<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>ソロモンの最後</title>
<link>https://ameblo.jp/namakemono-meguchan/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/namakemono-meguchan/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>戦後80年。　悲惨な体験談を目に耳にするたびに胸がざわざわします。　　ユーモアたっぷりでひょうきんだった父も同じ体験をしていたのです。　　ずっと傍にあった父の戦記。改めて読んでみようと思いました。　一人でも多くの方と一緒に・・・</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>書き写しただけで</title>
<description>
<![CDATA[ <p>やっと一冊の父の戦記を書き写すことが出来ました。</p><p>&nbsp;</p><p>ずっと気になっていました。</p><p>&nbsp;</p><p>父の思いが詰まった本は、この先このまま誰にも読まれずに葬られるのだろうかと</p><p>&nbsp;</p><p>著作家でもない一町医者が体験した日記のような戦記</p><p>&nbsp;</p><p>今では死語になっている言葉や、難しい漢字。</p><p>&nbsp;</p><p>まして、活字離れしている子や孫たちは</p><p>&nbsp;</p><p>この本を手渡しても、絶対に読んでくれないと思いました。</p><p>&nbsp;</p><p>実際、私がずっとそうであったように</p><p>&nbsp;</p><p>パソコンなら、スマホでなら、毎日少しづつでも読んでくれるかも知れない</p><p>&nbsp;</p><p>そんな思いで書き写そうと思いました。</p><p>&nbsp;</p><p>調子が乗っている日は２０００字ほどになる長文</p><p>&nbsp;</p><p>疲れた、眠たいなどと甘えたい日は６００字にも満たない日もありますが</p><p>&nbsp;</p><p>とにかく毎日更新しようと決めて書き写しました。</p><p>&nbsp;</p><p>変換ミス、タッチミス、　あれ？なんかおかしいな？　</p><p>&nbsp;</p><p>いっぱいいっぱいミスがあると思います。</p><p>&nbsp;</p><p>今日からまた、ミスを訂正しながら読み返してみます。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/namakemono-meguchan/entry-12959676055.html</link>
<pubDate>Mon, 23 Mar 2026 10:15:35 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>あとがき</title>
<description>
<![CDATA[ <p>新しい戦争がまた始まっている。　そして20年前の戦争が昨日のように頭に浮かぶ。　それはあまりにも悲惨であり、残酷であっただけに深く記憶に残って消えない。　その残酷さにおいてはベトナムでも同じことが言えるのではないだろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>私は今まで、惨めな戦争の事は人にも家族の者にもあまり語った事は無い。　そして語る事も無く終わるのであろうと思っていた。</p><p>&nbsp;</p><p>たまたま昨年10月24日、靖国神社において20年振りに私等ソロモンで戦った第十七軍の合同慰霊祭が、盛大にいとも厳粛に催されあt。　そして亡き戦友の御冥福を心からお祈りする機会に恵まれた。　その時、私はこれはやはり公開すべきだと決心した。　それは飢餓地獄の中で空しく恨みを呑んで死んで行った幾多の戦友の霊を慰めることにもなり、また御遺族に対しては報告すべき義務でもあると思ったからである。</p><p>&nbsp;</p><p>20年振りにやっと、陽の目を見た私の戦線記録である。　これは私が捕虜収容所において、記憶に残る限りを全力を尽くして正直に書き綴ったもので、今日書き直したい事は色々あるが、20年後、今日の感情の入るのを恐れる。　だから誤った点や不快に思われる点があればお許し願いたい。　ただ一軍医としての私の体験を伝えたいだけで、事実そのものだけが本書の値打ちと思っていただきたい。</p><p>&nbsp;</p><p>停戦と共に日記を焼却し、そのため戦没した戦友の状況は勿論のこと、長らく辿った地獄の道の半分をも詳らか（つまびらか）にする事の出来ないのは返す返すも残念である。　</p><p>&nbsp;</p><p>私の子供は今日の平和の中にすくすくと大きく育った姿を見るにつけ、子供と同じ年頃であった亡き戦友の苦しかった短い人生が不憫でならない。　【祖国のために】と思って死んで行った幾多の戦友をいつまでも忘れる事は出来ないのである。</p><p>&nbsp;</p><p>本書の写真は何れも読売新聞社（戦後）とソロモン会（戦時中）の提供によるものである。　またカットはファウロ島上陸当初、私が家に宛てた最初にして最後の軍事郵便であるのでそのまま本書に入れた。</p><p>&nbsp;</p><p>なお、上枠にあたり、助言やご協力と頂いた、日野忠男（読売新聞社）、牧邦雄（豊中高校）、山崎昭見（龍谷大学）、福本康夫（元第十七惨謀）、平野忍（元第十中隊）　青木辰夫（元第二大隊速射砲）　三宅三郎（元第二大隊主計）　田中国彦（元第七中隊）　家村勇（元第七中隊）　の諸氏に深く謝意を表したい。</p><p>&nbsp;</p><p>最後に図らずもブーゲンビル島に眠る将兵の遺骨収集団出発にあたり、本書のゲラ刷りが間に合い、彼の地に持参願えた事は、亡き戦友の引き合わせであると喜んでいる次第である。</p><p>&nbsp;</p><p>昭和41年７月</p><p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　篠原　孝</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/namakemono-meguchan/entry-12959084929.html</link>
