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<title>「不倫と呼ぶには」40代既婚女性×独身男性の婚外恋愛エッセイ</title>
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<description>40代既婚、子持ち。それでも誰かを好きになった話。夜、お菓子を食べながら書いています。「不倫と呼ぶには」何かが違う、そんな日々のエッセイ。</description>
<language>ja</language>
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<title>第5話　黒</title>
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<![CDATA[ <p>室内用のトレーニングシューズを、持っていなかった。<br>ウェアもなかったから、しまむらに行った。</p><p>&nbsp;</p><p>千円台のシューズを手に取った。<br>色は選ばなかった。安いほうを選んだ。<br>Tシャツも、一番下の棚から取った。<br>上下とも、黒になった。</p><p>どうせ、誰も見ていない。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>当日は、少し早く着いてしまった。<br>駐車場で待つのも気が引けて、少し回り道をした。<br>五分前に、敷地に入った。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>インターフォンを鳴らして、ドアを開けた。<br>お願いします、と挨拶した。<br>黒田はこちらを少し見て、「はい、どうぞ」と言った。<br>床に、トレーニング用の器具が無造作に置かれていた。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>まずは問診だった。<br>運動習慣や食生活を、細かく聞かれた。<br>体重測定は、恥ずかしかった。<br>でも、黒田にとっては仕事だ。<br>私の数字がいくつだろうと、ただの数値として見るのだろう。<br>そう思うことにした。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>体重の理想を聞かれた。<br>「体重は何キロでもいいです…腰痛の予防と、体脂肪率を下げたいです」と答えた。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>「今日は初回なので、軽めにやりますよ」黒田がそう言った。<br>&nbsp;</p><p>まずはお腹から。<br>器具は使わなかったが、自重だけできつかった。<br>それから、腕と下半身。<br>運動習慣のない私は、数種目で息が切れ、汗が滲んだ。<br>きつかった。<br>でも、嫌ではなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>トレーニングのあと、黒田は必ずストレッチをするのだと言った。<br>施術台に仰向けになり、使った場所を、伸ばしてくれる。<br>痛いところも多かった。</p><p>大腿を押されたとき、痛っ、と声が出た。<br>すみません、痛いですよね、と言いながら、黒田はさらに押した。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>私は天井を見ていた。<br>どこを見ればいいのか、わからなかった。<br>人に体を触られるのが、いつぶりだろう。<br>思い出そうとして、やめた。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>15分ほどして、お疲れさまでした、と黒田が言った。<br>起き上がると、汗が引いて、少し寒かった。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>また来ますか、と聞かれた。<br>はい、と答えた。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>黒田の整骨院は、人気だった。<br>次の空きと私の休みがかぶるのは、二週間後だった。<br>それでもいいや、と思って、予約した。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>外に出ると、昼だった。<br>まぶしくて、目を細めた。</p>
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<link>https://ameblo.jp/yoru-okashi/entry-12972060168.html</link>
<pubDate>Wed, 08 Jul 2026 02:41:20 +0900</pubDate>
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<title>第4話　枠</title>
