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<title>山男のブログ</title>
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<title>さとり</title>
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<![CDATA[ うまいものを食べてうまいと思う<div>かわいい子を見てときめく</div><div>おっぱいを見て興奮する</div><div>理不尽なことを言われてムカッとする</div><div>正当なことを言われて反省する</div><div>人と話して笑う</div><div>人が苦しんでる時かわいそうだなと思う</div><div>人が楽しんでるとこっちも楽しくなる</div><div>人の努力や涙に感動する</div><div>酒がうまい</div><div>酒がまずい</div><div>ふざけんなよと思う</div><div>男気を出す</div><div>男気をやっぱり引っ込める</div><div><br></div><div>すべてさとり</div>
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<link>https://ameblo.jp/yamaotoko7148/entry-12360023573.html</link>
<pubDate>Tue, 13 Mar 2018 21:11:21 +0900</pubDate>
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<title>自行と化他</title>
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<![CDATA[ 1月1日は元旦と呼ばれる。元旦の細かい意味は知らないが、要は「初め」という意味なのだろう。<div>初心に帰るというが、1月1日の元旦こそ、初心に帰る絶好の機会だと思う。去年の総括と来年への抱負を掲げる。そして今一度自分を振り返ってみる。正月にこのような時間を費やすことは決して無駄な時間にはならないと思う。</div><div><br></div><div>仏教の修行は大きく分けて二つある。自行と化他行である。</div><div>自行とは自分のために行うことで、化他行とは人のために行うことである。</div><div>例えば、自分が悟りを開くために修行するのは自行で、人に法を説いたり布施をしたりして、人を苦しみから救うのは化他行である。</div><div><br></div><div>ところが、最近思うのは、究極のところ、人間の修行は化他行に尽きるのではと思うようになった。</div><div><br></div><div>例えば、高校・大学へ行って勉強したり、資格を取りたくて勉強するのは自行である。弁護士になりたくて勉強する、医者になりたくて勉強する、ファイナンシャルプランナーになりたくて勉強する、あるいは職人の親方に弟子入りして仕事を覚える、これらはみな自行である。ところが、その資格なり技術を得てするところの行いとは、結局のところ、化他行に他ならないのである。弁護士は依頼者から法律をよりどころにして問題を解決する化他行、医者は病気を薬や手術によって治す化他行、ファイナンシャルプランナーはお金の問題を解決する化他行、寿司職人ならお客様に味による喜びを与える化他行である。</div><div><br></div><div>そう考えると、自行だと思って努力を積み重ねてきた行為は、終極のところ、人のための行いである化他行に集約されるのである。無論、その対価としてお金はもらう。ここをもって、お金のために働いているのだから、究極の目的はお金のため、つまり自行ではないかと言う人もいるだろう。実際の心情はその通りである。しかしよく考えるべきなのは、行の本質はどこにあるかということである。病気を治すとき、寿司をつくるとき、行為は純粋な利他である。利他行の対価報酬としてお金をもらうのであって、行為自体の本質、終極は利他なのである。</div><div><br></div><div>社会とは何か、経済とは何か。難しいことはわからないが、ここから見えてくるのは、社会、経済とは人々の相互の利他行によって成り立っているものなのではなかろうか。</div><div>利他によって社会が成立する以上、人は自分の欲望と他人の欲望を共に満たすように行動すべきである。自分も幸せ、他人も幸せ。自分だけがよければいいというのは当然よくないし、かといって、他人だけが得するような自己犠牲も必要ない。</div><div><br></div><div>そういえば、経済学では人間を完全に利己的な動機によって行動すると仮定している。各々が利己的に行動することが全体として自然調和して経済が適正化すると説く。しかし、これは間違っていると思う。利己的に行動するのではなくて、利他的に行動するから社会は成り立っているのである。経済学では経済行動から発生するところの対価報酬を得るという側面に焦点をあて、利己的な経済人を想定するが、それは前にも述べた通り、利他的な行為の対価として得るのであって、経済行動の本質は利己ではなく利他なのである。</div><div><br></div><div>話がいろいろ逸れてしまったが、自行は結局は利他行に集約されるのだと思う。</div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/yamaotoko7148/entry-12341835047.html</link>
