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<title>荒野の映画群 流浪編</title>
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<title>第366回　私の好きなファーストシーン②「クライング・ゲーム」</title>
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<![CDATA[ <p>同フィルムを見て、フォレスト・ウィテカーが大好きになったんです。この『クライング・ゲーム』、話がうまいんですねえ。しかも、ファーストシーンがまたいいんです。思わずのめり込むように作ってあるんですね。どんな映画か……。ある遊園地で一人の女が黒人の男を誘惑する。女は黒人の前で、にっこり笑いながら着ている服の前を開いた。胸がみえる。男は、笑いながらその女の胸に手をやる。その瞬間、男はグッと後ろから締め付けられ、頭から黒い頭巾を被せられた。「俺、何もしてねえよ」と言いながらズッズッと引きずられ、引っ張って行かれるところから、同フィルムは始まります。このように始めから、何だろうと思わすようなファーストシーンっていいですね。見てて、ええっ？と思います。</p><br><p><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=10186424" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">クライング・ゲーム DTSスペシャル・エディション [DVD]/スティーヴン・レイ,ミランダ・リチャードソン,フォレスト・ウィテカー<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F510F63SX0CL._SL160_.jpg" border="0"></a></p><p style="MARGIN: 0px">￥4,179</p><p style="MARGIN: 0px">Amazon.co.jp</p><p><br>黒人の男がどこかの部屋へ連れ込まれました。その部屋には5～6人いるけど、黒人に聞かれたらイヤだから、みんな物を言わない。このあたりの駆け引きが面白いですね。それでヒソヒソとやっている。黒人のほうは何だろうと思って、ただじっとしています。実は、この連中はアイルランドの革命一派で、自分の仲間の一人が捕らえられているため、交換用の人質として、この軍人である黒人を捕まえた。ゆくゆくはこの男を身代わりにしようとしていることが、私たちには分かります。けれど、この黒人には分かりません。「なんで、俺は捕まえられているのか？」 そうこうするうち、夜が明けます。いきなり、表へ突き出されます。表には見張り役の若い白人の男がついてます。その男に黒人が言います。「俺のこの頭巾とれよ」と言います。若い男は黒人に顔を見られたくないから、半分だけ、鼻から下だけ開いた。すると、その黒人、フォレスト・ウィテカーが、ハアーッと空気を吸う。舌なめずりしながら、朝の空気を思い切り深呼吸します。「朝の空気はうめーやあ」と言う。この演技、唸ってしまいました。いい役者です。これがファーストシーンです。 <br><br>そして、「俺、小便したいんだよ。昨日から我慢してたんだ」と言います。相手は、庭の隅に行って勝手にしろ、と、彼を突き出しながら手で合図します。すると、黒人が怒ります。「何を言ってやがる、俺、両手をくくられてるんだよ。どうやってするんだよ！」そうすると、黒人と一緒に庭へ。隅で立ち止まっ黒人が彼を見て、「おい！前ボタンを取れ」キャメラは二人の背後にあるため細部は分からないが、どうやら男がボタンを取っているらしい。「おい！つまみ出せ」やはり後ろからですが、黒人の先っぽをつまみ出してる感じが、その姿から予想できます。すると、ズーッと水の音がします。「これでいい。おい！元に戻せ」白人が黒人のアレをつまんで直し、またボタンをしめている。「良かった。おい、おまえ、俺の懐へ手を入れてくれ」意味が分からないから、ちょっと怖い。「そこに帳面があるだろう。手帳だよ。それを出せ」白人の男は何も言わずにそれを出す。「その中に俺の彼女の写真があるだろう。女の。ベッピンだろう」と言います。「下に、所番地と名前が書いてあるだろう。俺、今晩あいつのところへ行きてぇんだよ。昨日、あれから行くつもりが、行けなかったから電話でもかけて謝りたいんだよ。それで、今日、行くつもりだよ。だから早く出せ。早く縄を取ってくれ」と言うんです。白人はその帳面をじーっと見ています。この女が、この男の彼女かって見ています。すると、この隙を待っていましたとばかりに、黒人が逃げた。白人の男が、しまった、逃げられた。と、思っていると、見えないところで「ドーン」と音がして、次のシーンでトラックにはねられて死んでいる黒人が映ります。これがファーストシーンなんです。 <br><br>このファーストシーンのつかみ方はうまいです！　そうして、この白人は仏心をおこします。写真の女に黒人が死んだことくらい言ってやろうと思うんです。そして、女のことを捜して、捜しまくった。捜し訪ねた先は、ロンドンの下町の汚いバー。その店で歌っていました。そこの楽屋を訪ね、「おまえ、この男を知ってるか？死んだよ」と写真を見せる。「そう」と、表情も変えず、平気な顔で応える。もちろん泣いたりはしない。なぜなんだ、悲しくないのか？　どうなってるんだ、と思った彼は、翌日、翌々日、そしてまた明くる日と、3日続けてその女の所へ通う。この白人の男、これだけ通うと女に情がわきます。当然、仲良くなりたい。それで、とうとうある晩、女の部屋に泊まります。女と抱き合う。そしたら、その女が、「ちょっと、待って」と言う。「なんだい」「私を見て」「えっ、……！」下半身を見ると、そこにはなんとペニスが……。「おまえ、男だったのか」というシーン。やっぱり、うまい。続きが、次から次へと見たくなる。（2010/05/25) </p>
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<pubDate>Tue, 25 May 2010 20:49:42 +0900</pubDate>
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<title>第364回　私の好きなファーストシーン①「プレタポルテ」</title>
