<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>たくさんの人に日本史を楽しんでもらいたいブログ</title>
<link>https://ameblo.jp/you121ch/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/you121ch/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>日本史好きの僕が、好き勝手に日本史を解説しながら、多くの人に日本史を楽しんでもらいたいと思って書いていきます。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>本能寺の変③</title>
<description>
<![CDATA[ <p>昨日は長くなりましたので、仕切り直しです。</p><br><p><br>明智光秀の共犯者③『徳川家康』</p><br><p>これは強引かもしれませんが、<br>可能性はゼロではないと思います。</p><br><p>これまでの朝廷や羽柴秀吉は明智光秀と手を組むというよりは<br>利用したと思われます。<br>一方で、徳川家康は正に手を組んだと考えられないでしょうか。</p><br><p>注目すべきは、本能寺の変後の行動です。</p><br><p>一般的には、<br>本能寺の変が起こったとき、徳川家康は堺の町を見物してました。<br>豪商として有名な茶屋四郎次郎の財力により伊賀衆を味方につけ、<br>無事岡崎へ戻ったということ。<br>その後旧武田領に軍をすすめ、支配下に置いたとだけ言われてます。</p><br><p>ここに隠れた事実として、<br>・わずか4日後には岡崎に戻っていたこと<br>・旧武田領だけでなく、京都・安土方面にも軍を進めていたということ</p><br><p>特に京都・安土方面に兵を進めたことに注目したい。<br>当然、家康は西へ進む軍を率いていました。<br>一方で、東へ進む軍は部下に任せていました。<br>信長の敵討ちなので当然だという見方もあります。<br></p><p>さらに細かく見ると、羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀を討ち取った後も、<br>兵を引き上げるどころか、しばらく何事もないように兵を進めてました。</p><p>その後、羽柴秀吉より連絡があり兵を引き上げたと言われてます。<br></p><p>当時の情報伝達がどのくらいのタイムラグがあったのかはわかりませんが、<br>すぐに引き上げなかった理由として、<br>明智光秀が逃げてくるのを待っていたのではないでしょうか？<br>そして、明智光秀が討ち取られたのを確認して、兵を引き上げたのではないでしょうか？</p><br><p>少なくとも徳川家康が織田信長の敵討ちをするつもりがなかったのは明白です。<br>それは、旧武田領を支配下に置くには、そこにいる織田軍を討つ必要があり、<br>実際に攻め込んでいます。</p><br><p>織田信長がこの世にいない以上、誰にも気を遣う必要はなく、<br>自分が天下を取るのに有利な状況を作り上げていくためには、<br>羽柴秀吉の独走をさせないことが重要です。<br>これは、その後を見ても明らかで、<br>最後まで秀吉に従属するのを拒んでいました。</p><br><br><p>どうでしょう？<br>可能性はゼロではないと思いませんか？</p><br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/you121ch/entry-11792743277.html</link>
<pubDate>Mon, 10 Mar 2014 21:06:31 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>本能寺の変②</title>
<description>
<![CDATA[ <p><br><br>こんばんは。<br><br>早速、 空いてしまいましたが続きを書きます。</p><p>共犯者といいますが、はっきりしていることは、</p><p>本能寺の変後、共犯者からも裏切られてしまったということです。<br></p><br><p>明智光秀の共犯者①『朝廷』</p><br><p>これは、割とイメージしやすいと思います。<br>織田信長は朝廷を権力構造から</p><p>排除しようとしていました。</p><p>ここでいう朝廷には、天皇も含まれますが、</p><p>実際に動いたのは公家衆です。特に近衛前久と言われています。</p><br><p>信長の動きは、当然朝廷側も把握しており、</p><p>自らの保身のため、明智光秀をそそのかしたというもの。</p><br><p>近衛前久は、朝廷側の最後の切り札だったといわれています。</p><p>若くして関白を勤め、このときは太政大臣として、表舞台へ再登場してました。</p><br><p>近衛前久を疑うのは本能寺の変後の行動によります。</p><p>まず、出家します。そして、姿をくらませます。</p><p>羽柴秀吉により明智光秀が討たれたのちにも、</p><p>京には戻らず徳川家康の庇護を受けます。</p><p>そして、1年後に徳川家康のとりなしで羽柴秀吉の許しを得て京へ戻ってます。</p><br><p>間違いないことは、明智光秀と羽柴秀吉の争いに巻き込まれるのを避けて</p><p>京を離れたわけではないこと。</p><p>徳川家康の庇護を受けるということは、</p><p>相当の実力者から追われていたことが想像でき、</p><p>羽柴秀吉に追われていたと考えて間違いないということ。</p><br><p>そして、羽柴秀吉が関白職に就くため、慣例を守るため近衛前久の養子となったことから、</p><p>やはり、大きな借りを作っていたのではないかと想像できます。</p><br><br><p>明智光秀の共犯者②『羽柴秀吉』</p><p><br>本能寺の変によって一番得をしたのは誰か？</p><p>ということを考えると羽柴秀吉に行きつきます。</p><br><p>まず、中国大返しと山崎の戦いについてですが、</p><p>織田方の諸将に本能寺の変が伝わったのは、同じようなタイミングとみられてます。</p><p>およそ2，3日後です。