<pubDate>Sun, 22 Mar 2026 11:52:42 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>終戦のブーゲンビル島</title>
<description>
<![CDATA[ <p>この7月12日から一か月半の日程で、熊本の遺族、生還者、県が一体となって</p><p>&nbsp;</p><p>『ソロモン群島に野ざらしになっている遺骨を故国に持ち帰ろう』</p><p>&nbsp;</p><p>と出発された事は、我々その地で戦った者にとって、誠に喜ばしい事である。</p><p>&nbsp;</p><p>陸・海軍合わせて６万以上の将校が戦ったが、生きて還った者は僅かに１万４,５千名.。　　その生き残った者の中には五体満足に揃っていない者も何人居たであろう。</p><p>&nbsp;</p><p>この遺骨集団がソロモン群島へ行かれるのは、民間人として初めての事であるが、</p><p>既に７年前この地に行かれた読売新聞記者の日野忠男氏に、今は懐かしいその後のブーゲンビル島について語ってもらうのも、誠に意義深いと思われたので、特に同氏に寄稿をお願いした。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#009944;">・・・・・・・・・・・・・・・・・・</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#009944;">私がブーゲンビル島を訪れたのは、ここで激しい戦いが終わってから約15年経った、昭和34年の秋である。　特派員としてラバウルからソロモン群島の戦跡を辿りながら、日本軍敗走の跡を逆にガダルカナル島へ向かう途中だった。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#009944;">まだ機雷が残るというソロモン海域を南下して偶然停泊したのが日米両軍最後の決戦場・ミオ川の河口だった。　戦火で赤裸にむかれたというジャングルは、再び生命を取り戻して両岸から覆いかぶさるように川を隠し、廷々とそびえ立つ巨木の梢を原住民がコキイと呼ぶオウムに似た鳥が羽音も高く飛び掛かっていた。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#009944;">赤いラップラップという腰布を巻き、豊かな乳房を突き出した原住民の娘が、ほの暗いジャングルの中からヒョイと顔を見せたかと思うとたちまち樹海の闇に溶け込んで行ってしまう。</span></p><p><span style="color:#009944;">川の中には原色の美しい熱帯魚が泳ぎ、どこから見てもまさに【南海の楽園】</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#009944;">ここで砲声が轟きわたり、飢えた日本兵たちが死力を尽くしていたとは想像も出来なかった。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#009944;">売買結婚の習慣が残るブインの近くの部落で、どこを見込まれたのか娘を４ポンド（約４千円）で買えと奨められ、うっかり女房の事を忘れかけたり、パパイヤや椰子の魅力に取りつかれている間は確かに平和であった。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#009944;">しかし、一旦眼を据えると絶望的な戦いの跡はいたるところに今も残っているのである。　原住民が炊事道具としてまるで宝物のように大事にしているのは、全て弾痕も生々しい日本軍の飯盒であり、鉄兜であり、水筒である。　それらには、ここで消え果たであろう人々の名前がしっかりと刻み込まれ、その弾痕は所有者の死の瞬間を物語っているのである。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#009944;">腐土をかき分けると、腐れかかった軍靴の切れっ端、錆び果てた帯劔、そしてまるで洗われたように真っ白いシャレコウベが虚ろな眼を見開いて祖国の方を見つめているのである。　ジャングルの土はどっしりと重い。　湿気のせいでは無い。　雨霰と射ち込まれたアメリカ軍の弾丸が一握りの土の中に、必ず4個5個混じっているのである。　これだけの物量戦を逃れて、無事故国へ帰り着けた人はそれこそ本当の幸運児だったに違いない。</span></p><p><span style="color:#009944;">ワニが群れる川、わずか１キロ歩くのにトゲズルにかき裂かれて３時間もかかるジャングル。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#009944;">激しく照り付ける灼熱の太陽、熱帯の夢を求める人たちには限りない喜びを与えてくれる島だが、少なくともここは食糧も無く弾丸も無く瘦せ衰えた戦士たちの戦う場では無い。　