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<title>yuru-yakaのブログ</title>
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<title>20200524</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size:0.83em;">日本でもコロナウィルスは収束しつつある。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">東京都でも25日に緊急事態宣言が解除され、経済が回復していくだろう。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">約2ヶ月、「Stay Home」の掛け声とともに人々は自粛してきた。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">これから先、元の生活に戻るのか。それとも今回の経験を元に生活は変化するのか。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">個人的に、この2ヶ月はとても面白い経験をさせてもらったと思っている。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">生まれて始めて経験する「自由の制限」に直面した。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">身近なところでは「マスクなしでの入店禁止」から始まり、海外旅行の制限など多々あった。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">そうした制限の中で時に不自由は感じることもあったが、それがストレスになる程でもないというのが印象だ。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">今まで「自由」が望ましいものとされていたが、その「自由」が余分でしかないことが白日に晒されたわけである。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">一方で自由が制限されることで、ストレスを強く感じている人もいるはずだ</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">最近の政治に対する人々の感応度の上昇や、SNSを通じた攻撃性の高さの背景には自粛ストレスもあるだろう。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">彼らにとっては「元の生活」こそがベストであり、今回の自粛は損失として認識されたわけである。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">損失の内容は雇用の話なのかもしれないし、健康の話なのかもしれない。それはとても重大な問題である。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">ただリスクは常に存在していたわけで、それが表面化した瞬間に政治や外部にストレスをぶつけるというのは、やや幼いと言わざるを得ないのではないか。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">ギャンブルに行って、負けた時に店が悪いと主張し、デモを起こす人はいないだろう。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">リスクは常に存在するのである。そのリスクにどう対処するのかを考えることまでが、日常の範囲であるべきだ。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">そういう本来的な「当たり前」を考えるきっかけだったとも言えるだろう。</span></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">こういう状況の中、何が「自由」であるということなのか、という問いを持つに至った。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">憲法で保障されている自由は</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">・思想・良心の自由</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">・信教の自由</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">・学問の自由</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">・表現の自由</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">・集会の自由</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">・結社の自由</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">・職業選択の自由</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">・居住移転の自由</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">・海外渡航の自由</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">等、たくさんあるらしい。日々、これらの自由を行使するのが普通になっているため、意識することは少ないが。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">さて、この中で真に僕にとって自由だというのは、やはり思想・良心の自由なんだと思う。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">外部環境がいかにあろうと、全ては解釈次第であるとするならば、「自分がどう捉えるか」という部分が担保されていれば、ある程度自由である。行動は自分の思想があってこそ、伴うものであり、優先順位は後なのではないだろうか。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">一方で人々が思っている「自由」というのは、行動の自由が何よりも先にあるような気がしている。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">自分が思ったように振る舞う、言葉にする、そういうことを自由とイコールの関係に捉えているのではないか。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">思想の自由は当たり前で、自分が自分でいることも当たり前で、自分の欲求を満たす行動を絶対視しているように見える。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">だから、今回のコロナ騒動で自分の行動が制限されることに対して、過度なストレスを覚えるのだろう。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">この機会に内面に自由を見出せばいいのにな～と思うのである。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">ただ、こうした事態も明日には一服するわけである。