</p><br><p>ただし、秀吉の行動だけが以上に速い。</p><p>高松城の毛利軍との和睦を完了させて、全軍で引き返してます。</p><p>約10日で、明智光秀を討ち取ってます。</p><br><p>どうも、三木城・鳥取城の兵糧攻めや高松城の水攻めとといった</p><p>戦略と同じように扱われて納得してしまいますが、</p><p>明らかにおかしいところです。</p><br><p>事前の準備がなければ難しいところです。</p><p>特に中国大返しをしたときに毛利軍が背後を突かなかったことからも、</p><p>水面下で和睦交渉が進んでいたことが想像できます。</p><p>もしそうであれば、なぜ、羽柴秀吉は織田信長に援軍を求めたのか？</p><p>説明がつかなくなります。</p><br><p>そして、定説となっている明智方から毛利方への密使が</p><p>羽柴軍に迷い込んだといわれていること。</p><br><p>常識的に考えてこんな凡ミスありえないですよね。</p><p>当然、京都からの道のりでは、</p><p>羽柴軍を抜けないと毛利軍へはたどり着けません。</p><p>仮に迷い込んだのではなく捕縛したとしても、</p><p>高松城は現在の岡山市の北部です。</p><p>羽柴軍は城の北東側に布陣したといわれており、</p><p>毛利軍の援軍はに南西側に布陣したといわれてます。</p><p>密使の送り先としては、小早川隆景だと思われますが、</p><p>羽柴軍の状況次第では毛利輝元の陣（現在の倉敷市）まで</p><p>抜けることを考えれば、海岸側を回り込む経路を取るのが</p><p>確実な方法だと思われます。</p><br><p>なので、密使迷い込んだ説は秀吉側のでっち上げの可能性が高いです。</p><p>むしろ、明智光秀から羽柴秀吉に送られたと考えれば、</p><p>おかしい部分もなくなります。</p><p>中国大返しも含めてほぼすべて納得できます。</p><br><br><p>思いのほか長くなったので、</p><br><p>明智光秀の共犯者③『徳川家康』</p><br><p>は次回に。</p><br><p><br></p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/you121ch/entry-11786649045.html</link>
<pubDate>Sun, 09 Mar 2014 17:59:22 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>本能寺の変①</title>
<description>
<![CDATA[ <p>挨拶から時間が空いてしまいましたが、</p><br><p>最初のネタは『本能寺の変』にすることは決めてました。</p><br><br><p>本能寺の変って謎が多く、未だに解決されていない</p><p>日本の歴史上最大級のミステリーであることは誰もがわかっていることです。</p><br><p>僕らが学校で習う本能寺の変は、</p><p>「天下統一を目の前にした織田信長が京都の本能寺に少数の家来と滞在中に</p><p>羽柴秀吉へ援軍として出陣しようとしていた明智光秀が裏切り、</p><p>大軍で本能寺を囲み、織田信長を討った」</p><p>というものです。</p><br><p>間違いなく僕もこのように習っていて、</p><p>否定するポイントはどこにもないでしょう。</p><br><p>例えば、信長の遺体が出てこなかったことも、</p><p>本能寺が全焼した上、当時と現在とでは遺体を特定する技術の差なのかな？</p><p>と、納得してませんか？</p><p>明智光秀が裏切る数日前に歌会で裏切りを示唆する歌を詠んだことも、</p><p>現在に例えると、犯行予告をマスコミに流すようなものです。</p><p>しかも、国家を転覆させるくらいの犯行です。ありえないですよね。</p><p>でも、当時はそういった風潮があってもおかしくないと納得してませんか？</p><br><p>僕自身もこの当たり前の疑問にたどり着いたのは数年前です。</p><p>僕らが習った歴史では明智光秀の単独犯説に基づくものです。</p><p>これに共犯がいたとしたらどうでしょうか？</p><p>朝廷？羽柴秀吉？徳川家康？</p><p>他にも考えられるかもしれないけど、</p><p>まずは、この３人を例にして歴史のifを考えてみます。</p><br><p>だらだらと長くなるのでとりあえず、ここまで。</p><p>次回は、より詳しく書いていきます。</p><br><p>それでは。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/you121ch/entry-11785465006.html</link>
<pubDate>Sun, 02 Mar 2014 20:58:43 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>はじめまして。</title>
<description>
<![CDATA[ <br>最初になに書こうか迷ってるけど、<br><br>簡単な自己紹介とどんなブログにしようかということを説明します。<br><br><br>まずは自己紹介から。<br><br>名古屋在住の34才で、職業は会社員です。<br>小学校のころから日本史が好きで、<br><br>10代は戦国時代、20代は明治時代、30代の現在は古代に興味を向けてます。<br><br><br>30才を前にして、歴史の面白さを再確認しました。<br>これまでは自分が知ることで満足してたけど、<br>誰かに伝えたい欲求が抑えられなくてブログを書くことにしました。<br><br>どんな感じになるかは試行錯誤しながらになると思うけど、<br>読んでくれる人が面白かったと思ってくれたらいいなと思います。<br><br><br>伝えるのは苦手だけど、よろしくお願いします。<br><br><br>iPhoneからの投稿
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/you121ch/entry-11783236691.html</link>
<pubDate>Tue, 25 Feb 2014 11:45:05 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