旅人に心地良い刺激を与えてくれ自然も、敗走する軍隊に、敵以上に怖ろしい存在として変化したはずである。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#009944;">ブインの原住民から、山の中の部落に日本軍の軍医が残留、パプアの神様のように慕われているという話も聞いた。　神戸の小石さんという人ではないかという推測もあったが、文明人を避け、密林の中で孤立した生活を送っている。　その部落へ行く道はなく、また海岸の原住民は食人の習慣が残るという山地族を怖れて、誰も案内しようとは言わなかった。　</span></p><p><span style="color:#009944;">美しい自然、素朴な原住民を思うとき、祖国を捨ててこの島で一生を終える軍医が居ても一向に不思議ではないようにも思えた。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#009944;">荷物を預けて此処で待てというと、二日でも三日でも同じ所でぼつねんと待っている縮れ髪のパプア人、油を塗ったようにヌメヌメとした滑らかな皮膚を持つセクシーな娘たち、軍医ならずとも、のめりこんでいきたいような魅惑の島である。　私は今でも時々放心したようにあの島を考える事がある。　シャレコウベや爆撃で横倒しになった巨船と共に、燃え立つようなブーゲンビリアの花が心を過ぎるのである。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#009944;">・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・</span></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/namakemono-meguchan/entry-12959081908.html</link>
<pubDate>Sat, 21 Mar 2026 11:21:55 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>先陣訓は生きていた。</title>
<description>
<![CDATA[ <p>今年新春、田中国彦、家村勇の両君と20年前の当時を偲んで、昨日の事のように色々対談した。　両君はタロキナで生き残ったただ２名の第七中隊の兵隊である。</p><p>&nbsp;</p><p>田中君は、サワ川で大腿部裂創の為後退、長らく病院生活を続け、戦傷と栄養失調とマラリアで絶望の身であったが、奇跡的に生還した。　家村君はナポイ海岸で足に貫通銃創を受け、部隊敗退の時収容の方法も無くそのまま取り残されて、後に米軍に収容された。　私の記憶では行方不明となっていた。</p><p>&nbsp;</p><p>家村君は当時の模様を次のように語った。</p><p>&nbsp;</p><p>「部隊が敗退した後は毎日砲撃で叩かれた。</p><p>５，６名ほどの残された者は、砲撃の度に濠を転々と移り、遂には散り散りばらばらに別れてしまった。　食べる物は何も無く、渇きが酷く、壕から外に出る気力も無く、僅かに壕内に滴る雨水で口を潤した。　どのくらい壕の中に居たか覚えがない。　意識が朦朧としていた時、黒人兵に捕らえられた。　他の者はどうしたのか分からない。　その時は自分一人だけだった。　</p><p>&nbsp;</p><p>壕の側に米兵が二人倒れていたのを覚えている。</p><p>&nbsp;</p><p>タロキナに何日か居て、飛行機でガダルカナルの野戦病院に収容され、さらに飛行機でサンフランシスコの病院に送られた。　ここでは海軍の人が多く、隣の部屋には真珠湾攻撃で捕虜第一号と言われた酒巻少尉も居た。</p><p>&nbsp;</p><p>病院での治療や待遇は十分で、食物など食べきれない程であったが、わざと捨てては足らないと言って再び注文した。　何かにつけて反抗的になっていた。　捕虜という事でヤケクソになっていたからである。　このように好意あるアメリカ軍の取り扱いを喜ばず、無理ばかり言っていた。　が、軍医も看護婦も少しも怒らなかった。　内地帰還までユダ州の病院に居たが、ここでは傷も良くなり歩く事も出来るようになっていた。</p><p>&nbsp;</p><p>病院では小遣い銭までくれるので、酒保では好きな物を買うことも出来た。　元気な者は希望により作業も出来る。　そして賃金が支払われる。　内地に上陸した時、貯めた賃金を日本円と交換したが、中には6000円ほど貰った者も居た。</p><p>&nbsp;</p><p>帰還の時は病院船で帰ったが、自分は歩く事が出来るのに、乗船の時はわざわざ担架で送らせた。　内地上陸の時も同じように担架である。　船内の給与もなかなか優遇で、個室には二人入り、ボーイが食事を運んで来る。　枕元には扇風機も回っている。　何か豪華な客船にでも乗っているようだった。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、そんな待遇を受けても、上陸すればどんな処罰を受けるのであろうかと、ただそれだけが頭いっぱいで、実に複雑な気持ちであった。　終戦の事は早くから聞いてはいたが、信じられなかった。」</p><p>と・・・</p><p>&nbsp;</p><p>そして田中君は</p><p>「軍医殿（今でもこう呼んだ）、タロキナで軍医殿と重症の者ばかり取り残されていた時、早く捕虜になった方が良かったですね。　そうすれば皆が助かっただろうに。」</p><p>と言った。