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<title>いーちんたん　－－中國歴史随筆</title>
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<description>中国の歴史にまつわる徒然</description>
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<title>承徳の澹泊敬誠から、永楽帝の神木群まで</title>
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<![CDATA[ <p>＊本テーマは、この1本のみ。</p><p>&nbsp;</p><p>「承徳」は、遊牧帝国のハーンである清朝皇帝のもう一つの顔にとって、</p><p>「夏都」である。<br>夏と冬で統治者が都さえも移動させる遊牧国家の特徴を体現している。<br><br>北京から東北に150㎞。<br>「避暑山荘」は、紫禁城、円明園などの北郊外の別荘群に次ぐ</p><p>重要な「陪都」に当たる。<br>しかし毎年使われるわけではなく、そして年中使われるわけでもない。<br><br>そんな中で乾隆帝は、歴代皇帝の中で最も足しげく通った皇帝である。<br>乾隆年間合計六十年、加えて太上皇となってからの三年を合わせ、</p><p>即位以来六十三年のうち、五十四回訪れている。<br>一夏を過ごすためであり、大抵は旧暦の五月に入り、</p><p>十月から十一月まで半年近く滞在する。<br>　<br>逆にいえば、一年の半分は使わない。<br><br>ここで行われるのは、清朝皇帝の草原の「ハーン」としての行事だ。<br>モンゴルや各遊牧民族の族長を一堂に集め、皆で「巻き狩り」を楽しむ。<br>「狩り」という遊牧民としての「本領」を確認し合いつつ、</p><p>軍事演習も兼ねるのである。<br><br>夏の間、東はシベリアから、西は天山山脈の麓に至るまで、</p><p>さまざまな遊牧民族が集まってきた。<br>清朝の皇帝が、農耕民族である漢族の長（おさ）としては決して見せない、</p><p>別の顔をするための場所なのである。<br><br>承徳の「避暑山荘」では、春の皇帝の滞在前、<br>冬の間におざなりになっていた手入れの最終点検のために人々の動きは慌しかった。<br>　<br>留守部隊はもちろん置かれた。<br><br>熱河での巻き狩りの規模は、一万人といわれる。<br>大部分は、「避暑山荘」の周囲に営地を指定され、</p><p>そこに天幕を張って滞在するが、</p><p>「避暑山荘」の中も数百人は出入りするようになる。<br>　<br>準備作業のために事前に京師から先発部隊が送り込まれていた。<br>特に中原式の四合院様式建築の手入れ、掃除には、</p><p>徒弟制度の中で鍛え上げられた宦官たちが必要になる。<br>　<br>これまでにも、清朝になってから、なぜ宦官の数を大幅に削減することができたか、という話題に触れてきた。<br>それは明代では宦官が引き受けていた皇帝一家の「お家事情」に関わる買い付け、<br>外部での交渉、表向きにしにくい所用なども</p><p>「包衣(ボーイ)」と呼ばれる満洲時代からの家奴らが引き受けてきたからである。<br><br>が、部屋の掃除や雑用などの家事まではさすがに彼らにさせることはなく、</p><p>明朝の伝統どおりに宦官を使ってきた。<br>いわば、家政業務のプロ集団である。<br>　<br><br>避暑山荘の「表の顔」は、「澹泊敬誠（たんはくけいせい）」、<br>重大な式典を行う場所として、紫禁城の太和殿に当たるといわれるが、</p><p>こじんまりとした雰囲気はどちらかというと、養心殿のムードだ。<br><br>紫禁城において、国家規模の大きな式典は</p><p>壮大な「外朝」の「太和殿」で行われる。<br>数千人は入れるだろう果てしない石畳が続く広場は、</p><p>紫禁城の象徴的なイメージともいえる。<br><br>その先に立つ太和殿には、</p><p>さらにマンション四階分はあるかと感じる石段を延々と登り、<br>その果てには圧倒的規模で見る者を威圧する宮殿が目の前に開ける、</p><p>という視覚効果と演出を狙った仕組みになっている。<br><br>数千年かけて練り上げられてきた中原文化の成熟した様式だ。<br>　<br>しかし清朝の皇帝らは、普段の大臣らの謁見に</p><p>この大仰な場所を使っていたわけではない。<br>国の一大事が決まる本当の「政治の中心」の場は、</p><p>雍正帝以後は「養心殿」となる。</p><p><br>つまり皇帝の寝起きする「自宅」の応接間だ。<br><br>こちらはごくこじんまりした瀟洒で居心地いい建物である。<br>天井低く、床にはふかふかした絨毯が一面に敷き詰められ、</p><p>壁という壁には、本棚やら飾り棚やら、隙間もないほど埋め尽くされている。<br>広さも謁見者が五人を越えるとやや手狭に感じる程度の大きさしかない。<br>　<br>広大な紫禁城の中で日常生活を送る皇帝は、</p><p>実をいえばこのごく小さな空間の中ですべてを済ませていたのである。<br>朝起きて十数歩も歩けば行き着く応接間で政務も行い、<br>会う必要のある大臣らが謁見に訪れ、夜は指名した妃も招き入れられ、</p><p>寝起きも済ませていた。<br>　<br><br>避暑山荘の「澹泊敬誠（たんはくけいせい）」殿は、</p><p>どちらかというと、規模や作りが養心殿系統である。<br><br>こじんまりと「我が家」風にまとまっている。<br>構造、造り、内装や飾りの雰囲気も養心殿そっくり。<br>「夏都」に移動しても、居心地がいいと感じるアイテム、</p><p>空間の広さはほぼ同じものが揃っていたらしい。<br><br>では、太和殿で行うような荘厳な国家式典は、避暑山荘においてはどこで行うのか。<br>ここはあくまでも清朝皇帝が</p><p>「ユーラシアのステップ草原の大ハーン」を演じる場所である。<br><br>そこはちゃんと演出が考えられており、</p><p>避暑山荘の北部分には、広大な空き地が用意されている。<br>そこに巨大なハーンの天幕を張り、陣容を整えて式典が行われるのであった。<br>　<br>今でも避暑山荘を訪れると、</p><p>事情を知らなければ無意味にしか思えないだだっ広い空き地が北部分に広がる。<br>実は往年、「空き地」は天幕と侍衛、馬にラクダに、と埋め尽くされていたのである。<br><br>さて。<br>澹泊敬誠殿である。<br><br>創建は康煕五十年（一七一一）だが、</p><p>乾隆十九年（一七五四）に「総楠木造り」に改築された。<br>紫禁城を始め、中原の宮殿建築は原色の派手な色彩で塗られるが、<br>「楠木」はそれだけで富の象徴のため、</p><p>一切の色彩を塗らず、木の素材をそのまま生かした造りとなっている。<br><br>日本人の目には、その渋い色の暗さが重厚に映り、どことなく親近感を覚える。<br><br>楠（くすのき）は、木材の中でも最高素材とされる。<br><br>漢字の使い方にどうやら日中で違いがあるらしく、<br>中国語でいう楠木（ナンムー）は、日本語でいう楠（くすのき）ではなく、<br>日本では、正しくはクスノキ科のタブノキというらしい。<br><br>よって誤解があるといけないので、</p><p>ここでは、タイトルも「タブノキ物語」にした。<br><br>ともかくも、「楠木」は、高級木材である。<br>木地に光沢があり、黄金のような輝きがあるものは</p><p>特に「金糸楠木」と呼ばれ、珍重された。<br><br>澹泊敬誠殿ももちろん金糸楠木で出来ている。<br>木材の表面は桐油を塗りこまなくても渋く底光りし、</p><p>使い込めば使い込むほど輝きを増す。<br><br>香りが強く、芳香のために防虫効果があるほか、</p><p>冬は暖かく、夏はひんやりと冷たく、亀裂・変形なく、<br>硬すぎず柔らかすぎず加工しやすいなどの特徴は</p><p>椅子、家具、棺おけとしてこれほどよろしきものはない。<br><br>後には西太后、袁世凱の棺おけも楠木製だったといわれる。<br>さらには大木となり、軸が真っ直ぐで節が少ない、</p><p>水に強いために建材、造船材としても理想的である。<br><br>……というあまたある特徴のために、家具によし、仏像によし、棺おけによし、<br>衣装・書籍の保存入れによし、柱・梁によし、</p><p>船によし、とすべての用途において万能である。<br><br>しかし建材、－－特に大規模な建築物の屋台骨として</p><p>巨大な建材の重さに耐え得る柱としての木材は、巨木でなければならない。<br><br>楠木は生長に時間がかかり、木材として使えるだけの太さになるには</p><p>最低六十年はかかるといわれる。<br>ましてや宮殿の柱にしようという巨木は、</p><p>樹齢百年以上、ひいては数百年のものでなければ、役に立たない。<br><br>ところが前述のとおり、家具、仏像といった小ぶりなものには、</p><p>細い木でも充分に用が足りるため、<br>太さが足りないうちにさっさと伐採されてしまうのだった。<br><br>中原ではすでに漢代から楠木好みが始まる。<br>日本でも飛鳥時代までの仏像はすべて楠木造りだったといわれるが</p><p>（平安時代以後は、ヒノキに移行）、<br>それは大陸の文化の影響を色濃く受けていたためだろう。<br><br>漢代、皇室の歴々方は浙江、安徽、江西、江蘇南部の山間部から楠木を伐採し尽し、ほとんど絶滅させてしまったといわれる。</p><p>&nbsp;</p><p>楠木はその後の時代になると、</p><p>四川、雲南、貴州、湖南、湖北、広東、広西などの</p><p>奥深い山奥に分け入らなければ得られなくなってくる。<br>しかも時代を下るに従い、数はますます減っていき、伐採が難しくなるのである。<br>　<br>明代になった頃には、すでに「崖窮し、叡絶し、人跡罕（まれ）に至る地」<br>（絶壁のかなた、山の奥のさらに奥、人間がほとんど踏み入ったことのない場所）</p><p>にしか残らない。<br>　<br>それにも関わらず、否、だからこそか、</p><p>皇室以下、民間に至るまでの楠木嗜好が激しさを増す。<br>　<br>永楽年間にさら地から紫禁城を打ち立てる時、</p><p>永楽帝は楠木の大木の調達のため、格別な配慮をした。<br>紫禁城の大部分の宮殿は、楠木をふんだんに使って建てられた。<br>その後の歴史の中で焼失してしまった建物、清代に建てられたものもあるが、</p><p>現在でも文淵閣、楽寿堂、太和殿が楠木造りである。<br>　<br><br>永楽帝は周知のとおり、紫禁城の創建者である。<br>甥の建文帝から皇位を簒奪し、都を南京から北京に移した。<br><br>永楽帝の楠木調達には、「神木」群の話が伝わる。<br>　<br>永楽四年（一四〇六）、永楽帝は工部尚書（云わば建設省大臣）の宋礼に命じ、<br>紫禁城と陵墓の建設のために必要な建材の調達を命じた。<br>　<br>これまで見てきたとおり、最も困難を極めたのが、</p><p>柱となる楠の巨木の調達であり、<br>宋礼は四川省の大涼山（現在の沐川県）の近くで、</p><p>巨大な金糸楠木の群集を発見したという知らせを受け、</p><p>大いに喜び、伐採の監督に自ら出向いた。<br><br>ところがいざ伐採しようとした前日、にわかに大雨とともに雷が轟き、</p><p>巨木群は忽然と姿を消したという。<br>宋礼が絶望のどん底にいる中、なんと翌日巨木が川に浮かび、</p><p>長江の主流に向かって首尾よく流れているという知らせが入った。<br><br>木の伐採から川までの運び出しには、大規模な人海作戦による困難な作業が伴う。<br>それが労苦なく完了したというのだから、「奇跡だ」とばかりに喜び、</p><p>朝廷に上奏した。<br>　<br>永楽帝はこれを聞いてことのほか喜び、<br>「瑞兆なり。天が我れを助けた也」と賞賛した。<br><br>この金糸楠木の一群を「神木」と称し、<br>山は「神木山」と呼び、神祠を建てた上、</p><p>毎年祭事を欠かさず、神に感謝したという。<br><br>金糸楠木の一群のために、その後引き続き川までの道路工事が行われ、</p><p>川底を浚（さら）って木材の流し出しが可能なように整備された上、<br>支流から長江まで運び出し、沿海部で大運河に沿って北京まで運ばれた。<br><br><br>大木が忽然と消えて、次の日に川に浮かんでいた・・・・。<br>――そんなアホな、と思うが、その当たりは政治である。<br>　<br>昔から統治者に阿（おもね）りたい人が「瑞兆」と称して、</p><p>荒唐無稽な「奇跡」を報告するのは、よく行われてきたことで、<br>要するに天下泰平だとほめそやすことが目的のおべっか、</p><p>－－「忖度」である。<br><br>永楽帝だって本気で信じちゃあいない。<br>　<br>本当かどうかなぞはどうでもよいのだが、</p><p>この時期の永楽帝はあまりにも「瑞兆」を必要としていたのである。<br>それを察した追従者の助け舟といっていい。<br><br>皇帝はその当時、四面楚歌の苦しい立場にあった。<br>正統な皇位継承者である甥の建文帝を殺し、</p><p>皇位を簒奪して皇帝になったため、小うるさい大臣ら、</p><p>儒者らに責め立てられていた。<br>社会的な影響力を持った連中を殺してもさらに評判が落ちる、</p><p>というアリ地獄の中で苦しんでいた時期である。<br>北京への遷都も南京では反対勢力の声が強すぎて、</p><p>居られなかったという事情もある。<br><br>もちろん北京が元から自分の本拠地でもあり、<br>さらにはまだ強い勢力を誇るモンゴルに睨みを利かせる必要がある</p><p>などの諸々のほかの理由もあったとしても。<br>　<br>そんな中での「瑞兆」である。<br><br>自分が皇帝になったことを<br>「天が味方した」と天下に知らしめる絶好の機会ととらえ、</p><p>プロパガンダに活用したとしても不思議はない。<br>　<br><br>この「神木」群は、北京まで運ばれ、紫禁城や陵墓の建設に当てられた。<br><br>皇帝一人を納める陵墓一つだけでも柱一万本が必要だったといわれる。<br>いわんや紫禁城を、である。<br><br>膨大な木材が北京に運ばれた。<br><br>大運河の終点は、北京の東郊外である通州、</p><p>そこからさらに小型の運河・通恵河に沿って、北京城外まで運ばれる。<br>木材置き場には、この通恵河に沿った郊外の地が選ばれ、</p><p>「皇木場」と名づけられた。<br>今でも同音の「黄木場」の地名で残る。<br><br>共産党政権になってから、</p><p>人民の土地に「皇」の字はけしからんということで</p><p>「黄」に変えられたのだという。<br>今では開発真っ盛りのCBD地区、国貿からやや東南に行った川沿いになる。<br><br>数年前に付属ビルが燃えさかり話題になった</p><p>中央テレビの新ビル「大トランクス」も目と鼻の先、<br>今北京で値上がりが最も激しい一等地である。<br>　<br>その後、紫禁城や一連の首都建設が終わった時、<br>永楽帝は「皇木場」に神木群の中でも特別に立派な一本を残し、</p><p>首都の「鎮城之宝」とした。<br><br>明代、北京に陰陽五行説に従った「鎮城之宝」を</p><p>それぞれ城の東西南北、中の五箇所に配し、城の守りとした。<br><br>楠木の「神木」は、その東の守りとなる。<br>　<br>東は五行の水、金、木、火、土の中の「木」に対応、</p><p>北京城の東郊外「皇木場」の神木が北京城の東のお守り。<br>西は同じく「金」に対応、やはり城の西郊外の万寿寺に「華厳大鐘」を置いた。<br>今でも残る所謂、大鐘寺の「永楽大鐘」、重さ四十六トン、</p><p>まさに城の「おもり」にふさわしい。<br><br>「永楽大鐘」は、製造当初は宮中にかけられていたが、<br>明の万暦年間に西郊外の万寿寺に置かれた後、</p><p>清の雍正年間に東北郊外となる今の大鐘寺に移設された。<br>それ以来数百年変わらず、今も大鐘寺の鐘楼にかかっている。<br><br>次に南は「火」に対応、南郊外・良郷の呉天塔の赤土。<br>北は「水」に対応、昆明湖（今は颐和園）。<br>中は「土」に対応、紫禁城の後ろにある煤山（景山）となっている。<br><br>--この「鎮城之宝」という言い方は、清代になるといわれなくなる。<br><br>2つの王朝は、同じく北京に首都を置いていたのに、なぜだろうか。<br><br>作者が思うに「鎮城之宝」とは、</p><p>明代の首都住民にとっては「精神安定のおもり」</p><p>だったのではないだろうか。<br><br>北京城は、永楽帝の遷都当初、首都になったはいいが、</p><p>人口も圧倒的に足りなかった。<br>そのため南京、蘇州から裕福な商人の家庭を大規模に強制移住させているほか、</p><p>残りの庶民は山西などから強制移住させている。<br><br>爛熟文化の江南からいきなりモンゴルとの最前線に連れてこられた</p><p>やんごとなき人々は、一体どういう気持ちだっただろうか。<br>長城からの黄砂も激しい空っ風の吹きつける</p><p>ど田舎に連れてこられたことは、まだ仕方ないとしても、<br>いつモンゴルが攻めてくるかわからない地に住むことは、</p><p>大いに不安だったにちがいない。<br><br>その思いは、兵役を務める兵士らも同じだっただろう。<br>「鎮城之宝」は、心理的なイメージによる精神の安定を</p><p>ねらったもののような気がしてならない。<br><br>四十六トンもある大鐘。<br>どっかーんとてこでも動かない安定感がある。<br><br>御神木も想像を絶する巨大さである。<br>そういう安定感のあるものが、</p><p>四方と中心にどっしりとかまえてくれているというのは、</p><p>人々の精神的な慰みになったのではないだろうか。<br>モンゴルという敵の最前線に住む自分を奮い立たせるため、</p><p>いっしょに篭城するための道連れとして。<br><br>たとえ、自分の目で見たことはなくても、</p><p>そういうものが東西南北と中央にあるとうわさに聞くだけでも、<br>とかくもふわふわと浮き立ち、</p><p>逃げて飛んでいってしまいそうな気持ちを抑える「おもり」</p><p>のような精神的イメージに人々は安堵感を覚えたのではないか。<br><br><br>「モンゴルへの恐怖心」克服が目的だったと考えると、</p><p>清代になってその役割が必要なくなったことも納得できる。<br>何しろ首都の主である満州族は万里の長城の北から来たのだ。<br>北京は最前線でも何でもない。<br><br>「鎮城之宝」は、その歴史的役割を終えたことになる。<br>　<br>－－神木はこうして「鎮城之宝」として、明朝一代の間、</p><p>官兵が置かれ、守られた。<br>この御「神木」、どれくらいの巨木だったかというと、<br>木をはさみ、二人の人間が両方騎乗のままでも</p><p>互いの姿を見ることができなかったという。<br><br>つまりは直径三メートル近くあったということだ。<br>樹齢は軽く数百年を越えただろう。<br>　<br>&nbsp;</p><p>この御「神木」は、後に乾隆帝にも関係してくる。<br><br>くだんのご神木は、明朝が滅亡し、時代が清朝になると、</p><p>「鎮城之宝」の信仰は受け継がれず放置され、「皇木場」は荒れ放題となった。<br><br>乾隆二十三年(一七五八)、乾隆帝が自ら皇木場の視察に訪れ、</p><p>『神木謡』を詠む。　<br>乾隆帝が皇木場を訪れたきっかけについては、二つの説がある。<br><br>一つの説は次のようなもの。<br>乾隆帝が生れ落ちて三日目、</p><p>雍和宮の五百羅漢山の前で金糸楠木の桶で湯浴みをした。<br>この桶は「洗三盆」、「魚竜盆」と呼ばれる。<br>その縁で乾隆帝の夢枕に「神木」の精が立ち、長年雨風に曝され、</p><p>体が痛むと訴えたために視察に訪れた、と。<br>　<br>もう一つの説は、皇木場の近く「大北窯」にレンガ焼きの窯があり、</p><p>毎日もくもくと煙が上がっていた。<br>皇木場の近くに火気があるのはよろしくない、と上奏した人がおり、</p><p>乾隆帝がこれを聞き入れ、視察に訪れたというものである。<br><br>「大北窯（ダーベイヤオ）は今も地名として残る。<br>国貿ビルの立つ一等地、皇木場とは目と鼻の先である。<br><br>一見、取りとめもない二つの説をどう受け止めるか。<br>こういう「夢枕」だの、「奇跡」だの、「瑞兆」だのと言った話は、</p><p>いくらか深読みしてその狙いを探る必要がある。<br>話を作った当人はそんなものは事実だと信じてもいないわけで、</p><p>何がしかの「忖度」があり、「目的」があり、「得する」人がいるはずである。<br>　<br>楠木の桶の話のポイントは、「雍和宮」ではないか、と作者は見る。<br>乾隆帝は、父帝の雍正帝が皇子の頃、</p><p>そのお屋敷である雍親王府で生まれたことになっている。<br><br>新しい皇帝が即位すると、その生家を「潜龍府邸」として、</p><p>別の役目を与えることは、清朝の習いとなっているが、<br>乾隆帝は父帝の屋敷を雍和宮と名づけてチベット仏教の寺とした。<br>　<br>ところが乾隆帝は雍和宮ではなく、</p><p>承徳の「獅子園」で生まれたという伝説が、根強く流布しており、<br>乾隆帝は事あるごとにそれを否定している。<br><br>どうしても獅子園生まれだという噂を否定したい強い意志が働いているのである。<br>否定すればするほど、中国語でいう</p><p>「越抹越黒（触れば触るほど黒くなる、申し開きすればするほど怪しい＝藪蛇）」</p><p>である。<br>　<br>どうやら人に知られたくない事情があるらしいが、</p><p>現在出ている資料からそれ以上のことはわからない。　<br>一説には乾隆帝の生母は、承徳の貧しい農民の娘だともいう。<br><br>「獅子園」は、雍正帝の皇子時代の承徳の邸宅である。<br>避暑山荘の西北にあったが、</p><p>乾隆帝はそこで生まれたという説が根強く流布していた。<br>つまりは、生母が旗人の娘たちの中から選抜された「秀女」でさえなく、</p><p>土着の漢人農民だった可能性を指摘する。<br><br>「乾隆帝漢人説」はこのほかにも、江南の海寧・陳閣老の子などの説もあるが、<br>これは偉大なる皇帝が実は自分たちの血を引いていた</p><p>と思い込みたい漢民族庶民の願いを多分に反映している部分があり、</p><p>差し引いて考えなければならない。<br>　<br>真実はともかくとして、乾隆帝には自らの生地を雍和宮である</p><p>と強調するデモンストレーションがいくらか見られる。<br>楠木の桶に関する話も一見、桶を主題に語りつつ、</p><p>「雍和宮の五百羅漢山の前」と、場所をかなり詳しく指定している。<br>　<br>作者の私見は、まずは大北窯についての奏文が提出され、</p><p>乾隆帝が楠木の神木について再認識、視察に行くついでに<br>自分に都合のよいエピソードを流布させたのではないか、というものである。<br><br>乾隆五十三年（一七八八）の北京の歴史・地理をまとめた</p><p>欽定『日下旧聞考』全百六十巻に『神木謡』の欄がある。<br>　<br>「 神木廠は、広渠門外二里余り、大木が地に横たわり、</p><p>　高きこと一人一騎を隠す可し。</p><p>　明初、宫殿の遺材也。その木には神ありと伝わる」<br>と、馬に乗っても隠れる高さであるこという。<br><br>さらに<br>「歳久しく風雨淋漓、すでに徐々に朽ちる矣（なり）。</p><p>　皮、腐爛するも、心（芯）は存ず。対面は猶（なお）相見ず」<br>と、清代にはすでにかなり損傷が激しかった様子がわかる。<br>それでもなお向かい側が見えないくらいだったという。<br>しかし騎馬して、とは書かれていないので、やはりかなり縮んでいたのだろうか。<br>　<br>次に『神木謡』の詩、七言二十五句が全文載っているが、これは省く。<br><br>乾隆帝は『神木謡』を石碑に彫りつけるよう命じる。<br>神木の西側に碑亭を建てて納めるとともに、<br>傷みの激しい神木の風化がそれ以上進まないように、</p><p>七間続きの瓦屋根の建物ですっぽり覆ってやったという。<br>神木の長さは四丈（十三メートル余り）とも、</p><p>六十尺（十八メートル余り）ともいう。<br>　<br>以前にも何度か書いているが、「一間」というのは、</p><p>一般的な木材の長さで届く範囲を指す。<br>通常はせいぜい三、四メートルが限界であり、</p><p>つまり「七間」は約二十から二十八メートルくらいの長さとなる。<br>神木は標準レベルの木材の七倍も長かったことになる。　<br><br>この神木には、さらに後日談がある。<br>清朝も滅亡する頃には乾隆帝が作った保護のための建物もすっかり崩れ落ち、</p><p>碑亭も崩れ、再び神木と石碑は雨風に曝されつつ、傷み続けていた。<br><br>通恵河の河原は芦に覆い尽くされて荒れ放題となり、</p><p>石碑は土がかぶり、ほとんど地下に埋もれた状態となり、顧みる人もなし。<br>河辺であることを考えると、土砂が流され、地下に埋もれることは、</p><p>よくある現象だ。<br>　<br>その地に共産主義となってから、北京ピアノ工場が建てられた。<br>工場の職員らは、石碑から神木の由来を知るようになるが、</p><p>巨大な神木はさらに傷み続けていた。<br>鼠と虫に冒され続け、年々一回りずつ小さくなってゆくのを見て、</p><p>職員らは心を痛めた。<br><br>これ以上放置しておけば鼠と虫に喰われてなくなってしまう、</p><p>と危機感を抱いた職員らは、<br>ある日、神木をノコギリで木材にし、</p><p>迫力ある一枚板のテーブル二十個に変身させた。<br>表面にはピアノのニスを塗り、</p><p>テーブルは鏡のように底光りした立派なものだったという。<br><br>その後、神木のテーブルは工場内で活用されていたが、</p><p>後には文物担当部門が引き取りに来た。<br>某文化館の地下倉庫に眠っているという話は伝え聞くが、</p><p>実際に見た人はいない。　　<br><br>……以上が、首都の守り宝となった神木の末路である。<br><br><br>ところで神木とセットになっていた乾隆帝の『神木謡碑』は、どうなったか。<br>新中国成立時には、ほとんど地下に埋もれていたが、</p><p>掘り出され、工場の敷地内に置かれていたことは、前述のとおりである。<br>神木の本体が朽ち果てるのを見かねてテーブルに加工された後も、</p><p>石碑はそのまま安置されていた。<br><br>そのうちに文革が始まる。<br>文物への批判が日々高まるのを感じ、当時工場の党委員会書記だった宋治安氏は、<br>工場の社員食堂の白菜倉庫の中に石碑を運び入れ、埋めて保護した。<br><br>八十年代以前の華北以北では、冬の野菜保存には地下倉庫の利用が一般的だった。　<br>東北出身の三十歳以上の人に聞けば、</p><p>住まいが庭付きの一軒家でなくてもアパートであっても、<br>アパートの横の敷地に各家庭に地下野菜倉庫のための土地が割り当てられた、</p><p>という話を聞くことができるだろう。<br><br>冬の食事は白菜、大根、にんじん、じゃがいもなどの長期保存が可能な</p><p>野菜をひたすら食べるしかない。<br>冬の始めに支給を受けてから、一冬かけて食べるのだ。<br><br>地下倉庫の造りはごく原始的、地面を掘り、中を杭などで支え、</p><p>落盤しないようにした四平方メートルから十平方メートル程度の空間である。<br>高さは人が立って活動できる程度、つまりは二メートル程度、</p><p>地表からの深さは、凍結しないように半メートル程度である。<br><br>入り口からはしごで真下に直角に出入りする。<br>計画経済の時代は大人たちが夫婦それぞれの職場から</p><p>数十キロから百キロを越える白菜を支給されるだけでなく、<br>小学生の分は子供自身が小学校で支給を受ける。<br>それらをすべて地下の野菜貯蔵倉庫に入れ、一冬かけて食べたのだという。<br><br>つまり地下倉庫の壁、天井、床に至るまで土の地が</p><p>そのまま露出している状態である。<br>雨の少ない華北の地ならでは成立する施設だ。<br>　<br>工場の社員食堂用の地下倉庫であれば、</p><p>家庭用に比べ、かなり大規模なものであったろう。<br>足元は地面が露出しているため、神木謡碑を埋めることは簡単だったはずである。<br>　<br>その後、革命派がピアノ工場に石碑を求めて突入してきた。<br>石碑をどこへやった、と工場中に聞きまわったが、</p><p>誰一人としてありかを教えた人はいなかった。<br><br>――神木と石碑は、工場の宝だから。<br>と、当時を振り返って人々はいう。<br><br>工場の創立当時からともに歩んできた神木と石碑に人々は愛着を感じていた。<br>　<br>石碑が再び日の目を見たのは一九八五年になってからである。<br>星海ピアノ工場と名前を改めていた工場では、</p><p>新たな設備投資のために作業場を立て替えることになり、<br>基礎工事のために石碑も掘り起こされた。<br><br>二千年には、石碑の保護のため、</p><p>工場では三万元をかけて碑亭を建てるとともに、ガラスで覆い、保護した。<br><br>二００三年、北京オリンピックを控え、都市再開発が進められる中、<br>市内にある工場を徐々に郊外に移転させる過程で</p><p>星海ピアノ工場も通州（東郊外）に移転することとなった。<br>　<br>創立からともに歩んできた石碑を移転とともに持って行きたい、</p><p>というのが職員の願いであったが、<br>文物は元あった場所で保護するという原則に従い、</p><p>工場のみが移転し、石碑はそこに残された。<br><br>星海の職員は石碑を懐かしみ、<br>通州の移転先でも等身大の石碑のレプリカと碑亭を作り、</p><p>工場内に立てているという。<br>また神木をテーブルに加工した当時、余った木片を保管していた当事者が、</p><p>後に工場にこれを寄付した。<br><br>木片は工場の資料館で見ることができる。<br>　<br><br>さて。<br><br>神木謡碑そのものは、どうなっているか。<br>新開発のビル郡に埋もれ、ぽつりと残されているらしい。<br><br>周囲は今北京で最もホットな一等地。<br>工場の移転後、土地の半分は分譲マンションの建設用地として売られ、</p><p>石碑のある部分はまだ空き地のままだという。<br>マンションの敷地の一部に取り込まれてしまう日も遅からず来ることだろう。<br><br>……というのが、私が2008年オリンピック前後までフォローした</p><p>神木碑に関する行方である。<br>さらなる後日談は、情報が入ればまたアップしていきたい。<br>&nbsp;</p><p>以上、少し横道に逸れたが、乾隆帝と楠木の浅からぬ因縁を見ている。<br><br>明初の紫禁城の建設には、ふんだんに楠木が使われた。<br>その後、明代を通じて楠木への執着は衰えることがない。<br><br>現在残る最も荘厳なる楠木建築は「明の十三陵」の長陵である。<br>宣徳二年（一四二七）の創建、六十本の楠木の大木を柱に使う。<br>　<br>その調達がどれくらい困難であったかというと、これまた想像を絶する。<br><br>万暦年間の工科給事中・王徳亮の奏文では、次のように訴える。<br><br>「採運之夫、歴険而渡水、触瘴死者積屍遍野<br>（伐採と運搬の人夫は、危険な道のりを越えて川を渡っていくが、</p><p>　瘴気に当たり死体が野を覆う）」<br><br>「木夫就道、子婦啼哭。