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<![CDATA[ <p>同フィルムを見る人は、そのタイトルから何の予備知識がなくても、これは流行の服の話だろうぐらいは予想できる。事実そういう背景のストーリーなんです。流行を扱う雑誌社が、新しいデザインを探し求めていろいろと競争するという内容で、そんな映画だから、どんな綺麗な、華麗な場面からスタートするだろうとワクワクします。ところが、同フィルムのファーストシーン、違うんです。ネクタイが出てきます。男のネクタイです。ある男がネクタイ屋さんに買いにきます。「ネクタイください。同じ柄のを2つください」これはいけない。同じ柄を2つ注文するようなバカな客はいません。ところが、「はい、かしこまりました」なんてお店の店員も言うんです。そして、同じ柄のネクタイを渡した。 </p><br><dl><dt><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=10186411" target="_blank" rel="nofollow" alt0="BlogAffiliate">プレタポルテ/ジュリア・ロバーツ,ティム・ロビンス,キム・ベイシンガー<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F41BAV4V29FL._SL160_.jpg" border="0"></a> </dt><dd style="MARGIN: 0px">￥4,935 </dd><dd style="MARGIN: 0px">Amazon.co.jp </dd></dl><p>へんなファーストシーンです。男が入った店は、綺麗な、いかにもロンドンのネクタイ屋さんといった雰囲気です。その男は買った2つのネクタイをもって表に出ました。ところが、外はてっきりロンドンかパリかと思ったら、なんとそこはロシアでした！　私たちを始めからバカにしてるというか、意表をつかれました。でも、このフィルム、シャレていました。 (2010/05/24)</p>
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<pubDate>Mon, 24 May 2010 20:45:52 +0900</pubDate>
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<title>第363回　何がジェーンに起こったか？</title>
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<![CDATA[ <h4><font size="2">WHATEVER HAPPENED TO BABY JANE 米*1962 ロバート・アルドリッチ監督作品</font> </h4><div class="article"><dl><dt><a href="http://www.amazon.co.jp/%E4%BD%95%E3%81%8C%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%81%AB%E8%B5%B7%E3%81%93%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%8B-DVD-%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%81/dp/B000H1QREA%3FSubscriptionId%3D175BC0N2BCT0X4DAZG82%26tag%3Damebablog-a305075-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB000H1QREA" target="alt0='AmebaAffiliate' alt1='何がジェーンに起こったか? [DVD]/ジョーン・クロフォード,ベティ・デイビス,アンナ・リー' alt2='Amazon.co.jp' alt3='http://ecx.images-amazon.com/images/I/31MCK2D0V5L._SL160_.jpg' alt4='1'">何がジェーンに起こったか? [DVD]/ジョーン・クロフォード,ベティ・デイビス,アンナ・リー<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F31MCK2D0V5L._SL160_.jpg" border="0"></a></dt><dd style="MARGIN: 0px">￥980</dd><dd style="MARGIN: 0px">Amazon.co.jp</dd></dl>〈綺麗だった人〉……これほど悲しく、残酷な言葉があるだろうか。若い頃美貌でならした人が加齢により衰えていく。自然の摂理とはいえ、出来ることなら目を背けたい現実だ。しかし何故か人は、かつての美人女優や往年の人気アイドルを「見たい！」という欲求に駆られるもの。「わちゃー」「見なきゃよかった」という結果にしかならないのに、この手の特集は常に雑誌の人気企画の一つだ。〈あのいい女どこいった〉などという見だしは長らくの定番フレーズ。それも、かつての容色が美しければ美しいほどこの手の欲望はアップするようだ。それが〈ハリウッド美人女優〉クラスならいかほどだろう。 <br><br>同フィルムこそは、その昔ハリウッドで〈絶世の美人女優〉だった二人がシワもたるみも隠すことなく出演し暴れまくったという怪品なのだ。その暴れ具合たるやハリウッド映画史上でもまれに見るレベル。日本で対抗しようと思ったら『ゴジラ』ぐらいじゃないと無理だ。断言するが、同フィルムの主人公ジェーンは間違いなく世界最強のバーさまだ。同フィルムを知らずしてホラー、サスペンス映画を語るなかれ！　主役はベティ・デイヴィス、演技力と気の強さではハリウッドのトップ・クラスと謳われた伝説の女優だ。この人が〈かつての人気子役で今は落ち目、気位だけは昔のままの手に負えない女〉を演じます。書いてるだけで痛々しい……。そしてその姉を演じるのはジョーン・クロフォード。この方もハリウッド・レジェンドの大女優で、1930年代を代表する美女です。鼻っぱしの強さも伝説級で、そのワガママぶりには多くの映画人が手を焼いたと言われるほど。日本で例えるならそう、〈小川真由美〉クラスといえば想像がつくでしょうか。 <br><br>簡単に設定を説明します。子役時代にちょっと売れちまったもんで〈生意気の権化〉みたいな性格のジェーン。大人になったら「ドヘタクソ」と罵られホサれます。代わりに姉ちゃんが人気女優になっちまいました。悔しい！　当然ブチ切れるジェーン。人気絶頂のお姉ちゃんがいきなり車に轢かれて下半身不随になるというアクシデントが！　人々は「妹がやったに違いない」と噂しますが、結局真相は闇の中に。完全に女優生命を絶たれた二人はひっそり隠遁生活を送ります。妹は「アタシじゃねえよ……なんでこんなスキャンダルにアタシがよぉ……」と恨み骨髄、酒浸りになって忿懣やるかたない思いのまま何十年も月日が経ちました。 <br><br>そんなこんなですっかりババアになった二人、心優しいお姉ちゃんは妹にほとほと手を焼いています。「しょうがない、精神病院に入ってもらいましょう」唐突な決断のようですが見ればわかります。姉に対する嫌がらせは想像を絶するレベルに。「ねえジェーンおなか空いたわ」「ほらよ」と言って出したのは姉のペットの小鳥。ぎゃあ！　懲りずにお姉ちゃん「ねえジェーン、夕食はまだ？」「ほらよ」といって出したのは天井裏のネズミ。うぎゃあ！！　それを見て高笑いするジェーン。もう人間じゃありません。〈不細工〉〈老醜〉〈醜悪〉〈奇怪〉……どの言葉も、同フィルムのベティを十分に表現することはできない。〈悪〉という、これ人間の複雑怪奇な心理を全身でベティは演じきってます。まさに入魂、ここがその辺のサスペンスやホラー・ムービーと一線を画すところ、同フィルムを永遠のマスター・ピースにしてるポイントなのだ。とかく〈グロテスク〉〈怪奇もの〉ということばかりがクローズアップされやすいフィルムだが、〈スタア〉とは〈女優〉とは何かということを真摯に見つめた大傑作だ。同フィルムのなかに〈鬼〉はいる。（2010/05/23) </div>
