<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>yukimaru</title>
<link>https://ameblo.jp/yuji-mail/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/yuji-mail/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>ブログの説明を入力します。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>山口誓子の俳句他と正岡子規「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる」</title>
<description>
<![CDATA[ <p><span style="color:#ff7f00;">「八十島過ぎて別れて行かむ」と不意に私は口に出していた。気づいて、私は、それを心外とした。</span></p><p><span style="color:#ff7f00;">あたかも私の行く先は、大むかしの防人とおなじく、対馬である。</span></p><p>&nbsp;</p><p>東堂太郎が対馬沖でつぶやく一首は『万葉集』第４期（７３４ー７５９年）の刑部直三野（おかさべのあたひみこ）作</p><p>&nbsp;</p><p>百隅（ももくま）の道は来にしをまた更に八十島過ぎて別れて行かむ</p><p>&nbsp;</p><p>文意は</p><p>&nbsp;</p><p>幾曲がりの道をやってきたのが、またさらに、島々を越えて別れて行くのか</p><p>&nbsp;</p><p>である。</p><p>刑部直三野は上総であるが出身は不明で防人である。防人制度は日本の飛鳥時代から平安時代に律令制度下で行われた軍事政策だ。６６３年、唐と新羅に対抗して百済とともにあらそい白村江の戦いで敗北し、唐に対峙する危機意識を背景に、唐の仕組みを取り入れ、強力な国家体制の実現、国民皆兵制による大規模な国家軍事力の設立、他国（新羅・渤海）に対する宗主の位置づけを目指した。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#ff7f00;">「そら晴れて　日あきらか／鏡のごとき　うな原を／ゆたかに舟は　すべりゆく」と私は、今度は意識してくちずさみ、気分を換えようと試みた。まわりの風情（ふぜい）に全然それはそぐわなかった。四十年前の（ほぼ相接した海路を行った）第二軍軍医森林太郎（もりりんたろう）と今日の私とでは、天候から戦争観に到るまで、あれもこれもあまりに違っていたのである。私は、「かぜなぎて　ひるしずか」とまた声に出し、殊更に苦笑してみたが、たちまち「ほととぎす　忍音（しのびね）ながら／一声に　全（まった）き心を／われは籠めてき」に思い至った。</span></p><p>&nbsp;</p><p>森林太郎は森鷗外の一般名。鷗外（１８６２ー２２年）は島根の出身で、明治・大正期の小説家。評論家・教育者</p><p>陸軍軍医（軍医総監＝陸軍中将相当）、官僚（高等官一等）。代表作『舞姫』（１８９０年）『うたかたの記』（１８９０年）『ヰタ・セクスアリス<span>』（１９０９年）『青年』（１９１０年）『雁』（１９１１年）『阿部一族</span>』（１９１３年）『山椒大夫』（１９１５年）『最後の一句』（１９１５年）『高瀬舟』（１９１６年）『澁江抽斎』（１９１６年）。</p><p>森林太郎は日露戦争（１９０４ー０６年）に第２軍軍医として出征し、そうとう好戦的な文章を遺している。それに比べると、割と厭戦的な小説（『趣味の遺伝』）を遺している夏目漱石とは対照的である。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#ff7f00;">船室に下りて私は横になった。生理的にも精神的にも不快感が募りそうであったから、私は、眼を閉じて眠ろうと努力した。なかなかそれは、山口誓子（やまぐちせいし）の「玄海の冬浪を大（だい）と見て寝（い）ねき」というような眠りではあり得なかった。</span></p><p>&nbsp;</p><p>山口誓子（１９０１ー１９９４年）は京都生まれの日本の俳人。本名は新比古（ちかひこ）。高浜虚子に師事して、水原秋桜子、阿波野青畝らと「ホトトギスの４S」とされたが、のちに秋桜子とともに離反し、『ホトトギス』を脱退、新たな新興俳句運動を展開した。代表句に「流蛍の自力で水を離れ飛ぶ」などがある。</p><p>&nbsp;</p><p>＊</p><p>&nbsp;</p><p>近代日本の代表的な歌人・俳人に正岡子規がいる。最近未知の句が二首発見され、東京台東区根岸の子規庵に保存されることになったが、この子規庵付近の鶯谷は、全国有数のラブホテル街とのこと。ひぇー。</p><p>&nbsp;</p><p>正岡子規は１８６７年から１９０２年まで、３４歳の若さで亡くなったのだが、代表作『歌よみに与ふる書』などを読むと、そうとうエキセントリックな人である。なにせ『金槐和歌集』を愛で、『万葉集』に心を震わせ、『古今和歌集』を罵倒するのだから。</p><p>『歌よみに与ふる書』など冒頭から紀貫之を毛嫌いし、この人よっぽどラブロマンスに興味ない人なんだなーと思わせられるのだが、「芳野山霞の奥は知らねども見ゆる限りは桜なりけり」は、「これが名歌ならば大概底も見え透き候。<span>」と一刀両断。</span></p><p><span>「嘘を詠むなら全くない事、とてつもなき嘘を詠むべし、しからざればありのままに正直に詠むがよろしく候。」などと言われたなら、もう私（ゆきまる）は何と言っていいのか分からない。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span>そんな子規の晩年に、忘れられない歌がある。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span>くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる</span></p><p>&nbsp;</p><p><span>そこでなんで「やはらかに</span>」なのか。自分がもうじき死ぬからだ。子規はそれを自分で分かっていて、仮に来年もその植物に見ることができたなら、それはきっと「やはらか」きものなんだろうな、と自虐めいて聴かれる一種のユーモアだからなのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>それを大西巨人に聞いてみたい。そう思っても、それはもうできない。悔やまれる。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/yuji-mail/entry-12979253881.html</link>
