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<title>yesnomikokoro2019のブログ</title>
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<title>引用＞法は生命(いのち)を与えられるか　世の塩・世の光としてこの世の暗黒の中でもその輝きを保ち続</title>
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<![CDATA[ <div><br></div><div><br></div><div>北村慈郎牧師のブログから</div><div><br></div><div><a href="http://blogs.yahoo.co.jp/bokusi1941/63920260.html" target="_blank">http://blogs.yahoo.co.jp/bokusi1941/63920260.html</a></div><div><br></div><div><font size="4">「<strong>法は生命(いのち)を与えられるか</strong>」</font></div><div><font size="4">ガラテヤ人への手紙３：１９－２２、<br>　　　　　<br>　　　　　　　　　2016年7月10日（日）船越教会礼拝説教<br><br>・今日は説教題を「法は生命(いのち)を与えられるか」とつけさせていただきました。ガラテヤの信徒への手紙では「法」とは「律法」を意味しています。つまり「律法」は人に生命(いのち)を与えられるか」ということです。<br><br>・ユダヤ教では、律法は人に生命を与えることができると考えられていました。かく生きよと命じる神の律法は、神の祝福に与かることができる、人が生きていく道であり、定めでありました。ですから、パウロの後からガラテヤの教会にやって来たユダヤ主義者たちは、イエス・キリストを信じる信仰だけでなく、律法も割礼も必要であると説いたのであります。<br><br>・＜己のごとく隣人を愛しなさい＞という戒め（律法）を自分の力で守ることが出来る人は、確かにこの戒めは、人に生命を与える道であり、定めであると言えるでしょう。しかし、パウロは、貪るなという戒めによって、自分の中に貪りの思いがふつふつと呼び起こされてきて、返って貪りの罪を犯してしまうということを言っているのであります。戒めに対して違反の心はあっても、それを守る力は自分には全くないと、パウロは言っているのであります。パウロは、かつては彼の後からガラテヤの教会にやって来て、ガラテヤの教会の人々に、イエス・キリストを信じる信仰だけでなく、律法と割礼も必要だという教えを語ったユダヤ主義者と同じように、律法も割礼も人に生命をもたらすと考えていました。しかし、ダマスコ途上で復活の主イエスと出会って、回心し、ただイエス・キリストを信じる信仰のみによって人は命をうることができるのであって、律法も割礼も必要ではないと考えるようになりました。<br><br>・そのパウロが、19節で、「では、律法とはいったい何か」という問いを立てて、律法の意義を正面から問題にしているのであります。イスラエルの民に律法が与えられたのは、エジプトを脱出してシナイ山でモーセを介して神と契約を結び、十戒が与えられた時です。このシナイ契約は、アブラハムに与えられ神の約束からすると、430年遅れの出来事でありました。そのことを根拠にして、パウロは、律法はアブラハムに与えられた神の約束に対して、後から「付け加えられた」と述べているのであります（19節）。しかも、律法が支配するのは、「約束が与えられた子孫」であるキリストの到来までの期間である（ガラ3:16を参照）と言うのです。つまり、神の救済の歴史からすると、律法はある限られた期間、その役割を持っているので、イエス・キリストの到来によってその役割が終わる暫定的なものに過ぎないと、パウロは言っているのであります。また、何故律法はアブラハムに与えられた約束に対して後から加えられたかと言いますと、それは「違反を明らかにするため」だとも言っているのです（19節）。<br><br>・19節で「違犯」と訳されている名詞は、動詞「踏み越える」、「破る」、「違反する」の名詞形で、この動詞パラバイノーは旧約・ユダヤ教において、ヤハウエの言葉や、神との契約や、律法や、戒めを破ることについて用いられています。七十人訳やヘレニズム・ユダヤ教文献は、名詞形のパラバーシスを契約や律法の「違反」という意味で使用しており、初代教会もこの用法を継承しています。パウロはこの名詞をパラプトーマ（「罪過」）とほぼ同じ意味で使用しているのです（原口）。<br><br>・律法が「違反のために付け加えられ」たという見解は、パウロ独自の見解と言われています。律法（トーラー）は旧約・ユダヤ教的理解によれば、先ほど申し上げたように、イスラエル人がそれに従って歩むべき規範であり、道であります。律法の戒めは守るため与えられたのであり、違反を作り出すために与えられたのではもとよりありません。しかし、一端立てられた規範は、人の行為を計り判断する尺度となります。ですから、律法の戒めに合致しない行為は戒めの違反と判定されることになります。律法がなければ違反は存在せず（ロマ4:15）、律法は罪の自覚をもたらすのであります。（ロマ3:20;7:7）。さらに、罪の支配のもとにある人間は（ロマ5:21;7:7-13;ガラ3:22）、律法の到来によって律法を破る機会を与えられ、罪過を増し加える結果となったとパウロは考えているのであります。パウロによれば、律法を通して罪の力が現実化するのです（Ⅰコリ15:56）。</font></div><div><font size="4"><br>・21節でパウロは、＜それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか＞という問いを立てて、直ちに＜決してそうではない＞と言っています。そして＜万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義をされたでしょう＞と述べ、＜しかし、聖書（これは旧約聖書ですが）はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです＞と断定しているのであります。<br><br>・ここで、パウロの念頭にあるのは、創世記2章、3章にしるされている堕罪物語であり、原人アダムの罪過によって罪が世界に到来し、罪と死の支配が全人類に及んだ出来事でしょう。ローマの信徒への手紙5章によれば、罪と死の支配は第二のアダムであるキリストによって打破され、現在は恵みと義といのちが支配しているとしている（ロマ5:15,17,21）とされています。恵みが罪に凌駕している現在から遡って、過去における罪の支配はキリストによる義の支配を招来するためであったと、彼は考えている（ロマ5:21）のです。<br><br>・聖書が人類を罪の支配下に閉じ込めたのは、「約束がイエス・キリストへの信仰によって信じる者達へ与えられるため」であった（22節）とお言われています。そして信仰によってキリストに属する者達は、アブラハムの子孫として、約束による相続人として（ガラ3:29）、約束された霊を受けて神の子となるのである（3;14:4:4-6）というのです。<br><br>・この箇所は随分手の込んだ議論になっていますが、パウロが最終的に言わんとしていることは、神の約束（神の祝福、神の命）は、イエス・キリストへの信仰（イエス・キリストの信仰・真実）によって、信じる人々に与えられるようになるということです。<br><br>・さて、私の支援会の集会では、最初か最後に、毎回讃美歌「主われを愛す」の一節をみんなで歌います。</font></div><div><font size="4">これは支援会の世話人代表をしてくださっている関田寛雄先生の強い希望で歌うようになりました。先生には、運動にはその運動を元気づける歌が必要だというお考えがあります。先日先生からお葉書をいただきましたが、その中に「銀座の教文館で購入した、最近岩波全書の一冊として出版された宮田光雄さんのカール・バルトのことについて書いた『神の愉快なパルチザン』を読んでみた。この本の「はじめに」で、バルトが晩年アメリカにいって、そこで行った講演の後で、聴衆の一人から「あなたの浩瀚な神学（教会教義学）をひと言でいえばどうなりますか」と問われた時に、讃美歌「主われを愛す」の一節に尽きると答えたということが書かれていた。支援会で毎回その「主われを愛す」歌っているのは意味あることです」と記されていました。「パルチザン」とは、「革命や戦争などのときに、正規軍とは別に、一般民衆によって組織された非正規軍、遊撃隊、ゲリラ隊」を意味しますので、『神の愉快なパルチザン』とは「神の愉快なゲリラ」とでも言いましょうか。宮田光雄さんは、バルトのことをそのように見ているわけです。<br><br>・「主われを愛す」の一節は、みなさんもよくご存じのように、このような歌詞です。「主われを愛す、主は強ければ、／われ弱くとも　恐れはあらじ。／わが主イエス、わが主イエス、／わが主イエス、われを愛す」です。「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ」。ここに主イエスの福音という、私たちにとっての良きおとずれの真髄があるというのです。主イエスを通して神に愛され、赦された者として、私たちはこの世を生きていくことへと招かれているのです。わたしたちは弱く、律法を違犯することをしてしまうけれども、主は強い。主イエスは、文字による律法によってではなく、霊によって神の意志を御自分の心に記しておられる方だからです。主イエスは、私たちと同じように律法を違犯されることはありません。その主イエスが私たちを愛して下さっている、大切にしてくださって、私たちの中にまで入ってきてくださり、私たちの中で生きていてくださっている。だから主イエスによって、弱い私たちも強くされているとうのです。<br><br>・宮田光雄さんによれば、バルトはイエスを主とするその信仰によって自由とされた「神の愉快なパルチザン」の一人として、ナチズムの時代にも、また戦後のソ連を代表とする共産主義を忌避するヨーロッパにあって、共産主義の理解者として、その時代と社会の空気に迎合することなく生き抜いたのです。そのバルトは、戦後しばらくしてからはスイスの教会にあって、赤の牧師というレッテルを貼れて、孤立していたと言われています。そして晩年は刑務所以外では、ほとんど説教は行わなかったというのです。赤の牧師として教会での説教には招かれなかったというだけではなく、バルトにはイエスの福音は罪を犯した人にこそ語られるべきものだという考えがあったからではないかと思われます。<br><br>・「聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰（イエス・キリストの信仰・真実）によって、信じる人々に与えられるようになるためでした」(22節)。<br><br>・パウロはローマの信徒への手紙7章で、このように語っています。＜・・・わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。・・・「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体の内にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められているこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです＞（ローマ7:18-25)。<br><br>・主イエスに愛され、罪赦されて、主イエスの強さを身にまとって生きる私たちキリスト者は、<strong>地の塩・世の光として、この世の暗黒の中でもその輝きを保ち続けながら生きてゆけるのであります。そのことを感謝して、与えられた命ある限り生きていこうではありませんか。</strong></font></div>
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<link>https://ameblo.jp/yesnomikokoro2019/entry-12506066091.html</link>
<pubDate>Fri, 22 Jul 2016 22:13:47 +0900</pubDate>
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<title>引用＞その意見はもっともで説得力がありますが、私は指紋押捺のように時には法の束縛を越えて、法に先</title>