</p><p>&nbsp;</p><p>家村君は</p><p>「ほんまにあの時、軍医殿は白旗を持って一緒に向こうへ行けば良かったな。　アメリカも軍医が不足で困っていたから向こうも喜んだだろうに・・・。」</p><p>と三人は笑った。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、これは今だから言える事であって、当時は</p><p>【生きて虜囚（りょしゅう）の辱め（はずかしめ）を受けず】</p><p>と言う戦陣訓が厳として生きていた。</p><p>&nbsp;</p><p>捕虜になったら死ぬ事が国家の至上命令であった。　家村君もこの為、内地帰還が怖かったのである。　そして今に思う。</p><p>&nbsp;</p><p>この戦陣訓なかりせば、いかに多くの尊い命が助かった事かと。　誠に残念な事である。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/namakemono-meguchan/entry-12954880661.html</link>
<pubDate>Fri, 20 Mar 2026 11:57:18 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>復員日記　その８</title>
<description>
<![CDATA[ <p>2月22日</p><p>いよいよ家に帰る日がやって来た。　２袋の乾パンと40円が支給された。　復員列車の出るまでの間、久里浜の町に出る。　露店に並べられた僅かの物は全て10円である。　落花生１袋10円　マグロの刺身は5切れで10円　買って食べてみる。　味よりも桁外れの金を使う好奇心の方が大きい。　金を使った事のない我々は物価の高いのは問題ではない。　命だけを持って帰ったという事の他に別に金には執着もない。　40円はすぐに飛んでしまった。</p><p>&nbsp;</p><p>２袋の乾パンを持って寒さに震えつつ列車に詰め込まれる。　夜の列車にはもちろんスチームは無い。　夜が更けるにつれて冷え込みは甚だしい。　どうする事も出来ない。　寒さの為か、家に帰りつく事を考えてか容易に眠れない。　毛布を腰から足に掛け包んでみる。　それでも足が痛いほど冷える。　眠れぬままボウボウの伸びた髭をハサミで切ってみる。　家族の者に少しでもやつれた顔を見せまいと思って。</p><p>&nbsp;</p><p>2月23日</p><p>早朝、京都に着く。　京都の街は不思議と焼けていない。　この分だと大阪も一部だけの消滅で家も案外無事であるかも知れない。　胸をワクワクさせながら国電で大阪に向かった。　電車が淀川を渡って大阪駅に滑り込む頃は夢中であった。</p><p>&nbsp;</p><p>城東線で京橋へ。　駅は以前と変わりなく朝の通勤者でごった返している。</p><p>「どこからお帰りですか？」</p><p>「ソロモンです。」</p><p>乗客はみすぼらしい私をどんな眼で眺めた事だろうか。　一人の通勤者が私に聞いて、気の毒そうな顔をした。</p><p>&nbsp;</p><p>電車から眺める一望の焼野原には、ただ茫然として涙も出ない。　我が家のある曲がり角に来た時、急に家を見るのが恐ろしくなった。　一瞬胸はときめき、立ち止まった。　恐る恐る家を見つけた時の嬉しさ。　急ぎ家に近づくと名前は変わって【八幡医院】とある。　家族は何処へ行ってしまったのか。　決心して裏口をくぐった。　そこに書生らしいのが洗面していたので、</p><p>「お邪魔します。　篠原です。」</p><p>と言うと彼は振り向いて愕然とした。</p><p>「僕やがな！」</p><p>「良晃か？」</p><p>「僕、良春やがな！」</p><p>それは大きく変わった姿であった。　母と妹が奥から飛んできた。　ちょうど家の整理に帰っていたのである。　父をはじめ、妻や子供たちは皆、郷里の鹿児島に移った事。　兄夫婦の死や弟が満州から帰らない事などを聞く。　胸が詰まって声が出ない。　今にも泣きそうになる。</p><p>&nbsp;</p><p>思い出懐かしい部屋、畳の上、布団と温かい電気こたつ・・・</p><p>興奮して眠れない。　天井の板を数えたりする。</p><p>&nbsp;</p><p>3月4日</p><p>父から連絡が来た。</p><p>「お前はどこまで運の良い男だ。」</p><p>と書いてある。　</p><p>&nbsp;</p><p>それは出征の時、大阪駅で言った父の言葉であった。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/namakemono-meguchan/entry-12954876326.html</link>
<pubDate>Thu, 19 Mar 2026 11:13:38 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>復員日記　その７</title>
<description>
