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<title>七面山案内紀行</title>
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<description>お池をもとにもどそう！広く水質浄化の為のアイディアを求めています。</description>
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<title>手揚げおかき‼️作りました♪^_^</title>
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<![CDATA[ <p><iframe frameborder="0" height="491" src="https://voice.ameba.jp/embed/nitishou/Boe7YKr1uJvj52DwY5Ek" sandbox="allow-scripts allow-same-origin allow-top-navigation allow-popups" title="手揚げおかき‼️作りました♪^_^" width="343" scrolling="no" data-voice-id="Boe7YKr1uJvj52DwY5Ek"></iframe></p><br><p>どうもこんにちは‼️ミカと申します。今日はなんと鏡餅を手で砕いて乾燥させ米油で揚げて、「おかき」作りました‼️袋のスナック菓子を買うよりも全然自分で上げたお餅の方が美味しい💓好きな味も付けられます。お勧めです‼️やってみてくださいねん</p>
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<link>https://ameblo.jp/nitishou/entry-12568243663.html</link>
<pubDate>Sun, 19 Jan 2020 20:19:13 +0900</pubDate>
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<title>あとがき</title>
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<![CDATA[ <p>本文は昭和35年9月に発行された「七面大明神縁起」より紀行文を抜粋したものです。</p><p>トレッキングが流行っている昨今。</p><p>パワースポットが流行っている昨今。</p><br><p>注目されても一向に不思議でない七面山。</p><br><p>実際に多くの老若男女が毎日入れ替わり立ち替わり、、あのけわしい山へ登って行かれます。</p><p>その途上、今は現地の方からも聞くことのできない御話等も掲載されているこの古書をある誓願を立て、この一週間で、掲載することにしました。</p><p>冒頭でも述べました一ノ池の水質浄化です。</p><p>そのすべを御存じの方に七面山のご縁がありますように。と。</p><br><br><p>ところで、この紀行文は昭和35年の文章でありますので、道等の案内は今の道とは違っている場合があります。由緒などは正しいのですが、現在あるかどうかわたくしは確認しておりません。もし、登山される方がありましたなら、実際の交通情報、順路は現地等で充分ご確認の上、ご参拝ください。</p><br><p>幸せな旅になりますように。</p><br><p>拝</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/nitishou/entry-10994754174.html</link>
<pubDate>Tue, 23 Aug 2011 00:23:43 +0900</pubDate>
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<title>其の二十八　「七面山に祈る」</title>