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<![CDATA[ <div><font size="4">北村慈郎牧師のブログから</font></div><div><br></div><div><br></div><div><a href="http://blogs.yahoo.co.jp/bokusi1941/63909012.html" target="_blank">http://blogs.yahoo.co.jp/bokusi1941/63909012.html</a></div><div><br></div><div><br></div><div><font size="4">船越通信№２６９　　２０１６年７月３日　　　　<br><br>・６月２５日（土）に開催された教区総会の報告を簡単にしておきます。前回の通信で</font></div><div><font size="4">私の戒規免職撤回と</font></div><div><font size="4">聖餐論議の場の設定を求める教団総会議案が可決された</font></div><div><font size="4">ことだけは記しておきました。</font></div><div><font size="4">この私の議案の議論の中で、</font></div><div><font size="4">聖餐については意見を異にする信徒議員の方が、</font></div><div><font size="4">教団の教会が招聘制をとっているにもかかわらず、</font></div><div><font size="4">当該教会の紅葉坂教会とも神奈川教区とも一切の話し合いなしに、</font></div><div><font size="4">教団が私を免職処分にしたことは、明らかに教団の誤りであるから、</font></div><div><font size="4">教団は私の免職処分を撤回すべきだという意見を披歴しました。<br><br>このところ私に関係する議案が出る教区総会毎にこの方が同趣旨の発言をしてくれています。これは大変説得力がある意見で、私を免職にした教団執行部側にある人たちにとっても無視できない意見ではないかと思われます。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">もう一つ注目すべき意見がありました。それは、今回の総会で私の戒規免職撤回議案に反対の側の人からよく出る、聖餐についての議論を求めるなら、その議論の結果が出るまでは、非受洗者への配餐はやるべきではないという意見に対して、</font></div><div><font size="4">議長のTさんから、「<font size="5">その意見はもっともで説得力がありますが、私は指紋押捺のように時には法の束縛を越えて、法に先行する行為をする可能性もあるのではないかと思います</font>」という主旨の発言があったことです。</font></div><div><font size="4">教会はその時代と社会の中で福音にふさわしい在り方を常に求め続けることによって現在するコイノーニアではないかと、私は思っています。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">宗教改革者の常に「御言葉によって改革される」ところに教会が現在するということではないかと思います。教会は、教憲教規や信仰告白にそのアイデンデティティーを求める以上に、（イエス・キリストの）福音に聖書にそのアイデンティティーを求めるべきではないかと、私は思っています。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">今回の総会でTさんが上記のような発言をしてくれたのは、改めて教会とは何かを問うことにも通じますので、何か自明のことのように考えられている教会についての考えが崩されて、聖書に立ち返ってみなで議論するようになればと願っています。活発な議論の中から新しいエネルギーが生まれてくるのではないでしょうか。<br><br>・さて今回の教区総会では3名の補教師の准允志願者と2名の正教師の按手志願者が承認されて、それぞれ准允式と按手礼式が行われました。按手礼には総会出席者の正教師が出て手を置くのですが、免職になってから私は出ずに座ったままでいるようにしています。神奈川教区では、この志願者が受けた「教師検定試験が不当とまでは言えない」ということを、その都度議場に諮って、その承認を得てから准允式、按手礼式が執行されます。今回もそのように行われました。今回の総会は報告の総会ですが、そのような法定議案と教区規則改正議案と上記の私に関係する常置委員会提案議案の他に、三つの議員提案議案が審議されました。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">「教団総会に、辺野古新基地建設の撤回を求める抗議声明を発し、並びに沖縄教区に謝罪し、その関係修復と合同のとらえなおしとその実質化に取り組む議案を提出する件」（議案第9号）、</font></div><div><font size="4">「沖縄県うるま市女性暴行殺害事件抗議声明の件（議案第10号）、</font></div><div><font size="4">「A教師のパワーハラスメントに関する訴えに対し、常置委員会の対応の仕方に問題があったため、常置委員会は結論について審議し直し解決を目指す件」（議案第11号）です。</font></div><div><font size="4">議案第9号は154名中99名の賛成で可決。</font></div><div><font size="4">議案第10号は145名中108名の賛成で可決。</font></div><div><font size="4">議案第11号は常置員会に付託することになりました。<br><br>・６月２６日の日曜日は何時ものように礼拝後懇談の時を持ち散会しました。私はこの日は週報の準備、船越教会のホームページ礼拝案内の編集をし、道路側にある教会礼拝説教看板を新しくして、午後3時過ぎに船越教会を出て、鶴巻に帰りました。週報には船越教会の牧師滞在日は土曜日から月曜日になっていますが、このところ次週の準備を済ませて、日曜日の午後に鶴巻に帰っています。毎週火曜日に農伝の説教演習と説教学を担当していますので、その準備に月曜日を当てているからです。ご了承ください。この週も火曜日には農伝に行きました。<br><br>・３０日の木曜日は、国会前の辺野古新基地反対座り込みに行った連れ合いと、午後4時半ごろ東中野のポレポレで待ち合わせをして、「圧殺の海第二章　辺野古」を観ました。鑑賞後監督の藤本幸久さんの短いトークがありました。藤本さんは最近のメディアは殆ど辺野古の報道から退いている実態について触れ、辺野古で何が起こっているかその事実の報道の重要性を強調されていました。</font></div><div><font size="4">事実今回の「圧殺の海第二章」には、大浦湾での海上での抗議活動とそれに対する海上保安庁の人たちによる危険な封鎖行動、キャンプシュワブゲート前での体を張った抗議行動に対する機動隊の強引な排除行動が、どちらも観ていてハラハラドキドキ、緊迫した場面の連続でした。国家権力を楯にして迫る機動隊や海上保安庁職員の顔を見ていると、怒りを露わにしている抗議者の顔とは対照的に、その顔は無機質で時には困ったような表情を見せていました。この人たちもつらいのだろうなあ、と思わされました。沖縄の人たちの思いを無視して辺野古に新基地建設を強行しようとする政府の横暴に怒りを覚えます。国家の本質は暴力だと規定するある政治学者の言葉の真理性が辺野古で現れているとしか思えません。システムの中に絡め取られている限り、見えない或は見ようとしない現実が辺野古で展開されているのではないかと思います。辺野古で闘う人々によって、システムに組み込まれた無機質な一部品としてではなく、一人の人間として生きるとはどういうことなのかという問いかけを私たちは受けているように思われます。<br><br>・7月1日の金曜日には、私の支援会の裁判記録編集委員会と、世話人事務局会が紅葉坂教会で行われました。裁判記録では、被告教団側の答弁書及び準備書面などの扱いをどうするかで暗礁に乗り上げていましたが、結局被告側の裁判資料は全て割愛して、こちらだけのものでいくことにしました。世話人会事務局会では、10月26日の教団総会開催中の「全国交流集会」の企画を中心に、今後の活動計画について話し合いました。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">7月2日の土曜日にはNさんとお連れ合いが朝から午後3時過ぎまで片付けと庭仕事をしてくださいました。また、私の連れ合いとT・Tさんとで「リフレッシュ＠かながわ2016報告書」を印刷、神奈川教区の諸教会伝道所及び協力者への発送作業をしました。</font></div>
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<pubDate>Tue, 05 Jul 2016 00:38:28 +0900</pubDate>
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<title>引用＞　「孤独」エレミヤ書16:1-13、創造者なる神によって与えられた命が踏みにじられたことに</title>
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<![CDATA[ <div><font size="5">北村慈郎牧師のブログから</font></div><div><br></div><div><a href="http://blogs.yahoo.co.jp/bokusi1941/63906238.html" target="_blank">http://blogs.yahoo.co.jp/bokusi1941/63906238.html</a></div><div class="entryBody"><table width="564"><tbody><tr><td class="entryTd"><div>　　　　　　<font size="6">　「孤独」エレミヤ書16:1-13、</font></div><div><font size="4">2016年6月26日(日)船越教会礼拝説教<br><br>・参議院選挙が始まりました。この選挙の結果参議院の議員数が自公で3分の2以上になりますと、安倍政権はいよいよ憲法改定に動き出すものと思われます。みなさんは自民党の憲法草案をお読みになったことがあるでしょうか。<font size="5">現在の憲法と比べてみますと、平和主義や基本的人権が脅かされて、国家主義的な色合いが強く、正に戦争ができる国づくりをするものになっています</font>。その意味で今回の参議院選挙は日本の国の今後の歩みを決定づけるようになるかも知れない、大変重要な選挙と言えます。<br><br>・安倍晋三首相の中には<font size="5">日本の国のかつての戦争が誤りであったという事実を認めたくないという思いが強くある</font>ように思われます。そのために戦後70年談話を出す時に、あの日本の戦争を侵略戦争と認めて謝罪を表明した村山談話を否定する歴史認識によって、中国や韓国から猛烈な反発を受け、またアメリカなどからもその歴史認識に対して批判がありました。そのために戦後70年談話では、形の上では村山談話を踏襲し、「敗戦」という言葉も使っていますが、安倍晋三首相の中には敗戦の否認があるのではないかと思います。敗戦を認めることは、日本の侵略戦争の誤りを認めることであり、それまでの日本の国のあり方に対して「否」を突き付けることであり、死を認めることでもあります。それを認めない限り、戦前の天皇制国家とは違う憲法9条による平和国家の建設は困難です。戦後朝鮮戦争の勃発によって、アメリカは日本の国をアメリカの世界戦略の中に組み込み、ある意味で現在に至るまで米軍による日本の占領を続けています。戦後日本の政府や官僚はそのアメリカによる日本の支配、アメリカの属国であることに甘んじて現在に至っております。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">その犠牲を最も強く受けているのが沖縄です。</font></div><div><font size="4">日本で唯一悲惨な地上戦が行われ、また戦後日本から切り離されてアメリカの統治下に置かれ、強制的に米軍基地が作られ、日本復帰後も日本の米軍基地の約74%が集中しているのが沖縄です。日本政府とアメリカ軍による犠牲を最も強く受けている沖縄の人々は、戦争の誤りを認め、それまでの国のあり方に死を突きつけ、憲法第9条による平和国家の建設に立ち上がっているのです。<br><br>・<font size="5">それまでのあり方への死を認める</font>ということは、聖書的に言えば、神の審きに従うということです。先ほど司会者に読んでいただいた箇所で、エレミヤはエルサレムとユダの人々に対して神の審判を証しするように命じられています。エレミヤに命じられたことは、エレミヤが自分自身の身をもって証言する、一つの象徴行為ではないかと思われます。</font></div><div><font size="4">三つのことがエレミヤに命じられます。</font></div><div><font size="4">一つは、＜あなたはこのところで妻をめとってはならない＞（16:1）です。</font></div><div><font size="4">2番目は、＜あなたは弔いの家に入るな。嘆くために行くな。悲しみを表わすな＞（16:5）です。</font></div><div><font size="4">3番目は、＜あなたは酒宴の家に入るな。彼らと共に座って、飲み食いしてはならない＞（16:8）です。<br><br>・ここに記されています三つの事、</font></div><div><font size="4"><font size="5">結婚の断念、</font></font></div><div><font size="4"><font size="5">死者の為に悲しむことの禁止、</font></font></div><div><font size="4"><font size="5">宴席で皆と共に喜ぶことの禁止</font><br>は広い意味で預言者の象徴行為に属します。</font></div><div><font size="4">神の審きが近く、死者が悲しまれず、葬られず、喜びの声が一切絶えはてるような時代が来ることをｴﾚﾐﾔはこれらの行為によって身をもって示すことを命じられたのです。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">結婚しない、ということは当時のイスラエルにおいては全く例外的なことでありました。古代社会においては、現代のように個人が一人で都会に出て働いて生計を立てるということはあり得ませんでした。ほとんどが親族社会の中で生きることができたのでしょうから、ある年齢にきたら、ほとんどの人は結婚したのです。親の葬儀に列席せず、祝いの席に臨まない、ということも伝統やしきたりの強制力が強かった古代の社会にあっては、社会全体から排斥される結果を招いたに違いありません。