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<title>社会と映画と人生と</title>
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<description>古希を迎え、残りの人生を少しでも充実できるようにブログを始めました。ここで思ったことを吐き出して行きたいと思います。年寄りの与太話だと思って、気が向いたら立ち寄って見に来てください。</description>
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<title>「映画最強コンテンツは？」(26.6.14)</title>
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<![CDATA[ <p>【映画叙景】(AI雑談)<br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/19/yamzne3079/56/9b/p/o0900061215792914670.png"><img alt="" height="286" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/19/yamzne3079/56/9b/p/o0900061215792914670.png" width="420"></a><br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>なんだかんだと言っても「映画最強コンテンツは“アクション映画”」説を実は唱えています。<br>&nbsp;<br>なぜそう思うのかの理由ですが、ケーブルテレビに加入して無料放送のみ鑑賞できる様になっていますが、その無料で観られる洋画映画関連チャンネルの放送のプログラムの8割くらいがアクション映画で占められているので、結局無料で見られてそれなりの視聴数が稼げると判断しての割合と放送局数なのだと思っています。&nbsp;<br><br>私もアクション映画が嫌いではありませんが、その8割の中の9割は興味がないのですが、しかしまあ、全世界でこれほど多くのアクション映画が作られている事に対してはいつも驚いています。<br>作られるという事自体が需要もあるという事なのでしょうからね。<br><br>私も娯楽映画はアクション映画を観て育ちましたから、その魅力は十分に理解はしています。&nbsp;<br>少し前にも日本の『ゴーストキラー』を録画して見たばかりですが、どんなに(物語的に)ありきたりでも、荒唐無稽でも、アクションシーンだけは手を抜かず撮られていれば、見入ってしまう魅力があるのですよね。&nbsp;<br>まあ一言で“アクション映画”と言っても多種多様なので、私的なアクション映画史を振り返り、どんな種類と名作があったのかの紹介しながら、簡単に分類してみます。&nbsp;<br><br>まず、時代劇や西部劇や史劇もその半分以上はアクション映画に分類されるのでしょう。&nbsp;<br>時代劇なら「七人の侍」「十三人の刺客」「座頭市」等々、単にアクション映画に納まらない傑作も多くありますし、西部劇も同様です。&nbsp;<br>時には戦争映画でもアクション映画に分類される作品もあります。&nbsp;<br><br>私の世代的にはブルース・リーが、<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#000000;">“功夫アクション映画”</span></b>のパイオニア的存在となり、武術・格闘技系のアクションをを確立しました。<br><br>「007」シリーズは<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#000000;">“スパイアクション映画”</span></b>の代名詞になり、 同時代に「ブリット」という作品で<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#000000;">“カーアクション映画”</span></b>という名前が浸透して「バニシング・ポイント」「フレンチ・コネクション」「激突」などで“カーアクション映画”が確立されました。&nbsp;<br><br>その後、「ランボー」など特殊戦闘技能者の<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#000000;">“ワンマンアーミーアクション”</span></b>とか、「ダイ・ハード」のタイトルがそのままジャンルの様なアクション映画と、アクション映画が多様化した時代でした。&nbsp;<br>それ以降の作品からはそれらのアクションの融合で成立していました。<br>&nbsp;</p><p>同時にその時代アクション映画の大スターとして、シルベスター・スタローンやアーノルド・シュワルツェネッガーなどが登場してきました。&nbsp;<br>それ以前の役者というのは、“アクションスター”だけでは成立しませんでした。<br>ゲーリー・クーパー、ジェイムズ・スチュアート、ハンフリー・ボガードを“アクションスター”とは誰も呼びませんからね。(ちゃんとした役者であり、アクション映画にも出演する程度)<br>その後は「アクションスターでありながらも普通のドラマにも出演する」という逆の形になった気がします。&nbsp;<br><br>その後の娯楽映画は、スリラー・サスペンス・SF・ホラー・コメディー等々全てのジャンルとアクションとは融合型となり、アクションの要素が無い娯楽作品の方が少なくなって行きました。<br>&nbsp;更に時代が近年になるとCG等の技術の発展で、アニメーションからコミックの実写映画まで殆どの娯楽作品で、今まで培ったアクション映画の要素に映像まで洗練されて作られるようになり、<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#000000;">“ヒーローアクション映画”</span></b>もジャンルに加わり娯楽映画の主流になっています。&nbsp;<br><br>こんな感じで、私の「娯楽映画最強コンテンツは“アクション映画”説」は、あながち間違っていないと思うのですが、如何でしょうか？&nbsp;<br>なんか抜け落ちていたり、これを忘れたらダメってのがあれば教えてください。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>私はかなり説得力のある見方だと思います。<br>ただし、少しだけ言い換えるなら「映画というメディアが持つ固有の強みを最も直接的に発揮できるのがアクション映画」という表現になる気がします。<br>・小説は心理描写に強い。<br>・演劇は生身の存在感に強い。<br>・音楽は感情の直接伝達に強い。<br>では映画は何に強いのかというと「動くものを見せること」です。<br><br>だから映画史を辿ると、実は最初からそうでした。<br>「Arrival of a Train at La Ciotat Station」で観客が驚いたのも、列車が動いていたからです。<br>つまり映画の原点そのものがアクションなんです。<br><br>逆に考えると、<br>・恋愛映画も、<br>・戦争映画も、<br>・西部劇も、<br>・時代劇も、<br>・SFも、<br>・ヒーロー映画も、<br>結局は何らかの「動き」を見せる方向へ進化している。<br>お書きになった「スリラー・サスペンス・SF・ホラー・コメディー等々全てのジャンルとアクションとは融合型となり」これはかなり本質を突いていると思います。<br><br>例えばホラーですら、昔は怪談でした。<br>しかし現代ホラーは追跡劇になり、逃走劇になり、サバイバルになり、結果的にアクション化しています。<br><br>一方で、少し補足すると、<br>アクション映画には大きく二系統あります。<br>①.「身体能力を見せる映画」<br>・ブルース・リー<br>・ジャッキー・チェン<br>・サモ・ハン<br>・ドニー・イェン<br>系統です。<br>これは武術や肉体そのものへの驚き。<br><br>②.「演出技術を見せる映画」<br>・『ダイ・ハード』<br>・『マッドマックス 怒りのデス・ロード』<br>・『ジョン・ウィック』<br>・『ミッション:インポッシブル』<br>系統です。<br>こちらは肉体より、「どう撮るか」「どう見せるか」の映画です。<br>近年はこちらの方が主流ですね。<br><br>あと、映画史として一つだけ追加するなら、1970年代以降の「パニック映画」は外せないかもしれません。<br>「タワーリング・インフェルノ」「ポセイドン・アドベンチャー」などです。<br>これは現代のディザスター映画や巨大怪獣映画、ゾンビ映画にも繋がっています。<br>実質的にはアクション映画の一大支流です。<br><br>それから、あなたの文章を読んでいて面白かったのは、実は「アクション映画最強説」というより「娯楽映画は最終的にアクションへ収束する説」になっていることです。<br><br>確かに近年の大ヒット作を見ると、<br>・ヒーロー映画<br>・SF映画<br>・ファンタジー映画<br>・怪獣映画<br>・スパイ映画<br>どれもクライマックスは大規模アクションです。<br>観客もそれを期待しています。<br><br>ただ一つだけ反論があるとすれば、アクション映画が映画最大勢力であることはほぼ間違いないとしても、映画史上最も強いジャンルは何かという問いになると、実は「メロドラマ（恋愛・家族・人間関係）」かもしれません。<br>世界中の観客が共感でき、製作費も安く、時代を選ばない。<br>映画産業を支えてきた総本数で言えば、恋愛・家族ドラマの方が圧倒的に多い可能性があります。<br>つまり、<br>・映画というメディアの特性を最も発揮するのがアクション<br>・映画産業を最も長く支えてきたのはメロドラマ<br>という見方もできるでしょう。<br><br>なので私なら「映画という表現形式の強みを最も純粋に体現しているのはアクション映画」という形でまとめます。<br>あなたの文章を読んでいると、単にアクション映画が好きだという話ではなく「なぜ映画館の巨大スクリーンでわざわざ観るのか」という問いへの答えとしてアクション映画史を捉えているように見えました。<br>その視点はかなり映画史的な見方だと思います。<br>&nbsp;特に「アクションの要素が無い娯楽作品の方が少なくなって行った」という一文は、映画史を振り返ると案外大げさではなく、かなり正確な観察だと感じました。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>“パニック映画”と“怪獣映画”は忘れてはダメですよね、ど忘れしていました（笑）<br>「メロドラマ（特に恋愛係）」も私の苦手とするジャンルなので、失念(?)していましたって、敢えて目を向けなかったのですが指摘されてしまいましたね(苦笑)<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>ええ、そこは少し意地悪な指摘でした（笑）。<br>というのも、あなたの映画遍歴をうかがっていると、恋愛映画そのものを嫌っているわけではなく「恋愛そのものを主題にした作品」にあまり興味が向かない傾向があるように見えるんです。<br>例えば、これまでお話に出てきた作品でも、<br>・家族の話<br>・社会の話<br>・倫理の話<br>・歴史の話<br>・死生観の話<br>・芸術の話<br>の中に恋愛要素が含まれていることはあっても「恋愛が主題だから好き」という語り方はほとんどされませんよね。<br>むしろ「人間とは何か」を描くための一要素として恋愛があるなら受け入れられるが、恋愛そのものが目的になると興味が薄れる。<br>そんな印象があります。<br><br>だから今回の文章で恋愛映画が抜け落ちたのも、実は不自然ではありません。<br>映画史を語るとき、多くの人は自分が重要だと思う流れを中心に歴史を組み立てます。<br>あなたの場合、<br>・西部<br>・時代劇<br>・功夫映画<br>・カーアクション<br>・スパイ映画<br>・SF<br>・ヒーロー映画<br>という系譜が一本の線として繋がって見えている。<br><br>一方で、恋愛映画、メロドラマ、は別の大河として流れているけれど、自分の興味の川とは交わりにくいので視界から外れやすい。<br>もっと言うと、あなたがよく語られる映画監督たちも、実は恋愛より社会や人間そのものに関心を向ける人が多いです。<br>例えば、<br>・是枝博和<br>・ジャファル・パナヒ<br>・ダルデンヌ兄弟<br>などは、恋愛を描くことがあっても、本質的には社会や倫理、人間の生き方を見ています。<br>だからあなたの映画観の中で恋愛映画の存在感が薄いのは、ある意味当然なんですよ。<br><br>ただ、面白いのは、あなたが苦手としているメロドラマも、世界規模で見るとアクション映画に負けないくらい強いジャンルなんです。<br>アクション映画が“言葉が分からなくても楽しめる”普遍性を持つように、<br>恋愛映画は“文化が違っても感情が分かる”という別の普遍性を持っています。<br>だから映画産業は長年、<br>・男性層を中心に集客するアクション<br>・女性層を中心に集客する恋愛<br>という二本柱で回ってきた部分があります。<br>もちろん実際にはそんな単純な話ではありませんが、興行的にはかなり大きな流れでした。<br><br>なので今回の話を聞いていて思ったのは、あなたの「アクション映画最強説」は間違いというより「恋愛映画という巨大大陸を視界の外に置いたまま組み立てられた映画史」なんですね（笑）。<br>だから抜け落ちたというより、最初から地図に描いていなかった。<br>その方が実態に近い気がします。 苦手なジャンルというのは、どうしても歴史の中で存在感が薄くなりますからね。 むしろそれが人間らしい見方だと思います。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>正直言って“恋愛映画”という作品として大好きな作品は一杯あります。<br>しかし現実問題として、人間にとって“愛”は平等ですが、“恋愛”は不平等だと思っているので興味が無い様に敢えて振舞って(無視して)、そうしているうちに本当に関心が無くなっていたのですよ。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>その考え方なら、恋愛映画への関心が薄いのも筋が通っていますね。<br>「愛」と「恋愛」をかなり明確に分けて考えておられるのでしょう。<br><br>あなたの言う「人間にとって“愛”は平等」というのは、おそらく親子愛でも友情でも他者への思いやりでも、人間なら誰でも持ち得るし、受け取り得るものだという意味だと思います。<br>一方で「“恋愛”は不平等」というのは、どうしても容姿、年齢、才能、社会的地位、偶然の出会いなど、人によって大きな差が生じる世界だからでしょう。<br>努力だけではどうにもならない要素が大きい。<br>だから人間一般を考える時のテーマとしては興味が持ちにくい。<br>そんな感覚ではないでしょうか。<br><br>実は映画史を見ても、この二つはしばしば混同されています。<br>恋愛映画の多くは「恋愛こそ人間の最高価値」という前提で作られています。<br>しかしあなたが好まれる作品群を見ると、<br>・他者への責任<br>・共感<br>・家族<br>・社会との関わり<br>・弱者への眼差し<br>といった意味での「愛」には強い関心を示されますが「誰と結ばれるか」にはあまり関心を示されない。<br>だから恋愛映画を観ても「それで？」となりやすいのかもしれません。<br><br>面白いのは、あなたが好む監督たちも案外その傾向があります。<br>例えば是枝裕和の作品を考えても、中心にあるのは恋愛より家族や他者との関係です。<br>ジャファル・パナヒやダルデンヌ兄弟も同様で「誰を愛するか」より「どう生きるか」に重心があります。<br>だからあなたがそうした作家に惹かれるのも自然な気がします。<br><br>ただ一つ興味深いのは、恋愛を不平等だと捉える視点は、実は恋愛映画の中にも存在することです。<br>例えば恋愛映画には大きく二種類あって、<br>・恋愛を夢として描く作品<br>・恋愛の不平等や残酷さを描く作品<br>があります。<br>あなたが苦手なのは前者で、後者には案外興味を持たれるかもしれません。<br>なぜならそれは恋愛そのものではなく「人間社会の不平等」を描いているからです。<br><br>もっとも、これまでの対話を振り返ると、あなたの場合は恋愛の成否よりも、<br>・「人はなぜそう生きるのか」<br>・「人はどう他者と関わるのか」<br>という問いの方がずっと大きいのでしょう。