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<title>メモ帳</title>
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<description>日々考えたことで、心に残ったことを書いてゆくブログ。誰に見せるあてもない、ささいなことが多くなる。</description>
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<title>いろいろ</title>
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<![CDATA[ 私も経験あるけど、<br>子供が大人のお兄さん、お姉さんと出かけるときというのは、<br>「特別」であって、「力のいれどころ」。<br>でも、大人から見た時<br>子供と出かけるのは果てしなくナチュラルで居られる時というか、<br>気を抜いてる時。<br>この差は色んな局面でいつもあるんじゃないかな。<br><br>子供のころは、お祭りの喧騒があまり好きじゃなくって、<br>もっと伝統芸能っぽく雰囲気を統一すれば良いのになぁ<br>とか思ってた気がする。<br>でも、そういう「見た目のかっこよさ」を作る場ではないんだよね、<br>お祭りって。<br>日頃のことを忘れてカオスになるからお祭りとして機能としているんであって、<br>むしろ統制とは逆のところになるんだなぁと。<br>だから色々ちゃんぽんででもとにかく楽しい！というのが<br>お祭りとしては成功なのかな？とちょっと思いました。<br><br><br><br>
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<pubDate>Sun, 08 Aug 2010 23:32:33 +0900</pubDate>
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<title>心の扉を開く より</title>
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<![CDATA[ 河合さんが『ねずみ女房』の話を紹介しているところで、<br>素敵と思ったことを二点。<br>・何かを失わなければ、何かを得ることはできない。<br>ねずみがハトをかごから逃がして、<br>「あれが飛ぶってことなんだ」と理解した時、<br>ハトは居なくなってしまう。<br><br>何か本当に大切なものがわかるときは、<br>絶対に大事なものを失わないと獲得できないのではないかなと僕は思います、<br>と河合先生。<br><br>ここでいわれている、失うものと得るものが同じものとは限らないけど、<br><br>例えばＡを失った時に、初めてＡの価値が分かる、というのもこれの一つかな。<br>「喪失」という体験がその人の人生に与える意義について考える。<br>「もののあはれ」的なお話に感動するのも、<br>この価値を体験するってことなのかな。<br><br>刹那的なものはやっぱり美しい。<br>とはいえ、これが先生のいうことどんぴしゃではないように思うから、<br>しっかり読み込まないと。<br><br>・魂は全てのものと繋がって生かされている<br><br>この東洋的な考え方、好き。<br>今流行りのスピリチュアルな話ではないけど。<br>哲学者の中村先生？が、<br>こんなような話をしていた気がする…。<br>自己を含めその空間を構成している全てのものが、<br>その空間を作っている、みたいな。<br>ちょっと確認しないとわからないけど。<br>西洋が分けて分けて、自己を際立たせて、ってやるのと<br>違う考え方。<br><br>ルグウィンさんが、儒教に影響を受けてると言ってたこととも関係するかな。<br>
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<pubDate>Sun, 18 Jul 2010 02:54:58 +0900</pubDate>
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<title>授業</title>
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<![CDATA[ 「僕たち学者はグラディエーターなんだよね。<br>君たちは授業料というチケットを買って、戦いを上から見られる訳です」<br><br><br>如何にもインテリな先生が言うところがいいね。
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<pubDate>Fri, 16 Jul 2010 17:07:36 +0900</pubDate>