<![CDATA[ <p>郵便局で電報を頼んだら扱っていないという。　しかも電報は大阪まで３日くらいかかり、手紙は５日くらいは掛かると言う。</p><p>これでは自分が家に着く方が早いのではないかと思い止めた。　そして大都会の混乱状態を想像した。</p><p>&nbsp;</p><p>浦賀の町は何の被害も無くそのままである。　人々の様子にも変わったことは無い。　だから我々には都会の実情がどうもはっきりしない。　そして船員が</p><p>「とにかく帰って実情を見ることですね。」</p><p>と嘆息したことを思い出した。</p><p>&nbsp;</p><p>２月20日</p><p>馬堀収容所に入る。　元重砲兵学校だった所である。　宮原少佐はかって此処に副官として居たとの事。　少佐はいかにも自分の家に帰ったように誰よりも嬉しそうである。　</p><p>&nbsp;</p><p>火の気の無い兵舎は埃にまみれ、天井板は剥がれ、がらんとしている。　剥がれた板は皆、焚火に使われたらしい。　兵隊は寒さに亀のように首をすくめ、海老のように身体を曲げ、ポケットに手を突っ込んで弱り切っている。</p><p>&nbsp;</p><p>暑い戦場から裸で帰って来た我々に与えられる温かいものは何も無かった。　冬の衣類は一切支給されない。　汚れた夏衣のままで震えていた。　いかに敗戦で物が無いとは言え、遥々祖国の土を踏んだ我々に与える何物も無いのかと。、復員当局の処置に不平不満を並べるより他は無く腹立たしかった。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、衣服も無く寒さに震えつつも麦飯と温かい味噌汁は有難かった。　特に小豆のこってり入った甘い善哉の味はいつまでも舌に残った。　毛布にくるまって寝台に横になっていた時、ふと出発前の屯営を思った。</p><p>&nbsp;</p><p>2月21日</p><p>朝、新品の服が支給されてこれに着替える。　しかし、それが天皇陛下の御臨幸ある為だと分かった時、</p><p>「なぜ？わざわざ服に着替えさせるのか。　破れて汚れた薄っぺらなそのままの姿を見て頂ければそれで良いではないか。」</p><p>と言う者もあった。</p><p>&nbsp;</p><p>思いがけなく陛下の御臨幸をお迎えすることが出来た。</p><p>&nbsp;</p><p>陛下は背広服でいとも軽々しく我々の前に立たれた。　お姿はただの人間と変わらなかった。　そして立ち並ぶ兵隊に色々と御下問の声が聞かれた。　生まれて初めて目の前に見る陛下のお顔とお声　こんな事があるのだろうか？　夢では無い。　この一事をもってしても万事が察せられる。　余程しっかりして頭を切り替えねばならぬ。　背の低い陛下の後ろには、ジープに乗った大きなアメリカ兵がカメラを忙しそうに我々に向けている。　まざまざと敗戦日本の姿を見るようで胸が熱くなった。</p><p>&nbsp;</p><p>新品の服は再び脱いで返す。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/namakemono-meguchan/entry-12954849981.html</link>
<pubDate>Wed, 18 Mar 2026 11:11:47 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>復員日記　その６</title>
<description>
<![CDATA[ <p>回転焼き３つ１円　牛肉400グラム120円　ライスカレー15円　すき焼き100円　大根３本24円　光が１円　酒１本25円という事である。　一体家の者はどうして生きているのであろうか。　わずか３年間に嘘のような値段になっている。　桁外れのお金で全く想像もつかない。　運転手の月給600円　船の事務長で1600円の由、月給も桁外れである。　全てが今までの10倍以上になっている。</p><p>&nbsp;</p><p>今、船内の給与も内地に準じてやっているとの事。　全くの飢餓である。　紙幣は単なる紙片に過ぎなくなった。　闇の日本。真っ直ぐには生きて行けない日本。　恐ろしい国となってしまったようだ。</p><p>&nbsp;</p><p>神戸はすっかり焼野原になって跡形もない。　大阪は城東区、旭区は被害が少ないとの事で一縷（いちる）の望みをかける。</p><p>&nbsp;</p><p>船員は、とにかく帰って実際を見て下さいと言い切った。　恐ろしい事である。</p><p>&nbsp;</p><p>船員たちはよく肥えて色も白い。　誰もが好男子に見える。　どす黒く血の気の失せた土色の我々と対照するとどう見ても人種が違うようである。　日本人ってこんなに美しいものだろうか。　特に女はどんなに美しいことだろうかと初めて見る時のような好奇心さえ湧く。　そして物価の高い。人種の違う国へ向かいつつあるような気さえする。　３年間、金を見たこともない我々はその使途にも迷うだろう。　余程しっかりしなければ酷い目に合うかも知れない。</p><p>&nbsp;</p><p>２月17日</p><p>一夜明けると、早くも12月に逆戻りしたような気候である。　上甲板の者は僅か２枚の夏衣と１枚の毛布とでは耐えられない。持ち物は全て身に着けて震えている。　船よりの好意で別に毛布が１枚あて支給されたが、吹きすさぶ寒風には身の置き場が無い。　皆、頭からこんもりと毛布を被り、身を縮めて黙って動かない。　これとは反対に、今まで暑熱に苦しんだ下甲板の者は、小春日和の暖かさにやっと生気を取り戻したという恰好である。</p><p>&nbsp;</p><p>明日は吹雪になるかも知れない。</p><p>&nbsp;</p><p>夕方になるにしたがって寒風益々激しく、上甲板は冷蔵庫のようになる。　その中で患者は『あともう少しだ。』と蒼白な顔で頑張っている。　下甲板の暖かい部屋にはすでに入り込む余地も無い。　波は益々高く動揺激しく、皆は起き上がる気力もない。</p><p>&nbsp;</p><p>２月18日</p><p>元気で立ち回っていた私も、遂に悪寒と共に熱発する。　明日の上陸を前にして、とうとう風邪を引いてしまった。</p><p>咳が頻発する。　アスピリンを飲む。　マスクをする。　夜になると熱が益々高くなり、喉が渇く。水が欲しい。</p><p>&nbsp;</p><p>明日が上陸だと思うと恐ろしくなる。　薄い夏衣と夏シャツがあるだけ。　夕食の時、側にいた兵隊が洋服屋だったので早速、毛布を切ってチョッキを作って貰う。　