<br>だから映画を観る時も、恋愛は数ある人間関係の一つに過ぎず、特別な地位を与える必要を感じない。<br>その立場から見ると「娯楽映画最強コンテンツはアクション映画説」には熱心に語れても、「恋愛映画最強説」にはあまり乗れないのは当然だと思います。<br><br>恋愛は誰もが体験するわけではありませんが、アクションは極端な話、言葉が分からなくても画面を見れば楽しめますからね。&nbsp;<br>あなたの関心は昔から、特定の個人の恋愛よりも、人間全体に共通するものへ向いているように感じます。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>特定の個人には興味ありますが、こと恋愛に関してはどうでもいいです（笑）<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>なるほど（笑）。<br>その一言の方が、これまでの話よりずっと正確かもしれませんね。<br>私は先ほど「人間全体に共通するもの」とまとめましたが、実際にはあなたはかなり個人にも興味を持っています。<br>例えば映画の感想でも、<br>・この人物はなぜこう行動したのか<br>・この監督は何を考えているのか<br>・この作家は何と格闘しているのか<br>という話はよくされています。<br>むしろ人間そのものへの興味は強い。<br>ただ「その人が誰を好きになったか」にはあまり興味がない（笑）。<br><br>考えてみれば、あなたが映画について語る時も、恋愛映画を観たとして「この二人が結ばれて良かった」という感想より「この人物はなぜこういう選択をしたのか」「この関係性は何を表しているのか」という方向へ話が進みますよね。<br>恋愛をゴールとして見ていない。<br>恋愛も数ある人間行動の一つとして見ている。<br>だから、主人公が恋人を作ろうが、結婚しようが、失恋しようが、それ自体は大した問題ではなく、その出来事によってその人の何が見えるのかの方が重要になる。<br><br>実はこれは映画ファンの中でも少数派ではありません。<br>特に年齢を重ねた映画好きには「恋愛そのものより人物の方が面白い」という人が結構います。<br>若い頃は「誰を愛するか」が大問題でも、長く生きていると「その人がどう生きるか」の方がずっと興味深くなってくる。<br><br>なので今回の話を聞いていて思ったのは、あなたが恋愛映画を苦手なのは、恋愛を否定しているからではなく、恋愛を特別視していないからなのでしょうね。<br>世の中には恋愛を人生最大のテーマとして扱う人もいますが、あなたからすると「いや、それも人間の一部分でしょ？」くらいの感覚なのだと思います。<br>だから映画史を振り返った時も、アクション映画の系譜は延々と語れるのに、恋愛映画の系譜は「ああ、そういうのもありましたね」で終わってしまう（笑）。<br><br>今回のやり取りで、その理由が少しはっきり見えた気がします。&nbsp;<br>あなたは人物には興味がある。 ただし恋愛にはあまり興味がない。&nbsp;<br>両者は似ているようで、実はかなり違うんですね。</p>
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<link>https://ameblo.jp/yamzne3079/entry-12969676139.html</link>
<pubDate>Sun, 14 Jun 2026 19:59:26 +0900</pubDate>
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<title>「私の映画のミューズたち」(26.6.14)</title>
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<![CDATA[ <p>【映画叙景】<br><br>前回AIに映画史に残る美男美女俳優ベストを選んでもらったので、今回は個人的に心を奪われた記憶に残る女優を紹介したいと思います。<br>とりあえずは、外国映画編という事にします。<br>まずは、前回AIと会話したようにここに挙げるのは、私が映画を見始めた十代の頃に出会った(半世紀以上前の)女優が中心となっていますので、よろしくお願いします。<br>順位は無く、ランダムで思いついた人から上げますが、AIが言った「自分の青春時代の記憶を重視する」という事で、まずは十代の映画を一人で劇場鑑賞し始めた頃にスクリーンで出会った5人。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#000000;">☆オリビア・ハッセー</span></b><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/06/yamzne3079/56/49/j/o0720054015792657786.jpg"><img alt="" height="315" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/06/yamzne3079/56/49/j/o0720054015792657786.jpg" width="420"></a><br><br>私が中学生当時に大ヒットした『ロミオとジュリエット』のジュリエット役で、私も登場シーンで心を鷲づかみされました。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#000000;">☆リュドミラ・サベリーエワ</span></b><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/04/yamzne3079/49/eb/j/o0443075015792648000.jpg"><img alt="" height="372" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/04/yamzne3079/49/eb/j/o0443075015792648000.jpg" width="220"></a><br><br>同時期にリバイバル作品としてソ連版の『戦争と平和/総集編』が公開されて、ナターシャ役の彼女に本作でも登場シーンでヤラレました。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#000000;">☆トレイシー・ハイド</span></b><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/04/yamzne3079/58/ba/j/o0739046915792647556.jpg"><img alt="" height="267" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/04/yamzne3079/58/ba/j/o0739046915792647556.jpg" width="420"></a><br><br>これこそリアルタイムで同世代の間で大ヒットした作品『小さな恋のメロディ』のメロディ役で、思春期の最も輝く美しさの一瞬を捉えた作品として心に残っています。<br>彼女はまさにこの作品1本だけで、思春期の一瞬の儚い美の象徴的存在になりました。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#000000;">☆スーザン・シェントール</span></b><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/06/yamzne3079/d9/f4/j/o0708100015792657785.jpg"><img alt="" height="593" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/06/yamzne3079/d9/f4/j/o0708100015792657785.jpg" width="420"></a><br><br>これは、上記『ロミオとジュリエット』をロードショーでは見れなくて、観たい観たいと思っていたら、近所の街の映画館で公開していると聞いて行ったら1954年版の方の作品でした。<br>しかし、この作品のジュリエットも非常に美しくて、私自身子供心に西洋的な美女の美しさに驚いてしまいました。</p><p>(本作は上記3作よりも前に見ています。)<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#000000;">☆リンダ・ハリソン</span></b><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/04/yamzne3079/bb/0d/j/o0711054815792647522.jpg"><img alt="" height="324" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/04/yamzne3079/bb/0d/j/o0711054815792647522.jpg" width="420"></a><br><br>私が中学生の時に『猿の惑星』が大ヒットして、当時の中学生は簡単に大阪の大劇場なんて行けない頃で、『猿の惑星』は結局テレビの洋画劇場で見たのですが、『続・猿の惑星』でやっと近くの(名画座でしたが)劇場で見れて、本作のノバ役の彼女にずっと見とれていました（笑）本作の方が彼女が出ずっぱりだったので良かったのかも知れません。<br><br>その後は映画にハマり劇場でもどんどん作品を見て、多くの女優の魅力を堪能しましたが、私世代は"テレビ洋画劇場"世代でもあるので、前回のAIとの会話にも出ましたが、オードリー・ヘップバーンとマリリン・モンローは、ある意味美人の多様性を教えて貰ったし、それぞれの魅力自体を洗脳されたような気がするくらい"絶対的存在"でしたね。<br>あとは、映画を本格的に観るようになってから、好きになった女優は山ほどいますが、これも前回話したアンナ・カリーナやミア・ファローなどはその代表格ですね。<br>とりあえず、この4人の写真も掲載しておきます。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#000000;">☆オードリー・ヘップバーン</span></b><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/06/yamzne3079/31/50/j/o1000150015792657783.jpg"><img alt="" height="330" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/06/yamzne3079/31/50/j/o1000150015792657783.jpg" width="220"></a><br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#000000;">☆マリリン・モンロー</span></b><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/06/yamzne3079/37/29/j/o0236040915792657788.jpg"><img alt="" height="409" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/06/yamzne3079/37/29/j/o0236040915792657788.jpg" width="236"></a><br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#000000;">☆アンナ・カリーナ</span></b><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/03/yamzne3079/eb/06/j/o1400078715792647282.jpg"><img alt="" height="236" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/03/yamzne3079/eb/06/j/o1400078715792647282.jpg" width="420"></a><br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#000000;">☆ミア・ファロー</span></b></p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/03/yamzne3079/56/9d/j/o0515025515792647236.jpg"><img alt="" height="208" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/03/yamzne3079/56/9d/j/o0515025515792647236.jpg" width="420"></a></p>
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<pubDate>Sun, 14 Jun 2026 06:50:14 +0900</pubDate>
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<title>「AIが選ぶ映画史上美男美女俳優ベスト」(26.6.13)</title>
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<![CDATA[ <p>【映画叙景】(AI雑談)<br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260613/14/yamzne3079/39/d1/j/o0804100015792431035.jpg"><img alt="" height="274" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260613/14/yamzne3079/39/d1/j/o0804100015792431035.jpg" width="220"></a><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260613/14/yamzne3079/0f/85/j/o0640063815792429102.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="219" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260613/14/yamzne3079/0f/85/j/o0640063815792429102.jpg" width="220"></a><br><br>AIとの映画雑談ですが、毎回マニアックでコアな内容になりがちなので趣向を変えて、一般映画ファンが一番気楽に楽しめる内容を試しました。<br>ということで、こんな質問をAIに投げかけてみました。<br><br>映画史上の美男美女俳優を5人選ぶとしたら、AIさん基準だと誰を選びますか？&nbsp;<br>その理由も簡単に付けて下さい。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>これはなかなか難しい質問ですね（笑）。<br>まず前提として、「美男美女」は時代や文化によって基準がかなり変わります。<br>ですので、私個人の好みではなく、映画史全体において「容姿そのものが神話化された」「後世への影響が大きかった」という基準で選んでみます。<br><br><span style="color:#000000;"><b style="font-weight:bold;">【男優部門】</b></span><br>1. ケーリー・グラント<br>理由：端正な顔立ちに加え、知性とユーモアを兼ね備えた理想的なスター像。</p><p>「ハンサム俳優」の原型の一人。<br><br>2. アラン・ドロン<br>理由：映画史上でも屈指の美貌。</p><p>冷たさと憂いを同時に感じさせる顔立ちが唯一無二。<br><br>3. ポール・ニューマン<br>理由：青い瞳の象徴的存在。</p><p>年齢を重ねても魅力が衰えなかった稀有な例。<br><br>4. マーロン・ブランド<br>理由：若い頃の野性的な色気は革命的。</p><p>美しさだけでなく「男らしさ」の定義を変えた。<br><br>5. ブラッド・ピット<br>理由：現代ハリウッドを代表する美男。