<pubDate>Sun, 20 Sep 2026 14:22:58 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>軍歌『聯隊歌』および大日本帝国陸軍第三二連隊の“悲劇”</title>
<description>
<![CDATA[ <p><span style="color:#0000ff;">第一部　絶海の章</span></p><p><span style="color:#0000ff;">序曲　到着&nbsp;</span></p><p>&nbsp;</p><p>『神聖喜劇』は軍隊小説である。</p><p>陸軍二等兵東堂太郎は新兵教育を受けるため、対馬を渡航する際、対馬要塞重砲兵聯隊『聯隊歌』の二節を口ずさむ。以下はその引用である。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#ff7f00;">世界に仁義の法（のり）を布（し）き</span></p><p><span style="color:#ff7f00;">統（す）ぶる使命の神州や</span></p><p><span style="color:#ff7f00;">舷舷相摩（ま）す玄海（げんかい）の</span></p><p><span style="color:#ff7f00;">怒濤（どたう）をおさへて聳（そび）え立つ</span></p><p><span style="color:#ff7f00;">朝鮮海峡制扼（せいやく）の</span></p><p><span style="color:#ff7f00;">務（つと）めは重し、わが対馬</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#ff7f00;">玉なす汗をぬぐひつつ</span></p><p><span style="color:#ff7f00;">山路けはしき幾十里</span></p><p><span style="color:#ff7f00;">北風凍る玄海（げんかい）の</span></p><p><span style="color:#ff7f00;">怒濤を蹴って幾海里（かいり）</span></p><p><span style="color:#ff7f00;">北と南の砦（とりで）には</span></p><p><span style="color:#ff7f00;">山なす巨砲われを待つ</span></p><p>&nbsp;</p><p>さて、私（ゆきまる）の趣味愛好は、インターネットにおける怖い話・オカルトサイト系の情報収集・見物である。津々浦々にわたってオカルトいじりを展開しているのだが、山形県山形市での情報収集の折、こんな噂を聞きつけた。それは山形市の霞城公園における、乱世の梟雄最上義光の霞城での谷地城城主白鳥某氏の暗殺事件で、以後霞城では“血染めの桜”の咲き誇るのが噂になっていたのだが、そこのコメント欄に、</p><p>&nbsp;</p><p>「そういえば、うちの部隊の第三二連隊は、太平洋戦争時に沖縄に連れられて大変な目にあった。沖縄戦が終結しても部隊はそのまま残って、戦い続けたらしい。彼らが終戦のことを知ったのは、米軍ではなくて、自軍の将校からだったらしい」</p><p>&nbsp;</p><p>と書かれそれを知って私（ゆきまる）は愕然としてしまった。</p><p>思わずそんなわけがあるわけがない、と高をくくってしまったが、そのことを改めて知ったのは、まったく別の沖縄戦の戦記サイト（しかも相当右翼系）からだった。</p><p>&nbsp;</p><p>大日本帝国陸軍第三二連隊（別名霞城部隊）は、奥州きっての勇猛果敢な猛者部隊で、部隊付近の写真屋さんでは記念写真が流行った（戦争に行くから）りしたのだったが、終戦末期にサイパンに連れられて、そのままどこの戦地に連れていかれたのか解らず、最終的に連れて行かれたのが沖縄。</p><p>&nbsp;</p><p>４０００人の兵を引き連れて４人に1人が亡くなり、沖縄戦で自決した将軍牛島満中将の亡き後もそのまま戦い続けたという。沖縄神社庁をはじめとする地元有志は、その頑健（というか愚直？）な敢闘精神を称え、「糸満市戦没者慰霊碑」を建立したとのこと。</p><p>&nbsp;</p><p>せっかくなので霞城公園にも足を運んでみた。すると公園の目の前に（あんまり目の前過ぎて思わずスルーしてしまった）第三二連隊有志による立派にできた「大要」があるではないか！？</p><p>&nbsp;</p><p>こうした“事実”を知ると、山形県民に限らず、沖縄戦における各々の戦いが間近に感じられるとともに、終わらなかった沖縄戦に隠そうとしている、昭和天皇の戦争責任が改めて思い知らされている。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/yuji-mail/entry-12979163341.html</link>
<pubDate>Sat, 19 Sep 2026 14:55:19 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>大西巨人『神聖喜劇』（の引用）を読む</title>
<description>
<![CDATA[ <p>以下は大西巨人『神聖喜劇』の“前奏（プレリュード）”である。なお、邦訳は私（ゆきまる）による。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#ff7f00;">......it&nbsp; is a tale</span></p><p><span style="color:#ff7f00;">Told by an idiot,full of sound and fury,</span></p><p><span style="color:#ff7f00;">Signifying nothing.</span></p><p><span style="color:#ff7f00;">SHAKESPEARE:<i style="font-style:italic;">Macbeth</i></span></p><p>&nbsp;</p><p>（これはたわいのない話である。</p><p>愚か者が語り、狂騒と憤怒に満ちていて、</p><p>何の意味もない。）</p><p>&nbsp;</p><p>本企画は、『神聖喜劇』の引用を中心に、私（ゆきまる）が書評・解説していきます。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/yuji-mail/entry-12979140529.html</link>
<pubDate>Sat, 19 Sep 2026 10:01:03 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
