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<title>リブレディオ研究所</title>
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<title>情熱の提議</title>
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<![CDATA[ 本日の勉強会は、私の個人的な企画によって実現した勉強会であり、看護部長をはじめ、多くの人たちの協力によって実現したことに、まず感謝を申し上げたいと思います。それと同時に、私は皆さんに謝らなければならないとも感じています。なぜならば、これから私は、私たちのグループを批判します。そして、私たちの施設を批判します。また、皆さん方を批判します。そして最後に、今日の自分自身のあり方について批判をするからです。<br><br>私は今年の４月より、一般棟のΒチームを任されることになりました。主任としての責任を全うしようと努力する中で、私の内面にはある疑問が生まれ、その疑問が日に日に大きくなり、強烈な危機感にまで発達することになりました。今日はぜひ、皆さんにも私の中に生まれた疑問を共有して頂きたいと思います。皆さん静かに目を閉じて、自らの胸にこう問いかけてみてください。<br><br>『入職して3年目の一般職が、ここでは今以上の成長が望めないから、他の施設で自分を磨きたいと訴えられた時に、私たちはそれに反論できるだろうか？』<br><br>あらゆる戦略には、人材が不可欠です。どれだけ高尚な理念も、それを実践する人材がいなければ、ただの文字の羅列に過ぎないわけです。けれども、その貴重な人材を繋ぎ止める魅力が、自分たちに備わっているとは到底思えない。例え何の改善も見せなくても、経営という視点においては、事業は継続できるのかもしれません。けれども、私たちのモチベーションを維持するために重要な、企業の成長という意味において、私たちは重大な危機を迎えていると感じているわけです。<br><br>なぜだろうか？考え出すと様々なほころびが見えてきます。けれどもそのあらゆる欠陥は、たったひとつの致命的な欠陥によって生み出されていることが、突き詰めて考えると見えてくる。いったいそれは何か？キーワードは情熱です。<br><br>グループが主催する研修の中で、私たちは世間の流れについて学びます。今後の介護はこうあるべきだと、世間の先端に追いつこうと躍起になっています。言い換えると、私たちのグループは、世間が生み出した成果の後追いをしているわけです。なぜだろうと、私は疑問を持ちながら研修に参加します。私たちが本気になって、自らの持つグループメリットと可能性を最大限に活かそうとするならば、私たちは時流に乗るのではなくて、時代の流れを作る側になれるのだと、私は確信しています。けれども、どのような研修に参加しても、そうした情熱を感じることはありません。<br><br>はたして私たちの施設は、あるいは皆さん自身は、自らが持ちうる可能性を最大限に発揮していると言えるでしょうか？利用者により良い生活を送ってもらうために、スタッフが何かしらの提案をした時に、それが過去の習慣に照らし合わせて不都合があるからといって、安易に諦めることをしていないでしょうか？より良い提案と、過去の習慣がぶつかり合った時に、変更されるべきなのは、提案ではなくて習慣の方だと私は思います。それがマニュアルであれ、システムであれ、未来への活力を阻害する要素はただちに変更されるべきだと私は思うのです。けれども私たちは前例にしがみつく。過去に築かれた仕組みを忠実に守ることが、自分たちの仕事だと思い込む。それが偏った習慣であるにも関わらず、それまでの経験則からはみ出さないことが、利用者や自分自身を守る術だと信じている。<br><br>過去の習慣に縛られて、挑戦をためらう姿勢が、いったい何を生み出しているのかを、もう一度皆さんの胸に問いかけてほしいと思います。そこに遣り甲斐もなく、眼を見張る成果もなく、成長もなく、ただ代わり映えのしない業務だけが山積みになっている。もしもその事実を皆さんが受け入れるならば、この場で新しいスタートを切ることを約束しましょう。世間ではビジョンの重要性が叫ばれていますが、情熱なき場所にビジョンは存在しません。自らの本業に対する情熱こそが、斬新なビジョンを形成し、課題を鮮明にして、様々な挑戦を生み出していく。そしてその繰り返しにこそ、個人の可能性が掘り起こされ、確かな成長が育まれていくという事実を、素直に受け入れましょう。<br><br>さて、次に講師による講義に移りますが、私たちの情熱が、どこに向かうべきかを示唆する内容になっています。ご本人も自覚している通り、講師もまた学びの途中でありますが、今までの私たちにはなかった新しい視点とフィールドを提供してくださる事と思います。今回の講義が、皆さんの新しい可能性の発掘に繋がることを期待しています。