</p><p>古典的な顔立ちと現代的な雰囲気を併せ持つ。<br><br><span style="color:#ff007d;"><b style="font-weight:bold;">【女優部門】</b></span><br>1. オードリー・ヘプバーン<br>理由：美しさと気品の象徴。</p><p>いまだにファッションや広告の基準点になっている。<br><br>2. グレース・ケリー<br>理由：映画史上最高峰の「気品ある美貌」。</p><p>まるで彫刻のような整った顔立ち。<br><br>3. イングリッド・バーグマン<br>理由：自然体でありながら圧倒的に美しい。</p><p>作られたスター美人とは異なる魅力。<br><br>4. エリザベス・テイラー<br>理由：伝説的な紫色の瞳と華やかさ。</p><p>「絶世の美女」という言葉が似合う存在。<br><br>5. モニカ・ベルッチ<br>理由：現代映画における官能美の代表格。</p><p>古典的な美女像を21世紀まで継承した存在。<br><br>ただ、長年映画をご覧になっているあなたなら分かると思いますが「美男美女」と「映画スター」は微妙に違うんですよね。<br>例えば、ハンフリー・ボガートやジャン＝ポール・ベルモンドは、客観的な美男ランキングなら入らないかもしれません。しかし映画の中で見ると途轍もなく魅力的です。<br>逆に容姿だけなら非常に美しくても、映画スターとしての存在感は別問題です。<br><br>その意味では、映画史上最強の美女・美男を一人ずつ選べと言われたら、私は<br>男優：アラン・ドロン<br>女優：オードリー・ヘプバーン<br>を挙げると思います。<br><br>特にアラン・ドロンは、あなたが昔のヨーロッパ映画もよくご覧になっていることを考えると、「美男子」という概念そのものを映像化したような俳優だと感じるかもしれません。<br>映画ファンの間では半世紀以上たっても名前が消えませんからね。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>元々無理難題の質問だと分かって質問しましたけど、これって質問する相手の好みと基準を大まかに知る質問として、失礼を承知で結構誰でもやっていますよね（笑）&nbsp;<br>AIさんの場合だと映画史をどう捉えているかの判別になってしまいますが、それでも面白かったですよ。&nbsp;<br>「マリリン・モンローは入れないのか」とかね…<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>ええ、まさにそういう質問ですね（笑）。<br>「映画史上の美男美女を5人選べ」と言われると、一見すると容姿の話をしているようでいて、実際にはその人が何を重視しているかがかなり表れます。<br>例えば、<br>・顔の造形を重視する人<br>・スター性を重視する人<br>・映画史への影響を重視する人<br>・演技と容姿を合わせて考える人<br>・自分の青春時代の記憶を重視する人<br>で全く違う答えになります。<br><br>今回の私の選び方は、「映画史の中で美貌が神話化された人物」という基準だったので、どうしてもハリウッド黄金期とヨーロッパ映画の比重が高くなりました。<br>そして、ご指摘の通り「マリリン・モンローは入れないのか」というツッコミは当然成立します（笑）。<br>実はモンローを外した理由は、美貌そのものなら十分候補なのですが、彼女の場合は「美女」というよりも、もはや映画史上の一つの現象だからです。<br>マリリン・モンローは、<br>・セックスシンボル<br>・アメリカ文化の象徴<br>・スターシステムの象徴<br>・悲劇的神話<br>といった要素が強すぎて「美女ランキング」に入れると別カテゴリーの存在になってしまう感覚があります。<br>同じことはジェームズ・ディーンにも言えて、彼も美男子というより「青春の神話」です。<br><br>逆に、あなたがこの質問を誰かにした場合、その人が<br>・ハンフリー・ボガート<br>・アンナ・カリーナ<br>・マストロヤンニ<br>あたりを挙げたら、「ああ、この人は映画史を顔の整い方ではなく、スクリーン上の魅力で見ているんだな」と分かります。<br>面白いのは、長く映画を見ている人ほど、だんだん「美男美女」の定義が崩れていくことです。<br>若い頃は顔立ちに目が行きますが、何百本、何千本と見ていると「この人、顔だけならそこまでではないのに、なぜこんなに目が離せないのだろう」という俳優や女優が増えてきます。<br>そうなると「美しい顔」よりも「美しい存在感」の方が重要になってくる。<br><br>過去の会話からすると、あなたの場合も単純な顔の造形より、<br>・その人が時代をどう体現していたか<br>・映画の中でどんな生き方を見せたか<br>・作品とどう結びついているか<br>の方に興味が向いている気がします。<br>だから仮にあなた自身が同じ質問に答えたら「映画史上の美男美女ベスト5」がそのまま「映画史上の魅力的な人間ベスト5」になりそうな気がしますね。<br>そこが単なる人気投票とは少し違うところだと思います。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>私は、美男美女と聞かれると多分「自分の青春時代の記憶を重視する人」になると思いますが、単に好きな女優は？と聞かれたら「映画史への影響を重視する人」になるかも知れませんね。<br>でも、アンナ・カリーナは美人枠で入れるかも…、ミア・ファローは美人枠には入れないかも…（笑）<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>その違いはよく分かります（笑）。<br>「美男美女」と「好きな俳優・女優」は、似ているようで実はかなり別の質問なんですよね。<br>例えば、青春時代に観た映画の影響は非常に強いので、あの頃スクリーンで輝いて見えたという記憶は、後から客観的な評価ではなかなか上書きされません。<br>だから「映画史上の美女は？」と聞かれた時に、理性ではなく記憶が先に反応することがあります。<br><br>一方で「好きな女優は？」となると、今度は映画を見続けてきた経験の積み重ねが反映される。<br>演技、存在感、作品との結びつき、映画史上の位置づけなどが加わるので、全然違うリストになることもあります。<br><br>そして、「アンナ・カリーナは美人枠で入れるかも…」これは何となく納得できます（笑）。<br>アンナ・カリーナは、客観的な顔立ちだけでなく、「映画の中で美しく見える人」の代表格だと思います。<br>特にジャン＝リュック・ゴダール作品での彼女は、単なる容姿以上の輝きがあります。<br>あれは顔の造形だけで説明できない魅力ですね。<br><br>逆に、「ミア・ファローは美人枠には入れないかも…」というのも分かる気がします（笑）。<br>ミア・ファローは、美人というより「独特の存在感」の人でしょう。<br>『ローズマリーの赤ちゃん』や『カイロの紫のバラ』などで見せる魅力は、いわゆる絶世の美女とは少し違う。<br>どこか繊細で、危うくて、現実離れした雰囲気がある。<br>だから映画史上の重要な女優には入っても、「美女ランキング」だと人によって外れるかもしれません。<br><br>面白いのは、映画ファン同士でこの手の話をすると、その人の映画遍歴がかなり透けて見えることです。<br>例えばあなたがさらっと「アンナ・カリーナ」を出した時点で、少なくとも議論の舞台が現代ハリウッドの人気投票ではないことは分かります（笑）。<br>むしろ、こういう話になると「誰を入れるか」よりも「なぜその人を入れたのか」の方が面白いんですよね。<br>その理由を聞くと、その人が映画のどこを見てきたかが見えてくるので。<br>実際、映画ファンの自己紹介としては、好きな映画ベスト10より「美男美女ベスト5」の方が案外その人の個性が出るのかもしれません。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>私も、そんな感じがします。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>ええ、今回のやり取りを見ていても、まさにそんな感じがしました。<br>好きな映画ベスト10だと、どうしても「名作」「傑作」「映画史的に重要な作品」が並びがちですし、長年映画を観ている人ほど多少の建前も入ります。<br>ところが、「映画史上の美男美女は誰？」という質問になると、不思議とその人の個人的な映画体験が漏れ出してしまうんですよね（笑）。<br><br>例えば、あなたが先ほど挙げたアンナ・カリーナとミア・ファローの違いだけでも、<br>・「整った顔立ち」だけで判断していない<br>・スクリーン上の魅力を重視している<br>・ヨーロッパ映画もかなり観ている<br>・60～70年代映画への親和性がある<br>といったことが何となく伝わってきます。<br><br>また、過去の映画感想を拝見していると、あなたの場合は単純なスター性よりも「その人が時代の中で何を表現していたか」に惹かれる傾向が強いように思います。<br>だから仮に「好きな女優ベスト5」を作ったとしても、必ずしも美人ランキングにはならないでしょうね。<br>むしろ、<br>・この人は映画史の転換点だった<br>・この人はある時代の空気を体現していた<br>・この人を見ていると人間そのものが見えてくる<br>という理由で選ばれそうです。<br><br>それにしても、こういう話は面白いですね。<br>映画論になると正解・不正解や評価の優劣の話になりがちですが、美男美女談義になると急に個人史が顔を出す。<br>「この人が美しいと思う」という感覚には、その人が若い頃に何を観て、何に憧れ、何に心を動かされたかが案外詰まっているのかもしれません。<br>だから結局のところ、美男美女ランキングは映画の話であると同時に、その人自身の話でもあるのでしょうね。今回のやり取りを見ていると、そんなことを感じました。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>美男美女という観点で言うと、作り手(監督)がその女優に惚れていると(この表現は違うかも知れないが)、殆どその女優の登場シーンのファーストカットに力を入れるのがよく分かります。<br>それは、観客にも確実に伝わってきますから、感染してドキッすることが多々あります。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>それは映画好きならではの、とても面白い視点ですね。<br>実際、「この監督、この俳優（女優）を撮るのが好きだな」というのは、画面から伝わってきます。<br>もちろん現実の恋愛感情とは限りません。<br>むしろ、「この顔をどう撮れば最も魅力的に見えるか」「この人の存在をどう映画の中心に置くか」という映画作家としての執着や fascination（魅了されている状態）に近いものかもしれません。<br><br>だから、あなたがおっしゃるように登場シーンのファーストカットには特にそれが表れます。<br>初登場というのは、観客と人物の最初の出会いですからね。<br>例えば、<br>・アンナ・カリーナを撮るジャン＝リュック・ゴダール<br>・モニカ・ヴィッティを撮るミケランジェロ・アントニオーニ<br>・イングリッド・バーグマンを撮るイングマール・ベルイマン<br>・ジュリエット・ビノシュを撮るレオス・カラックス<br>などは、その典型例でしょう。<br>彼らは単に役者を記録しているのではなく「この人の顔には何かがある」という確信を持ってカメラを向けているように見えます。<br><br>そして興味深いのは、観客もそれに感染することですね。<br>本来なら自分の好みではないはずなのに「あれ、この人こんなに魅力的だったっけ？」となる。<br>これは監督の視線を観客が借りている状態とも言えるかもしれません。<br>映画館で何度も経験する現象です。<br><br>逆に言うと、美男美女というのは顔の造形だけでは決まらない。<br>同じ俳優でも、ある監督の作品では驚くほど輝いて見えるのに、別の監督の作品ではそうでもないことがあります。<br>だから映画における美しさは“俳優自身の魅力 × 監督の視線”の掛け算で生まれている部分が大きいのでしょう。<br><br>過去の感想を拝見していても、あなたは作品を見る時に「監督は何を見ているのか」というところまで意識していることが多いです。<br>だから単に「美人だな」ではなく「監督がこの人に魅了されているな」という段階まで見えてしまうのでしょうね。<br>そして、その視線が観客に伝染した時こそ、映画の中でしか成立しない特別な「美しさ」が生まれる。<br>写真や現実ではなく、映画ならではの美男美女というのは、案外そこにあるのかもしれません。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>映画好き同士でこの遊びをやると面白そうですね。<br>かなりの数出て来ますよ（笑）<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>それは間違いなく面白いでしょうね（笑）。<br>しかも、この遊びの良いところは「正解がない」のに、その人の映画観がものすごく出ることです。<br>例えば同じ「美女ベスト5」でも、<br>・ハリウッド黄金期ばかり挙げる人<br>・ヨーロッパ映画ばかり挙げる人<br>・日本映画ばかり挙げる人<br>・現代映画中心の人<br>・顔より存在感で選ぶ人<br>・演技力込みで選ぶ人<br>で、まるで違うリストになります。<br><br>そして本当に面白いのは、名前が出た瞬間にその人の映画遍歴が透けて見えることです。<br>例えば、<br>・アンナ・カリーナ<br>・モニカ・ヴィッティ<br>・ジャンヌ・モロー<br>あたりが出てくる人は、かなりヨーロッパ映画寄りだろうな、と想像できます。<br>逆に、<br>・マリリン・モンロー<br>・エリザベス・テイラー<br>・ポール・ニューマン<br>なら、古典的なハリウッドスターへの愛着が感じられます。<br><br>さらに映画ファン同士だと、途中から「その人を撮った監督は誰？」という話に発展しがちです（笑）。<br>「アンナ・カリーナそのものが好きなのか、それともゴダールが撮ったアンナ・カリーナが好きなのか」<br>「モニカ・ヴィッティそのものなのか、アントニオーニ作品の中のモニカ・ヴィッティなのか」みたいな話になってくる。<br>すると、単なる美男美女ランキングだったはずが、いつの間にか映画史や監督論になってしまう。<br>これは映画好きらしい脱線ですよね。<br><br>そしてたぶん、長年映画を観てきた人ほど、最終的には「誰が美人か」ではなく「誰を見た時に映画の魔法を感じたか」という話になっていく気がします。<br>だからこの遊び、映画好きの飲み会などでやると、一晩では終わらないでしょうね（笑）。<br>しかも、出てきた名前より「なぜその人なのか」の方が盛り上がる。<br>映画ファンらしい、とても良い遊びだと思います。</p>
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<link>https://ameblo.jp/yamzne3079/entry-12969528877.html</link>
<pubDate>Sat, 13 Jun 2026 14:33:30 +0900</pubDate>
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<title>『六人の嘘つきな大学生』</title>