毛布も大切だが風邪ひきには代えられない。</p><p>&nbsp;</p><p>２月19日</p><p>朝の暗い中から、船内はごたごたし出した。4時朝食。　昼食と夕食とは携行と決まる。　熱は少し下がったようだが、口の渇きは依然として甚だしい。</p><p>&nbsp;</p><p>8時いよいよ浦賀入港。　恐る恐る甲板に出ると、折から空は曇って灰色。　山々の木々は枯れ、その中に松だけが生き生きとしている。　この殺風景な内地の山や空を久々に見ても、何の感慨も無い。　ソロモンに居た時、内地の島々が見え始めたら皆は甲板で泣くだろうと話し合った事がある。　自分もまたその気持ちでいた。　それが感慨どころか涙ひとつ出ない。　一体どうした事だろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>内地の窮状を思いながら、恐る恐る上陸する。　上陸第一歩、我々の見たものは色の白いふっくらと肥えた溌剌（はつらつ）たる美しい看護婦の姿であった。　栄養失調の病人はそれぞれ、労わられながら手を取られて上陸した。　すぐに自動車で次々と病院に送られて行った。　恐らく患者の何人かは初めて受けるこの手厚い看護に泣いた事であろう。　なんの検査も検疫も無く、至極簡単な手際には驚いた。　街の人々も親切である。　復員軍人に対する感情は冷たいと聞いていたが、それは杞憂（きゆう）に過ぎなかった。婦人会の人々から熱い番茶を戴く。　3年振りに口にする熱い祖国の番茶の味は美味しかった。　通りすがりの人々が</p><p>「どちらからお帰りですか。ご苦労さまでした・・・」</p><p>と温かく迎えてくれた。</p><p>&nbsp;</p><p>人々の目は我々に対して決して冷たくは無かった。　学生も子供も老人も別に栄養失調らしいのも見当たらない。　蒲鉾の板のような下駄が５円、ミカン５つで１０円 ・・・　なるほどと思った。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/namakemono-meguchan/entry-12954661382.html</link>
<pubDate>Tue, 17 Mar 2026 11:00:21 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>復員日記　その5</title>
<description>
<![CDATA[ <p>2月12日</p><p>10時と４時との2回に少々の麦飯が出ることになる。　空腹の為、却って船酔い気味である。　最後までも食べられない我々である。家に帰ってからも矢張り食べられないかも知れない。　あと一週間の辛抱である。　</p><p>「これでは濠ちゃんの給養の方が良いね。」</p><p>と皆は言う。（敵意の持てないオーストラリア兵を我々は、濠ちゃんと呼んでいた。）</p><p>&nbsp;</p><p>飯は少ないが煙草の配給があった。　【光】と【金鵄】が10本ずつと他に【のぞみ】が少し。</p><p>【光】の一円に先ず驚く。　三十銭の【光】しか知らない我々である。　何だか浦島太郎のような気さえする。　これでは内地の土を踏んだ途端、すっかり度肝を抜かれてしまって戸惑うことだろう。　船中不自由だろうと仕込んだ沢山のカナカタバコももう、顧みることはなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>【光】【金鵄】【のぞみ】とそれぞれ吸ってみる。</p><p>&nbsp;</p><p>安い【のぞみ】が甘く穏やかな香りで一番美味い。　次に【金鵄】【光】である。臭いカナカに馴れた我々には嗜好の程度もすっかり落ちてしまったのであろうか。　長らく、ざら紙で巻いて吸っていたせいかも知れぬ。　長い間飢えていた煙草の問題も内地の本物を手にして忽ち解消してしまった。　そして惜しげもなく人に差し出す。　煙草が全く無かった時、一枚のカナカ葉っぱにお互いがいがみ合った事もある。　その煙草が只事のように人に差し出される。　人間の欲とはこんなに単純なものか・・・</p><p>&nbsp;</p><p>2月14日</p><p>秋風が吹き始めた。　風は肌に薄寒さを感じさせる。　病院船でない船に病人のみ詰め込んで、毎日何人かが水葬されてゆく。　少し元気な者はよろめく足を踏ん張って飯上げをしている。軍医としては我が部隊に私が一人。　それに僅か５名の衛生兵である。　500名の患者には名前だけの付き添いに過ぎない。　可哀そうだがこれはどうする事も出来ない。　惨めな輸送である。</p><p>&nbsp;</p><p>2月16日</p><p>熱い太陽も和らぎ、すっかり春の陽ざしである。　内地に近づくほど波は高く、船の動揺は激しい。</p><p>&nbsp;</p><p>上陸を近くに控えて500名の病兵の中、210名を入院患者と決定する。　病床日誌を書くのも一苦労である。</p><p>&nbsp;</p><p>工兵隊の榎本、橋本両軍医とも同船で心強い。　上甲板のがらんとした広い部屋には電灯だけが美しい。　映画館のようだと言うと、榎本軍医が大阪駅を思い出すと言った。　なるほど夜のプラットホームと言った方が適当かも知れない。　そんな部屋である。</p><p>寒風が吹きすさんではとても居れないだろう。　反対に下甲板の格納庫は風は通らず全くの蒸し風呂である。　滝このように汗が流れる。　その為、皆あせもを出している。　ムッとして窒息しそうである。　【秋】と【真夏】とを乗せて船は走っている。</p><p>&nbsp;</p><p>酒が配給された。　夜、甲板で宮下曹長、神代兵長と共に特別配給の酒を飲む。　満月近い煌々たる月光は波を照らし。海上平穏。</p><p>気候はすでに中秋を思わせる。　