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<link>https://ameblo.jp/yuumatan0822/entry-11019995178.html</link>
<pubDate>Fri, 16 Sep 2011 21:20:00 +0900</pubDate>
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<title>かつての手紙</title>
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<![CDATA[ 自宅に贈っていただいた著作を、拝読させていただきました。本来ならば、無視されても当然の無名の介護士に対して、温かな配慮をみせてくれた貴方に、心が震え、大きな感動を味わいました。実は、一度はお礼の手紙を書き終えたのですが、伝えたいことがありすぎて、量が膨大になり、文才の無さから、自分で読み返してもしっくりこないところが多い。そこで今、こうして、手紙を書き直しているところです。<br><br>僕たちの職場というものは、目の前の利用者を解釈する時に、どこかで現在の状況から変更不可能な存在として捉えているところがあると思います。言い換えれば、私たちにとって、利用者は可能性を失った『灰色の老人』であって、こうした解釈により、知らずうちに利用者との関係性が構築され、実質的なサービス内容が決定されて、利用者の矮小化された生活が作られていく。けれども、そうではないと、力強く貴方は訴える。『利用者は無色透明の存在ではなくて、それぞれに様々な色彩を放っているではないか…』と。その声が、僕のような人間には大きな励みになるのです。<br><br>貴方に向けられた非難が、どういった内容なのかは僕には分かりませんが、少なくとも、『矛盾』に関連した非難があるとするならば、それは気にしなくても結構だと思います。<br><br>介護士として、利用者の可能性を最大限に引き出すケアを実践するためには、まずは、その人を肯定的に解釈する必要があります。けれどもそれは、介護観や老人観といった言葉でひとくくりにできるものではなくて、利用者ひとりひとりに対して、肯定的な解釈を個別に作り上げていかなくてはなりません。こうした思考過程を、僕は勝手に『価値創造』と名づけているのですが、深いところでは一貫した姿勢を保っているはずなのに、表面的には利用者によって違うことを言うのだから、他のスタッフからは、貴方は矛盾したことばかりを言っていると突っ込まれることになります。けれどもそれは、サラッと流せば良いことだと思います。<br><br>書きたいことが山ほどあるのですが、言葉として表現しようとすると、どうも整理がつかない。無理に言葉にして誤解されても哀しいので、少しずつ整理をしながら、貴方に伝えていきたいと思います。その意味では、この手紙を読み終えた時が完結ではなくて、むしろ序章であると理解してくだされば嬉しいです。<br><br>貴方への感謝を伝えるためには、自分の立場や状況。あるいはこれまでの歴史について説明しなければならず、とてもここで書ききれるものではありません。そこで、宮沢賢治じゃないけれど、印象的に表現したいと思います。<br><br>僕の前には、荒涼の大地が広がっていて、まるで人間味を感じさせない、荒れた風景が空間を支配している。何とかしたいと、僕は考える。けれども、目前をどれだけ見渡してみても、相談する相手もなく、協力者も存在しない。単独で苦悩を背負い、迷い続けながら、少しずつ、自分の設計図を描いてきました。けれども、本当は独りではなかったのです。僕はそれまで、自分の前方しか見ていませんでした。けれども、耳を澄ませば、背後から音が聴こえてくる。そこには貴方がいて、すでに立派な設計図を描き、建設に着手していたのです。独りではないという喜び。それは言葉では言い表せないほどの大きな感動でした。貴方の手のひらは、何と心強くて広いのだろうと、僕は今、それを感じて、味わい深い幸せを噛み締めています。<br><br>最後に、価値創造について、自分なりに考えた一例を、言葉にしたいと思います。認知症を抱えた高齢者は、機能障害を背負っていて、様々な不安に苛まれていると、これまでに自分が受けてきた認知症の研修では、共通してこうした不安心理を理解することが、適切なアプローチをするために必要な知識であるという風潮を、全面に押し出していました。けれども、僕はこれを真っ向から否定したいと思うのです。<br><br>認知症を抱えた高齢者は、記憶や見当識が障害されて、生活に様々な支障が来される。これは確かな事実でしょう。けれども、だからと言って、記憶が保持され、それなりに確かな見当識を持つ私たちが、必ずしも健全には生きていない。記憶があるからこそ、過去にとらわれて、未来を台無しにする人もいる。見当識が確かで、自分の方に正当性があることを理解しているからこそ、遅刻してきた相手を許せないこともある。僕のような小心者の人間は、いつまでも過去を気にして、クヨクヨする傾向が強かったのだけれども、忘れることの重要性を利用者から学んで、ずいぶんと人生が楽になり、未来を構築するために集中できるようになってきました。<br><br>自分の人生において、利用者は実質的に確かな意味を持ったのです。それは研修で口を酸っぱくして言われるような、中身の伴わない『尊厳』などではありません。確かに利用者は僕を救ってくれた。その実感が、利用者を見つめる僕の認識において、確かな光が帯びてくるのです。