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<title>トイスト</title>
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<![CDATA[ 二人で遊ぶとき、まるで…<br>あんたが動かなくても、生きてるように感じる。<br>アンディがそう思うから。<br><br>/Toy Story2<br><br>トイストーリーの玩具達は<br>動くっていう設定。<br>でも、記号的には、というか存在の背景として「玩具」っていうルールを持ってる訳で、<br>本当は動けないっていう特性もそこに両立できると思うんだよね。<br>動けて生きていて、人格がある設定でも<br>「動けない、生きてない自分」という認識を自分の中に持ってるというか。<br>だからこういう台詞があって。<br><br>ウッディが映画の中で擬人化されて、動いて、人格を持ってるっていうのは、<br>映画上の「玩具が生きてる」っていう目に見える架空のルールなんだけど、<br>でもそういう風に、玩具に完全に独立した人格を持たせるってファンタジーだから<br>ウッディやバズを愛せる。<br><br>それに対して、<br>生きてないっていう本当の玩具の特性を前提とした<br>「アンディがそう思う」から「ウッディは生きている」<br>これは話のテーマとして、違うステージにあるのかも。<br>「生きてる」ジェシーがこれを語るのが、<br>なんだか違うステージが入り混じる感があって切ないというか、リアル。<br>
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<pubDate>Thu, 15 Jul 2010 23:33:23 +0900</pubDate>
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<title>架空のものに価値づけする精神</title>
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<![CDATA[ 文化や教養って、本来は贅沢品というか、<br>生きてゆく為の食欲や睡眠が満たされて始めて<br>欲しくなってくるものと言われているけど、<br>『日々の泡』には、<br>あらゆる生活の欲を全て捨てて、教養に走る人が出てくる。<br>本の為に生活すら困難になって、墜落ゆく様は狂気っぽくて、<br>むしろ教養や理性とは真逆にある本能が働いているようにも思う。<br><br>こうまでとは言わないけど、<br>本来は人間の生活の「彩り」であるべき文化に、<br>生きる為の基本的な設備への投資より力を傾けるということは、<br>良くあるみたい。<br>(その時だって勿論、最低限食べて寝ていなくちゃ生きられないんだけど)<br><br>そういう「霞を食う」みたいな欲求が、<br>本来の、生物が生命を維持してゆく為の欲求に勝るというのは、<br>生命維持のシステムからみたら不思議なエラー。<br><br>社会や知能を持ったことで、<br>人間は、「生きること」を唯一の目的としなくなって、本来のシンプルな生命維持の営みと違う価値体系を作りあげてる。<br>そんな無駄な部分、複雑さが、人間性ともいえる。<br><br>文化や教養を求めるというのは、<br>「意味」を求めるということだよね。<br>人間は色々頭で考えて、<br>人生や生命に意味づけしながら生きている。<br>文化を好きな人がより高等と言うようなことはなくって、<br>ただ、ある種の人達はそれをとても求めるという…。<br>その違いや欲求の程度がどこから生まれてくるのかは分からないけど、<br>一つには、感受性が高いってことになるのかな。<br>記号／精神的なもの、架空のものに、<br>すごく価値をおいてるってことか。<br><br>養老さんが言ってる、<br>「脳化社会」「脳化現象」って、同じことかな。
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<pubDate>Thu, 15 Jul 2010 19:00:52 +0900</pubDate>
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<title>腐女子？</title>