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">この三つの禁止命令にエレミヤが従がったとすれば、イスラエル人の社会から、一人の例外者として排斥され、エレミヤはその孤独に耐えなければなりませんでした。15章17節に＜わたしは笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく、御手に捕らえられ、独り座っていました＞と語られていますが、この言葉にはエレミヤの孤独な姿がよく表現されています。＜御手に捕らえられて＞と言われていますから、エレミヤは預言者として神の御手に捕らえられた自らの存在を強く意識していたのです。神に従うエレミヤは、同胞イスラエルの中で例外者にならざるを得ませんでした。みんなと一緒になることはできなかったのです。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">ヴェスターマンは、この「エレミヤに課せられた神の使者としての運命は、ほとんど非人間的と言えるほど、過酷に思える」と言っています。<br><br>・おそらく戦時下のキリスト者の中に、日本の侵略戦争は敗北すると予見し、そこに神の審きを見て、戦争協力を拒絶した人がいたとするならば、その人は非国民と人々から罵られ、憲兵につきまとわれ、場合によっては獄に捕らえられて拷問を受けたかも知れません。エレミヤと同じような孤独を味わわなければならなかったに違いありません。<br><br>・ところで、エレミヤが預言者として予感したイスラエル人への神の審きとはどのようなことだったのでしょうか。16章5節後半にこのように言われています。＜「・・・わたしはこの民から、わたしの与える平和も慈しみも憐みも取り上げる」と主は言われる＞と。選ばれた民からこれらのものが取り去られるとき、それは審きであり、死そのものであります。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">死がイスラエルに臨んでいることを知る預言者には、人々の悲惨な死の有様がすでに眼前に浮かんでいたのでしょう。またかかる死を知る者は通常人の悲しみを悲しみ、喜びを喜ぶことは出来なかったのです。＜「身分の高い者も低い者もこの地で死に、彼らを葬る者はない。彼らのために嘆く者も、体に傷つける者も、髪をそり落とす者もない（悲しみの表現）。死者を悼む人を力づけるために、パンを裂く者もなく、死者の父や母を力づけるために、杯を与える者もいない＞(16:6,7)と言うのです。また、このようにも言われているのです。＜万軍の主、イスラエルの神はこう言われる。「見よ、わたしはこのところから、お前たちの目の前から、お前たちが生きているかぎり、喜びの声、祝いの声、花婿の声、花嫁の声を絶えさせる＞（16:9）と。<br><br>・関根正雄さんは「結婚を断念すること、悲しむ者と共に悲しまず、喜ぶ者と共に喜ばないこと、そこには例外者の倫理がある。かかる例外者の異常な生き方が示そうとする神の真理は無論限りなく深い。神の審きの前に人は一度倒れなければ、真に正しく生きることは出来ないからである」と言っています。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">私たちは、唯一人のイエスの神を神とし、己のごとく隣人を愛せという神の定めに従って生きることを求められながら、その定めから外れて自己中心的に生きる、自分の中に神の定めに逆らう罪を抱えている者です。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">そのような罪人としての自分がそのままの形で真の解放、救済はありません。そのような己に死んで、新しい人間、イエスの兄弟姉妹、神の子にしていただなければ、真に正しく生きることはできないのです。<br><br>・エレミヤの時代のイスラエルの民もそうでした。エレミヤはそのイスラエルの民の死を示すために、結婚を断念すること、悲しむ者と共に悲しまず、喜ぶ者と共に喜ばないこと、それこそ「非国民」と罵られても、そのことの孤独な苦しみに耐えて、例外者として立たざるをえなかったのです。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">そのようなエレミヤをイスラエルの民は理解することは出来ませんでした。10節以下には、己の罪を自覚し悔い改めを拒むイスラエルの民の姿が描かれています。＜あなたが、この民にこれらの言葉をすべて告げるならば、彼らはあなたに、「なぜ主はこの大いなる災いをもたらす、と言って我々を脅かされるのか。我々は、どのような悪、どのような罪を我々の神、主に対して犯したのか」と言うであろう。あなたは彼らに答えるがよい「お前たちの先祖がわたしを捨てたからだ」と主は言われる。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">「彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、ひれ伏し、わたしを捨て、わたしの律法を守らなかった。お前たちは先祖よりも、更に重い悪を行った。おのおのそのかたくなで悪い心に従って歩み、わたしに聞き従わなかった。わたしは、お前たちをこの地から、お前たちも先祖も知らなかった地へ追放する。<br>お前たちは、そのところで昼も夜も他の神々に仕えるがよい。もはやわたしは、お前たちに恩恵をほどこさない。」＞<br><br>・さてこの箇所の註解で関根正雄さんは、「（イエス・キリストの）福音は真に人を生かそうとする。預言にはそれができない」と言って、福音と預言を対立的に捉えています。そして＜福音は神の与え給う現実を断念することなく、その中に生き抜くことを命じ、悲しむ者、喜ぶ者を避けず、それらと一つになる愛に生きることを命ずる。福音は愛による建設である。もちろん福音の時代にもこの世のものの否定があるが、それは真の肯定のためである。福音もまた世の終わりの近きを知り、時は縮まれりという。それ故、持つ者も持たないもののように、泣く者も泣かないように、喜ぶ者も喜ばないように、妻を持つ者は持たないもののように、と言われる（Ⅰコリ7:29,30）。ここには世を肯定的に否定している者の全き自由がある。信仰はこの世にあってこの世にない奇跡的な場所に生きるのである。ｴﾚﾐﾔにおいて迫り来る審きの厳粛さの故に、すべては否定の為の否定に終わり、まだ肯定には達しないのである。＞と言っています。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">一方ヴェスターマンはエレミヤの苦難に着目して、＜ここには第二イザヤの苦難の僕を越えて、さらにキリストの受難に通じる一本の道が開かれているのが見える。この隠された神の救済の道が、今やひとりの人間の苦難を通して、初めて切り開かれたのである＞と言っています。ヴェスターマンによれば、エレミヤの預言の中にも、エレミヤの苦難を通して、キリストの受難に通じる神の隠された一本の救済の道が切り開かれていると考えられているのであります。<br><br>・私たちにできることは、エレミヤに期待されたことと同じように、私たち自身の生き様を通して、キリストの受難に通じる神の隠された一本の救済の道が切り開かれていくことではないでしょうか。<font size="5">人を真に生かす道は、人の命を軽んじて殺し合う戦争への道に死を宣告することによって、その先に見えてくるのではないかと思います</font>。服従の伴わない神の恵みは「安価な恵み」で、人を真の救済に導くことはできません。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">昨日の教区総会で、「沖縄うるま市女性暴行殺害事件抗議声明」を出す議案が諮られました。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">その議論の中で、沖縄における米軍軍属による女性の暴行殺害事件に対する抗議には反対で、我々がしなければならないことは、ただキリストによる救済を語る事ではないかという意見が出ました。</font></div><div><font size="4">それに対して</font></div><div><font size="5">創造者なる神によって与えられた命が踏みにじられたことに反対の声を上げないで、キリストによる救済を語ることは出来ないのはないかという<font size="6">反論</font>がありました。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4"><font size="5">それを語ることはそれに伴う苦難を担う事</font>でもあります。</font></div><div><font size="4">しかしエレミヤと共に、私たちは今この時代と社会の中で同じ道を進んで行かなければならないのではないでしょうか。</font></div><div><font size="4">主が共にいて私たちを支えてくださいますように。</font></div></td></tr></tbody></table></div><div><!-- /entryBody --><!-- __entry_body_end__ --><!-- nice button -->   <br></div><div class="ultmodule" id="bosnsshrnice"><div class="niceBtn bottom" style="display:block;"></div></div>
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<link>https://ameblo.jp/yesnomikokoro2019/entry-12506066086.html</link>
<pubDate>Sat, 02 Jul 2016 15:14:31 +0900</pubDate>
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<title>引用＞今の日本基督教団の執行部の人たちは、異質な教会や信徒教師を排除することに熱心であって、現在</title>
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<![CDATA[ <div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><font size="5">北村慈郎牧師のブログから</font></div><div><br></div><div><br></div><div><a href="http://blogs.yahoo.co.jp/bokusi1941/63884322.html" target="_blank">http://blogs.yahoo.co.jp/bokusi1941/63884322.html</a></div><div><font size="4">　　　　　　　　　　船越通信№２６５　　２０１６年６月１２日　　　　<br><br>・６月５日（日）は午後2時から国会前で「６・５　全国総がかり大行動」が予定されていましたので、この日船越教会の礼拝を終えてすぐにその集会に出かけた方があり、礼拝後の何時もの懇談後に出かけられた方もありました。私も出かける予定ではいましたが、礼拝に出席された一人の方との話し合いが午後3時近くまで続いたために、残念ながら今回は国会前の集会には参加できませんでした。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">この日私が話し合った方は、この日で船越教会の礼拝に出席されたのは3回目だと思います。この方は、日本基督教団だけではなく、様々なキリスト教会の事情に通じています。その知識の豊富さには驚かされるところがあります。この方との話し合いの中で、いくつか私の中に残った問題がありました。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">➀　日本基督教団は50年後、100年後に存在しているか。カトリック教会とアングリカン教会（聖公会）は存在していると思うが、日本基督教団の教会はなくなっているかもしれない。</font></div><div><font size="4">⓶　メガチャーチ（信徒数の多い教会）を一人で築いた牧師にはお金や女性の問題が起こりやすい。</font></div><div><font size="4">③　カトリックの神父の独身制には優位性がある。結婚し家族をもつプロテスタントの牧師は伝道に専心するのは難しい。</font></div><div><font size="4">④　日本基督教団の牧師は祈る時間が少なすぎる。祈ることによって不可能と思えることも可能とされていくのではないか。</font></div><div><font size="4">⑤　信仰の継承と言われながら、それができていない教会が多い　等々。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">これらの意見を聞きながら、私は改めて自分が牧師として今まで生きて来て、今も牧師であるということにおいて、上記のような問いに対してどのような答えをもっているだろうかと思いめぐらしていました。この方との話し合いの中でも、自分の考えの一端は話したのですが。<br><br>・私は基本的に制度としての教会の維持継続には、関心が全くないというと嘘になりますが、それほど強い関心はありません。制度としての教会がなくなって行くことが必然であるということもあり得ると思っています。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">もう大分前になりますが、教団新報でしたか、九州の筑豊地方にある教会の牧師が「滅びの福音」という題で文章を書いていて、それを読んだことがあります。廃坑となった地域に住む住人が高齢になって、その子どもたちはその地域には仕事がないのでその地域には住んでいません。