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<title>yossi-のブログ</title>
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<title>卒業。</title>
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<![CDATA[ ３月２３日。卒業式。<br><br>学位授与式。謝恩会。<br><br>大学生としての行事がすべて終わった。<br><br>二次会、三次会と今まで溜めていた分を吐き出すように朝までしゃべり、飲み明かした。<br>いつもよりちょっとだけ、まばたきの回数を減らして。<br><br><br>さみしい、と思えたことは、自分の大学４年間を示す何よりの価値だと思う。<br>大学に入学した当初、最初の２年間。あの頃は、自分を保つのに手いっぱいで、大学生活の今を楽しむことなんてちっともできてはいなかった。ただがむしゃらにあがいてた。<br><br>だから、寂しさが今あることに、嬉しい驚きを感じずにはいられない。<br><br>大学の卒業式は、これまで経験してきたそれとはまったく違う。<br>高校のころなんかは、「別れ」なんてただの抽象的なものでしかなくて、また会えるだろうとどこかで高をくくっていたし、それは実際そうだったと思う。<br>でも、こうして社会を目の前にして経験する卒業式は、違う。別れはもっと具体的で、ずっと生々しい。<br><br>もう、二度と会えないかもしれない。<br><br>人数が少しずつ減っていくのを見送りながら、一人ひとりを目に焼き付ける。<br>会おうと思えば会える。それは確かに正しいけれど、大人になるほどにその言葉につづく逆接は多くなる。<br>会おうと思えば会える、けど。<br><br>悪いことだとは思わない。<br>ちゃんと、これまでの自分を噛み砕き、限りある未来をきちんと見据えているからこその感情なのだから。<br>生き方を掘り下げて見られるようになったからこその、尊い感情だ。<br><br>寂しい。切ない。どうしたらいいかよく分からない。<br>卒業式当日になっても特別な感慨が湧くのかどうか疑っていた自分は、するすると消えていなくなってしまった。<br>とても大切な友だちもできた。一生付き合っていきたいと思う人たち。<br>だけど、この寂しさは彼らに対してのものだけじゃない。親友と呼ぶには相手の気持ちを慮って気が引けてしまうけれど、やはり友だちだ、とは言いきれる他のみんな。<br>いちいち湧いてくる寂しさを無視するには、この学科で過ごした４年間はあまりにも長過ぎた。<br><br>４年前、ひょんな偶然が重なって横浜の街に集まった５０人とちょっと。<br>４年を経て、また、それぞれがばらばらの道を行く。<br><br>いいこと。とってもいいこと。<br>いつも会えるならそれはもちろん嬉しいのだけれど、それが叶わないのならば仕方ない。<br>それぞれが、それぞれの場所で。<br>遠くのあいつも頑張ってるんだから、自分も頑張ろう。会えなくても力になる繋がりがあることは、高校を卒業して地元を出たときからずっと知っている。<br>だから、自分は全力で生きる。絶対に人生に妥協したりしない。夢に負けない。<br>ばらばらに生きるみんなに負けないように。みんなの支えになるように。<br><br>今の自分は、４年前に想像していたのとまったく違う場所にいる。<br>まったく想定外のところを通って、まったく頭になかった職業を選び、そして一度はあきらめかけた最高の充実の上に立っている。<br><br>社会人のスタートは、ゼロからのスタートなんかじゃない。<br>手に余るほどの大きなプラスから、スタートを切れること。<br><br>ありがとう。それから、がんばろう。
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<link>https://ameblo.jp/yoshi-pine/entry-11202401967.html</link>
<pubDate>Sat, 24 Mar 2012 17:14:05 +0900</pubDate>
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<title>泊まり研修。</title>