畏死貧生如赴湯火<br>（木こりに徴用される男子が出発しようとすると、女子供が泣いてすがりつく。<br>　死を恐れ、生を貪ること、煮えたぎる湯か火に追い立てられるが如し）」<br><br>「風嵐煙瘴地区、木夫一触、輒僵溝叡、</p><p>　屍流水塞、積骨成山。其偸生而回者、又皆黄胆臃腫之夫。<br>　（風・嵐・煙・瘴気の地区、木こりはその空気に触れた途端、谷は麻痺する。<br>　屍－しかばね－が流れて水をつまらせ、骨が積み上げられること山の如し。<br>　その生を偸み－ぬすみ－回りし者も、皆黄疸、腫れの夫となれり）」<br><br>「一県計木夫之死、約近千人。合省不下十万<br>（一県の木こりの死を計算すると千人近い。</p><p>　省全体を見ると、十万を下らない）」<br><br>と、楠木の切り出しに「大量殺戮」が伴う現象を綿々と書き綴っている。<br><br>たかが木の切り出しになぜ十万単位の人が死ななければならないのか。<br><br>それを「瘴気（しょうき）」のためと説明する。<br>触れるだけで病気を惹き起こす「悪い気」という概念として、主にマラリアを指した。<br>　<br>運よく生き長らえたとしても「皆黄胆臃腫之夫」、というところを見ると、<br>「黄胆（＝黄疸－おうだん。眼球、皮膚が黄色くなる）」、<br>浮腫（むくみ）などは、典型的なマラリアの症状である。<br><br>木の伐採に行っただけで、そんなに大量の人が死ぬものなのか。<br><br>その可能性を探っていくと、近代にもなぞらえることのできる例がある。　<br><br>太平洋戦争中に日本軍が</p><p>タイとビルマの国境の山岳地帯で建設した「泰緬鉄道」は、</p><p>ジャングルを切り開き、険しい山岳地帯を這うように作られた。<br><br>工事を担ったのは、連合国軍捕虜三万人と現地住民十万人である。<br>それ以前にもかつてイギリスが同じルートで鉄道建設を試みたことがあったが、<br>強烈なマラリア蚊の問題を解決することができず、断念したという経緯がある。<br>　<br>それにも関わらず、日本軍は全長四百五十キロの道のりを</p><p>わずか十六ヵ月の突貫工事で強引に完成させたため、<br>この期間中、マラリアのために実に十万人が命を落とした。</p><p><br>枕木一本に対し、人間一人が犠牲になっている計算となり、</p><p>まさに「死の鉄道」と呼ばれたいわく付きの鉄道である。<br>戦後にはこのために捕虜虐待として、国際問題にもなった。<br>　<br>二十世紀初頭でもそれくらいマラリアの殺傷力はすさまじく、</p><p>ジャングルに入った途端、数万人単位で人が死ぬことが有り得たことがわかる。<br>だからこそ人類はジャングルの奥に入ることを恐れ、畏怖してきたのである。<br><br>楠木伐採はその条理に触れる行いだった。<br><br>太平洋戦争の時期におけるマラリア死亡率の壮絶さを見ると、<br>明代の四川の原生林に分け入った人夫たちが十万人も犠牲になった</p><p>という数字もあながち荒唐無稽だとはいえないのである。<br><br>楠木の伐採に徴用された成人男子を見送る家族が<br>「子婦啼哭（女子供が泣いてすがった）」のも、<br>生きて返ってくる確率があまりにも低いことを</p><p>土地の人々がよく知っていたためだ。<br><br>現地の民謡に「入山一千、出山五百」と謡ったという。<br>まさに人間の欲望のための壮絶な犠牲に肝も冷える思いがする。<br>　　<br><br>このように楠木伐採は、明代ですでにここまで困難になっていた。<br>切り出しにおけるマラリア感染も然ることながら、<br>今度は山奥からの運び出しにも莫大な経費と歳月がかかる。<br><br>巨木の運搬には舗装された道路がなければ、<br>丸木の上を転がしつつ移動させていくことができない。<br><br>このため山岳地帯での道路建設がまず行われ、<br>道路が完成してから初めて巨木を降ろすことができるのである。<br><br>さらに長江をくだり、大運河から北上、</p><p>北京に到着するには六年の歳月を要したという。<br><br>その費用は莫大なものとなり、天安門城楼の楠の柱は</p><p>運賃だけで黄金九十万両かかったといわれる。<br>　<br><br>康煕年間、官僚を南に派遣し、楠木の伐採を行ったことがあったが、<br>前述の如きあまりに困難な作業、民の犠牲が伴ったために</p><p>康熙帝はついにこれをあきらめたという経緯がある。<br><br>このために康煕年間に建てられた宮殿は満洲黄松で代用し、</p><p>外だけ楠木でくるんで面目を保った。<br>　<br>康煕年間はまだ建国まもなく、<br>異民族である満州族統治者が中原の民を疲弊させるのは、</p><p>危険だったこともあるだろう。<br><br>内輪のいじめとよそ者によるいじめは、本質的に違うのだ。<br><br><br>　　<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12967267878.html</link>
<pubDate>Thu, 04 Jun 2026 18:14:44 +0900</pubDate>
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<title>1、民族誕生伝説からモンケ・テムールに至るまで</title>
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<![CDATA[ <p>１１、マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語<br>　清朝の創始者ヌルハチの満州の原野にいた頃の話。</p><p>&nbsp;</p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968000093.html">1、民族誕生伝説からモンケ・テムールに至るまで</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968001329.html">２、女真族使節、紫禁城で大暴れ</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968002950.html">３、祖父ジェチャンア</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968003984.html">４、ヌルハチ登場</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968006055.html">５、フィアラ費阿拉）城、ヘトゥアラ（赫図阿拉）城、次弟ムルハチ</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968007544.html">６、旗主ベイレ</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968008875.html">７、国初四大事件</a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>どの民族にも、民族誕生伝説というものがある。<br>アイデンティティーの拠り所として起源・誕生伝説が必要となるのだろう。<br><br>－－ヌルハチから興った清朝にも、それがある。<br><br>しかしその誕生伝説は王朝としての体制が整ってきてから、</p><p>慌てて作ったことを思わせるような、<br>いかにも後から取ってつけたようなものだ。<br><br>恐らく大規模な統治集団になってから、<br>起源伝説もないようでは体裁が悪いというので、</p><p>短時間の間に急に作り上げた物語なのだろう。<br><br><br>いわく、三人の仙女が長白山の天池に水浴みに来たところ、<br>カササギが赤い実をくわえてやってきた。<br><br>三人姉妹のうちの末っ子の仙女が、その赤い実を食べてしまった。<br>するとおなかがどすんと重くなり、妊娠したことがわかった。<br><br><br>・・・・このあたり、いかにも慌ててつくった疎漏さが窺える笑。<br>どすんと重くなっただけで、なぜ年端も行かぬ少女が妊娠とわかるねん、</p><p>とつっこみたくなる笑。<br><br>恐らくこれを聞いた清代の人も誰もあまり重視せず、<br>軽く受け流してしまうくらい重きを置かれなかったために、<br>さらに詳しく掘り下げて表現する必要がなかったのだろう。<br><br>作った方も聞く方もみえみえのフィクションをしたり</p><p>顔に納得した振りをするための舞台装置だったのだろうか・・・・。<br><br><br>体が重くて飛べない、と末っ子がいうと姉二人は、<br>あなたを待っておられないから身二つになったら、飛んできなさい、<br>と言い残し飛び去っていった。<br><br>のちに三仙女は子供を産み落とし、<br>その子は生まれた瞬間から言葉を話すことができ、すぐに大人になった。<br><br>・・・・さらに手抜き感たっぷり。<br>ディテールすべてすっとばしですねー。<br><br>・・・・・と、甚だあやしい民族誕生伝説である。<br><br><br><br>清朝の始祖ヌルハチの先祖の逸話が現実味を帯びてくるのは、<br>ヌルハチの六代前の始祖と位置づけられるモンケ・テムールからである。<br><br>かささぎが運んできた赤い実と仙女の間に生まれたとされる<br>始祖プクリ・ヨンシュン（布庫里雍順）からは何代のちのことなのか、<br>はっきりということができぬらしい。<br><br>このあたりもかなりいい加減な起源伝説とわかってしまう笑。<br><br>　<br><br>ところでこのモンケ・テムール。<br><br>名前を聞いただけでも如何にもモンゴル風である。<br>時代は元代である。<br><br>「モンケ」といえば、<br>モンゴル帝国の第四代ハーン、チンギス・ハーンの末子トゥルイの長男と同名。<br><br>「テムール」は、<br>中央アジアを席巻した自称モンゴル帝国の末裔の「ティムール」と同名という、<br>贅沢な組み合わせである。<br><br><br>ちなみに元朝最後の皇帝、北京を捨てて北に回帰した「順帝」の名前も</p><p>「トゴン・テムール」。<br>「テムール」はモンゴル的には極めてポピュラーな名前である。<br><br><br>モンゴル人が一番の先進民族だった時代なだけに、<br>それにあやかる響きの名前をつけたということらしい。<br><br>現代でも皆が欧米諸国を先進国と認め、</p><p>その文化にちなんだリサ、マリア、<br>といった名前がはやるのと同じことといえるだろうか。<br><br><br>ヌルハチ以前、モンゴルと満州がどういう関係にあったかといえば、<br>当時の満州族の重要な特徴として、</p><p>文書はすべてモンゴル語で書かれていたということがある。<br><br>十二世紀に女真族によって創設された金王朝は、<br>漢字と契丹文字を参考にして女真文字を作ったが、<br>これはどうやらあまり合理的な文字ではなかったようである。<br><br>使いにくいことに加えて</p><p>金の滅亡後、女真族は東北の原野のみで暮らす原始的な民族に逆戻りし、<br>それぞれので自給自足を基本とした生活を送り出したため、<br>文字も大して必要はなくなってしまった。<br><br>元来、文字とは社会が複雑化してきたときに初めて必要となるものである。<br>私有財産・土地・不動産の複雑な取引きが始まれば、<br>これを証明する契約書が必要となり、そのために文字にあらわす必要性が出てくる。<br><br>広大な領土を統一された法律で治めるためには、<br>その命令を伝達するために行政文書を書く必要性が生まれ、<br>過去の過ちを繰り返さないための反省材料としては、</p><p>歴史を記すことも重要となってくる。<br><br><br>ところが、大興安嶺の原野に戻り、<br>限られた狭い地域の中で部族同士が大規模に連帯することもなく</p><p>暮らすようになった女真族には、<br>単純な社会構造のために契約書も必要なく、<br>活動範囲が狭いために行政文書の流通も必要なくなり、</p><p>文字が廃れてしまったのである。<br><br>それでも何か文字に残さなければならないものが発生すると、</p><p>モンゴル語を使うようになった。<br>日本で正式な文書が多く漢語で書かれたこと、</p><p>朝鮮でも漢語で書かれていたことと似た現象だろうか。<br><br><br>それはモンゴル語の文字体系が、少なくともかつての女真文字よりは、</p><p>洗練されていたことがあるのだろう。<br>かつては広大なユーラシア大陸を治めた民族である。<br><br>最も、当初モンゴル人がつくらせたパスパ文字は、</p><p>合理性に欠け、使いにくかったために結局廃れてしまい、<br>普及したのはかつてウィグル人が使っていた</p><p>まったく別の文字体系なのだが。<br>&nbsp;</p><p>とにかくもそのような自然淘汰の試練を受けて</p><p>すでに確立された文字体系である。<br><br>さらには行政に関することを中心として、<br>モンゴル語ではすでに豊富な語彙と表現方法が確立されており、</p><p>満州語にはそれがなかったこと、<br>満州語の表記方法が確立されておらず、</p><p>そのまま表記するには不都合だったことがあったのだろう。<br><br>つまりモンゴルは、満州族にとって先進文化を持つ民族だったのである。<br><br><br>興味深いのは、天下を取った後の清朝が、自らの先祖を記すときの扱いである。<br><br>中原の主人となったからには、<br>あらゆる書物を少なくとも漢語に翻訳して公開する必要があるわけだが、<br>その時の固有名詞の漢字の使い方に微妙な民族意識、</p><p>自尊心が表れていて興味深い。<br>　<br>例えば「モンケ・テムール」の「モンケ」の漢語表記である。<br>モンゴル帝国のハーン、モンケ・ハーンの場合は「蒙哥」であるし、<br>朝鮮の書物に記録された</p><p>女真族「モンケ・テムール」の場合は、「猛哥」である。<br><br>「テムール」も一般的には「貼木爾」の字が当てられるのがポピュラーだった。<br>ところが、「蒙哥貼木爾」の漢字を使うと、</p><p>ビジュアル的にあまりにモンゴル的なためなのか、<br>清朝の史書には「孟特穆（モントムー）」と書かれている。<br><br><br>まったくなじみのない漢字の組み合わせを使うことにより、<br>そのモンゴル色を消そうという苦しい試みが伺われて、いじましい。<br><br>統治者としてのプライドを表現しようとする微笑ましい現象だ。<br><br><br>モンケ・テムールが登場するのは、元代の末期である。<br>東北地方も元朝の五つの「万戸府」を行政単位として、支配下に置かれていた。<br><br>ところが元朝が崩壊し、順帝が大都（北京）を放り出して「北帰」すると、<br>東北地方を治める勢力がなくなり、地域全体が空白の無政府状態と化した。<br><br>曲がりなりにもあったパワーのヒエラルヒーによる抑止力のたがが外れ、<br>互いに戦争を仕掛け、人間、家畜を奪い合う大混乱状態となった。<br>　<br><br>故郷のかかる惨状に悲鳴を上げ、<br>モンケ・テムールは、一族郎党を引き連れて朝鮮の領域内に移住した。<br><br>現在の北朝鮮の会寧にあたるところ、鴨緑江を超えたすぐ対岸である。<br><br>当時は高麗の支配下に置かれており、中央政権の行政がまだ機能していたため、<br>東北ほどの無政府状態ではなかったということだろう。<br><br>少なくとも夜寝ているうちに何者かに急襲され、</p><p>起きたら妻はなぶりものにされて連れ去られ、<br>子供たちは奴隷に売られ、家畜すべてがなくなっていた、<br>というような悪夢は起こらなくて済む程度の秩序は</p><p>保証されていたのである。<br><br><br>わずかな距離だが、今でも国境となるくらい広い川幅を持つ</p><p>鴨緑江が天然の要塞となり、勢力圏を区切っていた。<br><br><br><br>モンケ・テムールは、先に入植していた女真族らに倣い、<br>高麗王に朝貢し、臣下の礼を取ることでその身の安全を保証された。<br><br>その後、現地の都指揮使・李成桂の行政管理下に入った。<br><br><br>ところがこの李成桂がのちに高麗から独立し、</p><p>李氏朝鮮を打ち立てることとなる。<br><br>モンケ・テムールは李成桂の独立戦争に参戦し、</p><p>一族の壮丁を率いて従軍したという。<br><br><br>このように李氏朝鮮の創立にも直接関わり、</p><p>モンケ・テムールは朝鮮との関係を深める。<br>自らも何度も入朝して朝鮮国王に朝貢の礼を取った。<br><br>例えば、李朝の甲申二年（明の永楽二年、一四〇四）、<br>モンケ・テムールは、弟、養子、妻の弟を筆頭に十数人を率いて朝鮮に朝貢し、<br>そのまま弟、養子、妻の弟は王都の侍衛として残してきた。<br><br>侍衛は王の近辺を守るエリート集団であるとともに、<br>重要な辺境勢力の子弟を人質に取るという意味もある。<br><br>また政権の中枢で国の一員としてのアイデンティティを強烈に植えつけて返す<br>といういくつかの目的を同時に担った方法でもあったのだろう。<br><br><br><br>明初の永楽年間に入ると、情勢がやや変化してくる。<br><br>永楽帝は首都を北京におくことにより、<br>それまで南方に置かれていた帝国の重心を大きく北に傾けることになる。<br>　<br>自らも幾度にも渡り、モンゴルに遠征した永楽帝は、</p><p>北方の防衛を何よりも重視しており、<br>東北地方もできるならモンゴル族以外の、<br>モンゴルの勢力下にない部族らに住んでほしいという思惑があった。<br>　<br><br>そこで戦乱で東北から離れてしまった女真族を呼び戻す動きが始まる。<br>　<br>永楽三年（一四〇四）、明は使者の王可仁を朝鮮領域内の女真族居地区に派遣し、<br>勅令を読み上げさせて帰順を勧めた。<br><br>朝鮮は明朝に臣下の礼を取っているから、</p><p>もちろんこれを阻止するわけにはいかない。<br>　<br>使者の持ってきた勅令は、<br>天下が平和になり、明が中原を治めるようになったことを知らせる、<br>という内容だった。<br>　<br><br>しかし東北が「緩衝地帯」であるのは、朝鮮に取っても同じである。<br>朝鮮王としては当然、女真族を自分たちの支配下に置きたいと思う。<br><br>思えば歴史上、朝鮮半島の王朝は何度にもわたり、</p><p>中国の王朝から攻撃を受けてきた。<br>モンゴルによる支配も受けた。<br><br>災いの多くは、北からやってきたのである。<br><br>その際、通り道となる東北の原住民が、<br>敵側について道先案内役となり、率先して協力し一緒に朝鮮を攻めるのか、<br>朝鮮の表玄関となって防御の役割を果たしてくれるのかでは、<br>天と地とも差があるのだ。<br><br>しかし朝鮮側としては、明を宗主国として仰いでいる以上、<br>女真族らを呼び戻す明の使者に真っ向うから抗議するわけに行かない。<br><br>そこでまずはモンケ・テムール側に対し、懐柔作戦に出た。<br><br>この時期にモンケテムールに慶源などの地の軍万戸を管理する印信を授与し、<br>清心丸、蘇元丸、木綿布、白寧布を下賜している。<br>　<br>清心丸、蘇元丸はともに漢方薬、今でも北朝鮮の特産品である。<br><br>清心丸は朝鮮人参を主成分としており、解熱に効く。<br>生産性の低い時代には、高価なものだったのだろう。<br><br>これで交易することにより、</p><p>さまざまな物と交換できたのだろうと思われる<br>価値の高い経済商品である。<br>　<br><br>一方、朝鮮国王の李芳遠は、明朝の朝廷にも使者を出し、<br>「モンケ・テムールは戦乱を避け、</p><p>　一家を挙げて朝鮮の慶源に住み着くこと二十年、<br>　朝鮮の朝廷に仕え、倭寇の撃退にも功がありました。<br>　万戸に封じられ、久しい」<br>ため、<br><br>これまでどおりにしてほしいと請うた。<br><br>朝鮮に引き止められ、明朝に帰順を誘われ、<br>モンケ・テムールは決断を迫られた。<br><br><br>明朝に帰順を勧められる一方で、朝鮮には強く引き止められ、</p><p>モンケ・テムールは決断を迫られた。<br><br>朝鮮に渡ってからすでに二十年以上の時間が流れており、</p><p>それなりに安逸な生活を過ごせた。<br>しかしこのままでは、永遠に故郷である満州の地に戻ることはできない。<br><br>また明朝は大国であるだけに外敵が来たときの保護、</p><p>天災で食糧難となった時の援助なども大規模なものが期待できる。<br><br>しかし明が成立し、皇帝が二代も替わっているのに、<br>挨拶の使者を送りもせず、朝鮮に二十年もいた自分を</p><p>明の皇帝が信用してくれるかどうか。</p><p><br>さらに大国の政局は複雑なため、</p><p>立ち回りを間違えて皇帝や重要人物の機嫌でも損ねた日には、</p><p>命が飛ぶ危険性もある。<br><br>朝鮮側の妨害も壮絶であった。<br>この勢いでは、明から正式に冊封される前に兵を向けられ、</p><p>殺される可能性さえある。<br><br>明ははるか遠くにある一方、</p><p>朝鮮の首都から慶源までは、三日で大軍が到着する。<br><br>朝鮮が先に自分を殺し、既成事実を作ってしまえば、</p><p>あとからどうにでも明に申し開きをすることできる。<br><br><br>進退極まり、迷っているところに、それを察したかのように</p><p>再び明側から使者の王教化がやってきた。<br>曰く、明の朝廷から官職を授けるから迎えにきたという。<br><br>つまりは明朝の護衛団に守られて北京に入り、<br>そのまま正式な中央官僚としての身分が与えられるということである。<br><br>明の正式な軍隊に守られているモンケ・テムールを</p><p>道中で襲うほどの荒唐無稽なことを朝鮮側がするわけはなく、<br>そうやって去っていったモンケ・テムールのを襲うのは、憚られる。<br><br>朝廷の正式な官僚となれば、これを害することは<br>明の朝廷そのものに刃向かうこととなり、朝鮮も手を出せなくなる。<br><br>－－ここまでの安全保障を目の前に用意した明朝に対して、<br>モンケ・テムールは初めて明の臣下となり、</p><p>故郷に帰ることを決心したのである。<br><br><br>一方、朝鮮側には使者を出し、</p><p>明には従わぬことにした、と偽りの報告をする。<br>朝鮮王はこの言葉を信じ、国境の警備を緩めた。<br><br>明の永楽帝からも援護射撃が入る。<br>朝鮮王がモンケ・テムールを入朝させないように妨害していると知り、<br>永楽帝は怒り、朝鮮からの使者を叱責する。<br><br>曰く、モンケ・テムールは皇后の親戚であり、<br>北京に呼ぶのは皇后の望んだこと、</p><p>骨肉の間柄で会いたいと思うのは、人の倫なり、と。<br>この皇后の件については、後述する。<br><br>朝鮮王は、永楽帝直々の叱責を伝える使者の言葉を聞くと震え上がり、<br>モンケ・テムールを北京まで送り届けるための護衛団を派遣した。<br><br>ところが護衛団が慶源に到着すると、<br>モンケ・テムールと明の使節団の一行は、</p><p>すでに国境を越えて北京に向かったあとだったのである。<br><br>朝鮮王はその報告を聞き、青ざめるが、後の祭りである。<br>　<br><br>こうしてモンケ・テムールは、明の正式な官職を授かった。<br>永楽帝より建州衛指揮使を任命され、</p><p>正式な印信（公印）を賜ったのである。<br><br>その後は明に忠実な臣下として、幾度にもわたり、</p><p>朝貢で首都北京を訪れた。<br>永楽十一年から宣徳八年（一四一三から一四三三まで）の二十一年間の間に</p><p>自ら入京すること七回に及んだ。<br><br>明朝側も周辺国の朝貢に対する礼節どおりに毎回宴席を以て迎え、</p><p>各種の下賜品を授けた。<br>女真族側は特産品を上納するほか、戦役があった際には兵士を出し、</p><p>明の軍事に貢献したのである。<br><br><br>明側が女真族を傘下に入れたい大きな理由もここにあった。<br><br>永楽二十年（一四二二）三月、永楽帝は大軍を率い、</p><p>モンゴル北元の和寧王アルタイ（阿魯台）を撃つ。<br>このときモンケ・テムールは、一族の荘丁を率いて従軍した。<br><br>一連の活躍を評価し、永楽帝は次々とモンケ・テムールの位を上げていく。<br>最終的に宣徳八年（一四三三）には、右都督まで昇進した。<br><br><br>モンケ・テムールは、同時に朝鮮との関係も維持する。<br>前述のとおり、朝鮮から出兵された場合、</p><p>数日のうちに到着するほどの近距離に存在する大きな政権なのだ。<br>敵に回すわけにはいかない。<br><br>幾度も使者を派遣し、貢ぎ物を献上することで、</p><p>機嫌を損ねて侵略されることがないようにした。<br>　<br><br>それでも隣接する二つの勢力が完全に平和を維持することは、難しかった。　<br><br>永楽八年（一四一０）、朝鮮王は吉州察理使の趙涓に命じ、<br>大興安嶺のいくつかの女真部族（ウチウハ、ウリャンハ、ウデゥリ）を</p><p>討つように命じた。<br>その命を受けて、趙涓は女真族の部族民の数百人を殺した。<br><br>数百人といえば、大興安嶺ではかなりの人数である。<br>生産性が低く、極寒の土地でなかなか人口が増えない厳しい環境である。<br><br><br>詳しくは後述するが、ヌルハチが軍を起こした時も</p><p>わずか三十人だったといわれる。<br><br>女真人自身の人口がなかなか増えないために、</p><p>漢人や朝鮮人を奴隷として誘拐することが、日常的に行われてきた。<br>その上、厳しい生活環境の中、ひどい処遇でこき使うため、<br>持続的な戦力とならないままに数年で使い殺してしまうことが</p><p>ほとんどであったろう。<br><br>朝鮮王が女真族を襲撃させたのも、どうやらそれが理由だったらしい。<br>自国民の誘拐が続くので、業を煮やしたのである。<br>　<br><br>というわけで朝鮮側に数百人の民を殺され、</p><p>住居を焼かれるのは、大きな痛手であった。<br>モンケ・テムールの傘下に属する指揮（官職名）も二人殺された。<br><br>モンケ・テムールは怒り、弟のシュリ（虚里）とほかの若衆に命じ、</p><p>朝鮮の慶源府を襲わせた。<br>つまりは、かつて自分たちが与えられていた居住地である。<br><br>どうやら朝鮮にとって、鴨緑江を挟んで東北とにらみ合っていた</p><p>慶源（現在の北朝鮮・会寧）の地は、<br>女真族を始めとしたツングース系少数民族対策の最前線だったらしい。<br>　<br>この時の襲撃では、人畜を奪い、大きな打撃を与えたため、</p><p>朝鮮の朝廷から慶源府に援軍がかけつけるほどの騒ぎになった。<br><br>一方モンケ・テムールは、明のモンゴル討伐軍に参加したために<br>モンゴルからの復讐を受けることも心配しなければならなかった。<br><br>それまでの居住地はモンゴル人の馬路（騎馬での通り道）に近く、</p><p>危険だと称し、<br>永楽二十一年（一四二三）、明の朝廷に申し出、</p><p>慶源への移住を許可されている。<br><br>つまり再び朝鮮時代の居住地に戻ったのである。<br><br>この際、朝鮮側とどういう話し合いになったかは定かではないが、<br>宗主国である明朝が許可したのだから、</p><p>朝鮮としては従うしかなかったのだろう。<br><br><br>モンケ・テムールの死は、明の宣徳八年（一四三三）であった。<br>日本風にいえば、「畳の上で死」ぬこと叶っていない。<br><br>女真の一派であるヤンムダウの率いる勢力を明の官軍とともに討伐し、</p><p>その復讐で殺された。<br>この時にモンケ・テムール、その長男のアグ（阿谷）が戦死し、</p><p>次男のドンシャン（董山）とアグの妻は、敵側の捕虜となった。<br>　<br>戦いに明け暮れる生活形式はまさに乱世だ。<br><br><br>まもなくモンケ・テムールの次男ドンシャンと長男アグの妻は、</p><p>捕虜の身から指揮のハルテゥに買い戻してもらう。<br>－－こういうことは、遊牧世界では普通にあったらしい。<br><br>モンゴルのチンギスハーンの伝記を読んでいても、</p><p>妻のボルテが敵対勢力にさらわれて敵対側男性の妻にされており、<br>しばらくしてようやく取り戻すことができた、というくだりがある。</p><p><br>その前後で生まれた長男のジョチは、父親がチンギスハーンかどうか、</p><p>甚だ怪しいらしい。<br><br>中国の儒教的な考えでは、貞操を犯されたら女性はさっさと自殺せんかい、</p><p>ということになるのだろうが、<br>人口のまばらな地帯であり、<br>かつこういうめちゃくちゃなことがしょっちゅう起こっていた社会では、<br>いちいち自殺させたり、女性を殺していたのでは、</p><p>生産性が悪すぎて共同体が立ち行かなくなるのか、</p><p>そういうことはしない。<br>&nbsp;</p><p>きわめて合理的である。<br><br>　<br>閑話休題。<br><br>その後、ドンシャンが叔父ファンチャ（モンケ・テムールの弟）と</p><p>最初は協力し、<br>後にライバル関係になり、</p><p>ついには対等な立場となった経緯については、省略する。<br><br><br>明の正統六年（一四四一）の時点で、建州女真は三つの衛に分けられる。<br><br>最も豊かな建州衛は、アハチュの子孫である李満住が管理する。<br>アハチュの娘は、皇子・燕王だった時代の永楽帝に嫁ぎ、妃の一人となる。<br><br>そのために舅であるアハチュは永楽帝に重用され、</p><p>「李思誠」の漢人名を賜う。<br>これ以後、この家系は女真族でありながら「李」姓を名乗り続け、</p><p>「建州衛李姓」として、存続し続ける。<br>したがってその息子も女真族でありながら、</p><p>一人だけ名前は漢人風の「李満住」である。<br><br>モンケ・テムールが朝鮮から明朝へ帰属する際、</p><p>永楽帝が彼を「皇后の親戚」と称したのも、<br>直接の血縁関係はないとはいえ、</p><p>自分に女真族の妃がいたからなのである。<br><br>明皇帝の親戚が末裔の管理する衛となれば、</p><p>最も実力あったことも当然の道理といえる。<br>　<br><br>さらに右衛をモンケ・テムールの弟ファンチャ（凡察）が支配し、</p><p>左衛を次男のドンシャン（董山）が支配した。<br>しかし女真族のことを明の史書より詳しく記録している朝鮮の「李氏実録」にも、<br>明の景泰年間以前の記録には、</p><p>ドンシャンの支配する左衛のことはほとんど登場しない。<br><br>ほかの二衛はたびたび登場するのに、である。<br>つまりは記録するにも値しない弱小勢力でしかなかったということである。<br><br>ヌルハチの家系は、このドンシャンから出ているので、</p><p>引き続き追っていくことにする。<br><br><br>ドンシャン（董山）は明朝に何度も入朝し、</p><p>朝貢を行ったことで貿易により実力を蓄えていく。<br><br>ドンシャンは李満住、ファンチャ（凡察）と比べ、一世代若い。<br>そのために老いた指導者の元で動きが鈍くなっていたほかの二衛に比べ、</p><p>一気に実力を伸ばしたのだろうかと思える。<br><br>社会構造が単純な社会であるほど、リーダーの年齢により、</p><p>一気に実力が逆転することも起こりうるということだろう。<br><br><br>これが大規模な帝国を形成する明朝であれば、<br>皇帝が老いていようが、政治を顧みないあほたれえな皇帝が即位しようが、<br>基本的には筆頭大臣を先頭とする、</p><p>科挙により選ばれ経験を積んできた官僚群が、</p><p>しっかりと政治を運用するのでびくともしない。<br><br>動脈硬化現象はもちろんあるが、サイクルの長さが違うのである。<br><br>　<br>こうして明の景泰年間前後、老いた李満住、ファンチャを抑え、<br>ドンシャンは建州女真の中心的人物として、</p><p>内外ともに認識される存在となっていく。<br>そしてこれまでにも増して激しく、外部への略奪を行うようになる。<br>李満住、ファンチャ（凡察）らとともに、</p><p>朝鮮、明の国境を侵しては、略奪を働いた。<br><br>壮丁（成人男子）が多く、</p><p>武力の強い酋長は他部族を略奪するようになるのが、</p><p>女真人の社会の普遍的概念であった。<br>明に対する略奪の傾向が特に激しくなったのは、</p><p>明の正統年間の「土木の変」以後だった。<br>　<br>「土木の変」は、女真族が圧倒的な存在としてあがめていた明の皇帝が、<br>あろうことかモンゴルの一派</p><p>オイラトのエセン・ハーンの捕虜になるという事件である。<br><br>目に見えやすいパワーがすべての判断基準である原始的段階にある彼らにとって、<br>これほどわかりやすい権威の失墜もなかった。<br><br>「明、恐るるに足らず」と、</p><p>すっかりこれまでの価値観を改めたドンシャンらは、</p><p>日増しに大胆になっていったのである。</p>