何年振りかの酒である。</p><p>&nbsp;</p><p>サロンで船員と話していると多少とも内地の状況の予備知識が得られる。　結局、今は戦後の反動と食料飢饉とで混沌たる悲惨な状態ではあるが、この苦難を切り抜けたらまた、良い新生日本の時が来るという希望が持てて何か楽しいような気もする。</p><p>&nbsp;</p><p>満州や朝鮮に居る者はまだ帰還も出来ずに苦しんでいる。　ビルマも比島も同じで、我々が最初の復員らしい。　飢餓とマラリアには酷い目にあったが、終戦後は濠ちゃんの給養を受けていた我々はあるいは一番幸福であったのかも知れない。</p><p>&nbsp;</p><p>内地ではまだネズミや蛇や蛙等は食べていないことに安心する。　そして内地の生活には十分切り抜ける事が出来るとの確信を持つ。　ソロモン帰りの我々にとってこれは唯一の心強さである。　そして、今までの苦しかった生活の数々に寧ろ感謝したいような気にもなる。</p><p>「あなた方等は却って良い修行を積まれました。その気持ちを持っておられるなら内地の生活なんて問題ではないでしょう。」</p><p>と船員は言った。</p><p>&nbsp;</p><p>高速船員の食事はわずかに一盛の飯と一品の副食である。　これを見ても内地の食事情がいかに窮迫しているかが察せられる。</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/namakemono-meguchan/entry-12954560983.html</link>
<pubDate>Mon, 16 Mar 2026 11:28:42 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>復員日記　その4</title>
<description>
<![CDATA[ <p>2月１日</p><p>待てど病院船は来ない。　ついに２月の声を聴く。　中旬には必ず来るらしいと言うがやたらに帰りたくなった。</p><p>病人は毎日のように何人か死んで行く。　墓場は増えるばかりである。　終戦を知りつつも祖国の土を踏むこともなく死んでゆく彼等の心境はどんなものであろうか。　せめて祖国の土を一歩でも踏ませてやりたい。　生気を失った骨ばかりの蒼白い兵隊が虚ろな眼差しで力無く歩いている。</p><p>&nbsp;</p><p>帰還兵を満載して祖国を目指して去って行く軍艦を眺めてからは、患者の気持ちは妙に淋しくなったようである。　一時は帰還の声に患者の顔には活気が溢れたが、この頃は意気消沈の有り様である。　病院船で先発を命ぜられてから既に二週間は待機しているのである。　</p><p>&nbsp;</p><p>珍しく曇り、雨の日が数日続き、寒いくらいである。　喉を悪くしてしまい熱が出た。　頭が痛む。　マスクを掛ける。　一体こんな身体で内地へ帰れるのかとさえ思い、不安になる。</p><p>&nbsp;</p><p>２月４日</p><p>病院船来たるのニュースは近頃途切れた形である。　気合抜けのせいか風邪も治らない。　完全な気管支炎になって　　　しまった。　三日も熱が続いている。　幸い濠軍からもらったアスピリンとプロチンがあったので大いに助かる。　食欲もなく粥にする。　好きな煙草を吸う気にもなれない。　喉がイガイガする。　鬱陶しいかぎりである。</p><p>&nbsp;</p><p>２月５日</p><p>夕方、巡洋艦に次いで駆逐艦が現れた。　この調子では明日にでも病院船が入りそうだ。　いつ乗船の命があるか分からない。　思い切って入浴する。　幸い熱発もせず、気分良し。</p><p>&nbsp;</p><p>2月６日</p><p>病院船十日来るの確報あり。　また何となく慌ただしくなって来た。　今度こそは確かだろう。　家に帰ることは最大の喜びであるに違いないが、その反面、皆は帰還後の身の処置に悩んでいることも事実である。</p><p>&nbsp;</p><p>2月７日</p><p>夕方、突然病院船が入り、慌ただしくなる。　待機するも乗船の命なし。</p><p>&nbsp;</p><p>2月８日</p><p>朝、どうしたことか昨日入港の病院船【有馬山丸】は出て行く。　我々は次便を待つこととなる。</p><p>&nbsp;</p><p>2月10日</p><p>部隊は紀元節の祝典をあげるよう準備中、ところが１０日と分かり隊長はじめ皆大笑い。　いづれも【南北ボケ】である。　午後、急に乗船の命あり。　小雨の中を患者は桟橋に集合。　日暮れて大発に乗り、本船に着く。</p><p>&nbsp;</p><p>【熊野丸】９５００トン。　新造船の特設空母で、今回は処女航海とのことである。　終戦前は瀬戸内海に隠れ、爆撃を逃れたという。</p><p>&nbsp;</p><p>格納庫にぎっしりと詰められ、暑く横になることも出来ず窒息しそうである。</p><p>&nbsp;</p><p>2月11日</p><p>朝6時出航。曇り。　ファウロ島、ピエス、マサマサ、タウノ島をじっと眺める。　過ぎし苦しみの数々を残して、ファウロ島は遠くに霞んでいった。</p><p>&nbsp;</p><p>患者は張り切って元気である。　白い顔の太った船員を見ると、内地の新しい香りがする。　電灯の美しい光に先ず驚きの目を見張る。　がらんとした船内には部屋らしいものは無く、映画館の中にでも寝ているようである。　天井の電灯が眩しい。</p><p>&nbsp;</p><p>今日の紀元節はソロモンを去る思い出深い日となった。</p><p>&nbsp;</p><p>船内の給養は２回の粥食だけ。　梅干し、味噌汁が懐かしく旨い。　ソロモンの弱り切った兵隊を思って、2，3日は粥が続くらしい。　ニューギニアからの帰還でも直ぐに堅い飯を食べて死んだらしいから。　