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<![CDATA[ 　書く！　と意気込んでおいて、１４日までのものしか書けてない……。<br>　でも、今日は取り合えず今日のことを大まかに書きます。<br><br>　今日からは３泊４日、泊まり込みでの内定者研修。昨日の日帰りでの研修と合わせれば、５日間の研修だ。<br><br>　苦しい。それが、今の正直な気持ちかなぁ？<br>　研修が大変なわけじゃない。こんなん欠片も大変だなんて思いやしない。<br>　充実感もある。もっと密度濃く効率的にできるだろうという想いはあるけれど、ためになっている実感は随所にある。<br><br>　苦しいと思うのは、同じ研修を受ける同期のみんなと自分との差異をところどころで感じるからだ。<br><br>　研修が早く終わって欲しい。<br>　眠かった。<br><br>　うーん……。<br>　もっと入りたかった人はいるんじゃないかな……。<br>　「研修は嫌です。面白いことやらせて下さい」<br>　と同じに聞こえる。<br><br>　自分は眠くなかったし、研修に対するモチベーションは今も高い。<br><br>　誰かへの悪口を平気で口にする。笑顔で。<br>　それは冗談？　だとしたら、くそつまらない。<br><br>　かといって、もちろんそれがすべてではない。<br>　それぞれが自分より優れているところをたくさん持っている。<br>　会話力であったり、仕事に対する知識であったり、発想力であったり、地あたまの良さであったり。人間的にも、それぞれ魅力的なものを持ってると思う。<br><br>　たぶん、苦しさを覚えるのは、その中で自分をまだ出せていないからだろう。<br>　それは違う、と思っても、相手に合わせて笑う。一緒でいようとする。<br><br>　人とうまくやっていくことは重要だけれど、それと「人に合わせてやっていくこと」とは同義じゃない。<br>　もっと素直に自分らしさを出してかなきゃな。<br><br><br>　人を思いやることに敏感すぎるのは、ある意味自分の短所だなぁ。<br>　そこが欠けているといっきにげんなりして、その人を見る目に曇ったフィルターが掛かってしまう。<br><br>　何かに一生懸命であることも、それを押し付けるのはなんだか違う気がする。人によって、きっと置かれている状況は違うから。<br><br>　そういうんじゃあなくて。<br>　周りに合わせるのでもなくて。<br>　ただ自分は自分で貫いて、行動で示していけたらいいと思う。それを見て周りが刺激を受けて、少しずつでもプラスの変化が生まれたらいいと思う。<br><br>　巻き込むってきっとそういうことだ。<br>　それが、理想。
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<link>https://ameblo.jp/yoshi-pine/entry-11185214359.html</link>
<pubDate>Tue, 06 Mar 2012 23:48:33 +0900</pubDate>
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<title>４８分の１。</title>
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<![CDATA[ ３月。<br><br>４８ヶ月あった大学生活も、残りあとひと月になった。<br><br>思うところは色々あるのだけれど、取り合えず今日は……ブログを書こう(笑)<br>ずっと書けてなかったこと、溜まっているから思い出せる限り！<br><br>さしあたっては１４日から。<br>ありがたいことにアメブロではいつ投稿したかをコントロールできるので、「頻繁に更新してましたけど何か？」の体で書こう！<br><br>そうしてから、また先のことを考えよう。<br><br>もうあまり空いてる日はないけれど、一度振り返って見えてくるものもあるかもしれない。<br><br><br>今日中にいくつ更新できるだろう……？
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<link>https://ameblo.jp/yoshi-pine/entry-11180045091.html</link>
<pubDate>Thu, 01 Mar 2012 19:52:48 +0900</pubDate>
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<title>孤独。（続き）</title>