<pubDate>Tue, 02 Jan 2018 12:08:06 +0900</pubDate>
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<title>縁起の思想</title>
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<![CDATA[ 仏教思想の中で、これまでに空の思想、小乗思想、大乗思想などについて何度か触れてきたが、縁起の思想についてはほとんど触れて来なかった。<div><br></div><div>空とはあらゆるものは実体がないという物の捉え方であるが、では実体がないといわれるところのもの、食べ物、建物、服、身体、その他あらゆるもの、目で見え、体で感じることができるもの、これらは一体何なのか。実体がないといわれるが、現に私たちはそれらを目で捉え、感じ、知覚しているのである。知覚できるものを、いきなり実体がないと言ってしまっても困惑してしまう。現に知覚できるものをどのように解釈すればよいのであろうか。</div><div><br></div><div>このような疑問に対し、あらゆるものは関係性により成り立っていると仏教では説く。縁起とは関係性によって成り立つという意味である。例えばここに一本の草が生えているとして、草は土や水や空気、日光などの関係性により成り立っている。土がなくて草は成り立たないし、水がなくて草は成り立たない。私たちは草を見て、草が「ある」と考え、草という実体を想定するが、それは間違っているのである。草はそれ自体単独として存在していない。さまざまな関係性により成り立っているのであって、そういった関係性がなくなるのであれば、草もまた存在できないのである。</div><div><br></div><div>空や縁起の思想は実体主義と対立する。実体主義とは個を不変の実体としてとらえたり、または社会を実体あるものととらえたり、または原子を実体あるものととらえたり、いろいろな実体主義があるが、要は何かを実体としてとらえる思想を指していう。デカルトは考えることを原始にした実体主義である。プラトンのイデア論も、それ自体がそれ自体として単独で存在する「ものそのもの」を想定するから、イデア実体主義である。こういった実体主義に対し、仏教では空と縁起を持ち出してそれは違いますよというのである。</div><div><br></div><div>ある人は、これからの時代は実体主義ではなく、関係主義の時代になると述べたが、私もそうあってほしいと思う。現に最近注目されている量子物理学は、まさに存在は関係性により成り立っているということを証明しているように思われる。現代科学がようやく空や縁起の思想に踏み込み始めたのであろうか</div>
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<link>https://ameblo.jp/yamaotoko7148/entry-12326472509.html</link>
<pubDate>Tue, 07 Nov 2017 21:02:21 +0900</pubDate>
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<title>交感神経と副交感神経についての個人的見解</title>
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<![CDATA[ 自律神経には交感神経と副交感神経の２つがある。<div>交感神経は活動しているときに働く神経で、他にも緊張やストレス状態にあるときに働いている。</div><div>副交感神経は休息しているときに働く神経であり、睡眠やリラックス状態にあるときに働いている。</div><div><br></div><div>仕事、勉強、緊張、ストレスばかりで交感神経だけが働いていれば体を壊すし、逆に休息ばかりすれば症状は違えど体を崩す。交感神経、副交感神経のどちらであれ、一方に偏れば、ふさわしいあり方から外れてしまうのだと思う。思うに、人が人を励ます時、「がんばれ」と言ったり「がんばらなくていいよ」と言ったりすることがあるが、交感神経ばかり使う人には後者を用い、副交感神経ばかり目立つ人には前者を用いるのだろう。</div><div><br></div><div>睡眠に関して言うと、個人的には寝ることが好きで、寝ても寝たりないということがよく起きる。8時間睡眠は私にとって当たり前。こういった状態を変えたかったが、なかなか変えられずにいた。ところが、最近副交感神経について思い至り、仕事で根詰めすぎるのはやはり体のバランスを崩すのではないか。根詰めたとしても、副交感神経を使う状態をもっと生活に取り入れた方がよいのではないか。このように考え、試しに副交感神経を使う状態を積極的に取り入れてみた。すると、面白いことに、少ない時間で睡眠を取ることが自然とできるようになり、寝ても寝たりないということがなくなったのである。おそらく副交感神経の状態を増やしたことで、睡眠時間を短縮できたのではないかと個人的に思うに至った。</div><div><br></div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/yamaotoko7148/entry-12324772426.html</link>