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<link>https://ameblo.jp/yuumatan0822/entry-10997046732.html</link>
<pubDate>Thu, 25 Aug 2011 10:41:00 +0900</pubDate>
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<title>認識という殻</title>
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<![CDATA[ 『出掛けよう』という外出支援を自施設でも行っているが、資金の面で家族の負担を増やすことはできないということで、いつも近場の公園ばかりに行っている。本音を言えば、資金面の課題ばかりではないだろう。障害を背負った利用者が、外出しようとすれば、公園辺りが無難であろうというスタッフの心理が、確かにそこにはある。<br><br>障害を背負うことで、利用者の内部には様々な諦めの感情が芽生えている。重度の片麻痺を背負った自分が、居酒屋で家族と酒を呑み交わすことなどもうないだろうと、自らの人生について、ひどく矮小化されたイメージを持って、頑なにそれを信じ込んでいる。そうではないと、介護士は叫ぶ。人生を諦める必要はない。介護士が貴方の半身を受け持つのだから、貴方は社会との接点を捨て去る必要はない。介護士という資源を活用することで、貴方は想いのままの人生を謳歌できるのだと…それを信じて、果敢な挑戦を続ける姿勢こそが、介護士の原点であり、外出支援の意義であろうと僕は思う。<br><br>けれども実際は、利用者が抱く矮小化されたセルフイメージと同じ視線で、介護士も利用者を見つめている。実際の利用者の可能性ではなくて、介護士のイメージによってケアが展開されて、利用者の生活はどこまでも縮小されていく。社会が利用者を拒絶しているのではない。利用者にとって身近な周囲の認識が、利用者を狭い殻に閉じ込めていることを、介護士は深く理解するべきであろう。
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<link>https://ameblo.jp/yuumatan0822/entry-10995303667.html</link>
<pubDate>Tue, 23 Aug 2011 18:37:00 +0900</pubDate>
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<title>多様性の社会</title>
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<![CDATA[ 先日に見たNHKの番組の中で、認知症介護で注目されている介護士が紹介されていた。暗い表情を浮かべながら、食事を拒否する入居者を前に。その場に居たスタッフが説得を試みるも効果はなく、今回紹介された介護士が紹介されるのである。私はテレビ画面を通じて映し出される介護士と入居者との触れ合いに、温かい感情が込み上げ、心を動かされた。時間に拘束されることなく、ゆっくりと入居者の言葉に耳を傾けながら、心の影に寄り添おうとする姿に、私は介護士としての理想を見たのである。<br><br>私の所属している大型施設では、先程のような光景が見られることはまずない。私たちは慌ただしく業務に追われているために、入居者にゆったりと寄り添うだけのゆとりがないのである。日々の業務の中で、私たちが重要視しなければならないのは、入居者の持つ人間性やひとりひとりの個別性よりも、日中に入浴させなければならない入居者の数であり、排泄介助に入らなければならない人数である。つまり私たちは、多くの意味において、入居者をひとりの人間としてではなく、数字として換算しながら日々格闘しているのである。そこで私たちは、グループホームのような、小規模施設が持つ特性に心を惹かれることになる。<br><br>しかしながら、先に書いたテレビ画面の美しい光景も、決して完全な理想を実現しているとは言えない。なぜならば、心に影を落とした利用者に対して、介護士がそっと寄り添う姿は美しくはあるけれど、結局は半分の理想を実現したに過ぎないからである。私たちにとって重要なことは、介護士に入居者を慰めるだけの能力があるかということよりも、哀しみに暮れる入居者を、他の入居者が慰めうる力を持っているかもしれないという視点なのである。