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<![CDATA[ 　自分は、自分なりの価値観をもう持っていると思う。<br>　１００回人生やったら、１００回すべてで幸せになれる自信がある。<br>　もちろん少しずつ修正を加えていくことはあるにしても、幸せの方程式のようなものは自分の中に確かにある。<br><br>　なんのことはない。<br>　ひとつ、自分のやりたいことに正直になること。<br>　ふたつ、人のために生きること。<br><br>　ざっくり言ってしまえばこれだけのこと。でも、この価値観を実感に基づく確信の上に立たせるのが、思えばなかなかに難儀だった。<br><br>　ひとつ目の時点で、自分の周りからほとんど人はいなくなる。<br>　ふたつ目になると、徹底的にひとりぼっちな気になってくる。<br><br>　もちろんそうじゃないとは分かっているし、まだ行動として明確に示せていない時点で何を偉そうに、と鼻で笑いたくもなるのだけれど、笑えない。<br><br>　地元の友だちに囲まれていたころは、このみんなとなら世の中のどんな課題であっても解決していけるんじゃないかと、確信めいたものを感じていた。<br>　大学に出る前などことあるごとに、あのころの“人運”の奇跡的なことに驚嘆し、神様が仕組んだ出来レースではないかと思うほどの「いい人」の密度の濃さを、それがあまりに奇跡的であるがゆえに他の人にうまく伝えられずもどかしかった。<br><br>　地元の友だちとは今会ってもよくその話をする。あの学年、すごかったよね、と。その想いは今も変わらない。<br>　そして、だからこそとても寂しい気持ちになるのだろう。<br><br>　ずっと少ないことに気が付いた。同じでなくていい。ただ生き方の方向性として、似たような視点を少しでも含んでいてくれたら。でも、そんな人生観を持った人など、想像よりもずっと少ないのだと気が付いた。<br><br>　みんなとならできる、はもう頼れない。<br>　だったらいいや、と自分の生き方を変える気など露ほどもない。<br>　でも、ただ仲間だと思える人が欲しいのだと思う。理想を求めれば求めるほど、きっと同じように生きる人は少なくなっていく。自分なんかより、もっともっと先の方で戦っている人は、いったいどれだけ孤独だろう？<br><br>　近くにいなくてもいい。友だちでなくてもいい。同じような価値観を持って生きている人が、掠めているだけでもいいから同じ方向性を持って歩んでいる人が、どこかにいることを分かっていたい。<br><br>　仲間を渇望している、そんな状態。<br><br>　だからだと思う。<br>　「この人は仲間だ！」と思える人がいたとき、すごく嬉しくなる。ちょっとした勇気と偶然が重なれば、お互いに。<br>　そして、そういう人間に敏感になる。あの人はそうかも、と話を聞きたくなる。<br><br><br>　やっと、今日。<br>　今日は、明日に迫った卒業研究発表会のため、ポスターの印刷をしていた。<br>　同じ研究室の友人で、前から勝手に「あの人はそうかも」と目をつけていた人がいる。<br>　前に、今度話そうと声はかけておいたのだけれど、今日ふたりで昼を食べることになり、それが実現した。<br><br>　学食で、何度もハイタッチをした。<br><br>　ここまでピタリと考え方がはまるか、と驚嘆するほど、一つひとつの言葉がしっくりときた。<br>　コンテクストのない単語のみを切り取っても、「それ分かる！」とお互いに声を上げた。<br>　孤独。人のため。就職。手段。目的。死ぬことから、逆算する。<br><br>　孤独を知らなければ分かり得なかった、素敵な時間だった。<br><br>　もちろん、誤差はある。<br>　だけど、それは素敵な違いなのではないかと思う。価値観の違い。この言葉が、ここでやっと違和感なく使える。<br><br>　繰り返すけれど、全然生き方が違うからといって嫌いにはならない。今でも地元の友だちは変え難いほどに大好きだし、これから会う人達についてもそうだと思う。<br><br>　でも、今は同じような孤独を共有できる人たちと会いたい。そんな人たちが集まるフィールドにいたい。自分にとっての「社会に出る」ということは、つまり孤独を知ることなのかもしれない。孤独を知って、仲間を見つける。まずは、そこからなのかも。<br><br>　小さい頃はちょっとしたことで純粋にはしゃげた心の近さは、大人になるとどうしても失われてしまう。それは仕方のないことだろうと思う。<br>　わずかなきっかけ、言い換えるならば共有で越えられてしまうほど、幼いころの人見知りの壁なんてほとんどの場合低くて、やわらかく、数も少ない。子どもはいとも簡単に、掘るなり、穴をあけるなりしてその壁をこえる。<br><br>　大人じゃあそうはいかない。<br><br>　ちょっとしたことでは目新しさはなく、でも共有していますよと嘘でも示したいがために感情を偽って表情を作る。それが分かっているから、相手が同じように笑っても、共有できた！　という感覚などない。ことが多い。<br><br>　だから、嘘偽りなく「共有できた！」と思えたことを、もっと大切にしてかなきゃいけないんだな、と思った。その人を、時間を、もっと大事にしなきゃいけない。<br><br>　心から嬉しいと思えた「共有」を大切に。<br><br>　とくとくと生まれる成長を、一歩踏み出すごとに実感できている今日この頃。<br>　またひとつ、大事なことを吸収できた。