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<![CDATA[ <p>整骨院に通わなくなって、ひと月近くが過ぎていた。<br>腰は、もう痛くなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>家にいるあいだ、私はだいたい一人だった。<br>昨年、夫の不貞が発覚してから、夫は子どもたちにやけに優しくなった。</p><p><br>宿題をしていなくても、夜更かしをしても、何も言わない。<br>小言を言うのは、いつも私のほうだ。</p><p>歯は磨いたの。<br>明日の支度は。<br>——そう言うたびに、子どもたちの体は、自然と夫のほうへ傾いていく。</p><p>&nbsp;</p><p>子どもたちはまだ小学生だ。<br>気づいていない。<br>気づかないまま、父親を選んでいる。</p><p>&nbsp;</p><p>夫の優先順位は、義母や兄弟のほうが、私より上だった。<br>口に出されなくても、そういうことは伝わる。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>夜になると、子どもたちは二階へ上がる。<br>夫も一緒に、二階で寝る。<br>私は一階の和室で、一人で布団を敷いた。<br>夫や子どもたちのいびきが聞こえないぶん、よく眠れた。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>夜勤は、年々こたえるようになっていた。<br>三十七歳。<br>若いころは、夜勤明けでもそのまま夕方まで動けた。</p><p>今は、仮眠の取れなかった朝は、体の芯が重い。<br>腰はもう痛くない。<br>それなのに、もっと奥のほうが固まったまま、ほどけなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>不意に、黒田の声がよみがえった。<br>「体は、動かしておいたほうがいいですよ」<br>施術の合間に、そんなことを言っていた。<br>筋トレも見られますから、と。あのときは、ただうなずいただけだった。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>体力をつけたい。</p><p>そう自分に言い聞かせて、私はスマホで予約のページを開いた。<br>ページは、ほとんど埋まっていた。<br>平日の昼も、夕方も、土日も。<br>空きを示す欄は、どこにもなかった。</p><p>あの人の院は、いつも混んでいる。<br>そうだった、と思い出した。</p><p>&nbsp;</p><p>私はページを閉じかけた。<br>それから、メッセージの画面を開いた。<br>ひと月前のやり取りが、そのまま残っている。<br>最後の一通は、私の「ありがとうございました」だった。</p><p>少し迷って、書いた。<br>「体力をつけたいので、もし空いている枠があれば、トレーニングを受けたいと思っています」</p><p><br>送ってから、急に恥ずかしくなった。</p><p>返事は、思ったより早かった。<br>「来週の火曜、十一時なら空けられます」</p><p>空いています、ではなかった。<br>空けられます、だった。<br>そのときの私は、何も思わなかった。<br>ただ、よかった、と思っただけだ。</p><p>&nbsp;</p><p>火曜の十一時。<br>夜勤明けの、翌日だった。</p><footer>&nbsp;</footer>
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<link>https://ameblo.jp/yoru-okashi/entry-12971788633.html</link>
<pubDate>Sun, 05 Jul 2026 17:17:08 +0900</pubDate>
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<title>第3話　化粧</title>
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<![CDATA[ <p>夜勤に出る前、私は化粧ポーチを鞄に入れた。<br>夜勤明けに、整骨院に行く予定があるから。<br>すっぴんでいいことくらい、わかっていた。<br>わかっていて、入れた。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>その夜は、看護師がひとりと、介護士の私。<br>ふたりで、眠らない建物をあずかった。<br>申し送りを受け、利用者を車椅子に移し、食事を配り、口へ運び、下げる。<br>同じ動きを、何十回。<br>移乗のたびに、腰の奥が軋んだ。</p><p>&nbsp;</p><p><br>二十時を過ぎて、おむつを替える。<br>重い体を、二人がかりで横へ向ける。</p><p>二人がかりでも、腰には来る。</p><p>&nbsp;</p><p><br>消灯。<br>落ち着いて終わる夜もある。<br>その夜は違った。<br>ナースコールが鳴りやまなかった。<br>ひとつ対応している間に、また別の部屋で鳴った。<br>仮眠室の布団には、結局、一度も入らなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>若い頃は、夜勤が嫌いではなかった。<br>誰もいない廊下を見回るのが、むしろ好きだった。<br>子どもを産んでからか、歳のせいか。<br>たぶん、両方だ。<br>今は、ただ体がきつい。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>夜勤明けは、いつも職員用のシャワー室を使う。<br>帰ったらすぐ眠りたいから。<br>その朝も、いつものようにお湯を浴びた。<br>頭の芯がぼんやりして、顔にまっすぐ、シャワーを当てた。