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<![CDATA[ 面白いなぁと思うのは、<br>普通「腐女子じゃないふり」をして社会に溶け込んでゆくものなのに、<br>「腐女子のふり」をしてきたかなぁということ。<br><br>明確、意識的な詐称じゃなく、結果として。<br><br>ヲタクとしてそういう二次創作に育てられてきたから、<br>BLは何の違和感もなく読めるし、同性愛にある危うさは好き。<br>でも、作者さんの腕の良さに拠るもので、<br>男性同士の恋愛が特別な理由で好きということはない。<br>元々少女脳で、ディズニーの様な王道の異性愛が好きだから、<br>夢小説に走った。<br>ってことは、腐女子の定義からは外れるんだよね。<br>今改めて考えると、かなり曖昧な価値観なのだが。<br><br>でも、皆と話したりする中で、<br>BL嫌いじゃないという理由で、気付くとBL好きってことを表明してきたという、<br>これは何だか、面白い心の動きというか、結果だなぁ。<br>
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<pubDate>Wed, 14 Jul 2010 00:13:47 +0900</pubDate>
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<title>７月１４日</title>
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<![CDATA[ ◆「郷愁」と「旅愁」<br><br>"Loneliness felt on a journey" "Melancholy　of journey"<br>"Nostalgia"<br><br>旅等、自分の生活圏から遠く離れたところで感じる気持ちと、<br>自分の原点でもある故郷を恋うる気持ちに、<br>似た懐かしさを感じるのは何でだろう。<br>と思っていたら、日本語で丁度良い言葉があった。<br>郷愁と旅愁。<br>「愁」という言葉にキーがあるのかな。<br>どちらも感傷的だから似ているのだろうけど、<br>こういう風に対極の概念が結果的に相似を見せるのが好き。(これについても何故だか考えたい)<br>遠くと近く。<br><br>(「ノスタルジア」をwikipediaで調べたら、「異郷から故郷を懐かしむこと」という説明があった。<br>旅愁は異郷で感じる思いだから、繋がるところがないでもない。<br><br>旅愁って何に対しての感情なんだろ。<br>旅先の風景に懐かしさを感じているのではなくて、<br>故郷から遠く離れたところにいるから、<br>どちらもそこに無いものに対して侘しさを感じているってこと？<br><br>もしそうなら、旅愁と郷愁は同義になるけど…<br>でも、旅先で感じる気持ちって、必ずしも故郷を懐かしんでるところから生まれてるものなのだろうか。<br>異国に来た拠るべなさがキーだと思う。このまま消えてしまいそうな、どこまでも行けそうな感覚というか。<br>もう少し考えてみたい)<br><br><br>◆透視画法と「アルノルフィニ夫妻」<br>西洋美術史で観た。<br>アルノルフィニ夫妻がこちらを向いて立っている絵で、写真の様に精密。<br>後ろに鏡がかかっていて、それを覗くと、アルノルフィニ夫妻の向こうに二人の男性が見える。<br>これが作者のファン・エイク兄弟で、<br>つまり、絵の外側にいる人、見えない人を、鏡を使って描いている。<br>私達が見ている場所に、エイク兄弟が立っていることになる。<br>それを意識した瞬間、数百年前のその空間が再現されて、<br>私達は夫妻を目の前に見る。<br><br>平面を使って空間全体を作るということ、<br>見ている側(時代や空間を超えた、予想もしない人々)を、画家の創る物語…空間の一部分にしてしまうということ。<br>これって、とても面白い。<br><br>関連して。<br>透視画法は、ある視点から見た風景を忠実に再現する画法。<br>だから立体的に見えるのだけど、<br>それは、こちら側にいる私達に、私達も知らない内に役割を振っていることになる。<br>私達はそこに立つことで、画家の想定した位置に収まる１つの役割を負わされる。<br><br>文学で言ったら、叙述トリックになるのかな。<br><br>◆Part of the World<br>アリエルは海から陸にゆくことで、「世界の一部になりたい」と言っている。<br>なんだか、切実なところのある願いだと思う。<br>世界の一部になるってどういうことか、考察すること。<br><br>◆「ゆりかご」谷山浩子<br>改めて凄い歌詞。<br>書き写して考察のこと。<br><br>「人は人を殺せる　そう作られた」<br><br>そういう動かしがたい事実。<br><br>「暖かな体と微笑みと夢と憎しみと孤独を<br>包むゆりかご」<br><br>・何故この事実を告げているのが「オルゴールの歌姫」「ゼンマイ仕掛けの猫」「絵本」…と、<br>玩具達なのか？