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<link>https://ameblo.jp/yoshi-pine/entry-11181320491.html</link>
<pubDate>Tue, 14 Feb 2012 22:14:15 +0900</pubDate>
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<title>孤独。</title>
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<![CDATA[ 　就職が決まってから時折、孤独を感じるようになった。<br><br>　とはいえ、それはおそらく一般的に想像されるであろう孤独とはまったく種類の異なるもので、自分も初めて感じる気持ちだったから、しばらくの間処理に困った。いや、多分いまでもそれは変わらない。<br><br>　将来の話を友だちとするとき、孤独は特に大きくなる。<br><br>　取り合えずどこでもいいからと就職先を決めたひと。<br>　安定という言葉を掘り下げもしないで、目先の安心のために公務員を選んだひと。<br>　いまだ進路に対して悩むことすらしないひと。<br><br>　この極端な３つに当てはまらないにしても、夢に背を向けるという大きなくくりにすれば、多くの場合結果は同じだ。「目的＝就職」の人がほとんどで、その先までを思い描けている人は寂しくなるほど少ない。<br><br>　どうしてだよ。と叫びたくなる自分がいる。<br>　それで本当に幸せになれるの？　憤るのとは違って、周りの友だちのことを大切にしたいと思うから、そんな安易な人生の決め方をしていいのかと、問いかけたくなる。これは焦燥だと思う。何とか伝える方法はないかともどかしくて、すごく焦る。そんな選び方をして後悔したら、這い上がるのは今人生と向き合うよりもはるかに苦しいのに。<br><br>　一方で、人の価値観も認めてあげなきゃダメだよ、と諭す自分もいる。<br>　分かってる。幸せなんて人それぞれなんだから。<br>　間違いではないと思う。でも、こんな安っぽい言葉に簡単にすがるなよと腹立たしくもなる。「幸せは人それぞれ」でみんなが幸せになれたら誰も苦労しないじゃないか。価値観に正解はないのだとしても、きっと、残念ながら、その精度はある。<br><br>　人に依りけり、はここにきて初めて使っていい言葉じゃないのか。家族や立場やもろもろの事情で、きっと確かに幸せの形は少しずつ違って、これからも変わっていくものではあるだろうけど、今の時点で自分の幸福観や夢や目標と向き合えないのなら、そんな言葉は一瞬で形骸化してしまう。<br><br>　自分は、人生１００回やったら、１００回とも満点を目指したい。<br>　サイコロ振って高い目が出た方が幸せ、というのなら、面を削るなりして少しでも６が出る確率を上げたい。<br>　自意識過剰であるならば、むしろそうであってほしい。<br>　だけど、自分の周りの多くの人たちが、幸せを決めるサイをただ投げているような気がして、可能性というあやふやなものに体重をすべて乗せているような気がして、それが堪らなく怖い。<br>　たまたま、幸せになることはあるだろうと思う。<br>　でも、拠りどころになる自分なりの価値観がない状態では、確率に背を向けられたときのリスクはあまりに大きい。人生に限りがある以上、そのリスクは後になればなるほど取り返しのつかないものになりかねない。<br><br>　それぞれが、それぞれなりに向き合っている。<br>　それも確かに真だろう。だけど……。甘ったるい言葉で許容することは、見捨てていることと変わらないんじゃないかと思う。妥協なんだと思う。<br><br><br>（長いよー(;ω;) 取り合えず記事を分けます）
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<link>https://ameblo.jp/yoshi-pine/entry-11180191316.html</link>
<pubDate>Tue, 14 Feb 2012 20:19:27 +0900</pubDate>
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<title>久しぶり。</title>