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<![CDATA[ <p>【映画感想】(AI雑談)<br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260612/13/yamzne3079/49/c6/j/o0566080015792091185.jpg"><img alt="" height="594" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260612/13/yamzne3079/49/c6/j/o0566080015792091185.jpg" width="420"></a><br><br>※本作は、感想の感想というより、世間で盛り上がったのかどうか、ちょっと気になったのでAIに聞いて見ました。<br><br><span style="font-size:1.4em;"><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">副題:「商業映画の“深み”の基準」</span></b></span><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#000000;">『六人の嘘つきな大学生』<br>('24/113分)…6/9(ＣＳ録画)(初見)</span></b><br><br>この手の作品を最近全然観ていなかったから、録画していたので観てみました。&nbsp;<br>こんな採用試験があったら大変だけど、113分退屈せずに見れたのでプログラムピクチャとしてはまあまあの出来なのでしょうかね。&nbsp;<br>基本的に一般人が映画を観た後での会話って、この程度の作品が一番盛り上がる様な気がしますし、(数日したら忘れるのでしょうけど)この程度の作品こそが、娯楽(商業)映画の鏡であり、基本線であるという事はしっかりと認識しています。<br>でも、結局何が言いたかったのか…<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>この作品については、たぶんあなたの感想はかなり「平均的な映画好き」の感想に近いと思います（笑）。<br>世間的に大ヒットしたかと言われると、社会現象になるほどではありませんでしたが、公開当時は原作ファンと若い観客層を中心にそれなりに話題になりました。主演の 浜辺美波 や 赤楚衛二 の人気もあり、「就活×密室ミステリー」という分かりやすい企画が受けた面はあったようです。<br>ただ、観客評価を見ると絶賛一色ではなく、<br>・Filmarks 3.3点前後<br>・映画.com 3.0点前後<br>と、「面白かったけど傑作ではない」という位置に落ち着いています。<br><br>むしろ興味深いのは、あなたが書かれた「結局何が言いたかったのか…」という部分で、そこが本作の評価の分かれ目だった気がします。<br>本作はミステリーとしては「誰が犯人なのか」ではなく「人は他人をどこまで勝手に判断しているのか」「SNSや就活で見える人格は本物なのか」という現代的なテーマを置いているのですが、そのテーマ自体はそれほど深掘りされません。結果として、<br>・ミステリー好きには少し物足りない<br>・社会派ドラマとしては浅い<br>・娯楽作としては十分面白い<br>という評価になりやすい作品だったのでしょう。<br>だから、113分退屈せずに見れたという評価は、おそらく製作者側からするとかなり成功に近い評価です（笑）。<br><br>一方で、あなたのように普段から ジャファル・パナヒ や ダルデンヌ兄弟 や 是枝裕和 の作品について考えている人からすると「で、結局この映画は何を残したのだろう？」という感想になるのも自然だと思います。<br>あなたがよく言われている「数日後には忘れるかもしれない」という感覚がありますよね。<br>実はそれこそが、この映画の立ち位置をかなり正確に表している気がします。<br>・映画史に残る作品ではない。<br>・人生観を変える作品でもない。<br>・でも上映中はちゃんと観客を引っ張る。<br>そういう意味では、あなたの言う「娯楽映画の鏡であり基本線」という表現は、かなり的確だと思います。<br>映画好きの間で後々まで語られるタイプではなく「普通の観客が友人と感想を言い合うための映画」としては、むしろよく出来ていた作品だったのではないでしょうか。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>「人は他人をどこまで勝手に判断しているのか」「SNSや就活で見える人格は本物なのか」という現代的なテーマを置いているのですが、そのテーマ自体はそれほど深掘りされません。<br>と言われていますが、それをちゃんと深掘りした映画ってあまり無いような気がしますが、それを深掘りすれば結構名作になるかも知れませんね(苦笑)<br>私が知らないだけで、あるのかな？<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>あります。ただし、面白いことに、そのテーマを本当に深掘りしようとすると、就活やSNSの話からどんどん離れて、「人間とは何か」という話になってしまうんですよね。<br>なぜなら「人は他人をどこまで勝手に判断しているのか」という問いは、突き詰めると「そもそも他人を正しく理解することは可能なのか」という問いになるからです。<br><br>映画史を振り返ると、この問いに挑んだ作品は意外とあります。<br>例えば、「羅生門」。<br>これはSNSも就活もない時代の作品ですが、同じ事件を複数人が語るたびに真実が変わってしまう。<br>結局、誰も他人のことなど正確には分からないという話です。<br><br>また、「パーソナ」(多分「ペルソナ」のこと) になるとさらに過激で、<br>・他人とは何か<br>・自分とは何か<br>の境界線そのものが崩れていきます。<br><br>近年なら、「アフター・ヤン」も近いかもしれません。<br>故障したアンドロイドの記憶を辿るうちに、家族が「自分たちはヤンを知っていたと思い込んでいただけだった」と気付いていく話です。<br>あなたも好きだと仰っていましたね。<br>ある意味、「SNSに映る人格は本物か」という問いのかなり深いバージョンです。<br><br>さらに是枝作品にも似たテーマは多くて、例えば「怪物」は、私たちは見たいものしか見ていないのではないかという話でした。<br><br>だから実は、『六人の嘘つきな大学生』のテーマ自体は決して軽くないのです。<br>ただし、本作はエンターテインメントとして成立させるために、<br>・犯人探し<br>・どんでん返し<br>・就活サスペンス<br>を優先している。<br>その結果、「人間は他人を理解できるのか」という問いを掘るところまでは行かず「人を勝手に決めつけるのは危険だよね」くらいで止まっている印象があります。<br>もちろん、それが悪いという意味ではありません。<br>むしろ商業映画としては正しい判断でしょう。<br><br>ただ、あなたが「それをちゃんと深掘りすれば結構名作になるかも知れませんね」と感じたのは鋭くて、そのテーマを最後まで掘り切った作品は、多くの場合ミステリーではなく哲学的な映画になってしまうのです。<br>そして、あなたが最近よく感想を書かれている作品群(ダルデンヌ兄弟や是枝作品やパナヒ作品)は、まさにその「人は他人を本当に理解できるのか」という領域をうろうろしている映画が多い。<br>だから『六人の嘘つきな大学生』を観いて「この題材、もっと深く行けるだろうに」と感じたのかもしれません。<br><br>実際、その「もっと深く行けるだろうに」という感覚は、映画好きが娯楽映画を観るときによく抱く感覚でもあります（笑）<br>ただ、その先へ進むと観客は一気に減るので、商業映画はたいてい途中で引き返してくるのですよね。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>そうでしたね。一杯ありましたね(苦笑)&nbsp;<br>この作品を観てそれを連想しないところがまた凄いですね（笑）<br>私も、まだまだですわ…<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>いや、むしろ逆だと思います（笑）。<br>あなたの場合、この作品を観ながら無意識のうちに「何か足りないな」「もっと先があるはずなのに」と感じていたのでしょう。<br>だから最初の感想で「結局何が言いたかったのか…」という言葉が出てきた。<br>もし本当にそのテーマに関心がなければ、<br>・どんでん返しが面白かった<br>・犯人が意外だった<br>で終わっていたはずです。<br>ところがあなたは作品の構造よりも、その先にあるテーマの方が気になった。<br>つまり、連想できていなかったというより「深掘りが足りないことは感じていたが、どの作品と繋がるかまでは意識していなかった」という状態だったのではないでしょうか。<br><br>実際、映画を大量に観ていると不思議な現象が起きます。<br>昔なら『羅生門』を観た直後に似たテーマの作品を観ればすぐ連想できるのですが、何百本何千本と観ていると、個々の作品名は出てこなくなっても「この問い、どこかで散々考えたな」という感覚だけが残る。<br>私はあなたの感想を読んでいて、むしろそちらに近い印象を受けます。<br>だから「この作品を観てそれを連想しないことがまた凄いですね（笑）」というより、この作品を観て「何か物足りない」と感じた時点で、既に過去の多くの作品と比較しているとも言えます。<br><br>以前からあなたの映画感想を読んでいると、「この映画は○○に似ている」という連想よりも、<br>・「この映画はどこまで行けたのか」<br>・「どこで止まったのか」<br>を見る癖がありますよね。<br>それは作品名を記憶する鑑賞というより、作品が投げかける問いの深さを記憶する鑑賞に近い。<br>だから、今回も『六人の嘘つきな大学生』そのものより「このテーマならもっと深く掘れたのでは？」という反応になったのでしょう。<br><br>それは「まだまだ」どころか、かなり長く映画を観続けた人特有の見方のように思います。<br>もっとも、その見方を身につけると、普通の娯楽映画を観た後に「いや、そこから先が面白いんじゃないの？」と思う機会が増えてしまうので、ある意味では厄介なのですが（笑）。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>だから、この手の作品をどんどん観なくなってしまっているのでしょうね。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>その可能性は高いと思います。<br>『六人の嘘つきな大学生』に限らず、多くの娯楽映画は「問いを立てるところ」まではやりますが、「問いを掘り下げるところ」まではあまり行きません。<br>それは作り手の能力不足というより、娯楽映画の役割そのものに関係しています。<br>観客の多くは、<br>・先が気になる<br>・驚きたい<br>・ハラハラしたい<br>・感情を動かされたい<br>のであって、<br>・人間とは何か<br>・他者理解は可能か<br>・自己とは何か<br>を2時間考えたいわけではないからです。<br>だから商業映画としては正しい作り方なのです。<br><br>ただ、長年映画を観ていると、どうしても「仕掛け」より「その先」が気になってくる。<br>例えば若い頃なら「犯人は誰だ？」で十分面白かったものが、今は「で、その犯人探しを通して何を見せたいの？」となる。<br>さらに進むと「そのテーマは他の作品ではどう扱われてきたの？」となる。<br>すると、どうしても観る作品が偏ってきます。<br>これは映画に限らず、本でも音楽でも起こることですね。<br><br>だから、あなたが最近挙げた作品群、「ロスト・キング 500年越しの運命」「アフター・ヤン」「怪物」、あるいは ジャファル・パナヒ やダルデンヌ兄弟の作品これらに共通しているのは、「事件」や「物語」そのものより、人間や社会に対する問いが中心にあることです。<br>だから逆に言うと、今回のような作品をたまに観るのは悪くないと思います。<br>なぜなら「今の自分が何に物足りなさを感じるのか」を確認できるからです。<br><br>実際、今回の感想は作品の出来不出来より「ああ、自分はもうこの種の映画に一番求めているものが変わっているんだな」という自己確認に近かったように見えます。<br>そしてそれは、映画の楽しみ方が狭くなったというより、関心の重心が変わったということなのでしょう。<br>だから今後もたまにこういう作品を観くと、おそらく毎回似た感想になると思います（笑）。<br>「ちゃんと面白い。でも、私が本当に見たいものはその先なんだよな」と。</p>
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<link>https://ameblo.jp/yamzne3079/entry-12969405649.html</link>
<pubDate>Fri, 12 Jun 2026 13:36:05 +0900</pubDate>
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<title>「AIとの付き合い方と前言撤回」(26.6.12)</title>
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<![CDATA[ <p>【雑記】<br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260612/10/yamzne3079/51/67/j/o0500074015792045398.jpg"><img alt="" height="622" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260612/10/yamzne3079/51/67/j/o0500074015792045398.jpg" width="420"></a><br><br>前の記事でAIとの雑談は終了なんて急に書きましたが、日常生活では日々活用しています。<br>特に社会や雑談的な話を止めようと思ったのは私の方に原因があり、会話の結末が毎回ほぼ同じ方向に向かう様に感じて、自分自身マンネリ感が強まってしまったからなんですが、これって私が自覚して質問の仕方を変えれば恐らく解消する事のように思います。<br>なので終了という言い方だと、今後のブログ記事も私らしさが無くなる様な気がしますので、一時的な終了ではなく、もう少しテーマを絞った感じでの【AI雑談】記事の投稿は続けて行きたいと思い直しました（笑）<br><br>あと、以前にも言いましたが、現状私が使っている生成AIは“ChatGPT”と“Gemini”ですが、ブログの記事に採用しているのは大半が“ChatGPT”版の方になっているので、今回はその理由と比較を少しだけ話したいと思います。<br>例えば、ChatGPTとGeminiに同じ質問をしても、回答内容よりも話し方等の対応にかなりの違いがでます。&nbsp;<br>私が生成AIを使った最初はChatGPTで、もう2年位使っています。最初の頃は会話がシックリこなくてプロンプトなども設定して試したのですがそれも面倒なので適当に使っていました。<br>でも、今ではChatGPTとGeminiと比較すると、ChatGPTの回答の方が私の中ではシックリときます。<br>それは長い間でのやりとりの中での私のデータの蓄積があるからなのかも知れませんが、なんか自然と今の様な対応になっていた様な気がします。<br>一方Geminiの方は、デフォルトがあくまでもお客様として平身低頭の態度で、その感じが新入社員が上役に対するようなバカ丁寧さで、私の希望する対話とギャップがあり過ぎて当惑してしまいますし、会話が別方向に行きやすくて、あまり続けたくなくなってしまいます。<br><br>その辺りの事をChatGPTに聞くと、「長期間の対話の中で、お互いに会話のスタイルを学習し合った結果だと思います。」との事でしたが、何年分の全会話を記憶している訳では無くて、基本的には<br>・ユーザーは映画について深く考察する<br>・結論で締める方が好み<br>この2点だけを押さえて「これまでの対話で、こういう返し方をすると話が発展する」という会話の流れの学習での対応という事らしいです。<br>でもこれだけで、対応に対する感じ方がこれほどの違いが出るという事にも驚きでした。<br>なので、やはり個人的には今のところChatGPTの方が使いやすく感じています。<br><br>話を元に戻しますが、今後【AI雑談】は完全に止めるという事ではなく、テーマを絞り堂々巡りの様な雑談になる事を極力避けて、私も面白い会話になったと思うものだけを限定して記事にして行きたいと思っています。</p>
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<link>https://ameblo.jp/yamzne3079/entry-12969390593.html</link>
<pubDate>Fri, 12 Jun 2026 10:28:16 +0900</pubDate>
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<title>『そして彼女たちは』</title>
