スタイリングはスポークホイールやダックテールなどRZというより、むしろTDレーサーや空冷モデル（RD系）をイメージさせるデザインである。</p><p>初代のRZと二代目とでは車名こそ同じだが全くの別物と言って良い程ルックス、メカ共に異なる。フレームはDT50の設計を流用しており、キャストホイールから鉄スポークホイールへの変更、角ばったサイドカバーやシートカウル類はデザインを一新、ロングタンクに短いシートカウルは60-70年代のレーシングバイクを彷彿とさせる物。フロントマスクも角ライトから丸ライトに変わっている。エンジンはTZR50Rのために新設計された物を小変更し搭載。初代は電装が6Vでキック始動だったが、二代目は電装が12Vに強化されセル始動となっている。なお初代モデルのパーツは、もはや在庫が無いに等しい程度に減ってしまっており、壊れたら致命的になる。</p><p>50ccながらフルサイズのため、他の原付と比べても長距離になるにつれ疲労が少なくすむためツーリングには向いていたが、新車価格が高価（2007年時点で28万4550円）であったことから、自動二輪車免許を持つライダーからは原付二種と比較されたが、2ストロークエンジンという希少さから、あえてRZを選択する人も見受けられた。</p><p>RZ50は国産車最後の2ストロークスポーツモデルとして生産され続けていたが、2007年の自動車排出ガス規制により生産終了となり、RZシリーズは27年の歴史に幕を下ろした。</p><p><br>[編集] RZにまつわる話<br>輸出仕様の車名はRD250（350）LC（liquid　coold=水冷の意）である。従来からの空冷2ストロークスポーツの車名であるRDに、水冷（Liquid-Cooled）を意味するLCを加えた形であり、単なるRDはRZの前に国内でも発売されていた空冷エンジンを搭載するバイクであることから注意が必要である。 <br>RZのペットネームが初めて使われたのは、1975年に試作されたRZ201である。エンジンはRZの代名詞である2ストロークではなく、ヤンマーが開発したチェーンソー用のロータリーエンジンを転用したものであった <br>初代4L3型のメーターパネルは、直射日光の下に放置しておくと、レッドゾーンがピンクゾーンになってしまう。ボディカバーをかける、ガレージにしまう等の対策はもとより、紫外線防止対策をすることである程度防ぐことができる。また、バルタン星人を連想させるメーターケース上部、方向指示インジケーターの下部側面にひびが入りやすい。これも紫外線が原因のようである。</p>
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<pubDate>Tue, 30 Dec 2008 23:32:31 +0900</pubDate>
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