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<![CDATA[ <p>北麓登山口の神通坊のあたりに立って、遙かに七面山をふりかえれば、古めかしき大鳥居の彼方、雄大なる七面の峰は太古の神秘と神厳を秘め、幽邃閑寂の中に厳然としている。</p><p>神秘の山</p><p>霊験の山</p><p>修行の山</p><p>信徒は後をも断たずに登って行く。そしてすべての七面信仰者は、末法万年の法華経を擁護すると誓願された七面大明神を讃え、その利益を讃える。</p><p>然し、その誓願にしても利益にしても、七面大明神が久遠の本佛釈尊の眷族としての誓願であり、利益であるということを忘れてはならない。そしてまた七百年の昔、七面大明神が宗祖の前に影現して以来、七面山は宗祖棲神の霊山身延を守る山であり身延山あっての七面山であるということも忘れてはならない。</p><p>今までの紀行の中では、各所の縁起・伝承にも若干ふれてきたが、それよりも大切なことは今日の信仰の在り方である。既に七面信仰者にとっては、そうした古来の縁起・伝承よりも七面大明神の神霊の実在を確信し、その霊験のあらたかなることを信じて、老いも若きも五十丁のけわしき山坂を登るという修行自体が肝心な現実となっている。</p><p>そして寧ろ今日の課題は、年々盛んになって行く七面信仰を、本佛釈尊を中心とする大曼荼羅信仰へ、如何に正しく指導するかということ、並にその個々の信仰を如何にして一つのものにまとめあげるか、ということにある。</p><p>若し、全国何十万、何百万という七面信仰者が、あの山頂より富士の御来光を拝み、これを世界の夜明けと観じて、世界平和のために結集したならば、それこそ七面山頂より世界をも動かす力を、七面大明神の威神力として現わすことができるであろう。</p><br><p>（昭和35年9月）</p>
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<link>https://ameblo.jp/nitishou/entry-10994740365.html</link>
<pubDate>Mon, 22 Aug 2011 23:55:41 +0900</pubDate>
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<title>其の二十七　「北麓の大鳥居」</title>
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<![CDATA[ <p>袈裟掛松より麓まで、あと僅かに七丁。北麓登山口の角瀬の町は指呼の間にある。足の痛みを我慢しながら降りる中、道の傍らで休んでいる老婆と連れの青年がいた。青年は、しきりに老婆の足をさすっている。</p><p>聞けば老婆は八十五才、青年はその孫であるという。今年の春のことであった。青年が医者にもみはなされるような大病にかかった。老婆は一心に七面大明神に祈願した。そして、若し、孫の命が助かることならば、せめてもの八十五才のこの足で、必ず七面山へお礼参りをする、と誓願を立てた。</p><p>老婆の祈りは必死であった。若し、命が取り替えられることならば、どうか孫の命と取り替えてくれ、と祈った。祈りは明けても暮れても続けられた。所が、まもなく医者も目を見張るほど、さしもの大病も薄紙をはぐように日に日によくなって来た。奇蹟が現れたのである。</p><p>七面大明神の霊験は、老婆の慈愛と祈りに感応して孫の体の上に示されたのである。</p><p>青年は元通りの丈夫な体になった。青年は自ら七面山へ御礼参りを発願した。この時、老婆は家族の止めるのも聞かず、</p><p>「御利益をうけたお前が、お参りに行くのは当然である。然し、御願を立てた私は、なおさら行かねばばらない」</p><p>と、がえんじなかった。</p><p>七面山五十丁の坂、登りにも降りにも、老婆は老いたる細い足で歩き通した。青年が背負うとすると</p><p>「七面さまにささげた命である。そしてこの足は七面山を登ると誓った足である。生きているだけでも有難い。足のある限り歩るかせて頂かなければ、私の心がすまない。丈夫になったお前と一緒に、お礼参りが出来るのが嬉しい」</p><p>と語ったという。</p><p>老婆の孫を思う慈愛の心、青年の老婆を思う孝養の心、そして二人の純なる信仰心・・・・・・・・</p><p>鈴木さんも私も思わず目頭が熱くなるのを覚え、この二人を残して先きへ行く気にもなれず、一緒に降りることにする。</p><p>所が、老婆は精根つき果てて起き上がることすら、やっとのことである。すかさず鈴木さんと青年が老婆の両脇を抱え込んだ。背負って行くのは、いとたやすい。然し、歩き通そうとして此処まで来た老婆の心は尊ばねばならない。