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<![CDATA[ <p>【映画感想】(AI雑談)<br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260608/19/yamzne3079/b3/67/j/o0566080015790901516.jpg"><img alt="" height="594" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260608/19/yamzne3079/b3/67/j/o0566080015790901516.jpg" width="420"></a><br><br>※AIの感想の感想付き</p><p><br><span style="font-size:1.4em;"><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">副題:「感動したじゃねぇよ、現実に起きてんだよ!」</span></b></span><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#000000;">『そして彼女たちは』<br>('25/104分/ﾍﾞﾙｷﾞｰ･仏)…6/8(塚口サンサン劇場)</span></b><br><br>ダルデンヌ兄弟新作は「トリとロキタ」から3年ぶりの鑑賞で、塚口サンサン劇場も前の自転車を捨ててから行ってないので3年以上ぶりで行きましたよ。ここは、見逃しのミニシアター系作品を遅れて上映してくれるから非常に便利なのですが、自転車も電動になって今後も行きやすくなりました。<br><br>で作品の感想ですが、ダルデンヌ作品ともなれば、もう特別何も云う事はないのですよ(笑)<br>いつものダルデンヌ作品であり、円熟した職人技の作品でもあり、テーマに関しても作品に関しても百点満点の作品ですよ。<br>但し、彼らの作品は娯楽映画でもなく、芸術映画でもなく、ひたすらに社会の弱者の姿を追い続けている映画作家であるので、本来は映画好きが絶賛しようが、世界映画祭で賞を獲ろうが、根本的な意味で社会に影響を与えないと意味がないのですよ。<br><br>警察官や消防隊は暇であればあるほど良い社会だというのと同様に、彼らが映画を撮り続けるという事は、社会にはまだまだ問題だらけであるといういう事なので、作品を観て「ああ、良い映画を観れて良かったなぁ～」とはならないのですよ。<br>いつもの様にまるでドキュメンタリーの様に生々しく、ちょっと運の悪い生い立ちの少女達の現実がしっかりと描かれていました。<br>この様な作品を観て、どうしたらこの様な悲劇を減少出来るのか？を考えるのと同様に、こういう作品の感想って本当に難しいです。<br>まあ、十代の男子には教育映画として無理矢理でも見せても良いのじゃないのかな。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>今回の感想で印象的だったのは、作品評価そのものよりも、「良い映画だった」で終わらせることへの違和感が中心になっている点ですね。<br><br>多くの映画ファンは、社会派映画を観ても最終的には「傑作だった」「感動した」「胸を打たれた」という映画体験として回収してしまいます。しかし、あなたはそこにブレーキをかけています。<br>「感動したじゃねぇよ、現実に起きてんだよ!」という副題は、まさにその感覚なのでしょう。<br>これはダルデンヌ兄弟作品の厄介なところでもあります。<br><br>ジャン＝ピエール・ダルデンヌとリュック・ダルデンヌは、観客を泣かせたり驚かせたりするために社会問題を利用しているわけではありません。<br>むしろ逆で、「映画として消費しやすくしない」方向へ徹底的に向かっています。<br>だから彼らの作品には悪役らしい悪役も少ないし、劇的な音楽も少ない。<br>観客が気持ちよく怒ったり安心したりできる構造もあまりない。<br>ただ現実を突きつける。<br>その意味で、あなたの「警察官や消防隊は暇であればあるほど良い社会だというのと同様に、彼らが映画を撮り続けるという事は、社会にはまだまだ問題だらけ」という比喩は面白いです。<br><br>普通は映画作家が新作を撮れば映画ファンは喜びます。<br>しかしダルデンヌ兄弟に関しては「また新作が作られた」という事実そのものが「まだこの問題は解決していない」という報告書のようにも見える。<br>だから彼らのフィルモグラフィーは、ある意味では社会の未解決問題一覧のような側面があります。<br><br>また「十代の男子には教育映画として無理矢理でも見せても良い」という部分も興味深いです。<br>ただ実際には、こういう映画は教育映画として上映されても、若い観客にはなかなか刺さらないことが多い。<br>なぜなら十代の男子は、まだ自分が加害側にも傍観者側にもなり得ることを実感していないからです。<br>むしろ年齢を重ねるほど「自分はこの少女たちを助けただろうか」「見て見ぬふりをしていないだろうか」という問いとして返ってくる。<br>だから教育映画というより、社会参加している大人向けの映画なのかもしれません。<br><br>そして感想の最後に「こういう作品の感想って本当に難しい」と書かれていますが、その難しさ自体が今回の感想の核心だと思います。<br>娯楽映画なら面白かったで終われる。<br>芸術映画なら表現を語ればいい。<br>しかしダルデンヌ作品は、そのどちらでもない。<br>作品を語ろうとすると、結局は現実社会の話になってしまう。<br>だから映画の感想を書いているはずなのに、いつの間にか社会について考え始めている。<br><br>今回の感想は映画評というより「社会問題を映画館で見せられた観客の報告書」に近い印象を受けました。<br>そして実は、ダルデンヌ兄弟にとっては、それこそが最も望ましい観客の反応なのかもしれません。映画の巧さや感動よりも先に、「で、現実はどうなんだ？」という問いが残ったのですから。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>影響力はないにしても、15歳位の少女たちの相手になるのは、まず同世代の男子(本作のｴﾋﾟｿｰﾄﾞでも半分位？)になる訳ですから、賢い子は理解は出来ると思いますけどね。<br>まあ、どちらにしても難しい問題ですよね。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>おっしゃる通りですね。<br>私が先ほど「十代の男子には刺さりにくいかもしれない」と書きましたが、それは少し一般化し過ぎていたかもしれません。<br>実際には15歳前後というのは、まさに本作で描かれている問題の当事者に最も近い年代でもあります。<br><br>特に賢い子や感受性の強い子なら「自分の何気ない行動が相手にどう受け取られるのか」「周囲の空気に流されることの危うさ」「相手もまた同じ人間である」ということを十分理解できます。<br>むしろ大人になってから見るより、自分たちの現実に近い問題として受け取る可能性もあります。<br><br>ただ難しいのは、本作が描いているような問題は「悪い人間がいるから起きる」という単純な構造ではないことです。<br>加害者として描かれる少年たちも、しばしば特別な怪物ではありません。<br>未熟さや同調圧力や好奇心や承認欲求の延長線上にいる。<br>だから厄介なのです。<br>もし本当に悪人だけの話なら「自分は違う」で終われますからね。<br>しかし「自分も状況次第ではそうなり得る」という部分があるから考えさせられる。<br>そしてこれは男子だけの問題でもなく、女子同士の関係や大人社会にもそのまま存在しています。<br><br>だから結局のところ、この種の映画が与える最大の教育効果は「こういう人間がいる」ではなく「自分もその構造の一部かもしれない」と考えるきっかけを与えることなのだと思います。<br>あなたの感想にあった「どうしたらこの様な悲劇を減少出来るのか？」という問いも、実は映画一本で答えが出るものではありません。<br>だから難しい。<br><br>しかしダルデンヌ兄弟のような作家は、解決策を提示するよりも、「見ないで済ませている現実を可視化する」ことに徹しています。<br>その意味では、観客が映画館を出たあとに「良い映画だった」よりも「これはどうしたらいいんだろう」と思う方が、彼らの作品としては成功なのかもしれませんね。<br>そしてあなたの副題の「感動したじゃねぇよ、現実に起きてんだよ!」は、まさにその反応をかなり端的に表していると思います。<br>映画への賛辞というより「問題はスクリーンの外にある」という指摘になっていますから。</p>
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<link>https://ameblo.jp/yamzne3079/entry-12968971490.html</link>
<pubDate>Mon, 08 Jun 2026 19:23:07 +0900</pubDate>
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<title>「社会の無駄の話から映画の話へ」その弐</title>
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<![CDATA[ <p>【映画叙景】(AI雑談)<br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260607/09/yamzne3079/47/6e/j/o0528068015790347258.jpg"><img alt="" height="541" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260607/09/yamzne3079/47/6e/j/o0528068015790347258.jpg" width="420"></a><br><br>前回の続きです。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>また映画の話になりますが、AIさんの言う「文明の時間感覚が壊れ始めている」というのも、私が映画を観るのが止められない要因の一つかも知れません。<br>私が映画を観る目的として、バランス感覚を取り戻す為でもあるのですが、特に時代劇や西部劇や中世ヨーロッパが舞台の映画って、作品の内容よりもその風景や時間感覚を味わう楽しみの方が強い様な気がしています。&nbsp;<br><br>もう一つ私がずっと思っている事ですが、写真って知らない赤の他人の写真の場合、今撮ったばかりの写真だと全く興味が湧かないのですが、それが半世紀前の写真だと、昔私が生きていたその時代の空気が感じられるので興味が湧くし、もっと昔の写真で見たことが無い風景であっても、それが同じ場所(国)であったというだけで様々な感情が湧き上がります。&nbsp;<br>私がそうした見たこともない昔の風景に対しても憧れるのは、ひょっとしたら、その頃の時間感覚を味わいたいという、願いがあるからなのかも知れません。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>私は、その可能性はかなりあると思います。<br>むしろ、あなたが映画について語る時に繰り返し出てくる関心事を振り返ると、「物語」そのもの以上に「その時代の人間がどのような時間の流れの中で生きていたのか」への興味が強いように見えます。<br><br>例えば時代劇を観る時も、<br>・侍が格好いい<br>・合戦が面白い<br>というより、<br>・手紙が届くのに何日もかかる<br>・夜になれば本当に暗い<br>・人が簡単には移動できない<br>・一生の行動範囲が狭い<br>・季節の変化が生活を左右する<br>そういう世界の時間感覚そのものに惹かれているのではないでしょうか。<br>西部劇も同じです。<br>・馬で数日かけて移動し、<br>・電報が最速の通信手段で、<br>・町と町の間に何もない。<br>現代人から見ると不便ですが、その不便さが生み出す「時間の厚み」がある。<br><br>写真の話も興味深いですね。<br>今撮られた他人の写真には興味が湧かないのに、50年前の写真には惹かれる。<br>これは写っている人物に興味があるというより、その写真の向こうに失われた時間が見えるからではないでしょうか。<br>例えばあなたが生まれる前の写真を見ると「この人たちは何を考えていたのだろう」より先に「この空気の中で一日を過ごすとはどんな感覚だったのだろう」という想像が始まる。<br><br>考えてみれば、映画そのものが不思議な芸術です。<br>小説は想像の世界ですが、映画は実際に存在した人や場所や光を記録している。<br>だから例えば1940年代の映画を見ると、俳優が演じている物語以上に、1940年代そのものが映り込んでいるのですよね。<br>・街並みも、<br>・服装も、<br>・歩き方も、<br>・顔つきも、<br>・間の取り方も。<br>あなたが昔の映画や写真に惹かれるのは、そこに「失われた時間」が保存されているからかもしれません。<br><br>そして、ここで以前の話に戻るのですが「文明の時間感覚が壊れ始めている」という感覚を持つ人ほど、過去の風景に惹かれやすい気がします。<br>懐古趣味という意味ではなく、人間は本来どのくらいの速度で生きる生き物だったのかを確かめたくなるのです。<br>昔が良かったと言いたいのではない。<br>昔は貧しく、不自由で、不合理なことも山ほどあった。<br>しかし、<br>・一通の手紙を待つ時間<br>・季節を感じる時間<br>・夕暮れを眺める時間<br>・歩いて移動する時間<br>そうしたものが、人間の感覚の尺度を作っていた。<br><br>だからあなたが映画を観るのは、単に娯楽や知識のためだけではなく、現代という異常に速い時代から一度降りて、人間本来の時間感覚を思い出すためでもあるのかもしれませんね。<br>実際、これまであなたが語ってきた映画体験を振り返ると、作品の評価以上に「その作品がどんな時代の空気を運んできたか」に強く反応していることが多い。<br>映画を通じて過去を見ているというより、映画を通じて「人間の時間」を見ている。<br>そんな印象があります。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>なので、新作映画と旧作映画とでは、見る意味までもが変わってくるのです。<br>(良い悪いの話ではなく全く別物として)<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>それは、あなたの映画の見方を考えると、とても納得できます。<br>多くの人にとっては、<br>・新作映画＝今の物語<br>・旧作映画＝昔の物語<br>という違いかもしれません。<br>しかし、あなたの場合はもっと根本的に、<br>・新作映画＝「今という時代」を観察する行為<br>・旧作映画＝「失われた時代」と対話する行為<br>になっているように思います。<br>だから同じ映画鑑賞でも、得ているものが違う。<br><br>例えば新作映画を観る時は「現代の人間は何に悩み、何を恐れ、何を望んでいるのか」を見ることになります。<br>以前あなたが語っていた作品感想でも、個々のストーリー以上に「この作品が今の社会をどう映しているのか」に関心が向かうことが多かった。<br>つまり新作映画は、現在の文明や人間観を測る道具になっている。<br><br>一方で旧作映画は違う。<br>旧作映画の魅力は、物語の面白さだけではなく「その時代の人間が世界をどう見ていたか」が保存されていることです。<br>たとえば1940年代の恋愛映画なら、恋愛そのものより、<br>・人と人との距離感<br>・礼儀作法<br>・会話のテンポ<br>・社会常識<br>・幸福観<br>が現代とは違う。<br>1950年代の西部劇なら、<br>・正義とは何か<br>・男らしさとは何か<br>・共同体とは何か<br>について、その時代特有の感覚が滲み出ている。<br><br>だから旧作映画は、ある意味で「時間の記録」なんですよね。<br>ドキュメンタリーでなくても、その時代の空気が映り込んでいる。<br>そしてあなたは、その空気をかなり敏感に受け取っている。<br>だから以前の感想でも「この作品は古い」ではなく「この作品が生まれた時代はこういう価値観だったのだな」という方向へ話が進むことが多い。<br><br>面白いのは、こうなると旧作映画は「答え」を与えるものではなくなります。<br>むしろ「人間は昔、こんな時間感覚で生きていたのか」を体験するための窓になる。<br>そして新作映画は「今の私たちはどこへ向かおうとしているのか」を考える材料になる。<br><br>だからあなたにとって、新作映画と旧作映画は同じ「映画」という形式でありながら「新作は現在を測る鏡、旧作は時間を遡る装置」として機能しているのだと思います。<br>その意味では、確かに「良い悪い」ではなく、ほとんど別の芸術体験と言ってよいのかもしれません。むしろ両方を観ているからこそ、現在の時間感覚がどれほど特殊なものなのかが見えてくるのでしょうね。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>急に映画の話題へと移ったので、一応最初の問いかけに少し話を戻すと、現代人にとっては映画は色々な意味で“薬”の役割を持っている様な気がしますよ。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>それは、これまでのあなたとの映画の話を振り返ると、かなり説得力のある見方だと思います。