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">人々はまた元の生活に戻るのだろう。一過性の事件で終わってしまう気がしてならない。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">まあ、それを悲しむのもお門違いであろうが。</span></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">全くの余談だが、今回のコロナ騒動を受けて、僕はVRへの投資が進むと思っている。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">近いうちにVR上のみで会議、接待が行われる企業が出るに違いない。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">そういう環境の中で固定資産を抱えている人々が負け始める可能性がある。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">リアルからバーチャルへ社会の軸足が移る絶好のきっかけになるのではないか。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">そんなことを考えた次第である。</span></p>
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<link>https://ameblo.jp/yuru-yaka/entry-12599260429.html</link>
<pubDate>Sun, 24 May 2020 21:22:59 +0900</pubDate>
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<title>20200517</title>
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<![CDATA[ <p>14日、政府は39県に対して緊急事態宣言を解除した。</p><p>おおよそ1ヶ月が経過し、幸いながらも事態が収束に向かいつつある現状が評価されたのだろう。</p><p>実際に東京都の感染者数も2桁前半にまで低下しており、緊急事態宣言の継続による地方経済への悪影響と今後の感染被害拡大による公衆衛生上の不等号が反転してもおかしくはない。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>すでに市場はコロナウィルスによる影響を一時的と判断し、株価はすでに下落幅の半分程度を戻している。</p><p>&nbsp;</p><p></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>株価は早々に下落幅の半分程度を戻し、安定して推移している。</p><p>米国ではまだ雇用が回復した兆しはないし、経済活動が回復したわけでもないのにである。</p><p>米国のGDPは4~6月で▲40%になるとまで言われているのに、これでは株価と実体経済が釣り合わない。</p><p>&nbsp;</p><p>こういう時、市場でテーマになっているのは「受給」である。</p><p>実体経済が悪かろうと誰かが買うから、「別に買っておいても大丈夫」という精神のもとで、市場には不思議な安心感が広がっている。</p><p>しかも今回は中央銀行が買ってくれるのである。売ることは当面考え難いことからも、より買いが進んでもおかしくない。</p><p>&nbsp;</p><p>じゃあ、このまま買い上がっていいのかというと、そうとも言えないと個人的には考えている。</p><p>なぜか。それはそもそも何で今回の緩和が始まったのかにヒントがある。</p><p>&nbsp;</p><p>緩和が始まったのは2019年の年末だった。米中通商問題が加熱し、米株が大きく下げたことを受けて、FEDは利下げを行なったのが、きっかけだ。</p><p>その後、緩和を止める機会もないまま、ずるずると市場の期待に答える形で緩和が継続していた。</p><p>そんな折に中国でコロナウィルスによる被害が拡大、アジア、欧州、米国と被害が拡大する中で、FEDは緊急利下げ及びアセットの買い支えに入る。</p><p>米国では経済停止に伴い、雇用減少し、3000万人程度が解雇される中では仕方ないことだったに違いない。</p><p>&nbsp;</p><p>ここで注意したいには、緩和の理由が変化したことだ。</p><p>最初は米中通商問題による株価下落を阻止するのが理由だった。それがコロナによって、信用リスクの担保に置き換わったのである。</p><p>FEDのテーマの中心が移動した以上、少なくとも当面の間は「観察期間」としてバッファーが設けられるはずである。</p><p>つまり何が言いたいのかというと、再度コロナが拡大し、信用リスクが脅かされない限りはFEDが動く理由はないのである。</p><p>そもそもすでに金利は0%に接近しており、動ける余地も残っていない。</p><p>そうなると徐々に実体経済を映し出す形で、株価が下落していく可能性もあると思っている。</p><p>&nbsp;</p><p>まして最近、トランプ氏は対中への強硬姿勢を強めている。</p><p>これは株高を演出するのが困難であることを悟り、11月の大統領選に向けてストロングポイントを「経済」→「外交上のリーダーシップ」に移したとも見える。</p><p>そうなると再度、米国vs中国の図式が持ち上がることとなり、市場がネガティブに反応するというシナリオも十分に描ける。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>ちなみに個人的に最もワーストなシナリオとしては、景気悪化時でのインフレが生じる可能性ということだ。</p><p>今回のコロナで大量に資金が供給された。「お金の価値」が下がったわけである。にも関わらず経済は伸び悩む。</p><p>そうなるとお金の価値はどんどん下がっていくのに、全体的なパイは増えないことから、人々は相対的に貧しくなるのである。</p><p>怒らないとも言い切れないだろう。</p>
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<link>https://ameblo.jp/yuru-yaka/entry-12599252465.html</link>
<pubDate>Sun, 24 May 2020 20:51:03 +0900</pubDate>
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<title>2020年5月10日</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size:0.83em;">生活の変化と価値観の再編</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">2020年4月7日に発表された緊急事態宣言から1ヶ月が経過した。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">日本国内の感染者数はあれから大きく増加した。5月に入ってから、新規感染者&lt;退院者となり、徐々に収束の兆しは見えつつある。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">東洋経済オンラインに整理されているデータがあるので、良ければ参考にしてもらいたい。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">URL : https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">このような状況の中で、改めて振り返ってみると、我々の価値観はこの2ヶ月弱に大きく変化したのではないだろうか。