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<pubDate>Sun, 23 May 2010 21:31:13 +0900</pubDate>
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<title>第362回　ザ・デッド</title>
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<![CDATA[ <h4><font size="2">The Dead 米*1987 ジョン・ヒューストン監督作品</font> </h4><div class="article"><dl><dt><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=10122202" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">ザ・デッド ダブリン市民より [DVD]/出演者不明<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F61Eb1CeKaCL._SL160_.jpg" border="0"></a></dt><dd style="MARGIN: 0px">￥1,000</dd><dd style="MARGIN: 0px">Amazon.co.jp</dd></dl>ジョン・ヒューストンが亡くなったのは1987年の8月28日。81歳。『マルタの鷹』を第一作に『黄金』『キー・ラーゴ』『アスファルト・ジャングル』『アフリカの女王』『赤い風車』『白鯨』『イグアナの夜』『荒馬と女』などと力作を重ね、アメリカ映画正統派監督はウィリアム・ワイラーそしてジョン・ヒューストンと言われた。『ザ・デッド』は同監督の遺作となった。彼は同フィルム完成の年の8月28日の午前にロード・アイランドのニューポートの自宅で肺炎で亡くなった。ジョン・ヒューストンは名作『ザ・デッド』を残して死んだ。 <br><br>久しぶりに再見して驚いた。大島渚が『マックス・モン・アムール』(86)のような純粋な愛の映画を撮ったときも、すくなからず驚かされたが、同フィルムのあたえた驚き(と感動)は、それ以上といってよいかもしれない。同監督がかかるアイルランド文学映画を作るとはと、胸が刺された。ジョン・フォード『男の敵』(35)の絶望と反逆のダブリンとも、アラン・パーカー『ザ・コミットメンツ』(91)の下町人情的ダブリンともちがう、親密ではかなげな、愛おしい空間。ジェイムズ・ジョイスの短編集『ダブリン市民』の中の『死せる人々』を映画化。脚色がトニー・ヒューストン(ジョンの息子)、主演の一人がアンジェリカ・ヒューストン(ジョンの娘)。ジョン・ヒューストンは幸せにも息子と娘との協力のなかで名作を残して永眠した。 <br><br>映画は1904年のクリスマス、アイルランドの港町ダブリンで、知人友人親戚10数名が集まった雪の日の食事とダンスと談話の夕べ、その集まりを描く。優しさ、品格、人情、愛情、老人、中年、若人のその人たち一人一人の顔の表情その会話から身にしみこむフィルム。婦人がピアノを弾く、素人の懸命さ。次いでダンス、これが男女からだをやや離しもステップも気取ったお行儀よさ、やがてついに歌とすすめられた80過ぎのこの家の主人の老女が「わたしなど」と手でさえぎりながら、毎年のことでもう覚悟もし、今夕こそいい声で、という意気込みをもほんの一瞬のぞかして歌う、この老女の唇の動き、その唱歌風の歌いぶり。 <br><br>やがてガブリエル(ドナルド・マッキャン)の困った困ったと緊張の果てのそのテーブル・スピーチも、なんと実は美しく優しく哲学的でみんなの拍手を受け、七面鳥の蒸し焼きにチョコレート・ケーキ、男たちのビールまたはワインの楽しい飲みっぷり。戸外では雪が少しやんだ。お開きの客たちのお帰り。馬車で去りゆく人たちとそれを見送る主催者3名の老女。雪ちらつくなかにこの家からの薄ピンクの灯の光、その温かさ、その楽しかったあとのさびしさ、その「家」と「人」の温かさを残して、一台の馬車がガブリエルとその妻グレタ(アンジェリカ・ヒューストン)を乗せてホテルへ。 <br><br>遠方から来たこの夫妻はこの夜をホテルに宿をとっていた。部屋に戻った夫は上着を脱いで妻を抱こうとした。すると妻の目から涙が落ちた。妻は涙をこぼしたまま話しだした。若いころの少年と少女のようなその恋のこと、そしてその相手はもう亡くなっていること。今日の集まりで演奏されたメロディーがそれを急に思い出させた。今夜のような雪の日、彼と別れそのあと彼は肺炎で死んだ。妻を抱きしめようとした夫の手が妻から離れた。そして優しく彼女の肩に手をのせた。それから彼は思わずあの歌ってくれた老女の死を思い、自分が弔いの辞の文句を考えているその日のことを想像した。登場者はほとんどがダブリンの舞台俳優たち、その演技その台詞の美しさ厳しさ、舞台の名優を偲ぶ厳しさ、これが肌を刺す。この素晴らしさは、まさに筆舌に尽くしがたい。（2010/05/22) </div>
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<pubDate>Sat, 22 May 2010 20:52:26 +0900</pubDate>
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<title>第361回　愛人/ラマン</title>