<br>夜のにおいが、流れていく。<br>ドライヤーで、髪を乾かす。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>鏡には、くすんだ顔の、中年の女がいた。<br>私はポーチを開けた。<br>ファンデーションを、指にとる。<br>眉を描く。<br>少しだけ。<br>色のない唇に、色をのせた。<br>やりすぎないように、と思っている自分がいた。<br>やりすぎないように、というのが、もうおかしい。<br>整骨院に行くだけなのに。<br>清潔なシャツに着替えて、私は車に乗った。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>予約は十一時。<br>五分前に着いた。<br>インターフォンを押して、中へ入る。<br>いつものように、ウッド系の香りがした。<br>「こんにちは。お願いします」<br>黒田は表情を変えずに、「こんにちは。どうぞ」と言った。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>黒田は、いつも同じ調子だった。<br>喜んでいるのか、退屈しているのか、顔からはわからない。<br>無愛想だ、と言う人もいるだろう。<br>私には、それが楽だった。<br>家でも職場でも、私はいつも、誰かの機嫌をうかがっている。<br>夫の声の低さ。<br>スタッフの苛立ち。<br>先に読んで、合わせて、なだめる。<br>黒田は、何も求めてこなかった。<br>私が黙っていても、空気は変わらなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>「痛みは、続いていますか」<br>「まだ少し。でも、だいぶ良くなりました」少し迷って、つけ足した。<br>「夜勤も、できました」<br>「夜勤は、眠れるんですか」<br>「一応、交代で二時間は……。昨日は、コールが多くて、眠れませんでした」<br>「それは、大変でしたね」<br>黒田は短く言って、施術台を指した。<br>「施術中、寝ていてください」<br>うつ伏せになると、タオルから柑橘の匂いがした。<br>背中に、手のひらの重みがのる。<br>あたたかかった。<br>気づいたら、眠っていた。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>どれくらい眠ったのか、わからない。<br>「藤崎さん」<br>名前を呼ばれて、目を開けた。<br>施術は、もう終わっていた。<br>「すみません、私……」<br>「いえ。よく眠っていたので、起こせなくて」<br>黒田は、タオルをたたんでいた。<br>「相当、疲れてたんでしょう」<br>体を起こす。<br>腰の痛みが、来たときより、少しだけ遠かった。<br>「だいぶ、戻ってきましたね」<br>黒田はカルテに目を落としたまま言った。<br>「痛みが引いたら、少し体を動かしたほうがいい。じゃないと、また固まるので」<br>動かす、というのが何を指すのか、そのときの私にはわからなかった。<br>「……はい」とだけ答えた。<br>次の予約は、取らなかった。<br>腰は、もう、だいぶ良かったから。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>会計を済ませて、外に出た。<br>陽は出ていたが、冷たい光だった。</p><p>車に乗り、ルームミラーを見る。<br>映った顔は、朝のせた化粧の色が、もう半分落ちていた。<br>塗り直そう、とは思わなかった。<br>誰に見せるわけでもない。<br>そう思って、私はエンジンをかけた。</p>
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<link>https://ameblo.jp/yoru-okashi/entry-12971632485.html</link>
<pubDate>Sat, 04 Jul 2026 05:37:02 +0900</pubDate>
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<title>第2話　再診</title>
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<![CDATA[ <p>翌日は、日勤だった。</p><p>&nbsp;</p><p>朝、布団から起き上がるのに、横向きになって、手をついて、息を止めた。</p><p>それだけで額に汗がにじんだ。<br>&nbsp;</p><p>顔を洗い、髪をひとつに結んで、化粧をした。</p><p>二階は、まだ静かだった。<br>&nbsp;</p><p>腰が痛くて、最悪だった。</p><p>それでも、仕事に行った。</p><p>動けないわけではなかったから。</p><p>休むと、申し訳なさが先に立つ。</p><p>&nbsp;</p><p>施設の朝は、いつも同じだ。</p><p>おむつを替え、清拭をし、車椅子に移す。</p><p>それを、何人ぶんも繰り返す。</p><p><br>移乗は、相手の身体を一度こちらに預からせて、持ち上げる。</p><p>痛む腰をかばってそれをすると、田中さんが「すまないねえ、いつも」と言った。<br>「大丈夫ですよ。気にしないで」と私は言った。</p><p>&nbsp;</p><p>別の利用者は、私の顔を見て「あんた、誰」と言った。</p><p>三年、毎日のように顔を合わせている人だった。<br>「今日担当の、藤崎です」と答えて、車椅子のブレーキをかけた。