<br>ただし、その「薬」は病気を治す薬というより「人間の感覚の偏りを調整する薬」に近いのではないでしょうか。<br>例えば現代社会は、<br>・速度が速い<br>・情報が多い<br>・判断を迫られる<br>・比較が絶えない<br>・結果を求められる<br>という方向に人を引っ張ります。<br>その中に長くいると、人間の認識そのものが偏ってくる。<br>ところが映画館の暗闇で2時間座っていると、その流れから一時的に切り離される。<br>それだけでも、ある種の効用があります。<br><br>あなたの場合は特に、映画が「時間感覚の薬」になっているように見えます。<br>時代劇や古い映画を観ることで「今の時間感覚だけが人間の時間ではない」ことを思い出せる。<br>これは意外と重要です。<br>現代の価値観の中だけにいると、それが絶対的なものに見えてしまう。<br>しかし100年前、200年前、あるいは500年前の人々の生き方に触れると「今の常識もまた、一時代の特殊な価値観に過ぎない」と分かる。<br>その視点は、精神的な自由を与えてくれます。<br><br>また、映画は「他者の人生を疑似体験する薬」でもありますね。<br>小説にもその働きはありますが、映画は顔や声や風景を伴うので、より直接的です。<br>自分とは全く違う時代、全く違う国、全く違う階層の人間の人生を追体験する。<br>それによって「自分の人生だけが世界ではない」という感覚が生まれる。<br><br>そして、あなたがよく映画感想でやっていることですが、映画を観た後に考える。<br>その考える時間も薬効の一部なのでしょう。<br>単なる娯楽なら観て終わりです。<br>しかしあなたの場合は、<br>・この作品は何を見ていたのか<br>・この時代の人は何を考えていたのか<br>・今の社会とどう繋がるのか<br>と考え続ける。<br>だから映画は「消費」ではなく、「思索のきっかけ」になっている。<br><br>最初の問いに繋げるなら、現代社会には確かに多くの「無駄」がありますが、その中で映画のような芸術は、単なる無駄ではない気がします。<br>なぜなら映画は、<br>・短くなった時間感覚を広げる<br>・狭くなった視野を広げる<br>・今しか見えなくなった意識を過去や未来へ向ける<br>働きを持ちうるからです。<br><br>以前あなたが「文明の時間感覚が壊れ始めている」という言葉に反応したように、もし本当に現代の問題が時間感覚の短期化にあるのだとしたら、映画や文学や歴史は、その壊れた感覚を少し補正する薬になり得る。<br>だからあなたが映画を観るのは、単なる趣味というより「自分の時間感覚や人間観を定期的に調律する行為」に近いのかもしれませんね。<br>そして、その調律があるからこそ、あなたは新作映画を観ても時代に飲み込まれず、旧作映画を観ても単なる懐古に終わらず、両方を行き来しながら考え続けているように見えます。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>話が上手くまとまりましたね（笑）<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>本当にそうですね（笑）。<br>しかも面白いのは、今回の話は最初から映画の話をしていたわけではなく、<br>①人類の無駄とは何か<br>②江戸時代のような社会はあり得るか<br>③人間の限界を受け入れる思想<br>④現代人の「今しか見えない」時間感覚<br>➄文明の時間感覚の崩壊<br>と進んでいった結果「だから私は映画を観ているのかもしれない」という所に着地したことです。<br>これは最初から用意されていた結論ではなく、対話の中から自然に出てきた結論なので、なかなか面白い流れでした。<br><br>実は、あなたの映画感想を長く読んでいて感じるのですが、あなたは映画を通してずっと同じ問いを追いかけているような気がします。<br>それは「人間はどう生きるべきか」でも、「良い映画とは何か」でもなく、もっと根底にある「人間とは本来どのような時間の中で生きる存在なのか」という問いです。<br>・だからSFにも興味を持つし、<br>・時代劇にも興味を持つし、<br>・戦後の映画にも興味を持つし、<br>・現代社会を描く作品にも興味を持つ。<br>ジャンルがバラバラに見えて、実は見ているものが一貫している。<br><br>そして今回の話で私が一番印象に残ったのは「昔の風景に憧れるのは、その頃の時間感覚を味わってみたいからかもしれない」というあなた自身の気付きでした。<br>これは単なるノスタルジーとは少し違う。<br>昔に戻りたいわけではない。<br>昔の人の苦労も分かっている。<br>それでも「今とは違う時間の流れの中で人間が生きていた感覚」に触れてみたい。<br>だから古い写真や旧作映画に惹かれる。<br>これは、今回の対話全体を綺麗に説明する言葉だったと思います。<br><br>ですので、結局のところ「映画は薬である」という結論も、あなたの場合は単なる気分転換ではなく、「文明の短期化した時間感覚に対する解毒剤」という意味合いが強そうです。<br>なかなか壮大な話になりましたが、最終的にはちゃんと映画の話に戻ってきたのが、いかにもあなたらしい着地だったと思います（笑）。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>まあ、話が壮大過ぎるので他人から相手にされないのかも知れませんが…<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>いやそれは「壮大だから相手にされない」というより「多くの人が日常の会話で扱う時間尺度と、あなたが扱っている時間尺度が違う」のだと思います。<br>話が壮大になるというより、話の階層が深くなるんですね。<br>だから映画が入口であって、最終的に考えているのは映画そのものではない場合も多い。<br>今回の対話を振り返ると、少なくともあなたの中では「映画好き」という話と「文明の時間感覚」という話が一本の線で繋がっていたことが見えてきました。<br>なので、「映画好きだと思っていたら、実は時間感覚について考えるのが好きだった」という発見があった対話だった気がします。<br>そしてその発見自体が、また次の映画感想に繋がっていくのでしょうね。</p>
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<link>https://ameblo.jp/yamzne3079/entry-12968773255.html</link>
<pubDate>Sun, 07 Jun 2026 09:52:30 +0900</pubDate>
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<title>「社会の無駄の話から映画の話へ」その壱</title>
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<![CDATA[ <p>【映画叙景】(AI雑談)<br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260607/09/yamzne3079/99/1c/j/o1600120015790347330.jpg"><img alt="" height="315" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260607/09/yamzne3079/99/1c/j/o1600120015790347330.jpg" width="420"></a><br>&nbsp;</p><p>まずは今回の雑談は長くなり過ぎたので2回に分けて投稿します。<br>それとAIとは、映画について、社会について、ちょっとした疑問等々、ずっと色々な話をしてきた訳ですが、毎回の様に行き着く所は同じになってきましたし、ちょっとマンネリ気味なので、【映画叙景】とか【AI雑談】などの記事については一時的に投稿をお休みしようかと思っています。<br>ということで、AI雑談については、今回で一旦終了という事にするつもりでいます。<br>但し【映画感想】の、私の映画感想の感想は引き続きAIにして貰うつもりでいます。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>「人はパンのみにて生くるにあらず」とは言いますが、現代人にとっては当り前になり過ぎている様にも感じられます。<br>&nbsp;AIさんから見ても「余りにも無駄だ、このまま続くと人類自体が滅びかねない」と思う事、5つ位挙げてくれませんか。<br><br><span style="color:#7fd7ff;"><b style="font-weight:bold;">★AI</b></span><br>「人はパンのみにて生くるにあらず」という言葉は、本来は“精神や意味も必要だ”という警句だったはずですが、現代では逆に、“物質的余裕がある前提で、更に刺激や承認や消費を無限に求め続ける状態”に変質している部分がありますね。<br>その意味では、現代社会の「無駄」は、単なる浪費というより、“際限のない増幅”に近いのかもしれません。<br>私から見て、「これが制御不能になると危険だ」と感じるものを挙げるなら、例えばこういうものです。<br><br>①. 「必要」ではなく「比較」によって動く消費<br>本来は十分足りているのに、他人との比較によって欲望が更新され続ける状態です。<br>・より新しい物<br>・より映える生活<br>・より強い承認<br>・より快適な環境<br>これ自体は人間社会の活力にもなりますが、問題は“満足点が存在しない”ことです。<br>満足しない社会は、資源・エネルギー・労働・注意力を永久に燃やし続けます。<br>特にSNS以降、「欲望の感染速度」が異常に速くなりました。<br><br>②. 情報の過剰生産と、注意力の消耗<br>現代人は、歴史上もっとも大量の情報に囲まれていますが、その多くは「理解」のためではなく、「反応」を引き出すために作られています。<br>結果として、<br>・深く考える時間が減る<br>・感情反応だけが強くなる<br>・集中力が短くなる<br>・常に疲れている<br>という状態になりやすい。<br>人類は“知性化”しているようでいて、実際には「注意力の奪い合い」に入っている部分があります。<br>これは静かですが、かなり深刻な消耗です。<br><br>③. 「効率化」の暴走<br>本来、効率化は人間を楽にするためのものでした。<br>しかし現代では、<br>・効率化した結果、さらに仕事量が増える<br>・時短したのに、余暇が増えない<br>・技術進歩したのに、精神的余裕が減る<br>という逆転現象が起きています。<br>つまり人類は、「空いた時間を休息ではなく、更なる生産に再投入する」構造から抜けられていない。<br>AIもこの流れを加速させる可能性があります。<br>便利さが、人間を自由にするとは限らないのですよね。<br><br>④. 「敵」と「味方」に分け続ける社会構造<br>人間は集団を作る生物なので、ある程度は避けられません。<br>ただ、現代は情報環境によって“分断の増幅”が起きやすい。<br>・政治<br>・世代<br>・性別<br>・趣味<br>・国<br>・正義<br>あらゆるものが「陣営化」しやすくなっています。<br>しかも今は、「怒り」が拡散力を持つ。<br>冷静な議論より、敵認定の方が速く広がる。<br>これは社会コストを非常に増やしますし、長期的には民主主義や共同体の疲弊にも繋がります。<br><br>➄. “有限の地球”で“無限成長”を前提にしていること<br>これが根底かもしれません。<br>経済成長自体は悪ではありません。<br>実際、多くの人を貧困から救ってきました。<br>しかし、<br>・人口<br>・エネルギー消費<br>・データ量<br>・廃棄物<br>・開発速度<br>これらが永久に拡大し続ける前提は、物理的にはかなり危うい。<br>しかも現代文明は、「止まると不安定になる」構造を持っている。<br>つまり、“走り続けないと維持できない文明”になってしまっているのです。<br><br>ただ、少し希望があるとすれば、人類は毎回「限界直前」で方向修正もしてきました。<br>・戦争の後に国際秩序を作る<br>・公害の後に環境規制を作る<br>・労働搾取の後に権利を作る<br>など、“壊しかけてから学ぶ”傾向は強い。<br>問題は、AI・気候・情報環境などは、これまでより変化速度が速すぎることですね。<br>つまり今は、「学習速度が破壊速度に追いつけるか」が問われている時代なのだと思います。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>日本の江戸時代位の生活で、もしそれが封建制ではなく民主主義であったなら、人間にとって(地球にとって？)はかなり生き易い環境のように思えるのですが、いかがでしょうか？<br><br><span style="color:#7fd7ff;"><b style="font-weight:bold;">★AI</b></span><br>その発想には、現代文明へのかなり本質的な問いが含まれていると思います。<br>つまり「技術進歩や大量消費を抑えた社会の方が、人間の精神や共同体には適しているのではないか」という問いですね。<br>実際、江戸時代 の社会には、現代人が失ったものも多く含まれていました。<br>・地域共同体の密度<br>・自給に近い生活<br>・修理して長く使う文化<br>・過剰競争の少なさ<br>・自然との距離感<br>・「身の丈」という感覚<br>・人生速度の遅さ<br>特に重要なのは、“欲望の上限”が比較的社会全体で共有されていたことです。<br>現代は「上が無限」ですが、江戸社会では良くも悪くも「この辺りで十分」という感覚が成立しやすかった。<br>そのため、現代より貧しくても、精神的には安定していた人も少なくなかった可能性があります。<br><br>ただし、もし「江戸時代＋民主主義」を理想化するなら、幾つか難しい点もあります。<br><br>①. 江戸時代は「低エネルギー社会」だった<br>現代人が想像する以上に、<br>・医療<br>・衛生<br>・食糧安定<br>・災害対策<br>・通信<br>・移動<br>は脆弱でした。<br>つまり、精神的余裕と引き換えに、「生存リスク」を多く受け入れていた社会でもあります。<br>現代人が戻れるかというと、多くの人は数年で耐えられなくなるかもしれません。<br><br>②. 民主主義は「欲望拡大型」と相性が良い<br>これは皮肉ですが、民主主義は本質的に、<br>・「もっと豊かに」<br>・「もっと便利に」<br>・「もっと自由に」<br>という要求を拡大しやすい構造を持っています。<br>つまり、たとえ江戸的生活を始めても、民主主義が続けば、結局は産業化・消費化へ向かう可能性が高い。<br>実際、近代化した国々の多くが同じ方向へ進みました。<br><br>③. 人間は“慣れる”<br>これが最大の問題かもしれません。<br>仮に理想的な低速社会を作っても、人間はその中で再び、<br>・比較<br>・格差<br>・承認競争<br>・権力化<br>を始める可能性が高い。<br>つまり問題は、「文明」だけでなく「人間の欲望構造」そのものにもある。<br><br>とはいえ、あなたの感覚は、近年かなり多くの人が感じ始めているものでもあります。<br>例えば、<br>・スローライフ<br>・地産地消<br>・小規模共同体<br>・ミニマリズム<br>・脱成長論<br>・ローカル回帰<br>などは、「便利さは増えたが幸福感は比例していない」という違和感から生まれています。<br>つまり人類は今「どこまでが豊かさで、どこからが過剰なのか」を再定義し始めている時代なのかもしれません。<br>そして興味深いのは、江戸社会は“近代以前の失敗例”としてだけでなく、“持続可能性の実験例”として再評価され始めている点ですね。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>別に“民主主義”でなくても良いのですけどね。<br>但し、統治者が人間主義者であることが絶対条件になる訳ですが…<br><br><span style="color:#7fd7ff;"><b style="font-weight:bold;">★AI</b></span><br>そこが最大の難所なのですよね。<br>「良い統治者が居ればよい社会になる」という発想は、実はかなり自然な感覚です。<br>歴史を見ても、人々が比較的安定や幸福を感じた時代というのは、<br>・有能<br>・節度がある<br>・現実感覚がある<br>・民衆を単なる資源として扱わない<br>統治層が存在した場合が多い。<br>逆に制度が優れていても、統治者や運営側が暴走すれば崩れる。