老婆は、逞しい二人の青年に支えられ、一歩一歩足を引きづるように歩き始めた。然し、それでも、けわしい狭い参道では三人並んで歩くのは容易なことではない。麓まであと数丁・・・・・・・・もう一息、もう一息、と励まし合いながら降りて行く。</p><p>老婆は感謝の涙をたたえ、始終お題目を唱えながら最後の力をふりしぼっていた。そして遂に、北麓の朱塗りの大鳥居に到着した時、老婆は感極まって泣きふした。そのそばを一団の若い人達が、お題目も高らかに登って行った。それを見送りながら青年が言った。</p><p>「私もまた登りたい」</p><p>今が今までの疲れも忘れて、青年の瞳は輝いていた。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/nitishou/entry-10994708772.html</link>
<pubDate>Mon, 22 Aug 2011 23:20:18 +0900</pubDate>
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<title>其の二十六　「日朗上人袈裟掛松」</title>
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<![CDATA[ <p>安住坊より、七丁目の日朗上人袈裟掛松の休憩所まで十二丁。遙か下に流れる春気川を見降ろす景観は素晴らしい。然し、</p><p>「登山は登りよりも、降りで足を痛め易い」</p><p>という諺もあるとおり、山頂よりこの辺まで、あの急な坂を下って来れば、降りるに勢いづく体を、転ばないように支える爪先や、膝頭のあたりが痛み出してくる。</p><p>それを我慢して行く中、やがて日朗上人が梢に袈裟をかけて休まれたと伝えられる袈裟掛松の休憩所に出る。</p><p>松は亭々として聳え、枝は鷹の翼のように上空高く広々と拡がっている。</p><br><p>（※昭和35年発行当時）</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/nitishou/entry-10994660965.html</link>
<pubDate>Mon, 22 Aug 2011 23:13:37 +0900</pubDate>
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<title>其の二十五　「安住坊」</title>
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<![CDATA[ <p>さて、次の坊は十九丁目の安住坊、明浄坊よりは十一丁である。二十八丁目あたりで富士川・早川・春気川が眼下に見える。</p><p>程もなくツツジの名所へ出る。裏参道は全体にツツジの多い所ではあるが、特に、この辺り一帯には人里に見られない珍しいツツジの花が咲くという。</p><p>やがて、遙か下の方から太鼓の音が聞こえる。懐かしい天鼓の法音・・・・・・・</p><p>耳をすませば音はだんだん大きくなってくる。鳥のさえずる声しか聞こえない。七面山には、太鼓の響きのみがトウトウとして全山にこだまし、天地をゆすぶり、そしてすべての人々の心をゆすぶる。</p><p>邪悪な者には折伏の毒鼓となり、正義の者には法楽の天鼓となる法華の太鼓、山中、これほど力強く思われるものはない。</p><p>「御苦労さま！！」</p><p>と元気に挨拶を交わしながらすれ違って行ったが、この登る人々の姿こそ、昨日の自分達の姿を見るが如くであった。</p><p>全身汗にまみれ、交互に唱える題目の声も力強く、目も生き生きとしている。けわしい山腹を延々長蛇の列をなして登り行く白衣の一団・・・・・・・・七面山には余程登りつけた人々であろう。撃鼓唱題に足並みをそろえ、一糸乱れずグングンと登って行った。</p><p>間もなく道は杉林の中に入り、表参道のように蛇行しはじめる。この辺りより安住坊まで、そう遠くはない。行くほどに杉の木立ちから安住坊の軒端が見える。坊のそばには見上げるような栃の木がウツソウとして繁っている。天然記念物である。</p><p>住職水谷是定上人の語る所によれば、</p><p>「この栃の木は日朗上人手植の木とも云われ、廻りは目通し二丈六尺。九月の大祭前には、宮原・小原島・本建・五箇・硯島の六ケ郷の信徒が総出して、毎年持参のワラで栃の木と影嚮石のシメナワを三十人がかりで作り、昨年のシメナワと取り替えて、次の年の大祭までの安泰を祈念する。</p><p>この行事は宝暦九年より連綿として伝えられており、また大正十三年よりは毎年、これらの信徒によって、五十丁の参道が十一区に分けられて修理されている」</p><p>ということであった。</p><br><br><br><p>（※昭和35年発行当時の話）</p>