当然近い将来町そのものが消えていく運命にあるわけです。そのような所にある教会はそこに人がいる限り宣教の使命を持っていますが、人がいなくなったら当然教会もその活動を止めることになります。そのような教会での福音宣教を「滅びの福音」と言ったのだと私は思いました。そういう意味で、この文章から私は、この方の、人がそこにいる限り宣教を続けるのだという熱い思いを読み取り、感動しました。ところが、この文章を教条主義的に読んで、福音を「滅びの福音」と言うのは何事かと言った方がいました。この時そういう読み方をする人がいるということにも驚かされました。<br><br>・制度としての教会ではなく、聖書のメッセージを聞いて自立と共生をめざす人の集まりとしての教会については、私も関心を持ち、自分なりにそのための働きを続けていると思っています。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">2007年に教団の常議員の一人であった私に常議員会は教師退任勧告を出しました。その後2009年に新教出版社の小林望さんに勧められて、それまで自分が教会の中で発言してきたことをまとめて『自立と共生の場としての教会』という本を出しましたのも、私が教会をどのように考えているかを明らかにするためでした。</font></div><div><font size="4">この私の考え方からすれば、聖書のメッセージを聞いて感動する者がいて、それを共有する人がいれば、教会は自然発生的に生まれるということになります。<br><br>事実私はそのように考えています。それほどに聖書が内包する使信にはインパクトがあると、私は聖書に信頼しています。ですから既成の教会がなくなってしまっても、聖書がある限り、またその聖書の解釈の歴史（伝統）がある限り、聖書に基づいて自立と共生をめざす人の群れは、歴史の桎梏に抗って生起するに違いありません。<br><br>私はそのように考えています。<br><br>・プロテスタントの教会よりもカトリックとアングリカンの教会は典礼の確立が明確にあります。典礼は聖書の使信のある種の抽象的な儀礼化ですが、儀礼の持つ強さというか、歴史の荒波を越えていく普遍性のようなものがあります。100年後には、その間に根底的な改革が起こらない限り、日本基督教団の教会は消滅の方向に限りなく近づいているに違いありません。プロテスタントの教会はどうしても主観主義的な面が強くありますので、それこそ「み言葉によって改革され」続けていない限り、歴史の荒波を越えていくことは困難だからです。</font></div><div><font size="4">今の日本基督教団の執行部の人たちは、異質な教会や信徒教師を排除することに熱心であって、現在の教会の危機への洞察は極めて上調子のものに過ぎませんので、このままいくと本当に消滅の危機に突入するかも知れません。しかし、上に記しましたように、聖書の使信そのものがそれを聞く人を呼び起こし、新しい教会を生み出していくでしょう。<br><br>・７日火曜日は、この日農伝では戦争責任シンポジウムがあり授業はお休みでしたので、午後4時過ぎに鶴巻を出て、教区の常置委員会が行われる蒔田教会に向かいました。常置委員会が午後6時から行われました。6月25日（土）に教区総会がありますので、この日の常置委員会では、二人の正教師受験者の面接と総会準備が主な議題でした。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">神奈川教区は私の戒規免職撤回議案を教団総会議案として教区総会で可決していますので、私は教団から教師の免職処分を受けていますが、常置委員会推薦議員として私を教区総会議員にしています。既に常置委員会で確認済みでしたが、</font></div><div><font size="4">この日総会議員の確認をしたときに、常置委員の一人逗子教会の牧師小宮山剛さんから、「免職された人を教区総会議員にするのは教規違反だから総会議員名簿から私を削除すべきだ」という発言がありました。</font></div><div><font size="4">教区三役は既に常置委員会で私を教区総会議員に推薦しているので、発言として記録にとどめることを確認して、議事を進めました。おそらく6月25日の教区総会の席でも同じような発言がでるかも知れません。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">この日の常置委員会の議事は比較的少なかったので、8時には陪席者は退出できました。<br>4人でいつものように中華のお店で会食し、午後9時半ごろに常置委員の3名が加わり、10時半ごろまで懇談をして散会しました。この日も鶴巻に着いたのは0時近くでした。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">・１０日（金）聖書研究会には竹内忠美さん一人の出席でしたので、懇談の時にしました。</font></div>
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<link>https://ameblo.jp/yesnomikokoro2019/entry-12506066085.html</link>
<pubDate>Mon, 13 Jun 2016 23:05:48 +0900</pubDate>
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<title>引用＞私にとっては、1967年の「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」 （戦責</title>
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<![CDATA[ <div><br></div><div><font size="5">北村慈郎牧師のブログから</font></div><div><br></div><div><a href="http://blogs.yahoo.co.jp/bokusi1941/63873938.html" target="_blank">http://blogs.yahoo.co.jp/bokusi1941/63873938.html</a></div><div><br></div><div><font size="4">　　　　　　　　　　　　船越通信№２６３　　２０１６年５月２９日　　　　<br><br>・２２日（日）は…（割愛）</font></div><div><font size="4"><br>・さてオリエンテーションは神奈川教区の教会・伝道所に赴任してきた新任教師、按手・准允志願者、神奈川教区内教会・伝道所に出席している神学生などを対象に行われていますが、毎年第一回は神奈川教区形成基本方針についての学びと神奈川教区の諸制度についての説明を行っています。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">今回は教区形成基本方針については、前副議長の蒔田教会牧師古谷正仁さんに講師をお願いしました。委員を含めて15名の参加者があり、16:45から20:00少し前まで、間に夕食が入りましたが、発題に対する質疑及び参加者一人ひとりの感想を述べあって終えました。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">私は二つのことを申し上げました。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">一つは1963年に神学校に入学し1969年に卒業して牧師になった<font size="5">私にとっては、1967年の「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」 （戦責告白）は、文面についての問題を感じつつも、それが出た時に、これで牧師としてやっていけるという思いを与えてくれた</font>のです。</font></div><div><font size="4">戦責告白はそれほど私には大きなことだったということです。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">もう一つは、日本基督教団に属する者のアイデンティティーは、</font></div><div><font size="4">現教団執行部が主張するように「信仰告白と教憲教規」ではなくて、</font></div><div><font size="4"><font size="5">諸教派が国家の力によって合同し、成立した日本基督教団の成立の問題にこそある</font>ということです。</font></div><div><font size="4">日本基督教団に所属する教会は、たとえ成立以後に日本基督教団に加入した教会であったとしても、この日本基督教団の成立の問題を共有しているのです。</font></div><div><font size="4"><font size="5">国家に屈服して成立した日本基督教団の諸教会・伝道所が、その負の歴史をどう克服して、国家に対峙して福音宣教をすることができるかという課題</font>です。<br><br>午後8時にオリエンテーションが終わり、委員でいつも行く中華料理店で少し喉を潤して、鶴巻には午後11時30分過ぎに帰りました。<br><br>・この週も火曜日の２４日には農伝に行きました。</font></div><div><font size="4">学生の中には70年前後のことについて関心のある人がいて、以前にも東神大全共闘の『死せる言葉の終焉』を読みたいと言うので、私が友人から借りて持って行ってあげたことがあります。今回は農伝の他の授業で60年代後半から70年にかけて山谷伝道に取り組んだ伊藤之雄さんを紹介されて、伊藤之雄さんの『神なき時代』を読んだと言うのです。実は私も東神大の学生の頃友人と二人で山谷に伊藤之雄さんを訪ねたことがありました。当時伊藤さんは玉姫館というドヤの一室を住居にしていました。そして山谷労働会館の一室で集会を開いていました。玉姫館にも集会にも伺いました。<br><br>玉姫館で印象的だったのは、伊藤さんの2~3畳の部屋の壁上の棚にはドイツ語の宗教事典RGGが並んでいたことです。また、集会では、集会後一緒に運動している人が捕まって警察の留置場に入っているので、これから差し入れに行くといって出かけて行ったことです。</font></div><div><font size="4">そんな話を農伝の学生にしましたら、当時の生き証人がいるのだと言って、喜んでくれました。伊藤之雄さんの遺稿集も持っているよと言いましたら、ぜひ借りたいというので、来週持って行ってあげようと思っています。<br><br>・２６日（木）には午後4時半から高座渋谷教会で基地・自衛隊問題小委員会があり出席しました。この委員会では委員会独自の活動ではありませんが、厚木、座間、横須賀の現状報告があります。基地の状況や他団体の活動などが報告されます。私も横須賀の報告をしています。今回は、林間つみの教会牧師のY・Sさんから、3月まで沖縄のうぶざと伝道所の牧師で、4月から藤沢大庭教会牧師になったY・Hさんを委員に推薦があり承認されました。Y・Hさんも辺野古で新基地建設反対行動の一環としての抗議船を運転していた方です。またY・Sさんから沖縄で起きた米兵による女性暴行殺害事件の抗議声明を、6月の教区総会に議員提案議案として出す提案があり、さっそく賛同者を募ることにしました。<br><br>・２８日（土）には寿地区センターの講演会が紅葉坂教会でありました。私は寿地区活動委員会で横断幕を書いていく役割を与えられていましたので、10メートルの模造紙を購入し、金曜日の夕方に船越教会に来て、横断幕を準備しました。今回の講師は仁藤夢乃さんという方です。チラシのプロフィールには以下のように記されていました。</font></div><div><font size="4">＜高校中退後、予備校で出会った故・阿蘇敏文氏(牧師・講師)との出会いから農業、国際活動にふれ社会活動を始める。2009年明治学院大学社会学部に進学。友人らが路上を彷徨う生活から抜け出せずにいることから高校生に目を向けた活動を始める。現在「居場所のない高校生」や「搾取の対象になりやすい青少年」の問題を発信するとともに、日常的な関わりを通して少女の支援を行っている。2015年より、第30期東京都青少年問題協議会委員を務める＞とあります。</font></div><div><font size="4">現在協力者と共に女子高生サポートセンターColaboを運営しています。仁藤さんが自分自身の体験に基づいて書いた『難民高校生』の表題「難民」が表わしているように、学校にも家庭にも地域社会にも居場所がなく、秋葉原や渋谷で彷徨う女子中高生は正に日本社会の難民なのかも知れません。仁藤さんのお話を聞きながら、彼女の働きと寿での働きは、一見無関係のように見えますが現代社会の貧困という点で通底しているように思えました。</font><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/yesnomikokoro2019/entry-12506066082.html</link>
<pubDate>Sat, 04 Jun 2016 06:59:23 +0900</pubDate>
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<title>引用＞「欺く心によって」エレミヤ書１４：１３－１６　グリューンによれば、「人生」は「食うか食われ</title>