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">典型的なのは自宅勤務という形態が、遍く業態に浸透し、人々の移動をなるべく減らそうとする動きだろう。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">役割型の業務ではなく、チーム型の業務運営がなされている日本において相性が悪いと言われていた自宅勤務が、必要性に後押しされる形で急速に普及した。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">それに伴い、出勤にかかっていた片道50分程度の時間が短縮されたことになる。(2018年にアッとリサーチが一都三県の電車通勤者を対象としたデータを基にしている)</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">URL : https://athome-inc.jp/wp-content/uploads/2018/06/2018061301.pdf</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">その時間を家族との交流や、自学に充てることで、今までの生活に比べて質の高い暮らしを実現している人もいるだろう。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">こうした自由時間が増加することで、今まで以上に格差が生まれることになるのではないだろうか。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">コロナ収束後にまたオフィス勤務が一般的に戻る可能性もあるが、自宅勤務が徐々に根付く可能性も十分にある。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">自宅勤務の割合が少しでも増えれば、きっと格差は広がっていくはずだ。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">前回は教育格差に少し触れたが、Afterコロナの社会では格差が広がることは間違いないだろう。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">また格差の質も以前とは異なるものになる気がする。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">今までは金銭的な格差が基本的に取り上げられてきたが、これに時間と健康が加わる気がしてならない。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">生産性が低い人はF2Fの仕事を行うため、拘束時間が明確に定められ、それに加えて移動時間を消費することになる。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">F2Fの業務は感染症リスクが高く、またストレスも溜まりやすいため健康被害も相応にあると思う。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">一方で生産性が高い人間はある程度、自分で仕事を設計しつつ、移動時間を極力減らし、余った時間を自己投資に充てることができる。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">こう考えてみると、Afterコロナでは格差が広がる可能性が十分にあるといえるのではないだろうか。粗い仮説だけれども。</span></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">この社会変化の中で、不意に疑問に思ったことが、今回のタイトルに書いたことである。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">簡単に言えば、自分の生活の中でソフトとハードのどちらが流動的であり、どちらが主導権を持って変化を率先していくのかが気になっている。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">緊急事態宣言以降、僕らの生活は強制的に変化させられることとなった。ハードが変化したわけである。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">この変化によって我々の価値観は変化したのか。Yesでもあり、Noでもある。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">Noに関しては、ハード→ソフトの変化が困難な事例として、結論づけてもいいかと思う。その背景は別途考える必要はあるかもしれないが。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">一方でYesの方については、これがAfterコロナまで維持され続けるのかを観察しないといけないだろう。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">これが元に戻るならば、一時避難的な変化にとどまり、根本的な価値観再編にまでは至っていないからだ。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">もしハードの変化がソフトの変化に率先するならば、あるいは一定の影響を与えるのならば、Afterコロナの社会は少し楽しみである。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">『安定』を重視し、承認欲求だけで暮らしていく社会が変わる可能性がある。経済第一主義、グローバル化が止まる可能性がある。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">こうして「現代」が終わり、社会変化のダイナミズムが動き始めるかもしれない。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">改めて『君たちはどう生きるか』の問いに向き合わないといけない日も遠くないかもしれない。</span></p>
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<link>https://ameblo.jp/yuru-yaka/entry-12596179800.html</link>
<pubDate>Sun, 10 May 2020 23:46:36 +0900</pubDate>
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<title>20200502</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size:0.83em;">Covid-19と認識の話</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">依然としてウィルスによる社会的な、あるいは経済的な損失が継続している。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">以下のリンクは、また新たに発表されたウィルスによる影響をレポーティングしたものである。