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<![CDATA[ <h4><font size="2">L'AMANT 仏*1992 ジャン=ジャック・アノー監督作品</font> </h4><div class="article"><dl><dt><a href="http://www.amazon.co.jp/-%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%B3-%E7%84%A1%E4%BF%AE%E6%AD%A3%E7%89%88-DVD-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%83%BC/dp/B000H9HQUQ%3FSubscriptionId%3D175BC0N2BCT0X4DAZG82%26tag%3Damebablog-a305075-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB000H9HQUQ" target="alt0='AmebaAffiliate' alt1='愛人 -ラマン- 無修正版 [DVD]/ジェーン・マーチ,レオン・カーフェイ,ジャンヌ・モロー' alt2='Amazon.co.jp' alt3='http://ecx.images-amazon.com/images/I/51TVFT2WWPL._SL160_.jpg' alt4='1'">愛人 -ラマン- 無修正版 [DVD]/ジェーン・マーチ,レオン・カーフェイ,ジャンヌ・モロー<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F51TVFT2WWPL._SL160_.jpg" border="0"></a></dt><dd style="MARGIN: 0px">￥2,625</dd><dd style="MARGIN: 0px">Amazon.co.jp</dd></dl>フランスの名作、ルイ・マル『恋人たち』を見たのは、もう大分前になるのに、ジャンヌ・モローのあの映画の恋の怖さがいま思っても胸を締めつける。気まぐれの恋がその夜のうちに命を懸ける本物の恋に移り、朝方、彼女は弟のような若い学生と、夫と幼い娘を捨てて家出してしまう。まことにジャンヌ・モローは恋の女の名女優だった。そして『愛人/ラマン』もモローのナレーションでその「声」の美しさと悲しさから始まってゆく。しかも同フィルムは原作がマルグリット・デュラスなのだ。 </div><div class="article"><br></div><div class="article">デュラスはジャンヌ・モローの主演した『雨のしのび逢い』の原作者でもあった。そのデュラスの小説『24時間の情事』がアラン・レネにより映画化されたときも、デュラス自身が脚色した。デュラスの小説は火が燃え上がり灰となって消える「ひとときの狂恋」を思わせる。それゆえにその恋は、手で消すことのできぬ強い熱と光で目を心を狂わせる。そのデュラスの小説『ラ・マン』を、ジャン=ジャック・アノーが映画化。脚色はアノーの片腕ともいえるジェラール・ブラッシュで、このジェラールは当時65歳。アノーは49歳。ジェラールはアノーの『人類創世』『薔薇の名前』『小熊物語』これらすべてを脚色した人である。 <br><br>そしてここで知るのは、アノーが一つとして同じ系統の題材を追っていないことだった。『人類創世』はいっさい言葉なしの原始人の映画であり、『薔薇の名前は』は中世の寺院のなかの謎をさぐる、いうならば僧侶と稚児の『雨月物語』のごときクラッシック、ところが『子熊物語』は、動物教科書の熊の生態を最高の大自然美術のなかに描きながら、人間の熊狩りの残酷を見せずしてきびしく感じさせたフィルムであった。そのアノーがデュラスの原作をもって中国の富豪青年(レオン・カーフェイ)と貧しいフランス娘(ジェーン・マーチ)の恋を映画で見せるということは、当時思いもかけぬくらいの驚きだった。しかも娘は15歳の、娘というよりも少女。ところが相手の中国人は、パリの留学生活を終えてこのインドシナに帰ってきた32歳のプレイボーイといっていい社交慣れした美青年なのだ。 <br><br>この中国人が自分の運転手つきの黒いリムジンの車の中から学校に行くフランスの女の子を見つめる。毎日、その少女を見るために、決まった登校の時間を狙っていた。そのうちに少女はその黒い豪華な車に気がついた。少女は自分から引き寄せられるようにその車の中に入り、車内の二人、これが毎日のように繰り返されるうちに、二人は恋に燃えた。少女は初めて男の体臭を嗅いだが、実はその体臭に憧れていた自分を知った。中国青年がこの少女を連れ込んだ場所は、下町の混雑した商店通りの店の一軒の奥にある隠れ家だった。2人は全裸で抱き合い、性愛に溺れきった。すぐ目の前、そこが混雑の人通りで、隠れ家の、カーテンというよりもテント張りといえるそこに表通りを行く人の影がはっきり写るなかで、2人は性愛にあえいだ。まさしくこれこそ昼下がりの情事であった。ついに娘と中国人の交際を知った娘の家族を、中国青年は一流の料理店に招待した。母も兄もたらふくむさぼり食ったあとで、母は娘を殴りつけた。娘をフランスへ帰す日が来た。船が港から離れるとき、遠くに一台の豪華な車のあるのを娘は見た。このシーン。少女がデッキのさくに片足をかけ、見るともなく遠くを見つめている。その姿、その見映えのせぬ粗末な服の少女、その姿が、私には羽根の破れた蝶がバタバタと悲しくその翼というか羽根を床の上で羽ばたいているように思えた。（2010/05/21) </div>
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<pubDate>Fri, 21 May 2010 20:47:26 +0900</pubDate>
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<title>第360回　ローマの休日</title>
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<![CDATA[ <h4><font size="2">Roman Holiday 米*1953 ウィリアム・ワイラー監督作品</font> </h4><div class="article"><table cellspacing="0" width="100" align="center" border="1"><tbody></tbody></table></div><p class="article"><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=10110252" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">ローマの休日 製作50周年記念 デジタル・ニューマスター版 [DVD]/グレゴリー・ペック,オードリー・ヘプバーン,エディ・アルバート<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F516TwoJS9nL._SL160_.jpg" border="0"></a></p><p class="article">￥2,625</p><p class="article">Amazon.co.jp</p><br>オードリー・ヘップバーンは、演技や人生的な枠組みから論じることの難しい、戦後世界の風俗や情緒を代表する存在である。「ヘップバーンはファッションである」といわれる通りである。そして風俗やファッションが人生よりも重要でないということはない。映画の世界においては、とくにそうである。当時の若い女性は髪を短くカットし、ボサボサにしたうえに、ボーイッシュなスタイルで、ヘップバーンを真似た。