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<![CDATA[ <div><font size="5">北村慈郎牧師のブログから</font></div><div><br></div><div><a href="http://blogs.yahoo.co.jp/bokusi1941/63872941.html" target="_blank">http://blogs.yahoo.co.jp/bokusi1941/63872941.html</a></div><div><br></div><div><br></div><div><font size="4"><font size="5">「欺く心によって」エレミヤ書１４：１３－１６</font>、</font></div><div><font size="4">2016年5月22日(日)船越教会礼拝説教<br><br><br>・今日は「欺く心によって」という説教題をつけました。先ほど司会者に読んでいただいた、エレミヤ書の14章14節にある言葉です。<br><br>・＜主はわたしに言われた。「預言者たちは私の名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らを任命してはいない。彼らの言葉を託したこともない。彼らは偽りの幻、むなしい呪術、欺く心によってお前たちに預言しているのだ＞。<br><br>・これはエレミヤが偽預言者を批判している言葉です。</font></div><div><font size="4">浅野順一という人が書いた『真実―予言者エレミヤ』という本があります。1958年（昭和33年）発行で創元社という出版社から出ています。私の手元にあるのは1969年（昭和44年）発行の第7刷りですから、良く読まれた本だと思います。その本の帯にこういう言葉が記されています。＜「真実とは何か？（クエッションマークがある）」とあり、「・・・最も貴いものは真実であろう。本書は、その真実を中心として、予言者エレミヤの人と信仰・思想を述べようとしたものである。／今から、2,600年前、当時のイスラエル人に語りかけた予言者エレミヤの声は、今日、大規模な歴史的危機に直面したわれわれ現代人の胸奥に、神の言として、時に激しく、時に静かに鳴りひびくであろう。警告として、あるいは慰言として、そのエレミヤの声を通して、著者は謙虚に、人の尊さはその真実にあることを説こうとするのである＞。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">真実に対して偽り、その偽りこそ偽預言者の語る言葉の本質であると、エレミヤは言っているのではないかと思います。<br><br>・けれども、エレミヤの時代のイスラエルの人々と共に私たち自身も、ここちよく聞こえる偽りの言葉によって、真実に蓋をしてしまうのではないでしょうか。古代イスラエル人にとって、最も恐ろしいことは戦争と飢饉でありました。この二つが何と言っても古代イスラエル人の生存を脅かす最も大きな災難だったからです。<br><br>エレミヤの時代のイスラエル人にとっても、それは変わりませんでした。戦争と飢饉が起これば、人々は全てを失ってしまうからです。<br><br>・偽預言者たちはイスラエルの人々に向かって、神がこのように語っていると預言しました。＜お前たちは剣を見ることはなく、飢饉がお前たちに臨むこともない。わたしは確かな平和を、このところでお前たちに与える＞（14:13)と。これはエレミヤが取り次いだ預言の言葉とは真逆の言葉です。<br><br>・エレミヤは14章11節、12節でこのように預言しています。＜主はわたしに言われた。「この民のために祈り、幸いを求めてはならない。彼らが断食をしても、わたしは彼らの叫びを聞かない。彼らが焼き尽くす献げ物や穀物の献物をささげても、わたいは喜ばない。わたしは剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす」＞。<br><br>・エレミヤにとって真実とは、神の真実ですが、それはどのようなことだったのでしょうか。古代イスラエルの人々が求めたのは既存の社会の中で幸福な生活をすることだったと思われます。そのために彼ら彼女らは断食をし、祈り、犠牲を捧げて神を礼拝したのです。そういう意味では彼ら彼女らはまじめな生活者たちだったに違いありません。しかし、彼ら彼女らは神と隣人である他者のことをどれだけ考えて生活していたでしょうか。貧しい人々への施しは、乞われれば精一杯したかも知れません。けれども、神と契約を結んだ契約の民の一員として、神を大切にし（愛し）、己のごとく隣人を大切にせよ（愛せ）という、かく生きよとの神の定めである律法を守って生活していたのでしょか。エレミヤが、神殿から発見された律法の書によるヨシヤ王の宗教改革を支持し、その改革運動に加わったのは、ヨシヤ王の宗教改革が、神の真実にふさわしくイスラエルの民が真実をもって歩むことをめざす運動に思えたからに違いありません。しかし、ヨシヤ王の宗教改革も、ヨシヤ王の突然の死によって挫折し、ユダの国は再び強国の支配の中で傀儡の王による異教化が進行していきました。その中でどうしてエレミヤは彼ら彼女らの幸せを祈ることができたでしょうか。エレミヤは、神の裁きを預言せざるを得ませんでした。<br><br>・そういう状況において、偽預言者はエレミヤとは真逆な預言をイスラエルの民に語って＜剣も飢饉もお前たちに臨むことはない。神はお前たちに確かな平和を与える＞と言っているのです。エレミヤは、そういう偽預言者とその偽預言者の言葉に聞き従うイスラエルの民に対して、神の預言としてこう語らざるを得ませんでした。偽預言者たちは神に遣わされてはいないのであって、＜これらの預言者自身が剣と飢饉によって滅びる。彼らが預言を聞かせている民は、飢饉と剣に遭い、葬る者もなくエルサレムの巷に投げ出される。彼らも、その妻、息子、娘もすべて。こうして、わたしは彼らの悪を、彼ら自身の上に注ぐ＞（14:15、16）。<br><br>・エレミヤが批判した偽預言者は、何時の時代にもいるのではないでしょうか。私たちは3・11の東京電力福島第一原子力発電の事故で、「原発安全神話」が崩壊した経験をしました。原子力発電所が54基もこの狭い日本に建設されているのは、「原発は安全だ」という思い込みによって大多数の人がだまされていたからです。<br><br>高木仁三郎（たかぎじんざぶろう）さんのような、相当早い時期から原発の危険性を訴え、脱原発の運動をしてきた少数の例外的な人たちもいますが、そのような人たちの声は無視されてきたわけであります。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">同じように原発の危険性を指摘してきた<font color="#ff0000" size="5">小出裕章さんが、事故が起きた後、学者としてその責任を痛感しているという発言をしていました。</font></font></div><div><font color="#ff0000" size="5"><br></font></div><div><font color="#ff0000" size="5"><em>（注：原発事故の直後に、東京・水道橋の明治大学での市民集会で、大勢が入りきれなくなり、お詫びに小出裕章さんが入口の出ていらして「自分の努力が不足していたばかりに、福島原発の事故を未然に防げなかった。申し訳ない。」と泣いて謝っていた。</em></font></div><div><font color="#ff0000" size="5"><em>非常に悔しかったのだろう。集まった人々もシーンとして聞いていた。私も会場からあふれて、そのまま家に戻ったが、その言葉を何度も反芻し続けた。）</em></font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">推進してきた側の学者の謝罪は殆ど聞きませんでしたので、小出さんの発言が大変印象深く思われました。<br><br>・自然の恵みである化石燃料としての石油を輸入に頼っている日本は、経済成長のエネルギー源を原子力に求め、それによって生活の向上がもたらされ、みんなが幸せになるという偽りの幻想に乗ってしまった結果の事故です。幻想の結果としての原発事故被害を、何より事故が起きた原発のあった福島の人々が、そしてまた私たちすべてが負わなければなりません。偽預言者の言葉を聞いているイスラエルの民と同じように。<br><br>＜彼らが預言を聞かせている民は、飢饉と剣に遭い、葬る者もなくエルサレムの巷に投げ出される。彼らも、その妻、息子、娘もすべて。こうして、わたしは彼らの悪を、彼ら自身の上に注ぐ＞。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">原発の安全神話を人々に吹聴した学者たちは、ある意味で偽預言者に等しいと言えるのではないでしょうか。真実を偽ることによって、資本と権力を巻き込んでその彼らの悪を全ての人々、特に福島の人々に負わせてしまったのです。<br><br>・精神分析医のアルノ・グリューンという人は、＜17世紀のイギリスの詩人エドワード・ヤングの言葉を借りて、「私たちは、オリジナルとして誕生するのに、なぜ、コピーとして生涯を終わらせるのか」と訴えています。私たちは、成長とともに、社会のさまざまな枠組や権力に隷属することを学ぶようになります。<br><br>／グリューンによれば、「人生」は「食うか食われるかの闘争」であるという考えは、人間が作りあげた偏見（偽りの真理）にほかならなりません。しかし争いや競争によって成り立っている私たちの社会は、その考えを肯定し、私たちは子どもに、競争に勝つことの大切さと、そのための方法を教え込むのです。</font></div><div><font size="4">／人間の文明は、実際は、人間の協力関係によって成立したものであり、共感しつつ平等な協力関係を築くときに、私たちは、孤立することなく、またストレスを感じることなく、平和な日々を歩むことができます。しかし誤った考え（偽りの真理）によって成り立つ競争社会の中で、ますます孤立し、日常的に競争し合い、常にストレスにさらされているのが、私たちの現状です。</font></div><div><font size="4">／グリューンは、この「隷属化」や「孤立化」からまぬがれ、「共感すること」を再学習し、他者と協力しながら生きるために、「反抗すること」と「創造すること」を勧めます。</font></div><div><font size="4">／私たちは、日常生活の中で、争いや競争を私たちに強いるさまざまな力に「反抗」することなしに、自分を取り戻し、他者と「共感」することはできません。</font></div><div><font size="4">／しかし権力者に「反抗」さえすればいいということではありません。争いや競争を強いる力に屈することなく、自分を取り戻し、他者と「共感」しながら生きるために、「創造力」が必要です。この社会のさまざまな権力者が、私たちに用意している「道」の上に隷属的に走ることをやめ、孤立することなく、協力し合って歩むために、私たちは「共感する力」と「創造する力」を働かせなければならないのです＞</font></div><div><font size="4">（村椿嘉信「Kyomei〔共鳴・響命〕」81号より）。<br><br>・エレミヤは、偽りの預言者を批判し、神の真実を語り続けた預言者です。神との契約に立ち返り、契約の民として、この世の権力に隷属するのではなく神を大切にし、他者を大切にして共に生きる道を示す律法に従って、かく生きよと語り続けました。それはグリューンが言うところの、「共感する力」と「創造する力」を大切にして、神を信じて生きよというメッセージと言えるでしょう。<br><br>・私たちもまた、今も、欺きの心によって、争いや競争を強いるさまざまな力に隷属して生きることを語る偽預言者の言葉に惑わされることなく、エレミヤの語る真実を実際にこの世にあって生きられたイエスに支えられて、争いや競争を強いる力に屈することなく、自分を取り戻し、創造力をもって他者と共感しながら生きていきたいと、心から願う者です。</font></div>
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<pubDate>Thu, 02 Jun 2016 23:02:47 +0900</pubDate>
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<title>引用＞このようなキリスト教の教義については、おそらく歴史的に聖書を読む者には全く観念的なもので、</title>