しかし白米の堅いのが食べたい。　これが我々に対する給養だとすれば内地の窮状が察せられて淋しくなる。　食べるものも食べすに衰弱しきった我々を迎えるにはあまりにもお粗末なものである。　下給品どころではなさそうだ。　敗戦の惨めさはどこまで災いするのか。</p><p>&nbsp;</p><p>４０００名もの炊事に食事時間の混雑。　患者ばかりだから可哀そうである。　病院船に非ず。　輸送船に非ず。　ただ部屋のないがらんとした空母の格納庫なのである。</p><p>&nbsp;</p><p>ブーゲンビルの島影も見えなくなった。　船酔いに弱ってくる者も多くなった。</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/namakemono-meguchan/entry-12954555911.html</link>
<pubDate>Sun, 15 Mar 2026 11:38:02 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>復員日記　その３</title>
<description>
<![CDATA[ <p>１月１７日</p><p>夕食後海岸に出ていたら、急に井上中佐に呼ばれ、私は病院船で内地先発帰還の旨達せられた。　あまりに突然の事であり、夢のような話である。　他に多くの軍医も居るであろうに自分一人が選ばれて真っ先に日本に帰る事、興奮しないでおれようか。</p><p>&nbsp;</p><p>明朝、タウノ島を出発せよとの事で早速準備に取り掛かる。　あれこれと考えて眠れぬまま遂に夜明けになってしまった。</p><p>&nbsp;</p><p>１月１８日</p><p>医長井上中佐、班長宮原少佐をはじめ、将校の人たちに出発の挨拶をする。　皆は羨ましそうに喜んでくれた。</p><p>「お前はどこまで運のいい男やねん。」</p><p>と高落中尉がポンと肩をたたいた。　皆は昨夜私の出発を聞いて、慌ただしく手紙を言付けた。　私は郵便屋のように沢山な手紙を持って出発した。</p><p>&nbsp;</p><p>兵隊のいるファウロ島に再び帰り、浅野中佐はじめ将校連中に挨拶をする。　各中隊に行き、久し振りに皆に会う。　連日の興奮に頭が重い。　今夜こそゆっくりと眠ろう。</p><p>&nbsp;</p><p>１月１９日　</p><p>枕辺に波の音が大きかったが昨夜はよく眠れて頭爽やか。</p><p>&nbsp;</p><p>１月２０日</p><p>夕方、突如航空母艦【風翔】が水平線に現れる。　初めて見る我々には動く島とも見えた。　皆は海岸に走り出て歓声を上げた。　喜びに沸いた、しかしそれも一瞬、何か淋しいものに変わった。　兵隊は口惜しそうに言っている。</p><p>&nbsp;</p><p>「この堂々たる軍艦があって負けることは残念だな。　これがもっと早く来ていたら負けなんだのに・・・」</p><p>&nbsp;</p><p>船体には日の丸がくっきりと、船尾には国旗がひるがえっている。　皆は帰れるという喜びと負けたという寂しさで胸がいっぱいであった。</p><p>&nbsp;</p><p>１月２１日</p><p>第一次帰還患者を集め、隊長に申告する。　果たしてこの中の何人が無事に帰り着けるか。　途中で何人かが倒れるのではないかと心配である。</p><p>&nbsp;</p><p>１月２３日</p><p>【風翔】から新聞が届いた。　大阪毎日、大阪朝日、中国新聞の三つである。　新聞のほかに期待していた物は何もない。　中国新聞を見ると広島も全くの灰燼（かいじん）では無いらしい。</p><p>&nbsp;</p><p>晴れ着を着た娘さんの写真がある。　側には進駐軍の兵隊が朗らかそうに歩いている。　化粧品もなく、着物もなく、モンペばかりと思っていたが、美しい娘さんもいると思うと安心感も湧く。　天皇に対する批判が公然と言われるようになった。　軍隊に関する色彩は微塵も無い。</p><p>&nbsp;</p><p>自由平等を謳歌する民主主義の氾濫である。　特攻隊が強盗に変わったというニュース。　全く夢想だにしなかった変貌日本の姿である。　我々が帰還の時は、内地の人々は一体どんな眼で迎えてくれるであろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>軍隊生活を知らない自分が急に軍人になり、軍隊の良さも知らずそのまま激戦のソロモンに放り出された。　歓呼の声もなく、万歳の威声も知らずに、そして軍隊らしい軍隊も知らず、結局ソロモンに芋を作りに来たに過ぎなかった。　そして万歳の声に迎えられる事もなく、また黙って帰るのである。</p><p>&nbsp;</p><p>船員からもらったという【ひかり】を一本皆で分けて吸う。　今まで忘れていた【光】の味に陶然とする。　濠軍の煙草以上の味であった。</p><p>&nbsp;</p><p>１月２５日</p><p>【風翔】より更に巨大な空母【かつらぎ】が入港する。　岬が動いているようである。　想像以上の巨大さに、今更のように驚く。　そして、またしてもこんな巨艦を持って負けたのが妙に淋しかった。　濠軍さえもが</p><p>「あれは日本の船では無い。　アメリカのだ。」</p><p>と言う。　日本にはこんな巨艦は無いものと思っている。</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/namakemono-meguchan/entry-12952651034.html</link>
<pubDate>Sat, 14 Mar 2026 11:54:08 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