しかし、残念ながら、番組の中では入居者に対する介護士としての視点しか述べられていなかったのである。<br><br>つまり、私たちは、入居者の持つ積極的な能力について何も知らないのである。入居者は他の入居者との信頼関係を築き、友情に発展しうる力を持っているかもしれない。障害に囚われ、苦しみを覚える入居者を救うのは、健康的な私たちではなく、同じ境遇にある入居者なのかもしれない。入居者はたんに救いの手を待つ消極的な存在ではなく、むしろ人を慰め、友情を築き、積極的に自らの楽しみを見出だそうとしているのである。<br><br>こうした視点で現状を見つめた時に、私たちは安易にグループホームのような小規模施設の特性を真似しようとするよりも、人間の持っている社会性に基づいた集団化を推し進める方が正しいと確信を持つ。安易な個別ケアは、人間を孤立に招き寄せ、社会性という能力を奪い去る危険性を孕んでいるのである。<br><br>施設によっては、個別性を重視して、入居者の希望に沿った時間帯に食事を提供する試みもあるが、こうした試みは、入居者相互の固定化が阻まれて、親密な人間関係が築きにくいというリスクも存在する。こうした現実を踏まえた時に、私は集団が持つ特性を安易に手放すべきではないと考える。<br><br>同じ時間帯に集まるからこそ、挨拶が始まり、日常会話が生まれてくる。そして入居者の持つ社会性を認識して、それを発展させることで、小規模施設よりも拡大された、多様性に富んだ社会を構築することができるのである。
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<link>https://ameblo.jp/yuumatan0822/entry-10990342874.html</link>
<pubDate>Thu, 18 Aug 2011 21:30:00 +0900</pubDate>
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<title>効率について</title>
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<![CDATA[ 世間では効率化が叫ばれて、自施設においても、世間の流れに乗り遅れてはならないとばかりに、スタッフの間でも、効率という言葉が頻繁に使用されることになった。効率とは何か？それが十分に吟味されることなく、効率という言葉が持つ曖昧なニュアンスによって意思決定がなされていくことで、私たちにとって、重要な領域が省かれていくのではないかと、非常に大きな危惧を抱いているところである。<br><br>私たちはどこかで、効率というものが、時間短縮であるという思い込みを抱いているのではないかと、まずはそれについて、十分に自らの胸に問いただす必要がある。自分の施設は排泄に時間が掛かりすぎているから、どのようにすれば、排泄時間を短縮できるだろうかというような思考回路が形成された時に、利用者の生活に様々な不幸を招くことになる。<br><br>人間の生活行為に、時間の短縮は存在しない。スタッフの介入時間を短縮することは可能である。けれどもそれは、自立支援の結果であり、効率化を主導にしてもたらされる性質のものではない。私たちに重要な効率化は、時間短縮ではなくて、むしろ延長である。これまではともかく、排泄欲求が充足されることだけに眼が向けられていたのに対して、これからはいかにして、排泄欲求の充足だけではなく、適切な技術改善によって、自立支援を上積みできるだろうかということに、眼が向けられなければならない。つまり真の効率というものは、時間短縮ではなくて、同様の時間の中で、支援内容の価値拡大を図るということなのである。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/yuumatan0822/entry-10989573560.html</link>
<pubDate>Thu, 18 Aug 2011 06:41:00 +0900</pubDate>
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<title>人格と社会性</title>