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<link>https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968000093.html</link>
<pubDate>Thu, 04 Jun 2026 18:13:26 +0900</pubDate>
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<title>１２、外祖父・嘉謨(ジヤーモー)</title>
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<![CDATA[ <p>１２、和[王申]少年物語<br>　国家予算15年分を蓄財していたと言われる世紀の汚職王・和[王申]。その怪物の成立に至るまでの道のりを探る。</p><p>&nbsp;</p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968010164.html">１、生い立ち</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968012288.html">２、咸安宮官学へ</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968014183.html">３、和［王申］とモンゴルにまつわる徒然</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968015145.html">４、和［王申］とチベットにまつわる徒然</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968016431.html">５、満人と漢人の教育システム</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968016995.html">６、雍正帝の教育システム</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968017647.html">７、咸安宮官学の学校生活</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968017928.html">８、八旗社会の女性たち</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968018705.html">９、和[王申]を婿に</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968020627.html">１０、英廉との初対面</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968020921.html">１１、新疆の開拓</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968021219.html">１２、外祖父・嘉謨(ジヤーモー)</a></p><p>&nbsp;</p><p>――支配階級といっても、不安定なものよ。<br>少年の家庭の事情を聞くにつれ、英廉は一人ごちた。<br><br>八旗の構成員というのは、</p><p>特権階級のようでありながら、実は制約も多い。<br>その点、江戸時代の武士階級にきわめてよく似ている。<br><br><br>清代、満州族を含めた旗人には、</p><p>軍人になるか官僚となるかという二つの職業しか許されていなかった。<br>国を防衛するか、政治を動かす立場になるか、二つに一つである。<br><br>農業、商業などを含めて、他の職業には一切従事してはならない。<br><br>また移動の自由もない。<br>旗人が北京城を四十里以上離れるときは、</p><p>所属する八旗都統処に届けを出さなければならなかったのである。<br><br><br>清朝初期には、それが何の矛盾もなく機能した。<br>旗人の各家庭には、東北の満州族の故地に広大な荘園があり、</p><p>小作料が入ったからである。<br><br>また北京入りしてからも、朝廷が北京の周辺五百里の土地を囲み、</p><p>八旗兵らに分け与えた。<br>清初の悪名高い「圏地」と言われる政策だが、<br>それを佃戸（小作人）に貸し与え、</p><p>旗人らは小作代で生活することができた。<br><br>この他、清初は対外的な戦争も多く、戦功を上げると豊かな賞与があった。<br>清初、旗人の生活は支配者層らしく豊かだったのである。<br><br>ところが乾隆中期にもなってくると、</p><p>北京在住の旗人の人口は倍以上に膨らんだ。<br>それにも関わらず、八旗兵の採用枠、</p><p>官吏登用の枠は建国当時とほとんど変わらなかったため、<br>仕事にあぶれてぶらぶらする旗人の若者が増えたのである。<br><br>加えて戦争も新彊の砂漠地帯、貧しい雲南、広西の苗族地帯、</p><p>チベットと四川の間の高山地帯、ヒマラヤなど、<br>どんどん辺鄙で貧しい場所に移行していく。<br><br>このため侵略したところで手に入るろくな戦利品もなく、<br>土地を占領したところでたいした収穫も期待できないような場所ばかり。<br>賞与も少なく、全体的な紛争数も少なくなった<br><br>そのために軍人も手柄を立てて一攫千金をねらうこともできなくなった。<br><br><br>和[王申]が生まれた乾隆中期というのは、</p><p>旗人の「貧乏人」が社会問題になってすでに久しかったのである。<br><br>……それでも気位の高さだけは、人一倍だ。<br>まさに「武士はくわねど高楊枝」と同じ精神ですな。<br><br><br>今でも北京で「八旗子弟」と言えば、</p><p>日がなぶらぶらして正業につかず、こおろぎ飼って戦わせ、</p><p>虫取りなどに夢中になり、<br>腹の足しにもならないどうでもいいことの</p><p>薀蓄(うんちく)だけは詳しい没落貴族気質を指す。<br><br>現代の北京で<br>「あの人は八旗子弟だから」<br>といえば、生産活動に従事せず怠けてだらだら暮らしてはいるが、<br>親や親戚からいつのまにか生活費のおこぼれを</p><p>もらえるようなちょっとした薀蓄と人柄の魅力を持った人、<br>という非難と羨望を両方こめた意味に使う。<br><br><br>今の北京人も全般的にその気質が色濃く、</p><p>とにかく薀蓄を語らせたら異様に弁が立つ。<br>何時間でもしゃべりつづけて相手を煙に巻く。<br><br>――砍大山(カンターシャン、大風呂敷を広げる）<br>である。<br>&nbsp;</p><p>年季の入った北京っ子の<br>――砍大山(カンターシャン、大風呂敷を広げる）<br>を外地の人は軽蔑もすれば、崇拝もする。<br><br>上海人などは<br>「口ばっかりでいざ仕事させたら事務処理能力なし」<br>と言って一刀両断、馬鹿にする。<br><br>しかし首都として全国の物産、文化、情報が集まり、<br>親戚一族にも官僚や軍人が多く、</p><p>全土を駆け回っているので情報量はずば抜けている。<br><br>さらに暇に任せて凝った芸術の知識を披露され</p><p>「砍大山」(カンターシャン)されれば、呑まれてしまう田舎者は多い。<br>　<br><br>清代、北京城内には旗人しか住んではならないことになっている以上、<br>このような有閑八旗子弟が作り出す退廃的な雰囲気は、</p><p>為政者には深刻な問題であった。<br><br>すでに北京入りして百年経たない康熙年間後半から</p><p>この風潮は為政者の頭痛の種となっていた。<br><br>尚武の気性を尊ぶことで政権を維持しようとする満州族にとり、<br>芝居にうつつを抜かし、自ら声を張り上げて歌いだしたり、</p><p>こおろぎの尻ばかり追っかけて暮らす若者が増えるのは、</p><p>亡国の危機である。<br><br>あるいは徒党組んでくだらない抗争を起こしたりする。<br>――この暇な若者らをなんとかしなければならない。<br><br>康熙帝は、これら有閑八旗子弟らを</p><p>僻地に追い出す手立てを考え、移住奨励政策を打ち出した。<br>多くは満州族の故地、東北の各地へ送り出した。<br>まさに文革時代に行われた若者の農村への下放運動のように。<br><br>移住に際しては奨励金を出し、現地にいけば住まいを用意し、</p><p>免税とするなど、さまざまな優遇政策を取ったので、<br>だまされて一度は現地に向かう若者もいた。<br><br>しかし温室育ちが荒野の生活に耐えられるわけはなく、</p><p>数ヶ月もすると逃亡して北京へ舞い戻ってきてしまう。<br>そんな若者たちを、朝廷としては同じ満州族の身内のことでもあり、</p><p>厳しく罰することはできなかった。<br><br>……というきわめて中途半端な下放政策を推進したのである。<br>この問題はこの後、清朝が滅亡するまで</p><p>この問題は為政者を悩ましつづけた。<br>　<br><br>そんなわけで、爵位のある家だからと言っても、</p><p>一たび男手を失うと、脆いものである。<br><br><br>――とにかく、今日は収穫があったわい。<br>気がつくと、英廉は一人で目じりを下げて微笑んでいた。<br><br>――もう少し、家に帰っていろいろ調査してみるとするか。<br>少年の不敵な面構えを思い浮かべつつ、</p><p>英廉は一人で出口に向かい歩き出した。<br><br>「大人……。どちらへ」<br>ネズミ男が後ろから慌てて追ってくる。<br><br>「いや。案内ご苦労であった。これで帰りますぞ」<br>老人らしからぬ軽やかな足取りと華やいだ後姿を</p><p>ネズミ男は怪訝そうに眺めて見送った。<br><br>　</p><p>和珅の家奴である劉全が、使いに出ていた。<br>神妙な顔をして腰かけて待機している。<br>　<br>江南河道の河庫道員、嘉謨(ジヤーモー)の家では、</p><p>使用人たちがひそひそと眉をひそめて、<br>さざなみのようにささやきが広がっていた。<br><br>そんな屋敷の雰囲気を敏感に感じつつ、</p><p>劉全は余計に胸を反り返らせて座りなおした。<br><br>「何？　善保(シャンバオ)の使いがまた来たのか？」<br>「へえ。」<br>と書状を盆に載せて執事が差し出した。<br><br>嘉謨(ジヤーモー)がうめき声を上げながら、書状を広げて読み始めた。<br>しばらくすると、ぷぷっと吹き出し、やがて大笑いに笑い出した。<br>「何か、楽しいことかな」<br>向かいで茶をすする客人が好奇心たっぷりに聞いた。<br><br>「いやいや。お恥ずかしい話ながら。<br>　私には不肖の外孫がおりましてな。<br>　父親が死んでから何かと無心が絶えない」<br>と笑いながら書状を客人に見せた。<br>　<br><br>中国大陸の歴史は、治水の歴史ともいわれる。<br>図体がでかすぎて、決して扱いやすいとは言えないその広大な国土を、<br>ほぼ統一したまま歩んできたのも、</p><p>ひとえに治水の便宜のため、とも言われるくらいである。<br><br><br>清代にも黄河と准河が数年ごとに堤防を決壊させて洪水を起こした。<br>治水のため、清朝朝廷は江蘇、山東、直隷（首都周辺）に</p><p>三人の河道総督を設け、任務に当たらせた。<br><br>中でも江南河道総督は、通称「南河総督」といい、</p><p>江蘇省北部の清江浦（現在の准陰市）の駐在した。<br>ここは黄河、准河、運河の三つが交わる場所であり、</p><p>南の穀物を北に運ぶためには要となる大切な場所である。<br><br>黄河は咸豊五年（一八五五）の大氾濫で、</p><p>いきなりとんでもない方向に暴走しだし、<br>元の位置から北に数百キロも移動して渤海に注ぎ込んだ。<br><br>それ以前の黄河は今からは想像もつかない南を走っていた。<br>　<br>元以降の政権は首都が極端に北に偏り、</p><p>ほとんどの食糧を江南からの運搬に頼らなければならなかった。<br>その食糧を運ぶために不可欠な運河の整備は、</p><p>清朝廷にとっても生命線であった。<br><br>また黄河、長江などの河川の整備も</p><p>周辺の農業生産高に影響するため、同じように重視し、<br>国家予算に占める河川整備予算は、全体の二割にも上ったのである。<br><br>乾隆中期の年間総予算が白銀四千万両。<br>－－実に八百万両が河川整備につぎ込まれる。<br><br>その少なくとも三分の一の予算が流れ込む</p><p>南河総督の財布係が、河庫道員だ。<br>官位はたかが四品官と高くないが、</p><p>莫大な予算がこの官職の手を通って行き来する。<br>　<br>脂が滴るほど、うまみの多い仕事だ。<br><br>&nbsp;</p><p>嘉謨(ジヤーモー)は和珅の生母の父、外祖父に当たる。<br><br>最初の頃はさまざまな人に無心した和珅だが、</p><p>そのうち誰も貸してくれなくなり、<br>最近は専らこの景気のいい外祖父におねだりしていた。<br><br>河道道員といえば、景気がいいと相場が決まっている。<br>当時、科挙に落第して意気消沈し路銀も使い果たした秀才や挙人らは、<br>知り合いの官僚に紹介状を書いてもらい、</p><p>道員を訪ねて行ったものである。<br><br>すると、少なくとも数百両の「路銀」を</p><p>包んでくれるのが相場だったのだ。<br>河道道員の方も将来有望な若者らだから、</p><p>恩を着せておいて損はないという腹である。<br><br>まったく知り合いでなくてもそうなのだから、</p><p>外孫の和珅兄弟は当然、おねだりをする資格がある。<br><br>嘉謨(ジヤーモー)は、普段は江蘇に駐在して北京にはいないが、<br>たまに北京に戻ったとなると、</p><p>どこから聞きつけてくるのか必ずかの強面の下僕をよこした。<br>　<br><br>－－それにしても限度がある。<br>こうたびたびでは、あきれる。<br><br>なぜ無心するのか。<br>学校の友人らに馬鹿にされては今後の出世に関わる。<br><br>自分が如何に懸命に勉強しているか。<br>将来は必ず出世して返す、というようなことを書状には、</p><p>面白おかしく小気味よく書いてあった。<br><br>「こりゃ、すばらしい人材じゃないか。<br>　いい孫を持ちましたな。うらやましい。いくつになります。」<br>客人は見せてもらった手紙を見て、鷹揚に笑った。<br><br>「確か数えで十八です。<br>　いやいや。これがなかなか金遣いが荒くてね。<br>　その書状、見ましたか。</p><p>　なぜ見栄を張らないといけないか、</p><p>　いう理由の御託がたくさん並べてあること。<br>　毎回毎回ではこちらも甘やかしていいものかと思いましてね」<br><br>嘉謨(ジヤーモー)がため息交じりに言った。<br>　<br><br>咸安宮官学の給金は決して少なくない。<br>学生には一日当たり「肉菜銀」五分が、</p><p>月ごと内務府からまとめて支給された。<br><br>これとは別に月々銀二両の手当て、</p><p>季節ごとの白米五石三斗の支給があり、</p><p>一般の八旗兵よりよほど恵まれている。<br><br>通学に関しても、普段は朝から日暮れまで授業が続くが、<br>雨が降ったり極寒の冬場には学校で宿舎が用意されており、</p><p>泊まることもできた。<br><br>それだけ優遇されてはいたが、</p><p>給金だけで賄っている学生などはほとんどいないのだ。<br><br>咸安宮官学は満州族子弟のエリート校である。<br>これまで数々の権力者を生み出し、</p><p>学生もそれら権力者の子弟が多く通っている。<br><br>校風は派手好みで子供たちは贅沢を張り合った。<br>そんな中であまりに惨めな身支度では、</p><p>同級生らに馬鹿にされ肩身狭い思いをしなければならない。<br><br>和珅なりに苦心はしていたのだ。<br><br>&nbsp;</p><p>英廉のもとに、孫娘の月謡がご機嫌伺いにやってきた。<br>「爺爺(イエイエ)」<br><br>あどけなさの残る声に英廉は書き物の手をとめ、顔を上げた。<br>Ｙ頭(ヤートウ、女中)がお盆にお茶を運んでくる。<br><br>お盆には湯のみ一つと宜興(イーシン)産のふっくらと丸みをおびた<br>紫砂壷(ズーシャーフー、素焼きのきゅうす）一つとが載せられていた。<br><br>湯飲みは下に受け皿がつき、本体は取っ手がなくふたがついている。<br>白地に石榴(ざくろ)が枝にたわわになっている図柄だ。<br><br>石榴は赤い実がぎっしり並ぶので、豊穣と多産の象徴である。<br><br>しかし息子に先立たれ、後継ぎ残しに</p><p>四苦八苦している英廉屋敷のものとなると、笑えない。<br><br>この屋敷は管家的(グアンジアーダ、執事）以下、</p><p>使用人の隅々に至るまで、<br>英廉のために「多産」を願わずにはいられない気持ちが染み込んでおり、<br>湯のみ一つ選ぶにもついついそんな柄を選んでしまうのだった。<br><br>月謡は石榴の粒一つ一つに至るまで、</p><p>一身にそのプレッシャーを受けて育ったのだから、<br>萎縮した性格になってしまったのも無理はない。<br><br><br>二人に出されたお茶は今年摘みたての</p><p>江南から取り寄せた緑茶系の碧螺春(ビールオチュン)だった。<br>英廉の机には長年使い込んだ愛用の急須がおかれ、</p><p>心なしか黒光りさえしている。<br><br>宜興産の紫砂壷は使い込めば使い込むほどいい、と言われる。<br>素焼きのため焼き生地の粒子が粗く、</p><p>お茶を入れるとその成分が胴体の地の中に入り込む。<br><br>それが次にお茶を入れたときにまたゆっくりと溶け出すため、<br>一つの急須には一種類のお茶のみしか淹れてはいけないと言われる。<br><br>茶の味が混ざるからだ。<br><br>使った回数が多ければ多いほど胴体の壁に</p><p>お茶の成分が積み重なっていき、</p><p>生のお茶では出せない独特の風味が出てくる。<br>数年使い込んだ急須なら、ただのお湯を入れてだけも</p><p>普段呑んでいるお茶の味が染み出ると言われる。<br><br><br>英廉は左手の手のひらで下から丸く急須を包んでもち、</p><p>左から口の脇にくっ、と差し込んですすった。<br>英廉は長年ウーロン茶系の鉄観音(てつかんのん)一筋、<br>しかもそれを濃厚に淹れ、</p><p>口がひん曲がるような苦さを歯にまとわりつかせつつ、</p><p>転がして飲むのが好きだ。<br><br>紫砂壷は湯飲みを使わず、急須の口から直接飲むのが正しい作法だ。<br>今でも紫砂壷は急須だけで、湯のみがあまりそろってないのは、その名残だ。<br><br>月謡も英廉がお茶を飲み始めたのを見て、湯飲みを左手で取り上げ、<br>右手でふたを少しずらして茶葉が</p><p>口の中に入らないようにふたで抑えつつ飲んだ。<br><br>&nbsp;</p><p>英廉は孫娘の顔を見ながら、考えあぐねていた。<br>――はてさて。勝手に決めてしまっていいものか……。<br><br>この時代、上流階級の結婚に自由恋愛による結婚などあるはずはなく、</p><p>お見合いさえもない。<br>結婚式当日に二人は初めて顔を合わせるのだ。<br><br>結婚式には花嫁が赤い布を顔からすっぽり覆い、</p><p>花婿はそれを持ち上げる細い棒を渡される。<br><br>式が済んで新婚の部屋「洞房（トンファン）」に</p><p>入って二人きりになった後、<br>その棒で布を持ち上げ、花婿が花嫁の顔を初めて見るのだから、</p><p>婚前に顔を合わせることは有り得ない。<br><br>かかる野蛮な行いは、生きていくのが精一杯の</p><p>社会最底辺の人々のみに限られるとされていた。<br><br>親同士が「門当戸対」（家柄の釣り合った）の家柄同士で</p><p>縁談を進め、子供がこれに逆らうことは許されない。<br>年端も行かぬ若者同士が成熟した判断を出来るわけもなく、<br>当人同士で熱くなって一緒になっても、</p><p>後々うまく行かぬ例は数え切れぬほどある、という理屈だ。<br><br>－－やはりここは酸いも甘いも味わい尽くしてきた大人が</p><p>有無を言わさず判断するのが、<br>　この子のためなのだろうか……。<br><br>英廉は知らず知らずに眉を顰めていた。<br><br>かと言って、周りの大人が良かれと思って</p><p>心を尽くして選んでやった相手でも、<br>生理的に受け付けず、生涯不幸で終わる例もこれまた多いではないか。<br><br>「爺爺（イエイエ）、さっきから一人で赤くなったり、</p><p>　青くなったり、おかしいわ」<br>月瑶がくすくす笑っている。<br><br>老人は刃物のように鋭い殺気を吐き出す少年の姿を思い浮かべていた。<br>――月月（ユエユエ）は、気迫で負けてはしまわないだろうか。<br><br>あまりにもあどけなさが先にたつ少女の罪なき笑みを老人は眺めた。<br>――それでもあの鋭さは、冷血さとはまた違う。<br><br>老人は自らの判断を確かめるように己に言い聞かせた。<br>わが身を守るための攻撃的な鋭さは、</p><p>幼き身に対するあまりに酷な冷たい仕打ちへの防御から出たことであり、<br>懐に入ってきた身内にはその冷酷さと同じだけの</p><p>熱さの愛をかけることのできる男だと見た。<br><br>その証拠に弱き弟を身を挺して庇い、守るというではないか。<br>家奴にも命の忠誠を誓わせるだけの魅力を持つ。<br>情に深い男なのだろう。<br><br>自らの身を振り返っても、家には家奴もいれば、</p><p>外には官庁で下に働く人間を大勢抱えている。<br><br>上に立つ身として、身を挺して主君や上司を守りたいと</p><p>思わせるほど慕われることが如何に困難なことかは、<br>人の上に立った者なら誰とて知っている。<br><br>そこに老人も子供も何ら差はない。<br><br><br><br>&nbsp;</p><p>――これはいっそ、月月の反応も見た方がいいのではないか。<br>英廉は心を決めた。<br><br>年端も行かぬうら若い娘に自分で判断させるなどは</p><p>ろくなことにならないというのが、<br>この時代の多くの大人の見方であったろう。<br><br>それでも本人に幸せになってもらうには、</p><p>自分で気に入ってもらうしかないと英廉は考えるのだった。<br>自らの決定の責任を取るという決心が本人になければ、</p><p>二人の関係にも前向きに向き合えないだろう。<br><br>他人から押し付けられた結婚であれば、少</p><p>しでもうまく行かないことがあれば、投げやりになってしまう。<br><br>――不謹慎ながら、今上の公主様らもご短命であられた。<br>英廉は乾隆帝の娘（公主）らのことを思い浮かべていた。<br><br>乾隆帝の娘たちの中で排行がついたのはこの時点では、九人である。<br>うち六人は乳幼児で夭折され、四人が成人されたが、</p><p>二人が短命で命を落とされている。<br><br>一番年長の和敬公主は、モンゴル王公の</p><p>色布騰巴爾珠爾（ゼプトンバージュル）に嫁がれ今もご健在だが、<br>皇四女の和碩和嘉公主は乾隆帝の愛妻、</p><p>皇后フチャ氏の甥・福隆安（フロンガー）に嫁いだが、</p><p>わずか七年で他界された。<br>十六歳で嫁ぎ、二十三歳までの儚い青春であった。<br><br>先日ももう一人他界されている。<br>七番目のお姫様・固倫和静公主様である。<br><br>ハルハモンゴル王公のラワンドルジに嫁がれたが、</p><p>二十年の短いご生涯であった。<br><br>この時代の高貴な女性は皆短命かと言えば、そうともいえない。<br>前述のご年長の和敬公主は、</p><p>この後も健在でありつづけ六十二歳で亡くなる。<br><br>一番のご長寿はなんと言っても乾隆帝のご生母、</p><p>八十歳を越えても矍鑠とされている。<br><br><br>――やはり自ら望んで嫁がねば、本人にとって不幸だ。<br>英廉はそう考えるようになった。<br><br><br>高貴な女性たちが、望まぬ相手に嫁いでどうなるか。<br><br>自らも積極的に夫婦関係を円満にしようという努力もしないまま、<br>わずかな挫折でも急速に</p><p>人生や生活への希望を失ってしまい勝ちなのである。<br><br>我が家はもちろん高貴なお上のご一家とは</p><p>比ぶべくもないほどの平凡な家庭ながら、<br>少なくとも中流以上だ。<br>その階級の女性たちが世間にほとんど触れぬまま、</p><p>あまりにも脆い価値観の中で育つことには変わりはない。<br><br>あどけなさが勝る我が孫娘を目の前に見るにつけても、</p><p>英廉はそう感じるのだった。<br><br>「よし。爺爺（イエイエ）は決めた」<br>急に意を決したように叫んだ英廉を月瑶は一重まぶたの</p><p>ぽってりして目を見開いて見つめ返してくる。<br><br>「月月、婿によろしき相手を見つけたぞ」<br>月瑶は苦い薬でも突然口に流し込まれたような表情を浮かべた。<br><br>「そんな顔をするでない。<br>　心配せずとも爺爺は月月の嫌がる相手に無理やり嫁がせることはしない」</p>
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<link>https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968021219.html</link>
<pubDate>Mon, 01 Jun 2026 21:59:02 +0900</pubDate>
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<title>１１、新疆の開拓</title>