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<link>https://ameblo.jp/nitishou/entry-10994651404.html</link>
<pubDate>Mon, 22 Aug 2011 22:37:03 +0900</pubDate>
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<title>其の二十四　「明浄坊」</title>
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<![CDATA[ <p>影嚮石より、三十丁目の明浄坊まで凡そ十二丁。</p><p>道はけわしくなる。所によっては表参道よりけわしい。というのは七面山の山形が、東西より南北に長く、北面の尾根幅が削ぎ立ったように狭くなっているため、表参道のように道を曲折・蛇行する余地がないからである。</p><p>また、表参道に比べれば、杉並木や巨木の林立は見られず、一丁ごとに立てられている道標にしても風雅な石燈籠ではなく、宗教的な神秘性や森厳な雰囲気には乏しい。然し、それだけに却って辺りは明るく、また雄大な展望を楽しむことが出来る。</p><p>右前方には、遠く富士山麓の本栖湖や河口湖が、鏡のように光って見え、左前方には、北より鳳凰の峰・北岳・間岳・農鳥岳・ザル岳等々の雄峯が、赤石岳の連峯に連なっており、また近くには武田信玄が掘ったという金山の崖が望まれる。</p><p>時折、カッコウやコマドリの声がする。季節によってはホトトギスやウグイスの声も聞こえるという。</p><p>やがて明浄坊につく、坊は近年出来たばかりの休憩所。ここより真東に当たって身延の峯と富士の霊峰が仰がれる。この景観を背景に、数名の信徒が一服しながら、七面信仰について体験談やら御利益談を語り合っていた。</p><p>その中に、皆の話しを熱心に聞いている一人の御爺さんがいた。年の頃なら、六十前後、髪はもう真っ白になっていた。服装は皆と同じく行衣・手甲・御絆に力杖といった七面山では見慣れた姿であったが、ただ一つ変わっていたのは、白布に包んだ四角の木箱を頸からさげてしっかりと胸に抱いていたことである。</p><p>「失礼ですが、御遺骨ですか・・・」と尋ねると、お爺さんは大きくうなづいて、</p><p>「そうです。家内の遺骨です。家内は熱心な法華経信者でした。然し日頃病弱であったため、”一度お参りしたい”と口癖のように言っておりながら、とうとう死ぬまでお参りは出来ませんでした。その頃、私に信仰心があったならば、代参でもしたものをと、今では悔やまれてなりません。</p><p>せめて遺骨と一緒にお参りをしようと思っていた折、幸い此処におられる人達が七面山へ登られるというので、早速娘に行衣を縫ってもらって、皆さんにつれられてお参りに来たのです。昨日は身延山で追善の法要を営んでもらいました。今日は夫婦して初めて七面山へお参りさせて頂いております。</p><p>これも家内の霊の導きでしょう。これからは亡くなった家内と共に、一生懸命、法華経信仰を励んで行きたいと思っています」</p><p>と答えられた。傍にいた一行の先達の人も、</p><p>「宿に泊まった時は、必ず二人前のお膳を取って、一つは御遺骨に供えられていた」と付け加えられた。居合わせた人々はすべて深い感動に打たれた。そして一行と共に、御遺骨を胸に抱いて一歩一歩力強く登っていくお爺さんの後ろ姿は、余りにも印象的であった。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/nitishou/entry-10994599542.html</link>
<pubDate>Mon, 22 Aug 2011 22:01:26 +0900</pubDate>
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<title>其の二十三　「影嚮石」</title>