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<![CDATA[ やばい。<br>あんまりブログを書くほどのゆとりがない。そして、いまはパソコンの電池もない。<br><br>決してすごく忙しいわけではないのだけれど、「ブログは無理せずに」がモットーだから、なかなか書くまでは至らない。<br><br>さらさら気負わずに書けばいい。短くても、適当でも。<br>……まあ、そうかも。<br><br>でも、自分のブログにとって「嘘のないように」は最初に決めた命綱のようなもので。時間はかかっても、そこはぶれちゃいけないんじゃないかなぁ？<br><br>正直に正直にと書こうとすると、自分と向き合って言葉を選んで……はっ！　２時間半！　なんてことも。いや、むしろいつもそんな感じか。<br>結構書きたいこと溜まってるんだけどなぁ……。<br><br>ジレンマだ。すこぶるジレンマだ。<br><br>とりあえず、さすがに期間あいちゃったな、なんて思ったから更新してみたけど、しばらくは短文でもいいからちょっとずつ書いていくべきかもしれない。じゃないと色んなことが新鮮な気持ちで書けなくなっちゃうからね。<br>ただし、短くてもやっぱり嘘とか無駄な言葉の修飾はとっぱらって。ありのままに。<br><br><br>さてさて、そんなこんなで、何から書いたらいいのかな（笑）<br>美術館に行ったことも、アドミュージアムに行ったことも、ボランティア仲間と再開したことも、ボランティア体験記書いたことも……！　やばい。溢れんばかりにネタばかりが……！<br><br>とにかく、今回は今の状況だけメモ程度に書いておこう。<br>今は実家に帰省中。２週連続であったゼミ発表も（昨日は結局先生に見せて終わりという感じだったけど）済んで、就職準備のために一時帰宅。<br>まあ、15日には卒業研究発表会が待ち受けているのだが……。<br><br>そうそう。それから、以前ブログにも書いたＮＨＫのワークショップ、参加決定の連絡が来た。<br>落選なんてないよなぁ、と思っていたけれど、まあ予定が確定したということで、よかったよかった！<br><br>だんだん、満足して卒業できる形が見えてきた気もするけれど、それはただ時間が限られてきてどうにもしようがなくなりつつあるからなのかな？<br><br>でも、優先順位にはまだまだ悩むな。悩んで終わったら意味ないのに（笑）<br>さしあたっては、来週の過ごし方。卒論関係の予定がずっと漠然とした状態だったから、決め切れずにきてしまったが……。どうも予定を立てるというのは苦手らしい。みんなは先の見えないときの予定の立て方、どうしてるんだろう？<br><br>げ、電池がない！<br>なんだかバラバラで中途半端だけれど、ひとまずここまで。<br>小説のプロットを紙に書きながら、もう少し予定と優先順位について頭を悩まそう……。<br>
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<pubDate>Sat, 11 Feb 2012 03:15:28 +0900</pubDate>
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<title>主体性は連鎖する。（つづき）</title>
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<![CDATA[ 　Subject: NHK「東北発！ 未来塾」に出演しませんか？<br>題して、「東北発！未来塾　『夢を描くチカラ』～10年後をプランニングしよう！～（仮）（2012年3月11日放送予定・時間未定）」<br>東北のために何かやりたい学生が集まり、描いた夢を実現させようと奮闘する番組です。<br>初回は、情熱大陸やＮＨＫクローズアップ現代などに出演している注目の街作りのプロ、コミュニティデザイナー・山崎亮さん（３８歳）を講師に、１０年後の東北について語り合い、実際にプランニングするワークショップを行います。舞台は宮城県の石巻専修大学。2月28日に100人の学生が一堂に集まり語り合います。<br>東北のために自分も何かやりたい、と思っている皆さん、参加してみませんか？<br><br><br>　メールの差出人は、女川での活動を管理しているNPOの方。同じようにこのNPOを通して被災地のボランティアに参加してくれた学生に送っているとのことだった。<br>　メールを見たとき、すぐに参加しようと思ったわけではない。<br>　テレビとかよく分からないし、９日間短期のボランティアとして被災地と関わっただけの自分が、何を言えるだろうか？　