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<![CDATA[ <div><br></div><div><br></div><div><a href="http://blogs.yahoo.co.jp/bokusi1941/63863705.html" target="_blank">http://blogs.yahoo.co.jp/bokusi1941/63863705.html</a></div><div><br></div><div><br></div><div><font size="4">　船越通信№２６２　　２０１６年５月２２日　　　　<br><br>・１５日はペンテコステの礼拝でした。今回はペンテコステの礼拝案内を出すことができず、またこの日に都合の悪い方が教会員の中に数名いて、礼拝出席者は少ない人数ではないかと思っていました。ところが、多くはありませんが、１２名の出席者があり、共にペンテコステの礼拝に与かりました。私は、聖書日課からテキストを選び、ヨハネ福音書14章15－27節に基づいて説教をしました。ヨハネ福音書のイエスの告別説教の一節ですが、</font></div><div><font size="4">イエス、父なる神、弁護者である聖霊が一体として語られているところです。</font></div><div><font size="4">私は説教の中でめずらしく三位一体について説明の言葉を加えました。</font></div><div><font size="4">古代教会における教義形成において三位一体論と<font size="5">キリストの人性と神性の両性論</font>、まことの人でありまことの神であるキリストが中心的な教えとして採択されたわけであります。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">このようなキリスト教の教義については、おそらく<font size="5">歴史的に聖書を読む者には全く観念的なもので</font>、教会の護教のためのものに思えるかも知れません。けれどもバルトの教会教義学も三一論的構造によって書かれていますが、バルトの三一論は決して護教的とは思えない豊かさが感じられます。</font></div><div><font size="4">ですから私は<font size="5">三位一体という神についての教えは、神の豊かさの表現として捉えたい</font>と思っています。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">ただ教義の神聖化には私は否定的ですので、三位一体なる神など信じられないという人には、信じられないのならば、信じなくでもいいのではないですか、と言うようにしています。若い時には、そういう人にはむきになって教義の弁護をしたように思いますが。この日の礼拝には聖餐式もありました。<br><br>礼拝後いつものようにお菓子をいただきながら、お茶を飲んで、しばらく懇談して散会しました。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">その後も関本達也さんと中野順子さんが、午後2時半ごろまで庭の手入れをしてくださいました。梅の木にカイガラムシ（？）なのか、仁丹を少し大きくしたような黒い粒が枝にびっしりついているのです。その枝を切ってしまおうということになりかけましたが、良く調べてからにしようということになりました。二人が帰った後、しばらく仕事をして、この日も鶴巻に帰りました。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">このところ船越教会の私の滞在日は、原則として土曜日から月曜日になっていますが、実際には金曜日から日曜日夕方までになっています。悪し からずご了承下さい。<br><br>・先週はほとんど毎日集会などで出かけましたが、この週に出かけたのは、１７日火曜日の農伝と２０日金曜日の寿地区活動委員会の2回だけでした。農伝の説教演習では今回4年生で、来年3月卒業する二人に使徒言行録3章1－10節をテキストに説教をつくってきてもらい、農伝の礼拝堂で実際に説教をしてもらい、その後教室に戻って講評の時を持ちました。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">二人共よく準備した説教でした。ただ何となく私には二人の説教を聞いていて、違和感のようなものを体で感じてしまいました。それは何なのだろうかと考えてみましたが、二人共「語る」ことが優っているからではないかと思うのです。私は説教者には「聞く」姿勢が大切ではないかと考えています。説教は聖書から何を聞き、それをどのように語るかですが、聖書に聞くという作業は、ある意味で聖書との格闘のようなものです。毎回毎回聖書と格闘して、聞いたメッセージがその人ならではのものであるかが大切なように思います。かく言う私自身がそのようなメッセージを語り得ているかに自信はありませんが、そういうその人の主体を通した聖書の解き明かしが、その人固有の証言になるのではと思うのです。ですから、説教者には会衆と共に聖書から聞くという姿勢が不可欠のように思えるのです。説教を語る者が、語る自分に何がしかでも酔うものを持ってしまったら、会衆との間に隔たりが生まれてしまうのではないでしょうか。会衆より自分を一段上に置いてしまっているからです。<br><br>この日の講評では、そこまでは話しませんでしたが、この一年間のどこかでこの問題を一緒に考えてみたいと思っています。<br><br>・寿地区活動委員会では、毎回寿地区センターの活動だけではなく、寿地区センターと関連が深い諸団体の報告も聞くことになっています。今回私も可能な限り裁判に傍聴した難民として日本に来たコンゴのMさんが、裁判所から国にMさんの難民申請を認めるようにという判決が出て、今どうされているかをカラバオの会の報告で伺いました。生活保護を受けて何とか日本で生活しているとのことでした。ぜひこの日本社会の中で生きる道が整えられるようにと願わずにはおれません。協議では主に5月28日（土）に予定しています、寿地区活動委員会主催の講演会の打ち合わせをしました。今回の講演会は講師が『難民高校生』を書いた仁藤夢乃さんです。・・・最初参加者が少人数でしたが、委員会では100名を越える申込者があるということで、一安心しました。性を売り物にさせられている高校生の実体は、私の想像以上のようで、この社会の病理の現れですが、仁藤夢乃さんからその現実の一端を聞けるのではないかと思っています。私はこのところずっと寿地区センターの講演会では講壇の正面に掲げる横断幕を書いていますが、今回もその役割を与えられました。<!-- /entryBody --></font><!-- __entry_body_end__ --><!-- nice button -->   </div><div class="ultmodule" id="bosnsshrnice"><div class="niceBtn bottom" style="display:block;"></div></div>
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<link>https://ameblo.jp/yesnomikokoro2019/entry-12506066079.html</link>
<pubDate>Sat, 28 May 2016 21:53:48 +0900</pubDate>
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<title>引用＞「心を騒がせるな」ヨハネによる福音書１４：１５－２７　互に愛し合いなさいというイエスの掟を</title>
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<![CDATA[ <div><br></div><div><br></div><div><br></div><div>北村慈郎牧師のブログから</div><div><br></div><div><br></div><div><font size="4">　　「心を騒がせるな」ヨハネによる福音書１４：１５－２７、<br>　　　　　　　　　　　　　　<br>　　　　　　　　　　　　　　　　2016年5月15日（日）ペンテコステ礼拝説教<br><br>・今日はペンテコステの礼拝です。ペンテコステとは、50日目ということで、イエスが復活して50日目に弟子たちに聖霊が降って、教会が誕生したと言われている日です。今日は聖書日課に従って、ヨハネによる福書14章15~27節から私たちに対する聖書の語りかけを聞きたいと思います。<br><br>・このヨハネによる福音書の記事は、イエスの告別説教と言われる箇所の一節です。ヨハネによる福音書は、ご存知の方も多いと思いますが、13章で「洗足の教え」と言って、イエスが自ら弟子たちの足を洗って、弟子たちが互いに足を洗い合うように模範を示す物語が最初に出てきます。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">次にイスカリオテのユダに対する裏切りの予告の記事が続きます。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">そしてイエスは自分が栄光を受ける時が来たことを弟子たちに告げ、新しい掟を与えると言って、</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">「<font size="5">互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい</font>。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(13:34,35)と、弟子たちに語ります。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">13章の最後には、ペテロが三度イエスを知らないと言うだろうと、ペテロの離反を予告します。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">13章はこれで終わって、14章の1節で、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい・・・」と言って、告別の説教と言われる、弟子たちへの遺言のようなイエスの言葉が16章の最後まで続くのです。<br><br>・今日の箇所では、イエスの受難と十字架を前にして、弟子たちがイエスに躓き、イエスから離れ去ってしまうということを予想して、イエスは、イエスの死後弟子たちに与えられる弟子たちの弁護者（本田訳、協力者）である真理の霊（本田訳、真実の霊）がいつまでも弟子たちと共にいてくれるということを語っているのであります。その部分を本田哲郎さんの訳で、もう一度読んでみたいと思います。わたしたち自身に語られたイエスの言葉として聞いて見たいと思います。<br><br>・＜あなたたちはわたしを大切に思うなら、わたしの掟を守るはずだ。そうしたら、わたしも父に願って、別の『協力者』をつけていただこう。その方はいつまでも、あなたたちといっしょにいてくださる。その方は真実の霊。世はこの霊を身に受けることはできない。この方をよく見ようとも知ろうともしないからだ。<br>あなたたちはこの方を知っている。あなたたちのところにとどまっており、あなたたちの内にずっといてくださるからだ。わたしはあなたたちを、みなしごにはしておかない。あなたたちのところに帰ってくる。今しばらくすると、世はわたしを見ることがなくなる。しかし、あなたたちはわたしをしっかりと見つづける。<br>わたしは生きつづけ、あなたたちも生きるようになるからだ。その日が来たら、あなたたちは分かるだろう。<br>わたしが父の内におり、あなたたちがわたしの内にいて、わたしもまた、あなたたちの内にいるのだ、と。<br>わたしの掟をしっかり受けとめ、それをふみ行う人こそ、わたしを大切にする人なのだ。わたしを大切にする人は、父もその人を大切にしてくださる。わたしもその人を大切にし、その人にわたし自身を現わそう。<br><br>・・・「わたしは、あなたたちのところにいるあいだにと思って、これらのことを話してきた。父がわたしとひとつになってつかわす『協力者』、すなわち聖霊が、あなたたちにすべてをときあかししてくださるだろう。また、わたしがあなたたちに言ったことをみな、思い出させてくださるのだ。「わたしは平和をあなたたちにさし向ける。わたしの平和を、あなたたちに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を不安にしてはならない。おびえてはならない・・・」＞(14:15-21、25-27))。<br><br>・ここには、世、即ちこの世界、人間と自然が生み出すこの世、私たちの現実からは見いだすことのできない何ものかが語られているのであります。イエスとイエスの父（なる神）と、＜父がわたし(イエス)とひとつになってつかわす『協力者』、すなわち聖霊の存在です。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">キリスト教の教義において三位一体論として言い表わされてきた神についての教えは、このイエスと父と聖霊という三つの位格において一つなる神、一つで三つの位格を持つ神のことです。</font></div><div><font size="4">私はこの三位一体論を神の豊かさを表わす教えとして理解していますが、言葉の説明だけではなかなか理解できない教えであることに間違いありません。</font></div><div><font size="4">私たちは三位一体論を信じているわけではありませので、教義としての三位一体論がよく分からなくても、イエスについて、イエスが父と呼んでしばしば祈った神について、</font></div><div><font size="4">また、今日の聖書箇所のようにイエスの死後、イエスと父なる神によって私たちに遣わされている協力者である聖霊について信じることができれば、それで十分ではないかと思います。</font></div><div><font size="4"><br>・イエスの弟子たちは、イエスの生前、イエスに従っていましたが、本心からイエスを信じることはできなかったと思われます。で</font></div><div><font size="4">すから、当然イエスの父なる神も信じることはできなかったのではないでしょうか。</font></div><div><font size="4">イエスに従っていれば、自分も何か偉い者になれるに違いないというくらいの気持ちでイエスに従っていたのかも知れません。</font></div><div><font size="4">或は、当時のユダヤ人が待望していたローマの支配からの政治的解放者としての王なるメシヤを勝手にイエスに当てはめて、そのようなメシヤ・イエスに従っていたのかも知れません。<br><br>しかしイエスは彼らの期待とは裏腹に、ローマからユダヤを政治的に解放する王どころか、ローマの権力によって苦難を強いられ、ついには十字架に架けられて殺されてします事を知った時に、彼らの期待を裏切ったイエスを見捨てるようになったのかもしれません。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">ですから、イエスの受難と十字架が迫って来ると、イエスから離れて行ってしまったのでしょう。</font></div><div><font size="4">生前のイエスに従ってイエスと行動を共にした弟子たちは、本当の所本田哲郎さんが言うように、「イエスに信頼して歩みを起こ」してはいなかったということではないでしょうか。