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<![CDATA[ <p>１２、和[王申]少年物語<br>　国家予算15年分を蓄財していたと言われる世紀の汚職王・和[王申]。その怪物の成立に至るまでの道のりを探る。</p><p>&nbsp;</p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968010164.html">１、生い立ち</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968012288.html">２、咸安宮官学へ</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968014183.html">３、和［王申］とモンゴルにまつわる徒然</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968015145.html">４、和［王申］とチベットにまつわる徒然</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968016431.html">５、満人と漢人の教育システム</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968016995.html">６、雍正帝の教育システム</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968017647.html">７、咸安宮官学の学校生活</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968017928.html">８、八旗社会の女性たち</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968018705.html">９、和[王申]を婿に</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968020627.html">１０、英廉との初対面</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968020921.html">１１、新疆の開拓</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968021219.html">１２、外祖父・嘉謨(ジヤーモー)</a></p><p>&nbsp;</p><p>今上（乾隆帝）のご生母様は「格格」（ゴーゴ）上がりという。<br>「格格」の満州語の元の意味は「お姐さん」、</p><p>清末には皇族や貴族の「令嬢」という極上の尊称になった。<br><br>西太后が養女にしたしかるべき家柄の令嬢たちは皆「格格」と呼ばれた。<br>ところがその百年前の乾隆年間は、どうもそうではなかったらしい。<br><br>主人の子供を身ごもった、あまり大きな声では</p><p>出自を言えない身分から昇格した女性を</p><p>「格格」という曖昧な敬称で呼んだ。<br><br><br>言葉というのは、ある瞬間から瞬く間に違う意味を含むようになることがある。<br><br>個人的な体験だが、作者が九十年代前半に中国に来たとき、<br>「小姐」（シャオジエ）といえばまだ「お嬢さん」という</p><p>極めて礼儀正しい尊称だった。<br><br>若い女性はそう呼ばれれば、満足してうなずいたものである。<br>時代劇などを見ても、お金持ちのお嬢様を女中は「「小姐」と呼んでいる。<br><br>ところが今では「小姐」は水商売の女性を指すようになってしまい、</p><p>そう呼ばれると女性たちは怒り出す。<br>これにより若い女性に対する尊称がなくなってしまった。<br><br>今では作者もシシカバブを売るおばさんに</p><p>「姐姐」（ジエジエ、姉さん）と呼ばれ、<br>わたしはあんたのお姉さんじゃないんだけど、</p><p>と首をかしげる事態が起こっている。<br><br><br>閑話休題。<br>さて太后殿下（乾隆帝の生母）のご実家は、<br>今でこそお父上の凌柱様がニウフル氏、</p><p>四品典儀、内大臣と称しておられるが、それさえも怪しい。<br><br>旗人でさえもないという噂である。<br>旗人であれば少なくとも「秀女」出身だといっても辻褄は通る。<br>……ところが、そんな話さえも聞かない。<br><br><br>八旗の女性は、年頃になると、</p><p>全員が強制的に「秀女」選びに狩り出される。<br>いい女をすべて皇帝一族が差し押さえるためだ。<br><br>選ばれた女性たちは家柄、容色の優れた順から<br>皇后、以下皇帝の妃、皇子ら、親王、</p><p>群王の「福晋（フジン、奥方）」、「側福晋」に割り振られていく。<br><br>先帝（雍正帝）の皇子時代にも</p><p>そんな「秀女」出身の女性たちが何人も送り込まれ、</p><p>それぞれ順番に妻の地位を占めた。<br>太后殿下も福晋でこそなかったが、「秀女」の末端には名を連ねていた、</p><p>と言っても通るのである。<br><br>しかしそれもどうやら、先帝（雍正帝）が即位してから</p><p>慌てて整えた体裁のような匂いがする。<br>親王府の女中たちは旗人が勤めるわけではない。<br><br>八旗はただでさえ人口が少ないから、ほぼ全員が特権階級である。<br>家で下働きをするのは、漢族の庶民階級である。<br><br>そんな女性に主人のお手がつけば「格格」という曖昧な呼ばれ方をする。<br>　<br>噂では太后殿下には先帝は一度しかお手をつかれなかったとか。<br>今上が生まれてからも母子は、女中に毛が生えた程度の地位でしかなく、<br>屋敷の中で肩身の狭い思いをして暮らしておられた。<br><br>ただ成長するにつれ、ますます聡明になるご子息に</p><p>先帝（雍正帝）がお目をかけるようになった。<br>たまたまほかのご福晋方のご子息に英邁な坊ちゃんがなかったこともある。<br><br>そうしてこの父子は次第に一丸となり、</p><p>皇位を勝ち取るために力を合わせて突き進むことになったのである。<br>　<br><br>　　　</p><p>雍正帝は皇位簒奪者ではないか、と言われているが、<br>それを可能にしたのも、息子の弘暦（後の乾隆帝）との</p><p>共同作業であった嫌いがある。<br><br>祖父帝（康熙帝）の晩年、あまたいる皇子らの皇位継承争いは、熾烈だった。<br>優秀な皇孫を持つことは大きな点数稼ぎになるため、<br>雍正帝はこの息子の聡明さを全面的に押し出したのである。<br><br>元来、弘暦（乾隆帝）は嫡男でも長男でもない。<br>弘暦は雍正帝の五男、上三人の兄が相次いで夭折したので、</p><p>実質的には次男、上には七歳年上の異母兄、弘時がいた。<br><br>弘時の生母は側福晋（夫人）李氏、雍正帝の即位後は斉妃に封じられている。<br>側福晋は正福晋（正妻）の下に二人しかいないので、</p><p>弘時の生母は極めて地位が高かったことになる。<br><br>その兄を差し置いて生母の地位が低い、</p><p>召使いに毛が生えた程度の地位しかない生母を持つ弘暦が父親に見出され、<br>最終的には祖父の康熙帝にも特別扱いされたのは、</p><p>ひとえに弘暦が優秀だったからである。<br><br>雍正帝は、この五男の聡明さを見込み、父帝に全面的に強調した。<br>康熙帝も百人を超える孫の中でも、弘暦をとりわけ気に入り、<br>宮中に引き取り育てるたった二人の孫の中の一人という特別な地位を与えた。<br>　<br>いわば今上陛下の皇帝としての地位は、父子で力を合わせて勝ち取ったものだ。<br>それもつらい幼年時代の苦労がばねとなっているに違いない。<br><br>そこが英廉が今上を敬愛する部分でもあった。<br>自分だって長男ではないし、生母も父親の寵姫でもなかった。<br>それでもそうやってここまでがんばってきたのだ。<br><br>当時の社会のいいところは、</p><p>そういった庶出と嫡出をまったく差別しなかったことである。<br>皆が同じ屋敷に住み、すべての子供たちが正妻の子供という建前になるのだ。<br><br>例えば、最後の皇帝溥儀やその弟溥傑などの自伝を見ると、<br>「私の父は」と紹介し、その次には「私の嫡母は」と紹介が来る。<br>そしてその後に「私の生母は」となるのである。<br>　<br>その一族の出身であれば、社会での扱いはまったく同じ。<br>後の世のように「妾腹」「父なし子」と陰口をたたかれることはない。<br>その後は才覚がものをいう。<br>　<br>悪くない家柄の子供でありながら、<br>周りの少年たちにいじめられるようなみすぼらしい出で立ちで</p><p>出されてくる善保（シャンボー）という少年の家庭の事情は<br>大方想像がつくというものである。<br><br>英廉の想像が自らのみじめな少年時代や</p><p>今上の生い立ちにまで及んでいるとは、露知らぬネズミ男に英廉がふと聞いた。<br>「善保は庶出かね」<br><br>ネズミ男は、ほい来た、とばかりに目の色を変えた。<br><br>「そこなんですよ。あの兄弟の気の毒さは。ひひ。」<br>ぜんぜん気の毒と思っていないことを隠そうともせず、ネズミ男は卑猥に笑った。<br><br><br>&nbsp;</p><p>「それが善保（シャンボー）は立派な嫡男、弟も同母弟で生母は正妻ですよ」<br>ネズミ男がもったいぶっていう。<br><br>英廉は意外そうに相槌を打った。<br>「ほお。それなのになぜ」<br><br>大方、どこの家にでもある愛憎図だろうと見当をつけつつ、</p><p>また思いは自分の身の上に飛んだ。<br>　<br>中流以上の家庭では、どこでも見られる妻妾や異母兄弟同士のいがみ合い。<br>英廉と母は少なくとも家庭の中では敗者の立場に置かれ、</p><p>そのみじめさをいやというほど味わってきた。<br><br>そんな地獄絵図を自分の家庭で繰り広げ、</p><p>自分の子供たちにみじめな思いをさせたくはない、<br>その強い思いから英廉は本妻以外の女性を家庭に入れることなく、</p><p>この老境までを全うしてきた。<br><br>女性は自分でいくらどう望んでもその環境を作り出せないが、</p><p>男性にはその選択権がある。<br>それを英廉は気に入っていた。<br>　<br>が、その遺産で今、こうしていらぬ苦労をしているのも事実である。<br>本妻一人しか娶らなかったため、</p><p>子供が少なく、息子で成人したのは一人だけ。<br>その息子も若くして他界してしまったため、</p><p>こうして孫娘の婿がねを物色する羽目になっているのだ。<br><br>そんな自分の現状に思いを馳せ、英廉はふと自嘲的に笑った。<br>　<br>ネズミ男は相変わらず脳天気に一学生の噂話に血祭りを上げている。<br>「気の毒なことに、兄弟の母親は</p><p>　下の子を生むときに産後の肥立ちが悪くて他界しておりまして、<br>　その後に娶った後添えが、伍弥泰(ウミタイ)大人のお嬢さんでございますよ」<br><br>「伍弥泰(ウミタイ)大人というと、吏部尚書の？」<br>「そうですよ。」<br><br>「ほお。なかなか名門の閨閥だね。</p><p>　というと、善保の父親もそれに見合う出世頭だろうね」<br>「いえ。それほどでも。<br>　福建副都統まで勤めたそうですが、</p><p>　これが数年前にぽっくり他界してしまいまして」<br><br>――ははあ。見えてきたぞ。<br>英廉は、挑むような目つきの粗末な身なりの少年を再び脳裏に思い浮かべた。<br><br>吏部尚書の伍弥泰(ウミタイ)が娘を嫁に入れる先として、<br>初婚でもない福建副都統は、どうもやや格下のような気がしないでもない。<br><br>英廉は端正な顔の色白な少年を再び思い出し、<br>――男前だったのかもしれぬなあ。父親も。<br>と、検討を働かせた。<br><br>現に自分だってあの少年に男惚れしかかっているではないか。<br>完成した相手に娘を嫁がせたからと言って、</p><p>必ずしも幸せになるとも限らないものである。<br><br>さっきの妻妾同居の話ではないが、</p><p>権力がある方が女性関係は派手になるに決まっており、<br>女性として幸せな結婚生活を送るのも難しくなるというものだ。<br><br><br>&nbsp;</p><p>「父親が死んでしまうと、後に残されたのが、</p><p>なさぬ仲のこの伍弥泰(ウミタイ)大人のお嬢さんでございますよ」<br>ねずみ男の解説は続く。<br><br>「しかし大きな声ではいえませんが、</p><p>　嫡母としてこの方はどうも婦女道には反しまするな」<br>珍しく公正な意見を口にすると、ネズミ男がため息をついた。<br><br>――なるほど。そういうことか。<br>三等軽車尉の家柄でありながら、<br>周りの少年たちのいじめの理由になるような貧しい格好をさせているとは、<br>確かに誉められた話ではない。<br><br>第一、伍弥泰(ウミタイ)は国の中枢にいる大臣である。<br>娘の嫁ぎ先でそういうことが有り得るだろうか。<br><br>｢今、伍弥泰(ウミタイ)大人といえば……｣<br>「ウルムチですよ」<br><br>「そうだったね。もうかなり行っておられるね」<br>「ええ。かれこれ数年は外ですね」<br><br><br>善保（シャンボー）兄弟は、</p><p>物心つかないうちに生母を亡くし、ウミタイの娘が継母となった。<br><br>父親はほとんど外地務めで、下手すると数年に一度しか戻れず、</p><p>ついに数年前に亡くなった。<br>残されたのは、子供たちとこの継母だけなのだ。<br><br>男の働き手を失った家庭の収入は、</p><p>未亡人手当てと爵位の俸禄、荘園の年貢しかない。<br>恐らく贅沢三昧に育ったウミタイの娘には到底足りず、</p><p>うまく家庭のやりくりができていないのだろう。<br><br>懐がひもじければ、どうしても縁が薄い、</p><p>なさぬ仲の連れ子にしわ寄せが行くことは容易に想像ができる。<br><br>「このウミタイ大人のお嬢さんには、自分が産んだ子供が数人いまして、<br>　そういうこともあるかと思います」<br>ネズミ男もしんみりと言った。<br><br>自分が生んだ子がかわいいのは、世の常だろう。<br>実子となさぬ仲の子供がけんかでもすればなおのこと、</p><p>子供とはいえ憎き相手にしか見えなくなることもある。<br><br>「その異母兄弟らもわが校の学生かね」<br>「いえいえ。大人。<br>　わが校はそんなに猫も杓子も入れるような学校じゃございませんよ。<br>　大方、世子幼学ででもくすぶっているのではないでしょうか」<br><br>甘やかされるほどに出来が悪くなるものである。<br>三等軽車尉の家の子供なら全員、</p><p>世子幼学には入学させてもらえるはずである。<br><br>－－ウミタイ大人もその家柄を見込んで娘を嫁がせたのかもしれんのお。<br>英廉はふと考えた。<br><br>ウミタイは確か蒙古八旗の出である。<br>同じ八旗とはいえ、英廉が包衣として少し違う身分であるように、<br>旗人社会の中では、蒙古八旗も</p><p>純粋な満州八旗の出身と比べるとやや地位が低いのだ。<br><br>孫を世子幼学に通わせることができるということも、一つの特権ではある。<br><br>「ウミタイ大人もずっと、辺境赴任が長くておられますから、<br>　お嬢様が嫁ぎ先で少し懐が寂しい思いをされていても、<br>　そうそうと細かく面倒を見ることができないのだと思いますよ。」<br><br>とネズミ男が分析した。<br><br>&nbsp;</p><p>確かにこの時期、和珅の一家にとってウミタイは大事な親族であった。<br>働き手を失った家庭では、その経済力に頼るところが大きかったであろう。<br><br>しかしウミタイはこの時期、首都には数年も戻っていない。<br>新しく清朝の領地になった新疆地区の経営に借り出されていたのである。<br><br>乾隆二十四年（一七五七）、<br>現在の新疆ウィグル自治区に当たる、</p><p>いわゆるシルクロード地方がすっぽりと清朝の手に納まった。<br><br>この地域は、元々モンゴルの一派、オイラト系のジュンガルが所有していた土地だ。<br>清朝は二代前の康熙帝の頃からそのジュンガルと死闘を繰り返してきた。<br><br>三代に渡り、ジュンガルとの戦争は絶えることなく続き、<br>ついに数年前にジュンガル盆地とタリム盆地が平定された。<br><br>清朝の領土はモンゴル帝国以来、アジアで最大となった。<br><br>明朝には数百年かかっても実現できなかったことである。<br>明朝の軍事予算は常にモンゴルとの戦いに費やされ、</p><p>皇帝が捕虜になる辱めまで受けたにもかかわらず、<br>万里の長城以北はモンゴルに属し、タリム盆地のウィグル族も明の支配下にはなかった。<br><br>当時はチャガタイ汗国の領土だった。<br>現代の中国の版図を作り上げたのは、まさにこの乾隆帝の時代である。<br><br>乾隆二十四年に天山山脈の南北が平定されてから、まだ十年たっていなかった。<br>－－この新しい領土の経営のためにウミタイも派遣されたのである。<br><br><br>清の朝廷としては、新疆の運営をどうしても成功させねばならなかった。<br>新疆が乱れればジュンガルが乱れ、ジュンガルが乱れるとハルハモンゴルが乱れ、<br>この二つのモンゴルが乱れると同じラマ教を信奉するチベットも乱れる。<br>ひいては国解体にもつながりかねないからだ。<br><br><br>この頃の清朝廷は、</p><p>新疆まで続くいわゆるシルクロード沿いの</p><p>ルートの経営に大きな力を注いでいた。<br>新疆までの道といえば河西回廊(かせいかいろう)、</p><p>新疆へ続く唯一の通り道に当たる。<br>　<br>なぜ「回廊＝廊下」かといえば、</p><p>浣腸の差込み口のようにそこが新疆に通じる細い通り道だからだ。<br>細い道が甘粛、そのむこうに広がる丸い平野がタリム盆地、</p><p>ウィグル族の居住区であり、その北にはジュンガルモンゴルがある。<br><br>広い大地に唯一の通り道という意味は、</p><p>ここ以外は山だったり砂漠であるからだ。<br>大軍が短時間に移動するには障害が多すぎる。<br><br>河西回廊の南はチベット高原である。<br>中原から新疆に兵を進めるのに、</p><p>この高原に食糧と軍隊をわざわざ引っ張りあげ、<br>また降りていくような馬鹿は誰もしたくない。<br><br>北にも山脈があり、その向こう側は砂漠だ。<br><br>&nbsp;</p><p>河西回廊は両方を山脈に挟まれているため、</p><p>その雪解け水が谷に流れ込んで地下にたまり、<br>ちょうどいい具合にオアシス都市が点在する。<br><br>蘭州からこれを武威、張掖、酒泉、嘉峪関、</p><p>安西、ハミ、トルファンと一つ一つ渡っていくと、<br>大軍が比較的楽に天山山脈の雪解け水で潤うウルムチにたどり着ける。<br><br>これがタリム盆地の入り口だ。<br>ここを押さえれば、天山山脈を越えた北にあるジュンガリアも<br>南のタリム盆地のウィグル族居住区も押さえることができる。<br><br>征服したはいいものの、<br>首都から千里も離れ、</p><p>いくつもの砂漠を越えてたどり着く地の果ての地を</p><p>どうやって維持していくのか。<br><br>当時、朝廷では消極論が飛び交った。<br><br>天山山脈の南北の地をロシアが虎視眈々とねらっており、<br>清朝の支配が少しでもゆるめば、</p><p>我がものにしようと目論んでいることは、清朝廷も心得ていた。<br><br>－－駐屯軍を養うための家畜を、砂漠を越えて運搬するのか……。<br>気も遠くなるような作業に</p><p>誰もが新疆経営が崩れるのは時間の問題、と弱気になっていた。<br><br><br>そんな中でこれまでにない試みとして「屯田」政策が打ち出された。<br>イリ河の南は水も豊かで土地も肥えており、農業に適している。<br><br>しかし誰を農業に従事させるのか－－。<br><br>昨日まで死闘を繰り広げていたジュンガルの人々は</p><p>当然扱いにくい上、遊牧民は何よりも農業をいやがる。<br>彼らは馬に乗って広い草原を自由自在に駆け回り、</p><p>瀟洒に生きることを最上とし、<br>農民は地に這いつくばって数里の距離から</p><p>生涯離れたことのないかわいそうな奴ら、と軽蔑しているのだ。<br><br>それを農業をやれと強制しようものなら、</p><p>決死の大反乱になることは目に見えていた。<br><br>そこで南の天山山脈を越えたタリム盆地に住</p><p>むウィグル族に白羽の矢が立てられた。<br>ウィグル族のジュンガリアへの移住を奨励し、</p><p>内地から派遣された兵士らと共に屯田しようという試みだ。<br><br><br>ウィグル族は唐代に現在の外モンゴルのオノン河周辺で</p><p>ウィグル汗国という国を営んでいたが、<br>外敵に攻め入られて崩壊すると、</p><p>その地に留まって被征服民となることはせず、</p><p>南に向かって大移動を始めた。<br><br>その一派がタリム盆地に入り、住み着いた。<br>タリム盆地にはオアシスが点在し、</p><p>現在の農業と羊の遊牧の併用形式が定着した。<br><br>ジュンガルが最盛の頃からウィグル人はその支配下に入り、<br>ジュンガルの崩壊に伴い、なし崩し的に清朝の支配下に入った。<br><br>ジュンガルのように壮絶な死闘の末に降伏したのではなく、<br>ただ単に征服者がジュンガルから清朝に変わっただけ</p><p>と言う程度の意識しかなく、<br>占領統治はジュンガルより容易である。<br><br>統治しやすく、農業も営むウィグル人を</p><p>ジュンガル盆地に入植させることは統治側としてはきわめて都合が良かった。<br><br><br>ウミタイはそんな新疆経営に借り出されて数年も帰ってきていない。<br><br>……そんな事情も少年のみすぼらしい身なりの原因になっているはずであった。</p>
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<link>https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968020921.html</link>
<pubDate>Mon, 01 Jun 2026 21:56:22 +0900</pubDate>
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<title>１０、英廉との初対面</title>
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<![CDATA[ <p>１２、和[王申]少年物語<br>　国家予算15年分を蓄財していたと言われる世紀の汚職王・和[王申]。その怪物の成立に至るまでの道のりを探る。</p><p>&nbsp;</p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968010164.html">１、生い立ち</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968012288.html">２、咸安宮官学へ</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968014183.html">３、和［王申］とモンゴルにまつわる徒然</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968015145.html">４、和［王申］とチベットにまつわる徒然</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968016431.html">５、満人と漢人の教育システム</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968016995.html">６、雍正帝の教育システム</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968017647.html">７、咸安宮官学の学校生活</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968017928.html">８、八旗社会の女性たち</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968018705.html">９、和[王申]を婿に</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968020627.html">１０、英廉との初対面</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968020921.html">１１、新疆の開拓</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968021219.html">１２、外祖父・嘉謨(ジヤーモー)</a></p><p>&nbsp;</p><p>英廉は、動揺する孫娘を見やりながら、</p><p>昼間の咸安宮官学での出来事を思い出していた。<br><br>「英大人」<br>「英大人」<br>英廉が学校の正門をくぐろうとすると、侍衛らが次々と声をかける。<br><br>中庭に入ったところで、門の並びの部屋から人が飛び出してきた。<br>「英大人、これはまた突然のお越しで……」<br><br>振り返ると、李峰がねずみのように細く釣りあがった目に</p><p>愛想笑いをこめて立ってる。<br>学校には内務府から事務官が四人派遣されており、</p><p>彼はその責任者だった。<br><br>ちょんちょん、と数本しかないひげが</p><p>ねずみのそっくりなので、英廉はひそかに<br>――ねずみ男<br>と呼んでいた。<br><br>内務府は、成立当時より包衣を中心に構成されている。<br>この男も包衣出身であるからには、先祖は漢人のはずだが、</p><p>ツングース系の血が濃いのか、ひげが薄い。<br><br>長城の北から来た人々は体毛が薄く、すねも脇の下もつるつる、<br>ひげもぴょこっぴょこっと左右に数本ずつしかはえない者も多い。<br><br>いずれにしても、包衣は数代にもわたり長城の北で暮らしており、</p><p>複雑な歴史的背景で混血を繰り返してきた。<br>満人に強姦されて混血したものもいれば、<br>高麗人参の貿易を通して満人が富をなして都市に住み着いて漢語でしゃべり、<br>漢服を着るようになり、</p><p>しかるのちに「漢人」として再び征服された例もあるという。<br><br>……となれば、もう民族的な違いは自我の差であったり、</p><p>社会的な認証の差でしかなくなっている。<br><br>「子供らの意気のいい叫び声を聞いていると、</p><p>　力が湧いてきて、ふらふらと寄ってしまうわい」<br>「……それはそれは」<br>心なしか膝をやや曲げて姿勢を低くしつつかしこまっていた李峰は、</p><p>やや訝しげに首をかしげた。<br><br>－－本当にそれだけの用事ですかい<br>とでも言いたげだ。<br>　<br>目的もなしにふらりとやってきたのかといえば、</p><p>確かに完全にそうとも言い切れなかった。<br>心密かに孫娘の縁談相手を物色する下心があったのだから。<br><br>英廉はうなずきながら、李峰に案内され客庁（応接間）に入り、腰掛けた。<br><br>学校は「三進院」になっていた。<br>「三合院」を縦に三組重ねた形、</p><p>つまりは、「コ」の字を伏せた型を三つ重ねる。<br><br>本来なら中国北方の家屋の間取りは「四合院」が標準だが、<br>北向きの部屋は日当たりが悪くじめじめしており、</p><p>倉庫程度しか使い道がない。<br><br>このためにいっそのこと反対側に窓を開け、</p><p>前の列の南向きの部屋にしてしまうのだ。<br>つまりは、南向きの部屋が三間、東西それぞれも三間ずつ、<br>これが「一院」九部屋、「三院」で合計二十七間の作りである。<br>　</p><p>&nbsp;</p><p>咸安宮官学は三つの四合院を重ねた「三進院」作りであった。<br><br>正門から入った「一進院」は、</p><p>正面の南向き三間には孔子さまが鎮座まします祭祀堂である。<br>中国の伝統では、学問を身に着けるとは、</p><p>儒教的な礼節を身に着けることであり、<br>学生たちは勉強に入る前に孔子像に跪いた後、授業に入った。　　<br><br>東西の部屋は、それぞれ先生らの控え室であったり、</p><p>供の者の控え室であった。<br>学生は十歳から入学するため、</p><p>城内各地から馬に乗って通学するには単独ではいけないため、<br>お供の者をつけることが許されているのだ。<br><br><br>英廉はぶらぶらと手を後ろに組みながら、</p><p>最初の中庭の中を歩き回る。<br>正門から入ってすぐの部分が簡単な応接間になっていたが、<br>英廉はすぐにそこに入らず、</p><p>中庭と四方の家屋をつないでいる</p><p>屋根つきの渡り廊下をゆったりと歩いていった。<br><br>ふと伴の者の控え室の前に差し掛かる。<br>英廉は何気なく中に入った。<br><br>むっと汗と垢、土ぼこりのにおいが襲い掛かる。<br>新陳代謝の塊のような青壮年の男たちの放つ強烈なにおいだ。<br><br>少年たちのお供をするとなれば、<br>坊ちゃまを馬に乗せて自分は歩いてそれを引いたり、</p><p>あるいは驢馬車を御するにしても、<br>共に乗馬で伴うにしても、体を使った肉体労働である。<br><br>用心棒の役割も果たせなければならないから、</p><p>壮健で腕力に自信ある連中ばかりだろう。<br>そんなむつくけき男どもが狭い部屋に集められれば、</p><p>自然とそれを代表する異臭となるわけである。<br><br>そもそもこの時代の中国北方の習慣では、</p><p>めったに風呂に入ることもなかったし、<br>ましてや冬の衣服を頻繁に着替える習慣もない。<br><br>ころころもふもふに膨らんだ綿入れの防寒着の袖のすそは、</p><p>垢と鼻水とわけのわからない生活汚れで黒光りしているのが普通。<br>そんな綿入れから発せられる何ヶ月もの体臭と汗腺を</p><p>通ってきたにんにくの強烈な匂い……。<br>推して測るべしである。<br><br>入ってきた人品卑しからぬ初老のご老人を見て、数人が気がついた。<br><br>ねずみ男が紹介するまでもなく、<br>「英大人」（インターレン）<br>とさっと立ち上がり、呼びかけた。<br><br>それを受けてほかの者たちも相手を悟り、</p><p>次々と名前を呼んで立ち上がった。<br>　<br><br>ところが一人だけ笠を目深にかぶったまま</p><p>片ひざを抱えて斜めに座り込み、ふてぶてしく無視するやつがいる。<br>立ち上がっていないのではっきりとはわからないが、</p><p>骨格だけを見ても相当な大男だ。<br><br>そして体中から放つ殺気と存在感がすさまじい。<br>　<br>部屋中の者が一通り立ち上がって英廉の名前を呼び終わると、<br>一瞬の沈黙が流れ、皆の視線が自然とそのふてぶてしい物体に注がれた。<br><br>緊張した空気が流れ、場が凍った。<br>「お、おい。劉全！　またおまえか・・・・。</p><p>　内務府大臣の英廉大人がお越しだ。ご挨拶は」<br>ねずみ男が怒鳴り声を上げた。<br><br>その声が響き終わると、再び静寂が訪れ、</p><p>皆が固唾を呑んでその物体の反応を待った。<br>　<br>ところが、次の瞬間に聞こえてきたのは、ぐおおおお、と見事な吸い込み頭のいびきであったのだ。<br>　<br>英廉も呑まれた。<br>　<br>皆も呑まれた。<br>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>劉全の豪胆ないびきが部屋に響き渡り、皆が息を呑んだ。<br>ねずみ男の血の気がすーっと絵画的に引けていくのが、</p><p>振り返って見ずとも英廉には気配で感じられた。<br><br>――ほほお。大した腹の座り具合だ。<br>内務符大臣が視察に来たという場面に出くわし、<br>そのときにうそだか本当だか知らないが</p><p>豪快ないびきをかけるというのも、<br>やろうと思っても並みの肝っ玉の人間にできるものではない。<br>　<br>そういう相手の「呑み方」というのは、<br>年齢も目上目下も、社会的地位も、正一品の大臣も、</p><p>垢にまみれた車夫も関係なく、人間の本性である。<br><br>正面切って相手と気配を合わせた瞬間、<br>――負けた<br>と思えば、そいつは自分よりも</p><p>命が惜しくないやつだということになる。<br><br>こういう命知らずのやけっぱち野郎ほど怖いものはなく、<br>その前には富もこちらの社会的地位も何もかも通用しない。<br><br>そういう相手にまともに張り合うと、</p><p>最後はこちらがのっぴきならない恥ずかしい立場に追い込まれることは、<br>生き馬の目を抜く官界で長く泳ぎ渡ってきた英廉には、わかるのであった。<br><br>白髪の混じったひげの口元にかすかに笑みを漂わせると、<br>「よいわ。皆の者、ご苦労」<br>ときびすを返した。<br><br>「え?　英大人、しかし……」<br>英廉は手を振り、不服そうなねずみ男を連れて部屋を後にした。<br>呼吸がわからないねずみ男は、</p><p>身の程知らずにも、まだ正面から相手にしようとしている。<br>「申し訳ありません。大人。あやつはいつもあんな調子でございまして、<br>　もう主従共々、</p><p>　ふてぶてしくてかわいらしくないことそっくりで困っておるんです」<br>と後ろから恐縮して言った。<br><br>「ほおお」<br>英廉は供の者の控えの間を出てそのまま、</p><p>回廊をぶらぶらと歩き続けた。<br>ここの最初の院からは学生らの姿は見えなかったが、</p><p>遠くから聞こえる咆哮のような本読みの声は、一層割れるような大きさであった。<br><br>「今年の新入生はどうかね。見込みありそうな子はいるか」<br>春節明けに新しく十人ほど入学してきたはずである。<br>もう学校にも慣れた頃だろう。<br><br>「さすがに各校あまりにも出来の悪い子は送り込んできませんね。</p><p>　恥ずかしいですからね。」<br>とねずみ男は答えた。<br><br>咸安宮官学は、宗学、覚羅学、八旗官学、世職幼学、</p><p>景山官学などからの選抜学校であることを言っている。<br>　<br>二人はいつの間にか、最初の中庭を抜け、二つ目の院に入っていった。<br>少年たちの本読みの声は一層大きくなる。<br><br>中庭を囲んで配置された平屋には、それぞれ少年たちが授業を受けており、<br>回廊を歩きながら、外から教室の中がよく見えた。<br><br>「そういえば、英大人」<br>ある教室の前まで来たとき、ねずみ男が小声で英廉に耳打ちした。<br>「先ほどの太い車夫ですが、その主人に当たるのが、あそこの少年です。</p><p>これまた食えない奴でして」<br>とそっと目である少年を指した。<br><br>&nbsp;</p><p>英廉は案内の李峰がちらりと目配せする方を見た。<br>一目でどの少年かわかった。<br><br>大きな目に屈折した光をたたえた少年だった。<br>北方のツングース種らしく肌は抜けるように白かったが、<br>二重の大きな目がやや異民族との混血を思わせ、</p><p>きりりと太い印象的な眉毛がその上に居座る。