作り物であることと関係はあるか？<br>風も教えている。風は自然だなぁ…<br><br>命は歓迎されて生まれてくる。<br>命が尊い理由の１つは、あらゆる可能性を持っているということ。<br>生命はまばゆい光と共に、恐ろしい闇を持っていて、<br>そういう意味では、どちらも同じ「可能性」といえる。<br><br>優しく育てば喜ばしい、路から外れてしまえば恐ろしい、という分かりやすい評価ではなくて、<br>「全てを持ち得る」からこそ歓迎されている、<br>だとしたら、祝いと同時に呪いを受けていることになるし、二つは同じ。<br><br>きっと誰かを殺す、そういう潜在的なものが、小さい身体一杯に満ちている子供がいたとして、<br>その赤ん坊はやっぱり無垢だし、そういう存在自体が「輝かしいもの」だと思う。<br>悪意に満ちた輝かしいもの。となった時、そこに満ちているものを「悪意」という言葉で表してしまうことにすら違和感を感じる。<br>観念の世界では、悪を悪と切り分けられない。(実生活では別)<br><br>誕生の「喜ばしさ」って、そういう恐ろしさを内包して(というか、同じことなのか)<br>成り立っているもの。<br><br><br>◆大学職員を志した理由<br><br>学校って閉じられた場所だと思っていたけれど、そうではなかった。<br>色んなところと関わりながら、自由さを提供している場所、というイメージに変わった。<br>大学が好きな理由は、その放任さにある。<br><br>学生が自由というか、人と組織を始め、あらゆるところの関係が希薄で、<br>先生とも個人的にお付き合いしている人もいるし、殆どゼミに行かない人もいるし…<br>とにかく規制が無い。<br>「閉じられながらも開かれた」というイメージはそういう在り方から来てるのかも。<br>大学という場所を全体に見た時に、<br>放任主義というか、学生としても運任せみたいなところがある。<br><br>管理が適当だから結果自由になっている、という見方ではなくって、<br>その放任ぶりこそが、色々なものを生み出す土壌になっていると思う。<br><br>それを思った時、そうした「自由な風土を守る為」に<br>力を尽くしたり、色々工夫をしていくというのは<br>楽しいことなんじゃないかと思った。<br><br>◆高専という場所、授業の意義<br>高専での私は、とにかく寝ていた。<br>夜はネットをしたりゲームをしたり本を読んだりしていた。<br>で、昼は寝ていた。<br>今思うと、とても申し訳ない。し、もっと真面目に授業を聴いていればよかったなぁと思う。<br>分かりやすいダメ子だった…。<br><br>でも、授業が詰まらなかった訳ではない。<br>面白いと思って聴いていたし、<br>実は卒業してからも、ずっと残っていて私の一部を形成している。<br><br>ただ知識を得るだけなら、本を読んでも良い。<br>授業と自習の決定的な違いは、<br>当然だけど「先生に教わる」ということ。<br><br>何か物事について考える時、「それをどのように捉えるか」という主観は<br>客観的事実・情報と同じ位(それ以上？)大切。<br><br>主観というのは、それまでのその人の生き方が反映されて作られているもので、皆違う。<br>あらゆる交流は主観のぶつかり合い、触れ合いであって、授業もこれに属する。<br><br>自分で本を読むということは、自分の主観で文章を捉えて消化してゆくということなのだ。<br>先生に教わることというのは、「先生の視点」と、その背後にある「先生という人」自体を自分の頭に届けて貰える、ということだと思うのだ。<br>それによって新鮮な発見や、意識の改革・成長が起きてくる。<br><br>ちなみに、合理性でいったら、教えるのが上手い人・下手な人がいると思うけれど、<br>私は必ずしもそうは思っていなくて、<br>例えばぶつぶつ喋って帰ってゆく人がいたら、先生としては怒られそうだけど、<br>それはその先生という一人のひとの個性の表出なのだ。<br>どういう個性の人からどういう観念を提供して貰えるか、全く分からないのが、<br>教えて貰うことの面白さ、と思う。<br><br>そういう意味で、高専では５年という時間を過ごすことが出来た。<br>先生との距離が近い学校だった。<br>そこで教わったことは<br>働き方とか、好きなもの、話し方、価値観、などなどの物事と一緒に思いだせる。<br>これは、とてもありがたいことだったと思う。<br><br>友人が「良い井戸だった」といっていた。これはまさしく良いたとえ。<br><br>◆「グリム童話の世界」高橋義人<br>・ラプンツェル<br>ラプンツェルの塔は、<br>この現世とは違う場所、汚れの無い楽園に彼女が身をおいていることを示している。<br>ラプンツェルはおそらく、人間の言葉が話せない。<br>「ヤー」という応えは、口を開いたまま終わる。