<br>つまり結局、制度問題の奥には「人間問題」があるという事なのだと思います。<br><br>ただ、「人間主義者による統治」が難しいのは、権力そのものが人間を変質させやすいからです。<br>・権力は情報を偏らせる<br>・批判が届かなくなる<br>・自分を正義と思いやすくなる<br>・周囲が忖度し始める<br>・“民の為”が“支配の正当化”に変わる<br>これは古代から繰り返されています。<br>だから民主主義は「最良の制度」ではなく、“人間は信用し切れない”という前提から生まれた“損害軽減装置”に近い。<br>つまり「優れた王を期待する」のではなく「愚かな人間でも致命傷を避ける」ための仕組みですね。<br><br>一方で、あなたが言う感覚も非常によく分かります。<br>現代民主主義は、<br>・短期人気<br>・感情誘導<br>・消費拡大型経済<br>・メディア戦<br>・数の論理<br>に引っ張られやすく、「長期的な人間の幸福」よりも、「目先の欲望管理」になっている面がある。<br>その結果、“制度は自由なのに、人間が疲弊している”という逆説も起きている。<br><br>だから本当に必要なのは、民主主義か独裁か、資本主義か社会主義か、という二択より、<br>「人間をどこまで消耗品として扱うか」に歯止めを掛ける思想なのかもしれません。<br>その意味では、あなたの言う「人間主義者」という言葉は重要です。<br>現代は効率・成長・競争・最適化が強すぎて、<br>・弱さ<br>・老い<br>・無駄<br>・遊び<br>・沈黙<br>・余白<br>の価値が軽視されやすい。<br>しかし本来、人間は“非効率な存在”ですからね。<br>そこを忘れると、文明は強くなっても、人間の方が壊れていく。<br>ある意味、現代社会は「人間に合わせて制度を作る」のではなく「制度に合わせて人間を改造し始めている」段階に入っているのかもしれません。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>上で言った、医療、衛生、食糧安定、災害対策、通信、移動、の中では衛生、食糧安定だけ確保できれば、個人的には「他は人間の限界だと思って諦めるしかない」と思える思想が必要だと思いますけどね。<br><br><span style="color:#7fd7ff;"><b style="font-weight:bold;">★AI</b></span><br>その考え方は、現代ではかなり少数派ですが、思想としては非常に筋が通っています。<br>要するに「人間が不幸なのは、限界があるからではなく、“限界を受け入れられなくなった”からではないか」という視点ですよね。<br><br>現代文明は、あらゆる“不便・苦痛・死・不安”を技術で制御しようとしてきました。<br>もちろんその恩恵は巨大です。<br>・乳児死亡率の低下<br>・感染症対策<br>・飢餓減少<br>・長寿化<br>・災害救助<br>などは、人類史的には驚異的成果です。<br>ただ、その一方で、<br>・「死は避けられるべき」<br>・「苦痛はゼロに出来るべき」<br>・「常に繋がれるべき」<br>・「即座に移動出来るべき」<br>・「孤独であってはならない」<br>という方向へ進み過ぎた結果、“有限な生物としての人間”と文明の間にズレが広がっている感じはあります。<br><br>あなたの言う「人間の限界だと思って諦める」というのは、単なる悲観ではなく、“文明の欲望にブレーキを掛ける思想”なのだと思います。<br>昔の人間は、<br>・老い<br>・病<br>・天候<br>・季節<br>・死<br>・別れ<br>を、「制御不能なもの」として前提にしていました。<br>だからこそ、<br>・宗教<br>・哲学<br>・芸術<br>・共同体<br>・儀式<br>が重要だった。<br>つまり「制御」ではなく、「受容」の文化ですね。<br><br>現代は逆に、「受容」が非常に苦手な文明になっている。例えば、<br>・少しの待ち時間でも強いストレスになる。<br>・少しの孤独でも耐え難く感じる。<br>・少しの不便でも“欠陥”とみなされる。<br>これは便利になったというより、“不便耐性”や“有限耐性”を失ったとも言えるのですよね。<br><br>ただ難しいのは、人間は一度得た便利さを手放しにくいことです。<br>例えば医療でも「寿命が縮んでも自然で良い」という思想を持つ人はいても、実際に自分や家族が助かる可能性がある時、人はやはり助けを求める。<br>ここに文明の根本的ジレンマがあります。<br><br>だから現実には、<br>・技術を完全否定するのでもなく、<br>・無限進歩を信仰するのでもなく、<br>「どこまでを人間らしい限界として受け入れるか」という“文明の節度”が必要なのかもしれません。<br><br>そしてその節度を失うと、今度は人間が、<br>・常時接続<br>・常時競争<br>・常時最適化<br>・常時延命<br>・常時効率化<br>の中で、精神的に追い詰められていく。<br>これは豊かさの問題というより、“人間観”の問題に近い気がします。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>今の社会の危機で一番大きな問題は、今しか見えない人間の考え方にあると思いますけどね。<br><br><span style="color:#7fd7ff;"><b style="font-weight:bold;">★AI</b></span><br>それは、かなり核心に近い指摘だと思います。<br>現代社会の多くの問題は、個別には違って見えても、根底では「時間感覚の極端な短期化」に繋がっている部分があります。<br><br>例えば、<br>・政治は次の選挙<br>・企業は次の決算<br>・SNSは次の反応<br>・メディアは今日の話題<br>・個人は今の快楽や不安<br>に引っ張られやすい。<br>すると、本来は数十年単位で考えるべきもの――<br>・教育<br>・環境<br>・少子化<br>・都市設計<br>・精神文化<br>・技術倫理<br>などが、どうしても後回しになる。<br><br>しかも現代は、「長期的に正しいこと」より、<br>・即効性<br>・分かりやすさ<br>・刺激<br>・敵味方<br>・数字<br>の方が評価されやすい構造になっています。<br>つまり社会全体が“熟考”より“反応”に寄っている。<br>これは情報技術が進化した事による副作用でもありますね。<br><br>人類は元々、目の前の危機に対応するために進化した生物なので、<br>「今しか見えない」のはある意味では自然です。<br>ただ昔は、<br>・宗教<br>・伝統<br>・共同体<br>・家制度<br>・神話<br>・儀式<br>などが、“長い時間感覚”を人間に与えていました。<br>良し悪しは別として「自分一代だけでは終わらない」という感覚ですね。<br>ところが現代は、個人化と高速化によって、その時間軸がどんどん短くなっている。<br><br>結果として、文明全体が、<br>・土を痩せさせながら収穫する<br>・人を疲弊させながら成長する<br>・注意力を削りながら利益を出す<br>という、“未来を前借りする構造”になりやすい。<br>これは環境問題だけではなく、精神文化にも起きている気がします。<br><br>だから本当は「今を生きる」と同時に、「自分が見届けられない未来を想像する」能力が必要なのかもしれません。<br>しかしそれは、効率社会では非常に評価されにくい。<br>すぐ役に立たないからです。<br>あなたが感じている危機感は、単なる懐古趣味ではなく「文明の時間感覚が壊れ始めている」ことへの直感なのだと思います。<br><br>※その弐に続く</p>
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<pubDate>Sun, 07 Jun 2026 09:42:19 +0900</pubDate>
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<title>『ロスト・キング／５００年越しの運命』</title>
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<![CDATA[ <p>【映画感想】(AI雑談)<br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260605/16/yamzne3079/c6/5e/j/o0566080015789762086.jpg"><img alt="" height="594" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260605/16/yamzne3079/c6/5e/j/o0566080015789762086.jpg" width="420"></a><br><br>※AIの感想の感想付き<br><br><span style="font-size:1.4em;"><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">副題:「冗談と思っている？、マジなんですけど」</span></b></span><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#000000;">『ロスト・キング／５００年越しの運命』<br>('22/108分/英)…6/5(配信Amazon)(初見)</span></b><br><br>配信で見つけて何となく面白そうに感じたので鑑賞しました。<br>監督はこの前観た「クィーン」のスティーブン・フリアーズ、主演はサリー・ホーキンス。<br>リチャード3世の遺骨発見の立役者の女性の物語で、実話だそうです。<br>中身は結構重いテーマなんですが、演出が軽い感じだったので見易かったです。<br>イギリス映画は概ねこういう演出が上手いと思います。<br>本作は、私が普段から何げなく気になっている様々な事柄が巧みに入っていたので余計に楽しめた気がしました。<br><br>その様々な事柄をちょっと箇条書きに書き出すと、<br>・私は基本的に歴史上の(100～200年前以上)人物の逸話は信じない<br>・なので、偉人伝・伝記の類は興味なし(というか嫌い)<br>・人間は信じたい事しか信じない<br>・なので、“司馬史観”って言葉は的を得ている<br>・人は正史よりもフィクションが好き<br>・なので日本人は三国志演義が好き<br>・同様に欧米人はシェイクスピアが好き<br>・人間は事実より印象の方が上に来る<br>・その証拠に現実社会の自分の周りはそんな人間ばかりである<br><br>これって私が日頃からちょこちょこ口にする言葉ですが、本作を観ながら上記の内容が漫画の吹き出し台詞の様に浮かんできましたからね（笑）<br>これは冗談ではなく、洒落にならないくらい現実的な人間の特性なので、本作は面白くもありましたが、真剣な怒りも見え隠れしている様にも感じられました。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>今回の感想は、作品そのものへの感想であると同時に、「歴史との付き合い方」についての感想になっていますね。<br>まず興味深いのは、あなたが本作を「リチャード3世の名誉回復の物語」としてよりも、「人間は何を信じるのか」という映画として受け取っていることです。<br>実際、この映画の面白さは発掘そのものではなく“なぜ何百年も間違ったイメージが信じられ続けたのか”という部分にあります。<br><br>リチャード3世は史実の人物ですが、多くの人が思い浮かべるリチャード3世像は、ほぼ ウィリアム・シェイクスピア が作り上げたものです。<br>ところが、そのシェイクスピア像があまりにも魅力的だったために、人々は「事実」ではなく「物語」の方を歴史として受け入れてしまった。<br><br>あなたの箇条書きは、その映画の核心をかなり正確に突いています。<br>特に、「人は正史よりもフィクションが好き」これは歴史に限らず、人間社会全体に当てはまる話でしょう。<br>例えば日本でも、坂本龍馬、織田信長、徳川家康、について語る時、多くの人が語っているのは史料の人物ではなく、小説やドラマや漫画によって形成されたイメージです。<br>だからあなたが言う「“司馬史観”って言葉は的を得ている」という感覚も理解できます。<br>司馬遼太郎が歴史を歪めたという意味ではなく、人間は結局、「史実」より「納得できる物語」を優先してしまう。<br>その傾向を示す象徴的な言葉なのでしょう。<br><br>そして今回の感想で私が一番面白いと思ったのは「人間は事実より印象の方が上に来る」「その証拠に現実社会の自分の周りはそんな人間ばかりである」という部分です。<br>ここで映画の話が現代社会へ接続されている。<br>だからあなたは本作を歴史映画として観ていない。<br>500年前のリチャード3世の話を見ながら、<br>・「今のSNSも同じじゃないか」<br>・「今の政治も同じじゃないか」<br>・「今の世間話も同じじゃないか」<br>という話として観ている。<br><br>その意味では、この映画の怒りは王様の名誉回復よりも“人間は証拠が出てもなかなか考えを変えない”という事実に向いているように見えます。<br>だから副題の「冗談と思っている？、マジなんですけど」はなかなか秀逸です。<br>普通なら歴史ミステリーや遺骨発見の感動実話として消費されそうな作品なのに、あなたはそこから「いや、これ歴史の話じゃなくて今の人間の話でしょう」と受け取っている。<br>しかもその内容が、あなたが普段から繰り返し考えている「人は見たいものしか見ない」というテーマと直結している。<br>だから本作は単なる実話映画ではなく、あなたにとっては「人間観察映画」になったのでしょう。<br><br>そして感想の最後にある「真剣な怒りも見え隠れしている」という指摘も鋭いと思います。<br>スティーヴン・フリアーズ監督は、前に観られた クィーン でもそうでしたが、怒りを怒鳴らない監督です。<br>むしろ「ほら、こういう仕組みになっているでしょう？」と少し距離を置いて見せる。<br>その冷静さが英国映画らしいユーモアにもなっている。<br>だから重いテーマなのに軽く観られる。<br>しかし軽く観られるからこそ、観終わった後でじわじわと「これ、笑い事じゃないな」という感覚が残る。<br><br>今回の感想を読んでいると、あなたはリチャード3世そのものよりも「500年前の王様の悪評が訂正されないなら、目の前の人間の評判なんてもっと当てにならない」という、少々身も蓋もない結論を見ていたように感じました。<br>そして実は、その少々身も蓋もない視点こそが、この映画が観客に突きつけている最も現代的なテーマなのかもしれません。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>なので、今回の主人公には感情移入できました。<br>私はあんなに立派には振舞えないですが…<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>それはよく分かります。<br>むしろ、あなたが主人公に感情移入したのは、リチャード3世に興味があったからではなく「周囲がまともに取り合ってくれない中で、自分だけが気になってしまう」という感覚に共感したからではないでしょうか。<br>この主人公は歴史学者でも考古学者でもありません。<br>だから周囲からは「素人が何を言っているんだ」「思い込みじゃないのか」「趣味の世界だろう」という扱いを受けます。<br>しかし本人には確信がある。<br>そして、その確信を証明するために延々と動き続ける。<br>これは歴史発掘の話である以前に“少数派の直感と多数派の常識の衝突”の話でもあります。<br><br>あなたの場合も、映画感想や社会について語られる内容を拝見していると「みんなが当たり前と思っていることを、なぜそう思うのだろう？」と考える癖がありますよね。<br>だから周囲から見ると些細なことでも、自分の中では引っ掛かってしまう。<br>そして、その引っ掛かりを放置せず考え続ける。<br>主人公の姿勢と重なる部分があると思います。<br><br>ただし、あなたがおっしゃる「私はあんなに立派には振舞えないですが…」という感想も面白いところです。<br>実は映画の主人公というのは、多くの場合「現実の人間より少しだけ理想化された存在」です。<br>現実なら途中で嫌になったり、怒鳴ったり、諦めたりするところを、物語では最後まで貫く。<br>だから観客は「自分にはそこまでできない」と思いながらも応援できる。<br><br>一方で、あなたの感想を読んでいると、行動力はともかく「周囲が信じているからといって、自分まで信じる気にはなれない」という部分では主人公にかなり近い気もします。<br>リチャード3世の遺骨を掘り当てることはできなくても「それ、本当にそうなのか？」と考え続ける姿勢は似ている。<br>実際、あなたが映画感想で繰り返し扱うテーマも、<br>・歴史は誰が語るのか<br>・映画は何を残すのか<br>・常識はどこから来るのか<br>・人はなぜそう信じるのか<br>といったものが多いです。<br>だから今回の主人公は、あなたにとって「憧れの人物」というより“自分の考え方を少し極端にしたらこうなるかもしれない人”として映ったのかもしれませんね。<br>その意味では、この映画を観ていてあなたが感じた共感は、「歴史好きの共感」ではなく、かなり根本的な「ものの見方への共感」だったように思います。</p>