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<![CDATA[ 数カ月前の彼女は活気に満ちていたはずなのに、今、私の目の前にいる彼女は弱々しく、声は驚くほどにか細い。パジャマの袖の通し方が分からなくなり、今にも泣き出しそうな表情を浮かべている。<br><br>『最近はひどく弱々しくなっているようですが、気分が優れないのですか？』<br><br>そっと彼女に問いかけてみる。<br><br>『そう何だよ。最近は1時間前のことも忘れてしまって、不安でしょうがないよ。』<br><br>きっと、彼女は誰かに打ち明けたかったのだろう。けれども、それを安易に打ち明ければ、『何を馬鹿なことを言っているんだ』と、叱責されてしまう気がして、喉元まで出る言葉を幾度も呑み込んできたのだろう。知ってもらいたいという欲求と、知られたくないという恐怖…相反する矛盾した感情に左右から迫られて、身動きすら取れない心の疲労感が、彼女の歪んだ表情から漂ってくる。きっと、彼女は待っていたのだ。思い悩む自分の心を、そっと察してくれる存在が現れることを…<br><br>『あまり弱いことを言っていると、職員さんに怒られるから…』<br><br>彼女の眼は真っ直ぐに私を見つめ、口元からは、塞き止められていた水が一気に流れ出すように、言葉がどっと溢れだしてくる。<br><br>『私には息子しかいないから、面倒を見てもらえないだろう。娘がいないことが悲しくてしょうがないよ…1時間前のことも思い出せないということは、怖いことだよ。まるで自分が自分でないみたいだよ…』<br><br>彼女は記憶から消し去られていく昨日に怯え、今を憤り、知られざる明日に不安を覚えている。彼女は自分が置かれた環境が、一過性のものではないことを知っている。彼女の脳内にはタチの悪い虫が住んでいて、記憶を荒らしては過去を喰い尽くしていく。しかし、それはたんに彼女の過去を奪っていくだけではなくて、これまでの日々に飽きた虫は、やがては彼女の未来をも奪い尽くしていくであろうことを、彼女ははっきりと理解し、自覚している。<br><br>『自分で何もできなくなってしまう将来が、怖くてしょうがないよ…』<br><br>最後に彼女は私の手を強く握って、『こんなに私の話しを聞いてくれた職員さんはいなかったよ。』と、繰り返し感謝の言葉を並べていた。<br><br>この時に、私の心が芯から震えたのを今でも覚えている。自分の過去との決別を余儀なくされ、今という日々から嘲られ、明日からもそっぽを向かれた過酷な状況の中で、私が同じ立場に立ったとするならば、自らの持つ宿命を呪い、自分の抱える不遇をことさら強調しながら、なりふり構わず苛立ちを周囲に撒き散らしていたのではないだろうか？しかしながら、私の目の前にいる彼女は、私を罵倒するわけでもなく、当たり散らすわけでもなく、健康的に生きている私よりも、むしろ多くの感謝を知っている。こうした事実を目の当たりにした時に、私は、自分より遥かに高度な、より成熟した人間性が持つ巨大さに圧倒されたのである。<br><br>以前の彼女は、昼食後に自室のベットで昼寝をするのが日課であったが、ひとりになることの不安から、最近は職員から促されても拒否するようになっていた。ぼんやりと一点を見つめながら車椅子に乗り、テレビを見ても笑うことすらなく、表情は相変わらず暗い。しかし、そんな彼女にも、水を得た魚のように、イキイキする瞬間がある。それは、彼女が頼りにする入居者がフロアに訪れて、日常会話に花が咲いている時間帯である。<br><br>『ふたりは仲が良いですね。』と話しかけると、『あの人はいつも私を助けてくれて、支えてくれるの。あの人といると安心するのよ。』と、こぼれ出しそうなくらいの満面の笑みが溢れている。次に、その入居者に向かって、『貴方にとって、彼女はどのような存在なのですか？』と問いかけると、『あの人は私を頼りにしてくれる。私にはそれが生き甲斐で、彼女に多くの喜びを貰っています。』という返事が返ってきた。<br><br>支える者と支えられる者…両者が共に尊敬し合い、深い感謝の念を共有している。自尊と承認が一方的ではなく、共に認め合い、互いの人生を豊かにするために、両者の感情がうまく溶け合っている。私はこのふたりの人間関係を観察した時に、私たちがいまだに到達しえない、高度な社会性を認めるのである。<br><br>彼女たちからすれば、遥かに恵まれた生活を送る私たちが、それでも不満を抱えて、物足りなさを感じている。私たちは彼女たちよりも優れた視力を持ち、より若々しい柔軟な心を備えているはずなのに、彼女たちのように、他者の良さを見出だし、尊敬の念を抱くことは難しい。私たちが作り出している社会は、彼女たちが作り出す社会に正座をして見習わなければならないと、純粋にそう思うのである。<br><br><br><br>Android携帯からの投稿
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<link>https://ameblo.jp/yuumatan0822/entry-10985849857.html</link>
<pubDate>Sun, 14 Aug 2011 16:08:00 +0900</pubDate>
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<title>意識の変化</title>