<br><br>ツングース種の満州族は体毛が薄く、</p><p>ひげや眉毛もあるかなきかの如き薄さ、<br>胸毛もすね毛もつるつるなのが一般的だということは、</p><p>前にも述べた。<br><br>二重の大きな瞳といい、太いげじげじ眉毛といい、</p><p>旗人の中では珍しい特徴と言っていい。<br><br>－－モンゴル種でも入っておるかな。あるいは南方か。<br>英廉は人種的な由来に思いをはせた。<br><br>モンゴル人も同じシベリア系の人種ながら、<br>チンギス・ハーン以来の西方遠征のためか、</p><p>時に西アジアや欧州らしき人種の特徴が見られることがあった。<br>子供の頃に髪の毛が茶色かったり、顔の彫りが深い、</p><p>目の色が薄い、体毛が濃いなどの特徴が現れる。<br><br>満州族はこれに比べ、</p><p>伝統的に満州の地から激しい移動はなかったため、<br>めったにそのような混血的特長が出ることはない。<br><br>唯一あるとすれば、</p><p>清初から同盟を組んできたモンゴル人との混血である。<br>　<br>和珅が二重まぶたの美男子だったのは、どうやら本当のようである。<br>現在よく見かける和珅の肖像画は、</p><p>端正な整ったどんぐり目とすっと通った鼻筋が印象的である。<br><br>「あれが、先ほどの太いいびきをかいておった輩の主人でございます。<br>　正紅旗のニウフル氏、善保（シャンボー）と言うんですが、<br>　父親の常保は三等軽車尉の爵位を継いで</p><p>　福建副都統まで勤めておりましたが、数年前に他界しています。<br>　当校には弟も一緒です。」<br><br>和珅の少年時代の名前は、どうやら善保というらしい。<br><br>いつ名前を和珅に改名したかは定かではないが、</p><p>どうもこの後、急激な出世を遂げる前後のようだ。<br>　<br>ちらちらと自分を見ながらひそひそと話し込む</p><p>大人二人の視線に少年はどうやら気づいたようだ。<br>しばらくは、教師の後を他の少年らと復唱しつつ、</p><p>無表情に眺めていたが、<br>どうも自分のよからぬ噂をしていると感じたらしい。<br><br>かすかに口元がつりあがり、</p><p>あごを心持ち斜めに上げて挑むような視線を投げてよこした。<br>殺気のにおいは、かのいびきの男と同じ種類だ。<br><br>「ほらほら。こっちを睨んでますよ。」<br>子供をまともに相手するとは、</p><p>教育者のくせに困った奴だ、と英廉は苦笑した。<br><br>「これが喧嘩っ早いんで、手を焼いております。</p><p>　体は大してでかくもないんですが、<br>　すばしっこいのと、ひどく執念深く食い下がるんで、</p><p>　もうあちこちで学生を怪我させるんです。<br><br>　私のいうことなんか、いつも鼻でせせら笑って聞きやしない。</p><p>　とにかくかわいくない！」<br><br>ねずみ男は言っているうちに興奮してきた。<br>声がもはやひそひそ話の次元ではない。<br><br>幸い、少年らの元気な復唱の声が割れるように響く中誰も聞き取りはしなかったようだ。<br><br>&nbsp;</p><p>話しているうちに李峰は、さらに興奮してくる。<br>声がどんどん大きくなるこの部下をたしなめる間合いもないので、<br>せめて少年たちに聞こえないように、</p><p>と英廉は自分から足早に教室の前を離れた。<br><br>李峰は仕方なしにその後を慌てて追って離れる。<br>「あまりに周りと揉め事ばかり起こすんで、</p><p>　これは家長にいうべき問題だろう、</p><p>　と父兄に連絡を取ろうとしたんですが」<br>「ほお。それで、どうだった」<br><br>そこまでいうと、李峰はそのネズミ顔の</p><p>貧相な骨相をさらに俗にきらりと光らせた。<br><br>さっきの絶叫声はどこへやら、ひどく大げさに英廉の耳に口元を寄せて、<br>小声で気味の悪い生ぬるい息を英廉の耳に吹きかけて言った。<br><br>「それがですね。ここだけの話ですが、</p><p>　ひどく複雑な家庭だったんで、びっくりしましたよ」<br>その声音には、かすかに復讐を果たしたかの如き爽快感の響きがあった。<br><br>「道理でね。おかしいと思ったんですよ。<br>　仮にも爵位付きの家柄の嫡男ですよ。<br><br>　三等軽車尉は極上の爵位というわけではないですが、<br>　仮にも建国以来の『世襲罔替』でしょう。」<br><br><br>「罔替」は、世代が下がっても爵位が格下げにならない特権である。<br><br>一つの王朝が創設され、次第に年数を経ると際限なく皇族が増え続ける。<br>これに手当てを出し続けたために首が回らなくなるというのは、れまでの歴史で証明済みである。<br><br>そこで清朝は、爵位を次世代に譲るときに一つずつ格を下げて行き、<br>数代立てば爵位が消えてしまうような制度を作った。<br><br>皇帝の皇子は通常、親王に封じられるが、親王が亡くなれば、その後を継ぐ息子は群王に、<br>その息子は貝勒（ベイレ）に、その息子は貝子（ベイゼ）に、格下げになり、<br>そのたびに国家から支給される俸禄も減っていく仕組みである。<br><br>そんな制度の中で「世襲罔替」は、世代が下がっても格下げにならず、</p><p>遠に同じ格のまま世襲できる特権である。<br><br>つまり、和珅の先祖は建国時に「三等軽車尉」の爵位を授かってから、<br>すでに百年以上立っている今も、</p><p>同じ爵位を維持し続けているということである。　<br><br>――家柄や爵位に弱い輩の哀しさよ。<br>まくし立てたら止まらなくなっているこの貧相な五官の配置を、</p><p>英廉は自嘲と憐れみを持って眺めた。<br><br>李峰も英廉と同じ内務府の包衣（「ボーイ」）出身である。<br>漢族でありながら、支配階級である満州族に極めて近い</p><p>特権階級であるがために、<br>極端な優越感と劣等感の交差が激しい連中が多い。<br><br>純粋な漢族であれば、満州族とはどう逆立ちしても出自も違うため、<br>己と比べてひがんだり、羨ましがったりしても仕方がない。<br><br>逆に長城の外にいた野蛮人が自分たちの文化に染まってゆくわ、</p><p>と一種の優越感もある。<br><br>ところが包衣は、数百年も満州族の主人と同じ釜の飯を食ってきて、<br>代々満州語と中国語の両方を操り、普通の漢族よりも</p><p>特権的な階級に位置づけられているだけに、<br>満州人の家柄や爵位などに対して憧れや関心が異常に強い連中が多い。<br><br><br>それを同じ出身の英廉は、哀しく実感しているのであった。<br>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>「ムクンだってニウフル氏といえば、今上の皇太后陛下と同じ一族」<br><br>李峰の説明は続く。<br><br>ムクンは満州語で姓をいう。<br>どちらかといえば、満州の中の「部族」というニュアンスに近い。<br><br><br>始祖ヌルハチにより満州が統一されていく際、</p><p>満州族は部族ごとに征服されたり、投降した。<br><br>従って早くからアイシンギョロ家（皇帝の一族）</p><p>の同盟者になった部族は建国後も地位が高く、<br>最後まで抵抗した部族や遅い時期に降伏した部族は</p><p>冷遇されるという格付けがある。<br><br>和珅の姓（ムクン）はニウフル氏、乾隆帝の生母と同じ一族である。<br>つまりは優遇されている部族の部類に入る。<br><br>……このように漢語で話していても、</p><p>満州語の単語が入り交ざるのは、包衣社会の独自の言語と言っていいだろう。<br><br><br>「詳しいのお」<br>英廉が皮肉を込めて、ぽそりとつぶやいた。<br><br>「え。……そういうわけでは」<br>李峰も英廉が言わんとしていることに思い当たり、ぎくりとした表情だ。<br><br>本家の満州族に対する劣等感は、</p><p>包衣出身者が認めたくない部分だが、どうしても存在するものである。<br>漢族には威張るが、逆立ちしても満州族にはなれない。<br><br>相手が子供でも、爵位や家柄についつい関心が行くのだ。<br>「まあ、いくらもいない学生たちのことですから、</p><p>それぞれの子達の背景は、ある程度が知ってますよ」<br>と言い訳がましくいう。<br><br>「いえね。出身校だって、何しろ世襲幼学でしょう。」<br>李峰が「世襲幼学」という言葉を口にした時、声は裏返るわ、</p><p>つばは飛んでくるわ、で英廉は眉をしかめた。<br><br>確かに代々の爵位を持っているなら、</p><p>一般の八旗官学にはいかなかったのだろう。<br>それはただでさえ少ない八旗官学の枠を、</p><p>爵位のある家が伝手を通じて割り込むのを解決するためである。<br><br>しかしそれがネズミ男には、</p><p>高貴な世界への憧れに感じられるらしい。<br>「あそこから送り込まれてくる子供はもう、</p><p>出で立ちからして違うものなんですよ。お肌もつるつるだし」<br><br>－－世も末じゃ。<br>英廉は顔をしかめた。<br><br>質実剛健を誇る八旗子弟が「お肌もつるつる」だと？<br><br>「ついて来る家奴さえも、つるつる、ぴかぴか。<br>　ところが善保はですね。えらくみすぼらしい格好で来るので、</p><p>　びっくりしましたよ。<br><br>　それにあの劉全だって、大したもん着てませんでしたでしょう」<br><br>劉全がかの殺気の香ばしい好漢のことらしい。<br>そういわれて見れば、従者らの出で立ちには差があった。<br><br>そのへんの労働者のように汚らしい恰好の者もいれば、</p><p>こぎれいな出で立ちの者もいた。<br>－－そして劉全とやらは、確かに「水滸伝」から抜け出してきたような豪傑の気配があった。<br><br>その印象ももしや、</p><p>妙に「江湖（やくざ）」的な服装のせいだったかもしれぬ。<br>よれよれの木綿の服から汗の匂いを立ち上らせるような</p><p>精悍さをかもし出していたが、<br>ただ単に長く洗濯していない不潔さと言われれば、そうかもしれなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>「ですから、最初からおかしいと思ったんですよ。」<br>さも大事なことをいうように大げさに声を落として、</p><p>李峰が英廉の耳元につぶやいた。<br><br>「あの学校から来て、こんな子もいるんだ、と。<br>　あれじゃあ……うちの倅の方がよっぽどましな格好ですよ。<br>　けけけ」<br><br>ネズミ男は下卑た笑いを浮かべ、</p><p>元から細いきつね目がさらに細くなって一本線となって眼球を隠した。<br><br>「まあそんな具合なんで、子供は残酷ですからね。</p><p>　自分と異質な相手を攻撃するでしょう。<br>　特にあやつは鼻っ柱も強いし、凄みもあるんで、</p><p>　皆も敬遠するんですが、弟が一緒に入ってきてまして、</p><p>　こいつが弱っちい。<br>　で、いじめられると、今度はまあ、</p><p>　兄貴やさきほどのあの劉全まで躍り出てきてけんか沙汰ですよ」<br><br>「え。従者まで、学生を殴るのか。」<br>これにはさすがに英廉も驚いた。<br>従者がよその満州青年をけがさせれば、ただで済むはずがない。<br>「それがですね。」<br><br>ネズミ男の声が急に勢いをなくした。<br>「これが子供のくせにあやつらは主従二人して、ずるがしこいの何の。<br>　うまいこと巧妙に罰する隙を与えないんですよ。<br><br>　まずは、善保が弟がいじめられているところに割って入る。<br>　善保は自分から相手に殴りかかることはせず、</p><p>　相手を言葉で挑発してひどく憎たらしいことをいう。<br><br>　すると、相手が逆上して殴りかかってきて、</p><p>　それでケンカ沙汰になるんですね。<br>　もちろん、そのときは多勢に無勢、少年らが集団で二人を滅多打ちにし出す。<br><br>　中庭の方で騒ぎが大きくなってくると、劉全がそれをぴくりと聞きつけ、</p><p>　止める暇もなく、校内に乱入していく。<br>　劉全は家奴の身でよそのお坊ちゃんを殴るわけに行きませんから、<br>　そこは主人二人をかばうだけで、</p><p>　自分からは手を出さないわけですね。<br><br>　で、劉全が壁になってたり、かばっている間に、</p><p>　善保が相手を殴りに行く」<br><br><br>英廉は、思わず身を乗り出した。<br><br>「そこからがまた憎たらしい。私らが止めに入り、</p><p>　両者を引き離すでしょう。<br>　それでわけを聴きだすと、この善保の野郎がですね。<br><br>　まあ、ああいえばこういう。<br>　自分に非がないことを理路整然とまくし立てるんですね。<br>　<br>　まず自分から手を出さず、相手から始めたこと、</p><p>　劉全は一切攻撃を加えていないこと、<br>　そして太祖様や先人の合戦でのあれやこれやの先例を自分になぞらえ、</p><p>　自分を正当化してしまうんですよ。<br>　結局いつの間にか、こちらが煙に巻かれてしまう」<br><br>いつも煙に巻かれるほうの立場らしく、ネズミ男が顔をこわばらせた。<br><br>「あんな口から先に生まれたような野郎は、</p><p>　将来ろくな死に様は待ってませんよ。ええ」<br><br>そんな見事な弁舌、聞いてみたいものだ、と英廉は興味を覚えた。<br><br>&nbsp;</p><p>一通り善保（ジャンボー、のちの和珅、本名）の悪口をいうと、</p><p>ネズミ男の口調がやや変わった。<br>にやりと口の端を吊り上げ、またもや大仰に英廉の耳元に小声でささやいた。<br>「それが聞いてみると、やはり家庭に問題があったのですよ」<br><br>さっきまでさんざん大声でがなり散らしておいて</p><p>今更ひそひそ声になったところでどういう意味があるのか、<br>と英廉はまた一人苦笑した。<br><br>「実はですね。連中の騒ぎの起こしようがあまりにもひどいので、</p><p>　父兄に連絡したのですよ。<br>　いえ。<br><br>　元はといえば、あの二人が少年たちと問題を起こす原因だって、</p><p>　あまりにもみすぼらしい格好をするからですよ。<br>　仮にも爵位をもらった家柄の末裔なら、</p><p>　もう少し身なりに気を使ってほしい、とね。<br><br>　まあこれは余計なことですが、あの従者の劉全だって、</p><p>　控え室で浮いていますからね。<br>　皆さん天下の咸安宮官学にお坊ちゃんを通わせるには、<br>　家で一番敏捷で見栄えのする従僕を</p><p>　きらびやかに飾り立てて送り込むものでございますよ」<br><br>――ははあ、こいつは家庭の育ちがいいのだな。<br>ネズミ男の話を聞きながら、英廉は一人ごちた。<br><br>育ちがいいというのは、経済面ではない。<br>精神面、生い立ちの健全さを言っているのだ。<br><br>一般庶民の暮らしぶりでは、おっとおがいて、</p><p>おっかあがいて、おっかあが子供をぼこぼこ生む。<br>おっとおが稼いでくる給料で一家があっぷあっぷ言って</p><p>やっと暮らせる程度しかないので、<br>おっとおは外で女を作ろうにもそんなお金はどこにもない。<br><br>ただで抱けるおっかあが一番経済的だとばかりに</p><p>毎日帰ってきてはせっせとおっかあをかわいがる。<br>子供たちは両親の掛け合い漫才のような</p><p>牧歌的なけんかを子守唄にして育つ。<br><br>そういう育ちのよさを言っている。<br>　<br><br>英廉は自分の幼い頃を思い出した。<br>人間、中流以上になってくるとそれが怪しくなる。<br><br>特に旗人でそれなりの収入が入れば当然のように</p><p>第二夫人以下諸々の女性を娶る。<br>当時の習慣は妻妾同居だから、</p><p>家庭の中で複雑怪奇な権力闘争の図ができ上がる。<br><br>肝心の一家の主人は公務が忙しく、めったに家に寄り付かない。<br>時には地方に十年近くも飛ばされることもある。<br><br>家に残されるのは、女たちとそれぞれが生んだ子供たちだ。<br>正妻腹から生まれた嫡男と庶出は家の中で平等ではないし、</p><p>母親の寵愛の受け方でも暮らしぶりが変わってくる。<br><br>英廉自身も嫡出ではなく、</p><p>女中だった母に旦那のお手がついて生まれた口である。<br>幼年時代の思い出は決して甘美なものではない。<br><br>――今上陛下だって、そういう苦労をなされている。<br>英邁の誉れ高いお上（乾隆帝）も、</p><p>誰も口に出しては言わないが、決して順風満帆な生い立ちではない。<br><br>今の太后殿下は先帝の女中で容色も優れなかったため、</p><p>お手がつくこともなかった。<br>ある日先帝が伝染病にかかり、</p><p>誰も怖がって寄り付かないときに献身的に看病したから、<br>感激した先帝が一度だけお手をつけ、</p><p>そのために身ごもり生れ落ちたのが今上である。</p>
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<link>https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968020627.html</link>
<pubDate>Mon, 01 Jun 2026 21:53:39 +0900</pubDate>
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<title>９、和[王申]を婿に</title>
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<![CDATA[ <p>１２、和[王申]少年物語<br>　国家予算15年分を蓄財していたと言われる世紀の汚職王・和[王申]。その怪物の成立に至るまでの道のりを探る。</p><p>&nbsp;</p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968010164.html">１、生い立ち</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968012288.html">２、咸安宮官学へ</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968014183.html">３、和［王申］とモンゴルにまつわる徒然</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968015145.html">４、和［王申］とチベットにまつわる徒然</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968016431.html">５、満人と漢人の教育システム</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968016995.html">６、雍正帝の教育システム</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968017647.html">７、咸安宮官学の学校生活</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968017928.html">８、八旗社会の女性たち</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968018705.html">９、和[王申]を婿に</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968020627.html">１０、英廉との初対面</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968020921.html">１１、新疆の開拓</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968021219.html">１２、外祖父・嘉謨(ジヤーモー)</a></p><p>&nbsp;</p><p>満州女性の風習に話がそれたが、話を本題の和珅に戻す。<br>　<br>満州族を中心とする八旗社会のエリート校、</p><p>咸安宮官学で勉学に励む和珅、和琳兄弟であったが、<br>これをひそかに見守っている人物がいた。<br>　<br>内務府大臣の英廉（えいれん）である。<br>これまで見てきたように咸安宮官学は、</p><p>後にこそ満州族子弟のためのエリート校として発展したが、<br>発足当初は内務府「包衣」子弟しか対象としなかった。<br><br>「包衣」、満州語の「ボーイアハ」、家の奴僕を指す。<br>多くは遠い昔、満州族が北京入りする前、</p><p>満州の地で漢人の戦争捕虜や普通の農民を奴隷にした者たちである。<br><br>彼らはそのまま代々仕え、「内務府包衣」は、</p><p>その中でも皇帝一家に仕える人々をいう。<br>英廉自身も包衣出身であり、先祖は漢人、その末裔に当たる。<br><br>皇帝一家の生活こもごも、</p><p>暮らし向きに関するあらゆる雑用をこなす機関「内務府」は、<br>この代々の「内輪の人間」である包衣を中心に運営されていた。<br><br>内務府大臣は、必ず包衣出身者しかならないというわけでもない。<br>皇族、皇子（乾隆帝の息子も内務府大臣を務めている）、</p><p>寵臣（のちに和珅も内務府大臣になる）などが務めることもあるが、<br>無難な人材がいないときには、とりあえず包衣の中から選ぶことが多く、</p><p>英廉はそんな事情で内務府大臣を務めていた。<br><br>しかして咸安宮官学は、</p><p>最初包衣子弟のための学校とした発足されたという経緯のために、<br>最初から内務府の管轄下に入っていた。<br><br>その後、満州族や八旗全体に開放されてもその管轄は</p><p>そのまま内務府に属したままだったのである。<br><br>内務府大臣として、英廉は咸安宮官学によく顔を出した。<br>場所も近かったのである。<br><br>内務府の役所は、紫禁城の西華門の辺りに集中しており、</p><p>咸安宮官学もその界隈にある。<br>公務の合間に、視察と銘打ってはちょくちょくとのぞきに行った。　　　　<br><br>総責任者である大臣が、末端の一機関でしかない学校に</p><p>わざわざ熱心に視察を重ねる必要はどこにもなかったのだが、<br>これには下心があった。<br><br>－－適齢期にある孫娘、馮月謡（ふうげつよう）のために</p><p>婿がねを物色することだった。<br><br>当時の適齢期は十五歳から十七歳前後を言い、<br>咸安宮官学の学生は十一歳から二十歳過ぎの青年らを中心として</p><p>いたからちょうどおあつらえ向きだったのである。<br><br>野史（民間の伝説）によると、英廉は早くに息子夫婦をなくし、</p><p>孫娘が唯一の落とし胤だったという。<br>つまりは、この孫娘に婿をもらい、家を盛り立てて行ってもらわないと、</p><p>家系が途絶えるということである。<br><br>このためこの婿がね選びには、とりわけ気合いが入っていた。<br>咸安宮官学は八旗社会一番の名門校であり、人材としては申し分ない。<br><br>あまたいる学生の中でも、英廉が熱い視線を注いでいたのが、和珅だったらしい。<br><br>&nbsp;</p><p>英廉は、役得に乗じて孫娘の婿を咸安宮官学から選ぶことに決めていた。<br>そしてできるなら、満州八旗から選びたかった。<br>　<br>英廉は奴隷身分の「包位（ボウイ）」出身なので、</p><p>本来なら満州族とは身分違いである。<br>現に建国当時は満州族との通婚は許されていなかった。<br><br>ところが、包衣も八旗の一員として、</p><p>ごく少数の支配階級のはしくれに数えられるようになり、<br>皇帝のおそば近くにいるということで、</p><p>絶大な権力を持って栄華を極める名門家系も出てきた。<br><br>『紅楼夢』の作者、曹雪芹の家柄はその典型的な例と言える。<br><br><br>こうして建国から百年以上たっていたこの時期、</p><p>ぼつぼつと包衣と満州族の通婚は前例が出てきていた。<br>　<br><br>……が、例は多くない。<br>やはり包衣は包衣の家柄同士での通婚が圧倒的だった。<br><br>そんな中で、英廉は婿を<br>――どうしても、満州八旗から<br>とこだわったのである。<br><br>理由は、本人の地位の高さにあった。<br>英廉は、当世の包衣集団の中で一番の出世頭であったのだ。<br><br>内務府大臣といえば、これはもう堂々たる包衣集団のトップだ。<br>加えて戸部侍郎も兼任する。<br>今でいう大蔵省の二番手だ。<br><br>包衣集団からこの地位まで登り詰めた人間は、同時代にはいなかった。<br><br><br>――釣り合う家庭がないわい。<br>というのが理由である。<br><br><br>実は包衣出身者と満州八旗との通婚は、</p><p>包衣側が高い地位を極めて初めて可能となる。<br><br>前述の『紅楼夢』曹雪芹の家庭は、曹寅が康熙帝の乳兄弟なり、<br>皇帝家のもっとも信頼厚い人材のみが任せられる「江寧織造」を</p><p>三代に渡って務め上げた家庭である。<br>そのために曹寅の娘が皇族・平郡王の福晋（フジン＝夫人）として嫁いだ。<br>　<br><br>英廉は、自分にも満洲八旗本体との通婚の資格があると判断した。<br><br>しかしあまりにも名門よりは、将来性は高いが、</p><p>現時点であまり地位の高くない青年がいい。<br>鼻持ちならないところに嫁に行って、孫娘が苦労するのは、見るに忍びないからだ。<br>　<br><br>--和珅はその条件にぴったりだった。<br>　<br>学校で青年は目立っていた。<br>口を開ければ物が自然に口の中に運ばれ、</p><p>手を伸ばせは服を着せてくれるような甘ったれたぼんぼん育ちが多い中で、<br>和珅の目つきは確実に野性味があった。<br><br>――お。いい眼をしとる。<br><br>一目見ただけでも、荒んだ心の孤独を感じさせる</p><p>鋭い刃物のような内面が見て取れるような面構えだった。<br><br><br>そこでまずは身元調査にとりかかった。<br><br>手始めに学校の教官らに評判を聞いてみる。<br>教官は眉を顰めた。<br><br>あの触れただけで切れそうな視線から見て、<br>どうやら心服できない先生には、徹底的に反抗してるらしいことが感じ取れた。<br><br>優等生ではない。<br><br>――変わった輩でございます。</p><p>役にも立たないことばかりに抜きん出ておりまして。<br>と、教官は苦笑いする。<br><br>ほお・・。<br>英廉は身を乗り出した。<br><br><br>――蔵語にかけては、かの者の右に出る者はおりません。<br>　それから、筆跡が今上に瓜二つでございまして。<br>　これは確かに見事でございます。<br><br>英廉はうなった。<br>蔵語はチベット語である。<br>確かに出世登用の試験にはない科目だ。<br><br>現皇帝である乾隆帝の筆跡の真似など、もちろん試験科目にあるわけはない。<br><br><br>――ううむ。なかなか変わっとるわ。<br><br><br>&nbsp;</p><p>咸安宮官学の中から、英廉は和珅を孫娘の婿候補として選んだ。<br><br>学校の教官陣は、和珅少年を変わったことに秀でている変人、と評価した。<br><br>チベット語、現皇帝である乾隆帝の筆跡の真似が得意だというのだ。<br>聞いた英廉は苦笑いした。<br><br>どちらも科挙にはまったく役にたたない。<br><br>斜に構えて世の中を薄笑いを浮かべて見ているような</p><p>あの黒目勝ちな目を思い浮かべると、<br>――やりそうなこった<br>と、納得がいった。<br><br>　<br>しかし八旗に所属する満州族を中心とする旗人の出世は、科挙が中心ではなく、<br>家柄、爵位、先祖の功績、武芸などが、より重視される。<br><br>科挙は、一般人（民人）と旗人枠が別に設けられ、試験も採用基準も違う上、<br>旗人枠は通常の科挙のように三年に一度きっちり開かれるわけではない。<br><br>たまになくなったり、また再開されたりしてあまりまじめに執り行われない。<br>――文弱な漢文化のまねをして、</p><p>若者が机にかじりついて勉強ばかりしていれば、国の屋台骨に関わる。<br>という満州人の危機感から来ているのだ。<br><br>　<br>それでも時代が進み、旗人社会が次第に漢人の価値観に染まっていくに従い、</p><p>科挙の価値も上がっていった。<br>　<br>和珅の青年時代の乾隆末期には、</p><p>すでに満州人社会でも科挙出身者であることが、</p><p>重要な意味を持つようになってきていた。<br>　<br>ところが、和珅はその科挙の受験科目である四書五経には</p><p>どうも抜群の成績というほどでもないらしい。<br>――四書五経の成績も悪くはないですが、</p><p>今度の科挙に確実合格となる優秀な学生が、ほかにいますよ。<br>教官はそういって身を乗り出した。<br><br>――なんだって、よりによってああいうひねくれたもんを気に入るかなあ。<br>と明らかにいぶかしんでいる風だった。<br><br>教官にとって、自分の教え子の中から</p><p>科挙合格者や将来出世する人材を出すことは、教官の業績にもつながる。<br>教官の任期は三年。<br>その間にどれだけ優秀な学生を官界に送り出したかにより、</p><p>次の転属先が決まるのだ。<br><br>――こやつは、わかっとらん。<br><br>生き馬の目を抜く官界を泳ぎきって、初老の年になった英廉の経験からすると、<br>科挙合格はそこまで重視しなくてもよいものだった。<br><br>漢人にとっての科挙は、中央に身を置くための資格の一つとして、</p><p>これに合格しなければ始まらない。<br>数億人の人口の中から、まずは皇帝や中枢機構の政治家の目に</p><p>とまるくらい近くまで来るためには、科挙に及第するしかないのだ。<br><br>そこから初めてそれ以外のスキルを発揮する資格を得る。<br>人間的な魅力、事務能力、責任感、モラル、勇気、忍耐力、<br>そういったすべてのスキルは、</p><p>科挙に及第しなければまったく使うチャンスさえもできない。<br>　<br>だからこそ、漢人社会で科挙は重要だ。<br>　<br><br>ところが満州人社会では、そうではない。<br><br>首都生まれで曲がりなりにも三等軽車尉という</p><p>爵位を持つ家系に生まれている和珅は、<br>すでにかなり権力の中枢に近い。<br><br>重要なのは、科挙に受かる能力ではなく、人間的魅力とそれ以外の能力だ。<br><br>&nbsp;</p><p>咸安宮官学の教官が、科挙受験科目の成績のいい</p><p>学生ばかりを推薦するのを英廉は、うんざりしながら聞いていた。<br><br>――　思考回路が完全に漢化しとるわ。<br><br>英廉は自分も元々は漢人だが、</p><p>八旗の一員であることに誇りを持っていた。<br>それは旗人であることが特権であり、権力への切符でもあるからだ。<br><br><br>科挙はあくまでも権力に近づくための手段でしかなく、</p><p>最初から権力に近い旗人にとっては決定的要素ではない。<br><br>――　さてさて。あの攻撃的な目線の意味を探らねばの。<br><br>孫娘を託す青年には、へなちょこの根性のない男はだめだというのが、</p><p>英廉の強い希望であった。