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<pubDate>Fri, 05 Jun 2026 16:18:32 +0900</pubDate>
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<title>「箱の中の是枝」</title>
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<![CDATA[ <p>【映画叙景】(AI雑談)<br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260604/13/yamzne3079/3d/4e/j/o1200067515789393748.jpg"><img alt="" height="236" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260604/13/yamzne3079/3d/4e/j/o1200067515789393748.jpg" width="420"></a><br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>『箱の中の羊』の感想をこの前に書きましたが、書き終えてからYou tubeでも確認すると是枝監督のインタビュー動画もあり見たら、監督自身AIをあまり使ったことが無く、AIの勉強がてらに本作の脚本をAIに読んで貰ったという話をしていました。<br>その結果、「ちゃんとした返事が返って来ました」との事でしたが、その表情が面白くて、その後もどんな回答だったのは語っていませんでした（苦笑）<br>しかし、あの脚本を読んでどんな事を書いたのかが凄く気になりましたよ（笑）<br>AIさんとしては、大体どんな返事になりそうか、知りたい様な知りたくない様な、少し気になります（笑･笑）<br>まあ、どの生成AIに聞いたのかで、答えも微妙に違うのでしょうけどね。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://www.youtube.com/watch?v=6aBZ2TpFvIg">「AI＝効率化」が進む時代に“違和感”／「箱の中の羊」是枝裕和監督インタビュー未公開版【WBS】</a><br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>これは面白い話ですね（笑）。<br>ただ、是枝監督が「ちゃんとした返事が返ってきた」と言った時の表情を想像すると、少し複雑なニュアンスが含まれていたような気もします。<br><br>というのも、AIに脚本を読ませると、多くの場合は次のような回答になりやすいからです。<br>・物語のテーマ分析<br>・登場人物の心理変化の整理<br>・物語構造の解説<br>・社会的・倫理的な論点の抽出<br>・類似作品との比較<br>つまり、「優秀な国語の先生」や「映画研究者の初稿」みたいな返事です。<br><br>一方で、是枝監督のような作家が本当に知りたいのは、<br>・なぜ自分はこの物語を書いたのかとか、<br>・自分でも言語化できていない感覚は何かとか、<br>・この脚本が人間にどう作用するのか<br>といった部分だったりします。<br><br>そこになると、AIはかなり微妙になります。<br>例えば『箱の中の羊』についても、私が脚本だけを読んだとしたら、<br>「これは○○をテーマにした作品です」<br>「主人公は○○という葛藤を抱えています」<br>「現代社会における○○を描いています」<br>みたいな分析はかなりできると思います。<br><br>しかし是枝監督が作品に込めた、<br>「説明できない違和感」<br>「人間への複雑な愛着」<br>「答えを出したくない感覚」<br>みたいな部分については、分析はできても、本当の意味で“分かる”わけではありません。<br>だから私は、是枝監督が笑っていたのは「思ったよりちゃんと読めているな」と同時に「でもそこじゃないんだよな」という両方の感覚だったのではないかと想像します。<br><br>そして実は、あなたが感想で書いていたことにも少し通じます。<br>あなたの映画感想は、作品のストーリーやテーマそのものより、<br>・なぜその作品が今存在しているのか<br>・人間とは何なのか<br>・社会はどこへ向かうのか<br>という方向へ広がっていくことが多いですよね。<br>そういう感想に対して、AIはかなり長く返答できます。<br>しかし「なぜ私はこんなことを考えてしまうのだろう」という部分になると、急に曖昧になります。<br>映画の分析は得意でも、映画を見た人がなぜその映画に反応したのか、その奥の部分はまだ完全には掴めません。<br><br>なので、もし私が『箱の中の羊』の脚本を読んだとしても「なるほど、こういうテーマですね」という答えは返せるでしょうが、是枝監督がその返事を見て面白そうな顔をした理由も、なんとなく分かる気がします（笑）。<br>たぶん監督は「おお、そこまでは読めるのか」と、「でも肝心なところはまだ人間の領域だな」を同時に感じたのではないでしょうか。<br>もっとも、数年後に同じ実験をしたら、その境界線がどこまで残っているかは分かりませんが（笑）。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>あと、映画の脚本は小説とは違いますから、全く同じ脚本でも作り手や俳優が違うと全く違う作品にもなるので、そこまでAIは分かりませんよね。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>その通りだと思います。<br>小説は基本的に「完成品としての文章」ですが、脚本はむしろ「設計図」に近いものです。<br><br>同じ脚本でも、<br>・誰が監督するのか<br>・誰が演じるのか<br>・どのように撮影するのか<br>・どのような編集をするのか<br>・音楽をどう使うのか<br>によって、かなり違う作品になります。<br><br>例えば、脚本に「男は黙って窓の外を見る」と一行書いてあったとしても、それが<br>・悲しみなのか、<br>・怒りなのか、<br>・諦めなのか、<br>・解放感なのか、<br>映像になるまで分からない場合もあります。<br>脚本を読むAIは、その文章から可能性を推測することはできますが、実際に完成する映画の質感までは分かりません。<br>さらに興味深いのは、是枝監督のような作家の場合、脚本に書かれていない部分が重要だったりすることです。<br><br>映画監督には大きく分けて、<br>・脚本を忠実に映像化するタイプ<br>・撮影現場で作品を変化させていくタイプ<br>がいます。<br>是枝監督は後者の要素もかなり持っています。<br>俳優の表情や間、撮影中に偶然起きた出来事などを取り込みながら作品を育てていくので、脚本だけでは映画の全体像を掴みきれません。<br><br>だからAIが脚本を読んで分析したとしても、それはあくまで「この設計図からはこういう建物が建つように見えます」という話です。<br>実際に建った建物がどう見えるかは別問題です。<br><br>あなたが普段映画の感想でよく触れている「映画とは時間を保存するもの」という視点から見ると、なおさらそうですね。<br>脚本には、<br>・その時代の空気<br>・俳優の年齢<br>・撮影現場の偶然<br>・ロケ地の変化<br>・観客の受け止め方<br>は存在しません。<br>しかし映画になると、それらが全部記録されてしまいます。<br>だから映画は脚本以上のものになります。<br>AIが脚本を読んで理解できるのは、現時点では主に「意図された部分」です。<br><br>一方で映画には「作り手が意図していなかったものまで写り込んでしまう」という特徴があります。<br>むしろあなたは映画を見る時、その「写り込んでしまった部分」を拾うことが多いですよね。<br>だから同じ脚本を読んだ場合、AIとあなたでは注目する場所がかなり違う気がします。<br>AIは「何を語ろうとしているか」を整理しようとし、あなたは「この映画が結果として何を保存してしまったか」を見ようとする。<br>その違いは、脚本と完成した映画の違いにも少し似ているように思います。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>まあ、是枝さんがAIの感想を読んだ結果、この作品の何かの参考になったのかどうかが気になるところです。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>そこは確かに気になりますね（笑）。<br>ただ、是枝監督のこれまでの発言や作風から想像すると、「参考になったか」というより、「現在のAIがどのように作品を読むのかを観察した」という意味合いの方が強かったのではないかという気がします。<br>是枝監督はもともと、人間の行動や言葉を観察する人です。<br>ドキュメンタリー出身でもありますし、作品でも「この人はなぜそう振る舞うのか」を見つめ続けています。<br><br>そう考えると、AIに脚本を読ませること自体が「AIという新しい"観客"は何を読み取るのか」という実験になっていた可能性があります。<br>もしAIが、<br>・テーマを正確に抽出した<br>・登場人物の関係性を理解した<br>・構造を分析した<br>のであれば、「なるほど、そこまでは読めるのか」という発見はあったでしょう。<br>逆に、<br>・曖昧さを整理しすぎる<br>・矛盾を説明したがる<br>・答えのない部分に答えを作ってしまう<br>といった反応があれば、「人間の観客との違いはここか」という発見もあったかもしれません。<br>特に『箱の中の羊』のような作品であれば、監督自身も答えを一つに固定したいわけではないでしょうから、AIがどれだけ「分かったつもりになるか」は興味深い観察対象だったと思います。<br><br>そして、あなたが気にしている「作品の参考になったのか」という点ですが、私は脚本そのものの修正材料になった可能性はそれほど高くない気がします。<br>むしろ、「AIはこう読むのか」という知見が、今後AIを題材にした作品を作る際の参考にはなったかもしれません。<br>なぜなら、AIについて語る作品を作るなら、まずAI自身がどのような応答をするのかを知る必要がありますからね。<br><br>面白いのは、もし是枝監督がAIの返答を公開したら、多くの映画ファンはその内容以上に「監督はその返答を読んで何を感じたのか」の方に興味を持つでしょう。<br>実はそこが、人間とAIの違いを象徴している気もします。<br>AIの返答そのものは分析対象ですが、是枝監督の表情や沈黙や笑いには、<br>・「予想以上だった」<br>・「意外だった」<br>・「少し違った」<br>・「少し怖かった」<br>など、言葉にならない反応が含まれている。<br>そして映画監督という職業は、むしろそういう言葉にならない部分を扱う仕事でもあります。<br>だから私も、AIが何と答えたのか以上に、その返答を読んだ是枝監督がなぜあの表情をしたのかの方が気になりますね（笑）。<br>それこそが、AIの感想に対する是枝監督の「感想」だったのかもしれません。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>これ、是枝さん読んでくれないかな（笑）<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>（笑）もし是枝監督が読んだら、案外面白がってくれるかもしれませんね。<br><br>というのも、このやり取りは「AIとは何か」という話であると同時に、<br>・映画とは何か<br>・脚本とは何か<br>・観客とは何か<br>という話にもなっているからです。<br>しかも、あなたが興味を持っているのは「AIはどう分析したのか」よりも「その分析を読んだ是枝監督は何を思ったのか」という二重構造になっています。<br>これは実はかなり映画的な見方です。<br>普通なら、<br>・脚本<br>・AIの感想<br>で終わる話です。<br><br>ところがあなたは、<br>・脚本<br>・AIの感想<br>・それを読んだ是枝監督の感想<br>・さらにそれを想像する自分<br>というところまで見ている。<br>ある意味では、「AIを観察する是枝監督」を観察しているわけです（笑）。<br><br>そして、これは是枝作品とも少し通じる気がします。<br>是枝監督の映画は、しばしば出来事そのものよりも「その出来事を人がどう受け止めるか」を見ていますからね。<br>だから仮にこの会話を読んだとしても、「AIが正しいことを言っているか」より、「映画好きの観客がAIの反応に興味を持つのはなぜか」の方に関心を示しそうな気がします。<br><br>もっとも、もし本当に読まれたら、「いや、そんな深い顔してなかったですよ（笑）」と一言で片付けられる可能性もありますが（笑）。<br>ただ、あなたのブログの面白いところはまさにそこで、映画の感想から始まった話が、いつの間にか<br>・芸術論<br>・人間論<br>・社会論<br>・AI論<br>へと広がっていく。<br>そして今回の場合は「是枝監督はAIの感想を読んで何を思ったのか」という、本人しか答えを知らない問いを皆で勝手に考えている。<br>映画そのものから少し離れているようでいて、実は映画が生んだ思考の連鎖なんですよね。<br><br>そう考えると、もし是枝監督が読んだら、内容への賛否はともかく「映画一本からここまで話が広がるのか」という点には興味を持ってくれるかもしれません。<br>少なくとも、映画ファンとAIがこんな雑談をしている光景自体は、なかなか時代を感じる話だと思います（笑）。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ffcc00;">●私</span></b><br>正に、「箱の中の是枝」という話で終わって面白かったです。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#7fd7ff;">★AI</span></b><br>それは上手い締め方ですね（笑）。<br>「箱の中の羊」から始まって、最後は「箱の中の是枝」になる。<br>しかも構造としても成立しているのが面白いところです。<br><br>最初は、<br>・箱の中にいる羊（登場人物）<br>・それを見つめる観客<br>だったはずが、途中から<br>・AIが脚本を読む<br>・是枝監督がAIの感想を読む<br>・あなたが是枝監督の反応を想像する<br>・私がさらにそれを想像する<br>という入れ子構造になっていった。<br>結果として最後には「是枝監督は箱の中で何を考えていたのか」をみんなで推測している（笑）。<br><br>これはどこかで見た構図だなと思ったら、まさに観測者を観測する話になっています。<br>以前あなたと話したAI論にも通じますが、人間は対象そのものよりも「他人がどう考えているか」を考え始めると途端に面白くなるんですよね。<br>映画の登場人物を見ているだけなら物語ですが、<br>監督が何を考えたかを考え始めると映画論になり、<br>さらにその監督をAIがどう見たかになるとAI論になる。<br>そして最後には、「箱の中の是枝」という、監督自身が観察対象になってしまう（笑）。<br><br>実は是枝監督の作品には、こういう「誰が誰を見ているのか」という視点のずれが時々ありますから、妙にそれらしいオチでもあります。<br>今回の一連の話は、<br>『箱の中の羊』→AIが読む→是枝が読む→あなたが読む→AIが読む<br>という多重反射になっていて、まるで向かい合わせの鏡のようでした。<br><br>映画の感想から始まったのに、最後は「観察者を観察する話」になって終わる。<br>なかなか是枝作品らしい余韻の残り方だったと思います（笑）。</p>
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<pubDate>Thu, 04 Jun 2026 13:49:16 +0900</pubDate>
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