<pubDate>Wed, 01 Nov 2017 17:55:01 +0900</pubDate>
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<title>代数</title>
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<![CDATA[ 代数とは数の代わりに用いられる記号のことで、一般的に使われる代数の例として、xやyなどが挙げられる。<div>例えば、2+x=5という問題であれば、x=3である。<br></div><div><br></div><div>普通の計算式が直線的に解答を目指すのに対し、代数を用いた計算式は仮定を用いて解答を得る手法を取る。具体的に言うと、先の2+x=5という問題であれば、「もし仮に、2に何かの数を足して5になるとするならば、何かの数とは3である」という思考方法で解答に到達する。</div><div><br></div><div><br></div><div>2x+3=11なら、「もし仮に、2に何かの数を掛けて、そのあと3を足した数字が11になるとするならば」</div><div>次に移項し、2x=11-3では、「もし仮に、先に足した3を加えないとするならば、11は(3を加えないから)8になり」</div><div>X=2/8では、「(続けて)もし仮に、先にある数に掛けた2を掛けなかったとするならば、8も掛けないことになるから、8は4となり、4はそれ以上遡れない。つまり4は最初に仮定した何かの数である」という思考方法となる。</div><div><br></div><div>解答へ到達するのに重要なステップは2つある。</div><div>１つは仮定すること。「もし仮に～ならば、○○である」と仮定することで、詳細は未確定ながらも結果を弾き出し、思考の手がかりをつくることができる。</div><div>2つめは仮定しながら原始に戻ること。3を加える前に戻り、2を掛ける前に戻る。そうやって無駄なものを取っ払ったあと、求めたかった原始のある数が現れてくる。</div><div><br></div><div>上述の計算は簡単だが、どんなに複雑で難しい計算でも、仮定を置き、仮定しながら原始に戻っていけば、必ず解答に到達する。もし到達しなかったなら、最初に仮定した結果(例題でいうと11にあたる)は間違っていたということになる。</div>
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<pubDate>Wed, 04 Oct 2017 20:05:51 +0900</pubDate>
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<title>色即是空　空即是色　2</title>
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<![CDATA[ さて、もう半分の真理、空即是色とは何なのか<div><br></div><div>その前に、なぜ、先の色即是空の真理のみではだめなのか。</div><div>もし仮に真理が色即是空(目に見えるすべてのものは実体のないもの)のみだとしたら、仏も無常、空虚で実体のないものということになる。またまたあらゆる善や善行も無常、空虚ということになる。もしそうなれば、仏や聖人が尊いということもなくなるし、善を勧めることもなくなる。万物万人が空虚ということになるなら、人を救うこともまた空虚ということになる。</div><div><br></div><div>こうなってしまえば、色即是空の真理「のみ」を追求し体現してしまうと、途方もなく誤った教えとなってしまう。世間のしがらみから離れ、万物の執着から離れるかもしれないが、その人は人を尊ぶことも敬うことも愛することもなくなるだろう。人の苦しみを見て悲しむこともなくなるだろう。そうなってしまったら、何のための仏教なのか。このように、仏の弟子たちが先の色即是空の真理のみをもって我悟りを得たりと思ってしまうことは仏の本意ではないし、むしろそういう人たちに対し、仏は大乗教を開いて後、厳しく叱咤するのである。</div><div><br></div><div>では後の空即是色とは何か。</div><div><br></div><div>先ほど悟った空という真理は、実は我々の肉体のことであるし万物のことである。</div><div>これを前回のブログに倣って言うなら、先の色即是空が非有、つまり、すべてのものはあるのではないという真理であるのに対し、今度の空即是色は非無、つまり、すべてのものはないのではない、という真理になる。</div><div><br></div><div>ないのではないと悟ったときに、先に空虚なものと思っていた万人は尊厳を得、善は輝き出す。人は尊いし愛しい。人が苦しむ姿を見れば胸は苦しみ、苦しみを救おうとする。ないのではないのである。善と悪、愛と憎しみ、楽と苦、その他すべてのものはないのではない。この肉体も、目の前に見えるあらゆるものもないのではないのである。</div><div><br></div><div>孔子が説いた五常は空即是色が前提であろう。ソクラテスやイエスもまた然り。聖人は徳を教えるが、徳を教える根拠はまさに万物万人が空即是色だからである。</div><div><br></div><div><br></div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/yamaotoko7148/entry-12304654973.html</link>