<br><br>・イエスは、そのような弟子たちの弱さを十分知りつつ、ヨハネによる福音書の著者は、この告別説教の中で、受難と十字架を前にして自分の死後弟子たちに協力者である聖霊を遣わすことを約束して、弟子たちが立ち直ってイエスの証言者として生きていくことができるように備えてくれたのだと言っているのであります。<br><br>・パウロは、コリントの信徒への手紙12章3節で、</font></div><div><font size="4">＜<font size="5">神の霊によって語る人は、</font></font></div><div><font size="4"><font size="5">だれも「イエスは神に見捨てられた」とは言わないし、</font></font></div><div><font size="4"><font size="5">また、聖霊によらなければ</font></font></div><div><font size="4"><font size="5">だれも「イエスは主である」とは言えないのである</font>＞<br>と言っています。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">また、コリントの信徒への手紙二、4章18節では、＜わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです＞と言っています。<br><br>・イエスの受難と十字架を前にして、イエスを見捨ててしまった弟子たちは、その時イエスは神に見捨てられたのだと思ったでしょうし、見えないものに目を注いでいたのではなく、弟子たちが見ていたのは、見えるもの、つまりユダヤの権力者たちと結託してイエスを十字架に架けた総督ピラトとローマ皇帝の権力だったのではないでしょうか。</font></div><div><font size="4">そのようなこの世の見える権力の横暴に恐れを感じて、イエスと共にずっと行動してきたにも拘わらず、イエスを見捨てて逃げ出した弟子たちは、イエスを主と信じて歩みを起す者ではなかったのです。見えないものを見ることのできる目を持っていなかったのです。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">低みに立ってこの世で悩み苦しむ人々の友となって生きたイエスに信頼して、イエスの掟である互いに愛し合うことを大切にして歩む者は、イエスが与えて下さる平和によって、目に見えるこの世の恐れからも解放されて、見えないものに目を注ぎつつ、為すべきことを為して生きて行くことができるでしょう。弟子たちはイエスの十字架と復活の後で、真理の霊（本田訳:真実の霊）である聖霊によって、そのようにイエスの掟を大切に、イエスに信頼して歩みを起す者となって生きていったに違いありません。<br><br>・本田哲郎さんは、今日のヨハネによる福音書の箇所を、このような表題でまとめています。15節から21節までを「<font size="5">低みに立つ人々は、聖霊によって、イエスが帰ってきていたことを知る</font>」、24から26節までを「イエスとともに低みに立たない者は、イエスは見えない」、そして27節以下は「低みに立つ者こそ、『平和』のにない手」であると。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">私たちが目で見ているこの世の現実の中に、イエスが誰と共に歩んでおられるのかを見る目を与えられたいと思います。<br><br>・６月末に私たちが所属する神奈川教区総会があり、そこに議員提案として一つの議案を提案することにしています。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">林間つきみの教会のY牧師が提案者で、私もY牧師から相談を受けて、協力しています。その議案の内容は、「日本基督教団は、第40回（合同後第25回）教団総会の総意において下記の辺野古新基地の撤回を求める抗議声明を発し、沖縄教区への謝罪と合同のとらえなおしと実質化への取り組みを再開することを決議する。その具体的作業の責任は第40総会期常議員会が負うものとする」というものです。</font></div><div><font size="4">その提案理由の中にY牧師はこのように書いているところがあります。＜教会とは、「世にキリストを証しする」ものであり、「キリストの体」だからである。この時代と社会の、一体どこにキリストがおられ、誰と共に呻いておられるのかを、悩みながら探り、歩みを共にするのが教会の使命である＞と。</font></div><div><font size="4">私はこのY牧師の一文に共感しました。ただ私たちがそのようにイエスに従ってこの世の現実を生きていくときには、必ず困難や苦難が伴うことを忘れてはならないと思います。それ故の不安や恐れが私たちを襲うに違いありません。或は、何故世の中はこんなにおかしいのか、政治も何もかもなってやしないと嘆くかもしれません。<br><br>・その時に、私たちはヨハネの告別説教の最後のイエスの言葉を想い起したいと思います。＜これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている＞（16:23）。<br><br>・聖霊を与えられて、イエスを主と告白しつつ、<font size="5">互に愛し合いなさいというイエスの掟を大切に、今もイエスが共に歩まれれている低みに立つ人々に寄り添い、イエスに信頼して歩みを起していきたいと願います。</font></font></div>
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<pubDate>Sat, 28 May 2016 21:32:44 +0900</pubDate>
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<title>引用＞「闇が襲わぬうちに」エレミヤ書１３：１２－１７　何よりも主イエスを私たちの所に送って下さり</title>
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<![CDATA[ <div>北村慈郎牧師のブログから</div><div><a href="http://blogs.yahoo.co.jp/bokusi1941/63829595.html" target="_blank">http://blogs.yahoo.co.jp/bokusi1941/63829595.html</a></div><div><br></div><div><br></div><div><font size="4">　　　<font size="5">「闇が襲わぬうちに」エレミヤ書１３：１２－１７</font>、</font></div><div><font size="4">2016年4月17日（日）船越教会礼拝説教<br><br>・野坂昭如という作家がいました。彼は、第二次大戦中に小学校（当時は国民学校）に入学したか、第二次大戦中に生まれた世代を、「焼け跡派」と言いました。この焼け跡派の人たちは、太平洋戦争の時、アメリカのB５２によって落とされた焼夷弾で都市が焼け野原になって、死体がごろごろ転がっていた、その焼け跡を目に焼き付けて育った世代の人々です。この世代の人々がこの焼け跡をどのような思いで見たのか。私は野坂昭如の文学はほとんど読んでいませんので、よく分かりませんが、想像しただけでも、そこで見た悲惨な光景が、その人のその後の人生に与えた影響の大きさを思わずにはおれません。<br><br>・実は、先ほど読んでいただいたエレミヤ書13章12節から14節までに記されています「ぶどう酒のかめ」をもちいた比喩は、エレミヤの象徴行為として語られていますが、恐らくバビロニア帝国によるユダとエルサレムの破滅の悲惨な状況を、神の怒りとしてつぶさに見た人々の比喩的表現ではないかと思われます。<br><br>・まず「かめにぶどう酒を満たせ」という神の命令が語られています。杯に満たされぶどう酒は、神の怒りを象徴しています（エレミヤ25:15-16）。それを飲む者は、よろめき倒れるのです。指導する能力を失った指導者たちは酒に酔った人間のように見られています。今、バビロンの前に逆らうダビデ王朝の王や祭司、預言者などの指導者、またすべてのエルサレムの住民は、かめに満たされた酒を飲んだように、酔って互いに争い、自らの滅亡を早めているというのです。それが神の怒りとして、ここでは語られているのです。<br><br>・「あなたは彼らに言いなさい。『主はこう言われる。見よ、わたしは、この国のすべての住民、ダビデの王座につくすべての王、祭司、預言者、およびエルサレムの全ての住民を酔いで満たす。わたしは、人をその兄弟に、父と子を互いに、打ちつけて砕く。わたしは惜しまず、ためらわず、憐れまず、彼らを全く滅ぼす』と主は言われる」（エレミヤ13:13~14）と。<br><br>・ここに語られています、支配者から民衆まで酒に酔って破滅に突き進んでいく姿は、日本の15年戦争の時代の姿に重なっているのではないでしょうか。焼け跡世代の人々は、戦災によって焼け野原になって、そこに死体がごろごろ転がっている悲惨な光景を目の当たりにして、それを神の怒りとして受け止めたとは思えません。しかし、大日本帝国憲法から交戦権をすら放棄した9条をもつ現在の憲法に変わって始まった戦後社会生きていった彼ら・彼女らは、敗戦を明治以来の日本の富国強兵がそこで否定された出来事として捉えていたのではないでしょうか。死体がごろごろころがっている焼け跡は、明治以来の富国強兵による天皇制国家の破綻であるという認識は持っているように思われます。ですから、安倍政権の欺瞞的な積極的平和主義と言われる、明らかに憲法９条違反の安保法制による戦争のできる国造りには、絶対反対です。晩年の野坂昭如も病を抱えながら平和への思いと行動を続けていたようです。<br><br>・昨日私の支援会の集まりが紅葉坂教会であり、その時に関田寛雄先生の講演がありました。その中で関田先生は、戦争責任告白以来の40年の教団の歴史を、社会への関わり第一にして伝道を疎かにしたと、否定的に捉えている山北宣久前教団議長による「荒野の40年」という歴史理解を批判されました。先生は、キリスト教の宣教は一方的に語るだけではなく、まず聞く姿勢が重要であるということを指摘されました。<br>苦しんでいるひとりの人の叫びに耳を傾け、主イエスによる福音の喜びを共有しようとするときには、そのひとりの人を押し潰している社会の問題に取り組まざるを得ないと。福音宣教とはそういうものであって、現実社会の中で苦しむ人から社会的な抑圧をそのままにして、伝道伝道と声高にキリスト教信仰を押し付けるだけであるとすれば、それは観念的な信仰に過ぎないと、はっきりと強くおっしゃいました。そして日本の社会に生きるキリスト者にとって、国家=天皇は対決せざるを得ない課題であることをはっきりとお話しになりました。ですから日本基督教団にとっては、戦時下の教団の戦争協力の悔改めを公にした戦争責任告白に立って、赦されて生かされて今を感謝して歩んでいかなければならないと。そのためには社会的な問題も避けては通れないと、関田先生はおっしゃいました。実際先生はこの集会にも、先生が呼びかけ人の代表者になっている川崎市に対するヘイトスピーチ防止申し入れの署名用紙をもってこられて、みなさんに署名を呼びかけておられました。」<br><br>・エレミヤ書13章１５～１７節には、このように語られています。「聞け、耳を傾けよ、高ぶってはならない。／主が語られる。あなたがたの神、主に栄光を帰せよ。闇が襲わぬうちに／足が夕闇の山でつまずかぬうちに」と。国が崩壊し、バビロン捕囚を経験したユダは、すでに十分に打ち砕かれたはずでありますが、彼らに対する警告は、何よりも「高ぶってはならない」という警告でした。ユダが滅んだとき、彼らはかめに満たされたぶどう酒を飲んだのであります。また再び「怒りの酒の杯」を飲もうというのか。<br>傲慢であってはならない。酒に酔ってはならない。それは、つまずきの原因である。栄光はすべて神に帰すべきであると。<br><br>・傲慢がいやされなければこの審判を語る預言者は、かつて、エレミヤが嘆きと悲しみをもって滅亡を預言したように、悲しみ泣かなければならないというのであります。「あなたたちが聞かなければ／わたしの魂は隠された所でその傲慢に泣く。／涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。／主の群れが捕えられて行くのだから」（13:17）。<br><br>・富国強兵という酒に酔って、その結果侵略戦争を企てた戦前の日本の国は、指導者から民衆までその酒に酔ってしまい、傲慢になって、どんでもない大きな過ちを犯してしまいました。その結果としての敗戦を真摯に受け止めることなく、戦前からある意味で切れ目のない連続した歴史を生きて来てしまった日本の国が、今また安倍政権がかつて歩んだ酒に酔った道を再び歩もうとしているのではないかと思うのです。<br>そのような状況において、私たちキリスト者、そしてイエスを信じる者の群れとしての教会は、どうあるべきかが問われているのではないでしょうか。「高ぶってはならない。・・・主に栄光を帰せよ」という呼びかけは、そのような私たちに向けられている言葉でもあるのではないでしょうか。<br><br>・「主に栄光を帰す」とは、私たちにとりましては、日々祈っております主の祈りに従って生きることではないでしょうか。祈りつつ、神を待ちつつ、正義を行う、その道が主の祈りがめざす道ではないでしょうか。「天にまします我らの父よ／ねがわくはみ名をあがめさせたまえ／み国を来らせたまえ／みこころの天になるごとく／地にもなさせたまえ／我らの日用の糧を、今日も与えたまえ／我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく／我らの罪をもゆるしたまえ。／我らをこころみにあわせず／悪より救い出したまえ。／物を御名が崇められますように」と祈りつつ。<br><br>・<font size="5">何よりも主イエスを私たちの所に送って下さり、その主イエスが最も小さき者の一人を徹底的に愛し、受け入れ、癒し共に生きて下さった</font>こと、</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4"><font size="6">その結果十字架の苦難と死</font>を引き受けて下さり、</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">神によって復活の命を与えられて、今も私たちと共に生きて下さっていることを信じて、高ぶることなく、栄光を神に帰す歩みを、私たちもまたイエスに従って歩んで行きたいと、切に願うのであります。</font></div>