<br>それは、彼女が新しい世界を受け入れることを表しているようだ、という。<br><br>→私達現世のものから見た時、塔に閉じ込められて言葉を奪われているラプンツェルの仕打ちは<br>人権侵害、残酷で哀れなものと思える。<br>けれど、それは人間の世界を至上のものとして考えた時のことだ。<br>彼女は現世の言葉に捉われない。<br>彼女は神の世界にいて、彼女の居た世界では、そのような言葉はいらなかったのだ。<br>この認識のずれが、とても興味深い。<br><br>・雪白とばら紅<br>「雪白とばら紅のくまが王子に戻らず、いつまでも熊のまま、暮らし続けてくれれば良いのに」<br>と思う人は多いのでは、という記述に、魅力を感じた。<br><br>くまが王子でした、というのが、本来のハッピーエンド。<br>くまが王子にならなければ良いのに、というのは、魔法が溶けないことを意味している。<br><br>ロマンチックな恋愛に価値観を置く感情とは別の、<br>「恋愛以前の子供＝少女としての人生」に価値観を置く感情が働いているように思う。<br><br>森の中でくまと暮らす、という素朴さ、清らかさがつづくということ。<br>それは、雪白とばら紅の、愛欲を抜きにした、平穏で綺麗な少女としての生き方、関わり方が続くということだ。<br>そこに儚さを感じるから惹かれるのかと思った。<br><br>◆「オデュッセイア」<br>アキレウスとオデュッセウスは対極の面を持っている。<br>どちらも英雄としての基本スキルを備えてはいるけれど、<br>アキレウスが獣的であるのに対して<br>オデュッセウスの武器は「知」だ。<br><br>「知」。唯、頭が良いということではなくて、<br>想像力を持っている、ということだと思う。<br><br>ヘレネが「あなたが本当にそのような作り話が好きなのですね」と、揶揄混じりに言うところがある。<br>妙齢の立派な男性であるオデュッセウスを、こういう風に言えるというのは、彼女が女神だからなのだが、<br>こういう「彼自身の、とにかく作り話が好き」という少年のような面、<br>英雄としては珍しいこうした部分が、彼の人としての魅力を増している。<br><br>◆Jimangの好きなところ<br>Jimangの一番好きな/素敵なところは、「歌で、創造で世界を変えたい」と、<br>思っていること。<br>
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<link>https://ameblo.jp/yukihide0510/entry-10589921145.html</link>
<pubDate>Tue, 13 Jul 2010 22:47:53 +0900</pubDate>
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<title>はじめに</title>
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<![CDATA[ ◆ブログの意図<br>前の学校に居た時、卒業研究のデータ整理に使おうと思って<br>取得したまま、放置していたブログアカウント。<br><br>物書き志望者や考えることが好きなひとは、<br>アイディア帳を持っていることも多いと聞く。<br>私もこの度１日のうちで感じたことを、つらつら書いて<br>あとで眺められるようなものが欲しいと思ったのだけど、<br>実際にあるメモ帳だとデータが雑然とするし、<br>無くしてしまったりするし…。<br><br>というわけで、ここに何かある度に、書いてゆくことにした。<br><br>発見は陳腐なことから始まるかもしれない。<br>陳腐・ありきたりだからと言ってほかさないで書きとめておこう。<br>アイディアを遺しておくことを過剰に意識すると<br>小さいデータの集まりになりがちなので、<br>これは突き詰めてみたいなと思ったことをメモ。<br><br>◆デザイン<br>日頃ブログのデザインは見やすさを重視して選ぶけど、<br>今回は気持ちが大事、ということで、月夜にした。<br><br>夜は想像が促進される。<br>黒歴史を生みやすい時間帯だというけど、<br>心理学的に見ても、自我の歯止めが薄れる時間帯。<br><br>私も夜にぼやーっと考えるのが好き。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/yukihide0510/entry-10589822247.html</link>
<pubDate>Tue, 13 Jul 2010 22:38:47 +0900</pubDate>
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