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">●経済産業省(基礎資料が見応えある内容)</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">https://www.meti.go.jp/shingikai/sankoshin/seicho_senryaku/003.html</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">●ローランドベルガー(経営コンサル）</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">https://rolandberger.tokyo/rolandberger-asset/uploads/2020/04/RB-COVID19-impact-and-economic-implications_JP.pdf</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">●インキュベートファンド(VC)</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">https://note.com/incubatefund/n/nac53f92aef00</span></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">各々、三者三様の立場から捉えているが、いずれにしても短期での決着を見込む向きは少ない。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">必然的に長期戦になることが想定され、ワクチンが普及するまでは移動が制限される、と見ている人も一定数いるようだ。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">そうなった場合、難しいのはグローバルな基準の制定ではないだろうか。移動を禁止することによる経済的損失は大きい。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">したがって、どこかで人の移動を許可する必要があるのだが、問題はどこで線引きするかである。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">他国の一個人の病歴を一つ一つ把握するわけにはいかないし、かといって国で病気が流行しているからという理由で簡単に受入拒否にする訳にもいかない。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">したがって、根本的な解決策(予防接種、ワクチン製造、グローバルな医療プラットフォーム?…)が生じない限りは、移動障壁は高いままではないだろうか。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">海外旅行が趣味の方々にとっては、かなりストレスフルな時間帯が続くのは間違いないだろう。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">実害的な問題も生じ始めている。近頃、話題になっているのは大学を9月入学にしてはどうかということだ。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">数年前に東大を旗振り役に盛り上がった話題であるが、改めて日経新聞に記載されるなど注目を集めている。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">当時の主導者であった濱田元総長は、この機会に大学のみ入学時期を9月にすることでグローバルな競争力を高めるべきだと主張している。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">9月までの期間はある意味で自由時間であり、ボランティアに打ち込む、資格試験の勉強をする、語学留学に行くなどの期間にすればよいとしている。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">個人的に賛成ではあるものの、大学1年生にならない若者が半年という時間を有効に活用できるのか、といえば難しいというのが正直なところではないだろうか。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">この自粛期間に何らかのステップアップを図る人も大勢いるだろうが、やはりコンテンツの消費といった受動的な態度で過ごしている人も大勢いるだろう。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">それと近しい性質を持っていると推測される人たちを半年、自由にしたところで、大半は無駄にしてしまうのが関の山ではないだろうか。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">もし入学を9月に後連れさせるのであるならば。ある種の拘束力を持ったルールを作れば良いと思う。例えば大学を4年半制にし、最初の半年は課外ゼミのような形で強制的にコースを選択するなどである。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">そうすれば、今の暦上のスケジュールを変更することなく、実質9月入学にすることも不可能ではないだろう。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">高校以下も9月にするというのもあるだろうが、大学よりも大きな反発が見込まれることから、まずはやはり大学が態度を決めてからになる。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">ちなみに面白かったのが、以下の記事。大学生がウィルスによる景気悪化を受けて、大学中退を考える割合が増えているという内容である。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">●時事ドットコム</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">https://www.jiji.com/jc/article?k=2020043000177&amp;g=soc</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">学費を払えないという学生には同情を感ずる一方、「大学にいる意味がない」と思うのであるならば、辞めた方がいいのではと思う。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">ここ10年は景気が好調で、モラトリアム期間に年間で100万超のお金を払っても罪悪感を感じることなしに、過ごすことが出来ていただけで、本来は価値がないものにお金を支払う義理はないはずだ。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">足元は確かに大学が封鎖され、場所やF2Fの講義というサービスはなくなっているかもしれないが、本来的な価値である学業、学び自体は維持されている。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">にも関わらず、「お金がもったいない」という理由で中退を考えたというのであるならば、自身が見出した大学への価値がその程度だったというだけではないか。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">最初に書いたように学びたいのに学べない人達には同情している。国や自治体がサポート出来るのであるならば、何とかサポートして欲しいと思う。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">ただし、それにも限界があり、申し訳ないが大学教育＝プラスαの教育という観点で考えると、国や自治体を責めるわけにはいかないというのが意見である。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">Withコロナ、の社会において、きっと経済格差は拡大していくだろうが、その時にこうした教育機会の不平等はテーマになるだろう。