<br>しかし家柄のいい家庭出身の婿を選びたいと思えば、<br>ほとんどがなよなよとした甘えん坊の坊ちゃん育ちばかりで、</p><p>どうにも情けない青年しかいなくて往生していた。<br><br>――　八旗もこれじゃあ、先が思いやられるわ。</p><p>お上が嘆かれるのもわかるわい。<br><br><br>乾隆帝は八旗が軟弱化したのを大いに嘆いていた。<br>そのためにも承徳での夏の巻き狩りはほとんど毎年欠かすことなく、<br>自らも馬にまたがり、弓を引いて猛々しく狩りを指揮しているのである。<br><br><br>英廉もいざ自分の婿を探すとなると、</p><p>本当にまともな青年がいないことを改めて知った。<br>思いあぐねている目の前に現れた和珅の剽悍な鋭い視線は、</p><p>英廉をどきりとさせた。<br><br>――　おお。おったわい。<br><br>はっきり言って一目惚れである。<br>おっさんが青年に一目惚れした。<br><br>もちろん性的な意味ではなく、孫の婿がねとしてである。<br>それでも一目惚れというのはある。<br>　<br>しかしその視線の意味を探らねばならない。<br>何か強く訴えかけるような目には、世の中への怒りがこもっている。<br><br>その怒りは何に対してなのか。<br><br>それは将来自分と接することによっていい方向に</p><p>矯正していける種類のものなのか、<br>ただ単にどうしようもない危ない奴で箸にも棒にもひっかからないのか。<br>　<br>英廉は息子をなくした心の空虚もあったし、<br>二十代から三十代にかけての働き盛りの頃は、</p><p>仕事にかけずりまわっていて子育ては家庭教師と妻にまかせっきりで、<br>半年に一度も会えないこともよくあった。<br><br>安定した地位まで登りつめ、人生も一段落した今、<br>初めて手塩にかけて誰かを育ててみたいと強く思うようになっていた。<br>　<br>これまでも孫娘の月搖は、そういう気持ちで育ててきた。<br>自ら四書五経の類も厳しく仕込んで、</p><p>自分の子供よりもよほど多くの時間を共に過ごしてきた。<br><br>しかし何分、女である。<br><br>どれだけ優れた女性に仕上げようとも、</p><p>所詮は国家の大事を背負うような活躍の場は与えられない。<br>やはり将来有望な男を育ててみたい。<br>　<br><br>英廉は、最初から肌に肌をぶつけて取っ組み合える</p><p>濃厚な人間関係を持てる相手を選ぼうとやる気まんまんだった。<br><br>それには、選び出した青年の方が最初からあまりしがらみを抱えているようでは、かなわない。<br><br>青年の家や両親が強くその将来や生活に</p><p>干渉してくるような家庭環境にあるなら、<br>自分の家族に愛情を注ぐのが精一杯で、</p><p>こちらまで気持ちを注ぐ余裕はないだろう。<br><br>愛情も精神も満たされていれば、自分の愛情だって必要とはしない上、逆に煩わしく思われるのがおちである。<br><br>&nbsp;</p><p>祖父が自分の婿を探していることなど露知らず、</p><p>馮月瑶（ふうげつよう）は天真爛漫な日々を送っていた。<br><br>年は和珅より一つ年下の十六歳。<br>当時は数え年が一般的だったので、十七歳。<br>－－立派な適齢期である。<br><br>しかし母親が早くに亡くなり、</p><p>結婚のことを日々口にしてはその覚悟を決めさせる大人がいなかった。<br>周りの少女たちにそろそろ縁談の話が来ていても、</p><p>自分は蚊帳の外だと思っているところがあった。<br><br>祖父の英廉は、むやみやたらにあちこちの縁談話を月瑶に聞かせたりはしない。<br>これは、と思う人物を見極めるまで</p><p>じっと何も口にしないだけなのだったが、<br>そんな祖父の胸の内を少女は知る由もなかった。<br><br>月瑶には、祖父しか肉親がいなかった。<br>使用人はおれども、家族と言える存在は祖父のみだ。<br><br>祖母の思い出もおぼろげにあったが、</p><p>肉親としての情が湧く前に亡くなってしまった。<br>月謡が覚えている祖母は、毎朝のご機嫌伺いに部屋を訪れるとき、<br>厳つい肩を反らせて、黒光りした椅子に腰掛けている姿だった。<br><br>血は漢族とはいえ、</p><p>何世代も関外（万里の長城の北）で暮らすうちに、<br>包衣も北方の異民族諸部族と同じように骨太のがっちりした体格になっていた。<br><br><br>包衣は包衣同士の結婚が一般的なため、</p><p>祖母も包衣家庭の出身だった。<br>体は右側にある机に気持ち傾けられ、</p><p>五彩の蓋と受け皿のついた湯飲みを両手で持ち上げていた。<br><br>両手の小指と薬指には長い爪を保護するための爪覆いをはめている。<br>祖母の指は、その太い骨組みと同様に節くれだち、女性的ではなかったが、<br>鼻にかかった息とも声ともつかない声音を思わせるような微妙な曲線と細さを描いた爪覆いが、<br>見事にその無骨な印象を隠していた。<br><br>その上、手に持つ五彩の湯のみに描かれた花草は</p><p>細い線の黒い縁取りで囲まれた細さが白い地肌に浮き上がり、<br>さらに指の動きを繊細に見せた。<br><br>　<br>月謡は、角度が変わるたびに透き通った琺瑯質の青や緑の唐草模様が、<br>光を反射させて揺らめくのを目で追い、</p><p>その威圧的で優雅な指の動きに見入っていた。<br><br>祖母は左手で受け皿を持ち、右手で蓋をわずかにずらせて、</p><p>湯のみをそっと口につけた。<br>両手からは四本の細長いかすかに曲がった指が反りあがって宙に突き出、</p><p>冬野にそよぐ枯れ枝のような影を形作っていた。<br>　<br><br>大人の女になるとは、こういうことなのか―――。<br><br>月謡は祖母がやんわりとした口調で</p><p>問いかける勉学の進み具合に関する質問も、<br>ほとんど心に留めることなく、</p><p>ただひたすらその青い光の揺らめきばかりを目で追ったものだった。<br><br>まだ十六歳の月瑶には、</p><p>そんなけだるい退廃的な成熟した女性の放つ優雅さはなかった。<br><br>北国の良家の令嬢のまっすぐさと健全さが感じられる少女だ。<br><br>&nbsp;</p><p>嫁入り前の娘の日常は、ほとんどを侍女と過ごす日々であった。<br><br>女親がいない月瑶（げつよう、ユエヤオ）にとっては、特にそうであった。<br><br>祖母も母も早くに亡くなっている。<br><br>祖母が亡くなった時、すでに老年に達していた祖父の英廉は、<br>女の機嫌を取ることも面倒がり、後添えや妾も取らなかった。<br><br>女中頭のような年増がいるが、</p><p>小姐（シャオジエ＝お嬢様）の月瑶には</p><p>遠慮があって日常生活を管理するほどまでには至っていなかった。<br><br><br>この数年、月瑶付きになっている侍女の中でも、</p><p>一番の仲良しは麗梅（リーメイ）だった。<br><br>麗梅は元来、江南の中流家庭の出だったが、<br>父親が一族の刑事事件に連座したために身売りしたのが、</p><p>わずか二年ほど前のことである。<br><br>この時代、名のある名家が親族の各種災難に</p><p>連座してあっという間に財産没収、一家離散、身売り<br>……という天変地異となることは、どこにでも普通に転がっていた話で、<br>彼女の身の上もそれほど珍しいものでもなかった。<br><br>しっかりとした教養も身につけている麗梅を、</p><p>英廉が孫娘の陪読（ペイドゥー＝勉強相手）として買い取って来たのである。<br>それ以来二人は主従関係ではあるが、姉妹のように寝食を共にしてきた。<br><br>二人は家庭教師からの授業も一緒に受け、</p><p>午後のけだるい陽だまりの中を共に刺繍を刺して過ごした。<br><br><br>そんな生活の中でただ一つだけ、麗梅が嫌がることがあった。<br><br>それは旗人女性の風俗である「街歩き」である。<br><br>漢族の良家の女性は、中年を過ぎるまで公衆の面前に</p><p>姿をさらすことはしないことは以前にも触れたとおりである。<br><br>嫁入り前の娘は、<br>――大門不出<br>家の門でさえ外に跨がないのが良家の証であったし、<br>その後も実家に帰ったり、親戚の家を訪ねるにも</p><p>籠や驢馬車の奥深くに入り込み、公衆に姿をさらすことは決してない。<br><br>街で見かけるのは、華も艶も枯れ果てた中年も終わりの、</p><p>しかも下層階級の女性たちばかりである。<br><br><br><br>この両者の間、行政区分的には「旗人」と「民人」（漢族）</p><p>という区別があるとはいえ、<br>人種的にはっきりと違いがあるかといえば、そうでもない。<br><br>満州族はツングース系のため、</p><p>頬骨が高く一重まぶたで額が突き出ている、と言った特徴はある。<br><br>そのため現代の北京でも、</p><p>祖父母の代に数分の一満州族の血が混じっていると告白してくれた中国の人が、<br>確かに明らかにツングース的肉体特徴を備えていることはある。<br><br>しかし旗人の中には月瑶のように馮(フォン)という純粋な漢姓を</p><p>維持したままの漢人（この場合は包衣という身分枠で）もいれば、<br>そのほかにも、多くの漢族の血も混じっている。<br><br>たとえば、最後の皇帝溥儀やその弟の溥傑の実の祖母は正妻ではなく、<br>漢族の妾だったことなど、</p><p>そういう例は日常的にどこにでも転がっていた話であった。<br><br>正妻には満州族女性を娶るが、</p><p>その妻に嫡子が生まれない場合は、漢族の妾が産んだハーフが当主となる。<br><br>数世代に渡り、そのような混血が繰り返されていくうちに、<br>もはや血統的な純粋が、</p><p>「旗人」と「民人」（漢人）の区別の根拠とはなりにくくなっていた。<br><br><br>－－それなら麗梅が、</p><p>旗装（チージュワン＝旗人の服装）で街に出れば</p><p>別に誰もわかりはしないではないか、<br>と思うかもしれないが、そうはいかない。<br><br>麗梅は江南の良家の子女らしく、</p><p>みごとな纏足に仕上がっていたため、歩き方で一目でばれてしまう。<br><br>&nbsp;</p><p>旗装は纏足女性には無理である。<br><br>清朝建国当時、満州族が漢族に対して、<br>男性には全員辮髪と旗装を強要したことは、有名な話だ。<br><br>しかし女性に対しては一切制約がなく、</p><p>伝統的な漢族の風俗をそのまま続けることが許されたのである。<br><br><br>ところが時代が下るにつれ、</p><p>いかんせん支配者階級の裕福な階層のやることは、</p><p>下々の者にも伝染しやすい。<br><br>漢族女性の伝統的な服装はスカートだが、<br>満州族の多い首都の女性は次第にズボンをはくようになる。<br><br>また漢族文化の正統を受け継ぐと自負する江南でも、<br>いわゆるチャイナボタンやたて襟をデザインとして採用するようになり</p><p>（和服のようにボタンなしで帯で固定する方法ではなく）<br>次第に両者の境界線が、まだらになってくる。<br><br><br>それでも纏足には、</p><p>足元がゆったりとした服装が圧倒的によく似合う。<br><br>このため江南女性の服装には、</p><p>首から肩元をなで肩が生えるようにすっきりと見せ、<br>纏足の足元は、地面に触れるくらいの長く、</p><p>たっぷりとボリュームのあるスカートが最も喜ばれた。<br><br>旗装の場合は、形状としては現在いわゆる</p><p>「チャイナドレス」と言われているワンピース型だが<br>もう少し腰周りをゆったりとさせ、</p><p>あまりはっきり体のラインを見せないのが特徴だ。<br><br>その下にズボンをはいて、</p><p>木で高くしたぽっくりのような靴をはき、</p><p>ぽっくりぽっくり、ころんころんと歩く。<br><br><br>これに対して纏足は。<br><br>前述のとおり、纏足女性は歩き方で一目で判別がつく。<br>夜中に遠目に影が揺れたって、そうだとすぐにわかる。<br><br>足の指を内側に折り曲げた極限の不均衡状態にあるため、<br>必ず足を逆「ハ」の字に開きながら進まないと、</p><p>均衡を崩して倒れる。<br><br>足先が真っ直ぐ前に向くことは有り得ず、</p><p>常に斜め四十五度外に開ける。<br>歩幅も胸より先を越えると、これまた均衡を崩して倒れるため、</p><p>自分の足幅程度にしかよちよちと進めない。<br><br>膝を曲げて後ろ足で地面を蹴れば、勢いで倒れるので、</p><p>太ももの付け根から直接足を持ち上げ、いっそのこと、膝も曲げない。<br><br>すると、足を下ろした瞬間にお尻が上下する。<br>小刻みにお尻を左右に振りながら進む様子は、</p><p>確かにあたかも踊りの振り付けのようでもある。<br><br><br>――これでは、殿方に襲ってください、って言ってるようなものだわ。<br><br>初めて麗梅の動作を見たとき、</p><p>あまりのくねくねとした悩ましげな姿態に、<br>月謡は子供心につくづくと納得したものだった。<br><br>馮家に来たとき、麗梅の足はすでに見事な纏足に仕上がっていた。<br><br><br>－－月謡が初めて見る纏足だった。<br>　<br>旗人は旗人同士の付き合いしかない。<br>男性は外の社会でさまざまな社交があるが、</p><p>女性同士はどうしても親戚づきあいが中心となる。<br><br>馮家も婚姻関係はほとんど旗人同士、包衣同士だった。<br>例え妾分に漢人がいたとしても、</p><p>その家族が堂々たる親戚として正門をくぐって尋ねて来て家族に紹介されることは決してなかった。<br><br>英廉自身にも漢人女性の妾もいない。<br><br>英廉の夫人ももう今は亡く、嫁も亡く、<br>女主人のいない馮家で、</p><p>月謡はめったに女性同士の親戚づきあいもなく育ったのだった。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>嫁入り前の馮月瑶の日々は、侍女の麗梅との日々で過ぎていった。<br>家庭教師から授業を受けるほか、普段は二人で部屋で刺繍をしたり、</p><p>おしゃべりをしながら過ごす。<br><br>季節はそろそろ冬になろうとしていた。<br>寒さが増し、炕(かん、オンドル)に火が入り、<br>食卓に初めての「酸菜（スアンツアイ、白菜の漬物）と白肉(バイロウ)、</p><p>春雨の煮物が上がった。<br><br>「今年は師傅(シーフ)が変わったら、</p><p>　ひどく美味になったと皆が申しておりましたり」<br>先ほど厨房で少しいただきました、と麗梅が物珍しげに言った。<br><br>江南出身の麗梅も北国の風物を楽しんでいる。<br>－－もう酸菜が出る季節になってしまった……。<br><br>月謡はここしばらく放心して過ごした</p><p>自分の日々を振り返らずにはいられなかった。<br><br>　<br>馮家は内務府所属とはいえ、さすがに満州族ではないので、<br>家で「薩満跳神(サーマンティアオシェン)」を頼み、</p><p>豚肉の水煮を備えることはしない。<br><br>「薩満」(サーマン)は、「シャーマン」の語源。<br>北アジアツングース系民族に共通する巫女である。<br><br>「跳神」(ティアオシェン)は、</p><p>薩満(サーマン)が神がかりな恍惚状態となり精霊を乗り移らせる儀式だが、<br>跳んだりはねたりトランス状態となって</p><p>時には痙攣して口から泡を吹かして失神したりもする。<br><br>儀式のお供え物は、豚肉だ。<br><br>満州族が広大な北方の森林地帯で生活していた頃、<br>満州の地では豚が家畜として主力をなしていたため、<br>供え物には大鍋のぐらぐらと煮えたぎる湯の中で豚肉の塊を煮る。<br><br>祭事が終わると、この「白肉」(バイロウ)は料理に利用され、<br>鍋物に入れたり、にんにくやごま油とあえ物にしたりする。<br><br>満州族の大家では儀式が頻繁にあり、</p><p>白肉が大量に出るため、誰もが食べ飽きていた。<br>見るのもいやになり、外に売るくらいである。<br>　<br><br>馮家の食卓にも白肉が入った料理が出るが、</p><p>これは祭事肉ではなく、<br>すでに北京の風土料理と化した</p><p>「酸菜白肉」(スアンツアイ・バイロウ)の具として登場したのである。<br><br>「酸っぱさの中にも、こくがあると思いません？　</p><p>　作り方は同じなのに、不思議ですわね」<br>麗梅が土鍋から茶碗に取り分けた。<br><br>鼻をかすかに刺激する酸味がかった匂いが蒸気とともに漂ってきた。<br>冬の到来を実感する瞬間である。<br>　<br>酸菜は、外の水瓶に張る氷が、</p><p>斧でもかち割れないほどしっかり凍る寒さになってから初めて漬ける。<br>低温でじっくり発酵させた方がうまみが増すからだ。<br><br>極寒の冬が数ヶ月も続く京師(北京）では、</p><p>野菜と言えばひたすら白菜である。<br>馮家の厨房裏にも半地下に掘った野菜貯蔵庫がある。<br><br>白菜や大根、にんじん、じゃがいもなどの根菜類を</p><p>冬口に大量に買い込み、<br>この地下室に保存し、入り口は扉に厳重に綿入りの門簾をかけ、</p><p>外気を遮断する。<br><br>門簾というが、平たく言えばふとんである。<br>入り口にふとんをかけて保温しないと、中まで凍ってしまうのだ。<br><br>垂れた鼻水がそのままつららになるような極寒でも、地下室はじっとりと暖かい。<br>程よい湿気があるため、葱だって表面の皮をむく必要がないほどだ。<br><br>冬、野菜の種類はどうしても単調になりがちだが、</p><p>それを紛らせてくれるのが酸菜でもあった。<br><br>&nbsp;</p><p>侍女の麗梅(リーメイ)は、</p><p>厨房で仕入れた使用人たちの噂話をひっきりなしにまくし立てていた。<br>しかし月瑶は上の空でそれを受け流し、</p><p>まだ酸味が強くない中途半端な刺激の</p><p>酸菜湯（スアンツアイタン＝白菜の漬物スープ）を<br>機械的に杓子（シャオズ＝スプーン）で口に運んでいた。<br>　<br>脳裏を往来していたのは、数日前に祖父の英廉が言い出したことだ。<br>朝、請安（チンアン＝ご機嫌伺い）に祖父を訪ね、</p><p>そのまま堂でお茶をいただいていたときだった。<br><br>「月月(ユエユエ)」<br>英廉は孫娘の幼名を呼んだ。<br>大きく息をして湯のみのふたを閉じ、横の卓上に置く。<br><br>月謡が相槌を打つ代わりに口元にわずかに匂う</p><p>寸前の好意を漂わせて少し首をかしげた。<br>「どこに出しても恥ずかしくない娘になったのお……」<br><br>英廉は孫娘の横顔を両手で真綿を包み込むような暖かさで見つめた。<br>目尻のしわに流れ込むのは、</p><p>薄氷を踏むが如き長い官僚人生で築き上げてきた</p><p>容易ならぬ日々への感慨であったかもしれない。<br><br>「この春節でいくつになる」<br>この時代の年の数え方では、誕生日の遅い早いに関わらず、</p><p>春節（新年）に一斉に一歳年をとる。<br>個別に誕生日を祝うこともあるが、春節を区切りとするのが基本である。<br><br>「十五になります……」<br>月謡は小声で答えると、うつむいた。<br>年頃の娘にとって家長から年齢を問われることが何を意味するか、</p><p>予感のようなものは感じられる。<br><br>「月月。外八旗（ワイパーチー）に嫁に行くのは嫌か」<br>祖父の唐突な質問に、月謡ははっと顔を上げた。</p><p>見る見るうちに眉根を寄せ、眼が潤む。<br><br>「爺爺(イエイエ)。もしや、月月にもうお婿様を決めてしまったのですか」<br>若い娘にとっては生涯がかかっている。<br><br>――まさか……何の前触れもなしに……。<br><br>自分の意志で相手が選べるとは思っていないが、<br>これまでこんなに自分を愛しんできた祖父ではないか。<br><br>両親との死別以来、肩を寄せ合うようにして暮らして来たのに、<br>結婚のこととなれば世間一般の親のように</p><p>娘に意志に関係なく勝手に決めてしまったのだろうか。<br><br>「そうではない。<br>　ただ内務三旗ではなく外八旗にもし家柄のいい前途も</p><p>　有望な良い青年がおれば、ぴったりと思ったまでじゃ」<br><br>孫娘は黙って首を垂れている。<br>うなじに垂直になったまとめ髪の燕尾(イエンウェイ)がかすかに震える。<br>　<br>英廉がいうのは、本来は包衣家系という奴隷階級の出身である家系は、<br>同じ家柄の包衣同士で通婚するのが慣わしであったが、<br>そうではなくて、いわば格上に当たる普通の八旗の家柄に</p><p>嫁に行くのはいやか、と聞いたのである。<br><br>「うちは今、微妙な立場にある。<br>　爺爺は、内務府三旗の中では高位まで登りつめた。<br>　<br>　そなたの相手に門当戸対(メンダンフートイ、家柄が釣り合う)な</p><p>　相手を探すと言っても、<br>　三旗には釣り合う家柄が少ない。<br>　<br>　のう。そうではないか。」<br><br>月謡にとっても、それは日頃から考えていることでもあった。<br>　　</p>
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<link>https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968018705.html</link>
<pubDate>Mon, 01 Jun 2026 21:34:50 +0900</pubDate>
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<title>８、八旗社会の女性たち</title>
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<![CDATA[ <p>１２、和[王申]少年物語<br>　国家予算15年分を蓄財していたと言われる世紀の汚職王・和[王申]。その怪物の成立に至るまでの道のりを探る。</p><p>&nbsp;</p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968010164.html">１、生い立ち</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968012288.html">２、咸安宮官学へ</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968014183.html">３、和［王申］とモンゴルにまつわる徒然</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968015145.html">４、和［王申］とチベットにまつわる徒然</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968016431.html">５、満人と漢人の教育システム</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968016995.html">６、雍正帝の教育システム</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968017647.html">７、咸安宮官学の学校生活</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968017928.html">８、八旗社会の女性たち</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968018705.html">９、和[王申]を婿に</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968020627.html">１０、英廉との初対面</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968020921.html">１１、新疆の開拓</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968021219.html">１２、外祖父・嘉謨(ジヤーモー)</a></p><p>&nbsp;</p><p>清朝の支配層の中核をなすのは「八旗」である。<br><br>満州族だけなのかといえば、そうではなく、<br>「満州八旗」以外にも「蒙古八旗」と「漢軍八旗」、さらに「包衣」がいる。<br><br>「蒙古八旗」はモンゴル人、「漢軍八旗」と「包衣」は漢族を中心とするが、<br>満州族の中に混じって生活しているうちに、</p><p>モンゴル人はモンゴル語がだいぶ怪しくなり、</p><p>漢人も多くの風俗が「満化」する。<br>　<br><br>一方、満州族も「漢化」が進み、互いに文化が融合し、</p><p>歩み寄りあい、独自の「八旗文化」が生まれるわけである。<br>　<br>女性の風俗で言えば、その大きな特徴が纏足をしないことだと言われるが、<br>そのほかにも女性たちの外出の頻繁さが挙げられる。<br><br>漢族の女性は、中年を過ぎるまで公衆の面前に姿をさらすことはしない。<br><br>嫁入り前の娘は<br>――「大門不出」<br>家の門でさえ外に跨がないのが良家の証であったし、</p><p>その後も実家に帰ったり、<br>親戚の家を訪ねるにも籠や驢馬車の奥深くに入り込み、</p><p>公衆に姿をさらすことは決してない。<br><br>街で見かけるのは、華も艶も枯れ果てた中年も終わりの女性ばかりである。<br>　<br><br>ところが、満州族を中心とした旗人女性は違う。<br>纏足もしなければ、人目を避けることもない。<br><br>思うままに芝居見物にもいけば、年頃の男女入り混じって茶館に座り込み、</p><p>笑いさざめく。<br><br>外地から京師に来た人の目にはあまりにも物珍しい。<br><br>――鶏不鳴、狗不叫、十八歳的大姑娘満街跑<br>鶏鳴かず、犬吼えず（という世にも珍しい現象が起きよう）とも、</p><p>十八歳の年頃娘、街中を走り回る。<br><br>これが「首都名物」であったという。<br><br><br>元々、少ない人口で中国全土を征服した満州族は、</p><p>「全民一丸」戦闘体制である。<br>初期の戦争には、女たちが飯炊きや洗濯に鎧兜の繕い物のために同行し、<br>男たちとともに槍鉄砲を避けながら、</p><p>泥や汗にまみれて一丸となって戦った。<br><br>その遺風が顕著な京師では、</p><p>旗人女性は、一般漢人女性よりはるかに自由である。<br><br>特に未婚女性は、<br>――姑[女乃] [女乃]<br>と尊称され、それはもう好き勝手して過ごす。<br><br>京師城南部一帯の茶楼、酒館（居酒屋）、戯院（劇場）に好きに出入りし、</p><p>男女入り混じって雑座するという、<br>伝統的な漢文化から考えると、</p><p>卒倒しそうなほど破廉恥かつ野蛮な風景が普通に散見できた。<br><br>それが場末の女性だけかと言えば、<br>むしろ反対でたっぷりとお小遣いをもらっている</p><p>良家の令嬢ほど派手に遊んだというのだから、<br>伝統的な儒教文化の薫陶を受けた士大夫らから見たら、</p><p>苦々しい限りであったろう。<br><br><br>&nbsp;</p><p>奔放な旗人女性の風習は清末まで続き、</p><p>清朝が倒れ再び政権が漢人の手に戻ったとき、<br>この遺風の始末には手を焼いたらしい。<br><br>辛亥革命後の民国政府は、</p><p>茶棚（喫茶店）で男女の席を分けるよう告示を出したと言われる。<br>ところが昨日までの習慣をなかなか変えれるわけもなく、</p><p>なかなか浸透しなかったという（笑）。<br><br>清朝時代の首都では、圧倒的に旗人（八旗に属する人々）の人口が多く、</p><p>漢族とは違う独自の風俗をもっていた。<br>その一つが、女性たちの好き勝手な外出である。<br><br>辛亥革命で清朝が滅んでも</p><p>その漢族から見ると「野蛮」な風俗は直らず、</p><p>警察は取り締まりに苦労した。<br><br>　　隔座嬌音喚喫茶　分かれて座り、嬌声を上げてお茶を頼めば、<br>　　渇猶未解眼先花　のどの渇きも癒さぬうちに視線が飛び交う。<br><br>　　而今事事皆皮相　今ではすべてが薄皮一枚の表面でしかない<br>　　第一須生好脳瓜　まずは頭が良くないと連中は出し抜けない。<br><br>　　警察巡羅也太勤　警察の見回りもあまりに真面目じゃないか。<br>　　茶棚男女座須分　おかげで茶棚の男女も分かれて座らないといけない羽目になった。<br><br>　　目中各有陰陽電　目には互いに陰陽（男と女）の電気が走り、<br>　　空向晴天激雨雲　空回りして熱を放ち、晴れ渡った空に雨を呼んでも知らないぞ。　<br><br>とざれ歌がはやる始末。<br><br>「警察だ！　それっっ」<br>と慌てて男女別に座る風景に目に浮かぶ。<br><br>この北京の女性の「奇習」については、魯迅もいぶかり、<br>「北京は婦女をあまり制限しないらしい。</p><p>　好きに外を歩いていて、恥知らずな土地柄だ。<br>　……こういう風習は、満州族が持ち込んだものだろうか」<br><br>とあきれている。<br><br>魯迅の故郷である紹興は、</p><p>漢文化の正統を自負する円熟した江南の地である。<br>　<br><br>漢族女性はこの時代、良家の子女は纏足である。<br><br>纏足女性は歩き方で、一目で判別がつく。<br>夜中に遠目に影が揺れたって、そうだとすぐにわかる。<br><br>足の指を内側に折り曲げた極限の不均衡状態にあるため、<br>必ず足を逆「ハ」の字に開きながら進まないと、均衡を崩して倒れる。<br><br>足先が真っ直ぐ前に向くことは有り得ず、</p><p>常に斜め四十五度外に開ける。<br>歩幅も胸より先を越えると、これまた均衡を崩して倒れるため、</p><p>自分の足幅程度にしかよちよちと進めない。<br><br>膝を曲げて後ろ足で地面を蹴れば、勢いで倒れるので、<br>太ももの付け根から直接足を持ち上げ、いっそのこと、膝も曲げない。<br><br>すると、足を下ろした瞬間にお尻が上下する。<br>小刻みにお尻を左右に振りながら進む様子は、</p><p>確かにあたかも踊りの振り付けのようでもある。<br><br>そのあまりのくねくねとした悩ましげな姿態は、</p><p>やはり究極にセックスアピールだろう。<br>－－纏足とは、そのような強制的な「腰振りダンス」を</p><p>作り出すための究極の人体芸だったかと思われる。<br>　<br><br><br>漢人社会において、自分の妻や姉妹以外の年頃女性が、</p><p>腰を振って歩く姿を拝むのは、強烈なセックスアピールだったのである。<br>現代の感覚で言えばさながら回教国で肌を露出させた女性を</p><p>見るようなものかもしれない。<br><br><br>一方、首都の町を歩いている女性にそういう悩ましい姿はなく、<br>のっすのっすと大またで歩く旗人女性だけだったということになる。<br><br><br>清朝が崩壊し、そんな相容れない二つの文化の衝突がようやく起きたというところだろうか（笑）。<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968017928.html</link>
<pubDate>Mon, 01 Jun 2026 21:27:12 +0900</pubDate>