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<link>https://ameblo.jp/yesnomikokoro2019/entry-12506066075.html</link>
<pubDate>Wed, 27 Apr 2016 19:58:36 +0900</pubDate>
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<title>引用＞「信仰によって生きる」ガラテヤ３：１－９　そしてその信仰は、私たちだけのものではなく、主イ</title>
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<![CDATA[ <div><br></div><div><br></div><div>北村慈郎牧師のブログから</div><div><a href="http://blogs.yahoo.co.jp/bokusi1941/63826124.html" target="_blank">http://blogs.yahoo.co.jp/bokusi1941/63826124.html</a></div><div><br></div><div><br></div><div><font size="4">　　　<font size="5">「信仰によって生きる」ガラテヤ３：１－９</font></font></div><div><font size="4">　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　2016年4月10日船越教会礼拝説教<br><br>・ある人は、信仰というのは水道の管のようなものだと言います。水源から送られてくる水は、管を通して私たちのところに届き、その水を私たちは飲むことが出来ます。そのように水を私たちは受けるのであって、水は私たち自身の中にあるものではありません。私たちは、渇きを覚える度にその水を飲み、癒されます。<br>命を与えられて生きていくことができます。<br><br>・この譬えからしますと、水源から送られてくる水である命は、私たち自身の所有物ではありません。与えられるもの、受けるものです。私たちの中にあるもの、私たちの中から出て来るものではありません。私たちの外にあるもので、外から私たちに注がれるものです。<br><br>・以前に私が紅葉坂教会の牧師だった頃、何回か日曜学校の夏期キャンプで、山梨県の道志村の民宿に行ったことがあります。道志村は山梨県と神奈川県が接している山梨県側にある所で、私たちはバスで行きましたが、富士五湖の一つである山中湖から道志村に行きました。船越教会は横須賀にありますが、紅葉坂教会は横浜にあります。実はその横浜の水は水源が道志村にあるのです。道志村には川が流れていて、その川で子どもたちと水遊びをしましたが、この道志村の川の水が横浜市の水道の水源になっているのであります。<br>横須賀市の水源がどこにあるのかは知りませんが、それぞれの家庭で水道の蛇口をひねれば、水が出て来て、飲み水にも、食事の用意にも、掃除や洗濯にも、また風呂やトイレにも使われて、水は私たちの生活には欠かせないものになっています。<br><br>・最近日本では余り聞きませんが、夏に雨が降らず、ダムの水量が少なくなって、節水をしたり、断水になったりすると、私たちの生活そのものに大きな影響がでます。昔は日本でも干ばつで、生きていけなくなった人が出たのではないでしょうか。今は人間の技術が進歩して、先進国ではそういうことは起きないでしょうが、今でもアフリカなどでは、干ばつによって人が沢山死んでしまうことがあります。<br><br>・私たちにとって、水は受けたものであるように、パウロは、信仰もまた神の命の力である「霊を受けたのは、福音を聞いて信じたから」ではないのかと、ユダヤ主義者に影響されて、割礼を受け、律法を守っているからと、自らを誇るガラテヤの人たちに向かって問いかけているのです。先ほど司会者に読んでいただいたガラテヤの信徒への手紙の箇所でのパウロは、大変厳しい言葉でガラテヤの人々に語りかけています。<br><br>・＜ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前にイエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか＞（3:1）とか、＜あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか＞（3:3）と語っているのです。<br>パウロは、ガラテヤの人たちが「物分かりが悪い」と、二度も言っているのです。「だれがあなたがたを惑わしたのか」と、「惑わす」と言われていますが、この言葉には「魔法をかける・魔力で魅惑する」という意味があります。パウロは、ガラテヤの人たちは「物分かりが悪い」、つまり「理解力・判断力がない」というだけでなく、悪魔的な力によって魔法をかけられて、惑わされてしまっているのではないかと言っているのであります。<br><br>・パウロは、ただイエス・キリストを信じる信仰による義によって生きるのではなく、割礼や律法を誇りとしているガラテヤの人たちを見て、かつて自分が割礼を受けたユダヤ人であることを誇りに思っていた時に侵した過ちのことを思い出しているのかも知れません。そのようなユダヤ主義者としてパウロは、回心前にはキリスト教徒を迫害し、獄に入れ、死に至らしめていたのです。肉を誇ることの恐ろしさ、その犯罪性に、キリスト教徒迫害のために急いでいたダマスコ途上で、復活の主イエスとの出会いによって気づかされなかったとすれば、パウロはガラテヤの人たちと自分は全く同じだったという自戒を込めて、パウロは、ガラテヤの人たちのことを、「物分かりが悪い」とか「惑わされている＝悪魔的力によって魔法をかけられている」とこの手紙で書いているのではないでしょうか。<br><br>・フィリピの信徒への手紙3章に、ガラテヤの人々を惑わした、割礼や律法も無くてはならないとするユダヤ主義者に対して、パウロは「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに警戒しなさい」と記しています。「あの犬ども」という言葉も差別的ともいえるすごい言葉ですし、「よこしまな働き手」という言い方も絶対に認められないという思いが表わされていますが、パウロはユダヤ主義者に対してそのように言っているのです。そして「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち（ユダヤ人）を警戒しなさい。彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」と言って、自分はユダヤ人の中のユダヤ人で、そのような肉を頼り誇ろうとすれば、誇ることができるが、イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今ではそのような肉の誇りは塵あくたとみなしていますとまで言っているのです。続けてパウロはこのように記しています。</font></div><div><font size="4">＜わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしあ、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけではありません。何とかして捕えようと努めているのです。<br>自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。兄弟たち、私自身は既に捕えたとは思っていません。<br>なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へと召して、お与えになる賞を得るために、目標をめざしてひたすら走ることです」（3:9-14）と。<br><br>・このフィリピの信徒への手紙に記されていますパウロの証言を読めば、今日のガラテヤの信徒への箇所で、なぜパウロがガラテヤの人たちのことを、「物分かりが悪い」とか、「あなたがたは惑わされているのだ」と、非常に強い言葉で批判しているかが分かると思います。<br><br>・そこでパウロは、アブラハムの信仰を引き合いに出して、「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」と語り、「信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」と言って、ただ「信仰によって生きる」ことの大切さを強調しているのであります。<br><br>・ヘブライ人への手紙の著者は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」 （11:1）と言って、アブラハムやモーセという旧約聖書の人物を引き合いに出して、彼らを信仰の証人とした上で、＜こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷の絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスを見つめながら＞と語っているのであります。<br><br>・昨日鶴見の沖縄県人会館で「オール沖縄と共に　辺野古の埋立てを止めよう！　4・9横浜／鶴見の集い」があり高里鈴代さんが講師の一人でしたので、私も出席しました。もう一人の講師は照屋完徳さんという沖縄の方で、弁護士で現職の衆議院議員の方です。照屋完徳さんは、辺野古の新基地反対の闘いのベースには、ウチナンチュウーの沖縄戦の経験があり、絶対に戦争はだめだという平和への強い希望があるということをお話しされました。そして辺野古の闘いに参加している人は、この闘いには絶対に負けない、必ず勝つのだという思いが強くあるというのです。実際に何度かキャンプ・シュワブ前の座り込みに私も参加していますが、そこに座り込んでいる人々の中にはそのような思いが強くあることを感じさせられています。<br><br>・昨日の集会にはIさんも来ていて、帰りに一緒に京急で帰ってきました。Iさんは３・１１東電福島第一原発事故後に行われた、国会前行動以来毎週金曜に国会前で行われている原発反対の金曜行動に、欠かさずに参加しています。Iさんは原発反対の行動に参加していて、この運動は絶対に勝つという確信が大事に思うお仰っていました。辺野古での闘いを担っている人たちと、思いは同じであるということだと思います。この絶対勝つという確信はどうしてでてくるのでしょうか。中には、その言葉だけを表面的に受け止めて、思い上がりだと思おう人もいるかもしれません。しかし、それは誤解であって、「絶対に勝つ」という確信には、「真実は必ず明らかになる」という強い思いがその根底にあるのではないかと思います。真実は現在権力によって覆われているかもしれないが、真実それ自身の力でその覆いを引きはがして、自らを明らかにする時が必ずやって来るという信仰ともいえる思いです。そういう思いが根底にあって、この基地を造らせてはならない、原発を稼働させて、再びチェルノブイリや福島のような事故を起こさせてはならない、そしてこの運動は絶対に勝つのだ、勝たなければならないという確信となるのではないかと思うのであります。<br><br>・「信仰によって生きる」という私たちキリスト者の生においても、水源である主イエス<font size="4">。</font></font></div><div><font size="4"><font size="5">「信仰の創始者であり、完成者であるイエス」が、今も私たちの中で生きてい給うというということ。その主イエスにおいて「神われらと共にいまし給う」という、その恵みの確かさによって</font>、私たちの日々の生は支えられているのです。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">たとえ私たちがこの事実を見失い、疑うことがあったとしても、主イエスにおいて神がこの私とともにい給うということは事実であり、真実なのです。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="4">そうであるがゆえに、私たちは、パウロと共にその信仰によって生きるのです。</font></div><div><font size="4"><br></font></div><div><font size="5">そしてその信仰は、私たちだけのものではなく、主イエスにおいて神が全ての人と共におられるのですから、全ての人に開かれているのであります。</font></div>
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<link>https://ameblo.jp/yesnomikokoro2019/entry-12506066074.html</link>
<pubDate>Sun, 24 Apr 2016 11:24:38 +0900</pubDate>
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