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">一つのイシューとして、「どこまでを教育機会とするのか」が問いになるような気がする。そして個人主義全盛の中で、結局は当人の努力次第、みたいな結論で解決を先延ばしにするのが関の山ではないかな。</span></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">違う話題も少し書いておきたい。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">少し気になっているのは、何を持って「理解した」とするのかということだ。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">『宗教的経験の諸相』の上巻を読んでいて、宗教を理解する、宗教的感情を認識する、等の言葉が出てくるのだが、どういう過程を踏まえることで理解したということになるのか。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">一つには「分類」があるだろう。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">「〇〇とは▲▲に属しているものである」のように、既存の体型に組み込むことで、対象を理解したとするのである。これが現代の科学全盛の中では、スタンダードなのではないだろうか。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">社会的に、共通の概念として持ち出すにはとても使い勝手のいい理解の仕方である。これの良いところは、似たようなものとの類推が可能になるということだ。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">「Covid-19は過去のコロナウィルスが変異したものであるから、熱に弱いに違いない」</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">そういう主張ができることによって真偽は定かではなくても、対象に関する考察を拡張していくことができる。これは手がかりになる一方で、情報量が膨大になりすぎる傾向があり、本質を見失いかねないのが難点だ。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">一方で個人として「理解する」だけであるならば、それに対して「意見を持てるのか」も一つの軸になるのではないか。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">僕は女性の化粧に対して意見を持てない。それは意見を持つほど、知らないからだ。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">一方で教育だったり、経済だったり、については意見を言えるくらいには、「自分なりの視点で」理解している。それが自分として理解出来ているかどうかの基準なのだと思う。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">これは他者に共有することが難しく、常に主観性を伴うため、汎用性は高くない。ただ自分の人生を過ごすという観点で見れば、これで必要十分なのではないだろうか。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">そういう意味では理解することのハードルはある意味で高く、ある意味ではとても簡単なことなのかもしれない、とモヤモヤしたことを考えていた次第。</span></p>
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<link>https://ameblo.jp/yuru-yaka/entry-12594161438.html</link>
<pubDate>Sat, 02 May 2020 23:04:12 +0900</pubDate>
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<title>20200425</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p>2020年4月25日</p><p>&nbsp;</p><p>コロナウィルスによって表面化した社会の底流</p><p>&nbsp;</p><p>緊急事態宣言が実施されてから、2週間強が経過した。一部の日本人は通常通り外出しているが、かなり減っているというのが実態である。</p><p>宣言自体に強制力がないという点で効果を疑問視している人間もいたが、その心配は杞憂に終わったといってもいいだろう。</p><p>国が期待する8割減というのは達成できていないが、それでも減少しているのだから「やってよかった」ことに変わりない。</p><p>&nbsp;</p><p>社会もこれに合わせて大きく変わってきている。</p><p>一つにはテレワークがある。今まで日本でテレワークは実施不可能と言われてきた。仕事分担ではなく、チーム仕事という側面が強いというのが一つの理由だ。</p><p>あるいは個人の成果に努力が項目があるため、テレワークでは評価できないというのも理由だろう。その他に不明瞭なコミュニケーションを好むというのもある。</p><p>そうした訳で困難とされていたテレワークを強制的に実施せざるを得ない状況になり、慌てて導入して、なんとか回しているのが実態だろう。</p><p>だが、企業が想定していたよりは問題なく、回っているというのも事実だ。会社に行かなくても成立する、ということに徐々に気づきつつある。</p><p>&nbsp;</p><p>また人々の娯楽のあり方も変化している。家から出れないという制限はレジャーにとっては極めて向かい風だ。</p><p>この制限下で出来ることといえば、映像コンテンツ消費、日常の充実くらいである。ただ、これらは内向きであり、外部との接点はない。</p><p>だからこそ、Zoom飲み会という珍奇なものが流行っているのだ。きっとBefore Covid-19 だったら考えられなかっただろう。</p><p>だが、これもメリットがある。家だから誰にも迷惑をかけない点。移動時間を必要としない点などがある。</p><p>もし自宅制限が長期化し、Zoom飲み会に慣れてきた場合は、これも一つの選択肢として今後も存続し続けるかもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>そうした場合、どの産業が伸びて、どの産業が衰退するのか。</p><p>衰退するのはわかりやすい。飲食店である。店はサービスと場所を提供する代わりに、原価プラスの値段で提供している。</p><p>そのサービス自体が代替されるのであるならば、店という場所の価値は下がる。特にZoomで代替されうる店の場合は特にだ。</p><p>では代替される店はどのような店か。それにはZoomの良さを一旦、考える必要がある。</p><p>1つは、話が外に漏れないということだ。愚痴をいくら言っても、誰かが聞いている可能性はない。好き勝手に話せるという魅力がある。これは個室に近いということだ。</p><p>2つは、静かであるということ。雑音がないため、話に集中できる。それも喧しい店に比べたら、都合がいいのではないだろうか。</p><p>これらを踏まえると、大衆居酒屋全般が相手になるのではないか。特にチェーン店のような形態は、代替される可能性がある。</p><p>&nbsp;</p><p>また少し違う視点で見ると、男女差があるかもしれない。女性は外出するために、化粧をして、ファッションを気にする人が多い。</p><p>ただZoomで気心を知っている人と飲む場合は、特に化粧をする必要がない。多少、乱れても特に問題がないのである。