それに今は時間が本当に貴重だから、「行ったら大したことなかった」なんて状況は絶対嫌だ。<br>　でも、ふつふつとわき上がってくる予感のようなものはあった。<br>「出たいな」という想いと、主体性が連鎖していくことへの感動。すげぇ、と思った。一度ほんのすこしの勇気を出してボランティアに参加しただけなのに、ここまで広がるのか。主体性が重なっていくことが嬉しくて、奇跡みたいで、この流れに乗ってみるのも悪くないな、と思った。<br><br>　出よう。その気持ちが心の半分以上を満たしたとき、問題に気付いた。<br>　28日って……卒業旅行じゃん。しかもど真ん中。<br><br>　なんで気付かなかったんだろう、と思った後で、なんで敢えてこの日なんだ、と口惜しくなった。<br>　もうキャンセル料かかっちゃうしな。<br>　現実的なお金のことから、大学生活や人間関係のことまで、色んな角度で選択に悩んだ。<br><br><br>　で、決めた。<br>　今回は、主体性の連鎖に委ねよう。<br><br>　友だちには迷惑をかけたなぁ、と申し訳なく思う。せっかく予約してくれたのに。<br>　学科の友達３０人でグアム！　なんて、今回逃したら一生ない。<br><br>　それでも選んだ、というと恰好良く聞こえすぎだと思う。<br>　長くなるので割愛するけれど、卒業旅行を捨ててワークショップを選択したのには、ネガティブな理由もあったはず。赤裸々に書くことを約束したのだから、そちらも近いうちに曝け出すとして、いま重要なことはふたつだ。<br><br>　主体性の連鎖が繋がった。<br>　理由はどうであれ、状況に左右されることなく本当にやりたいことへ一歩を踏み出せた。<br><br>　これで良かったのかな、なんて不安ももちろんあって。グアムでみんなとあんな思い出できたんじゃないかな、とか可能性への期待感に苦しくなったりもして。<br><br>　だけど、後悔なんてしない。<br>　自分自身の主体性を繋げていく。それを人に伝えることで、周りにも主体性の輪を広げる。主体性は連鎖する。<br>　これが自分の生き方なのだと思うから、それをせめて自分が信じてあげないと、孤独に負けそうになる。<br>　あとは、精一杯残りの時間を工夫して、28日のワークショップもめいっぱい楽しんで、友だちとの時間も別の方法で大切にしていけばいい。とにかく、欲張りに欲張りに。<br><br><br>　……てか、長っ。<br>　あまりにも長いので、ふたつに分けました(・ω・)/
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<pubDate>Sun, 22 Jan 2012 18:05:26 +0900</pubDate>
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<title>主体性は連鎖する。</title>
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<![CDATA[ 　女川でのボランティアから、はや１ヶ月。９日間に集約された経験は未だ自分の中で輝いていて、今すべきことは何なのか、これからお前がしていくべきことは何なのか、とふとした瞬間に問いかけてくる。<br><br>　女川から帰ってきてから、模索していたことがある。<br><br>　伝えたい。<br><br>　被災地に自分から進んで行こうと思う人は、そう多くない。けれど、被災地に行き何かを見てきた人たちが、それを少しでも多くの人に還元することができたら。学んだことが共有され、被災地について、生き方について、みんなが考える機会になれば。<br>　家族と、友だちと、積極的に話をしながら燻ぶるようにその想いはあり続けた。伝えたい。<br><br>「やっぱり、理由をつけずに自分も行っておくべきかなぁ」<br><br>　そう、真剣に言ってくれた人もいる。自分の主体性が「伝える」という作業を介することで、他の誰かの主体性をも生み出していく。ああ、これだ。と思った。<br><br>　伝えることの重要性。就職活動でも、このブログでも、擦り切れるほどに繰り返してきたこと。<br>　合ったテーマのエッセイコンテストはないかな？　どこか体験記を投稿できるところはないかな？　この１ヶ月間、近くの人たちと対話しながら、もっと他に方法はないものかと模索していた。結局、あまり効果的な手段が見つからずすぐにあきらめてしまったのだが、主体的に動いたときには、呆気なくチャンスが舞い込んでくるものだ。<br><br>　ボランティア募集の Webページに載せる体験記を書きませんか？<br>　女川でお世話になった方からの誘いに、普段メールの返信に悩む自分がすぐ文面を打っていた。本当のことを言えば、躊躇がなかったわけではない。「今月中に提出して欲しい」ということは、つまり１月３１日が締め切り。卒業論文の最終提出日と同じだ。<br>　論文が忙しいから無理、というよりは、限られた時間の中でちゃんと満足いく体験記が書けるのかが不安だった。体験記なんて自由でいい、とは言え、自己満足は自分の本意ではない。<br><br>　似たようなことで、つい最近もういっこ葛藤があった。