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<![CDATA[ <p>本社より影嚮石まで八丁。道はなだらかな下り坂。</p><p>池大神の社の前を過ぎ、やがて梢にカズラの垂れている密林のような間を通りぬければ、凡そ五丁にして二ノ池が左手に見える。入口には白木の鳥居が建っており、池の傍らには祠がある。祠の周囲には心願成就のため奉納した赤や白の大小さまざまな旗が立っている。</p><p>二ノ池をやや過ぎた頃、右へ下る急こう配の細い道がある。これを行けば、昔は渓流であったろうと思われる岩の多い谷あいにそって、やがて御神木に達する。</p><p>御神木はアララギの大樹、樹齢およそ六百年と言われ、目通し四抱えもあるような根方には、曽って樵人が伐り倒そうとして、樹皮より血がほとばしったため、驚いて伐ることを中止した、と云い伝えられている切り口が、今なお歴然として残っている。</p><p>また御神木は、その名にふさわしく太いシメナワに飾られ、天然記念物にも指定されている。</p><p>これより暫く進めば、道は曲折する急な登坂となり、やがて影嚮石の真下に突き当る。岩を裏から廻れば参道に出る。影嚮石は見上げるような巨岩、目通し凡そ十八間とも云われ、これも太いシメナワに荘厳されている。</p><p>さて影嚮石には二つの伝説がある。</p><p>昔、七面山裏麓の雨畑村の漁師が、偶然にも雨畑川から光物を拾った。（一説には雨畑村の漁師が、山奥で仏像に似た古木を拾った）これを家に持ち帰った所、急に家中の者が病気になった。三軒ばかり持ち廻ったが、矢張り同じ災いが起こる。或る時、信仰篤い人の夢枕に霊神が立って、</p><p>「我は七面山一ノ池の守護神である。速やかに一ノ池のほとりに祭るよう」とのお告げがあった。</p><p>そこで村人が、拾った古木を奉持して七面山へ登る途中、濃霧のために一歩も先へ進まれず、一夜を明かした所が、今の影嚮石のあたりであったという。</p><p>もう一つの伝説は、宗祖が身延の山頂にあって、一心に読経されておられた時、七面大明神が竜体となって影現し、この岩を七巻半して頭をあげ、遙かに身延山頂の宗祖の読経の姿を遙拝していた、というのである。</p><p>思うに影嚮石は七面山頂の平坦な台地から急勾配の坂にかかる所にあり、また身延山の妙石坊高座石も平たんな身延川のほとりから、急勾配の坂にかかる所にあって、地形的にも類似の対照をなしている。のみならず、影嚮石は七面大明神影現の所、高座石は得度の所と云われ、同様に妙法二神にしても十万部寺は示現の所、高座石は得度の所と云われる。そこで、これを西谷の祖廟より遠い所が示現の地、近い所が得度の地となっていて、距離的にも面白い対照として考えられよう。</p><p>然し、何はともあれ、確かに、ここからは身延の山頂を遙かに望むことが出来る。参道の正面に拝殿があり、奥に本殿がある。庫裏・参籠所はその左側。</p><p>社殿は延宝年間に建てられ、後に宝暦年間身延四十二世耐慈院日辰上人の代、本殿と拝殿が改築されている。現代の社殿は、それまで小規模で荒廃していたのを明治十六年より改築にかかり、同三十六年に完成したもの。一名「影嚮の宮」とも呼ばれている。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/nitishou/entry-10994550449.html</link>
<pubDate>Mon, 22 Aug 2011 21:23:19 +0900</pubDate>
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<title>其の二十二　「ナナイタガレ」</title>
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<![CDATA[ <p>随身門よりナナイタガレまで凡そ八丁。山頂一九八二メートルの三角点まで凡そ十五丁。本社を辞して三角点へ向う。</p><p>随身門より左手の山道へかかった所に白亜の宝塔がある。昭和二十年八月十五日の終戦の日、東京の岩見妙安法尼が発願し、法華経の一字一石を納めて昭和二十四年に完成した世界平和万霊供養塔である。</p><p>これより先は、一帯に平らかな台地となっている。そこを進みながら私は鈴木さんと語らった。</p><p>「仏舎利塔が建立されるとすれば、恐らくこのあたりだろうか・・・・・」</p><p>と。