</p><p>とすると、女性を対象とした飲食店も難しいかもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>反対に伸びる産業はどこだろうか。</p><p>上に書いた飲食関連に絞ってみれば、デリバリーもあるかもしれないが、小売の食品販売業の方が効果は大きいように思う。</p><p>&nbsp;</p><p>https://rolandberger.tokyo/rolandberger-asset/uploads/2020/04/CGR-STUDY-COVID-19_summary.pdf</p><p>&nbsp;</p><p>このレポートにあるニーズを確認すると、スーパー、コンビニのニーズは増加している。</p><p>特に興味深いにはコンビニの増加が2%なのに対して、スーパーの需要が14%増加していることだ。</p><p>2%というのは1000円使っていたのが、1020円になったということだ。あまりに影響としては小さいのではないか。</p><p>一方でスーパーは14%である。これは如実に増加している。普段スーパーを利用していなかった層が確実に利用し始めていると言えるのではないだろうか。</p><p>これが意味しているのは単なる一時的な買い込みというだけではなく、消費実態の変化である可能性があると思う。</p><p>具体的には、家で料理を実施する人の割合増加である。普段は外での食事で済ませてしまう人が、料理を始めているのではないだろうか。</p><p>実際にGoogle trendで「レシピ」の検索数を調べてみると、明らかに直近で増加していることがうかがえる。</p><p>普段料理をする人が、急にレシピを検索し始めるとは考え難いことから、新規で料理をし始めた人が増えたと言えるのではないだろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>この場合、料理をする人が増加することで、デリバリー業界への影響はそこまで大きくならない可能性が高いと思う。</p><p>これまで通り、デリバリーは「プラスアルファの贅沢」という位置付けを社会的には出ないということだ。</p><p>とすると、After Coven-19 の社会では、今増加しているデリバリーを受注する企業のニーズが減少することになる。こんな風に僕は今、考えている。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>これが今週時点で、経済に対して考えていることである。</p><p>一方で、もう少し広く社会ということで疑問に思っていることを書いてみたい。</p><p>それは「宗教・思想」の価値づけの低下ということだ。近代になって役割を失いつつある宗教の位置付けがさらに下がる機会になるように思う。</p><p>それは今回の騒動が、宗教上の教義を一時的に無視しうる緊急事態として認識されているということだ。</p><p>Virusによって死亡した人の死体は原則、早急に火葬する必要がある。それは葬式の前に、である。</p><p>またユダヤ教のように土葬が一般的な宗教であっても、火に焼かれて、遺骨を渡されるという状況になっている。</p><p>これが何を意味しているか。宗教は状況によって、「可変である」ということであり、「状況に遅行する」ということだ。</p><p>&nbsp;</p><p>これは宗教はそれ自体として確立された原理・原則というわけではなく、あくまで「状況によって変化しうる選択肢」であるということなのだ。</p><p>宗教は平時だから実施できるものであり、そうでない場合は守らなくてもいい場面が多々あるという例外が色々と出てきたのである。</p><p>教義が緩まることで、徐々に信心にも緩みが出てくると思う。そうしてAfter Covid-19の世界では宗教は過去の遺物の側面を強めることになるだろう。</p><p>ただ警戒したいのは、一部の過激派が緩んだ信心を強めるために、宗教色の強い戦争等を起こさないかである。</p><p>ちょうど大統領選が控える中で、米国主義の中に強くキリスト教色をアピールするのではないか、中東が経済危機も併せて解決するために宗派間の戦争を起こすのではないか。</p><p>そんなことが少し警戒される。宗教には利権がかなり絡んでいるのだから。</p><p>&nbsp;</p><p>大まかにこんな感じの流れをイメージしている。</p><p>何もなかったで済まされればいいのだが、そこまで物事は簡単に終わらないような気がしてならない。</p><p>生活スタイルの変化の中で、新たな価値観が生まれる。</p><p>それが今まで言語化されていなかった社会の底流を表面に浮き上がらせ、破壊的なイノベーションになる可能性があると思っている。</p><p>それが何にしても「物語」なのではないだろうか。</p>
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<link>https://ameblo.jp/yuru-yaka/entry-12593371369.html</link>
<pubDate>Wed, 29 Apr 2020 22:20:09 +0900</pubDate>
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<title>2019年4月1日</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p>2019年4月1日。</p><p>11時半。新しい元号「令和」が菅官房長官より発表された。</p><p>&nbsp;</p><p>「令和」</p><p>なぜか人々は興奮しているように見えた。</p><p>新しい時代への期待からなのか。</p><p>言い慣れない響きへの興味なのか。</p><p>それとも遣る瀬なさからなのか。</p><p>&nbsp;</p><p>「平成の終わり」</p><p>僕が感じたのは、ただそれだけだった。</p><p>始まるものなんてどうでもいい。</p><p>それはこれから作られるものであり、今はないものだ。</p><p>ないものにどうやって興味を抱けるのだろう。</p><p>白紙と写真が並んでいたら、写真を見る。それと同じだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>「平成が終わる」</p><p>そのこと自体は出来事であり、価値云々は存在しない。</p><p>全ては人の解釈次第で二次的に生まれる。</p><p>そのことを承知した上であえて言いたい。</p><p>平成こそが全てであると。</p><p>僕が好きだったものは、あるいは好きなものは平成のうちにあった。</p><p>それらが「終わり」を迎える。</p><p>「平成」が、「それを生きた自分」が過去にパッケージ化される。</p><p>あまりにも残酷だとは思わないだろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>「パッケージ化」</p><p>過去にパッケージ化された、まさにその瞬間に自分から切り離されたものになる。</p><p>不可逆であり、そこにはもう譲歩は存在しない。</p><p>圧倒的なまでに残酷な「死」がそこにあるだけだ。</p><p>&nbsp;</p><p>僕にとって平成が全てである。</p><p>その全てが過去になる。</p><p>その瞬間、自分は何を思うのだろうか。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/yuru-yaka/entry-12451266717.html</link>
<pubDate>Mon, 01 Apr 2019 22:33:05 +0900</pubDate>
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<title>気になったこと【17】〜デスカフェでの出来事〜</title>