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<![CDATA[ 自分は老人保険施設で一般棟に所属しているのだけれど、７0床という大規模ケアに限界を感じて、４月から３チームに分けて、チームケアを実践している。基本的にはスタッフもチーム固定しているので、他のチームに入ることはないのだけれど、勤務表でどうしても都合がつかない場合には、まれに応援に行ったりすることもある。<br><br><br>昨日の夜勤では、自分のチームのスタッフが、他のチームに応援に行ったので、感想を聞いてみたのだけれど、夕食時にトイレに行きたいと訴える利用者がいたので、連れていこうとしたら、食事の時間は連れていかなくて良いですよと、他のスタッフに制止されて、ほとほと困ってしまったということであった。<br><br>決して他人事ではない。数ヵ月前まで、自分たちもそうであったのだから。けれども、チームケアを推進するにあたって、自分のチームのスタッフは、それまでの大規模ケアのリスクについて十分に話し合い、小規模化によって、これまでの自分たちの習慣のどの点を改めるべきかということについて、時間を惜しまずに議論を重ねてくれた。そして、その話し合いの結果として、排泄最優先という結論に達したのである。<br><br>小規模化にむけた一般棟全体のテーマは『個別ケア』であった。けれども、この個別ケアという言葉は、ひどく抽象的で、具体的な方法論を示してはいない。そして他のチームがいわゆる趣味活動的な個別性に飛びついたのに対して、自分のチームは、『トイレに行きたい。』という利用者の生の声を尊重して、それを阻害しない業務体系の構築を優先した。この選択は決して間違っていないと僕は思っている。<br><br>他チームは利用者の望みを知るために、見えない事柄を探るために躍起になっている。けれども、そのスタッフが、利用者から発せられる生の声については何故か拒絶している。はっきり言って、僕には彼たちがしようとしていることがよく分からない。排泄という人間にとって根強い欲求を阻害する彼たちが、はたして利用者のどのようなニーズを掴み取ろうとしているのか？<br><br>元々は同じ木から別れた枝葉が、たった数ヵ月の期間で、こうも意識の変化が起きるものなのかと、深々と考えさせられることになった。<br><br><br><br>Android携帯からの投稿
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<link>https://ameblo.jp/yuumatan0822/entry-10985571495.html</link>
<pubDate>Sun, 14 Aug 2011 10:28:00 +0900</pubDate>
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<title>支援という光</title>
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<![CDATA[ 最近になって、首の凝りが気になり始めた。入居者の介助量が増大し、スタッフにとっての環境は日増しに悪化してきている。フロアを見渡すと、ナースコールに追われて走り回っている介護士の姿が見える。腰の痛みに耐えながら、うつむいて歩くスタッフがいる。慢性的な疲労感に苛立ちを隠せないスタッフもいる。<br><br>『辞めて他の施設に移ろうかな…』<br><br>ふと弱い感情が溢れて、逃げ出したい気持ちで心が満たされていく。それは身体的な苦痛だけではなく、自分の理想とする介護が追求できないという不自由さが圧迫感を生み出し、息苦しさを覚え、そこから逃れたいという想いが増大していく。<br><br>私たちは、自分が想像している以上に、自由を欲しているのだ。私たちは自由に職業を選択し、自らが所属する組織の中で、自由な発言が許され、何かしらの影響力を持ちたいと考えている。さらに自らの持つ可能性を追求し、自己実現を可能にする舞台を必要としている。これらひとつの条件が欠けただけでも、心は計り知れない動揺を見せて、深奥に潜んでいた弱さが顔をもたげてくる。もしも私たちが、自由な発言が許されず、他者に対する影響力が皆無になり、可能性を追求する自由が剥奪されていると感じるならば、私たちは自分の置かれている環境からすぐさま逃避しようと考え出す。自由とは、私たちが健全に生きるための前提条件なのだ。<br><br>私たちの内の誰が、畳二畳分の面積に押し込められることを望むだろうか？たとえ自ら望まないにしても、誰がそれに耐えうるだろうか？こうして考えて見ると、私たちは精神的な面においても、物理的な面においても、不自由というものにひどく脆い。自由の欠如に対して、私たちが耐えうるのは、ごく限られた時間でしかない。葬式の最中の正座ですら、私たちは逃げ出したくなるのだ。<br><br>けれども、もしも生涯背負い続けなければならない不自由さがあるとしたら。解決の糸口も見せず、そこから逃れることすら出来ない不自由さがあるとしたら。生活の一場面ではなくて、生きている限り継続され続ける不自由さがあるとしたら、私たちはどのようにして、こうした苦しみを背負った人々の心境を理解すれば良いのだろうか？自らが体験したことのない想像しがたい心境。けれども、私たちは想像するべきであろう。