<pubDate>Fri, 25 Aug 2017 18:06:13 +0900</pubDate>
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<title>色即是空　空即是色</title>
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<![CDATA[ 色とは目に見えるもの、五感によって把握できるすべてのものである。<div>肉体、服、水、火、大地、木々、野菜、お金、家、車、すべて色である。</div><div><br></div><div>日常、私たちは色に触れ、色に浸って生活し、色の中で生きている。色に喜び、色に怒り、色に悲しむ。</div><div>人生は色に始まり色に終わると言えば、正に的を得た言葉と言える。</div><div><br></div><div>空とは何か。空とは実体のないもののことである。陽炎のように移ろい揺らぎ、夢や幻のように不確かで実りなく、はかないもののことである。実はこの空の説明も正確ではない。というのは、「実体のないもの」と言うと、「実体のない」という「もの」があるということになる。「もの」と言ってしまうと、「実体のない」という形容がついた固定された何らかの存在を想定しなければならなくなるが、そうなってしまうと空の義から外れてしまう。空とは無常である。すべてのものは一瞬たりとて同一のものとしてとどまることがない。だから何かが「ある」と言えば、たちどころにその何かは固定されてしまうのであり、そうなったらその何かは空ではなくなる。つまり実相の義から外れるのである。ここをもって釈尊は人々を転倒の衆生といい、その意味は、人々は実際は空であるものを固定して見るゆえに誤った考えをもつというのである。</div><div><br></div><div>したがって、空を正確に説明するなら不可説となる。なぜなら、言葉自体が既に固定されているからである。</div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div>さて、色を説明し空を説明した。それでは色即是空とは何であるのか。</div><div><br></div><div>色即是空とは、私たちが目にする一切のものは実体のないもの、幻であり陽炎であり、朝露のようにはかないもの、これを簡単に言ってしまえば「非有」、つまり「目に見えるものはあるのではない」という一言に尽きる。</div><div>色即是空とは、世の実相はあるのではないと言っているのである。</div><div><br></div><div>色即是空、非有と観じる時、世の中の執着から離れる。釈尊が説いた三毒(貪り怒り愚か)の根元は色を有と見るところから生じる。有と見るから執着を起こし、欲が起こり、三毒が生じるのである。したがって、色即是空と観じる時、世の中のあらゆる執着を離れ、三毒を倒し、その者は聖者となる。</div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div>以上が色即是空である。表題にあるように、ところがこの真理は真理の半分なのである。もう半分の真理はまだ何も述べられていない。しかし、この真理で満足してしまうのが声聞乗、二乗と呼ばれるのであり、後にもう半分の真理が説かれる大乗教になると、色即是空のみで満足する二乗を厳しく叱咤するのである。</div>
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<pubDate>Mon, 07 Aug 2017 01:43:25 +0900</pubDate>
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<title>世界に１つだけの花</title>
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<![CDATA[ 2016年は色々な出来事があった。<br>イギリスのEU離脱、韓国大統領事件、トランプ氏の大統領選勝利、天皇の生前退位の意向表明など、印象に残る出来事が多くあった。トランプ氏に関しては、明確にではないが、当ブログで予想していたことが、幸か不幸か的中した。私のトランプ氏の評価はよくないが、当選した以上、よい世の中をつくってくれることを期待するばかりである。<br><br>さて、もっと身近な話題としては、なんといってもSMAPの解散が日本人にとって大きなニュースだった。個人的にはそこまで強い思い入れがないので、割と冷静に見ていたが、やはりこういった形での国民的グループの解散は残念に思う。<br><br>SMAPといえば「世界に１つだけの花」。この歌は日本の歴史に残る名曲の１つに数えられてもよいと思う。メロディーもさることながら、歌詞もとてもいい。<br><br>「No.1にならなくていい」「もともと特別なオンリーワン」「世界に１つだけの花」というメッセージは、個の肯定、個の尊重、自己愛、他者愛という意味を含み、とても重要なメッセージだ。<br><br>「No.1にならなくていい」というのは、仏教でいうところの空の思想に通じる。