</p><p>&nbsp;</p><p>昼の休憩は、六十分。</p><p>休憩室で食べていると、後輩の子が「腰、大丈夫でした!?」と訊いてきた。</p><p><br>「整骨院で診てもらって、だいぶ良くなりました」<br>そう答えた。</p><p>本当は、まだ泣きそうなくらい痛かった。</p><p>&nbsp;</p><p>午後になると、腰はさらに重くなった。</p><p>それでも、定時まで身体は動いた。</p><p>&nbsp;</p><p>家に着くと、もう暗かった。<br>夕飯を作って、テーブルに並べた。</p><p>私は、台所で立ったまま、自分のぶんを食べた。</p><p>&nbsp;</p><p>二十一時。<br>二階で、子どもたちが笑って、夫の低い声がそれをなだめていた。</p><p>&nbsp;</p><p>去年、夫にほかの女がいると気づいてから、私は一人で寝るようになった。<br>もう、どうでもよかった。</p><p>その日もいつもと同じように、一階の和室で一人、冷たい布団にくるまった。</p><p>　</p><p>&nbsp;</p><p>翌日。</p><p>十一時に、整骨院の予約をしていた。</p><p>&nbsp;</p><p>黒田の院は、いつも予約でいっぱいだった。</p><p>腰や肩を診る施術と、身体づくりのトレーニング指導。</p><p>その両方を一人でこなして、一時間ごとに客が入れ替わる。<br>&nbsp;</p><p>それでも、施術のあいだは、いつも静かだった。</p><p>客が院に入るのは予約の五分前から、と徹底しているようだった。</p><p>施術中に、電話が鳴ることもない。</p><p>&nbsp;</p><p>施術台に横になると、天井の木目が見えた。<br>黒田が腰に手を当てる。</p><p>痛いところを探すのではなく、もう知っているような手つきだった。</p><p>&nbsp;</p><p>「昨日の仕事、大丈夫でしたか」<br>「痛くて、泣きそうでした」<br>「三日目だと、まだつらいでしょう」<br>「はい……」<br>「峠は越えてます。あと一週間くらいで、だいぶ楽になると思います」</p><p>&nbsp;</p><p>黒田の指が、腰の奥の固いところを押した。</p><p>自分でも知らないうちに、そこはずっと、こわばっていたらしかった。</p><p>&nbsp;</p><p>施術のあいだ、物音ひとつしなかった。<br>「ママ」「藤崎さん」。</p><p>家でも、職場でも、私はいつも、誰かに呼ばれていた。</p><p>たいてい、用があるときだけ。<br>ここでは、誰も、私を呼ばなかった。</p><p>ただ、横になっていればよかった。</p><p>　</p><p>「念のため、もう一度くらい診ておきましょう」<br>帰り際、黒田が言った。<br>ちらっと見えた予約表は、どの時間も名前で埋まって、真っ黒だった。</p><p>黒田は少し考えて、「三日後の十一時は、いかがですか」と言った。</p><p><br>翌日は日勤、その次は夜勤——三日後は、ちょうど夜勤明けだった。<br>「お願いします」</p><p>次の予約を取った。</p><p>腰が、まだ痛かったから。</p><footer>&nbsp;</footer>
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<link>https://ameblo.jp/yoru-okashi/entry-12971425193.html</link>
<pubDate>Thu, 02 Jul 2026 00:25:24 +0900</pubDate>
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<title>第1話　予約メール</title>
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<![CDATA[ <p><!-- wp:paragraph -->不倫の始まりが、ぎっくり腰だなんて。<br>誰も思わないだろうし、私も思っていなかった。</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>彼に最初に送ったのは、ラブレターなんかじゃない。<br>整骨院の、予約メールだった。</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>「本日、受診可能です」<br>私はすぐに「伺います」と返信した。</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>——たぶん、それがすべての始まりだった。</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:separator --></p><hr><p><!-- /wp:separator --><!-- wp:paragraph --></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>介護士になって、もう何年経っただろう。<br>来る日も来る日も、おむつ交換、入浴介助、体位変換、車椅子移乗。</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>ある日、いつもと同じ移乗をしただけだった。<br>腰の奥で、何かが切れた音がした、と思った。<br>次の瞬間にはもう、動けなかった。