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<link>https://ameblo.jp/yoshi-pine/entry-11142961953.html</link>
<pubDate>Sun, 22 Jan 2012 15:21:23 +0900</pubDate>
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<title>宮脇先生。</title>
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<![CDATA[ 　火曜日に、横浜国立大学の名誉教授である宮脇昭先生の特別講義を聞きに行ってきた。<br>　世界的に活動する植物生態学の権威ということもあり、講義は海外の大学と映像を繋いでアメリカやフィリピンなど数カ国の生徒たちが参加する、グローバルなものになっていた。<br><br>　まず、行こうと思った理由。<br>　エルンスト教授の講演のときと、動機はたぶん変わらないと思う。今はとにかく、色んな人と会ってその人の考え方や価値観を知りたい。特に、第一線で活躍してきた先人の方の言葉を聞くことは、必ず自分を見つめるいい機会になるはずだ。宮脇昭と言えば、植物を研究している人であれば多くが聞いたことのある名前。現実的に直接話を聞けるチャンスはこれが最後であろうし、ぜひ本人の口から言葉を聞いておきたかった。<br><br>　講義自体は、そんなに目新しいこともなく進んだ。まぁ、そもそもが院生用の授業なわけだから、エルンスト教授のときの「講演」とはワケが違うのは当然。経験や考え方を伝えるというよりは、研究内容を教えることに焦点を当てたものだったと思う。<br>　もちろん授業はすべて英語（そもそも、国大の参加者ですら日本人より留学生の割合が多かった）。宮脇先生はどうやらあまり英語が得意ではないらしく、ご自身でも指摘されていた通り全体的にふわっとした時間になっていた。それが、ちょっと残念。例え先生の英語がいくら流暢であっても、自分の乏しい英語力ではどうせ大差ない感覚を覚えていただろうけど（笑）<br><br>　でも、印象に残った言葉はある。<br><br>　What can you do for your future ?<br>　私も、将来のために頑張ります。　（なぜかここは日本語）<br><br>　もう、これを聞くために長々講義を聞いていんだと思ったくらい。<br>　だって、こうして文字にしてしまえば何のことはない言葉だけれど、それを発しているのは80歳も3つ4つ過ぎたおじいちゃんなのだ（宮脇先生ごめんなさい）。自分は同じ年になったとき、こんなことが言えるだろうか？　未だ世界の様々な地域で植林を続ける宮脇先生のように、社会への、自分への情熱を持って人生を送れているだろうか？<br>　とにかく、話を聞いていてパッションがすごいと思った。年齢的に、ちょうど自分のじいちゃんやばあちゃんが死んだのと同じ年なのに、ここまでの情熱をたぎらせている人が本当にいるのだなぁ、と驚嘆した。<br><br>　見渡す限り学部生は自分ひとりだけだったと思う。平日の夕方に、大学にいるからこそ参加できる特別講義を聞く。これも今のうちしかできない重要なことだったのでは、とふと思った。
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<link>https://ameblo.jp/yoshi-pine/entry-11140947893.html</link>
<pubDate>Fri, 20 Jan 2012 14:38:01 +0900</pubDate>
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<title>ジャン=フランソワ・ミレーさん。</title>