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<![CDATA[ <br>約1年ぶりにデスカフェに参加をしてきた。<br>社会人になってから、形而上学の色味が薄れていることは感じていた。<br>抽象から具体へと課題が移り変わり、ともすれば明日の事だけを考えるのが当然になっていた。<br><br>それに気づかされただけで参加した甲斐があった。<br><br>昨日のテーマは「弔い」。<br>各自の思い描く「弔い」について語るというのが、一応の切り口であった。<br>まあ話は逸れに逸れるのだが。<br><br>基本的に「弔い」で想起されるのは、葬儀などであろう。でも葬儀だけでは収まらない意味を見出す人もいるはずである。<br><br>僕は後者だ。<br>過去の自分を「弔う」ことがある。<br>死別ではなくても、縁切れた人を「弔う」ことがある。<br><br>僕は「弔い」という言葉には、そのような用法があると思っている。<br><br>じゃあ本質的な意味は何なのだろうか。<br>何をもって、「弔い」とするのだろう。<br><br>昨日のカフェを通じて感じたのは<br><br>・何か対象について思いをやり<br>・それに対して納得していく<br><br>一連の流れこそが「弔い」なのではないかということだ。この意味では上記の用法は満たされる。<br><br>ただこの意味では、寂しさが拭えない人もいるはずだろう。<br>その根本には「弔い」が死者に対して行う、いわば献身的な行為としてのイメージがつきまとっていることがあると思う。<br><br>偲ぶという概念が「弔い」と結びつき<br>行為が他者のために置き換わる。<br><br>でも、それは真実なのだろうか。<br><br>死後の世界を信じるならば、真実であろう。<br>現世の人間が祈ることで、死後の霊魂が救われるならば弔いは死者に向けた行為であろう。<br><br>僕は残念ながら、死後の世界については分からない。<br>分からないから、それを前提としたくない。<br><br>となると上記の論理はやや的外れになる。<br>すると「弔い」は自分のためになるのである。<br><br>フロイトがいう「喪の作業」なのである。<br>別れた対象を思い、徐々に不可逆性を受け入れていく過程が「弔い」の意味することなのではないだろうか。<br><br><br>また来月、予定が合えば参加しようと思う。<br>自分の次に若い人間が50歳で、最高齢が86歳のコミュニティで対等に話せる場所などはなかなか見つからないだろうし、大切にしていきたい。<br><br><br><br>＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊<br>頭の体操<br><br>・「弔い」とは何か。<br>・今年あったことで、「弔い」たいことは何か。<br>・今年の自分を漢字で表すとしたら。<br>・死がある生の中でどう生きるのだろうか。<br><br><br>＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
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<link>https://ameblo.jp/yuru-yaka/entry-12423085683.html</link>
<pubDate>Sun, 02 Dec 2018 11:01:21 +0900</pubDate>
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<title>マーケットのこと【11/28】</title>
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<![CDATA[ <br>今日は頭の整理も兼ねて、マーケットの話を。<br><br>ここ最近、センチメントは悪化の一途を辿っている。株価は調整局面入りし、原油価格はとっくに弱気相場の仲間入りをしている。<br><br>その元凶は何か。<br>大きく2つ。<br>まずは米中通商リスク。先月の3Q決算期に漸く貿易関連企業が通商リスクによる実害を口にした。<br>それと同時に中国は国内経済保護のために、それまで続けていた金融正常化を棚上げし、市場の下支えと金融緩和を示唆した。これにより中国経済が思いの外悪いことが連想され、唯一好調な米経済にも悪影響が及ぶとの懸念が高まり、株価が売られたのである。<br><br>次に米国の中立金利について。<br>FOMCは中立金利に向けて、利上げを行なっている。その中立金利が経済の強いうちは高く設定されるが、それを織り込んで金利が上昇すると、株価とのアンバランスが如実になり、結果として調整せざるを得なくなる。株高局面では米金利の上昇に株価がついていけなかった。そのために無理やり織り込む形で、株安が発生したのである。<br><br><br>ここで立ち止まってみると、要は米中の景気が全ての発端であることが分かる。<br>当然、各地域には各地域の要因はあるだろうが。<br><br>じゃあ本当に景気は悪いのか、というのが次の収益機会につながる問いであろう。<br><br>この答えを知っていたら、きっと翌3ヶ月の間に20%くらい儲けることが出来るだろう。<br><br>答えは分からないまでも予想することは出来る。<br>僕の予想は景気はダウントレンドではあるものの、市場が織り込んでいるほど急激に悪化しないと考えている。<br><br>12/1の米中首脳会談では前進を見せるはずだ。<br>中国経済の不透明性と、2020年に控えた大統領までに支持率向上をトランプが意識するからだ。<br>どちらも、表面的には譲らないだろう。<br>だが、チキンレースを続けるほど、猶予があるとは思わない。故に今回は前進する可能性が高い。<br><br>前進した場合はどうなるか。<br>市場は素直に株高金利上昇する。<br>それはこの水準で買いたい人がいないからだ。<br><br>ただ注意をしたいのは、景気が後退局面であることに違いはないことだ。あくまでも短期的に株高になることを予想しているのであって、最高値を更新し続けるだけの過熱感が伴うとは考えていない。<br><br><br>と、まあこんな感じで資産形成をしてみようと思う。<br>短期:中国、アメリカ株買い<br>長期: 先進国債券 買い<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/yuru-yaka/entry-12422210435.html</link>
<pubDate>Wed, 28 Nov 2018 19:45:56 +0900</pubDate>
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<title>気になったこと【16】〜意識高い系〜</title>
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<![CDATA[ <br>気づくと「意識高い」という言葉を受け入れていた。<br>少なくとも高校に入るまでは知らなかった言葉だ。<br>それがいつしか当然の語彙になり<br>当たり前のように使うようになった。<br><br>望ましくないニュアンスを含めて受け入れている。<br><br>でも、意識が高いとはどういうことか？<br>視座が高いなら分かる。目標が高いなら分かる。<br>でも「意識」が高いとは？<br><br>僕にはいまいちイメージが出来ていない。<br>「高尚な」、翻って「無意味な」ことを意識的に達成しようとするというという点で、意識の高低は計られるのであろうか。<br><br>ちなみに僕はこの言葉が好きではない。<br>少なくとも市井の人々の使い方は、ハッキリ言って嫌いである。<br>そこに人間としての醜さを見い出すからだ。<br><br>各自が目標に向かって努力をすればよい。<br>したくないなら、しなければ良い。<br>だが、それではつまらない。<br>だから頑張る人を詰る。<br>そして自分の地位を相対的に上昇させる。<br><br>その際に用いられる言葉が<br>「意識高いね」<br>なのである。<br><br>この言葉に<br>・自分が努力をしていない<br>・その自分を認めたくない<br>・でも自分の地位を向上させたい<br>・そのために他人をおちょくる<br><br>といった人間の汚さが出るのだ。<br>とても醜い言葉だと思う。<br><br><br>僕は意識高い人間でいたい。<br>他人から見れば無駄に高尚で、無意味な目標に向かって努力したい。<br>それを笑いに変える人々と一緒にいるのは、時間もお金も無駄だと素直に思う。<br><br>とまあ愚痴とも文句ともつかないようなネガティヴなことを書いてはいるが、別段社会に対して不満が溜まっているわけではない。<br>ただこういうことに気づく人々で、世界が満たされたら良いのになと思うだけである。<br><br><br>多数が勝つ世の中ではなく<br>思慮深さで勝つ世の中で生きていたい。