「空」というのは万物を実体のないものと見る思想であるが、この空を貫徹すると物事の執着を離れる。執着を離れることで貪りや怒りなどの煩悩から離れ、結果安楽の境地を得ると説くのだが、「No.1にならなくていい」というメッセージは同じことを言っているのだ。No.1とかNo.2とかビリとか、そういうものは全て執着であって実体はない。そういったものにとらわれていると、苦しいし、本当の自分を見失うよということだ。<br><br>そこで「もともと特別なオンリーワン」という。「元々」というのが深い。自分の被害妄想で作った価値判断、あるいは既存の社会が作りだした評価や順位付け。そういったものに僕たちは普段はまみれているし、思考もそういったものにおかされてるけど、よくよく思い出してほしい。「元々は」そんなものはないんだ。本来は特別な私だけがあるのであって、私が私であること、それだけで尊いんだ。ここで、執着を離れた先に、ありのままの個の存在証明、そして個の尊重を歌いあげているのである。<br><br>「世界に１つだけの花」というフレーズで思い出すのは、仏教でいうところの「天上天下唯我独尊」である。これを文字通り読むと、天の上にも下にもただ我独りのみ尊いとなって、随分尊大な言い草に聞こえるが、この「我」というのは釈迦のことではなくオンリーワンの私のことを意味しているのである。つまり各々の私が「独り尊い」ということで、それをSMAPは「世界に１つだけの花」と比喩的に歌っているのである。世界とは天上天下、１つだけとは唯独、花とは我尊である。<br><br>そういう意味を考えると、「世界に１つだけの花」がSMAPの名曲となったのも、なるべくしてなった、理由のあることなのだろう
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<pubDate>Wed, 28 Dec 2016 21:38:11 +0900</pubDate>
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<title>道</title>
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<![CDATA[ 儒教、道教、仏教等で説かれる道とは何か<br><br>道とは主体が理に合致して行動するとき、その主体は道を行じる者と言われる。<br>この理屈からすると、道とは理ということになるが、この理は無機質な理ではなく、行動を伴うところの理、そういった理を指して道という。<br><br>つまり、善や正や美といった道徳倫理規範を伴うところの道理、これを道という。善や正や美といっても、決して観念的・情緒的・慣習的なものではなく、正しく理に合致した道徳、これを指して道という。<br><br>つまり、道は行なくしては成立し得ない。ということは、その行を遂行するところの主体なくしては道は存在しない。<br><br>道を行ずる者。この三つは不可分の関係にある。<br><br>まとめると、道とは善や正や美などの理ということになる。
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<pubDate>Wed, 23 Nov 2016 22:27:04 +0900</pubDate>
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<title>米大統領選挙</title>
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<![CDATA[ トランプ氏が勝利した。<br><br>今回の結果が吉と出るか凶と出るか、誰も知る由もないが、私は世の中はより一層悪い方向へ動くだろうと予想する。<br><br>今回の選挙戦を通じて、不思議に思ったことがある。<br>私のフェイスブックフレンドの多くは政治について詳しい方が多く、いつも勉強させてもらっているのだが、その一般の方たちよりも多くの、そして深い情報量を持っているフレンドの方達の多くがトランプを支持していたことだ。<br><br>これに対し、日本にしろアメリカにしろ、一般の方の少なくとも半分程度は、今回の結果に不安を抱いている。<br><br><br>私は今回の米選挙に関しては断然後者、つまりトランプ大頭領の結果に不安を抱く１人なのだ。<br><br>ヒラリーがいいとは決して思わない。しかし、トランプはヒラリーのさらに上をいく悪影響を世界にもたらすだろう。<br><br><br>私は予想する。<br><br>米国の日本に対する影響、世界に対する影響はより一層悪くなる。ネット上では第三次世界対戦という話がちらほら出るが、トランプ氏が大頭領になったことで、その可能性はより一層高まったと言える。経済はどうなるかわからないが、政治から経済へ悪影響を及ぼす可能性は十分にあるだろう。<br><br>TPPは破棄されるのか？<br>格差は解消されるのか？<br>私はどちらも反古になると思っているが、もしこれら二つがきちんと行われるなら、私の予想は幸運なことに外れるかもしれないという希望を持つことができる。<br><br>
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<pubDate>Fri, 11 Nov 2016 06:47:26 +0900</pubDate>
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