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<![CDATA[ 　８日に、山梨県立美術館へ行ってきた。ずっと「行きたい！」と言い続けてきたけど、前回帰省したときは身延線が復旧してなくて……。９月初めに行ったワシントンナショナルギャラリー展（国立新美術館）以来の絵画展。ついにミレーの絵がたくさん見れる！　と思うだけでわくわく。印象派への足取りを示すための数点をぱらぱら目にすることはあれど、バルビゾン派の、中でもミレーの作品に焦点を置いた展示はいままで見たことがなかった。<br><br>　清水駅から約３時間。途中、身延線が途切れていてＪＲ代行バスに乗り換える。まだ台風の爪痕は残っているようだ。でもそんなイレギュラーがあっても、今回の連れ立ちは両親プラス兄だから、変な気がねはしなくていい。友だちの前でも自分は割と気楽にしているのだけれど、やっぱり乗り換えや移動時間で負荷が大きいと、どうしても誘った方は気を使ってしまう。それに、行き先は美術館。「絵、見にいこ」なんて行ってついてきてくれる友だちは年齢的にも（？）そう多くないし、ゆっくりマイペースに見られるかどうかはまた疑問だ。やっぱり、美術館と買い物はマイペースが一番。<br><br>　さてさて、肝心の作品の方を。<br>　簡潔に言えば、やっぱり、すごかった。<br>　順路に沿ってゆっくりと流れていくスライドは、どれも一瞬ではっとさせられる何かを持っているようで、ひとでは見ることができない世界をキャンバスの窓から覗き見しているような、いたずらっぽい優越感に満たされる。絵の中の人物も、木や鳥や空気も、こっちの存在をこれっぽっちも意識していない。生身の体がある以上この目では感じることができない光景が、切り取られているように感じた。どれだけ技術が発展しようとも、写真では決して勝ることのできない絵画の価値。そのひとつは、ここにあるのかもしれない。被写体たちに、見られている、撮られている、という意識がまったくないのだ。手の届きそうなほど近くに見える人ですら、こちらに気づかず自然体の日常を送っている。一生見ることの叶わない、本当の自然体の美しさ。<br>　だからかもしれない。ミレーの作品の前に立とうとするとき、思わず声をひそめたくなる。しー、っと人差し指を口元に立てて、心の中の自分が注意する。足音を立てずに近づいて、はっとする。自分が少しでも音をたてたら、あの木陰に佇む人はこちらの存在に気づいてしまうだろう。顔を上げて、きょとんとした顔で見つめられれば、目の前に広がるこの完璧なまでの自然は、一瞬で壊れてしまうから。繊細で、奇跡的な自然体の美しさ。それが、ミレーの絵の魅力なのだと思った。<br><br>　他のバルビゾン派の方々の作品も、とても素敵だった。特に、（テオドール・）ルソーの絵なんかは、光を活かすための暗トーンの使い方とかミレーと似通ったところがあるなー、と感じた。ただ、やはり声をひそめたくなるまでの奇跡的な何かは、ミレーの絵にこそ感じるものであるのだと思う。壊したくない静謐な空気感がある。だから、やっぱりミレーが自分は好きだ。<br><br>　……美術に通じた人が見たら、何て言うんだろう？　いろいろ書いておきながら、正直自分は見る目も（たぶん）なければ、知識だって全然ないから、ちょっと気になる。でも、きっと突き詰めるのでなければ、自分がどう感じるかが一番大事なのだと思う。から、いいや（笑）（……ごめんなさい、専門家さんたち）<br><br>　奇跡的なまでの完璧さ。ああ、無駄がないな、という感覚。小説を書くためにジャンルを超えた様々な優れた表現物に触れるようになってから、気付いたことがある。優れた作品には、たとえそれが絵画であっても、小説であっても、映画であっても、この感覚を覚えさせる何かがある。<br>　全部をひとつの箱に入れてしまうような考え方はちょっとリスキーではある。一見蛇足のような文章やラインが作品に深い味わいを加えていることだって多い。だけど、それすらも密かに計算されつくされた作品が、確かにあるのだ。なに喰わぬ顔をしているくせに、その裏で自慢げに笑っているような。作品自体に「どうだ、すごいだろ」と自慢されているような。そんな作品と、そんな感覚。<br><br>　あー、オルセー美術館に行きたい、と思った。ミレーの所蔵が豊富で、何よりも「春」がある。自分がミレーを好きになったきっかけの絵。山梨県立美術館に行って、売店の画集をぱらぱら捲りながら、改めて生と写真の大きな違いを感じたから、余計に行きたくなってしまった。<br>　でも、取り敢えずは村内美術館かな。そして、その前に１月１８日～の、消費者のためになった広告コンクール展（無料！）。仕事も、夢も、趣味も。すべてが相互にいい影響を与えあってるのが、すごくありがたいことだなーと思った。
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<pubDate>Thu, 12 Jan 2012 12:38:48 +0900</pubDate>
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