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<link>https://ameblo.jp/yuru-yaka/entry-12421974675.html</link>
<pubDate>Tue, 27 Nov 2018 19:03:42 +0900</pubDate>
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<title>思考放棄【6】〜所有と自己〜</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p>連投になってしまうが、今度は考えていることを少々。</p><p>&nbsp;</p><p>ここ最近、所有という概念について不思議に思うことがあった。</p><p>言うまでもないが、所有とは「これは自分のものだ」という概念だと思う。</p><p>でも「自分のもの」とは一体、どういうことなのだろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>自分の洋服。自分の仕事。自分の本。自分の友達。</p><p>&nbsp;</p><p>僕はこれらに対して、「自分のもの」という体感を持てていない。</p><p>というか何をもって「自分のもの」として良いのかがわからない。</p><p>&nbsp;</p><p>そもそも所有権が市民に認められたのは、割と最近のことであったはずだ。</p><p>個人が確立された近代になってから、本格的に認められたものである。</p><p>&nbsp;</p><p>ここで疑問が生まれるかもしれない。</p><p>いやいや、権利としてはそうだけれど昔の人も自分の畑を持っていましたよねと。</p><p>なんなら動物たちも自分の縄張り、自分の食料などをアピールしていますよね。</p><p>&nbsp;</p><p>もっともである。所有は確かに古来からあった概念のようである。</p><p>だが所有のあり方が変わったように思う。</p><p>&nbsp;</p><p>単に保有しているというのは、確かに昔からあったと思う。</p><p>だが、それが「自分で処分してもいい」に変化してきたのは最近な気がするのである。</p><p>&nbsp;</p><p>今の僕たちは、処分の自由をもって所有権を定義しているように思う。</p><p>だが動物やかつての人たちは「自分のものを処分」することはできなかったはずだ。</p><p>少なくとも、今ほど簡単ではなかったはずなのだ。</p><p>動物に処分するという概念が存在しているとは考え難いし、昔の人たちは領主やイエに縛られ</p><p>処分には自分以外の許可を得る必要があったのではないかと思っている。</p><p>&nbsp;</p><p>一方で今の社会では、処分の多くは全て個人に委ねられている。</p><p>処分にかかるコストもかつてとは比べものにならないほど、低下している。</p><p>&nbsp;</p><p>そんな状況だから、僕たちは所有が当たり前の権利であるように受け入れる。</p><p>そして自分以外の全てを所有の概念で捉えてしまうようになる。</p><p>その弊害の一つが、共依存であり、現代の若者のSNS疲弊であろう。</p><p>所有の概念で他者を認識すると</p><p>&nbsp;</p><p>君は我　我は君なり　故に仲良し</p><p>&nbsp;</p><p>となる。相手は自分の欲求を満たす手段に成り下がってしまう。</p><p>ここに現代の課題が一つあるように思う。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>これらを踏まえた上で、本題に入りたい。</p><p>僕たちは上で述べたように、ほとんど全てのものを処分できる社会で生きている。</p><p>だが、本質的に処分できないものが少なくとも1つ存在している。</p><p>&nbsp;</p><p>それは何か。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>「自己」である。自分は自分以外として生きることができない。</p><p>他のものは全て取り替えることが出来るのに、「自己」だけは取り替えることができない。</p><p>となると自己は所有しているのではない。</p><p>自己は所有させられていることになる。</p><p>&nbsp;</p><p>所有させられている「自己」は単なる負担である。</p><p>不快ならば取り替えることに慣れてしまっている僕たちにとって</p><p>取り替えられない「自己」は厄介な存在なのである。</p><p>&nbsp;</p><p>こうした理由から、僕は「自己」を負債であると考えている。</p><p>&nbsp;</p><p>だが、別にネガティブなことを言っているわけではない。</p><p>何もしなければ負債である。</p><p>だが負債は返済すればいいだけである。</p><p>&nbsp;</p><p>負債には責任が伴う。</p><p>「変えられない自己」を全うしなければならないという責任である。</p><p>でも負債は返していけばいい。</p><p>多少の困苦はあるかもしれないが、返すことはできるはずである。</p><p>&nbsp;</p><p>その返済過程で、僕たちは「自己」と対峙し</p><p>「自己」に価値を見出していくのだと考えている。</p><p>&nbsp;</p><p>故に負債であるとは思っているが、それは決してネガティブではないのである。</p><p>最悪、自己破産を申請すればよい。ただそれだけだ。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>とまあ、こんなことを考えている。</p><p>だからこそ、自分に責任を持って生きたいと思うのである。</p><p>そして自分の責任を全うしていない、あるいは全うする必要を自覚せずに</p><p>呆けている人間と何かをする機会を持つと、困ってしまうのである。</p><p>&nbsp;</p><p>自分に責任を持つことは別に難しいことではない。</p><p>約束を守るとか、何かに向かって努力するとか、その程度である。</p><p>&nbsp;</p><p>その程度のことであっても、できていない人間は多い。</p><p>当たり前を当たり前にする人間が減ってきているのかもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>虚しい時代になったものだと思ってしまう、今日この頃である。</p>
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<link>https://ameblo.jp/yuru-yaka/entry-12421090762.html</link>
<pubDate>Fri, 23 Nov 2018 20:34:48 +0900</pubDate>
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