なぜならば、それこそが、私たちが日々向き合い続けている、障害という不自由さだからである。<br><br>私たちは、介護士の持つ役割とその特性により、日常的に障害を抱えた人々と、向き合うことになる。彼らの生活は困難で、本来、人間として保証されるべき自由が、生活の様々な場面で阻害され、剥奪されている。それは彼らが施設という狭い環境に閉じ込められているからではなく、たとえ物理的な環境を変え、在宅に移り住もうが、だだっ広い草原の真ん中に寝そべろうが、彼らの四方は障害というどす黒い牢に囲まれ、手足は冷たい錠に縛られることになる。<br><br>もしも彼らが外界との接触を断ち、単独で存在しなければならないとすれば、彼らは自分の意志で立ち上がることもできず、排泄物は垂れ流しになり、夏の日差しに吹き出る汗も拭えないまま、内面に沸き起こる欲求は無視され、想いは何ひとつ成し遂げられず、人間性の欠片もないただの物体になってしまうだろう。<br><br>しかしながら、彼らは決して単独な存在ではないのである。そこに彼らの人生を明るくする希望がある。それはつまり、『支援』という光によって、彼らの錠は取り外され、どす黒い牢から解き放たれるのである。<br><br><br><br><br>Android携帯からの投稿
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<link>https://ameblo.jp/yuumatan0822/entry-10984330207.html</link>
<pubDate>Sat, 13 Aug 2011 00:40:00 +0900</pubDate>
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<title>日常と非日常</title>
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<![CDATA[ 目を閉じて、利用者の生活を思い浮かべる。朝の６時に起こされて、車椅子に乗り、８時に届く朝食を待つ。朝食を食べ終ると、スタッフにトイレに誘導され、それが終ると、１０時のおやつを待ち続ける。<br><br><br>何ひとつ目的もないままに過ぎていく日常…<br><br>昼食を食べ、３時のおやつを待ち、その後は車椅子の上で眠りながら、気がつくと、夕食の時間が迫っている。自らの望みもなく、活動する意志もなく、ただ施設に提供されたスケジュールに組み込まれていく毎日。３食の食事と、おやつと、僅かなレクリエーションを待ち続ける生活というものが、はたして人間としてあるべき姿なのかと、心苦しくもなり、深い反省を強いられる。<br><br><br>言葉は悪いけれど、日中の大半を車椅子に乗り続けて、ただひたすらに、与えられるものを待ち続ける生活に慣れきってしまった利用者に、本人の望みなどあるのだろうか？僕が利用者の生活を体験したら、おそらく半日で騒ぎ出すことになるだろう。人間としてあるべき日常から、まりにも掛け離れた生活を強いられているからだ。<br><br>けれども利用者は、さしたる抵抗もみせないまま、依然として沈黙を保ち続けている…<br><br>こうした利用者の生活に、スタッフも目が慣れて、この非日常的な空間が、さも当たり前であるかのように考えて、専門職として当然感じるべき課題と苦悩を放棄している。<br><br>利用者が叫び出すのは当たり前のことだろう。この非日常的な空間に押し込められれば、誰だって叫びたくなる。けれども、そうした利用者は、『不穏者』のレッテルを貼られて、力ずくで望まない生活へと押し戻される。スタッフの力が及ばない時は、内服によって精神の安定を強要される。<br><br>自分の主体性が尊重されずに、望みと掛け離れた空間に押し込められた時に、そこから逃避を図ろうとしたり、時として激しい抵抗を見せるのは、人間としてむしろ自然な反応だろう。いつも素直でおとなしく、沈黙を保ち続けている方が異常なのではないだろうか？サイレントベイビーじゃないけれど、もはや自分の人生に対しても、あるいは施設に対しても、何も期待しなくなっていることの証明ではないだろうか？<br><br>現場の心理は怖いものだと思う。良くも悪くも、目の前の状況に慣れてしまう。はじめは違和感を覚えていたことも、あっという間に慣れきって、疑問を捨て、苦悩を放り投げ、責任を放棄し、環境に呑み込まれてしまう…<br><br><br><br>Android携帯からの投稿
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<link>https://ameblo.jp/yuumatan0822/entry-10984284933.html</link>
<pubDate>Fri, 12 Aug 2011 23:39:00 +0900</pubDate>
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