しかし、当時の既成社会の、流行に対する感覚はきわめて保守的だった。いまでこそヘップバーン・スタイルはファッション史、美容史上のエポック・メーキングな出来事として肯定的に扱われるし、元来、消費社会においては、流行は新規開発の商品という以上の意味を持たないのであるが、1954年という時点にあっては必ずしもそうではなかったことを知る必要がある。 <br><br>若者の突出的な行動は大人に苦々しさと警戒感を抱かせ、非難や侮蔑の言葉を浴びせ掛けられる。ヘップバーン本人に対してではなく、その〈サル真似〉に走った女性に対してである。実際に髪をバッサリやったことが原因で、親子げんかにまで発展した例も珍しくなかったそうな。陳腐な表現になるが、髪は女性にとって生命である。ジャンヌ・ダルクが公開裁判の前に断髪を強いられ、女優のコリンヌ・リュシェールが戦後、ナチ協力のかどでパリ中を引き回された際、まず断髪が行われたのも、それが女性の最大の苦痛であることがわかっているからだ。逆にいえば、髪型の一新が女性にとって自己革新の契機になる可能性もあるということになる。 <br><br>―小国だがヨーロッパきっての歴史と伝統のある某国の王女アン(ヘップバーン)が、各国表敬訪問の最後の滞在国イタリアのローマで、過密スケジュールと自由のない日々への強い不満から、ひそかに大使館を脱出、最初に自由意志で行ったことは、長い髪を短くカットすることだった。この設定は重要である。美容師は脂汗を流す。みどりの黒髪は彼にとって伝統的な女性美の象徴を意味する。王女にしてみれば、空虚な権威、退屈な日常の象徴で、ただわずらわしい存在でしかない。「すっかり切るのよ」(All off)という一言の中に、すべての思いがこもっている。そして、古い髪をすべく切り落とした瞬間の爽やかな表情！　そこには髪型のレベルを超え、地位や身分や常識など、おのれを限りなく束縛する既成の価値観すべてと決別、それによって得られた自由な生き方への無限大の目眩くような開放感があふれているではないか。 <br><br>一人の女性の変身ならぬ「誕生」を描いたことで、同フィルムはメルヘン仕立てのメロドラマを脱出、映画史上の意義を獲得することとなった。歳月が経過し、この鮮烈な場面も、彼女と新聞記者のローマ市内周遊やラストの別離の場面に覆われてしまったが、当時のファンを魅了したのは実にこの箇所にほかならず、女性ファンが映画館を出たその足で美容院に直行したゆえんなのではないだろうか。当時、女子の高校進学率は男子の5分の1以下にすぎず、社会進出を通じての自己実現もいまひとつ先行きが見えず、生殺しの情況にあった日本女性たち。生活の実態はメルヘンとはあまりにも縁遠い。こうした女性たち―〈社会改革〉を目指し、婦人運動などの先頭に立って旗を振ることもできないし、また考えたこともない―と等身大になってこそ、同時代映画としての同フィルムの本質や、ヘップバーンというキャラクター出現の意味も見えてくるのではないだろうか。 <br><br>いささか誇張になるかもしれないが、同フィルムのキモは、あくまでも断髪シーンにある。脚本構成も演出も、いや主演俳優の選定もこの場面に意を傾けている。思想的には何ほどもない映画だが、ヘップバーン扮する王女が鏡に映じた自分を見て、笑みを傾ける瞬間こそは、新しい映画、新しい女優、新しいファッションの誕生を告げるものでなくしてなんであったろうか。あらためて映画雑誌等で当時のヘップバーンのポートレートを見ると、その髪の頂きは燦然たる黄金の照明をもって飾られているではないか。まさに〈黄金の冠〉とはこのことであろう。 <br><br>ヘップバーン人気はその後も続き、街頭をヘップバーン・サンダルで闊歩する女性が現れたり、『麗しのサブリナ』(1954)公開時にはサブリナ・パンツが大流行したり、といった話題が新聞雑誌を賑わした。半世紀以上を経て、当時最新の流行もさすがに古くなったが、ローマのまぶしい陽光のもと、一人の選ばれた女優が表現したファッションとしての記号が、戦後映画の商品価値を大きく転換させ、社会意識にまで変化を及ぼし続けたという事実は変わらない。彼女は、その存在感、象徴性においてはトップバッターの地位をゆずることはないであろう。（2010/05/20)
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<pubDate>Thu, 20 May 2010 23:15:36 +0900</pubDate>
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<title>第359回　突撃</title>
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<![CDATA[ <h4><font size="2">Paths of Glory 米*1957 スタンリー・キューブリック監督作品</font> </h4><div class="article"><dl><dt><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=10080812" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">突撃 [DVD]/カーク・ダグラス,ラルフ・ミーカー,アドルフ・マンジュー<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F51hmxHzJNPL._SL160_.jpg" border="0"></a></dt><dd style="MARGIN: 0px">￥2,990</dd><dd style="MARGIN: 0px">Amazon.co.jp</dd><dd style="MARGIN: 0px"></dd><dd style="MARGIN: 0px">いたるところに目撃者の無数の眼が光っていながら、全てのアリバイが跡形もなく消滅してしまう。そこには状況と人間との問題が、アクチュアルな視点から強烈に曝け出されてはいないだろうか。同フィルムにこういう場面がある。死を意味する太鼓が不気味に鳴り響くなかを、無実の罪をおった三人の兵士が仏国民の名によって銃殺されようとする。それを眺める高官たちが、観客に湿っぽく、生理的にアンチームな感じをあたえる広角レンズでまずとらえられる。それと対比される将校、カーク・ダグラスは極端な望遠のアップで描写される。死刑の不当を訴えつづけてきたカーク・ダグラス、もっとも人間的であったはずの、観客がそこに無意識のうちに感情移入してきたはずのこの将校が、望遠レンズをとおして写しだされることによって、カチカチに凍りついた、無表情な生気を失ったものになってしまう。 <br><br>人間というより動物に、動物というより物それ自体に落下し、変貌するような瞬間。これまで観客との間になれあいのままに介在していた共通感が一瞬のうちに崩れさり、相互にいたずらに覗きあっているような焦燥と断絶感に変わってしまうのだ。カーク・ダグラスはこれまでの高みから一傍観者の位置にひきずりおろされ、手も足も出ない。