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<title>ヤオスケノ巣</title>
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<title>自分が見たいものを見る</title>
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<![CDATA[ <p>こんばんは、ヤオスケです。今夜は「記憶」について書きました。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>＊＊＊</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>記憶というのは、実に不確かなものだ。それは、物覚えがいいとか悪いとかいう問題ではない。記憶は日々更新されるということだ。</p><p>&nbsp;</p><p>記憶とは過去の残像であると同時に、過去の再生であり、過去の再生には現在が必要なのだ。そして、過去の出来事の断片を拾い集めて、自分の物語を作るとき、誰もが、自分の欲望のバイアスのかかった物語を作ってしまう。</p><p>&nbsp;</p><p>およそ見たり、聴いたり、感じたりすることには、必ず欲望というバイアスがかかっている。しかし、誰も自分の欲望に対しては無自覚なのである。</p><p>&nbsp;</p><p>記憶は恣意的なものだ。記憶は創作だ。だから、記憶に正しいも間違いもない。</p>
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<link>https://ameblo.jp/yaosukenos/entry-12279705890.html</link>
<pubDate>Wed, 31 May 2017 23:00:00 +0900</pubDate>
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<title>学ぶ力</title>
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<![CDATA[ <p>こんばんは、ヤオスケです。今夜も「教師」という仕事について書きました。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>＊＊＊</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>子どもには、積極的に学ぶ力がある子とそれほどではない子がいる。積極的に学ぶ力がある子は、どんどん吸収し、ぐんぐん力をつけていく。一方、それほどでない子は、こちらがあの手この手を尽くしても、空回りに終わってしまう。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>この決定的な差は、何によって生じているのだろうか。子どもたちを観察するなかで、ひとつわかってきたことがある。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>学ぶ力の基礎になるものは、身体からわきあがるエネルギーだ。何かに向かって目が輝いていたり、夢中になって遊んでいる時のような生き生きと弾んだ気持ちがあるかどうか。これがあるかないかで、吸収力はまったく違う。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>できる子とそうでない子の決定的な差は身体にあらわれる。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;ぼくは、つねに子どもたちの身体を見ようとしている。より正確に言えば、身体性を感じようとしている。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;子どもたちは本来好奇心に満ちあふれた反応のよい身体を持っている。そのスイッチをうまく押してあげると、学びに対する反応が加速する。何か一つエンジンがかかると、せきを切ったように子どもの力が表に出てくる。</p><p>&nbsp;</p><p>教師は子どもたちの身体を意識することで、得られることが多いと思う。ただし、感覚的なことなので、どうしてもわかる人にはわかる、わからない人にはわからないという話になってしまう。ここが難点だ。</p>
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<link>https://ameblo.jp/yaosukenos/entry-12279408415.html</link>
<pubDate>Tue, 30 May 2017 23:30:00 +0900</pubDate>
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<title>教師の道</title>
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<![CDATA[ <p>こんばんは、ヤオスケです。今夜は「自分の仕事」について書きました。</p><p><br></p><p>＊＊＊</p><p><br></p><p>どうしたら、子どもの学力を伸ばすことができるのか。これは、教育の現場を預かる者として切実なテーマだ。<br></p><p><br></p><p>&nbsp;それを〈授業〉という場でどう実現していくのか教師は問われている。</p><p><br></p><p>ぼくは授業の内容より、生き生きとした場をつくることに意識を向けている。</p><p><br></p><p>学力は、字の通り、学ぶ力のことだ。自分自身で学んでいく力。さらには、積極的に新しいものを生み出していく力だとぼくは考えている。</p><p><br></p><p>授業は、子どもたちの学ぶ力を活性させる場でなければならない。</p><p><br></p><p>子どもたちが、自分は伸びているんだ、上達しているんだという充実感を自ら感じられる場にしたい。</p><p><br></p><p>それは、わかりやすい説明やモチベーションを上げるような言葉がけでつくれるようなものではない。ピリッとした本気の緊張感が教室に漲っている状態でなければならない。</p><p><br></p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/yaosukenos/entry-12278826133.html</link>
<pubDate>Sun, 28 May 2017 21:00:00 +0900</pubDate>
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<title>人口減少</title>
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<![CDATA[ <p>こんばんは、ヤオスケです。今夜は「人口減少」について思うことを書きました。</p><p><br></p><p>＊＊＊</p><p><br></p><p>日本はゆるやかな衰退期に入っている。この衰退期をどうやり繰りしてゆくのか。社会のマネジメントが問われてくる。<br></p><p><br>2006年を境に日本の総人口は減少し始めている。50年後には1億人を切ると言われている。</p><p><br></p><p>日本の人口は鎌倉時代あたりから、ずっと一貫して増え続けてきた。鎌倉時代には700〜800万人しかいなかったのが、江戸時代に3000万人になり、ピークの2006年で1億3000万人。そこから一転して急スピードで下がり始める。<br><br><br></p><p>人口減少の原因は何かということについて、少子化が語られる。将来に不安があるから、若い人たちは子どもを生まないんだとよく耳にする。</p><p><br>本当にそうだろうか。そんな単純な理由で人口減少が起きていると考えてよいのか。将来に対する不安が今より大きい時代はいくらでもあったはずだ。</p><p><br>平川克美さんは、歴史の必然の結果として、人口が減っていると書いている。これは、民主主義と資本主義が発展した結果なのだと。<br><br></p><p>どういうことだろう？</p><p><br></p><p>民主主義と資本主義の発展とは、言い換えると個人の自由をどんどん拡大していく歴史だった。それが、ある種の臨界点に達したのが、現代の日本である。</p><p><br></p><p>とくに戦後の日本は、家族という最小の共同体を壊していきながら、個人が自立していく歴史だった。</p><p><br></p><p>身近な例はテレビだ。かつては一家に1台だったテレビが、1部屋に1台、さらには1人に1台となっていく。企業や生産者の側から見れば、それだけマーケットが広がるわけだから、当然そういう方向を目指す。</p><p><br></p><p>結果、個人個人がバラバラになって、働き方やライフサイクルも変わってきた。結婚年齢はどんどん上がっていき、家族を作らなくなった。人口再生産の機能を担う家族という単位が崩壊してきている。</p><p><br></p><p>人口減少が歴史の必然であるとするなら、それに抗うことは難しい。人口減少を受け入れつつ、ダメージが小さくなるように、できることをやっていくしかない。</p>
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<link>https://ameblo.jp/yaosukenos/entry-12278401333.html</link>
<pubDate>Sat, 27 May 2017 22:00:45 +0900</pubDate>
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