若し、それが実現すれば、仏舎利塔は世界平和の万霊供養塔のそばにあって、遙かに富士の御来光に対する。その偉観は想像するにも余りあろう。</p><p>そして、これほどの高山に、これほどの大自然の景観を得た仏舎利塔は、恐らく全世界にもその類を見ないであろう。</p><p>ほどなく、右手の木の間がくれに一ノ池の南端が見える。その淵は池の「お土」で白くなっている。</p><p>池の広さは直径凡そ三百メートル。その底はすべて「お土」と云われている硅藻土である。この硅藻土が、切傷・腫物・感冒・熱さまし・胃腸病等々に卓効があるため、池を別名「無熱池」「霊池」と呼び、またこれを「お土」といって毎年七月下旬、池より採取し、そのまま薬として寺務所の受付で、希望者にわけられている。（昭和35年当時のこと）</p><p>然し、この「お土」は採っても採っても、採りつくされるものではない。池の水はさほど深くはないが、底の「お土」は底なし、と云われるほど深いからである。</p><br><p>聞けば、硅藻土とは本来、何尋という深い海の底にあるものという。若し、一ノ池が、もと何尋という海底にあったということが事実とするならば、地質学的に言って、七面山は何万年か何億年かの大昔、海底の隆起によって出来た山であるとも考えられよう。</p><p>ともかく一ノ池の「お土」は、七面山に関する大自然の不思議の一つを物語っている。</p><p>細い道は、原始林の中をなだらかに上っている。</p><p>道端には兎や鹿の糞が、あちらこちらに転がっている。鈴木さんが草むらのくぼんだ所を指して、</p><p>「鹿の寝ていた跡かもしれない」</p><p>と言った。随身門よりナナイタガレにかけては、色々な獣の通った跡がある。恐らく一ノ池の水を飲みに通った獣の跡であろう。</p><p>やがてナナイタガレの淵に出る。崖は見上げるように高い山頂より急転直下、鋭い爪後を残して眼下遙かに山麓まで続き、方一里余に及ぶという崖の全体は、さながら巨大な摺り鉢の如く、その底には七面山の地下水が滔々として吹き出し、奔流となって春気川へそそいでいる。</p><p>削ぎ立った崖の肌は赤黒く、岩は鋸のように鋭い。足元を注意しながら覗いていれば、今にも吸い込まれそうな無気味さ、下より吹き上げる風は夏なお肌寒く、ナナイタガレの全景は、奇観というより寧ろ、あらぶる神の力を現わすが如くである。宗祖はここを称して鉄門に似たり、と仰せられているが、将しくその形容にふさわしい。</p><p>これより山頂の三角点まで、道は急にけわしくなる。道は山頂を越えて梅ヶ島へ抜けるハイキングコースとなっているが、通る人も稀なため、道はいよいよ狭く、けわしい所はけわしいまま、崖の淵にそって上っている。</p><p>あたりは白樺の巨木が無数に倒れ、枯れたまま天を沖する魔物のような梢は、そのまま深山の風情を伝える絶好の被写体である。</p><p>遂に標高一九八二メートルの三角点に立つ。一帯は、なだらかな台地となり、三角点の下から崖の淵までの間には三ノ池の跡がある。湿ったくぼみにはシダが密生している。</p><p>ここより正面に富士が望めることは言うまでもないが、眼を転じて背後をふりかえれば、雨畑の山遠く、雄大なる赤石岳の連峯が望める。</p><p>やがて下山の途につく、再び本社の前へ引き返しそれより裏参道を下る。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/nitishou/entry-10994501709.html</link>
<pubDate>Mon, 22 Aug 2011 20:27:02 +0900</pubDate>
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<title>其の二十一　「七面山の仏舎利塔」</title>