それと同様に観客もまた手も足も出ない。その意味では、これは徹底的に「しくまれた」映画といえるだろう。作為を極力怖れながら、事実を単一の眼で再構成しようとして、ついには記録と事実の比重、主体と客体の割れ目のなかでいたずらに混迷していようとはしない。 あるいは、戦争を性格異常とか精神分裂といった個人悪にすりかえてしまい、西部劇の大半がそうであるような、個人の英雄行為によって曖昧なままにヒューマニズムを後生大事にうたいあげはしない。スタンリー・キューブリックはむしろこの場合、観念的であることを怖れなかったかもしれない。思いきって主体的にとらえること、それによって逆に浮かびあがる客体を、極限状況を、どこまでも執拗に追求しようとしているのだ。 <br><br>第一次大戦のフランス西部戦線にこともなげに巻いこんできた奇妙な通告、ひとつの「命令」。それがひきおこしたものが、舐めつくすようにキャメラ移動がとらえる突撃の無償性であり、無人地帯にはいつくばってうごめく無数の兵士の姿にほかならない。問題なのはアント・ヒルの向こう側に潜んでいる独軍兵士なのではなく、日頃ならただ緑の野原であり、音を立てて流れる河であり、耕された畠であるものを無人地帯に作りかえてしまったもの、向こう側とこちら側の間にひとつの線を引いてしまったもの、その線は実にはっきりしていながら、それを引いたものはいつも曖昧なままに隠蔽されてしまう。映画はそれをもっと鮮明に際立てていこうとする。 <br><br>アント・ヒル敗退の責任を明らかにしようとして、選びだされた「三人」という計算の奇妙さ。最初の兵士、大男のフェロルは所属部隊全体から「能なし」という、自分とはおよそ無関係に、勝手に貼りつけられた性格のレッテルから選びだされ、パリは部下を殺した小隊長の卑劣な現場を、ただ見たために指名される。三番目のアルノー兵士にいたっては、性格とか過去の絆とかの偶然性をさらに極端におしすすめ、小隊全体がクジを引くという完全な投機の結果から起訴されてしまう。人間をこのようにとらえていくのに疑問を感じるかもしれない。疑問というより嫌悪を、消化不良をおこしかねない。もっと個性的に人間を描き、それぞれの心理の展開、性格の展開の綜合として、実体としてとらえなければならないというかもしれない。しかし、そのような内面という殻の向こう側にいつも無傷なままの実体となり、独り歩きする人間の個性なりが本当に存在するものだろうか。状況ときりはなされた地点で、ぬくぬくとふくるあがっていった豊かな人間性にはたして意味があるものだろうか。 <br><br>同フィルムに戸惑い、消化不良を感じるとすれば、それは日本人があまりにも慣れ親しみすぎた自然主義の発想から、素朴リアリズムの迷路から脱却しきっていないからにほかならない。人間性が普遍的にあるのではなく、状況と人間が、その展開と葛藤があくまで普遍的なのだ。三人の兵士が選びだされたこと、その彼らに死が宣告されたことが現実なのであって、いかにこの三人の兵士の経歴を個別的に描き、その心理の重さをどこまでも深層化していっても、残るのは末端の肥大化した、バラバラにうごめく部分だけである。戦争と人間のパースペクティヴはいつもどこか遠くに見捨てられてしまうに違いない。スタンリー・キューブリックはパターン化するのを怖れていない。(2010/05/19) <br></dd></dl></div>
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<pubDate>Wed, 19 May 2010 21:32:46 +0900</pubDate>
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<title>第358回　二十四時間の情事</title>
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<![CDATA[ <h4><font size="2">HirOShima mon amour 日=仏*1959 アラン・レネ監督作品</font> </h4><div class="article"><dl><dt><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=10080676" target="_blank" rel="nofollow" alt0="BlogAffiliate">二十四時間の情事 [DVD]/エマニュエル・リヴァ,岡田英次<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F51smo46rnJL._SL160_.jpg" border="0"></a> </dt><dd style="MARGIN: 0px">￥1,890 </dd><dd style="MARGIN: 0px">Amazon.co.jp </dd></dl>映画の流れる時間は、光の濃淡、乱舞、それが全てである。そこに居合わせる観客は、眼をそらすことは許されない。眼をとじてしまえば、映画はその瞬間に消滅してしまう。見つめ、考え、反芻する時間、望むままにある箇所にとどまる余裕はあたえられない。こうした映画を見る姿勢の強制は、見る人間の生理を越えたところにある。それと同時に、そのとき私達がおかれた肉体的条件に、映画がけっして合わせてくれない以上、そこから生まれてくる生理的反応はきわめて重要なウエイトをしめることになる。私達は残念ながら、はじめて映画と出会うのは生理的なそれであり、それを拒否することはできないだろう。 <br><br>私がアラン・レネの作品に反応した、そのしかたはまぎれもなく、こうした種類の生理そのものだった。光の根源は物体の彼方に見えているようで、どこにもなく、焦点のさだまらぬままにただよっている二つの肉体。しかも、その肉体は宙に浮いている。けっして横たわっているのではない。起きている？　いや、起きているはずはない。肉体は日常の、動かしがたい座標軸にがんじがらめに縛りつけられた重い鉛を、いまかなぐり捨て、キャメラによって捉えられた肉体ではなく、言葉としての「肉体」に帰ろうとしている。それは窮極の果てにたどり着いた、硬質の抽象ではなく、あらゆる具象化を受け入れようとする、無垢な軟弱さのそれである。 <br><br>同フィルムは、そんな感じのするプロローグではじまっていた。それは映像だけの印象ではなく、音もかすかに聞こえてくる響きというより空気の微妙な震動、波立ちにすぎない。言葉は語られていながら、無意味で、あることをめざし、喋ることが沈黙でありたいと願う。逆説的にいえば、それは何を物語ってもよかったのだろう。極度に押し殺されたエマニュエル・リヴァの抑揚。私の感覚は見れば見るほど遠ざかり、聞けば聞くほど無音化してしまう引潮にあらわれ、気づいたときには、私の意識は外にむかって広がりながらも、私の意識とだけ対話しながら空回りし、私はそれから眠ってしまったようだ。ヒロシマ、ヌヴェール、ヒロシマ、ヌヴェールと繰り返して囁かれる言葉に、私は目覚める自分を感じる。だが、私は完全に眠っていたのだろうか。