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<title>７、咸安宮官学の学校生活</title>
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<![CDATA[ <p>１２、和[王申]少年物語<br>　国家予算15年分を蓄財していたと言われる世紀の汚職王・和[王申]。その怪物の成立に至るまでの道のりを探る。</p><p>&nbsp;</p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968010164.html">１、生い立ち</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968012288.html">２、咸安宮官学へ</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968014183.html">３、和［王申］とモンゴルにまつわる徒然</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968015145.html">４、和［王申］とチベットにまつわる徒然</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968016431.html">５、満人と漢人の教育システム</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968016995.html">６、雍正帝の教育システム</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968017647.html">７、咸安宮官学の学校生活</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968017928.html">８、八旗社会の女性たち</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968018705.html">９、和[王申]を婿に</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968020627.html">１０、英廉との初対面</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968020921.html">１１、新疆の開拓</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968021219.html">１２、外祖父・嘉謨(ジヤーモー)</a></p><p>&nbsp;</p><p>話が雍正帝の教育改革に逸れてしまった。<br><br>再び八旗の学校生活に話を戻したい。<br>学校給食についてである。<br><br><br>前述の記事を見ると、学校に厨房が設置される指示がある。<br>つまりは昼食は給食が出たらしい。<br><br>中国では決して冷めた食事はしないと現代でもよく言われる。<br>このためこの時代もお弁当の習慣はなかったのだろうか、</p><p>とも思ったが、そうとも限らないらしい。<br><br>兄弟校である景山官学では、康煕三十八年（一六九九）には<br><br>「官飯を停止する。毎月一人当たり公費銭千文を支給する」<br><br>と決議されている。<br><br>銭は銅銭、相場によって変動するが、銅銭千文でほぼ銀一両なので、<br>咸安宮官学よりやや少ないことになる。<br><br>そこはやはり、優秀な学生だけを選抜した咸安宮が</p><p>格下の景山官学と同額ではけじめがつかないというものだろう。<br><br>ところが雍正元年（一七二三）には再び官飯を復活させている。<br><br>どうやら弁当と給食のこだわりは、あまりなかったらしい。<br><br>このほかにもさまざまな支給品があった。<br><br>　勉強に必要な本、筆、墨、紙、弓矢、食器、騎射の馬、</p><p>　座布団、オンドル用の薪、<br>　手を温めるための炭などは、担当者が計算し、受け取るように。<br><br>勉強に必要な一切は、困らないように支給されたからこそ、<br>和珅兄弟のように、継母に学費をねだれる立場になくても、自立してやっていくことができたのかと思われる。<br><br><br>教師陣は翰林が九人、学生が九十人なので、</p><p>学生十人を翰林一人が受け持つことになる。<br><br>満州語と騎射の先生もウラ人と旧満州から九人招聘する。<br>これを見ると、どうやら一クラス十人、九クラスはおそらく九学年に分かれていたのかと思われる。<br><br>「学生の年齢には開きがあるので、歩射を習える者は、</p><p>　咸安宮門前の空き地で教えるべし。<br>　騎射を習える者は、教えることができると判断したら、教えるべし」。<br><br>と、内務府大臣は奏文に書く。<br><br>歩射は、馬に乗らず立ったまま弓を射て的にあてることである。<br>確かに入学年齢が十三歳で全員が都会育ちであることを考えると、</p><p>ほとんどの児童が馬にも乗れなかっただろうことは、想像に難くない。<br>馬にも乗れないのに、いきなり乗馬で駆けたまま弓を引くなど、</p><p>教えれるものではないだろう。<br>　<br><br>どんな授業が行われていたかは、試験内容を見て想像してみよう。<br>雍正十二年（一七三四）、学校設立から五年がたったとき、</p><p>翰林侍読学士の保良が上奏している。<br><br>「昨今の学生らの業績は華々しいが、皆成長し、</p><p>　二十歳を過ぎた生徒が十人中四、五人にも上る。<br>　定期的に試験を行わなければ、</p><p>　いつまでも通わせていたのではきりがない。<br><br>　ちょうど宗学で五年に一度試験をする制度があるので、</p><p>　これに習ってはどうだろうか。<br>　まだ年齢が幼い者は、成績の基準とし、</p><p>　成人した者は成績順にその配属先をきめるとよいと思う。<br><br>　そうすれば学生らに励みになるだけでなく、</p><p>　満漢の教習らが日頃まじめに教えているかも見ることができる」。<br><br><br>この五年に一度の試験は、中央から大臣、司官、内務府司官まで派遣され、</p><p>三日に分けて荘厳に行われる。<br>一日目は、漢文の試験「四書」から二つ問題が出される。<br>二日目は翻訳、楷書、満州文字の試験、上諭の一文が出題され、</p><p>三日目は騎射と歩射の試験を行う。<br><br>試験会場は、漢文と満州語の試験が掌儀礼衙門（がもん、役所）にて、</p><p>騎射と歩射は正黄旗侍衛教場である。<br>　<br>試験会場は、文武ともに学校ではない。<br>筆記が行われた掌儀礼司の衙門（がもん）は、</p><p>内務府の「七司」の役所の一つで、<br>宮廷の式典などの「礼」に関する事務を司る。<br><br>西華門を出てすぐ南、紫禁城のお堀に沿って建つので、</p><p>学校からは目と鼻の先の距離にあることになる。<br><br>なぜ学校の試験が宮廷の式典担当機関で行われたか。<br>それは、勉学とは「礼」を学ぶことであり、</p><p>孔子から脈々と受け継がれる儒教の礼節に則るという点では、<br>国家のつかさどる式典と同じ意義があるという考えである。<br><br>厳かな試験は「礼」に則り、行うべし、ということである。<br><br>実技はさすがに紫禁城内では行われなかったようだ。<br>会場は八旗兵の教練場である。<br><br>恐らくは日常の授業も教練場まで出向いて実施されただろう。<br>紫禁城内に馬を全力で駆けさせ、</p><p>遥か遠くの的に矢を飛ばすほどの空間が</p><p>あったとは思えないからである。<br><br>先生が引率して、数日に一度、馬場まで行って練習したと思われる。<br><br>&nbsp;</p><p>試験の科目の中に「楷書」がある。<br><br>いわゆる書道だが、これが現代では考えられないほど、</p><p>重視されていたようである。　　<br><br>のちの話だが、和珅には大きな特技があった。<br>それは乾隆帝の筆跡をそっくりに真似て書くことができたのだ。<br><br>現代から見れば、それほど重要なことにも思えないが、</p><p>この時代には、大きな評価ポイントとなった。<br><br>例えば、国のブレインである内閣入りするには、「楷書」への評価があった。<br>内閣のメンバーになるには、まずは翰林院に入らなければならない。<br><br>翰林になるには科挙の最終試験である殿試で上位三位に入るか、<br>優秀者の選抜される「庶常館」に入り、</p><p>三年後に再び試験を受けて合格するしかない。<br><br><br>実はこの科挙の最終試験である「殿試」の基準が、</p><p>多分に「楷書」であったのだ。<br><br>言ってしまえば、所詮は全員が「進士」なのである。<br>すさまじい倍率を勝ち抜いてきた秀才らに対して、</p><p>それ以上に甲乙つけようとしてもそんなに簡単なことではない。<br><br>知力ではほぼ同等だとすれば、それ以外の基準が必要だったということか。<br><br><br>明代より科挙の運営については、</p><p>試験官の派遣など翰林院が仕切るようになった。<br>その時から楷書への美しさに重きが置かれ、</p><p>「館閣体」という独特の書体基準が生まれた。<br><br>この書体は、永楽年間の翰林だった沈度（しんど）の創設という。<br>永楽帝はあまたいる書道自慢の翰林の中でも、一途に沈度の筆跡を愛した。<br><br>国家行事で記念として金版（純金で文字を書いた豪華版書籍）、<br>玉冊（玉の板に文字を刻みつけた豪華保存品）を作るときは、</p><p>必ず沈度の筆跡を用い、<br>朝廷の標準字体として属国にも配り、</p><p>その書体を基準とするように命じたという。<br><br>特徴は均整が取れていて、墨が黒々とかすれるところがないことだ。<br><br>これが標準の「官体」として普及し、</p><p>清代になるとその模倣にさらに磨きがかかったのである。<br>翰林の筆跡は一糸乱れぬ統一体となり、</p><p>「翰林が書いたものは、一目でわかる」といわれるようになる。<br><br>その統一美にエクスタシーを感じる審美眼ができてしまうと、<br>翰林の仲間に入るには、</p><p>新入りもその一糸乱れぬ「館閣体」に肉薄していないと資格がない、<br>という標準が生まれたわけである。<br><br>こうなると、優秀であってもこのために上に進めない人材が出てくる。<br>例えば清末の思想家の龔自成（しゅうじせい）は、</p><p>あふれる才能を持ちながら、<br>進士から庶吉士になることができなかった。<br><br>楷書書きに劣っていたから、と本人は地団駄を踏んで悔しがっている。<br><br>そもそも個性あふれる逸材に、</p><p>印刷したようなしゃちほこばった筆跡を書く人はあまりいないだろう。<br>強烈に印象に残る癖のある字になるに違いない。<br><br>毛沢東の書を見よ。<br>おもいっきり斜めにつりあがっているではないか。<br><br>一目見たら忘れられない強烈な個性である。<br><br>科挙の時代なら、</p><p>それでも懸命に型にはめようと脂汗かいて努力するだろうが、<br>そうそうきっちり納まるものではない。<br><br>ともあれ和珅の時代、字を「型に押し込めるかどうか」は、</p><p>確実に人の能力を評価する基準の一つになっており、<br>それが出来るかどうかで、運命も違ってきたようである。<br><br><br>そして和珅はこの分野では、悪くない天賦を持っていたらしい。<br><br>&nbsp;</p><p>和珅らの学校生活は、どんな日々だったのだろうか。<br><br>『紅楼夢』の作者、曹雪芹が咸安宮官学の出身だったのではないか、</p><p>という説がある。<br><br>曹雪芹の家は内務府包衣の一族であることを考えると、<br>こちらは乾隆元年の一般旗人子弟開放前にすでに資格があったことになる。<br><br>曹雪芹は、諸説はあるが雍正二年（一七二四）生まれ説を取ると、<br>十四、五歳のころは、ちょうど乾隆初年に当たる。<br><br>咸安宮の学生だったかは確定できないが、<br>少なくとも『紅楼夢』の中で乾隆初年の</p><p>「錦衣紈絝</p><p>（錦の服を着て、さらさらの白絹のズボンをはいた苦労知らずのお坊ちゃん）」</p><p>らのドラ息子ぶりを如実に描いていることには変わりがない。<br><br><br>『紅楼夢』第九回には、</p><p>主人公の賈宝玉が初めて家塾に入学する場面が描かれている。<br>この賈家の「義学」（金持ちの家が関係者への慈善事業的に経営する私塾）は、</p><p>賈家の開祖が建て、<br>一族の子弟の中に貧しくて師匠を雇えない者のために立てられ、<br>一族の中で官職についたり、爵位を授かった者がいれば、</p><p>それぞれの経済力の範囲内で援助する仕組みになっていた。<br><br>仮に曹雪芹の描いた情景が私塾ではなく、<br>官学のことであったとしても、そんなことは努々明記できるものではない。<br><br>清朝は「漢人に弱みを見せてはいけない」という</p><p>虚勢を一貫して張り続けた「見栄の王朝」である。<br>旗人子弟の堕落は満州社会の「内輪の恥」であり、</p><p>漢語で書いて公にするのは、とんでもないことだ。<br><br>従って曹雪芹も学校で満州語も騎射も習ったかもしれないが、<br>それはあえて描くことができなかっただろうことは想像できる。<br><br>雍正年間から乾隆年間にかけては、</p><p>文字の獄（思想統制）が吹き荒れた時代でもある。<br>曹雪芹はその「打ち首」ぎりぎりの線で変化球を投げているわけである。<br><br><br>（検閲にひっかかり、禁書になることは元より覚悟の上、</p><p>　それでも地下で知識人や数寄者に愛され、<br>　こっそり写本され、まわし読みされるなら本望、という思いである。<br><br>　しかしあまりにも過激だと作者本人も引っ張り出されて殺され、</p><p>　本人が死んでいれば墓を暴かれ、<br>　六族すべて連座し極寒の黒龍江に流刑に遭い、</p><p>　貧困とひもじさと飢えで空をつかんで犬死し、<br>　子孫まで途絶えることになるのは、かなわないということ）、<br><br><br><br>賈宝玉は、一族の嫁である秦可卿（しんかきょう）</p><p>の弟の秦種（しんしゅ）と一緒に学校に通うこととなった。<br><br>学校では「花のような二人」が入学してきて、少年らが色めきたつ。<br>秦種は「うつむいて恥ずかし気、言葉を発する前から頬が紅色に染まり、</p><p>消え入らんばかりに身を震わせ」、<br>たおやかな美少女を思わせる。<br><br>宝玉は「身分が高いのに、天性謙虚に振舞うことができ、</p><p>言葉遣いも思いやりに満ちて細やか」に秦種に接する。<br>美少年二人のただならぬ様子に同級生らが疑いの目を向けたのも無理はなく、</p><p>影でひそひそと噂が飛び交い、教室は騒然とした。<br><br>……と、勉強そっちのけで少年愛の色恋に騒ぎ立てる様子が描かれている。<br><br><br>このように和[王申]の学校生活は、玉石混淆の生徒たちの中で<br>ただ粛々と己を切磋琢磨する生活だったようである（笑）。<br><br>&nbsp;</p><p>さて。<br>『紅楼夢』では、ここで金持ちの不肖息子の典型のような</p><p>薛蟠（せつばん）が登場する。<br><br>主人公の賈宝玉とは母親同士が姉妹といういとこの関係にあるが、<br>女を手に入れるために人殺しをするわ、</p><p>あらゆる悪さをやらかす手に負えない少年だ。<br><br>父親は早くに死に、唯一の跡継ぎだと母親が甘やかして</p><p>不肖の息子と成り果ててしまった。<br>「贅沢好きで、言葉遣いも横柄」、</p><p>「学校には行ったことがあるものの、いくらか文字を覚えた程度」</p><p>の十五歳という。<br><br>この部分に謎の注釈者「脂硯斎（しえんさい）」の赤字注釈が入る。<br>「この句は兄貴が加えたものだから、真実を書いている」<br><br>……どうやらこの薛蟠くんには実在のモデルがおり、<br>謎の注釈者はその本人と兄貴分に当たる人物を</p><p>知っていると匂わせている。<br><br>名家の十五歳の青年が、ほとんど文盲状態という事実は、</p><p>これまで見てきた世襲子弟の堕落ぶりの記述とも一致する。<br><br>「（世襲子弟は）自ら進んで学校に入学しようという者は極めて少ない。<br>　この児童たちは甘やかされてまったく武芸も習わず、</p><p>　世職にあることを笠に着てでたらめに振る舞い、やくざまがいである」<br><br><br>……と世職幼学の設立を提案した大臣らが嘆いていたではないか。<br>　<br><br>続けて薛蟠くんは</p><p>「皇商といえども、商売のことや世間のこととなると、全然知らない」という。<br><br>薛家のモデルとなった一族も内務府包衣であった可能性が高い。<br><br>包衣は包衣同士の通婚が大部分を占めるという。<br>曹家と同じように皇帝の寵愛を受けて権勢を極め、</p><p>その後世代が下るにつれ、<br>寵愛はそれほどまでではなくなったが、<br>古いコネを生かして「皇商（政商）」となり、</p><p>特権ビジネスで儲けた一族らしいことがわかる。<br><br>そんな楽な大名商売でさえあまりよくわかっていない</p><p>薛蟠くんがなぜ贅沢を続けられるかというと、<br>「祖父、父の旧情に頼り、戸部（大蔵省に当たる）に</p><p>　虚名（名誉職）を得て、俸禄と官糧を受け取り、<br>　残りの雑事は執事がすべてこな」してくれるからだという。<br><br>つまり薛蟠くんも世襲官僚のはしくれで、</p><p>大臣が嘆いていた幼官らの縮図と見ていい。<br>　<br>よって他の官学は希望者を募る自由選択なのに対して、<br>世職幼学だけは「年が幼い世襲官で十歳以上の者は、入学を命じる」</p><p>と命令形である。<br><br><br>この薛蟠くん、賈家に同居して私塾に少年らがあまた通っていることを知ると、<br>思わず「龍陽（男色で有名な戦国時代の人物）の興」を起こす。<br><br>勉強する気もないのに、学校に通い始めるが、</p><p>はなからやる気がないもんで、<br>三日通っては二日さぼり、先生に差し出した礼金も</p><p>ほとんどどぶに捨てたようなものである。<br><br>が、そのへんは家にうなるほど金があるから気にもせず、</p><p>ただ美少年あさりに精を出した。<br>　<br>男色に走るのは、女は当たり前に手に入りすぎて、</p><p>飢餓感がないからである。<br><br>家にはいくらでも若い女中がおり、手をつけようと思えば、</p><p>手を伸ばすだけで手篭めにできる。<br>現に賈宝玉も初体験の相手は、身の回りの世話をする女中の襲人（しゅうじん）だ。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968017647.html</link>
<pubDate>Mon, 01 Jun 2026 21:24:37 +0900</pubDate>
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<title>６、雍正帝の教育システム</title>
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<![CDATA[ <p>１２、和[王申]少年物語<br>　国家予算15年分を蓄財していたと言われる世紀の汚職王・和[王申]。その怪物の成立に至るまでの道のりを探る。</p><p>&nbsp;</p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968010164.html">１、生い立ち</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968012288.html">２、咸安宮官学へ</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968014183.html">３、和［王申］とモンゴルにまつわる徒然</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968015145.html">４、和［王申］とチベットにまつわる徒然</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968016431.html">５、満人と漢人の教育システム</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968016995.html">６、雍正帝の教育システム</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968017647.html">７、咸安宮官学の学校生活</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968017928.html">８、八旗社会の女性たち</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968018705.html">９、和[王申]を婿に</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968020627.html">１０、英廉との初対面</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968020921.html">１１、新疆の開拓</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968021219.html">１２、外祖父・嘉謨(ジヤーモー)</a></p><p>&nbsp;</p><p>雍正帝が教育事業に力を入れたのには、理由がある。<br><br>この人はあまたいる皇子らの血みどろの戦いの末、</p><p>瞬間的にライバルらを押さえ込んで無理やり即位した。<br>康熙帝の在世時代に後継者として認められていなかっただけに、<br>周りは不満の声が轟々とこだまする。<br><br>在世中の十三年間は、その反対勢力の根絶やしに</p><p>かなりの時間と労力をかけざるを得なかった。<br>　<br>このため雍正帝は自分の権力を固める手段の一環として、<br>満州族の教育に力を入れる方針を打ち出したのである。<br><br>康熙末年、どの皇子が次の皇帝になるかをめぐり、<br>満州族全員がいずれかの皇子の支持派閥に</p><p>属していたと言っても過言ではない。<br><br>即位したとは言っても雍正帝にとって、</p><p>いわば周りはまだ敵だらけだったのである。<br>この事態を改善する対策の一つとして、</p><p>若い世代への教育の強化が行われた。<br><br>まずは自分と地位を争った最も押さえ込みたい団体、皇族連中である。<br>皇族のための学校「宗学」は</p><p>建国間もない順治年間にすでに設立されていたが、<br>康熙二十四年（一六八五）には廃校となる。<br><br>「宗室子弟の文学に優秀なる者ども、各府にて精進し、</p><p>　学習を続けるように」<br>という上諭が出された。<br><br>学校には来なくてもよいということである。<br><br>八旗官学も康熙末年に廃校になっており、<br>どうやら康煕帝は治世の後半、</p><p>教育事業にはあまり関心がなかったことが伺える。<br><br>雍正二年（一七二四）、宗学が再び設立される上諭が出された。<br><br>「すべての王、貝勒（ベイレ）、貝子（ベイゼ）、公、将軍の子弟で、<br>　十八才以下の者、家で勉強している者以外は全員通学せよ」。<br><br>表向きは、皇族のために国家予算で無料で学校に通うことができ、</p><p>手当てまで出るとは至れり尽くせりである。<br>手当ては、月に銀三両、米が三斗、筆三本、墨一つ、<br>冬には炭を支給し、旧暦の五月から七月までの二ヶ月間は、</p><p>毎日氷を受け取ることができる。<br><br>が、実際のところは、忠誠心の強化が目的であったことは容易に想像がつく。<br>兄弟や内輪で争ってばかりいたのでは、どうやって国を保っていくのか。<br><br>皇族が一丸となって皇帝の指示のもとに働き、</p><p>国を盛り立てていかねば、共倒れとなるではないか。<br>そんなことを知らず知らずのうちに思想として</p><p>叩き込むような教育がなされただろう。<br><br>すでに成人している連中は仕方ないとして、<br>自我の形成期にある若い世代に徹底的に</p><p>皇帝への忠誠心を教え込んでいく。<br><br>若者をあたらぶらぶらさせておいては、大人たちにけしかけれられて、<br>また反乱画策のための活動に加わるやもしれぬ。<br><br>しっかり学校に縛り付けておき、<br>暇をもてあましてろくでもないことに</p><p>労力を注がないようにしなければならない。<br><br>教育の強化には、そんな積極的な意味があった。<br><br>&nbsp;</p><p>雍正帝の教育改革は続く。<br><br>やや遠い親族のための「</p><p>覚羅学（ヌルハチ以前に分派した親戚のための学校）」も<br>宗学に遅れること五年、雍正七年（一七二九）に設立された。<br><br><br>こちらは、さらに厳しい管理機構を作り上げている。<br>これまでは行政機関として、</p><p>一般の旗人と覚羅を区別することはなかったが、<br>学校設立の上諭に単独の管理機構の設立を示す。<br><br>「各王に属していた覚羅佐領は、今後その下から撤退し、</p><p>　均一に八旗に再配置する。<br>　各旗には専門の衙門（役所）を立てて覚羅を管理し、</p><p>　王や公を派遣して統治する」。<br><br>また覚羅衙門の横に学校を建て、覚羅子弟に供する。<br><br>雍正帝のライバルである兄弟らは、</p><p>雍正帝の即位後、親王や群王などの地位を与えられた。<br>しかし水面下ではまだ激しく雍正帝に反抗を示し、影で謀反を企てていた。<br><br>この上諭を見ると、どうやら近い親戚である覚羅の衆が<br>それら兄弟王らの下である程度の勢力</p><p>となっていたことを伺うことができる。<br><br>雍正帝はその昔からの主従関係を解体し、</p><p>自分の影響下に置きたかったのであろう。<br><br>そこでまずは兄弟らの下から、覚羅佐領を引き離し、<br>まったく馴染みのない旗に再配置することで、</p><p>勢力を削ごうという狙いがあったに違いない。<br>　<br><br>これまでは覚羅を単独で管理することはなかったが、</p><p>新たに衙門を作って管理するという。<br>責任者として派遣する王や公は、</p><p>もちろん雍正帝が最も信頼できる子飼いの部下である。<br><br>こうして古い主従関係とまだ連絡を取り続けていないかどうか、</p><p>日常に妙な動きをしていないかどうか、監視することもできる。<br>雍正帝はライバルたちの動きを察知するためにスパイ軍団、</p><p>情報網を作り上げたが、<br>この覚羅衙門の設置もその一環ということができる。<br>　<br>覚羅子弟のための学校は、この衙門の隣に建てるというのである。<br><br>「学生の中に品行の悪い、分をわきまえぬ輩がいれば、<br>　宗人府（皇族の管轄役所）に報告するべし。<br><br>　衙門の中で寝起き、勉強させ、外出を禁止する。<br>　素行を改めたら再び宗人府に報告し、初めて釈放を許す。<br><br>　年末にはまとめて報告するべし。<br>　このようにすれば、覚羅子弟に大いに益があり、</p><p>　皆成果を見ることができるだろう」。<br><br><br>--なんと不届き者は役所内に監禁して勉強させるというのである。<br>ここまで徹底した更正プログラムは、ほかの学校では例を見ない。<br><br>宗学、八旗官学などの他校では、素行の悪い学生は、</p><p>せいぜいが退学である。<br>監禁してまで矯正させるのは、異常と言わねばならない。<br><br>皇族に近い分だけ、徹底的に自分の影響下に置こう</p><p>という決心の現われに違いない。<br>　<br><br>入学対象者は、八歳以上、十八歳以下の覚羅子弟、</p><p>十八歳以上でも入学希望者がいれば、受け入れる。<br><br>「十八歳以上で勉強をしたことない者も、何の教訓もないことは許されない。<br>　毎月朔（一日）と望（十五日）には、</p><p>　各旗の衙門前に集まり、（康煕帝の）『聖諭広訓』の講義を聴くべし」。<br><br>覚羅ほどの皇族に近いような高い身分の人々で、教育を受けたことのない人がいたことを示す。<br>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>雍正帝は学校制度だけでなく、八旗兵の堕落にも喝を入れ続けた人である。<br>即位に納得していないライバルら、反対勢力に自分が皇帝として<br>ふさわしい器と能力を持っていることを</p><p>示し続けなければならない運命にあったといえる。<br><br>最もそんな動機も必要なかったかもしれない。<br>四十歳を過ぎて苦労の末皇帝となっただけに、</p><p>もうそれだけでやる気満々、<br>実現したい政策を腹いっぱいに抱えた人だったのである。<br><br>こういう皇帝の下に仕える部下は、大変である。<br><br>まずは八旗兵の惨憺たる現状の改善に取りかかった。<br>雍正元年（一七二三）、</p><p>鑲黄旗満州副都統の阿林保（アリンボー）の奏文によると、<br>　<br>「八旗で馬甲（騎兵）を採用する際は、</p><p>　多少なりとも満州語と騎射に通じた者を採用するべし。<br>　満州語と騎射ができぬ者は、一旦歩兵に落とし、</p><p>　できるようになってから再び採用すべし」。<br><br>と主張している。<br><br>なんと満州語もできず、騎兵が騎射もできないというのである。<br>三年以内にできるようにならなければ首にする、と雍正帝は命じる。<br><br><br>雍正九年（一七三一）二月に出された上諭は、さらに興味深い。<br><br>「年若く、五体満足にも関わらず、</p><p>　騎射（所謂馬上弓比べ、馬を駆けながら、的に弓を当てること）に堪えず、<br>　満州語もモンゴル語も話せず、諸事に無能で、極めて庸劣なる者ども、<br>　満州、モンゴル八旗から各旗百人ずつ、合計八百名、</p><p>　漢軍八旗から合計二百名、総勢千人で「懦弱営（意気地なし隊）」を結成せよ」<br><br>なる命令が出た。<br><br>「懦弱営（意気地なし隊）」とは、言うも言ったり、</p><p>すさまじいネーミングである。<br>時々、雍正帝はなんちゅうセンスしてるねん、と思う瞬間がある。<br><br>最も有名な例では、自分の兄弟に対する改名を思い浮かべる人は多いだろう。<br>即位に最も激しく反対した兄弟、</p><p>第八皇子の允禩を「阿其那（アチナ、満州語で犬の意）」、<br>第九皇子の允（ころもへん＋唐）を</p><p>「塞思黒（サスヘ、満州語でブタの意）」と改名させ、<br>戸籍、公文書に至るまですべてこの名で押し通した。<br><br>人々が呼ぶときも</p><p>この名で呼ばなければ罰せられることは、言うまでもない。