</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>同僚たちが「お大事に」と声をかけた。<br>自分で運転して帰った。</p><p>シートに座るだけで涙が出るほど痛かったが、頼れる人はいなかった。<br>布団に倒れ込んで、スマホを握った。<br>すぐに、整骨院を探し始めた。</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>&nbsp;</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>&nbsp;</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>グーグルマップで「整骨院」と打ち込むと、何軒か出てきた。<br>一番上の店は、評価が高かった。スポーツトレーナー経験あり、と書いてあった。<br>介護で腰を壊した私には、それだけが頼りに見えた。<br>予約フォームに、ぎっくり腰、と書いて送信した。</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>すぐには返事は来なかった。<br>夕方、スマホが鳴った。<br>「本日、二十時でもよければ受診可能です」<br>私はすぐに「伺います」と返信した。<br>夫が帰ってきてから、車に乗った。</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>冬。私の住む地域は、雪がちらついていた。<br>お店は一軒家だった。</p><p>インターフォンを鳴らすと、「どうぞ」と男の声がした。<br>三十代後半くらい。</p><p>私と同じくらいに見えた。</p><p>背は高くて、整骨院のロゴが入った濃紺のポロシャツを着ていた。</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>私の歩き方を見て、「腰、痛いんですね」と言った。</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>中は広いスペースで、施術台と、筋トレに使うような器具が並んでいた。<br>ウッド系の香りがほのかにした。<br>カルテに「介護士」と書いたとき、彼が小さくうなずいた。</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>歩ける程度のぎっくり腰には、安静よりも少し動かした方がいいらしかった。<br>ストレッチとマッサージを、腰、首、肩、頭、足までくまなくしてもらった。</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>手は厚みがあって、大きくて、温かかった。<br>力強いのに、痛くない。<br>こわばっていた背中が、勝手にほどけていくのがわかった。<br>気がついたら、まぶたが落ちていた。<br>介護施設で、私はいつも他人の身体を支えていた。<br>自分の身体を、誰かに預けるのは何年ぶりだろう。</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>一時間ほどかけて、ほぐしてもらった。<br>名前は「黒田さん」というらしい。<br>あまり喋らない人だった。けれど、黙りすぎることもなかった。<br>「腰、ずっと痛かったでしょう」「介護士、何年目ですか」<br>こちらが返事に困らない程度の、ちょうどいい間で言葉を置いた。</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>黒田はカルテを眺めていた。<br>「明日、仕事は」と顔を上げないまま訊かれた。<br>「日勤です」<br>「移乗、ありますよね」<br>「はい」<br>黒田は何か言いかけて、やめた。<br>「急性期はまだ痛いと思います。無理せず」<br>「明後日は休みなので、ゆっくりできると思います」<br>「……十一時、空いているので良かったら」<br>押しつける感じではなかった。</p><p>来ても来なくてもいい、という言い方だった。</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>明後日の十一時——</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>帰り道、運転席に座ったとき、腰の痛みが昼間より軽くなっていた。<br>それ以上に、頭の中が静かになっていた。</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><!-- /wp:paragraph --><!-- wp:paragraph --></p><p>家に着いたのは二十二時を過ぎていた。<br>二階で、子供たちと夫が寝ている気配があった。<br>私は一階で、いつものように一人で布団を敷いた。<br>腰の痛みは、少しだけ遠くなっていた。</p><p><!-- /wp:paragraph --></p>
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<link>https://ameblo.jp/yoru-okashi/entry-12971065404.html</link>
<pubDate>Sun, 28 Jun 2026 15:47:30 +0900</pubDate>
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