私は同フィルムを他人に語れるほど、明瞭に観ていたのだろうか。その日の、私の生理は疲れていたのかもしれない。 <br><br>数日後、私は再び『二十四時間の情事』を観たのだが、結果は少しも変わらなかった。いつのまにか睡魔が忍び寄り、やがてけだるい不透明な自分の重みにたえかね、軽く寝息をたてている自分を感じるのだった。ここで誤解されてはこまるのだが、私はこの二度の眠りのなかで、けっして退屈していたわけではないのだ。退屈がもたらす不快感は全くなく、むしろ心地よい、私にとって魅惑的ですらある時間だった。それは彼の映画特有の、ショットのリズムが、私の睡眠の波長と偶然一致したのに原因があるのかもしれない。あるいは彼の映画のもつ音楽性、物語の欠落、拡散される主題といった特徴が私を眠りに追いやるのかもしれないが、いずれにしても、目覚めながら睡眠をむさぼってしまう責任は私の方にあるのではなく、レネのフィルム、彼の意図のなかにあると考えざるをえない。そしてこうした経験は、レネにたいする私の奇妙な賭けとなった。それ以後、彼の作品と出会うたびに、私自身どこまで徹底して彼の催眠術にかけられるかが、その映画の純度のたかまりをしめす測量値のように、私には思えるのだ。 <br><br>『ゲルニカ』と『夜と霧』を観ても、私は貪るように眠った。レネの表現の異常なまでの平衡感覚に私自身、それでよいのか、それでよいのかとつぶやきながらも、しだいに襲いくる睡魔とたたかっている自分の処分に戸惑うばかりなのだ。アラン・ロブ=グリエの脚本による『去年マリエンバードで』は、その意味では完全なる眠りの映画であった。時間と空間から日常性のもつ実体の排除をめざすアンチ・ロマンが、こうした効果をもたらすのは当然であるかもしれない。『戦争は終わった』にしても、彼としても珍しい散文的な語法を選んでいる違いはあるにせよ、アラン・レネはやはりアラン・レネであり、私自身の彼へのイメージを変更するものでは決してなかった。 <br><br>私は本当に彼の映画を、完全に観たことがあるのだろうか。いまでも私はそうした疑問をいだく。私は彼の映画を観たのではなく、彼が張り巡らした特殊な時間空間、ひとつの夢を見せられたのではなかったか。そして夢を見たのは、まぎれもなく私自身であり、ほかのどの映画よりも、夢みる私自身のありよう、不透明な私自身の重みを感じさせるのも、また彼の映画である。画面の表面にかすかにただよい、たよりなく揺れ動く彼の映像は、見る者との対話をすりぬけて、私達をそのなかに巻きこんでしまう。何か起こりそうで、何も起こらない停滞は、私達の感覚の自由を奪い、あくまでけだるく、知らず知らずに私達を飼い殺しにしていく。目覚めているときであれば、私達はそれに背を向けることもできるだろう。それを見ないこともできるだろう。だが、背を向け、眼をとじながら、それでもなお見てしまうのは、疑いもなく夢の特権なのである。 <br><br>だが、アラン・レネの作品がもたらす睡眠のイメージからは、こうした特権化された夢物語は決して生まれてはこない。むしろ夢は語られるものではなく、そのとき燃焼した時間が夢の実体とは関係なく、私達に何をもたらすのか、そういった種類の問いが彼の場合もっとも必要なのではないだろうか。そして、それがアラン・レネの夢に関する、きわだった特質でもある。日常の時間と空間をいかに裁断するかは、作家の思想の自由さが決定するのだろう。この場合、アラン・レネのもたらす睡眠のイメージ、夢の必然性を私は認めないわけにはいかない。(2010/05/18) </div>
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<pubDate>Tue, 18 May 2010 21:23:41 +0900</pubDate>
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<title>第357回　北陸代理戦争</title>
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<![CDATA[ <h4><font size="2">東映*1977　深作欣二監督作品</font> </h4><div class="article"><dl><dt><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=10066052" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">北陸代理戦争 [DVD]/松方弘樹,千葉真一,成田三樹夫<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F617GxNcoiTL._SL160_.jpg" border="0"></a></dt><dd style="MARGIN: 0px">￥3,150</dd><dd style="MARGIN: 0px">Amazon.co.jp</dd></dl>深作組スタッフが『北陸代理戦争』のクランクアップを記念して撮った集合写真の日付を見て、目を疑った。ボードには「2月21日」と記されているが、実は同フィルムの封切日は1977年2月26日である。いかに時間のないなかで騒然と撮影されていたかが推測されるが、そもそも撮影遅延の大きな原因は、助演の渡瀬恒彦が雪の北陸ロケで横転したジープの下敷きとなって大ケガをしたため、代役に伊吹吾郎を立てて撮影をやり直したことだった（実は渡瀬の主演で終盤まで撮影は済んでおり、予告編も差し替えがきかず渡瀬が顔を出したまま上映されたらしい）。クレジットにこそ出てないが、中島貞夫監督が助っ人で別班撮影も敢行、ようやく完成にこぎつけたという満身創痍の作品である―のだが、この騒然たる製作事情がのりうつって異様な生気に満ちたフィルムとなったのだから映画というのは不思議なものである。 <br><br>酷寒の雪の海岸が頻出し、頑なでしぶとい北陸人気質が幾度も語られる。のっけから突拍子もないバイオレンス描写である。雪のなかに首まで生き埋めにした組長・安本（西村晃）の周囲をジープで轢き殺さんばかりに走行して、若頭・川田（松方弘樹）が約束どおり競艇場の権利を渡せと脅す。この私刑が特徴づける川田のキャラクターは強烈で、けちで不義理な輩は親分であっても全否定、さらにはこの地場の一家の軋みに乗じて北陸を牛耳らんとつけいってきた大阪の豪腕な組長・金井（千葉真一）にも猛烈に反発する。川田は雪の林で安本の弟分・万谷（ハナ肇）の一派にぐさぐさと斬られて死にかけるも蘇り、癒えぬ内臓の傷からしみ出す血を吐きながら、万谷に復讐する。指つめどころか指を歯で噛んでこれで堪忍と詫びる情けない万谷に刀をふるって手首からすぱっと切り落とした川田は、ムショ勤めを終えるや、金井の横暴に手を焼く大物組長・岡野（遠藤太津朗）に取り入って、金井を北陸から一掃する。しかしながら、「盃より土地」を標榜する川田にとって、「盃より政治」ででかい組を動かしている「現代やくざ」の岡野は（金井組を追放するために手段を選ばず利用はさせてもらったが）絶対に北陸に入れたくない存在でもあった。