<br>この「意気地なし隊」も同じ系列の、</p><p>顔の筋肉が引きつるような笑えないブラックユーモアが冴え渡っている。<br>　<br><br>さて「意気地なし隊」が、その甘えた根性を叩きなおす為、<br>鬼の猛特訓を受けたことは、想像に難くないが、</p><p>そこは努力する人が好きな雍正帝はきっちり評価する。<br><br>結成の一年後、雍正十年（一七三二）に雍正帝は、</p><p>「懦弱営」の軍事演習に立ち会う。<br><br>「騎射の壮観なる者少なからず。<br>　そのほかの者は、まだ騎射は危なっかしいが、</p><p>皆馬上から矢を放つことができるようになった。<br>　この分では、あと一、二年も学べば、すぐに熟練するだろう」。<br><br>と、その成果に満足気である。<br><br>兵士の方は、必死にならずにはおられない。<br>もし訓練を重ねても成果が出なかった暁には、</p><p>どういうことになるかというと、<br>「塞外」、つまり万里の長城の向こう側、極寒の満州送りである。<br><br>爛熟した首都の文化に浸り切った身には、</p><p>これほど恐ろしい脅しはない。<br>目をひん剥いて訓練に励むしかない。<br>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>そして咸安宮官学である。<br>設立当初後宮の奥深くに建てられた。<br><br>それは即位間もない雍正帝が、</p><p>反対勢力の邪魔が入らない場所を考慮したかららしい。<br><br>雍正帝の政治は秘密主義に覆われている。<br>それだけ政策の撹乱を狙う敵が多かったからに他ならない。<br><br>その後清朝の政治の中枢となる軍機処も機密保持のために作られた。<br><br>親衛隊「粘竿処（ふりがな：チャンガンチュ）」も、</p><p>雍正帝のために情報を集めるスパイ集団である。<br><br>咸安宮官学は雍正帝の手中で思い通りに育成できる人材として、</p><p>わざわざ世襲奴隷の「内務府包衣」子弟を集めて作られた。<br>目的は人材育成のほかにも洗脳教育もあっただろう。<br><br>皇帝への絶対的な忠誠を徹底的に叩き込んだことは想像に難くない。<br>なぜなら、そういう人材が雍正帝の手中に決定的に不足していたからである。<br><br>雍正帝の即位は意外中の意外、ダークホースの勝利であった。<br>そんな彼に皇子時代から近づき、</p><p>先行投資として仲良くなっておこうという</p><p>先見の明がある人材は余りにも少なかった。<br><br>それだけ康熙帝の皇子らの泥沼の皇位争いが、</p><p>混沌としていてまったく予測がつかなかったためでもある。<br>即位した雍正帝には、自分に絶対的な忠誠を誓う</p><p>有能な部下が余りにも不足していたのである。<br><br>これまでの混沌とした皇子らの派閥精力地図を思えば、<br>既存の人材は誰かの息がかかっている可能性があり、</p><p>むやみに重用するのは危険である。<br><br>だれの手垢もついていない真っ白な人材を</p><p>手塩にかけて育てるのが、最も安全な方法に決まっている。<br>中でも内務府包衣（ばおいー）は、代々皇帝一家の奴隷を務め、</p><p>ライバルである各皇子の手足となって働く可能性も高い。<br><br>まずはこの一群からしっかり洗脳する必要を感じたのではないか。<br>後宮奥深くに学校を作ったのは、</p><p>教育内容をライバルらに知られたくなかったのではないだろうか。<br><br>咸安宮の位置は、自分が住む養心殿から目と鼻の先にある。<br>完全に自分の目の届くところに置きたかったのである。<br>この距離なら、暇を見つけては自ら視察に行くことも可能だ。<br><br>このような鳴り物入りで創設された咸安宮官学は</p><p>雍正帝の気合い通り、旗人社会随一の名門校に育った。<br>ここから多くの科挙及第者や中央官僚を輩出する。<br><br>名声が高まり、乾隆元年（一七三六）には、</p><p>内務府包衣子弟だけではなく、一般旗人子弟にも開放されるに至るのである。<br><br><br>乾隆十六年（一七五一）、咸安宮官学は、</p><p>紫禁城の西華門から少し東に入ったところに移転する。<br>元々の場所は、乾隆帝の生母の六十歳の誕生日式典のため、「寿安宮」と改名されて改修工事をすることになり、追い出された形だ。<br><br>ほかにも空いている宮殿はいくらでもあるのに、</p><p>なぜわざわざ学校を追い出してまで、<br>この宮殿を改修したかったか、という疑問が起こる。<br><br>改修は口実で、実はひたすら後宮近くから</p><p>学校を追い出したかったのではないだろうか。<br>前述のように乾隆元年より当校は内務府包衣子弟だけでなく、</p><p>雑多な一般旗人子弟も通うようになった。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968016995.html</link>
<pubDate>Mon, 01 Jun 2026 21:18:28 +0900</pubDate>
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<title>５、満人と漢人の教育システム</title>
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<![CDATA[ <p>１２、和[王申]少年物語<br>　国家予算15年分を蓄財していたと言われる世紀の汚職王・和[王申]。その怪物の成立に至るまでの道のりを探る。</p><p>&nbsp;</p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968010164.html">１、生い立ち</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968012288.html">２、咸安宮官学へ</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968014183.html">３、和［王申］とモンゴルにまつわる徒然</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968015145.html">４、和［王申］とチベットにまつわる徒然</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968016431.html">５、満人と漢人の教育システム</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968016995.html">６、雍正帝の教育システム</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968017647.html">７、咸安宮官学の学校生活</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968017928.html">８、八旗社会の女性たち</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968018705.html">９、和[王申]を婿に</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968020627.html">１０、英廉との初対面</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968020921.html">１１、新疆の開拓</a></p><p>　　<a href="https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968021219.html">１２、外祖父・嘉謨(ジヤーモー)</a></p><p>&nbsp;</p><p>家庭では両親に先立たれ、</p><p>継母の支配する家で居心地悪い生活を送っていた和珅だが、<br>学校教育は当時の中堅の名門校、咸安宮（かんあんきゅう）官学に</p><p>入ることができた。<br><br>政治の中枢で働く多くの満州族官僚を輩出している学校だ。<br><br>乾隆十六年（一七五一）、これまでの後宮の北側から咸安宮は、</p><p>紫禁城の西華門に移転する。<br>それは、これまで「内務府包衣」子弟のための学校であったのが、</p><p>一般八旗子弟にまで拡大されたことと関係があるらしい。<br><br>包衣というのは、歴代皇帝一家の奴隷であるだけに</p><p>もうすでに空気のような存在になっており、<br>気を使わない「内輪」の人間である。<br><br>だからこそ内廷の奥深くに設立もさせたのである。<br><br>ところが、一般旗人まで通うようになってくると、<br>「よそ者」がうろうろするのは、どうにも居心地悪さがあったのではないか。<br>太后の誕生日は口実に過ぎない。<br><br><br>移転先は、紫禁城の西側の入り口、西華門から入ってすぐの場所である。<br>一般旗人子弟を受け入れるようになっても、</p><p>咸安宮官学は、まだ内務府の管轄下に置かれており、<br>紫禁城の中の学校という異例の扱いには変わりがない。<br><br>西華門界隈は、内務府の役所が集中する地区だ。<br><br>内務府は皇帝一家の生活一切を面倒見る機関、</p><p>日本で言えば「宮内庁」に当たり、この辺りには「」が集まる。<br><br>「七司」の筆頭は「広儲司」、皇帝個人に属する財産を扱う。<br>大事なお宝を保管する倉庫のため、</p><p>七司の中でこの機関だけが紫禁城内に置かれている。<br>場所は、ちょうど咸安宮官学の校舎の北辺りだ。<br><br>下属機関に<br><br>　銀庫（言わずと知れた、現金を扱う倉庫）、<br>　皮庫（毛皮も高価な財産）、瓷庫（陶磁器倉庫）、<br>　緞庫（高級布地の倉庫）、<br>　衣庫、<br>　茶庫<br><br>が置かれる。<br><br>残りの<br><br>「都虞司（内務府所属の武官などの人事を決定する機関）」、<br>「掌礼司（宮廷における各種儀式を主催）」、<br><br>「会計司（内務府の出納、荘園の地代管理）」、<br>「営造司（宮殿の土木工事）」、<br><br>「慶豊司（牛、羊、蓄牧を扱う）」、<br>「慎行司（包衣や宦官の刑事事件処理）<br><br>は、すべて西華門外、紫禁城の外にある。<br><br>西華門を出てお堀に沿って南北に走る南北長街に</p><p>これらの官公庁が密集する（中南海と紫禁城の間の通り）。<br><br>その他「三院」は、「上駟院（御用馬を管理）」だけは、紫禁城内にある。<br>これはやはりいざ敵に囲まれた時、近くに馬もいないのでは、</p><p>戦闘力にならないからだろうか。<br><br>「武備院（機械製造）」、「奉宸院（景山などの離宮の土木管理）」は、</p><p>やはり西華門外に集中する。<br><br>西華門に入ると、門と同じ並びの北側の一列の宮殿が</p><p>内務府の衙門（役所）が置かれるところである。<br><br>そこから、東に進んでいくと、この辺り一帯は、</p><p>すべて内務府関係の役所が立ち並ぶ。<br>明代は宦官機構がずらりと並んでいたのを、</p><p>清代には内務府がすべて受け継いだのである。<br><br><br><br><br>咸安宮官学は門から入って百歩も行かずにたどり着くことができる。<br>その東向こうには「武英殿」がある。<br><br>ここでは、「欽定」つまりは皇帝の名において編修された出版物が出版される。<br><br>乾隆年間には「方略館」が付属した。<br>武英殿の背中に貼り付けるように建てられたという。<br><br>乾隆年間は、清朝の版図を広げる総仕上げが行われた時代である。<br>その辺境戦争を国家と威信として書物にまとめ、出版するための機関である。<br><br><br>辺境のあちこちで戦争があり、ウィグル人の住むタリム盆地、<br>康煕時代からの宿敵オイラトモンゴル系のジュンガルの広大な領土が版図に入った。<br><br>チベット越しにグルカ（ネパール）とも戦争し、<br>国内では甘粛の回族の反乱、貴州の苗族の反乱、台湾の反乱などを平定した。<br><br>それらの戦勝があるたびに、凱旋軍のために盛大な式典が主催され、<br>功臣の肖像画が飾られ、宴会が催され、乾隆帝は得意の詩を作ってみせる。<br><br>その仕上げが、戦局の経緯の綴った「方略」の出版である。<br>つまりは戦勝の経緯を清朝側に都合のいいように編修して書くのである。<br><br>これは一種の思想統制にも入るので、こういう皇帝の意思を強く反映する事業は、<br>家の執事である内務府が管理するというわけだ。<br><br>和珅も後には「武英殿」で編修される「四庫全書」編纂の総裁を務め<br>、乾隆年間の思想統制に総仕上げを加えることになるが、これは後の話だ。<br><br>ともかくも咸安宮官学の周りには、</p><p>このような国家最高級の学究を集めた機関があり、<br>アカデミックな雰囲気をかもし出していたことが想像できる。<br><br>武英殿の後ろ、北側には、内務府の役所がずらりと続く。<br><br>「果房（くだものを扱う）」、「氷窟（氷蔵）」、</p><p>「造弁処（ご用達工房、西洋の宣教師らの手記によく登場する）」が立ち並ぶ。<br><br><br>咸安宮官学は、当初この武英殿の西側一列に張り付く建物に移転してきた。<br>明代は宦官が管理する「尚衣監」だったところである。<br><br>「尚衣監」は康煕年間に別の部署に吸収され（おそらく広儲司の衣庫だろうか）、</p><p>それ以来空いていた。<br><br>しばらくはここで勉強していたが、</p><p>何しろ長年修理しないまま放置していたために使用に耐えなくなる。<br><br>そこで、その西側の土地に新しく校舎を建てることになり、</p><p>「三進院」が完成する。<br><br>「三進院」は「三合院」を縦に三組重ねた形、</p><p>つまりは、「コ」の字を伏せた型を三つ重ねる。<br><br>本来なら中国北方の家屋の間取りは「四合院」が標準だが、<br>北向きの部屋は日当たりが悪くじめじめしており、倉庫程度しか使い道がない。<br><br>このためにいっそのこと反対側に窓を開け、</p><p>前の列の南向きの部屋にしてしまうのだ。<br>つまりは、南向きの部屋が三間、東西それぞれも三間ずつ、</p><p>合計二十七間の作りである。<br><br>「間」は、一部屋のことをいうのだが、</p><p>どんな大きさも一部屋に数えるわけではない。<br>鉄筋もなかった時代、建築物に屋根をのっけようと思えば、</p><p>梁をのっけて支える。<br>梁はつまり自然木である。<br><br>自然木の長さはせいぜいが四、五メートルが限界である。<br>それ以上大きい部屋を作ろうと思えば、</p><p>間に柱を立て梁でつながなければならない。<br><br>間に柱が立てば、これは「二間」という扱いになる。<br>つまり「一間」は、自然木一本の長さ、</p><p>長くても五メートルの梁が四方に届く空間、ということになる。<br><br>二十七間の広さもおおよその見当がつく。<br><br><br><br><br>和珅兄弟がは、どういうものだったのだろうか。<br><br>まずは設立当時の雍正帝の上諭を『欽定八旗通志』で再び見てみよう。<br><br>かの者らは、すべての幼童であるから、</p><p>僕人を連れたいなら、各自一人付き添うことを許す。</p><p>数日に一度、家に帰ることを許す。<br><br>年端も行かぬ少年らに従者をつけるとは、微笑ましい風景である。<br><br>和珅兄弟らの場合は、</p><p>どすの利いた割れ鍋のような強面の劉全がその役割を担ったことだろう。<br>この上諭を見ると、どうやら雍正帝は、</p><p>全寮制にして数日に一度学生らを帰す程度にして徹底的に仕込みたかったらしい。<br><br>ところが、翌年に内務府大臣が出している奏文では、</p><p>ややニュアンスが違う。<br><br>　紫禁内地は特別な場所であるから、諸生は朝学校に入り、夕方には帰るように。<br>　雨水寒冷に遭った場合は、教習（教師）や学生の中で</p><p>　希望する者があれば学校内に宿泊しても良い。<br><br>どうやら全寮制ではなく、通いが原則となったらしい。<br>やはりさすがに禁中に泊り込ませるのは、</p><p>警備上よろしくないということになったのだろう。<br><br>それでも大雨が降ったり、大雪で帰れないときには、</p><p>学校の中に宿泊施設も用意はされていた。<br>また学生は学費を払うのではなく、生活費を支給された。<br><br>　学生の食事は護軍の例に則り、官米を支給する以外にも、<br>　毎日各自「肉菜銀」を五分、月ごとに内庫（内務府金庫）から支給する。<br>　咸安門外の西側の部屋を与えるので、厨房とせよ。<br><br>　<br>食事代一日五分、一ヶ月では百五十分である。<br>銀一両を百分として計算すると、一ヶ月一．五両となる。<br><br>八旗の平兵士の給料が銀二両で一家を十分に養っていけることを考えると、<br>支給額は、尻の青い少年にしては十分すぎるほどある。<br><br>その上に官米が支給されるので主食代はこの中に入らない。<br><br>&nbsp;</p><p>和珅は家庭では両親に先立たれ、</p><p>継母の支配する家で居心地悪い生活を送っていたが、<br>学校教育は当時の中堅の名門校、</p><p>咸安宮（かんあんきゅう）官学に入ることができた。<br>政治の中枢で働く多くの満州族官僚を輩出している学校だ。<br><br><br>そもそも中国の大部分を占める漢族地区には</p><p>「名門校」なるものは、存在しない。<br>学校教育の目的は最終的には科挙に及第し、</p><p>官僚となって権力を手に入れることであったが、<br>そのために公立の学校がほとんど役にたっていなかったのである。<br><br>もちろん名目上は存在した。<br><br>中央には国子監があり、地方には、府学、県学などがあった。<br><br>国子監はまず「特待生」がやたらと多い。<br>朝廷の七品以上の官僚の子弟、殉職した官僚の子弟、</p><p>孔子の子孫などの名門一族の子弟などが、<br>歳貢、恩貢、優貢、副貢、例貢、恩監、蔭監、優監、例監、</p><p>などさまざまな名目をつけられ、<br>ほぼ無試験で入学することができる。<br><br>時代が下るにつれ、資格を持つ者が</p><p>押すな押すなで順番待ちの状態となってしまうくらいだ。<br>その代わり卒業したからといって毒にも薬にもならず、<br>卒業した後の就職は、ごく一部の優秀な者が</p><p>知県程度の中級官僚になれる程度であった。<br><br><br>この制度も建国まもない康熙年間初めには廃止されてしまう。<br><br>「これ以後、部院諸司（六部以下の各中央機関）に監生（国子監出身者）なし。<br>　惟（ただ）文理に通じ、楷書を能くする者のみ、修書各館に送る」（『清史稿』）。<br><br>--つまりは、字がきれいな者だけを各機関の清書人員として採用する、</p><p>というふざけた扱いである。<br>国家の最高学府である国子監を卒業しても清書用員とは。<br><br>確かに旅費や滞在費、膏火費<br>（脂肉、つまりは野菜や炭水化物ばかりの粗末な食事ではなく、<br>肉も日常的に食べられるくらいの潤沢な食費、薪を買う費用）は</p><p>支給されたため、<br>名門のお坊ちゃまの数年にわたる北京遊学にはうってつけであったが。<br><br><br>本当に中央のトップクラスに食い込むには、</p><p>国子監の学生であることに関係なく、<br>科挙で少なくとも挙人以上には及第せねばならない。<br><br>府学、県学も同様である。<br><br>このように学校に行っても行かなくても将来には影響がないので、</p><p>授業もまともに行われない。<br>その在学期間はわずか三年である。<br><br>つまりは成人に近い年齢者を対象にしており、</p><p>幼年からの基礎教育には関わりがない。<br><br>では、どこで教育が行われていたのかというと、まったくの家庭教育である。<br><br>科挙の試験勉強をする人たちは、それぞれ家で師匠を家庭教師として雇う。<br>有力な一族なら、家塾を開き、親戚一同の子供らのために場所と先生を提供する。<br><br>一族の中に単独で家庭教師を雇えない家庭でも、<br>もし優秀な子供がおり、科挙に及第できれば、一族の利益のために尽力してくれることになるのである。<br><br><br>漢族に対する教育については、このように民間で勝手にやりなさい、<br>そして科挙に合格してください、という放任主義を採っていた清朝だが、<br>内輪の八旗兵に対しては、そうではなかった。<br>&nbsp;</p><p>漢人に対しては、政府主導の教育機関に力を入れることはなかった清朝であるが、<br>国を支える八旗のメンバー、旗人に対してはかなり教育に力を入れている。<br><br>旗人を対象にした学校は、<br>宗学、覚羅学、八旗官学、世職幼学、景山官学、咸安宮官学、</p><p>清文学、教場官学、蒙古語学、算学、順天府学などがある。<br><br>このほかにも地方の学校はあるが、</p><p>和珅は京師（北京）育ちであることを考え、ここでは省く。<br><br>宗学は「宗室（皇室）」、<br>皇帝の子供から分派した子弟のための学校である。<br><br>覚羅学は、<br>「覚羅」つまり創始者ヌルハチの兄弟、叔父、いとこから分派した、</p><p>やや遠い親戚のための学校である。<br><br>これら二つの学校は、「愛新覚羅」姓子弟の学校であるから、</p><p>和珅には関係ない。<br>和珅の姓は、ニウフル氏である。<br><br><br>次に八旗官学であるが、これは各八つの旗に一校ずつ作られ、</p><p>八旗兵の子弟のための学校である。<br>学生は推薦を受けて入学するが、<br>どうやら優秀であることよりも縁故の方が優先されていた様子がある。<br><br>どうもろくな学生が集まっていない。<br><br>選び方は、時代により人数がやや変動するが、<br>大体各佐領から１人ずつ、あるいは各旗百人程度の間を上下している。<br><br>京師（北京）における佐領の数は、<br>和珅の在学時代より三十年ほど後の嘉慶初年で、</p><p>合計千三百七十四個半となっている。<br><br>ということは、八旗平均で割ると、各旗約百七十二個の佐領、こ<br>れを定員百名に当てると、一佐領に一人も当たらない。<br><br>一佐領は、兵士百三十から四十人程度で形成される。<br>兵士は当然成人しており、家庭を持っているとして、<br>多産の時代であるから、仮に息子が平均二人はいるだろうか。<br><br>それが大体二十歳まで年齢が平均的に散らばっていると仮定すれば、<br>同じくらいの年ごろの少年、入学資格がある対象が毎年十四人となる。<br><br>佐領は集団を表す単位であると同時に、その長自身もそう呼ぶ。<br>佐領は、末端単位で絶大な権力を持つ。<br><br>八旗兵は軍人としての佐領の元で職場管理を受けるだけでなく、<br>軍民一致政策の元に、結婚、出生届け、</p><p>など行政のすべては、この佐領に届け出る。<br><br>このような末端であればあるほど、</p><p>えこひいきがまかり通ることは、いつの世も変わらない。<br><br>よって学生の選抜優先順位としては、<br>もし佐領自身に息子がいれば、当然優先的に選ぶだろうし、親戚一同にはその次に優先権が出てくるだろう。<br><br><br>一方、官学の就学年数は、十年と定められている。<br>その間に優秀な成績であれば、部院（六部や各行政機関）に採用されていき、<br>十年たっても（大体二十歳前後になっているだろう）</p><p>勉学がものにならない者は、<br>ひとまず卒業し、別途に八旗兵として採用されるまで</p><p>自宅待機ということになる。<br><br>十年制ということは、平均一学年十人である。<br>毎年十人の枠を、百七十二個の佐領に振り分ける。<br><br>数年に一度しか枠が当たらないことになり、<br>これでは優先的に佐領の息子やその親戚連中を入れてしまえば、<br>本当に優秀な人材がいても、そうそう入れないことになる。<br>&nbsp;</p><p>満州人であった和珅が入学する資格のある学校は、<br>いくつか考えられるが、その中でも各旗に一校ずつ、合計八校あったという、<br>比較的規模の大きい八旗官学の様子を見てみよう。<br><br><br>成立は、建国まもない順治元年（一六四四）、<br><br>「近頃諭旨を受け、満州官僚の子弟が学業に従事し始めた。<br>　ところが国学（国子監）は、城内の東北角にあり、<br>　諸子弟にとっては往復するにも日は短く、道は遠い。<br><br>　臣らが謹んで議したところでは、</p><p>　満州八旗にてそれぞれ空き部屋を探して書院とし、<br>　国学の教官が分担して八旗子弟を教えることにしてはどうか」<br><br>という奏文が出され、これが採用された。<br><br>八旗官学の当初の設立の経緯が、国子監が遠いためだったことがわかる。<br><br><br>国子監は現在も雍和宮の地下鉄から遠くない位置にある。<br>地下鉄はもと城壁の下に掘られたものであることを考えると、</p><p>当時は城壁のすぐ近くにあったことを示す。<br><br>城壁の近くということは、城内でももっとも辺鄙なところであり、<br>徒歩、かご、乗馬が交通手段だったころでは、かなり遠く感じられただろう。<br><br>特に国子監から一番遠い、西南の宣武門内に住む鑲藍旗の子弟にとっては、<br>直線でも六キロメートルの距離と言えば、<br>毎日往復するには、確かに「日は短く、道は遠い」といえる。<br><br><br>こうして八旗官学は国子監の分校の扱いで始まった。<br>このため定期的に本校に赴くことも授業カリキュラムに入っている。<br><br>康熙元年（一六六二）の規定では<br>「八旗官学生は、毎月一回、国子監に講義を受けに行くこと」<br>が定められた。<br><br>かつて順治年間、採用する学生は武官の子弟のみ、</p><p>と決められたことがあった。<br><br>ところがどうやら立ち行かなくなったらしい。<br><br>康熙九年（一六七〇）には改正令が出る。<br><br>順治十八年（一六六一）、文官の子弟は官学生として</p><p>送り込んではならないという諭旨があった。<br>しかし官学生は部院（各官公庁）で採用されるため、軽視できない。<br><br>ここに今後は各蔭生、監生なら、</p><p>文武に関係なく部院衙門で採用するものとする。<br><br><br>まさか武官の子弟は出来が悪い、</p><p>とはっきりいうことはできなかったわけだが、<br>要するに学校を卒業しても役所で使い物にならなかったのである。<br><br>元々は、文官ばかりが有利にならないように、<br>武力で国を建てたからには、あまり文弱に流れないように、</p><p>という意図があったのだろう。<br><br><br>しかし八旗官学は、幼児教育や初等教育ではなく、中等教育に当たる。<br>入学が十歳以上というからには、</p><p>今日で言えば小学校高学年から中学生である。<br><br>それ以前の基礎教育は、それぞれの家庭に任されている。<br><br>建国間もない世代の武官といえば、</p><p>弓と槍だけで立身出世してきた連中である。<br>子供に学問をさせようという発想はない。<br><br>特に積極的に家庭で先生を雇ったり、</p><p>私塾に入れたりする習慣がなかったことは、容易に想像できる。<br>そのまま野放図に十歳まで育ち、文盲に近い状態で学校に放り込まれても、</p><p>これはあとが大変である。<br>　<br>これが武官の子弟のみ、という規定を改めざるを得なかった理由であろう。<br>建国したばかりの清朝が暗中模索を続けていた様子がしれる。<br>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>その後、八旗官学は康熙五十年「</p><p>八旗官学生、国子監の諸生とともに国子監で就学するように」<br>という令とともに、一旦廃校となる。<br><br>雍正元年（一七二三）、国子監の司業博礼が奏文を出す。<br><br>「官学生はむやみな取り方をしてはならない。<br>　各佐領下で官兵の子弟だからと言って情状酌量してはならない。<br><br>　素質ある優秀な、勉強をして向上したい意欲のある学生を1人選び、<br>　参領、佐領が連れて、都統の面接を受け、国子監に送るべし。<br>　しっかりと勉強し、虚名ばかりを飾ることのないように命じるべし。」<br><br>この奏文は採用され、その通りに実施される。<br><br><br>雍正帝の朱批（皇帝が赤筆で書き入れる返事と決議）には、<br><br>「官学の設立は、元々人材育成のためである。<br>　それを就学子弟をむやみに採用するとは、どうして許されようか。<br>　博礼の言うとおりに実施せよ。」<br><br>と指示を出している。<br><br>問題点として提出されるからには、</p><p>これまで上記の状況がまかり通っていたことを示す。<br>「情状酌量」するとは、つまり子供の資質ややる気に関係なく、<br>佐領における親の地位で官学生が選ばれていたことを示すと思われる。<br><br>その結果、頭も悪く本人もまったく勉強する気などないような、</p><p>ひどい人材が送り込まれてくる。<br>　<br>これがもし「内輪」の八旗の間だけのことであれば、まだいい。<br>しかし国子監は全国津々浦々からさまざまな学生が集まり、</p><p>その大部分が漢人である。<br><br>満州族は特に漢人には馬鹿にされてはならないという気負いがある。<br>国子監の学生の前であまりにも恥ずかしい人材が送られてきては、</p><p>国体に関わるというものである。<br><br>今後は「都統」の面接を受けろ、という抑制機構が加わった。<br>これまでは佐領が自分の独断と偏見で選び、そのまま採用されていたものが、<br>これからはさらにもう一人の目をくぐらなければならなくなる。<br><br>「都統」は各旗のトップであり、</p><p>一つの旗は、平均百七十の佐領から構成される。<br>つまり同じ地位の同僚が百七十人いる中で都統に縁故を通じようと思えば、</p><p>それほど簡単なことでもない。<br><br>えこひいきがまかり通る可能性はかなり低くなるわけである。<br>最もさまざまな業務で忙しい都統さまが、</p><p>いくらかの受け答えでどれだけ子供の素質を見抜けるかどうかも疑問ではある。<br><br>しかし万が一あまりにも馬鹿な輩をいけしゃあしゃあと面接に出し、<br>落とされた時の恥ずかしさ、印象の悪さを思えば、</p><p>いくらかの抑制力として役にはたったことだろう。<br><br>この後すぐに八旗官学も新たに再開される。<br>雍正帝は即位直後から、八旗の教育事業に力を入れ始め、<br>廃校になっていた宗学、八旗官学などを新たに立て直し、</p><p>多くの新しい学校を創設した。</p>
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<link>https://ameblo.jp/yichintang2026/entry-12968016431.html</link>
<pubDate>Mon, 01 Jun 2026 21:13:24 +0900</pubDate>
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