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<![CDATA[ <p>御来光の遙拝がすめば、直ちに朝の勤経が始まる信徒が参拝している間、各部屋には食膳が並べられる。朝食は六時三十分。これがすみ次第、信徒は下山を急ぐ。あとには二時間に亘って隈なく掃除が始まる。</p><p>その頃、鈴木さんと私が別当所へ挨拶に行くと、来客と歓談されていた。別当遠藤上人は、待ちかねていたように私達を迎えられた。来客は東京新宿の野本起会女史、旧知の間柄である。</p><p>「ここでお会いするとは奇遇ですね」</p><p>と、互いに久濶を叙すれば、別当上人も温顔をほころばせながら、</p><p>「不思議といえば七面山にとっても、今まで曽ってない不思議なことが起こった・・・・・・・。恐らく本佛釈尊の佛意、七面大明神の神意のしからしむる所であろう」</p><p>と前置きして、つい一カ月前、即ち本年八月十五日、釈尊の御仏舎利が七面山に納められたことを告げられた。</p><p>思わず、私は自分の耳を疑った。そして三度聞きなおし、念を押し驚倒歓喜せずにはおれなかった。</p><p>七面山頂、御仏舎利の奉納・・・・・・・・・これはただ事ではない。由々しき法界の動きを現わしている。しかも本年八月十五日と言えば盂蘭盆の当日であり、また第二次世界大戦終結十五周年の記念日ではないか。将しく久遠の本佛釈尊の佛意と、末法万年法華経擁護を誓願される七面大明神の神意とによって、いよいよ大曼荼羅法界の動きが円熟し、ここに本佛と守護神の関係が事相に顕現され、これを中心として世界の浄仏国土化が開けて行くのである。</p><p>日頃より私は、身延山寺平の台地に仏舎利塔の建立と、これによって仏舎利塔と西谷の宗祖御廟塔とが東西に相い面奉し、本佛釈尊と上行日蓮聖人の関係を事相に顕現して、これを中心とする国際的大身延の建設と、更には身延大学の移築に伴うアジア仏教大学の建設を標榜していた。それだけに、七面山頂の御仏舎利奉納は、全く佛意であり神意によるものと歓喜せずにはおられなかった。</p><p>別当上人は静かに座を立ち、床の間の御厨子の内より、うやうやしく御仏舎利を奉持された。合掌・三帰礼拝、仰げば小塔のパゴダは高さ八寸ばかり、燦然として黄金の光を放ち、その中の水晶の珠に二粒の御仏舎利が納められている。</p><p>つい三日前のこと、東京身延別院住職藤井教雄上人も、これを拝して感涙を押さえながら、</p><p>「曽って法隆寺五重塔の御仏舎利を拝したことがあったが、その御仏舎利とこれと全く同一のもの」</p><p>と讃嘆されたという。</p><p>聞けば、この御仏舎利は陸軍中将二宮治重閣下が奉持されていたもので、中将の遺言によって、貞女夫人が七面山へ奉納されたものという。</p><p>蓋し、二宮中将奉持の御仏舎利といえば、中将が満拓総裁の当時、満州国の皇帝と総裁、並に関東軍司令官山田乙三陸軍大将、等々の錚々たる一国の指導者と共に、満州国の鎮護として、延いては世界の平和実現のために、仏舎利塔の建立を発願し、昭和十六年四月八日、首都新京郊外南領の地に、国をあげて地鎮祭まで厳修した所の、由緒ある御仏舎利である。</p><p>当時、満州一国のみならず、朝鮮・北支・中支・南支、そして台湾に於いても、近衛総理中心とする軍の要路者によって、支那事変を速やかに収拾せしむべく、仏舎利塔の建立が推進されていた。</p><p>然し、近衛内閣は倒れ、東条内閣が成立して、支那事変は第二次世界大戦へと突入し、仏舎利塔を中心とする戦争の終結と世界の平和を招来せんとした運動も頓挫し、以来、満州国鎮護の御仏舎利は、昭和二十年八月十五日の敗戦から更に丸十五年の間、秘かに二宮中将によって格護されて来たのである。</p><p>今その御仏舎利が中将の遺言によって七面山へ奉納された。時は将に人類の滅亡を意味する第三次世界水爆戦の戦雲を孕む、累卵の危うきにある。それを思えば、この御仏舎利の奉納には、更に意義重大なるものがあろう。のみならず、これによって七面信仰は、そのまま本佛信仰へと直結して行く。</p><p>この時、そばにおられた野本女史が、</p><p>「この御仏舎利は末代永遠に伝え、すべての人々に拝まれなければなりません。そこで、大塔の建つまでは、この小塔を安置する荘厳にして堅牢なる宝ガンが必要でしょう。若し、私にその宝ガンを奉納させて頂けますならば、先祖の菩提のためにも身に余る幸いと存じます」</p><p>と、感動に瞳を輝かせながら早速、宝ガンの設計は私に委任された。そして別当所では、既に七面山頂より世界平和が実現されるような、明るい大なる希望が満ちみちていた。</p><br><p>（※本文は全て昭和35年発行当時のことです。）<br></p>
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<pubDate>Sun, 21 Aug 2011 22:20:51 +0900</pubDate>
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