しかし、組織のスケールからいえば川田らは不利である。そこで川田は岡野側の鉄砲玉三人をまた首まで雪中に埋めて、周囲をジープで走らせるところを岡野に見せる。だが今回は脅しに終わらず、ジープは無残にも三人の頭を片っ端から粉砕してゆく。この公開処刑を目のあたりにして、川田の狂犬ぶりに慄然とした岡野はおそるおそる一時退散する。 <br><br>雪中に首が突き出したイメージを観なおしていたら、ふとアルカイダが公開する斬首の処刑映像を思い出した。大国のエゴが交錯するところに生まれた少数の抵抗者が、強大な敵国家を震撼させるための作戦として残虐な録画ビデオを発信するように、地元を乗っ取ろうとした大手の組にわずか数人でたてつこうともくろむ川田は、この陰惨な私刑の「映像」をもってきわどい示威行為としたのだった。まさに「仁義」なき後の「政治」社会のメジャー論理が、ローカルのマイノリティを蹂躙したところに生まれた（もはや任侠道などからは大いに逸脱した破壊者的な）テロリストが川田だったわけで、この構図は北陸対関西どころか今の世界情勢にまで想像が広がる。 <br><br>川田に扮した松方弘樹の入れ込みようも特筆ものだが、松方は東映作品に貢献していながら何故か主演作品が少なく、主役の場合も傍系のキワな作品ばかりで（これ以前に深作と組んだ主演作『恐喝こそわが人生』も松竹作品であった）その会社への鬱憤が演技の起爆剤になっていたかもしれない。そして同フィルムは深作欣二最後の実録やくざ映画でもあった。 (2010/05/17) </div>
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<pubDate>Mon, 17 May 2010 21:05:54 +0900</pubDate>
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<title>第356回　実録三億円事件　時効成立</title>
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<![CDATA[ <h4><font size="2">東映*1975　石井輝男監督作品</font> </h4><div class="article"><dl><dt><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=10065970" target="_blank" rel="nofollow" alt0="BlogAffiliate">実録三億円事件 時効成立 [DVD]/小川真由美,岡田裕介,絵沢萠子<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F51fUDYXVD2L._SL160_.jpg" border="0"></a> </dt><dd style="MARGIN: 0px">￥4,725 </dd><dd style="MARGIN: 0px">Amazon.co.jp </dd></dl>70年代にはよど号ハイジャック事件、連合赤軍総括リンチ事件やあさま山荘事件、大久保清事件など、犯罪史に残る事件が続々と起こったが、事件の発生はもとより「終焉」で大いに騒がれたのが、68年発生の三億円事件であった。この奇抜なアイディアによる未曾有の窃盗事件は当時社会を騒然とさせたが、これが一大ローラー作戦をはじめとする捜査陣の努力も虚しく75年12月10日に時効を迎えることとなった。この犯人は誰も傷つけず知略だけで現金を奪い、またこの東芝府中工場のボーナスであった三億円には保険がかけられていたので、無事ボーナスも支給された。したがって、この大胆不敵な犯人には陰惨な凶悪犯などとは異なるアンチヒーローへの共鳴じみた関心が世間にはあったのではないか。 <br><br>同フィルムは、そうやって時効も迫った三億円事件を世間が再注目し出したことにつけこんだキワモノ企画である。東映の岡田茂社長から急に製作を頼まれた石井監督は、当時『動脈列島』で気を吐く推理作家・清水一行が週刊誌に連載中だった『時効成立』の取材ノートをもとに『新幹線大爆破』で好調の脚本家・小野竜之介と独自の犯人像を創作した。戦後最大のミステリ・三億円事件をネタに、即製で時効の日にぶつけようという企画である。 <br><br>まず借金まみれで困窮のどん底にある岡田裕介と小川真由美の同棲生活が描かれるのだが、雑然として居場所もないような部屋のなか、台所に二人で突っ立ったまま猫マンマをかきこむことで「食事」とするカットがひどく印象的で、もうこの状況をひっくり返すには犯罪に打って出るしかないというようなムードが一気に充満、岡田の三億円窃盗計画を知って一瞬衝撃を受けた小川がさらりと同調、二人して実行に必要なヤマハスポーツやカローラ、そのほか細々とした変装用具などの収集に走るところまでをすこぶる快調に見せてゆく。そして映画は早々に実行日のクライマックスを迎え、白バイ警官を装う岡田が元気輸送車を止めてまんまと現金をせしめ、岡田の実家の墓に隠すところまでスムースに話を運ぶ（こうして見ると、三億円事件は本当に人を食ったトンチ勝負の事件である）。 <br><br>事件に向かうまでの二人の準備期間は、やや芝居がかったテンションの演技と誇張を帯びた映像で走るが、逆に事件の再現部分は過度な盛り上げをせず、むしろ淡々と静かな語り口が効いている。ケレン味ある導入部とドキュメント・タッチの事件部分は、何となく映画のタッチが違うのだが、同フィルムの場合、この語りのごった煮感がかえってキワモノ的な勢いを出している。さて、総尺90分を切るスリムな作品なのに中盤までに三億円窃盗まで描きおおせて、一体この後はどうするのだろうと思いきや、後半はやにわに捜査側の金子信雄の刑事が執念で犯人を嗅ぎ回る話に横滑りして、ほとんど金子が主役というくらいに重心がすりかわる。 <br><br>この構成がまた意表を突いて面白く、熱演の金子がぎらぎらと岡田を追い詰めてゆく。事件を描くドキュメント・タッチから一転、また金子信雄が大芝居を連打し、映画もいい意味で怪しげになっていくのだが、岡田を犯人と断定した金子は猛烈な訊問で自白を迫る。が、岡田は憔悴し昏倒するまで黙秘権を行使し、金子の憤りと焦燥をよそに、ちゃっかり時効が成立してしまう。眼光鋭く見送る金子の顔をバックに小川真由美に迎えられた岡田裕介がニヤリと署を後にするラストはなんともシニカルだ。 <br><br>描写のタッチが混在したり、構成が反転したりと、なんでもありの石井輝男の語りはキワモノならではの活気に満ちるが、こういう作品というのもプログラム・ピクチャーの見世物的な即製という要請あってこそ産み落とされた珍品に違いない。(2010/05/16) </div>
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<pubDate>Sun, 16 May 2010 21:01:06 +0900</pubDate>
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